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『舞姫・うたかたの記』森鴎外(岩波文庫) いままで三回にわたって、上記文庫本中の特に『舞姫』の読書報告を書いてきました。 読みようによっては、もう一つの『舞姫』の可能性が考えられるんじゃないかと、妄想に妄想をついで書いてきましたが(まー、よーするに「別の読み」というやつですね)、もとより小説とは、筆者が既にそのように書き終えたものであります。それに別の可能性をつけ加えてみたところで、「詮なき業」といえばその通りであります。 私は前回までで、『舞姫』の最後の一文(本当は二文)から、別の『舞姫』を考えてきましたが(まだ途中でありますが)、鴎外は、当たり前ながら『舞姫』本文の如く太田豊太郎やエリスを描写したわけです。 さて、私は今回岩波文庫で読みましたが、文庫の解説で、鴎外がこんな事を書いていることを初めて知りました。これは『舞姫』を収録した作品集『水沫集』の序文だそうです。 舞姫。小なる人物の小なる生涯の小なる旅路の一里塚なるべし。 この一文を読んで、どの様な感想をお持ちになりますでしょうか。 私ははっきり言って、「今更そんなこと言うかー」と思いましたね。ここで作者にそんなことをいわれてしまえば、今までの私の作品への感情移入は何だったんだ、という感じであります。 しかし、いや、まてよ。私はかつてこんな話も何かで読んだことがあります。 鴎外はこの『舞姫』を完成させた時、家族の者を一同に呼び集めて書きたてのこの小説を朗々と読み上げた、と。そして聞き入っていた一同は感涙にむせんだ、と。「ああ、お兄様は遠きベルリンの地で、いろいろご苦労なさったのね」と。 なんかこっちの方が、本当らしい気がしますよね。 つまり鴎外は、やはりかなり豊太郎に感情移入して本書を書き発表したものの、豊太郎の評判があまりに良くないものだから、後出しじゃんけんのようにして、わざと豊太郎を突っ放したようなあんな一文を書いた、と。 いかがでしょう。 ……ともあれ、本ブログの記事でありますが、前回の続きを、以下に書いていこうと思います。 前回の最後に私が書いていたことは、エリスの発狂は不自然じゃないかということでしたが、まずはガッテンしていただけましたでしょうか。 普通ならエリスは、相沢の言葉を信じないと言い切るか、せめて豊太郎が意識を取り戻すまで判断を中止するかしませんかね。 それが簡単に発狂までいっちゃったことについて、その原因を求めるならばこういう事ではないかと私は思います。 相沢の科白を即座に信じたエリスの心のどこかに、これはきっと真実だと訴えるものがあったということ。 つまり、「ああ、やはりそうだったのだ」と納得せざるを得ない豊太郎への不信感が、密かに彼女の心のどこかに巣くっていたということであります。(確かに、豊太郎がロシアに行く前に、ふとエリスが虫の知らせのように不安を感じる場面はありましたが。) ということは、少し強い表現で書くなら、エリスにとって豊太郎の裏切りは「想定内の出来事」であった、ということになりませんかね。 としますと、エリスの発狂って、やや不自然になりません? 「狂」を呼び込む原因としては、弱すぎはしませんか。 しかしそんなことを言っても、それが原因で発狂してしまったんだから仕方がないではないかとお考えの貴兄。いえ、別に仕方なくありません。それはこう考えることです。 「エリスの狂は、佯狂である。」 佯狂、つまり狂言の発狂ですね。 でも、そんなことをして、いったい何の意味があるのか。 なぁに、妄想次第では決して意味のないものではありません。 ちょっと視点を変えて、もしエリスの発狂が狂言だとすれば、一体それは誰が考えついたのかと言うことを考えてみますね。可能性は二つ。 (A)母親とエリスの陰謀説 (B)相沢の陰謀説 (A)説は、ちょっとないですかね。これで押してしまうには、少しリアリティに欠けそうです。しかし(B)説なら、結構真実に迫れそうな気がします。つまりこんな場面であります。 本文には、豊太郎は意識を取り戻すまで数週間掛かったとあります。この結構長い空白(この空白がまたヘンに長すぎませんか?)、これを受けまして、相沢が豊太郎の真実を総て語ったところから始めてみます。(1)エリスはひどいショックを受け、悲しみと怒りに動転している状況ではあったが、発狂するには及ばなかった。(2)一方、その場を去った相沢は考える。これはまずいことになった。エリスの家族が激怒して、やんごとなきところにお恐れながらと訴えれば、国辱的なことが起こるやも知れぬ。また意識を取り戻した豊太郎が、再び「エリスが愛」などに引きずられて、天方伯爵との約束を破ってしまうことがあったりすれば、伯に対する私の面目も丸つぶれだ。(3)うーん、困った、…………あっ、ひらめいた。 ……とまー、こんなあたりで、相沢陰謀説。 どうです、もはや愛もなく不信感のみが広がる二人の間隙に、エリスの元にはお金が残り、豊太郎の元には自由が残り、見事双方全く丸く収まったではありませんか。 まー、ちょっとは豊太郎の心にトラウマも残ったでしょうが、それくらいはおのれの身から出た錆だ、と。 さて、後半ばたばたと急いで書いてきましたが、実は更に、私の妄想はこの先にもまだ拡がっているんですがー。 もう少し書いていいですかね。だってこのままでは、本来の疑問、豊太郎は具体的に相沢の何を「されど我脳裡に一点の彼を憎むこころ今日までも残れりけり」と言ったのか、にまだ辿りついていません。 なに、すぐに終わります。私が考えたのはこういう事です。 総ては相沢の仕組んだものだとして、相沢と豊太郎が天方伯爵について日本へ帰る途上、船中で上等なワインか何かを飲んで気持ちの良くなった相沢が、もしこのエリス発狂(佯狂)の顛末総てを豊太郎に喋ってしまったとしたら……豊太郎はどうする? どうするも何も、今となっては相沢の行為を受け入れるほかはありません。 そしてそして(ここが私の眼目なんですが)、その上で豊太郎は、その部分を完全に隠蔽して「セイゴン」の港でこの『舞姫』の手記を書きあげる、というわけであります。 どうです、これで初めて、相沢に対する豊太郎の具体的な憎しみの原因が(つまり確かに相沢も少しやり過ぎじゃないかという思いが、ですね)、すとんと腑に落ちるではありませんか。 ……うーん、妄想。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2011.12.31
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『舞姫・うたかたの記』森鴎外(岩波文庫) 上記小説の読書報告の第三回目であります。三回も続ける気はなかったのですが、いつもながらのずるずる文章で、どーもすみません。頑張って今回で終わらせます。 さて前回まで私が述べていたのは、『舞姫』の最後にはなかなかいろんな可能性を想像させる部分があるんじゃないかということでありました、多分。 再掲します。この部分です。 ああ、相沢謙吉が如き良友は世にまた得がたかるべし。されど我脳裡に一点の彼を憎むこころ今日までも残れりけり。 この一文(二文ですが)は、昔から評判の悪い部分ですよねー。「お前は何を人のせいにしとんねん!」と関西弁で凄まれてしまっても、言い訳の立たないようなひどい弁明であります。 いえ、この弁明、このままでは常識的に考えてもちょっとひどすぎませんか。 ひょっとしたら、ここには何かが、わざと書かれなかった何かが隠されているのではないでしょうか。 そこで次に私が考えたことは、そもそも豊太郎は、具体的に相沢のどの行為を一番憎く思ったのだろうか、ということであります。一体どこだと思いますか? もちろんこの問を否定する形で、具体的にどこそこというのではなくて、相沢が豊太郎のためを思ってなした行為すべてのことなのだという考え方はありましょうが、それって本当に正解なんでしょうかね。確かに私も、今までは漫然とそんな風に思っていたんですが。 でも今回私は、具体的に一番はここ、と挙げられるべきだと思います。そしてそう思って挙げてみると、やはりここしかないですよね。 つまり、豊太郎が人事不省に陥っている間に、エリスに豊太郎の裏切りのことを総て話して、エリスを発狂させてしまったこと。 でしょう? えー、先に脇道の方から述べますね。 もし相沢が、エリスにそんなことを話さなかったとしたらどうなっていたかと言うことについて、鴎外は別の文章で触れているんですね。 可能性として、豊太郎はドイツの地にとどまっていたかも知れない、そして、周囲に面目がなく深く慚愧して、自殺してしまったかも知れないと、鴎外は書いています。(『舞姫に就きて気取半之丞に与ふる書』) しかし、これもひどい話でありますよねー。 でも、まー、自殺はともかくとして、本当のところ、相沢がエリスに喋らなくてエリスが発狂しなかったならば、ひょっとしたら豊太郎は、天方伯爵と帰国する際はともかく、その後エリスを呼び寄せるくらいのことは「画策」したかも知れませんよね。(実際に鴎外の身に起こった有名な「エリス来邦事件」も考え合わせて。) しかしなぜそれをしなかったかというと、やはり根本はエリスの発狂でしょう。彼女が発狂したから、まー、しかたないかと、棄てちゃったわけですよね。 という風に考えますと、この話のポイントは「エリスの狂」の一点に絞られていきますね。 しかし、この発狂というストーリー、本当に違和感ないでしょうか。 つまりそれは、エリスはなぜこんなに簡単に発狂してしまったのかと言うことであります。言い換えると、なぜそんなに簡単に、(「ウラ」も取らず)相沢の言葉を信じてしまったのかと言うことでもあります。 後に相沢の訪問場面が続く、豊太郎がぼろぼろになって帰ってくる場面は、こうなっています。 「あ」と叫びぬ。「いかにかし玉ひし。おん身の姿は。」 驚きしも宜なりけり、蒼然として死人に等しき我面色、帽をばいつの間にか失ひ、髪は蓬ろと乱れて、幾度か道に跌き倒れしことなれば、衣は泥まじりに汚れ、処々は裂けたれば。 で、エリスがびっくりしているうちに、豊太郎は人事不省になるんですね。そして数日後例の相沢の訪問があり、彼がみーんな喋って、エリスの発狂と。 でも、相沢が豊太郎の裏切りを語り出した時、普通ならこんな展開になりませんか。 「嘘よ。あなたは嘘をついているんだわ。あなたの言葉は信じられないわ。私と豊太郎さんの仲を裂こうとしているのね。あの日、豊太郎さんが泥だらけになって帰ってきたのも、このことであなたと諍いがあったからに違いないわ。」 ……ってあたりでどうでしょうか。 このへたくそなエリスの科白はともかく、状況としてはこっちの方が自然じゃないですか。 もしこの考えに納得いただけるならば、この『舞姫』は、さらにどんどん別の物語に展開していくんですが、……うーん、すみません、前言を簡単に撤回して次回に続きます。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2011.12.28
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『舞姫・うたかたの記』森鴎外(岩波文庫) 上記文庫本の読書報告の二回目であります。 前回、私は久しぶりに本書中の『舞姫』をよみ、結構面白がりながらも、あまり感心はしなかったという、文豪鴎外を一体どう思っているのか無礼者め的感想を書いてしまいました。 ……でもねー、しかし、まー、私の与太話を以下お聞きください。 昔、我が娘が小学校低学年くらいだった頃、「お父さんはなぜそんなにいつも本を読んでいるのか」と聞かれたことがあります。 私はあたかも『星の王子様』に出てくる「酒飲みの星」の住人のように、タマネギの皮を順々にむいていくように答えていたのですが、何かの拍子に、ジャン・コクトーの詩の話になってしまいました。 『月下の一群』中にある堀口大学訳の有名な詩であります。 耳 私の耳は貝の殻 海の響きを懐かしむ この詩ですね。要するに私は、この詩に大層感動したと娘に言ったんですね。すると娘は更に「なぜこの詩に感動したか」と聞きます。 この質問には少し弱りました。 何に感動するかは、その人物の生き方の根元的な部分と関係のあるものですね。しかしそれを説明するのは結構難しい。 えー、なぜこんな話になっているのかといいますと、今回、『舞姫』を読んで私が疑問に思ったことの一つは、なぜ主人公・太田豊太郎は法学ではなくて歴史文学が好きになっていったのだろうかということであります。原文ではこんな風になっています。 また大学にては法科の講延をよそにして、歴史文学に心を寄せ、漸く蔗を噛む境に入りぬ。 豊太郎が、わりとすらすらという感じで初めてエリスに声を懸ける場面、なぜあんなに「遊び人」みたいにエリスに声を懸けられたかと考えていくと、ここには間違いなく豊太郎の恋愛小説の読み過ぎがあるのではないかと、わたくし想像するのですが、要するにこの悲劇の遠因に、豊太郎の文学歴史への過剰なる嗜好があるのは間違いないでしょう。 しかし、ではなぜ豊太郎は、文学歴史なんて好きになっちゃったのか、ここは『舞姫』にとってとても大切なところのはずですが、その説明は難しいと上述したように、十分鴎外も描いていません。 隔靴掻痒に歯がゆいところであります。 さて、私の疑問点はもう一つありまして、実はこちらの方がこの読書報告の主眼であります。 そもそもなぜこれを疑問点と思ったかと言いますと、前回にも述べましたように、ストーリーとしては、この話はもう「終わっている」ように思います。 今クールに本書を読めば、例えば若い女性ならば、こんな馬鹿な男に引っかかってはいけないと言う教訓かという話になるでしょうし、また若い男性が読めば、こんな女に捕まっては一生の不作だというこれもまた教訓かということになるのではないかと思います。 要するに話としては、もう完全に「煮詰まって」いるんですね。新たな可能性も逃げ道も考えづらいと言う状況であります。 こんな煮詰まった話に、もしもほころびのような可能性を見つけるならば、私はここじゃないかと思ったわけです。 それは、昔より様々な人が触れている小説最後の部分であります。有名なこの個所。 ああ、相沢謙吉が如き良友は世にまた得がたかるべし。されど我脳裡に一点の彼を憎むこころ今日までも残れりけり。 改めてここを読むと、なかなか疑問点の出てくる個所であると、ぼんやり私は思ったのでありました。 えー、すみません。次回に続きます。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2011.12.24
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『舞姫・うたかたの記』森鴎外(岩波文庫) 本文庫には五つの作品が入っています。この五つです。 『舞姫』『うたかたの記』『文づかい』『そめちがへ』『ふた夜』 前三つが、鴎外の「ドイツ土産三部作」といわれるやつですね。さすがに気合いが入っています。 その次の『そめちがへ』というのは、ドイツ土産から七年ほどして、いきなり発表された作品ですが、こうしてまとめて読んでみると、なるほどちょっと感じが違います。 前三作の格調の高さとロマンチシズムがほとんどなくって、ちょっと失礼な例えになるかも知れませんが(どちらに失礼なんでしょうかね)、尾崎紅葉の戯作みたいであります。とっても「江戸」っぽい。 もっとも鴎外ほどの文学者ですから、西洋文学仕込みだけでなく、江戸文学の流れも十分に身につけていることは、当然考え得る範囲であります。また、私は誰の文章で読んだのだったか忘れてしまったのですが、鴎外のドイツ日記に、ドイツの小説を読んで、「ああ春水」と書いているところが結構たくさんある、と。 「春水」ってのは、為永春水ですね。 『春色梅児誉美』などが有名な、近世の人情本作者であります。また天保の改革で、人情本の内容が淫らであるとして、手鎖五十日の刑を受けたという、ちょっと気の毒な方でもありますね。(それがショックでお亡くなりになったということですから。) 鴎外は、ドイツの小説を読んだ時に、「なんだ、この話はまるで我が国の春水のようじゃないか」と思ってこの言葉を書いたんですね。この一言には、鴎外の、西洋文学に対して江戸文学を誇らかに思う気持ちが現れているようで、なかなか心温まる一言であります。 またそれほどに、鴎外は江戸文学にも造詣が深かったわけです。 と、思わぬ展開になってしまいましたが、そんな江戸戯作のような『そめちがへ』が入っております。そして最後の作品は、翻訳であります。 鴎外の翻訳といえば、これはまた昔より「原作よりも素晴らしい」と言われ続けているものであります。有名なのは『即興詩人』でありましょうが、寡聞にも私は読んでいません。 この『ふた夜』の原作者は、ハックレンデルという方でありまして、ちょうど同書の『舞姫』の中で、「されど詩人ハックレンデルが当世の奴隷といひし如く、はかなきは舞姫の身の上なり。」と書かれているこの方でありましょう。 鴎外の翻訳といえば、私は昔『塔の上の鶏』というのを読んだことを憶えています。今でも結構内容を憶えていますが、なかなか印象的な上手な話でした。 この短編については、太宰治も少し触れていたように思います。 ところが、今回の『ふた夜』ですが、これがなんとも、ちょっと難しかったです。もう少し気合いを入れて読めばよかったのかも知れませんが、何となくずるずると読んで、朦朧なままに終わってしまいました。 というわけで、私の感想の中心は「ドイツ土産三部作」になります。 その中でも、興味の中心はやはり『舞姫』ですよねー。 なぜかというと、最もストーリーがきちんと纏まっている気がするって事もありますが、やはり高校時代に国語の授業で習ったからでしょうねー。一番、すっすっと入っていくことができました。 そう考えると、若き日の学校の勉強ってとっても大切ですよね。おそらく私は、この『舞姫』の内容を死ぬまで忘れないと思いますから。 ところが、この度そんな感じでかなり懐かしがりながら『舞姫』を読んで、私がさぞ感心したかと言いますと、うーん、あまり感心しないんですねー。 もちろん、忘れていたいろんなことを思い出して面白かったのですが、このストーリー自身は、すでに歴史的な役割を終えていますよねー。あたかも島崎藤村の『破戒』のように。 ただ、疑問点として、私は特に気になったことが二つありました。 そしてそれについて、ぼんやりとあれこれ考えていく内に、話はどんどん発展かつ妄想化していき、とうとう私の中に「もう一つの『舞姫』」ができあがるに至ってしまいました。次回、その話を少し書いてみたいと思います。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2011.12.21
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『遠雷』立松和平(河出書房新社) 昨年亡くなった本書の筆者につきまして、私はほとんど知りません。 わずかに知っていたことと言えば、筆者に関わる「盗作」事件が確か複数回あったという報道と(だったと思うんですがー)、後、ニュース番組のレポーターをしていたお姿を何回かテレビで見たことがあるという程度であります。 そして、必然的に(って、なぜ必然的なのか、極めて私的にバイアスの掛かった人物評価なんですが)筆者に対して私は余りよい印象を持っていなかったんですね。 (ちょっとだけ説明しますね。「盗作」云々について、それを知って良くない印象を持つのはとりあえず理解していただけると思いますが、テレビのレポーターについては、これはまー、私の偏見であります。小説家がそんなことしてる場合やないやろー、という偏見です。すみません。) ところが(というか、そんなやつに限ってという感じで)、私は筆者の小説を今まで全く読んでいなかったんですね。 (ちょっとだけ説明しますね(2)。人物評価の際に、「本職」といいますか、その人物が最も心血を注いだ対象について全く無知なまま、周辺的な事柄だけをもって評価するという「風潮」が、とっても多いと思いません? 「~以前の問題だ」みたいなフレーズとともに……って、それはおまえのことだろう! あ、そうでした。どうもすみません。) そこで、反省して(という訳でもありませんが)今回、冒頭の作品を読みました。 よくできていますねー。感心いたしました。まるで、中上健次ばりではありませんか。『枯木灘』みたいですよ。(ただ、都会近郊の農村を書くと、今ではすぐに『枯木灘』っぽく思ってしまうような気がわたくし、するんですが。) とにかくとても感心しまして、ちょっとネットで調べてみたんですね。 すると、お亡くなりになるまでにとってもたくさんの著書があることをまず知りました。また、芥川賞候補にも二度なっていらっしゃる事を知りました。そして、二度取り損なった候補作の次の作品がこの『遠雷』なんですね。 うーん、実に立派なものであります。 この3作目というのはちょうど、村上春樹でいえば『羊をめぐる冒険』になり、村上龍で言えば『コインロッカー・ベイビーズ』になり、そして、中上健次でいえば『枯木灘』になるんですね。(……えー、ちょっとアバウトな作品数計算になっていますがー。一応、習作的なものは除外して、ってことで許してください。) つまり本作も、名作率がとっても高いイニングでの作品ということで、なるほどさもありなんという感じなわけです。 (ちょっとだけ説明しますね(3)。しかし、立松氏にとっては、本作を書いたおかげで芥川賞を受賞しそこなってしまいましたね。芥川賞の対象作品は、新人作家の中編までの小説であります。村上春樹が同じくこのパターンで芥川賞を逸し、一方村上龍と中上健次は3作目までにすでに受賞していました。ただ、本作は野間文芸新人賞を受賞していますから、それでよいとも思いますが。ついでにこの3作目で野間文芸新人賞というパターンも、村上春樹・村上龍と同じであります。) ところが、これも私の偏見なのかも知れませんが、このように中上健次・村上龍・村上春樹と並べると、えー、誠に申し訳ないながら、本作の筆者は少し、すこーしだけ、ちょっとだけ一般的評価が低いような気がしません? ……うーん、やはり芥川賞の力ですかねー、村上春樹は例外としてですがー。 さてとにかく、本書は、高度成長期の急激な都市開発に見舞われた旧農村に住む様々な人々の生活を描いて、なかなか読み応えのあるものとなっています。 一言で言うと、土地成金となった旧弊な旧農家と、新興住宅地の団地に住む浅薄な都市生活者の、ともに猥雑で浅はかな人間模様を(ということは、すべての人間の、ということでもありますかね)、一文一文を積み重ねるように、かつ、素っ気ないような文章で描いています。 そんな田舎の旧弊な嫌らしさと新都市の沙漠のような殺伐さに対比する形で、主人公・満夫青年のトマトのハウス栽培の様子と、彼の恋人・あや子との日本的でもありアポロン的でもあるような肉体と性が描かれます。 特に愛し合う二人の姿は、猥雑な舞台にふさわしい猥雑さをも含みつつ、この時代にふさわしい一種「純愛」といってもよいような描写が瑞々しく(あたかも真っ赤に熟すトマトと重なり合って)、とても好感の持てるものとなっています。 ただ、作品の視点を、主人公・満夫に完全に寄り添う形で設定したため、クライマックス部分の友人の事件の書き込みが不足しているように感じられ、またそれ以外のエピソードについてもやや重量感に欠けているようで、あれだけ手間暇をかけて作り出した作品世界の印象が、後半から終盤にかけて弱くなったのは、少し残念な気がします。 とはいえ、私としましては、久しぶりに作者の実力が大いに感じられる作品を読んだという思いでありました。いえ、堪能いたしました。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2011.12.17
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『極楽とんぼ』里見とん(岩波文庫) 「とん」の漢字が、出ないんですのよねー。 こういうのって、なんか、悲しいんですのよねー。 というわけで、里見とんの小説であります。 えー、そもそも、「極楽とんぼ」というタイトルでありますが、……、うーん、やはり何となく惹かれますよね。 要するに、極楽の地でとんぼのようにすいすいと空を飛んでいるだけのお気楽人生、という意味ですよね。やっぱり惹かれますね。 ところが、本文中に二回、下記の歌(というか諺のような標語のような三十一文字)が出てくるんですが。こんな歌です。 憂きことのなほこのうへに積もれかし限りある身の力ためさん もちろんこの歌は主人公の生き方と全く逆なものとして、いえ、主人公の母親や身内の者が、主人公にひどい目に遭わされた時に口にしたり心に唱える歌として出てくるんですね。主人公の生き方のアンチ・テーゼであります。 ところで私は、こんな歌の意にも何となく心惹かれるところがあるんですね。 何といっても、ベートーヴェン大好きですから。 ベートーヴェンという人は、自らの人生の幸福と引き替えに、音楽に自分の全勢力をつぎ込んだ方でありましょう。やはり偉人ですよねー。 確か画家のゴーギャンが、人生には辛いことしかない、辛いことを生きるということが人生なんだ、みたいなフレーズの言葉を書いていたのを読んだような気がします。それともあれは、ゴッホだったかしら。 どちらのお方にしても、いかにも相応しいお言葉のような気がします。これも頭が下がります。 しかしその一方、我々はフーテンの寅さんが好きです。いえ、我々とは言い過ぎかも知れません、少なくとも私は、フーテンの寅さんが好きです。 漫画家ジョージ秋山の代表作の一つに、『はぐれ雲』という作品がありますね。 かなり以前からありますが、今でも雑誌に連載しているのでしょうか。 昔、友人が単行本でたくさん持っていたのを、片端から読ませて貰ったのを覚えています。あの主人公も、とても魅力的ですよねー。 そもそも日本の民話にも、そんなたぐいの主人公の話が、結構あったんじゃないでしょうか。「三年寝たろう」とか「わらしべ長者」とか。 ……うーん。今ちょっと調べてみたのですが、よくみると「三年寝たろう」や「わらしべ長者」は、「フーテンの寅さん」とはコンセプトが違っていますね。そして、『はぐれ雲』も、「寅さん」とは違う種類の主人公であります。 彼らには、そもそも力量が充分あるんですね。普段はそれをまるで見せないだけで。 『はぐれ雲』の主人公はもちろんそうだし、二つの民話に描かれているコンセプトも、やはり一種の「勤勉の勧め」であります。 一方、「寅さん」は違います。彼には全く「偉人的」力量はありません。 ただ彼にあるのは、何ということのない、人に好かれる人柄であります。そして本作の主人公、吉井周三郎も、間違いなくこのタイプの人物であります。 かつて太宰治は、『お伽草紙』中『瘤取り』の話の中で、作中に出てくる鬼に瘤を取って貰ったおじいさんと、鬼に瘤を付けられてしまったおじいさんとの間に、善悪人倫上の差はないと書きました。ではなぜその結果において、両者に甚だしい幸不幸が生じたのかということを、いかにも心理通の太宰はこう書きました。 「性格の悲喜劇といふものです。人間生活の底には、いつも、この問題が流れてゐます。」 さて本書の主人公は、フーテンの寅さんをお金持ちにしたような話です。ただお金持ちになった寅さんの存在が、果たして可能なのかどうかは、問題の残るところでありますが、それが、いわゆる「白樺派」的モラルであるのかも知れません。 寅さんよりファンタジックな印象がどことなく流れ、そこに一種の「癒し」を見ることもできましょうが、お気楽と言えばお気楽な話です。 そもそも、そんな漫談のような話なんですね。 ずるずるとどこまでも続いていくような、これと言った悪人も出てこず、また君子も出てこないと言う。 そんな意味で言いますと、例えば保坂和志の小説、あの見事に何も起こらない小説と、なんだか少し似ているような気がします。つまり、日々の生き方は描かれるが、事件は起こらないという、「ご近所づきあい」のような小説であります。 ただそれは、面白くないということではないんですね。 毎日庭に出て園芸を楽しむような、そんな静かな連続的な楽しみが、そこにはあります。そして何といっても、それに加えて文体の芸でしょうか。見事に流暢な滑らかな文章が展開されています。 こんな話芸を持つ人は、例えば久保田万太郎なんかがそうでしょうか。一種天才肌の文章であります。 ともあれ良きに付け悪しきに付け、そんな趣味性の高い気のする作品です。 しかし、そこに日々の園芸のような楽しみがあって、舌を巻くような冴えた文体があって、その上まだ何がいるのかと考えると、なるほどその通りではありましょうが……。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2011.12.14
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『葛西善蔵集』葛西善蔵(新潮文庫) 太宰治の、いわゆる「中期」の作品の中に、『善蔵を思う』という佳編があります。私にとっては、「フェイヴァレット」とは言わないまでも、一貫して好感を持っていた作品であります。(この度も読みかえしてみました。やはりいい話でありました。) さて、この「善蔵」というのは、もちろん葛西善蔵のことで、太宰と彼は同郷人であります。善蔵の方が先輩ですね。 今私は、「善蔵」とは葛西善蔵だとさり気なく書きましたが、実は作品中に葛西善蔵はまるで現れません。間接的な話題にも全く出てきません。よく考えてみれば、かなりヘンなタイトルでありますね。 にもかかわらず、この「善蔵」は、やはり葛西善蔵なんですね。私も、多分解説か何かで読んだのだと思いますが、葛西善蔵のことだと思っていました。 ところが、恥をうち明けますが、実は私は今まで、葛西善蔵の作品は全く読んだことがなかったのであります。(まー、そんなケースって、結構いっぱいありますよね。よーするに、知ったかぶりであります。ははは、……すみません。) 葛西善蔵には、断片的な文学史的知識とイメージがあるだけで、それは「私小説作家の極北」というイメージであります。例えば文学史的系譜を書くと、こんな感じ。 徳田秋声→宇野浩二→葛西善蔵→嘉村礒多→牧野伸一→坂口安吾 まー、こんなあたりでどうでしょ。これは、必ずしも師弟関係があるという系譜ではありません。「善蔵→礒多」には、それに近い関係があったように思いますが、とにかくそんな私小説系譜であります。(最後の安吾は、まー、私小説ではないですね。) さて、この度、初めて葛西善蔵を読みました。(おかげで、太宰の『善蔵を思う』がますます好きになりました。) しかし、……うーん、なかなか、評価の難しい作家だなー、という気がします。 というのは、冒頭の短編集には十の作品が収録されているんですが、そのうち最も有名な『子をつれて』と晩年の『湖畔日記』とは、確かに良かったです。特に『湖畔日記』には、太宰治の『富嶽百景』との影響関係を強く感じました。(もちろん、葛西の方が先行しています。際どい書き方をすれば太宰のほうに「剽窃」に近いものを感じます。) それは例えば、こんな描写であります。 昼の選手達の飲めや唄への騒ぎの音が、死水のやうに静かにほの白く輝いてゐる湖面をわたつて来る。自分も声を張りあげて唄ひたいと思つたが、それが出なかつた。 夜静カニ水寒ウシテ魚喰ハズ、満船空シク月明ヲ載セテ帰ル――自分は斯うした片言憶えの文句を口吟んだ。 何の意味?……否! 好き山の乙女達よ、いつまでも清く美しくあれよ。そして自分の芸術?……自分は思はず溜息をついた。 どうですか、この文を『富嶽百景』(確か私が高校生の時、国語の教科書に載っていました。教科書に載るような名作!)の中に挟み込んでも、全く遜色はないように思います。 しかし次のこの部分は。……この部分は、こんな描き方は、きっと太宰はしません。 私はまたも、斯んな戯文を書いて金に換へなければならぬと云ふことを、悲しく恥かしく思ふ。私はついこの前同じやうなものを発表したばかりである、貧乏してそちこち浮浪し歩いたと云ふ何の変哲も趣向もない所謂実生活の紙屑文学である。今度もそれの繰返し以外に何物もないのだと思ふと、書く張合もなし、読者へも申訳ない次第であるが、どうにも仕様のない場合なので、偏へに御寛恕を乞ひたいのである。(『仲間』) 細かいことを言い出せば切りがないのですが、例えば太宰治は自らをよく「辻音楽師」に例えました。それは必要以上の謙遜というよりは、彼の「エンターテイナー」への強い志向の現れでありましょう。最低限自分が面白いと思えるものしか、太宰は発表しなかったように思います。 そのぶん強烈な自意識があったのかも知れませんが、同じような文章を書いても、太宰にはいつも読者へのサービスがありました。私はそれが、太宰の「志の高さ」であったように思います。 しかし善蔵には、そんな「未知なる読者への意識」が、見える時もあれば、見えない時も多くあるように思います。 そしてそんな時に書かれた文章は、結局彼のまわりの文学身内のみを対象とした、仲間内だけで自足した文章であります。 ただ私は今回本書を読んで、時にふと遠くを見ているかのように書かれた一文があり、そんな部分には非常な透明感を感じました。 そしてそこに漂うユーモアと相まって、やはりこれは、筆者が持っていた才能の「格」の高さだという気がとてもしました。 それではそれがなぜ、大成しなかったのか。 それは彼のわずか42年間しかなかった人生ゆえとも言えるかも知れませんし(しかし太宰治は享年38であります)、……いえやはりそれは彼の才能の質、つまりは高い「格」の質ゆえであったのかも知れません。 才能は、必ずしもその持ち主を幸福にするとは限りませんから。 (いえ、才能がその持ち主を不幸にした例の方が、人類史上には遙かに多いように思います。例えば大物を一人。「ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ」) よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2011.12.10
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『箱男』安部公房(新潮文庫) 親戚に小学校の教員をしている若い者がいまして、時々、一杯やりながら小学校教育現場の話を聞いたりします。 今の時代ですから、何かと「生臭い」話も出てくるのですが、家でリラックスしている時にそんな「うっとうしい」話は聞きたくないので、さりげなく私の一応「テリトリー」である文学、小学校ですから児童文学ですかね、いわゆる国語の教科書に載っている文学教材の話の方に持っていこうとします。 というのは、かつて私の子供達が小学生だった頃、小学校の国語の教科書を時々ぱらぱらと見ていたのですが、なかなか文学教材が充実しているという印象を持ったからであります。(本当はもうあまり覚えていないのですが、なんか、反戦教材も結構充実していたような印象があります。) (少し話は飛びますが、きっとその親戚の若い小学校の先生だけじゃないと思うのですが、全般に、学校の先生って、思ったよりずっと文学関係の本って、読んでいないような気がします。まー、忙しいんでしょうけれど、私としては少し淋しいですね。) ところが先日ふと、文学教材、それも「純文学」の本道のような作品の話になりました。小学校の国語の教材で、「純文学」の本道みたいな作品って、なんだと思います? ふふ、分からないでしょう。 しかし、聞けば、あっと思ってそして思い出すと思います。(これ、ヘンな文ですね。) この作品です。 『やまなし』宮沢賢治 ……うーん、なるほどねー、と思ったでしょう。そうなんですねー。 親戚の若い先生の話によると、この作品は極めて得意な教材だそうです。どう特異かというと、こんなにも特異です。 「教師にとってはめちゃめちゃ教えにくく、生徒にとってはめちゃめちゃ理解しにくく、しかも、誰もの心の中にいつまでもずっと残っていく教材」 ……うーん、重ねてなるほどねー。 実は私、この話の後で、この『やまなし』について、職場の方に聞いたんですね。もーかなり年輩の女性の方です。するとそこに、比較的若い女性もやってきて、こんな話になりました。 「あ、それ、覚えてます。私も小学校で習いました。」 「私も習いましたよ。」 「えーっと、『モランボンは笑ったよ。モランボンは死んだよ』とかいうのでしょ。」 「そー、『モランボンはぐふぐふ笑ったよ』とかいうやつ。」 「そー、そー。」 「……モランボン?」 「……モランボンって、それ、違うんじゃない? それって何か、焼き肉系の名前じゃない?」 「……。」 なるほど、誰もの心にいつまでも残っている作品ですよねー。 『クラムボンはわらったよ。』 『クラムボンはかぷかぷわらったよ。』 『クラムボンは跳てわらったよ。』 『クラムボンはかぷかぷわらったよ。』 これが正解ですが、うーん、さすがにインパクトのあるフレーズですよねー、本当。 さて、冒頭の読書報告の話にいっこうに進んで行かないのですが(こんな流れの時は、大概「次回に続く」になるんですが、後に書きますように、次回にどうも続きようがありません)、『箱男』と『やまなし』の共通項に何があるかと言えば、時系列順に書くとこうなります。 『箱男』読了→「完全犯罪」の感想→宮沢賢治『やまなし』の連想 と、まー、こんな具合なんですが、この『箱男』も、どうも手も足も出ないと言う感じでありましてー。 実はこの本は私、確か3度読んだと思うんですが、今回が一番手も足も出ない、「完全犯罪」という印象を持ってしまったんですね。 で、同じく「完全犯罪」っぽい『やまなし』を思い浮かべた、というわけであります。 あるいはもうちょっと頑張ったら、もう少し手がかりが出てくるとは思うんですが、なぜかあまり気が進みません。と同時に、太宰治の『お伽草紙』の中の、「桃太郎」に関して述べたフレーズを思い出しました。 それは確か、「もうこの作品はこの形でぎりぎりの純粋性を誇っているのだ。これは日本人に昔から歌い継がれた日本の詩である。」というニュアンスの文だったと思います。 うーん、あんまり関係ないですかね。 今回は、あっち行ったりこっち行ったりの、まったくまとまりのない報告になってしまいましたなー。(でも、毎回こんなんですかねー。) しかし、『箱男』以降、『密会』『方舟さくら丸』『カンガルー・ノート』と繋がっていく、見ていてはらはらするような筆者の苦闘の跡は、やはり間違いなくこの作品から始まるのだと、わたくしは思うのではありますが。 (それはあたかも、「完黙」してしまったサリンジャーのごとく。……) よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2011.12.07
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『別役実1・壊れた風景/象』別役実(ハヤカワ演劇文庫) 私が最初に出会った別役実の本は、多分『虫づくし』(ハヤカワ文庫)だったと思います。 高校生の頃ではなかったかと思うのですが、当時、別役実に対しては、アングラ劇団のヒーローである唐十郎や寺山修司のいわば先輩格として、不条理演劇の我が国の第一人者の劇作家である、くらいの知識を持っていたかなと思います。 ただ、それはあくまで知識にすぎないものでありまして、時代に対して遙かに「奥手」であった私は(未だにいい年をしながら「奥手」のまんまで、全く困ったものです)、唐十郎も寺山修司もなーんにも読んだこともなければ、そもそもそんな小劇場演劇を見たこともありませんでした。 (以前にも少し書きましたが、その頃私が戯曲として好きだったのは安部公房でした。しかしそれも、戯曲を読むという形の鑑賞でありまして、私が現実に劇場に行き、生身の人間の演じる芝居を鑑賞するようになったのは、つかこうへい以降であります。) ところが、手に取った『虫づくし』に、私はびっくりしてしまうわけですね。 本当に唖然としてしまうわけです。 なぜ唖然とするかは、本書を手にすれば(それも何の先入観もなく初めて本書を手にすれば)誰もが理解していただけると思います。 私は当時、メモ程度に書いていた読書ノートに、こんな風に記しています。 このほとんど病気のような世界は、とにかく面白い。普段は理性の中で眠っているように見える本能のような感覚がいきなり直接顔を現す世界の不気味さが描かれている。文体がよい。 今読むと、何を書いているのかよく分かりませんねー。困ったことです。 で、その後私は、折に触れて本書を再読三読し、また読書メモにこそこそと書いています。 論理と感情の盲点を構成していくこのやり方が小気味よい。 名随筆とは、文体が視点と分析の確かさを裏付けるものであると同時に、文体そのものが別の美意識によって存在感を発揮するものである。もちろん両者間には相互作用がある。 うーん、この文自体がほとんど病気の世界ですなー。 うすうすそうじゃないかなとは思っていたのですが、やっぱり私って、かなり頭の作りがアバウトですなー。まー、もう今となってはどうしようもありませんが。 ただ、こんな事も書いていました。 虚構がその構造において、いかにトリビアルなリアリティを要求するかということが、小気味よいくらいによく分かる。 この文は、ちょっと分かりますね。 『虫づくし』の方法論は、恐ろしいほどに虚構であり、そしてその虚構は、うんざりするほどしつこい現実描写によって裏打ちされているということが、多分言いたいのだと思います。 筆者は、さほどに虚構について徹底的に突き詰めている、と。 さて、冒頭の戯曲の読書報告ですが、この二作品は、不条理劇的「分からない」というタイプの作品ではありません。テーマらしきもの、つまり、何が描かれているんだと尋ねられた時の答えくらいは、たぶん言い切れる程度に「分かる」作品であります。 そんな意味で言いますと、例えば不条理劇として世界一有名なサミュエル・ベケットの『ゴドーを待ちながら』などとは、少し異なる感じのするものであります。 確か三島由紀夫が(この方の戯曲も、一時期まとめて読んだことがありました)、二十世紀における文学の課題のひとつに「意味」をどう捉えるかというものがあると述べて、三島的表現として「意味の病」、ということを書いていたように覚えています。 例えば純粋音楽(器楽曲という理解ですね)には、やはり基本的には意味はありませんね。抽象絵画についても(具象だって同じだという説も聞いたことがありますが)やはり同じだと思います。 そういう言い方で言えば、文学だって同じだとは思うものの、ただ文学表現というものは、その要素として、基本的に「意味」という役割をほとんど専売的に担っている「言葉」を用います。 だから、できあがった文学作品から意味を抜き去るのは、やはりかなり難しく、またそうしてできあがったものは、どうしても歪になってしまうような気がするのですが、どうでしょうか。 本作の解説に、筆者がかつて「内容のまったくない芝居」を書いてみたいという趣旨の発言をしたと書いてありましたが、気持ちはとても分かるような気がします。 さほどに、この世界を追求することは難しく、あたかも強烈な水圧をひしひしと感じつつ深海にどんどん潜っていくごときものであろうと推測されます。 本書はそんな筆者の初期作品として、不条理演劇の古典としての「安定感」をも漂わせているような戯曲でありました。 筆者の拡げゆく「意味=無意味」の地平を、まだまだ大いに期待したいと私は思うばかりでありました。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2011.12.03
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