幼い妹4人が残り 父親は甲斐性なしになりました。
家業の八百屋も 配給制度で存続は無理となり御難続きで 母も肋膜炎で寝込んでいました。
当時の肋膜炎の診断は 後から医師に聞いたのですが 軽い肺結核をこう呼んでいたらしいです。
肺結核というと もう大騒ぎで 隔離だのなんだのとうるさいからだったようです。
母は 夭逝した叔父(本当は跡取りの人)が重度の結核で入院していたのを 見舞やら届け物で週一程度 隔離病院に行っていたのが悪かったようです。
幸い 若かったので肋膜炎?のまま 看過しました。
長女というものは 割りが合わないものです・・・・
八百屋の店舗が空いてしたので 若かった父に貸して これが二人のなれそめだったようです。
東南海地震では フニケ叔母は小学校が倒壊 目前で友達が何人も下敷きになり死んだそうです。
今でこそ 学校が避難所ですけど 当時は真っ先に壊れたようです。
叔母達も 軍需工場に行かされ 爆撃にも遭ったようです。
当時 浜松は鉄道関連の工場や 機械工場など 軍事用物資の街でもありました。
母は 肋膜炎?で女学校はお休みしていましたから 軍需工場の手伝いなどは免れました。
かなりの同級生が死んだと言ってましたっけ。
まさに、「禍福はあざなえる縄のごとし」でしたね。
母の姉妹の末妹は 3歳になるかならないかで、親戚に養女として引き取られました。
私は この人と折り合いがよくありませんで 絶縁状態ですけど。
美人なんですが 性格ブス 爺様が私ばかり可愛がるのをひがんでいたみたいです。
養父母には ものすごく大事にされたんですけどね わかりません。
母は 今までのお嬢様から 一時は4人の妹の母親代わりになったのですから 苦労したようです。
でも 戦死やら病死もなく 5人育ったんですから よかった方でしょう。
遠縁で 満州で憲兵をしていた人は 早々と帰ってきて 知らん顔していました。
憲兵なんて仕事をしていた事が知れると 仕返しされるなんて世の中でしたけど
この人は100歳近くで死んだのですから 世の中って皮肉です。
普段は 穏やかな人でしたけど 時々 目つきがぞっとするほど怖い事もありました。
母方は 女系で この人も入り婿です。
我が家は 祖父も父も入り婿 私は婿もいませんで ズミバゼンねぇ。あはは
国立演芸場 談笑の独演会に行きました。
琉球絣の薄物を着て いざ・・・雨です いつものスタイルに着替えて行きました。
こんな日でしたから 落語も 超不出来でした。
エアコンが効きすぎて みんな冷え冷え タオルやらハンカチ羽織る始末で。
中入りで もっと温度設定しろと 文句いいに行きまして 良くなりました。
でも トリネタ あんな「ねずみ」なんか聞けるか フン
ちなみに「ねずみ」って左甚五郎のエピソードもの
可哀想な父と息子の宿のために 甚五郎が彫った「ねずみ」が動くので 宿は人気となりました。
向かいの宿で 対抗して「トラ」の彫刻を作り対抗しますが
甚五郎作の「ねずみ」は「猫」と勘違いしていたというサゲです。
子供と甚五郎の 声の使い分けがひどくて 帰りたくなるほど。
志ん生に言わせると 「一年に3つもうまくやれたら上出来で 大掃除よりいいよ」だそうですけどね。
PR
コメント新着
フリーページ