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「直覚霊知」232瞑想実践の八十六(秘学論理) 霊視の段階に在っても内精神が知覚した「異相世界」での内部存在は、もはや物質界における外感覚が捉えるような外的特性は備わっていないし、感じさせない。内精神が知覚した「異相世界」での内部存在は霊視者に対して内精神の深層の霊的魂の声を一切の抵抗を排除して流出させることを促します。更に霊聴段階に至れば「異相世界」の内部存在が其の能力を獲得したもの対して、「異相世界」其のものの中へ霊聴者を導きます。其の段階に到って初めて霊聴者は「異相世界」での内部存在相互の関係、イントゥイツィオンン(高次の霊界=イントゥイツィオン界が理性界というような言い方がされることもあります。)即ち「霊的合一」を理解出来るようになります。其処まで修道し得た人間だけが「異相世界」の内部存在と合一するのです。
2014年08月31日
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「直覚霊知」231瞑想実践の八十五(秘学論理) 霊視段階から霊聴段階に至ると、「異相世界」での内部存在の立ち位置と其の諸関係を認識することになりますが、更に其の深層に立ち入ると、其れ等の存在の内面をも観相することが可能になります。其のことを可能にするのは西洋霊学いうところのイントゥイツィオンン「霊的合一」による認識と呼称されます。此のように認識された「直覚霊知」は最も「光」に充たされた至極の認識であり、人間が其れを我がものとするときには、全き意味に於いて意識的に観想することも可能です。外感覚・物質的存在において通常我々人間が他者の感覚存在を認識するときは、外からの印象に従って此れを評価しますが、「異相世界」での内部存在の立ち位置と其の諸関係を認識する「霊的合一」によって其れを評価するときには、其の存在と完全に「合一」し自ら其の存在と完全に内面と結びつき「一(ひとつ)」となります。
2014年08月30日
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「直覚霊知」230瞑想実践の八十四(秘学論理) 旧約聖書の創世記で人間が「神」に似せて創られたとするのは、或る意味では正しい。世界の創造主が「絶対神」だとするならば、此の大宇宙のあらゆる事象は神の形姿の表現だともいえます。其の「神」を模して人間が造られたとするならば、絶対的創造主が宇宙事象の根本的背景に存在することからして人間も亦「神」に似せて創られたとする以上、壮大で偉大な宇宙事象を表現していることになります。詰まりはビッグバンから重力子と呼ばれる質量によっての光子の速度変化や時間の発現及びエントロピーの法則に則った小宇宙の衝突及び其の消滅、ブラックホールやホワイトホールの出没は、人間との関わりがある意味では相似しており、人間の生と死間の諸事の現象や死からの新たなる現象を理解するには、宇宙考察を通しての観察が同時に人間観察にも有効と考えることをも、それ程、常軌を逸しているとは言えないようには考察し得ます。
2014年08月29日
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「直覚霊知」229瞑想実践の八十三(秘学論理) 世界の理法を求める「直覚知」更には内精神に霊性を懐(だ)いて霊魂まで高める程に進行した人間は雄大無辺な宇宙事象に理解を求ようともしないで、身近で人間的な関心事だけに理解を向けることが如何に卑近なことなのかを知らされます。しかし、其のような事情に通じていない人間は、自分個人にとっての関心事であり重要なことは、人間の死後の事情、即ち、死後に魂が存するか、将亦、其の運命の動向を知ることにあり、自らが大層な修行を「行」するのかとの疑問が出るのも当然にあるかもしれません。けれども、「直覚知」更には内精神に霊性を懐(いだ)く霊魂までに進行した人間は、其の人間の知ろうとする本当の知識、一見には其の当人に不当であり不要には思えても、自分自らが獲得した認識なしには真相に達することが出来ないことを承知しています。死後の人間の状態は、自分が縁遠いと考える事柄に由来する諸概念を人間の霊性や「直覚知」に結び付けなければなりません。其れ以外で道理を求めるのは「信仰」及び「信心」の宗教しか残されたものは有り得ないのですが、其処に安寧を求めるためにも、やはり「行」が重要となるのは同様です。
2014年08月29日
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「直覚霊知」228瞑想実践の八十三(秘学論理) 人間の本質を探求すれば、当然の事ではあるが、世界創造に関わる絶対存在ではないので、宇宙内環境の影響を持って産まれ進化してきたことは否定できません。大宇宙のみならず小宇宙、太陽系内の惑星が人間生命に関与していることは厳然としています。其れ故、一概には占星術や運勢学を安直に否定することは出来ません。しかしながら、此等の出典が人界に縛られた「霊視」段階の内精神が観相する世界のみによる知覚内容であるならば不充分としか言わざるをえない。何故なら、霊視的な認識だけで異相世界を覗くだけならば、其の霊的な内精神の知覚内容は音声的であり文字的にしても単文である。勿論「霊視」によっても人間の生前の「霊魂」の存在部分が死と共にどの様に物質存在から解き放されるかを感じることは出来るが、死後の人間に生じる事柄と、生誕以前若しくは死後の人間に来るべき諸状態を見渡すことは不可能です。「霊視段階」では「異相世界」での内部での立ち位置が存在しないのだから確認出来ないのも当然です。「霊聴」による認識がなければ、「霊視の世界」は読むことの出来ない書物を前にしているようなものでしかない。
2014年08月27日
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「直覚霊知」227瞑想実践の八十二(秘学論理) 「霊視」段階の内精神が観相する世界と「霊層」段階に自分の立ち位置を見付け出す「霊聴」の段階に達した関係は、「霊視」段階に在っては人間は未だ内精神が霊性には目覚めていても、あくまで生物段階の物質界に置ける人間が「異相世界」を「観相」しているのであって、其処に立ち位置がないのに対して、「霊層」段階に自分の立ち位置を見付け出す「霊聴」の段階に内精神が高められ「霊魂」の離脱状態とも云える状況に達すると、其の時点に過ぎないとしても人間が身体の拘束を離脱して「異相世界」の「変転」する存在に合流しています。其れは外感覚世界が外的に作用しあっている様相とは異なり、言語的意味環境とも言える在り方を通して、相互に作用しあっています。詰まりは、「霊層」段階に自分の立ち位置を見付け出す「霊聴」の段階に内精神が高められ「霊魂」の離脱状態とも云える状況に達した人間に、「異相世界」の存在は、まるで書物が語り掛けるような意味合いをとって語りかけてきます。其れ故、読書において夫々人間によって読解に差がある様に、受け手である「霊層」段階に自分の立ち位置を見付け出した人間も、認識には其の人間の「霊魂」の発展段階が作用して認識の深浅が問われることになるので、物質界における人間から見ると神聖仙(人)等の差がとして現れるのです。
2014年08月27日
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「直覚霊知」226瞑想実践の八十一(秘学論理) 「霊層」段階に自分の立ち位置を見付け出すと、物質的な環境及び生物系から受け取る外感覚的世界に在っても人間は其の存在の多様性から影響を自己に齎しますが、「霊層」段階に自分の立ち位置を見付け出す「霊聴」の段階に到ると物質界とは異相の様相を知らしめます。物質界においては、何れの存在も他との関係を外的に影響し合うことにより成り立っているとも云えますが、「霊層」世界に自分の立ち位置を見付け出す世界に在っては、其の人間自らの内精神を高めた霊魂の在り方により、相互の影響を及ぼし合っています。「霊層」段階に自分の立ち位置を見付け出す「霊聴」の世界では、物質存在の世界に比肩されるような外的作用は見られませんが、他者との関係は夫々の存在の内的作用の在り方によって異なる真相が現出します。
2014年08月26日
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「直覚霊知」225瞑想実践の八十(秘学論理) 「霊層」段階に自分の立ち位置を見付け出すと、単なる「霊視」段階の内精神が観相する世界とは、其の在り方が一変します。「霊視」は外感覚的な物理世界を離れた「異相世界」の或る経過から別の経過への「変転」を内精神に知覚させますが、「霊層」段階に自分の立ち位置を見付け出すと、「異相世界」の「変転」する存在が内的特性を訴え語り掛けてきます。瞑想を重ねていき「直覚霊知」に目覚め霊性を得て「霊魂」を発展拡張してきた人間は「霊視」を通して、「異相世界」の存在の表現を認識し、「霊層」世界に自分の立ち位置を見付け出すと、其の存在達の内実即ち実相を認識します。人間の内精神が霊魂存在と呼べる程の段階に達すると其の存在たちが、物質世界で体験しているよりも、如何に多彩で多様なのかに驚かされるのは必定でしょう。
2014年08月25日
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「直覚霊知」224瞑想実践の七十九(秘学論理) 我々人間が生活していると捉えている物質的な環境から「直覚知」を手にして「直覚霊知」の認識を求める人間は、先ず完璧な霊視を自らのものとし、其処から、霊性が高められた霊魂が手にした異相の世界の音ならぬ響きに包まれることになりますが、霊性を高め完璧な霊視を自らのものとすることと「直角知」を手にして「直覚霊知」の認識を手に入れることは、寧ろ同時並行に進行することの方が望ましいとも云えます。其の場合は、其の時点々に在って相応しい、異相の世界の中の自己の立つ位置を認識し自己の霊魂と「交合」してるとも表現できる世界での自己存在の意味を理解することも可能となります。概して、人間の内精神が霊性を認識し霊魂が認識する異世界の現象を理解して、「直覚霊知」をもって自己の立つ位置を確認するのです。此処に初めて「直覚霊知」の事実を確認・認識した人間は「或る一定水準を超えたところの人間にのみ齎される生命の囁き」を我がものとします。謂わば「人間世界」から垣間覗ける「霊視」段階を超えて外感覚的な物理世界を離れた「異相世界」に、自己の霊魂を侵入させて交流する「霊層」段階に自分の立ち位置を見付け出しているのです。
2014年08月24日
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「直覚霊知」223瞑想実践の七十八(秘学論理) 瞑想を重ねていき「直覚霊知」に目覚め霊性を得て「霊魂」を発展拡張してくると、人間の本性・本質の真相が観えてきます。所謂一般生活における物質的・感覚的な知覚にあっては、身体の肉体的な諸経過だけが知覚出来るのですが、其の諸経過は誕生から死までの領域に限定されています。然しながら、「直覚霊知」に目覚め、霊性を得て「霊魂」を認識する人間は、死後に人間が生存時とは全く「別様」の仕方で生き続ける、謂わば肉体からは拘束されない物質界における生成と衰退、生と死の「交替」とは形相的に異なった「変転」の形姿を観想することが可能となります。此の段階にまで自己の内精神を高めている人間は、人間の死によって別の仕方で生き続けるもの、肉体から抜け出す形姿を知覚する能力を獲得しています。「直覚霊知」に目覚めた霊性を得て「霊魂」を認識する人間が観る「変転」の形姿である存在は、新しく獲得された世界の中で、自らの位置を確認することは出来得ません。何故なら、その観相の世界に留まり続けることは、「変転」の経過を読み取ることが不可能になるからです。物質的世界を超えた高次の世界は休むことのない「動きと変転」の世界であり留まるところを知りません。只、「浄霊世界」仏教云うところの「浄土世界」の領域に至って初めての「休止状態」である場所に安寧を得ます。
2014年08月23日
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「直覚霊知」222瞑想実践の七十七(秘学論理) 凡そ我々人間が生活していると捉えている物質的な環境及び生物系から受け取る外感覚的世界と霊性を獲得して霊魂に目覚めた人間が観る異相の外感覚からは隠された世界との間には、類似点もあるにはあるが、其の事よりも遥かに重要な相違点があります。物質的な世界其のものの存在は相違しないのにかかわらず、霊魂的に繋がりをもった世界は全く別様の存在を現出させます。物質的な世界においてはエントロピーを始めとして、事物の絶えざる生成と衰退、生と死の「交替」が見られますが、霊魂に目覚めた人間が観る異相の外感覚からは隠された異相の世界では、事物の絶えざる生成と衰退、生と死の「交替」の替わりに、ある事象から他の事象への絶えざる「変転」が繰り返されているのです。例えば、物質世界においては植物が萎れるが、異相の世界では植物が萎れるにつれて、物質的には知覚出来ない全く別の形象が現出します。萎れていく経過に応じて順次植物は次第に外感覚からは隠された異相の世界の形象に「変転」していき、其の植物が物質世界での生命を完全に失うと、異相の世界では霊魂的に繋がりをもった世界では全く別様の存在を発達した様相をもって現出します。「誕生と死」は異相の世界においては意味を失い、物質のうちの中でも生命は、或るものから或るものへの「変転」を現出させることになります。
2014年08月22日
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「直覚霊知」221瞑想実践の七十六(秘学論理) 霊視的な認識能力を獲得した人間は、内精神の暖冷の知覚、音響或いは言葉の知覚、光や色の作用を、当然に物理的・感覚的な世界於ける場合のものとは別の内容を示していることは心得ています。詰まり、此れ等の知覚を生じさせているものが、物理的・感覚的な世界からのものではなく霊性から生じていることを当然に承知しているのです。冷たさや暖かさや熱さを、此等の感覚然としたものが物質的・素材的なものからではなく次元が異なる異世界の感覚即ち内精神の霊魂化の表象化と捉え解釈するのです。即ち、異相の世界の霊視に於いては、物理的・感覚的な世界の暖冷の知覚、音響或いは言葉の知覚、光や色の作用が霊的なものから派生していて、所謂、外感覚で捉えている世界の知覚や触覚に見合ったものではなく、其の背後に働くものが霊的事象として想起して自己の内精神に働き掛けるのです。物質的な知覚の背後に存在や事実が存在するように、内面生活でしか体験できない存在が霊魂に知覚を与えているのです。
2014年08月21日
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「直覚霊知」220瞑想実践の七十五(秘学論理) 東アジア圏では哲学や宗教上の達人に、蓮華をもって其の霊性の尽きない力を表現しています。其の他、大乗経典として有名な法華経の正式名が「いとも気高き白蓮教」であり、中国の歴史上の乱である「白蓮教徒の反乱」等にも蓮華が登場します。西洋思想家には蓮華の花弁其れ其れに、内精神の霊魂化した人間の身体部分の象徴性を与えているのも垣間見られます。部分霊性が蓮華の其々の花弁となって象徴され全体として蓮台を完成して全き霊魂を表現している、或いは、宗教的には其のように観相されるのかもしれません。霊視的な認識能力を獲得した人間は、異相の世界から受け取る印象が、幾つかの点で、物理的・感覚的な世界から受け取る印象と相似していると述べています。霊視的能力で観る異相の世界から受け取る印象を、暖冷の知覚、音響或いは言葉の知覚、光や色の作用として表現するのは「直覚霊知」を獲得した人間には、それが真実の体験だからです。
2014年08月20日
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「直覚霊知」219瞑想実践の七十四(秘学論理) 「直覚霊知」を手に入れようとする「行」する中で、瞑想そのものによる満足感や自己が感覚世界を離れた霊性を帯びた世界と糾(あざな)われていること以外に、別の成果を期待する者が現れるのは人間性に基づくのかも知れませんが、決して願わしいものとは言えません。霊的成長によって「行」する人間は一般的普通人と云われる人間よりは異相の力を手に入れることに成りますが、得てして其のことのみを強調する「行」する者が、所謂奇跡的な行為行動で他者を魅せつけさせることがありますが、此れは決して願わしいどころか、当人の高次の段階への飛躍への妨げになります。何故なら、其のような成果は、本来生じるべき成果の、極々僅かな部分点に過ぎないからです。此のことが「直覚霊知」を手に入れようとする「行」する人間の本来性を奪い去ります。其の時点にて「直覚霊知」を手に入れようとして「行」した筈の人間が、自己の内精神にまで障りが拡がり「霊魂」獲得を信じ込ませます。其れは信じ込むの言葉通り幻覚・幻影の類であることが屡々であることは史上繰り返し現出しては滅却に追い込まれた事変や事件を見れば明らかでしょう。
2014年08月19日
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「直覚霊知」218瞑想実践の七十三(秘学論理) 自己に相応しい適正な「行」が正道なものかどうかは、成功の結果の認識如何に関わっているばかりでなく、瞑想そのものによる満足感も関わっています。「直覚霊知」を手に入れようとする人間が正しき対処を心得ているのなら、瞑想其のものによる満足感が、「行」の正しさを明らかにしています。成功だけが初めて正道なものかどうかを明らかにするわけではないし、内精神にの深奥に直覚霊知」を求める霊的真理を探求する正しい瞑想は認識を持った満足感を齎す筈です。成功の結果如何が「行」の正しさを明らかにするわけではないのです。つまり、自分は今正しい方向に導いてくれると思うことを行なっているとの認識を、自己の体験に詳細な仕方で注意を向けるときには認識を持った満足感を何時でもつことが可能です。一方、同様に「行」を行っても、其の体験に注意を向けない人間は、考え事に没頭している歩行者が、道の脇に花咲いてる草木に気付かないように認識を持った満足感を手にすることはないのです。
2014年08月18日
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「直覚霊知」217瞑想実践の七十二(秘学論理) 自己が霊的存在を感じ、魂的に働いていると確信するために修行を行う人間は、何かを「見る」ために「行」するのではなく、唯只管に何かを「見い出す」ことを目的にします。それだけに十分な成果、自己が感覚世界を離れた霊性を帯びた世界と糾(あざな)われていることに気が付きます。そのためには、事前の心構えは非常に重要なものになります。自己に相応しい適正な「行」、それも忍耐をもって気を永くに。しかも何時でも「見い出す」何かを受け入れる準備を疎かにしないことが大切です。更には多分に永い間、暗躍の中を手探りで進まねばならないことを徹底して認識をすることは「直覚霊知」を手に入れることの基本になります。此の心構えを日頃から意識化して自己に言い聞かせれば、霊魂の囁きが「全き聲」となり、「異相の世界の聲」で自己の内精神を満たすに違いありません。それ故に智ある若年若女が短期に成果を求めること故に、自称「霊能者」の説く言葉に、自らの内精神の深層の声を求めないで短略的に成果を求めた時には、其の「思い込みの世界」へと引きずり込まれるおそれのあることはことは人類史が示す通りで慚愧に堪えなません。
2014年08月17日
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「直覚霊知」216瞑想実践の七十一(秘学論理) 瞑想に入っている時に、「行」を何度か永く体験経過した人間は、自己が霊的存在を感じ、魂的に働いていると確信するに至ります。しかし「見たい」と思うものについて、予め、あれこれ先入観を持って考えている人間は、何も観えない時には、自己が霊的存在を感じ、魂的に働いているとは到底思えないので、実際には「見える」ことより遥かに重要なものを無価値なものとして見逃しています。「行体験」では、普段の外感覚くの世界での体験とは「異相」の体験に、繊細な注意を向けることが大切です。其のようにすれば、いい加減な態度で、自己の内精神に働き掛けたりはしないであろうし、まったく感覚世界の中では味わうことの出来ない霊魂だからこそ味わえる、異相の世界が開けていること実感として精神の深奥で捉えることになるでしょう。物質的で外感覚的な世界が人間の身体に働き掛けるように、異相の世界が貴女・貴方の霊性に語り掛ける。其の事に心を閉ざしさえしなければ、隠された高次の段階の世界に糾(あざな)います。「何も知覚できない」と言う人間は、おおよそ此のように知覚する筈だという思い込みが激しく障りとなって、思い込み通りのものを観相することが出来ないと「見えない」と断言しがちなのです。
2014年08月16日
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「直覚霊知」215瞑想実践の七十(秘学論理) ゴータマ・シッダッタの其の仏教哲学を更に高めた龍樹(ナーガールジュナ)は、西洋社会では虚無主義と解されているきらいも無きにしも非ずですが、布教的に便宜として印度古宗教に掲げられた「神」的存在を受け入れた形を持つ正覚者釈尊である仏陀を崇めて、限りある生命を持つものとしての「神」、言い換えると「神的存在」と呼称されても、別段に不都合のない存在だけは認めています。しかし、その教唆するところは「神」などは人間が創作したものでしかなく、不朽不滅のものでないことを強調します。此の考えを高次に高めて彼独自の「空観」を唱えます。しかし、此の空観における「空」こそが、絶対不変的であり絶対的普遍的存在、人間の有無の認識を超えた存在であり、其のものを意識することをさえ不可能とあるとしています。其処に隠された真理は「真実存在する神」は人格・神格どころか一切の自意識など不要の完全体であり、其のものの全てが絶対性を持ち、俗に言われる様な、更には人間が問えるような認識・自覚・精神・意思を持ち合わせてはいないと論理的に説き、不朽不滅をさえ離れた存在を「縁起」として表現、スピノザ的には「自己意識さえ持ち合わせる必要のない神」を連想させる教えで締め括ります。
2014年08月14日
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「直覚霊知」214瞑想実践の六十九(秘学論理) ゴータマ・シッダッタ(Siddhartha in Gautama)の開悟としての「覚り」には、或る一つの限界が隠されていますシッダッタの思想には現代科学が解き明かしたとされる原初宇宙の創世物語である「ビッグバン思想」が欠如していることです。其処には「始まり乃至終わりもない存在」若しくは「無から有の創造」の驚くべき現代物理学に裏付けされた理論は語られていません。しかし、其の事によってシッダッタの哲学を覆す程の根拠あるとは認めません。何故なら、ゴータマ・シッダッタの「覚り」とは物理学としての世界に根拠を求めているものではなく、生命其のものの根拠及び霊性を帯びる精神に解答を与えているからです。更には、現代物理学は哲学及び霊学から観れば、あまりにも歴史が浅く、万人が認める証を完璧には明かしているとは今現在の時点では言えなく、将来の人間に託されている課題となっています。人気ブログランキングへ
2014年08月14日
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「直覚霊知」213瞑想実践の六十八(秘学論理) ゴータマ・シッダッタ(Siddhartha in Gautama)の経緯を見ても分かるように、本来の開悟としての「覚り」は将に天上天下、世界の総べてが語る声に霊魂をもって世界の理の根本的な真理を知ることに在るのが本然でしょう。しかし、シッダッタにしても最初の「覚り」は「言葉を持たない」言語をもって俗人には語れない疑問符な要素、即ち「言葉に出来ない?の原理」としか捉えきれなかった筈です。世界創世を「神」とは捉えない「ブッダ」に取っては「始めに言葉ありき」ではないのですから理の当然です。また、自己の霊魂の語る言葉で語ることが出来ない真理を言語に翻訳するには、更なる修養を必要としました。それ故、自己の表層意識にまで「覚り」を定着させるためには、日々の瞑想による繰り返させる「覚り」を必要とします。「覚り」は高次の世界からの「閃光」であり「定着」させるには自己の内精神の最初の「覚り」以降は、今迄とは逆に、世界理法に語りかけて言語でもって其の認識を繰り返して定着させることが重要となります。
2014年08月13日
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「直覚霊知」212瞑想実践の六十七(秘学論理) 理性主義者カントの規則正しい生活態度ではないが、「直覚霊知」の「行」においても霊性から初めて出現した内精神の内感覚器官を相応しく形成させるためには、規則正しい生活態度の程度では未だ不充分だといえます。其れ等の形成には更なる忍耐と持続力が求められるからです。何故なら、其の獲得した内的器官をもって高次の隠されているとされる高次の世界を知覚というよりは認識を手に入れるには、霊性に恵まれた史上の先達を除いて、我々には高次の世界を認識するのに、長く、屡々非常に永い時も覚悟する必要に迫られます。しかし、其の事が可能になった瞬間には「開悟」と呼ばれる「直覚霊知」の状態が顕れます。其の場面では、もはや「行」による瞑想段階に居るのではなく、其れまでの相応しい「行」によって内精神の深層にまで浄化がされている霊魂を獲得していることを確信することになります。人気ブログランキングへ
2014年08月12日
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「直覚霊知」211瞑想実践の六十六(秘学論理) 霊的・魂的な知覚で以って初めて捉えられるべきものを、人間が単純平均化された思考で感覚的に捕らえてみせようとすると誤謬が待ち構えます。此処で敢えて言うのは、感覚的にしか受け取れない人間が、超感覚を保持していると自称する人間に、いとも簡単に其のことを信奉することが多々見受けられるからです。外観化された環境しか認識しない人間ほど、自己の体験をいとも簡単に信じやすく、「霊能者」と呼称する人間が語る言葉を、異世界の窓を開いて語っているような錯覚に陥りやすいものです。一定の瞑想法を経ないで霊性を獲得したとする「人間」が語るその言葉は、錯誤から発症発展しているかもしれないこともあり、感覚的にしか受け取れない人間が、自らの修養で正誤を確認することは、理法を踏み外さない心得としては大切なことでしょう。
2014年08月11日
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「直覚霊知」210瞑想実践の六十五(秘学論理) 人間が新たに獲得した能動的な働きを作用させる霊的・魂的な知覚を持つといえる「観察器官」が、外感覚的で受動的な知覚において現実が模写或いは描写の如きものとは到底考えられませんが、此の器官は、まさに内感覚の深層に潜む、内精神の活動が見せる一定の形態として存在します。其れは元来の人間に萌芽としては備わってはいるものの、対応する霊的存在としての「内精神」の活動がなければ、其の存在が隠されて非活動の状態にあり、まさに「秘れた存在」の如き様相を帯びています。即ち、其の実相を捉えるには自己の内精神に「霊魂」の存在を実相しなければなりません。史的には其のものを「エーテル体(生命の靄)」と呼称されるきらいがありました。
2014年08月10日
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「直覚霊知」209瞑想実践の六十四(秘学論理) 人間の表層機関とも云える感覚的・身体的な感覚器官とは異なり、此の新しい観察眼である霊的・魂的な器官は、外感覚器官が受動的に働くのに対して能動的な仕方で働きます。例えば眼や耳は受動的に、言い換えると光や音を受け手としたものを自らに作用させますが、此の霊的・魂的な知覚器官は絶えず自らを働かせて知覚させ、対象なるものを意志的に活動させて掴み取る能動的な働きをします。其れは対応する諸対象と結びつく行為でもあり、其の対象の中に生きることにもなります。此の形成される過程にある其々の器官を、仏教哲学では蓮華のの花弁に喩えています。瞑想による修養が対応する諸対象と結びつく行為過程にある其々の器官の形態を「ホワイトロータス」ととらえたからでしょう。其れが意味する処は「正覚者」の霊性が世界内存在の「理法」なるものと一体化して「霊性」が拡張して「偏在」する形態を主張しているようにも観想することも強ち(あながち)誤ってはいないでしょう。
2014年08月09日
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「直覚霊知」208瞑想実践の六十三(秘学論理) 自己が内精神の声を聴くために、「球根から伸びる一輪の薔薇」や「虚空に浮かぶ真っ白な気高き蓮華」等の象徴的な形象を以って、表層感覚を超えて精神の内層に沈潜する所謂(いわゆる)「瞑想」の究極の目標は自己の内精神の霊性の認識を出来うる表層の学問だけでは捉えきれない器官の創造だともいえるでしょう。此の新しい観察眼は、今迄には想像さえすることが出来なかった「隠されて観えなかった世界」を伝える架け橋ともなります。其の時には、自分が過去とは異相の新世界を展望し其処で新しい自分の自我とも呼べるものを獲得したことを知ります。詰まるところは、大宇宙の発生と其の創造の原理を科学的にではなく、霊的・魂的な器官が大いに活躍する程の働きを示すならば、大宇宙の発生と其の創造の原理を霊的・魂的な器官を通して観相することさえ可能になる機会を得ることの可能性が拡がります。
2014年08月07日
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「直覚霊知」207瞑想実践の六十二(秘学論理) 感覚に囚われない思考への経過を普段から意識して、一日の何ほどかを過ごすことは「直角霊知」への確かで真っ当な「道」であると言えましょう。ところが、此れとは別の多くの人間にとっては、より厳格で困難な「道」を主張する思想家も多々おられます。其れ等は多少の差はあっても、論理学や哲学であれ「宗教」の衣を帯びています。何方も思考が物質的・感覚的外界の諸印象だけではなく、自分自らの思考に没頭しているのは共通しますが、其の思考作業を行う「基(もとい)」が相違しており、純粋思考が生きた本性として働いていると云うよりは付与された思考の面の影響が大きくなりがちで、自らの中でのみ働く純粋思考が世界と人生の謎を解明するという積極性を欠いて、逆に感覚的な思考を超えるのに敢えて「苦行」の道へ歩ませることもあります。しかし、何れの「道」にしても、其れ等の段階を経る人間は、更なる高次の段階への準備は整っているとは言えましょう。
2014年08月07日
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「直覚霊知」206瞑想実践の六十一(秘学論理) 自分が内面生活において全く平静で寂たる境地にあり、自らの表層意識で以って、思考内容を故意に結び付けることを一切しない事柄と、霊魂論を掲げた「先験能力者」の思想からの情報を基にして取り出していることは決して矛盾している訳ではありません。人間が「先験能力者」の思想からの情報に没頭している時には、其の思考は貴方の内精神に、既に存在自体として成り立っています。しかも其れを貴方が、改めて絶えず追体験して新たに創造することを、思考内容を故意に結び付けることを一切しないで体験しているのです。其のことが意味するのは、偉大な形而上の思想家である先達が貴方が自己の内精神から呼び出すべきものを、既に正当に捉えて見せているという事実です。しかし、一方、聴き手や読み手に対して、外感覚的な事実のみを語る人間は、感覚世界の語る表層のみに注意を促しています。
2014年08月06日
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「直覚霊知」205瞑想実践の六十(秘学論理) 思考作用と其の内容の働き方には表裏があります。思考内容を精神に己が意志で勝手に結び付ける働き掛けと、自己の内面世界において外的意志を鎮静させて、外的な表面的な思考作用を沈黙させる時に体験出来得る思考内容です。外的な表面的な思考作用を沈黙させるとは、自分が内面生活において全く平静で寂たる境地にあり、自らの表層意識で以って、思考内容を故意に結び付けることを一切しないし、今現在、思考作用を伴った内容に「帰依」するとしたときの思考作用と其の内容の働き方です。例えば、蓮華の花を見、其の香しい匂いを嗅ぐときに、其の蓮華が世界存在の全てを知るものの存在を主張している聲に耳を傾けるのです。
2014年08月04日
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「直覚霊知」204瞑想実践の五十九(秘学論理) 世界内存在のうち、自己の外世界である感覚世界を中心に生きる観察者が見るものと、其のような感覚に捕らわれない思考を語る人間との間には、感じ方一つをとっても大きな隔たりがあります。外世界である感覚世界を中心に生きる観察者は、一輪の薔薇の花を写真の好事家が、レンズを通して見るように外から観察しています。一方、芸術家と云われるカメラマン氏や、外観的感覚世界だけには囚われない思考に没頭する人間は、対象が自己の中で本質的に語るものを、自己の内精神に受け止め、其れを感じ、自分と其の対象を一体化する能力が備わっています。意識的にも無意識的にも対象から受ける外的刺激だけを其の対象の本質と見る人間は、或る対象の本質的な存在が自己と結びつくことによって、自らを私に開示しているとは認識出来ないでしょう。その為には 元来は、中国古典の「准南子(えなんじ)」に由来し、唐時代に詠まれた詩を豊臣政権時代、淀君に疎まれ解任された片桐且元が「桐一葉落ちて天下の秋を知る」といったような内的体験を持たなければ理解し難いことになります。
2014年08月04日
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「直覚霊知」203瞑想実践の五十八(秘学論理) 外感覚的世界を「活きている」人間が、一輪の薔薇の花を観察して「私の身体の外なる空間世界に、一輪の薔薇がある。其れは私とは全く無縁に存在していない。何故なら、其の花が、色や香りを持って何事かの影響を齎している。」対して、外感覚的世界を囚われない世界に「生きている」人間は「自分の中で、思考内容を思考作用をもって更なる思考内容に結びつける本源的な存在が、自己に語りかけてくる。其の存在こそが自分の思考の生命を生み出している。」と捉えます。其のことは個人個人の性格の相違なのではなく自己の思考の在処を何処に求めていいるのかの相違から来ています。
2014年08月03日
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「直覚霊知」202瞑想実践の五十七(秘学論理) 史上に記される前後の人類の思考は、、内的に充分な集中力を発揮すればという条件付きではあるが、世間一般に思い込まれている以上の能力をもって物事を理解します。なかでも、其の内に隠された世界である超感覚的世界をも理解することが可能です。何故なら、思考作用と其の内容の中に、世界理法に関わる内的本性が備わっているからと確信するからです。通常の生活で其の関連に気付かされないのは、意識を感覚世界のみに結び付け、思索の世界を拡げようとしないからです。其れ故、一般の世間では、世界の理法が伝えている事柄を理解出来ないと思いがちです。しかし、此の事柄は西田幾太郎が別段の宗教的な道での「行」をしなくとも、世界内存在の理法及び其れをも超える原理を探求した事をもって分かるように、信仰を前提とするものではなく、自己の全ての精神の能力を持っての意志行動を働かせても理解可能になる筈なのです。
2014年08月02日
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