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「直覚霊知」162瞑想実践の十八(秘学論理) 「行」を通して自らの内精神に沈潜するに従って、意識の中に先ず象徴として創り上げた形象が現実味のある形姿から、徐々に霊性を帯びた抽象へと変化していきます。其れに伴い自分の我性が変質して外感覚世界にて営んでいた自我とは異質なものとなり、もはや、自我というよりは夢我、更には無我とも呼べる段階にまで霊性が高められて、真の霊魂に向かい合うことになります。しかし其のためには、意識の中に先ず最初に現出した形象を確保し、其れに注目し続けるに適う内的精神力の強靭さが要求されます。此の最初に形成される象徴的な形姿は、其の内的エネルギーが不充分である場合は、感覚的な外界やその記憶像の障害を受けて、通常はどんなに排除しようとしても消えぬほどの影響度を与えています。しかも、其の影響力は意識して対応出来る障害であるばかりでなく、意識化されない場合にも障害となり得ます。但し、シッダルタ他数々の菩薩と呼称された人間は此の難局を克服しているのです。
2014年03月31日
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2014年03月30日
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「直覚霊知」161瞑想実践の十七(秘学論理) 形象を消し去ったところに真の霊性が立ち現れますが、自己知覚から霊的世界総ての全貌を観相するためには、内精神は霊魂存在を認識して、更なる仕方で充分な能力を獲得する必要に迫られます。物質世界である外感覚的世界の刺激を基にして創り上げた形象である象徴像に沈潜するだけでも、非常に多大な内的精神能力を必要とされたのですが、霊的世界総ての全貌を観相するためには更なる努力が必要です。そのためには、もはや象徴像や形象を離れなければ其れ以上のの段階に昇ることは有り得ません。形象を確保する「行」を経て、自己を取り巻く外感覚から受けるどの様な刺激からも一切全てにおいて、内精神から拭い去り、其の作用から離れなければ次の段階が見えては来ないのです。
2014年03月29日
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どちらも捕食している気なんだろうネ。人気ブログランキングへ
2014年03月28日
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「直覚霊知」160瞑想実践の十六(秘学論理) 直覚霊知への発展的段階のためには、形象其のものに囚われていては、高みへの機会を失わしめる障害ともなるとは云え、其の一群の体験は覚醒意識の中で、例外的に排除して良いものではない。其の体験こそが自己を自己とする内精神が捕らえた霊性の発現だからです。瞑想等々の「行」する者が持ち得た形象の中に、転生を通して存在し続ける自らの根本存在を認めるときに、転生の予感であったものが現実の体験へと昇華されるからです。印度に育まれた大乗の教えでは、転生を繰り返していた釈尊が最終的にはシッダールタとして世に現れ、因縁を断ち切り生前涅槃に到達して、世人に輪廻転生を解脱することを説いたとされていますが、釈尊自身の輪廻転生は否定していない。其れ故に、瞑想等々の「行者」が、内精神に浮かべた形象の中に、転生を通して存在し続ける自らの根本存在を認識する時には、転生の予感が現実の体験へと昇華されるのです。其の結果に置いて、自己の内精神が描いた形象の影響に縛られていては、転生の予感が現実の体験へと昇華されることは在り得ません。形象の意識の内部で、内精神が完全に自由であり、其れを消し去ったところに、真の霊性が立ち現れます。形象を消し去ったところには別のものが出現しますが、此れこそが霊魂存在と呼ばれるものです。そして自己知覚から霊的世界総ての全貌が観相されることとなるのです。人気ブログランキングへ
2014年03月26日
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人間より遥か昔から繰り返されてきたであろう両者の戦い?人気ブログランキングへ
2014年03月26日
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「直覚霊知」159瞑想実践の十五(秘学論理) 瞑想等々の「行」することによる内精神の強化に利用される形象から、其れに束縛されることなく霊的意識は完全に自由で、其のものに囚われていては直覚霊知への先が見えてこない。形象其のものに囚われていては、折角霊性段階の高みへとの機会を失わしめる障害ともなります。それは自己の霊性領域の中で、恰も外感覚的な世界である物質界での眼が対象に釘付けにされて、目をそらすことが出来なく其れ以上の余裕もなく金縛りになった状況を産み出します。
2014年03月25日
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親元離れはいけないこと!其れにしても百獣の王の女連の怖いこと々。人気ブログランキングへ
2014年03月24日
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「直覚霊知」158瞑想実践の十三(秘学論理) もし仮に、自己の内的精神が描く形象への沈潜を、仮に「行」することなしに、外感覚的で知覚的な世界から人間が切り離されてしまう状況に陥ったら、其の人間は意識を失い「空」どころではなく意識的「無」の中に、沈んでしまうでしょう。勿論ではあるが、人は魂的で霊的な本性である霊魂を、沈潜を修行する以前にも当然に所有はしています。しかし、其の本性は霊魂を直覚するすべを未だ所有せず、見るための眼や聴くための耳を持たない身体状態と同様の在り方に縛られています。それを自己の内的精神が描く形象への沈潜への「行」を通して、それ迄の人生生活の霊的なものを本性として、組織化した内的精神の感覚器官としての能力を獲得します。其れ故、「行」を通した直覚霊知の最初の体験は自己の内的な深層の精神を知覚する能力を手に入れることから始まります。
2014年03月23日
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2014年03月21日
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「直覚霊知」157瞑想実践の十二(秘学論理) 内的精神は「行」をする事によって、自己の内精神を沈潜させて其の本性である霊魂を直接に対面直覚させますが、一方の日常生活の中での物質世界からの外感覚的な刺激を受けた覚醒意識にある霊性は、本来、自らに備わった能力を、専ら精神が身体における肉体感覚の助けを借りて意識を働かせている関係から類推して、内的精神の本性である霊魂は自らを体験するのではなく、云わば霊性をもって内精神に沈潜して鏡面に映る自分自身として存在しているに過ぎません。それは自己の感覚的知覚並びに知性を働かせる脳組織を離れた自由精神とも呼べる意識の状態、感覚的な知覚や形象が働かない時でも霊性を働かせて得る状態です。其れは私である自分自身の傍らにいる存在として自分を感じていると云うことが解かる状況を示しています。其のことが示すのは、自己の霊的直感を「行」をする事によって、霊的本性を観想することが出来得たことによる、自分自身を、身体的な感覚と知性から引き上げられた更なる新しい自分自身の証なのです。
2014年03月20日
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水族館の人気者の御対面シーン、Killer-Wheelの名は伊達ではない。人気ブログランキングへ
2014年03月20日
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「直覚霊知」156瞑想実践の十一(秘学論理) 瞑想の経過は人間の睡眠状態と比較することによって一層明らかとなります。瞑想の経過と人間の睡眠状態の相似と違いを認識することが「行」をするうえでは非常に重要なのです。瞑想は睡眠とは、よく似ているとも言えるし、将亦、全くの正反対の状態にあるとも云えます。瞑想は表層から眺めれば一種の睡眠とも想われますが、ところが内なる相は日常の覚醒意識より、格段高次の覚醒状態を保っています。瞑想が求める相は人間が日常生活に於ける認識や外感覚的なものの認識に用いられる精神作用よりも、遥かに深く強い力を内精神から引き出すことに精神を集中して、然るべき自己の形象に沈潜しています。其れ故、内精神の霊性は一層活発に働きます。霊性は熟睡状態の人間が意識できないのと違って、熟睡中のように意識朦朧なのではなく、自己が此れまで意識し体験しなかった新しい世界を体験します。其の際の内精神の状態は、身体の拘束から離れていることでは睡眠と比肩すことも出来ようが、実相は通常の覚醒意識よりも更なる覚醒意識が高まった段階の状態に入っています。
2014年03月19日
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2014年03月18日
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「直覚霊知」155瞑想実践の十(秘学論理) 人間夫々に適合した「行」の実践過程に於いて、外感覚的で物質的外界の形姿を離れた、自己が内精神に象徴的に描いた形象に沈潜することによって自分の中の霊魂が呼び起こされるので、此の高次の認識世界は、一種の霊視的認識であり霊視的世界と呼称されることも許されるでしょう。この時の霊視的な内容は、外感覚的で物質的なものの知覚内容が現実性を持つのとは異なる意味での現実性を持っています。霊視的認識であり霊視的世界と呼称される現実にとって重要なのは、象徴的形姿なのではなく、其のことから産み出され形成される霊的能力の開発進捗なのです。此の件に関しては、当然に自ら象徴として創り出してものは、恐らくは夢幻的で恣意的な想像力の賜物であり、其れ故、根拠が疑わしいものであり、結果的には信を置くことなど出来得ないと非難が出るのが目に見えます。けれども、規則的に繰り返される霊的直感知を得るために築き上げられる形象は、敢えて、外界からの一切の関与を排除した、感覚的な形象を消滅させる働き掛けが霊性を認識するということが解れば納得出来る筈です。
2014年03月17日
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2014年03月16日
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「直覚霊知」154瞑想実践の九(秘学論理) 人間は夫々、民族的には同系であっても、国も違えば地域環境の違いがあり、更には本性は様々です。ですから、瞑想にかぎらず直覚霊知を探求する仕方は自由なのですが、自己にとっての修行の手段を見い出すことが非常に大切で必要となります。加えて自己の内精神に沈潜すればする程、其れが慎重に平静に行われれば効果も大きいには違いませんが、過度の沈潜は自己の忘却という危険が伴います。自己の内的な心の流れを忘れてはならないでしょう。史上稀な二人の神聖を除いて、人間は今此処で覚ったと想えても、時の流れとともに其のものは影を潜めます。直覚霊知を得るために必要不可欠なのは、長い間の繰り返される「行」への持続と忍耐です。持続と忍耐を持って惑わずに「行」に励むのでなければ、一旦覚ったと想えたことも霊性が獲得した直感を維持出来ないことは肝に銘じなければならないのは先人の行動を観想すれば理解出来得るでしょう。この「行」で知覚される事柄は、感覚では把握できない、人間の内的な霊性の本性です。
2014年03月15日
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「直覚霊知」153瞑想実践の八(秘学論理) 自己の内精神を内的沈潜の瞑想による手段には様々なものがありますが、何れの場合にも霊的な内精神が、外感覚的な知覚からは切り離されて、身体的な感覚器官からの印象は意味を失い、通常生活には見られない微睡みの齎す能力が浮かび上がって来ることを目標としています。ところが屡々、専ら感情に沈潜することが、危険を伴うことですが直覚知に有効に働きます。例えば、喜びを促す外的刺激が存在する時、心の善良さを目のあたりにする人間は、自己の内精神が健全であるかぎりにおいて、自分も其の行為に満足と喜びを覚えます。そこで、内精神は人間が本性的に行う善行動とは、自己の利害から出たものではなく、相手の利害に従って行う行為だと直覚します。そこから、内的な霊知が、喜びを取り巻く周囲の出来事からは離れた、出来事一般の理法の一片を観ます。それは自己の霊魂が理念について喜びを観ずる瞬間です。感化世界における事象に対する喜びではなく自己の気付かされた理念其のものへの喜びです。瞑想から得られる認識は、通常の思考活動よりも事物の本質の中に深く入り込むことを可能にします。其れ故、時には感情への沈潜が直覚霊知への導きになることもあります。
2014年03月14日
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「直覚霊知」152瞑想実践の七(秘学論理) 我々は両神聖とは霊的には異性的だとも云え得るのですが、それでも、瞑想として感情の中に沈潜することは、時には直覚知を得るのに有効に働くことがあります。例えば、通常生活の中で近親からの不当な外制圧的な刺激受ける時、自己は其の理非の不情さに噴飯することもあるでしょう。しかし、其のことに反応・感応することは自分の情緒のみならず肉体に悪作用を及ぼします。人間夫々の霊性には本体的な善悪の霊性があり、生前からの因性に依って組み込まれています。其の最も顕著な顕れは他人を顧みないことにあります。遺産等の金銭面に纏わることに関しては、其のことが顕著に現れ、当事者の身体の不調や精神の困惑を引き起こします。其の解答には、心の善良さの中から行う行為とは、自分自身の利害ではなく、相手の行為の利害は相手の存在的霊性にいたらぬことがある故、其の行為は当人に帰するのが世界の理法だと認識することです。其のように認識すれば自己の精神に安寧を齎します。直覚霊知を獲得するのに最も危険なのが、自己を取り巻く人間の性(さが)に外感覚的に反応し、内精神の霊性を損傷させることなのです。
2014年03月13日
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2014年03月12日
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「直覚霊知」151瞑想実践の六(秘学論理) 西アジアの草木さえ稀な荒れ野に生を受けた境遇的には地位を得ていなかった人物、片方はユーラシアの南方大陸の水木山林・河川草木に恵まれ王族という特権階級に生を受けながら其れを放棄するに到る人物の瞑想における心の中の象徴像には違いこそあれ、其の瞑想によって内精神に深く沈潜すればする程、自己の霊魂の本来性を目覚めたことは、我々現代人が幾ら物理的で合理的とはいえ、承認せざるをえないでしょう。両神聖共に、自己の霊魂への探求に描く手段としての対象こそ違いが見えるようですが、自己の内精神を内的沈潜の瞑想により、身体的な感覚器官を印象を知覚から意味を失わせていた筈です。云わば自己を覚醒と睡眠とを離れた微睡んでいる状態に置いて、内的な能力が有効に霊性を促すことで直感的な知覚を持って、隠されているとされる世界の理法に接触したのでしょう。
2014年03月11日
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「直覚霊知」150瞑想実践の五(秘学論理) 此処に史上に稀な世界の理法の絶対精神の思惟の延長とも呼べる至高の存在が地球上に生誕します、永い人類の史上から捉えれば保々年代が相前後して誕生現出します。その神聖の一方は西アジアの草木さえ稀な荒れ野に生を受けた境遇的には地位を得ていなかった人物、片方はユーラシアの南方大陸の水木山林・河川草木に恵まれ王族という特権階級に生を受けながら其れを放棄するに到る人物が光霊に輝きます。お互い素養的には共通のものを感じ取れますが、世界の理法覚醒の認識は天地の差があります。一方の西アジアの神聖は夜には水の音、草木の囁きなど存在しないが、天には無数の星の輝が自己の直覚知に訴えかけます。其れはまさに宇宙そのものの声を以って直接に其の霊魂に呼びかけるのです。かたや、ユーラシアの南方大陸の神聖は深夜には繁茂する草木の声、水の流れの中で瞑想することにより、地球の自然の営みから山川草木悉皆成仏と覚り自己の霊性を高次の段階へと高めました。しかし此れは方法的には異なっているようには見えても、世界の理法が人間に示している直覚霊知の獲得と其の目的意識は同様のものがあります。両者共に、自己の内精神に巣食う悪霊に悩まされ、一ヶ月以上の苦行で其れを排撃し、自己の霊魂を探求し世界の理法を極めたことは共通します。瞑想は夫々の神聖の霊魂に答えを導き出したのです。人気ブログランキングへ
2014年03月10日
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「直覚霊知」149瞑想実践の四(秘学論理) 日本では沙羅双樹とされる白椿に代表される草木が、自然世界の理法、即ち、絶対意思の創造意志に沿って生きて成長していることは疑いを得ないにしても、実相は其のことを認識する器官を持ち得ていません。但し、人間が其の実相に感応した時には、霊的存在を自覚する人間には其の相を通して自己の霊魂が草木に感応して世界の理法の絶対精神が同期します。此の事が史上に現出する神の子や預言者及び正覚者と呼称される人間を産み出しました。其れ等の人物にとっては、草木の自然科学の表象内容が正しいとか間違っているとかは些少なことで、問題となるのは、一切の物質的な理論の考察を離れて、その自己の精神の直感的に獲得される、植物と人間とを巡る思考内容に自己の体内に流れる血液を、草木の樹液の流れに霊性を同期させていることが重要です。其れ等の人物は、自然科学に基づく常識の範疇を離れて、一切の理論的な考察を離れ衝動や慾望及び情熱を滅した処の、植物と人間との感応を自己の霊魂の直覚知を以って心の中に展開することが出来得たのです。勿論のこと、物質的外界の諸事象を理論的に十全に知っていることは前提にありますが、一つの事象を単に科学的根拠のみに許されたものとしてではなく、自己の霊性を以って一つの事象を霊性の描く象徴像でもって覚るのは霊魂の感受性に恵まれた者のみの特権と見做しても構わないのかもしれないとも言えます。ですが、其の可能性だけは総ての人間に賦与されています。
2014年03月09日
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決定的瞬間を英語に訳すと Decisive です。 人気ブログランキングへ
2014年03月07日
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「直覚霊知」148瞑想実践の三(秘学論理) 今の自己の体内に流れる自己の血液は、白椿の衝動や慾望及び情熱を取り去った形姿と全く同じであるとの想いを、人間の情感で捉えようとした時には、其れは草木の純粋さや情熱に惑わされない在り方が理解できません。其のことを自己の瞑想でもって衝動や情熱及び慾望を取り去った在り方で持って、其の成長する植物に純粋に情熱に煩わされることなく、世界自然の理法に従っているものを観想する時には、自己の悟性でもって、人間の完全性が如何に危ういものかが観想できるでしょう。但し、人間が草木に其のことを以って劣っているからでなく、其の在り方を考え自己の霊性に取り込む高次の精神が存在することを、浄福感をもって観想することにになります。即ち、自己より低次の草木世界自然の理法の在り方を借りて、衝動や慾望及び情熱が、絶対意思存在から見れば、ある種、完全性を犠牲にさせているわけです。此のことは、旧約聖書の楽園追放を考察すれば読み解けることです。其れ故、自然科学及び哲学並びに宗教は目的とするものは人間存在の意義を究明することには異同はありません。但し、其の究明と証明には格段の開きがあることもゆがめません状況は現在でも變化していませんが。何れにしろ人間が世界の理法を請求・究明する時には草木の形姿を浮かべることが多いに役立つ修養方法だと言えましょう。
2014年03月07日
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「直覚霊知」147瞑想実践の二(秘学論理) 人間が段階を踏んで如何なる高みへと進歩を遂げようと願う人は、自己の精神生活にに於いては勿論のこと、普段は気付かない隠された霊性の高次の能力である霊覚意識を使って、外感覚的な世界、即ち、物質世界からの影響によって惹き起こされる衝動や慾望及び情熱の中の低次の部分を削ぎ落とし浄化し、将亦、純化し得るかを禅道や瞑想であれ「行」によろ霊覚意識で観想して、其の生まれ変わった形象を想い浮かべます。そうすれば、自己の体内に流れる衝動や慾望及び情熱に関与し表現している真っ赤な血液を実相することが可能となります。其のために白椿を自己の心像に形姿を浮かばせて語りかけます。此の白椿の花弁の中で、本来は緑色の樹液が白く変化している。白椿の白い花弁は、その緑の葉と同様に、純粋に情熱に煩わされることなく、世界自然の理法に従っている。白椿の花弁の白さは、人間の浄化された衝動や慾望及び情熱の現れとしての真っ赤な血液を象徴する。今の自己の体内に流れる自己の血液は、白椿の衝動や慾望及び情熱を取り去った形姿と全く同じであると確信します。
2014年03月06日
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「直覚霊知」146瞑想実践の一(秘学論理) 純粋に世界自然の法則に従って、清らかな太陽光線に向かって花咲かせる植物を内的観想して、其の純粋な慾望と情熱に支配されない成長の経緯を人間内奥の霊性が形象したとき、其の幹及び枝の隅々に亘って樹液が貫いて流れる音に感応します。其の樹液は純粋な慾望と情熱に支配されない世界の理法に従った成長の表現でもあります。人間精神が其れを禅道や瞑想であれ霊覚意識で観想して自己の心の思いである精神を浮上させると、自分の身体に流れる真っ赤な血液がどの様に流れているか、将亦、其の赤い血液が自己の体内を巡って、自分の衝動や慾望及び情熱に関与しているのかを直感的な内心知でもって捉えます。
2014年03月05日
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「直覚霊知」145象徴的形象への沈潜(秘学論理) 人間個々の精神が象徴的形象への沈潜を自らの精神世界の中に表象するためには、たとえば、日本で云うところの沙羅双樹(実際は釈尊の印度の沙羅双樹ではなく、白椿である)が、種から芽吹いて成長し、どの様に大地に根を張り、幹を太らせ枝を広げて葉を次々と拡げて、そこに蕾を蓄え花を開かせる経過を心の思いである心眼で描きます。其の傍らにはシッダールタが瞑想している姿を心象に刻印します。すると、シッダールタがいかに草木にすぎない沙羅双樹に比肩して、より完全な本性と能力を持っているのかが、生き活きと浮かび上がってきます。何故なら、人間は其の意志のままに、自由に移動可能ですが、植物である沙羅双樹には移動することが叶わず、大地に拘束されているからです。そこで内的直感がこう囁くはずです。成る程、人間が植物よりも完全性に恵まれているかもしれないが、人間には慾望と情熱に支配されている。其れ故、理性を離れ迷走による過ちを繰り返す。其のことを人間が考察した時には、慾望と情熱に支配されていない、純粋に世界自然の法則に従って、清らかな太陽光線に向かって花咲かせる植物に完全性を観想する。しかしこうも言えよう、人間は衝動や慾望と情熱を獲得しているからこそ、理性を離れ迷走による過ちを繰り返す可能性こそあれ、その特性により世界自然の理法を認識する存在に成り得たことの事実の重要性です。
2014年03月04日
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「直覚霊知」144記憶の形象と内精神の表象(秘学論理) 内精神に描く形象への沈潜は、人間の外核的感覚が記憶に与えた形象を考察すれば、其の違いは顕著になります。例えば、自己の両眼を外界の自然にある草木に観察を集中したならば、その後、其の草木を見ることが出来なくとも、草木の印象が脳内から刻みつけられた記憶から其の形象を再び草木の印象を呼び覚ますことが出来ます。その時の両眼に映らない形象は、草木の形象が刻みつけられた記憶に過ぎないと断定できます。一方、内的精神の奥深くに潜む霊魂が、其の形姿を自己に保持するときは、内的な霊性を全て記憶内容に集中させて知覚内容を捕らえますが、しかし、其れは未だ、感覚を通した事物の再現に過ぎません。そこで、自己の精神を全て其の対象に集中させ、他の総てを排除させますが、それでもその対象は、感覚を通した事物の知覚観念に過ぎません。其れと同様のことでありながら、自己の精神の自由意志に基づき行われる対象を外界の自然にあるものから離れた、個人の世界内おける精神の表象として捕らえた時には其の対象が霊魂の写し絵となる可能性が膨らむことになります。
2014年03月03日
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「直覚霊知」143霊性を物質世界から解放(秘学論理) 個人の人生の一般的な生活の経過の中での霊性を考察すれば、其の方向性は多くの事柄に分散されており、霊的意識も変転しています。一方、禅道や瞑想であれ霊覚意識である霊魂状態を知るに至る「行」にあっては霊性全体が一極集中の形姿をとります。形象は各々各自の自由意志を通して表象するものであり、其の中心点でなければ霊魂には向き合えません。其れ故、外感覚的で物質的な形象の再現よりも、個々の人間の内的精神の自由意志から産み出された象徴的な形象の方が霊魂を捉えるのには適していると言えます。何故なら、外感覚的で物質的な形象の再現は外界に拠り所をもつものであり、人間の精神内の霊性が自分自身で創り出す形象よりも、其の形象に意識が集中し難いからです。直覚霊知への形象を描くさいに重要なのは、何を表象するのかが大事なことではなく、其の表象する仕方の経過を通して、自己の持つ霊性を物質世界から完全に解放させることが非常に重要なことなのです。
2014年03月02日
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「直覚霊知」142直覚霊知への形象を描く(秘学論理) 自己の内的な精神を、霊覚意識である霊魂状態を知るに至るへの意識状態にまで高めるには、夢幻状態ではなく、禅道や瞑想であれ覚醒時の意識からしか始められません。霊魂そのものは其の高まりを待つて、突然に現出するものではなく、絶えざる日常生活の中でも生きているのは言うまでもありません。ただ、人間の直覚霊知への行を通して、自己を日常生活から引き離し、普段は気付かない霊魂に向き合う機会が与えられるわけです。禅道や瞑想は人生の通常生活の営みの有り様を離れ、静かな営みとしての精神内部での特定の形象に没頭することによって行われます。その場合の形象は、其の内容を通して人間の普段時には隠された能力を引き出す能力を持ったものでならないのは言わずもがなです。反して、人間の普段時の覚醒時の意識活動は、外的事物の再現という課題が与えられています。其の課題が果たされれば果たされる程、其の意識内容が真実に近づくことになります。即ち、外的事物の再現という意識活動は、意識内容が外的事物の真実の形象に近づくことが課題だと言えます。一方、直覚霊知への目標に向かう意識活動の没頭すべき形象は、外的事物の再現という形象に近づくというような課題とは違い、其の形象は外なるものを映し出すのではなく自己の内なる霊性に働きかけることの出来る、象徴的な形象・表象を持たなければなりません。その表象は各自の適正にあったもので良いわけです。何故なら、其の形象を描く目的は、其のものに意識を一極集中させ、他の何ものの意識をも排除して、其の意識の中に含ませなくして霊性を直感することだけが目標とするものであり、内的事実を探求する精神作用だからその対象とする形象は云わば其れに適ったものであれば、各々各自の自由意志が表象するもので構わないのです。
2014年03月01日
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