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「直覚霊知」201瞑想実践の五十六(秘学論理) 人間身体の霊的性状の内精神(Soul)更には其の根源に隠されている根源としての霊魂(Spirit)は、外感覚的な世界では、観察する事などは到底出来得ないと考えるのが通常の考察でしょう。しかし、其れにもかかわらず、高次の段階に進むに相応しい人間は、高い忍耐力と、強靭な持続力をもって、其の全てが理解できることが可能になります。当然のことに、何通りかある「行」、瞑想や仮象を使った精神の集中により霊的性状の内精神(Soul)を働かして、より深層に眠る根源に隠されている霊魂(Spirit)が、高次の世界に関わりあっている内的世界を探求することも出来なければ、その中で観察を行うことは出来得ませんが、幾通りかの「行」無くしても、高次の段階に侵入した人間の伝えることを理解することは可能です。自分が見ることが出来ないのに、どうして高次の段階に侵入した人間の伝えるすべてことを信頼できるのかの疑問には、単なる思考からだけでも、ことの正誤は高い忍耐力と、強靭な持続力をもつ人間は判断が適正だからです。思考によって判断が出来ない人間は、自分が「観相」出来ない出来ないことに「信を置く」ことが不可能なのではなく、未だ自己の思考を充分に徹底する段階に到らず、適正で公平な判断力が未熟な段階に留まっているからに過ぎません。
2014年07月31日
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「直覚霊知」200瞑想実践の五十五(秘学論理) 内的精神の核となる霊性の認識段階の内なる確かさは、外的生活の日常が齎す幸・不幸、満足・不満、課題、要求等々の総ての思考と感情とを支配して、深奥の内精神を一般的な精神と心情から隔離することが出来得る程に成長させることが重要です。その為には完全な平静を勝ち取る「行」によって、内的精神の核(内精神=霊魂)への沈潜が、外感覚的な思考には「一切」囚われないと呼称される水準まで高められることが必要であって、其のことのみに依って初めて可能となります。物質的世界及び感覚的世界からの観想を基礎にした思考は、外環境世界からは自由にはなりえません。とは言っても、決して其のような思考を持たない生活しても、さらさら、不自由に感じる方が居られないのも現状の生活を見れば明らかです。かと言って、内的精神の核(内精神=霊魂)への沈潜への物質的世界及び感覚的世界からの観想を基礎を離脱した思考は、決して「行」をする人間にとっては、物質的世界及び感覚的世界からの観想を基礎にした思考に満たされないからといって空虚で無意味なものとなることは決してあり得ません。
2014年07月31日
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「閑話休題」明晰夢と直覚霊知の9(最終章) 明晰夢を操る「訓練」と直覚霊知へと至るための「行」も、反復を一定期間経過すると、明晰夢では「夢」の中に覚醒している自分の存在に気が付くようになり、此れが継続出来る事が可能になると、徐々にではあるのですが、夢の中で自分の思い通りになる行動が可能となります。一方の直覚霊知へと至るための「行」でも、反復を一定期間体験経過した時には、或時、突然にというよりは唐突に自己の普段の精神を超えた内精神の実相を垣間見る機会が与えられ、自己の外感覚的な表層精神は見掛け倒しに過ぎず、其の内精神は一つの実相をもって、世界の理法に備わる「絶対愛」であるアガペーに包まれていることを認識します。然しながら其の通りだとしても、其の絶対精神及び絶対意識の側が個々の人間の精神を意識し統御することを認識することなどは在り得ないと考察することの方が正当でしょう。其の事をなしえるのは人類が歴史的に培ってきて生得した「神・仏」の技です。創造者は非創造物を自己の全体としての様態の延長として「自己を個別認識する」ことが有り得るならば愛することはあるでしょうが、そもそもが、「全体」であって「部分」ではない認識することさえ必要性がない「完全体」が個々の人間を見つめている訳にはいかない筈です。但し、人間から創造者を愛することによる「幸福感」は至極のものであることにも正当性があります。例えてみれば、未だ自分を産んだ見えない「母親」を「子供」が愛するように。人気ブログランキングへ
2014年07月29日
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「閑話休題」明晰夢と直覚霊知8 明晰夢を操る「訓練」にあたる直覚霊知へと至るための「行」では、夢ではなく普段の生活一般の外感覚的な、謂わば感覚的精神生活を離脱するために、ある人間は瞑想を為し、とある人間は肉体的には過酷とも云える程の苦行を熟す経過から苦痛が与える身体反応を遮断したところの精神の安寧状態を目指します。然しながら、専ら、仕事や人間関係に生きている人間が、其のような環境を求めるのは困難を極めます。此処で明晰夢を操る「訓練」にあたる自己の身体の一部、例えば「手のひら」に意識を集中する方法を、表層精神を一層隠されているとも言える内的精神の深層へと向かわせるために取り入れます。其れは「手のひら」のような具象的な「モノ」ではなく、実在するが実正像を外感覚的には水面の鏡像や鏡や影像としてか捉えきれない「仮象」としての自己の内相する自分。将亦、葉脈を流れる植物・幹を上昇・下降する樹液の流れを普段に集中する習慣を身に付けて、外感覚的精神や夢や幻から自己の精神を開放して、「内精神」の魂の実相を観想する訓練を繰り返します。その反復こそが、古今の哲人の霊魂観や世界理法の理解に大いなる力を与えてくれます。人気ブログランキングへ
2014年07月28日
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「閑話休題」明晰夢と直覚霊知7 明晰夢を操る「訓練」と直覚霊知へと至るための「行」とは、其れ其れの経過に置ける、基本となる準備の心構えは共通するものが多々あります。明晰夢では夢の中でも自己存在を認識して、夢が事故の意識を離れて進行しないように、普段から外生活にあっては自己の身体の一部、例えば「手のひら」に意識を集中することが癖になるまで習慣づけておきます。そうすれば、自分が夢の中に入った時に、ふとした瞬間に「手のひら」が夢の視界に現れた時には、此れは自分の掌だ、それ故に自分は夢の進行に関わっていると認識出来るようになり、一般には勝手放題に突拍子もなく、進行していく夢を制御出来得るように成ります。此の事が、自分の存在を強く認識出来るようになり、夢と現実に置ける外感覚的生活の自分と内的精神が見せる夢とを区別させて、悪夢的な存在を駆逐することさえも可能となり、心の平安と平常心とを普段の生活に及ぼさせる手段ともなります。しかし、明晰夢を操る「訓練」は一朝一夕に為せる技ではなく、其の訓練が長期に渡ることがあることは、覚悟して、励むことが大切です。人気ブログランキングへ
2014年07月27日
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「閑話休題」明晰夢と直覚霊知6 明晰夢を操る「訓練」と直覚霊知へと至るための「行」とは、共に精神の深層へ集中して、其の集中の力が抜けた内精神の状態から産まれ出てきます。其のこと故に、何れの「業」をするにしても、前者は「夢と現実」、後者は外感覚的世界と内感覚世界」を区別することに目標を定めていますから、外感覚的世界から受けたノイローゼやPTSD(心的外傷後ストレス症候群)、即ち、大きな事故や、幼少時の親によるレイプや虐待といった辛い体験を心の病として残る病気の其の思い出を、過去の体験と現在の精神生活を極めて上手く分離して軽減する副効果が期待出来ます。明晰夢や霊魂は、古今東西人間の興味を惹きつけて来た問題であり、其の関連著述に眼を向けることも決して無用とは筆者は考えません。人気ブログランキングへ
2014年07月26日
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「閑話休題」明晰夢と直覚霊知5 愈々、エルベ・ド・サンドリーニ侯爵の説くところの明晰夢訓練の最終段階は、侯爵言うところでは夢を自己の意思のままに部分的に限定はされますが、自在に操れるようになったと記しています。しかし、当時の認識では、明晰夢は「真の夢」ではなく、瞬間的な覚醒であると云うのが夢想科学の定説でしたから、異端扱いもやむを得ない状況でした。此のことは何も「明晰夢」に限らず「直覚霊知」に於いても妥当します。一般には所謂学者とは実相の見えないところのものは、敬遠するというよりは異端視することの方が多いのが常でしょう。当然に、瞑想等による「行」による、自己の外感覚的な相を離れた、内感覚の深層に霊性が宿るなどは、愚の骨頂との批判に晒されますが、信仰が一部の科学者にあっては共存しているように、通り一遍に批判するだけでは「見えない世界」は何時迄も隠され続けられることになります。理想的には物理化学・自然科学・生物学が「宗教学」や「形而上学」を超えて、世界全ての理法を極めた其の時点では「宗教学」や「形而上学」は雲散霧消しており、人類が「完全体」として肉体を必要としない「精神体」を構築しているのを筆者は「夢想」しています。人気ブログランキングへ
2014年07月26日
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「閑話休題」明晰夢と直覚霊知4 エルベ・ド・サンドリーニ侯爵の説くところの明晰夢訓練の第三段階では、自己の今夢見ている現象を更に深層に自己意識で以って、其の場面・場面に意識を集中することが可能になると言います。此のことは「直覚霊知」の「行」に於いても非常に参考になる説でしょう。客観化された自分を観想し、統御することを可能にする場面・場面に内精神のパワーを集中して観想を自在に統御する内精神の高次の霊魂的世界への侵入を容易に呼び出すことの霊魂観を身につけた証は、自己の今夢見ている現象を更なる深層に自己意識で以って、其の場面・場面に意識を集中することが可能になることと非常に状況は似通っています。其のことを理解することは自己の内的精神の存在を確信させて、世界に隠された理法を探索させることに役立たせてくれます。霊魂不滅の可能性が展望出来る様になるかも知れない門前に立ち入ったのです。人気ブログランキングへ
2014年07月25日
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「閑話休題」明晰夢と直覚霊知3 エルベ・ド・サンドリーニ侯爵の明晰夢訓練の第二段階は、自己の今現在、夢を見ている最中であることに興味が湧くとその夢を記録して残すために自在に覚醒することが可能になりました。此のことは「直覚霊知」への「行」に対比させれば、内精神の深層に浮かび上がる声に耳を傾け、其の姿を形姿して過去に生きてきた外感覚的な精神状況を鑑みて、内精神のパワーを持って客観化された自分を観想して、其の客観化された自分を観想し、統御することを可能にする段階への上昇を意味します。其の事には、人間の煩悩や苦悩に直接立ち向かうための勇力を必要とする故に非常な困難を伴います。其の現出は、大概は史上の記述を観想すれば、悪魔的な囁きをもった誘惑の形姿をとって象徴化されて現れています。此の命題の克服こそが、「直覚霊知」への第二の高次段階への道標となります。人気ブログランキングへ
2014年07月24日
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「閑話休題」明晰夢と直覚霊知2 19世紀のフランスの著名な夢研究学者であるエルベ・ド・サンドリーニ侯爵は、明晰夢を自己の意思によって自在に統御する方法を思索して、其の訓練方法を幾つか考案しています。例えば、明晰夢を自己の意思によって自在に統御する方法の第一段階は、訓練の始めから二・三ヶ月は自分が今夢を見ている最中であることを自覚するようになると述べています。此のことを「直覚霊知」への「行」に照らし合わせると、「瞑想行」の始まりから、人間の素養によっての差はあるものの、何ヶ月かは自己の感覚的意識を閉ざして意識的には「無」とも言える状態を創り上げるのですが、明晰夢が自分が今夢を見ている最中であることを自覚するように、自己の意識を離れたところの内精神の深層に浮かび上がる声に耳を傾け、いわば客観化された自分を観想していることを自覚しています。人気ブログランキングへ
2014年07月22日
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「直覚霊知」199瞑想実践の五十四(秘学論理) 世界の理法の一つの表層としての倫理の実践に対して、殊更に背徳的な行動に走る人間は、直覚的な霊性の門前に置いても、謂わば麻酔をかけられた人間が世界を認識出来ないように、其の直角知に朦朧としてしか捕らえきれません。しかし、当の本人は、麻酔をかけられた人間が目立った発言をしないのと相違して、真の「直覚霊知」を認識している人間よりも、自分の蒙昧さに気が付かず、えてして、多弁で饒舌であるの特徴的です。それ故に、世間的には評価されている嫌いがありますから、其の発言が人々の間に間違った霊魂観や死生観を植え付けることが見受けられること屡々でう。其の背徳の囁きが犯罪行動に走らせることも、左程に珍しいことではないことは、古今東西の歴史が証明しています。
2014年07月22日
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「閑話休題」明晰夢と直覚霊知1 直覚霊知の筆者の著述を読んで、自分は今現在眠りの世界にいる身体的状況に置かれていて、夢の世界にいるのを自らの意思を持って、夢の中で事象を判断決定出来得る「明晰夢」と霊魂の実相を観想した時の状況が非常に似通ってることに気が付かれてて多々疑問に感じられも方は多々居られる筈です。「明晰夢」とは、自分が今夢を見ているのだと眠りの中にあっても「意識している夢」を呼称します。それを19世紀のフランスの著名な侯爵であり、また、夢研究学者でもあるエルベ・ド・サンドリーニ(本名マリー=ジャン=レオン・ル・コック)は、そうした事が起きる夢の世界に驚き、目を瞠り、夢を自在に操る方法を色々と模索しています。一方「直覚霊知」或いは其れを極めた人間には「覚り」と呼称しても、何等史上の記録を見ても不都合はないのですが、瞑想三昧に深く入り込んだ人間は、眠るでなく、かと言って目覚めているとも言えない、自己の日常の精神を解放して、普段は気付かれることのない、内的精神を霊魂として捉え、其のさまを世界自然に調和させて理法の声を傾聴していますが、明晰夢同様、其のさまを意識的にコントロールすることは可能です。此の相似性が、現実主義者と呼ばれる人間に、シッダルタの「悟り」をも幻覚夢想の事だとの言質を与えるのです。人気ブログランキングへ
2014年07月21日
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「直覚霊知」198瞑想実践の五十三(秘学論理) 凡ての外感覚的世界に隠された秘界、様態の変化する限り、完全体に於ける延長としての人間の体験は、二重の意味で其の獲得手段が用意されます。其れは完全体を理解するには磨き上げられた内的精神の核となる霊性に付随します。詰まり、予めの段階に於いて、健全な判断力を「行」の基礎にしようと深層考慮しなかった人間は、完全体を曖昧模糊とする能力を、自己の霊魂存在だと誤認していることに気付かず確立してしまいます。詰まるところ、不健全で不健康な霊的知覚が創造されることになります。病的な歪んだ眼では、感覚世界を不正に感得する事しか出来ないように、健全な判断力を離れた「直覚霊知」は全ての絶対要素である「完全体」を理解することを誤認して「神憑き」になる事の危険性が生じます。此の背徳的とも言える姿勢を出発点に自己の内精神が自らは認識しなくても、其の「直覚霊知」は健全な判断力を離れた「直覚霊知」であり、謂わば麻酔をかけられた朦朧状態で隠された「完全体」を幻想しています。但し、麻酔をかけられた人間が目立った発言をしないのに反して、其れを自己の体験であると観察する体験者は、一応、通常の意識の持ち主よりは目覚めていますから、外感覚的世界に隠された秘界の「完全体」を誤認証させることになります。
2014年07月20日
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「直覚霊知」197瞑想実践の五十二(秘学論理) 内的精神の修練によって「直覚霊知」に至る理想の経路は、自己に向かって来る時々日々の出来事について、内的な精神の確かさ、身魂の安らぎをもって向き合い、自分の内的精神である霊魂の有り様に従うことなく、日々の出来事に内在している意義を、世界理法に照らし合わせた内的要因と其の価値をめぐる意味として探ることは有益であり、其の判断は後々の世界の理法の「ことわり」である霊魂の行き着く先である此のアントロピーを抱えた存在を超えた「完全なるモノ」に近づくための、象徴的な思考や感情を描き抽出される土台となり、貴重なものとなります。ここで、取り分けて此等の条件を前提にするのは一般的な日常生活からは懸け離れた神憑り的な状態に立ち入ることなく、「直覚霊知」に至る理想の経路は通常の内的精神の感受性を其の土台にして頂きたいからです。霊性及び霊魂だからといっての不死不朽のものでもなく、変容を経た後に其の様態が産みだされた存在への帰還を目指すことが理想なのです。
2014年07月19日
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「直覚霊知」196瞑想実践の五十一(秘学論理) 自己の内的精神を鍛える人間は、自己の喜怒哀楽を他人の体験のように観想することを進捗させるために、日々の日課の終了時に於いて、其の日の諸体験を逐一思い浮かべて、其の諸々の体験をした時の自分の反応及び姿を観想します。日々日常の自己の自分を外界から俯瞰してみる状態です。其のための自己観察の実行は、先ず、自分の一日の生活の細部の一々を思い出すことから始めます。日々の出来事を回想し続けることによって、短時間に一日そのものの体験を完全に回想することが可能となります。其の結果、体験を遡行して観察することが、感覚的な事象の進行だけに従わせる、自己の日々の習慣から、内的精神の回想力を解き放ちます。遡行する思考に於いては、体験を完全に思い出すとはいっても、所謂、感覚的な経過には従ってはいません。「直覚霊知」に参入するには、遡行する思考は欠かせません。此の思考作業自体が人間の意識活動を活発化させてくれます。此のことから、日常生活だけでなく、観劇や読書、音楽等々の経過をも遡行して思い出すことに意義が生まれます。
2014年07月17日
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「直覚霊知」195瞑想実践の五十(秘学論理) 自己の内的精神を鍛えるということは、なにも、自分だけの問題とするのではなく、人類一般にまでに関わる問題にまで関心がある捉え方をするまでをもの拡がりを持たせなければなりません。其のような人類全般の問題にまで関心を向け受け止めるようになるには、周期的に自分の個人的な利害関係からは乖離して、世界の理法の声に耳を傾けることが必然となります。其のメッセージが、自己の個人的関心同様に内的精神をも満たすことが出来得るならば、人間は新たな果実に恵まれます。自己の魂の声とも呼称が許されるであろう内的精神の制御に務める人間は、新たに自己の関心事まで他人間のように冷静に観相することが可能になる筈です。自己の喜怒哀楽を他人の体験のように観想することが「直覚霊知」を得る前提要素だというのです。
2014年07月16日
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「直覚霊知」194瞑想実践の四十九(秘学論理) 自己の内面深くにある、霊相を帯びた精神に磨きをかけ高次の段階に進むには、思考過程の制御、意思活動の統御、自己が平常時のみならず異常時にも経験する快苦に対する精神による感情の統御、世界の深奥を極めようとする積極性、自己の平常生活に於ける平衡感覚に基礎を置く生活態度の遂行能力を高めることが欠かせません。霊性を帯びた深奥の内精神をして、外的生活の日常が齎す幸・不幸、満足・不満、課題、要求等々の総てを、思考と感情を支配して、深奥の内精神を一般的な精神と心情から隔離することが出来得る程に、完全な平静を勝ち取ることが必須となります。其の時には、内精神が沈潜状態の中でも活かそうとするものだけを取捨選択しなければなりません。この様な事を述べると、一時的にしろ、一日の特定の時間に精神と心情を日常から引き離すならば、生活そのものから阻害されてしまうのではないかのの疑問が残るかもしれませんが、以上に述べた仕方で、内的な静安の中に繰り返して没頭する人間は、一般的な外的生活においても、内から湧いてくる力に満たされます。それ故に、生活上の勤めを今迄の生活以上にこなせることが出来るようになります。
2014年07月15日
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「直覚霊知」193瞑想実践の四十八(秘学論理) 自己の思考過程の制御、意思活動の統御、自己が平常時のみならず異常時にも経験する快苦に対する精神による感情の統御、世界の深奥を極めようとする積極性、自己の平常生活に於ける平衡感覚に基礎を置く生活態度を繰り返し徹底させるのは「直覚霊知」のみならず、自己の霊性獲得をする上での、其の途上における他の有益な事柄を手にするからです。此の「行」を絶えず持続して行う人間は、自己の内精神に欠けているところに向き合わされます。其のことが自分の知的な生き方や感情的な生き方及び自己の性格を勇気づけ、より確かなものにする手段を見出すことになります。夫々の人間の持ち前の能力や気質や性格の程度により、更なる新たな修行が要求されることは致し方ないでしょう。此等の段階を経た時には更なる新たな態様が何なのかが解ります。此等の「行」は、初期には自己の中には存在し得ないと思える能力をも、たとえ、自己に自信のない人間にも、内精神に由来するうちから沸き起こる自信に充たされることは必定です。
2014年07月14日
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「直覚霊知」192瞑想実践の四十八(秘学論理) 内精神が世界内存在として絶対意思・絶対精神・絶対創造の様態を「直覚霊知」を以って獲得同期するには、自己の思考過程の制御、意思活動の統御、自己が平常時のみならず異常時にも経験する快苦に対する精神による感情の統御、世界の深奥を極めようとする積極性、自己の平常生活に於ける平衡感覚に基礎を置く生活態度は、「直覚霊知」を得んがためには、一定期間、相前後して更なる修行を通して自己の内面の精神に働き掛け、相前後に関わらず調和を図ることは非常に大切なことです。当然に同時並行に行われることが理想です。神託を授かった人間とは異なり、六佛の中でも現在に於いては仏祖と呼称されるゴータマ・シッダルタは「悟り」を開いた後にも此等の統御に励み続けていたことは明白で、たとえ、得難い「覚り」を得ても定常させるのには繰り返しの修行が非常に重要なことなのだということの証明でしょう。
2014年07月13日
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「直覚霊知」191瞑想実践の四十七(秘学論理) 人間が自己の内精神を感情に結びつけて、制御を図るために、全ての感情を抑圧せんがために、4日以上の水絶ち、8日以上の断食等々、極端に走ることは自己の内精神さえ崩壊しかねません。「行」に於いては極端に走っても「覚り」は得難いことは釈尊の言辞をみれば解ります。「四十にして立つ」程の年齢に達した人物ならば、あらや疎かには、自分が今迄に経験したことを単純には見捨てません。今現在、「直覚霊知」の向かい合う時、其の状況を過去の自己の経験に照らし合わせることは大切ではあっても、「直覚霊知」を永遠無窮のものとするためには其の「直角知」が、新たなる世界の体験であり、自分が今迄に経験したことと矛盾することがあることの可能性にも対処せねばならないことに儘遭遇することがあるからです。堕落の世界の誘惑に陥らないためにも先人の知恵を手本とするのが良いでしょう。ナザレのイエス及び釈尊の例が其のことを示しています。
2014年07月12日
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「閑話休題」cap_hiroの紹介と興味のジャンル パズル王免許皆伝の昔日のAMF Sea-Masterです。「夢有・無有」夢は夢としてあり、無も有の対辺としてある。また、有が在ると想うのは夢より儚きこと幻の如く、人生・世界に常なるものなどは無い。それ故に、神は世界内存在ではない。仏は世界内存在として偏在する。宇宙の果てや始まりと終わりの謎、生命の誕生と死の観念と目的性、時間の実在と非実在、更に、加えて傾城・傾国・悪女・烈女といわれる女性には興味津々の人間です。SFとホラーがなかったならば、現在までも生きてはいなかったでしょう。人気ブログランキングへ
2014年07月11日
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「直覚霊知」190瞑想実践の四十六(秘学論理) 自己の思考と自分の抱く意志とを同期させるためには、自分が今までに体験したことを、経験から学んで、新たな体験の自由意志の障害にならないように心懸けねばなりません。「直覚霊知」を志していて「行」する者は、たとえ世間が、そんな話は聞いたことも無いし、信じるに能いしないと云われていても、はらから無視すべきではない。どんな機会にも、どの様な事象からも、真なる新たなメッセージがあるかもしれないからです。其のような余裕を持った深奥における精神状態を維持することは「直覚霊知」を得て、「世界の理法」である絶対意思・絶対精神・絶対創造の「知」に感応出来得る可能性が増大するからです。新たな視点を持って世界を見廻すならば、どんな風の囁きからも、白椿(日本では沙羅双樹と呼称されていますが別種です。)の華の落下の音に耳を傾けても世界の理法を覚る機会が待っています。
2014年07月10日
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「直覚霊知」189瞑想実践の四十五(秘学論理) 人間が自己の内精神を感情に結びつけ、制御を図るには、何事にも批判的に取るのではなく肯定的な捉え方をすることも儘あり其れ等の体験は「行」の手助けとなることもあります。「人間の美」感情においての一例に、死んだ犬の傍らを通った「ナザレのイエス」の一行の弟子たちが皆、其の醜い姿に顔を背けるにも関わらず、イエスは其の犬の歯の白さに感銘を受けて賞賛しています。此の様に世界の有り様は「道」を極めてみれば内精神の深浅によって観相が変わります。此の事柄が述べんとしているのは、内精神を向上させるということは、世界に人間が向き合うときに、一辺の感情の捉え方を持って物事を判断してはならない。誤謬、醜や悪があるとして目を背けるのではなく、真・善・美は其処にも見出す魂の琴線を張らなければならない。悪や偽他人の不幸に対して安易に目を閉ざし封鎖することは、自己の魂を向上させることには継らない。当然に悪を善と見做し、偽を善と見做すことは許されないが、真・善・美を見る眼は悪と偽によって曇らされてはならないということを教唆しています。
2014年07月09日
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「直覚霊知」188瞑想実践の四十四(秘学論理) 世界の理法を絶対意思・絶対精神・絶対創造の様態として理解し、禅道や瞑想の「行」自己の内精神の深奥を極め、理法の声に耳を傾け心魂を共鳴させるのには、正統な「行」に照らした日常の精神生活を規則通りに繰り返ののは、一見、必要性なきしにもあらずと問う人もいるでしょうが、決して疎かにするべき問題ではありません。此れまでにどの様なことを学んできた人間であっても「世界の理法」を自己に浸透させて体感するには、自己の内精神を高揚させた能力は役立つ筈です。自己の精神が人生を怒りやすくしたのなら、其の精神を自己内の精神力で鎮静化することに務めることが重要です。一方、人生を冷静沈着に送ってきた人間ならば、自己教育力によって、自己の表現が受け取られる印象に相応しい表現が出来るように内精神を活性化することに努めなければなりません。「人生何を見ても笑えない人は、何でもすぐに笑いたくなる人と同じ」だからです。双方何れにしても、人生を活きている自主的な人間には相応しいとは申せません。
2014年07月08日
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「直覚霊知」187瞑想実践の四十三(秘学論理) 世界の理法を絶対意思・絶対精神・絶対創造の様態として理解し「直覚霊知」を志す者は、自己幻想に囚われる危険があることを承知して、其れに耽ってしまうことがあってはなりません。自分は日常的に冷静でいられるから其のような心配はなく、瞑想等々の行などしなくても高次の段階に登ることができる。今までは霊性に高次の段階があるとは知らなっかたから参入することが出来なっかったと捉えがちです。そして自分の節度のなさを証言することもやぶさかではない。それ故に、二重の意味で日頃の冷静さを強調する人間には「行」が求められます。絶対意思・絶対精神・絶対創造の様態として理解し、「世界の理法」を自己に浸透させて体感するには、それ迄に持っていたようにみえるものが重要なのではなく、「直覚霊知」をこれから先、目的意識を持って志すには、正統な「行」に照らした日常の精神生活が欠かせないのです。
2014年07月07日
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「直覚霊知」186瞑想実践の四十二(秘学論理) 絶対意思・絶対精神・絶対創造の様態として理解し「直覚霊知」を得ようとするならば、長期に亘って自己の内精神を観察することが求められます。人間の相互関係にあって深く共感共苦することも自己の精神向上のためには重要と言わざるをえませんが、その際に自己の感情を思わずがなに外面に現して、無分別な態度・行動を取ることは避けねばなりません。しかしながら、自己の精神内に当然に沸き起こる感情をおさえるのではなく、その抑制を制御できることが重要になります。「直覚霊知」を得ようとする者は、絶えず此のように心懸けることによってのみ心情を平常に保ちます。此のことは、第二の霊的存在の自我が産まれ出んとするときに、特に其れが活動し始めた時には、元来の自我が影的存在と變化して、新たに産まれた霊的存在としての自我と並んで不健全性を排除するのには不可欠であることを認識することは肝に命じなければなりません。
2014年07月06日
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「直覚霊知」185瞑想実践の四十一(秘学論理) 此の章では、屡々使用され登場する「世界の理法」を以降に混乱することがないように、記者なりの定義付けの必要に迫られています。「世界の理法」と言っても其の立ち位置によって千差万別の取り方をしているのが、史上が教えてくれています。例えば宗教上・自然科学等々の学問上・形而上学的な捉え方によっての観相概念によっても種々様々な定義がなされています。宇宙や人間は変化し続けるのであり、その変化の連続が宇宙全体に一定の法則によって秩序を保たせています。しかし、その変化の連続が宇宙全体に一定の法則によって秩序が保たせているにしても、理解の仕方は各々何を受け入れるのかによって答えは変わります。常に何かを破壊し続けなくてはすべてのものは存在しえないエントロピー。何かを犠牲にすることで静止しているように見えるものは保たれていると解釈するのは西洋的です。東洋的な見方に於いては「常」は認めません。唯一、西洋と東洋的な見方の観相概念に共通性を見出すのは現在の時点では宗教的哲学かもしれません。終わりなきものに始まりなし、存在のあり方を離れた「完全体」そのものを記者は絶対意思・絶対精神・絶対創造の様態として理解し、それを「世界の理法」としての言辞をもって置き換えています。
2014年07月04日
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「閑話休題」人間の定義と其の特性6「人間の定義を総括」」 既に御存知ですが、「人間は運命を自分で創る存在である」と云うのは、人間其のものの存在を定義付けているものではなく、人間を他と区別する特性を述べています。それ以前に人間の特性を語るには「人間存在其のものの在り方」を総括することが重要です。其れなくして人間の存在原因・存在目的は見えてこないでしょう。そもそも一般的には此の世界、所謂マクロコスモスには地球上に特異点としての生命存在を観想しています。物質から有機体が組成せられ生命にまで高めたのは、当然に活きているガイアとしての地球です。地球をガイアとして捉えるならば、其の事を創造せしめたマクロコスモスの創造に関わる宇宙内重力や光・エントロピーや時間の影響を離れた創造に関わる生命を離れた意識的絶対存在、とはいえ、其のものの在りかたを自身が意識する筈もなく、何ほどかを創造せねばならないとする意志を持たなければならないとする不完全性を超えた「完全体」が理法の中に人間存在を組み入れていると言わざるを得ません。しからば、人間を定義するときには「完全体」が理法の中に存していた「人間は完全体の延長上の目的意識を持った様態である。」と定義することが妥当だと言えましょう。それゆえに、人間の目的意識は地球・銀河系等々の生成のみならず大宇宙の生成原因までを追求解明し「完全体」を理解することが目標となります。人類が完全体の「完全なる愛」を受け入れ、愛することに究極の目的意識を持つべきことが人間の目的意識には必要です。その到達点に立ってこそ、初めて「人間存在の定義」が完璧なまでに解明されるのです。人気ブログランキングへ
2014年07月03日
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「閑話休題」人間の定義と其の特性5「人間は運命を自分で創る」 「人間は運命を自分で創る存在である」此の一家言は中世の西洋では多々見受けられます。一例を挙げれば、ルネサンスを代表する哲学者ジョヴアンニ・ピコ・デラ・ミランドラは、神は人間にはいかなる束縛もせず、自らの「自由意志」によって望むものになれるという可能性を与えたと主張します。旧約的には、神ヤウェがアダムに対して、人間にはいかなる束縛もせず、自らの「自由意志」によって望むものになれると約したと考えています。ルネサンス期迄は、キリスト教にあっては、人間の自由意志は悪に向かうものであり、自由意志などを持っているから罪が生まれると説かれていたのですが、ジョヴアンニ・ピコ・デラ・ミランドラは「自由意志があるからこそ、人間は何にでもなれる」言い換えれば、能動的に人間を捉え、誰が我々のなかにいるこのカメレオンに驚嘆しないでしょうか。薔薇は薔薇であり、獅子は獅子であり、神は神である。それらは皆、生まれながらにしてそれであることを定められ、生涯それ以外のものになることはない。だが唯一人間だけが、心のどの要素を重んじるかによって、人間として生まれながらも、植物にも、猛獣にも、天使にも、場合によっては神のようにさえもなることが出来得る。この表現は人間の自分がなんであるかを決定する自由意志の能力を過大評価しています。古代ギリシア的な考え、人間の身体をミクロコスモスに見立てて、マクロコスモスに対応しているとする照応理論にを汲んでいます。此の説によれば「私は神である」と主張する人間が輩出する事にも繋がり、考慮の外(ほか)としか言えないことになるとするのが正論。人気ブログランキングへ
2014年07月03日
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「閑話休題」人間の定義と其の特性4「人間は万物の尺度」 古今東西硬軟聖俗によらず。歴史に名を残すほどの人物は、人間についての何かしらの定義や特性に一家言をもっていて、世に名言とされるものも数多くありますが、其れが正に当を得たものかどうかの評価はは年代を経ることに変化してきていますが、其れ等は正誤に拘わらず歴史的にみても貴重であることは事実でしょう。その始原的人物が若きソクラテスが、老獪なソフィストである徳(アレテー)をめぐる議論を挑んで有名な推測紀元前500年-紀元前430年頃の古代ギリシアの哲学者プロタゴラスです。彼は相対主義を唱えた人物としてソフィストの代表者と見做されていますが、「人間は万物の尺度である」の此の定義は「人間存在とはなにか」「人間を人間としてあらしめているいるものは何か」を問うているものでのなく、視点を変えれば「万物は万物の尺度である」と言っても過言ではなく人間の存在根拠を定義しているものとは言えません。相対的に人間優位を述べたに過ぎないと結論づけても間違いないところでしょう。人気ブログランキングへ
2014年07月01日
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