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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/フォイエルバッハ9(四百九十六) 抑々が、哲学的に直覚で神を思考すれば、物理的にも精神的にも世界で唯ひとつの「有」であり、ビッグバンの在る無しに関わらず「存在有」初めもなければ終焉もない「次元」の無い、存在を問うことすら出来得ない存在、「無と有」、人間には精神、其れも内精神の理性の奥底(おうてい)に隠された、大宇宙において人間だけに精神があるものとすれば、神の恩寵の霊魂でしょう。其の意味では「神」は「大霊魂」と表現することも中らずといえども遠からずです。キリスト教の教義には「神」はまた道徳的に完全なものである記される。フォイエルバッハは、此のことがはいったい何を示しているのか、「神」とは人間の良心以外の何ものでもないと断定します。詰まり、人間は「神」の道徳的完全性ということにおいて、人間の自己の良心そのものを思い浮かべているので、仮に、「神存在」が人間の良心でなければ、人間は「神」の前で自分の罪を告白したり畏れたりすることが出来得る筈がないのであり、神を自己同義性に持込み、神との応答を可能だと信じ込むと述べます。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年07月31日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/フォイエルバッハ8(四百九十五) フォイエルバッハはキリスト教の教義に、旧約聖書は勿論のこと屡々登場する神と人間の葛藤を掲げています。キリスト教の教義は「神」と人間の対立や葛藤を記(しる)しているが、教義的にも「神」は無限であり、人間は有限である。「神」は完全であり、全能であるが、人間は不完全であり、非力であるとすること自体が、神の絶対性を疎外しており、全く「神」と人間が別なものであるならば、そもそも分裂や葛藤そのものが存在しない筈である。神に人格性を与えるのは神の無限を否定し全能を疑うものである。亦、キリスト教の教義にあっては、神」は純粋で完全で欠陥を持たないとされるがこ、のような「神」は人間の悟性の本質を表している。人間の理性の深層に眠る「悟性」とは心情的な欲望や情熱を持たないし知らない。そのために純粋であり、欠陥や弱点をももたない。それ故に、「神」は「悟性の自己意識の再認識であり、悟性が自分自身の完全性についてもっている意識」であると論じ、神に人間的な人格の延長線上の「神としての資格」を与えることの矛盾を説きます例えれば、伝説ではアーリヤ人のクシャトリヤ王統に属するともいわれますが,恐らくはチベット・ビルマ系のヒマラヤ山麓のインド・ネパール国境地帯に拠っていた釈迦族の王子シッダールタ「覚り」を悟性と捉え、大乗哲学の祖の「空論」を思い浮かべれば解釈が容易になります。哲学的に捉える「神」は人間には見えない存在であり宗教的「神存在」とは次元を異にします。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年07月31日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/フォイエルバッハ7(四百九十四) フォイエルバッハはキリスト教の教義をどの様に捉えているのかは、彼が想定する「神」を考察する上で、非常に重要な課題に直面します。ヘーゲル哲学から人間の「自己意識」や「類的本質」ということを基礎にして、フォイエルバッハはキリスト教の教義を遂一検討しながら、「神」は人間のことに他ならないということを証明しようとします。著書「キリスト教の本質」では「神の意識は人間の自己意識であり、神の認識は人間の自己認識である云々(うんぬん)。人間と人間の神とは一つである。」 として、更には「「神」の無限の理性や意志そして無限の愛を人間が考える時には、人間は自己の「類(たぐい)」としての能力を思い浮かべているのである。従って「神」は人間の「類的本質」に他ならない。神と人間の類的本質の一致を説きます。フォイエルバッハはキリスト教の教義を詳らかに検討して、人間の「自己意識」や「類的本質」ということを思考の基礎に置きキリスト教の教義「神」は人間のことに他ならないと結論します。彼はキリスト教の「神」とは人間の倫理的実存が表装されたものだと解釈しています。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年07月30日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/フォイエルバッハ6(四百九十三) フォイエルバッハは言う。何ゆえに有限な人間が「神」の存在、無限を問えるのか。物理科学が理論的にしろ世界の根源を極め理法を究明解読した時を別として、ヘーゲルのいう所謂人間の「類(たぐい)」としての本質は無限である言は採用しています。。人間の能カは個々の人間においては有限だが、人類の総体の能カとしては事実上無限だとします。それ故に、総体としての人間が獲得してきた理性・意志・心情等の能力は、人間観念の創造主を否定しない限りにおいては、無限存在としての「神」において、人間の「類的本質」を意識しあっているのであると彼は主張するのです。此の論を解釈するに、彼はヘーゲルの観念論の世界の人間には見えない存在、人格性を与えた「神」である神格なるものは完全否定はするものの、世界をビリヤード台と見立てた場合の見えないハスラーの存在を、絶対意思・絶対精神・更には絶対存在として認識するところから、エンゲルスの言、「フォイエルバッハは惜しいところまで行ったが不完全に終わった。私たちマルクスとエンゲルスがフォイエルバッハを乗り越え、完全な理論を打ち立てることに成功したとエンゲルスとしては言いたい。」の言辞を与えます。信教の「神」は否定しても人間精神を「理法」の束縛からの解放に到っていない、弁証法的には経過的には「真」であったものが、マルクス主義の登場が「偽」へと変貌させたことを言わしめています。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年07月29日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/フォイエルバッハ5(四百九十二) 観念論と唯物論此れ等は実際的に併存出来得ない不可能事なのかは古来思想史でも度々登場する難問です。ヘーゲルは唯物論を観念論に昇華させ劇的に哲学史を編成しなおし体系化した筈なのですが、如何せん、自らの弁証法を以って批判に晒されます。特に、彼の観念化された絶対存在には其の教えを受け継ぐヘーゲル体系左派のフォイエルバッハの宗教論に顕著に描き出されます。フォイエルバッハの思考は「人間は対象において自己自身を意識する」ということから始まります。彼は例題を以って説明します。同じ月でも、科学者にとっては月は天文学や物理学の対象であり、巨大な岩石塊である。だが詩人にとっては、月は優しい恋人の面影。貨幣は守銭奴にとっては命にもかえがたい宝ではあるが、使い方を知らない素朴な野蛮人にはただの金属片でしかない。このように人間はあらゆる対象において自己自身に、自己の本質に反映として関係するのであって、それ以外の関わり方はでき得ない。其のこと故に、人間は「神」という内的な対象(あくまで、此の神は人間観念の精神被造物)においても、「自己の本質・類的本質」以外のものまでを意識することは出来得ない。言い換えると、人間の「神存在」は、人間の「類的本質」以外のものであること観念上拘束されて、人間の「類的本質」を離れることは出来ないのとしています。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年07月28日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/フォイエルバッハ4(四百九十一) フォイエルバッハを何故にマルクスとエンゲルスは継承の事実は認められるにもかかわらず軽視するのかは、宗教批判の方法を政治批判にまで推し進めたとはいえ、マルクス主観が「神」存在そのものを否定しているにもかかわらず、フォイエルバッハの哲学では哲学上の「神」を「絶対無」としない不徹底さが問われているのです。フォイエルバッハの宗教の本質を理論的に考察した「キリスト教の本質」が、宗教と人間の問題を取り上げており、マルクスとエンゲルスの批判の全貌が解明されます。フォイエルバッハのキリスト教批判は宗教とは何かの本質的な考察から、キリスト教の「人間的本質」について考察します。 彼はキリスト教の様々な教義の要素、「神」及び「世界創造」更には「奇跡」などが単なる迷妄としても、それら総てを単純には否定せず、人間の観念のなかでの成立そのものを問題、概念や表象の成立を重要視しています。宗教的表象や概念、教義、それが最も根底において意味しているものを解析しています。宇宙内世界において地球上の生命では人間特有の「自己意識」、何故に人間は宗教を派生したのかを人間の観念に因があるとしています。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年07月27日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/フォイエルバッハ3(四百九十) フォイエルバッハを何故にマルクスとエンゲルスは継承の事実は認められるにもかかわらず軽視するのか、其処に読み取れるのはマルクス主義が史的唯物観の最終章だとの自負心が顕著だということです。マルクス&エンゲルス主義とは体制の壊滅を願うあまり、本筋の弁証法は忘却し、真相を自らに強引に引き寄せています。其処にはもはや、個人的尊厳としての理性は蔑ろにされ、自ら主張する体制主義が強調されています。人間個々の救済に導く思考は微塵もありません。国家体制・或い社会体制さえ整えられれば涌泉の如く幸いが来るとの思考を用います。此処に、フォイエルバッハを何故に復活させるのかの根拠があります。フォイエルバッハは人間を生態系のなかでの単なる意識生物とせず、「自己意識」を「自我」先読みすれば主体としての実体は自己疎外と自己回復の螺旋的進行過程の軌跡ともいうべきものだと見取り,マルクスは現実界を超越的イデーの自己疎外的実現とみる観念論を退けることによって,弁証法的な過程的構造は現実界そのものの過程的・構造的な一般的法則性にほかならないものとみることを反省させる思考の担い手だということから再評価に価します。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年07月26日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/フォイエルバッハ2(四百八十九) ヘーゲル左派のルートヴィヒ・アンドレアス・フォイエルバッハ(Ludwig Andreas Feuerbach/1804年-1872年)はドイツ古典学派の最大の哲学者ヘーゲルの概念の範疇は離脱することが出来ない反面、其れを宗教批判の思考方法論、更には宗教批判の方法を政治批判にまで徹底するという形で,彼らの思想的出発点を形づくり、マルクス&エンゲルス主義に継承させます。但し、フォイエルバッハの別面、博愛主義的な社会主義の立場を重要視したイギリスはオックスフォード大学道徳哲学教授T.H.グリーン(Thomas Hill Green)が登場しマルクスとエンゲルスとの間に「自我実現論」を旗印に論敵として現れています。当時の其々の哲学的人間観には、フォイエルバッハと同じくヘーゲル体系の左派に属するドイツ出身の神学者・哲学者・歴史学者、青年ヘーゲル派の中心人物ブルーノ・バウアー(Bruno Bauer/1809-1882)の自己意識はマルクスにも影響を与えるものの、ヘーゲルのいう絶対精神を自我の所有するものと捉え、唯一者としての自我の哲学を展開、神学者でありながら無神論的な立場を表明した「自己意識」を重要視した派、人間の本質を感性に求めるフォイエルバッハの「感性的人間」論、マルクス&エンゲルスの「社会的人間」論がウィーン体制の事実上の崩壊へと突き進んだ1848年のフランス市民革命にまで及び、ドイツ国民主義が生まれラ・サール派の登場とともにマルクス主義対ファシズの様相が現実化していきます。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年07月25日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/フォイエルバッハ1(四百八十八) マルクス主義に於ける大著「資本論」はエンゲルスの助言なしには完成しなかったでしょうし、当のエンゲルスが「フォイエルバッハ論」を著しているように、フォイエルバッハを脱ヘーゲルの第一人者として評価はしていますが、其の社会主義思想の経過段階の思考としてあまりにも軽く扱っているのが残念です。事実的にはフォイエルバッハの思想がなければマルクス&エンゲルスの唯物主観は生半可なものとして成立していた筈です。 エンゲルスの言、「フォイエルバッハは惜しいところまで行ったが不完全に終わった。私たちマルクスとエンゲルスがフォイエルバッハを乗り越え、完全な理論を打ち立てることに成功したとエンゲルスとしては言いたい。」の言によく表れています。唯物論が観念論を条件づけているヘーゲルの体系、其れを批判こそすれ観念論的に逆立ちさせられた唯物論を離脱することが出来得なかった故に過小評価しています。此のことは「人間主観」神も人間の投影に過ぎないとする思考から齎されます。神は元より居ない、人間誕生こそが「神」を在らしめる原理に至ります。果たして、そうなのかはフォイエルバッハの思考を再考すれば、逆説的なマルクス&エンゲルス理論、其の真髄に触れることになり、彼「フォイエルバッハ」の思考が、弁証法的にマルクスとエンゲルスの思考の偽に相当するのかといえば甚だ疑問があり、フォイエルバッハを再思考する必要に迫られることとなり、後に彼の宗教観を軸に検討します。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年07月24日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/マルクス&エンゲルス7(四百八十七) ドイツ古典学派の最大の哲学者は何と言ってもヘーゲルでしょうが、マルクスとエンゲルスに多大な影響を与えたのは、ヘーゲル亡き後、右派・中央・左派に分裂したヘーゲル体系の左派に属する、青年ヘーゲル派の代表的な存在、最も進歩的とされたルートヴィヒ・アンドレアス・フォイエルバッハ(Ludwig Andreas Feuerbach/1804年-1872年)でしょう。フォイエルバッハの理論は、マルクスによって乗り越えられたとする知識人が意外に多いがエンゲルスなしには論理的展開はなかったとするのが妥当でしょう。フォイエルバッハを克服したとされるマルクスの思想とは、一言で述べれば、フォイエルバッハの「人間学」を一歩さらに現実化したのがマルクスだということです。フォイエルバッハの人間主義を足掛りに、へ―ゲル弁証法の転倒を主張します。其の「へ―ゲル弁証法」とは、それは、真理は経験的にしか獲得できない。真理は真偽値の経験の繰り返しによって、一層真相へと近づいていくということです。弁証法とは漸次的に真理に近づく手法、真であることを相手に認めさせ、或いは、自己の思考経緯の中に真理に達するには経験が必要だということを徹底認識させることに意義を持ちます。其れは歴史の主体はへーゲルの頭脳の中に在る「絶対精神」ではなく、「市民社会」とそこに生きるプロレタリアートだとした。人間社会の実存が観念に勝るとしたのです。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年07月23日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/マルクス&エンゲルス6(四百八十六) 史的に見てマルクス&エンゲルスは「神」の認識こそが、教会権威及び王権神授説を唱える絶対王政の体制維持の基本であり、市民社会となっても「神」持ち出し労働者を搾取するのは持ち前の施政に取り込む欺瞞だとします。マルクスとエンゲルスは共に労働者である民衆を霊的要素などではなく、現状の人間の立場から現在的な救済することを目指しています。其のためには過去の遺物の権力層を破壊することは当然であり、事実そのように規定されています。「心と体を別のものとする人間観」其のものの破壊です。人間において心(意識)とは何かを探求すれば、心(意識)は誕生する前から存在する、或いは、誕生後に心(意識)が芽生える、或いは、人間特有の精神などというものは幻想であり人間の自負心或いは自尊心、更には自我の不滅を願うのは噴飯物と彼等両巨頭には映じたのかもしれません。此のことは、中世のキリスト教観念論と王権神授説を肯定する正教会の人間の原罪を超える押し付け、「故なき神の権威」の旗印、羊の皮を被った狼が彼等の精神に宿っていたことを示します。マルクスとエンゲルスがあ共にアジアのインド大陸に生まれた古典仏教に精髄していれば、現代のマルクス主義に則った思想は異相の思考となっていたことが予想され、歴史に若しやはなしとはいえ悔しいこととは感じます。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年07月22日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/マルクス&エンゲルス6(四百八十六) 史的に見てマルクス&エンゲルスは「神」の認識こそが、教会権威及び王権神授説を唱える絶対王政の体制維持の基本であり、市民社会となっても「神」持ち出し労働者を搾取するのは持ち前の施政に取り込む欺瞞だとします。マルクスとエンゲルスは共に労働者である民衆を霊的要素などではなく、現状の人間の立場から現在的な救済することを目指しています。其のためには過去の遺物の権力層を破壊することは当然であり、事実そのように規定されています。「心と体を別のものとする人間観」其のものの破壊です。人間において心(意識)とは何かを探求すれば、心(意識)は誕生する前から存在する、或いは、誕生後に心(意識)が芽生える、或いは、人間特有の精神などというものは幻想であり人間の自負心或いは自尊心、更には自我の不滅を願うのは噴飯物と彼等両巨頭には映じたのかもしれません。此のことは、中世のキリスト教観念論と王権神授説を肯定する正教会の人間の原罪を超える押し付け、「故なき神の権威」の旗印、羊の皮を被った狼が彼等の精神に宿っていたことを示します。マルクスとエンゲルスがあ共にアジアのインド大陸に生まれた古典仏教に精髄していれば、現代のマルクス主義に則った思想は異相の思考となっていたことが予想され、歴史に若しやはなしとはいえ悔しいこととは感じます。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年07月21日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/マルクス&エンゲルス5(四百八十五) プロシアはバルメン生まれのエンゲルスはマルクスとともに科学的社会主義を創設、マルクスに「科学的社会主義=マルクス主義」を認容しています。エンゲルスの学識の広さは、経済学・哲学・文学・神学・言語学、更には自然史・化学・植物学・物理学に及び、その上外国語は「20か国語以上ともなると吃る」といわれる程であり、兵学に関しては、クリミア戦争やプロイセン・フランス戦争(普仏戦争)などについての卓越した戦況判断がセンセーションを巻き起こしてマルクスからも1将軍(ゼネラル)」と呼称されます。彼は初期のマルクスの指導的役割を果たしますが、其の優しい心象はマルクスの才能を認め女房役に徹しており、不満を口にすることはありませんでした。マルクスの頭脳の偉大さを認め、早い時期からマルクスの理論の発展に対して重要な助言者の役割を担い、エンゲルスなしにはマルクスの業績が達成したかどうかは甚だ疑問です。マルクスの主著「資本論」を完成させる上でもエンゲルスの現実の経済活動の経験が重要な助言を与えています。人間論に関しては、生命の起源についてや、進化の問題を論じた「自然の弁証法」取り分け「サルが人間になるにあたり労働の果たした役割」は重要です。神秘現象を批判的に論じている点では唯物主観そのものであり「霊魂」を認識したかも清か(明らか)ではありませんが、彼がドーバー海峡に面する風光明媚な彼のお気に入りの地イーストボーンの沖合い海洋散骨されるまでユーモアを絶やすことがなかったのは事実であり、其の死生観には興味を覚えます。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年07月21日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/マルクス&エンゲルス4(四百八十四) マルクスとエンゲルスの唯物主観が、古典唯物論から二巨塔の天才的能力ゆえに跳躍して閃いたのかというとそうでもありません。天才の頭脳は、自国ドイツのカントやヘーゲルに代表される古典哲学、アダム・スミスや自由貿易を擁護する理論を唱えたイギリスの経済学者デヴィッド・リカード、更にはフランス唯物論のサン・シモンやフーリエによって唱えられた社会主義の、当時のブルジョアジーの先端とされる思想を受け継いだかたちで成し遂げられています。詰まるところマルクス&エンゲルス、通常云われる「マルクス主義」なるものは20世紀にもて囃されたのですが、其の思考の原点は現代では3つの先駆思考、進歩的な思考を基底とし引き継いだものです。マルクス主義はまさに史的思想を新たなる局面へ向かわせる産物としての位置付けです。一口にマルクス主義とは言いますが其の思想学体系は広範囲に及び産業革命以降急進的に力を蓄えたプロレタリアートがマルクス&エンゲルスの思考を学び取り入れます。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年07月20日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/マルクス&エンゲルス3(四百八十三) マルクスとエンゲルスが神を否定するのは、存在其のものの在り様としての世界内存在が認証出来得るものが真実であって、世界の有り様を離れた「存在」は無きに等しいと説きます。アイデンティティー(自己同一性)とは人間の脳の動作様式を説明するための便宜上考えられた様式であり、自我などというものは、それ自体実在する訳でなく、さまざまな知覚の束にすぎないとする物質がすべてであるという「唯物論」は、自我を形成する内面の精神などは有る筈もなく、人間の肉体の組成である「脳」其のものの特質から生まれた幻影若しくは肉体及び精神体験の構造化だとします。此のことから「ナザレのイエス」を思考すれば「神」は類稀なる脳の力を持って「神」を創造したことになります。唯物観の究極的思想を自負するマルクス&エンゲルスは人間に神を想像或いは創造する能力を与えています。「人間機械論」のように「人間精神」をも機械構造として捉えれば、21世紀の生物科学技術で人間の再生は可能です。問題は「其の本種」の自我がはたして再生されるのか再生されないのかが、神の介在とマルクス&エンゲルス主義の真偽の分かれ目になります。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年07月19日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/マルクス&エンゲルス2(四百八十二) 「物質がすべてである」という唯物観を基底に唯物主義的体制を模索したマルクス(生誕は1818年)弁護士の子として生を受け、片や、エンゲルスもマルクスに後れること2年、織物工場の工場主を父に生を受けています。イメージ的には共産主義から想像して下層階級からの思想家を思い浮かべますが間違いです。此の両者が協力して立ち上げた思考体系が一般にはマルクス主義と呼称されています。此の思想体系には当時の数学や自然科学の影響があることは否めませんが、ヘーゲル哲学の弁証法を駆使して、弁証法的唯物論を経済学と階級闘争理論へと昇華せしめ社会主義の理論を構築します。ヘーゲル哲学はドイツ古典学派の集大成でありマルクス&エンゲルスは其の思考方法を自らの思想体系に巧みに取り込むことに成功します。其処には「神は死んだ」のニーチェの思考は諸共無く、当時の科学の発展を受けて、人間は意識というものは肉体、其れも「脳部位」によって創りあげられている、其のこと故に、自らの意識の選択は脳に左右され微塵の自由もない一方的な存在であるとします。パソコンにOSが初期導入された限りの状態ではは、他の ライナックスやマックは上書き仕様がないわけです。労働者階級から思考すれば遺伝子の問題を度外視すれば、資本家階級とに何の差異も見出だせません。霊魂から解放された人間は、インド哲学でのシッダルタの説く教え、輪廻からは解放され、「空」若しくは、唯物主観的には「滅び」を階層に関係なしに待つことになります。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年07月18日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/マルクス&エンゲルス1(四百八十一) ヘーゲルの1807年での育った町イエナから発信され西欧を席巻した思想も、イギリスの19世紀末からの産業革命が、フランスへと影響を与え、1840年代のドイツへも波及し、近代的大工業が支配的になり、機械制大工業もって資本主義的生産方式の緒につきます。資本主義的生産様式とは企業にとっては大規模化への投資を容易にしますが、株主のため若しくは債権者の利益を確保するために、其の労働力からは多くの利益を引き出すために搾取する体制です。其れが故に労働者は生産を行う過程において、資本家のために彼の剰余価値は捧げることを余儀なくされてしまいます。其れに伴ない、体制的にヘーゲル体系でははさしものヘーゲルの観念論に翳りが見えてきます。市民体制国家から機械制大工業は生産力の飛躍的上昇が要請され、大量の労働者を生み出し、労働の社会化が促進し、新たに団結する階級を生み出します。産業革命は、一方では国民大衆を絶えざる資本主義的生産に巻き込みなが、他方にあっては其の意図とは関わらず、国民の中に新たなる労働者階級なるものを創造します。其のことが、哲学にあっては史的には最も古参の「唯物論」が社会主義体制の「唯物論」に変貌する切っ掛けを与えます。其れまでの「唯物論」は決して「神存在」を断固否定するものではなく、知覚の領域内の外を外部として認識し、内部を自己と認識している姿勢であるものが、アイデンティティー(自己同一性)とは人間の脳の動作様式を説明するために便宜上考えられたものであり、自我などというものは、それ自体実在する訳でなく、さまざまな知覚の束にすぎないとする物質がすべてであるという「唯物論」なかでもカール・ハインリヒ・マルクス(Karl Heinrich Marx/1818年-1883年)とフリードリヒ・エンゲルス(Friedrich Engels/1820年-1895年)の体制唯物論が浮上する門戸を開きます。西洋哲学史上、唯物論であれ観念論及び実在論が神からは絶えず離れることのなかった思想に楔を打ち込みます。人間霊魂の黄昏が訪れたのです。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年07月17日
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思考と直覚」人間の霊魂を思考/キルケゴール36最終章(四百八十) キルケゴールのヘーゲル体系に対する批判は、アダム・スミスに代表される「自由放任(レッセ・フェール)」時代の終焉を意味します。19世紀にはブルジョアジーの矛盾点が露呈されたことへの反映だとも言えましょう。キルケゴールの活動の時代背景は、アダム・スミス曰く「見えざる神の手」が、人々の神話から除外されつつある時期でした。「神の見えざる手」は、当時に顕著に現れたブルジョア社会の矛盾とともに終末を迎えます。見えざる神の手神話が通用する限り、ヘーゲル体系の客観的観念論は、何ら人間個々の主体性や実存との矛盾点が見出されることもなかったのですが、「人間が世界精神の操り人形に過ぎない」人間が世界の中心で叫ぶことが出来ない矛盾の露呈です。人間開放のためにはブルジョア社会そのものをキリスト教的観念論からは離脱するべきだとするプロテタリアートが登場します。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年07月15日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/キルケゴール35(四百七十九) キルケゴールの立ち位置からすれば、地上の有限な存在にすぎない人間は、もはや、天上の無限な存在である本質とは無縁とはいえないものの繋がりは持たない。繋がりを持つという観念は単なる抽象にすぎない。即ち、抽象的観念の幻想だと非難します。有限な存在にすぎないものと無限なるものは深淵で隔てられ、有限なる人間の理性如きものでは、永遠の本質、其の神格性は知ること能わず、知られざるものであり、深淵で隔てられた神を知ることが出来得るのがキルケゴールの当初の実存主義の思考でした。其の実存も推敲する経過を経て、彼は神は人間の理性や論理を超越しており、観念論や実存主義も其の実体には触れ得ず、「信仰」其れも唯一、神との交流を付与された「神の子」キリストを通じてしか真実はないとの境地に至ります。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年07月14日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/キルケゴール34(四百七十八) ヘーゲル哲学の神学的な装いを引き剥がすもう一つの方向性は、ヘーゲルの理性思考の傲慢が、神存在をヘーゲルの思惑とは相違し、「神」を地上に引き摺り下ろしたことに対する非難です。「信仰の世界」が汎用的な「絶対精神」に帰着するとして、神の定義及び真相として、全体世界と神を同一化し、信仰世界を有名無実のものとしたものへの反発、本源的に世界の本質或いは本源と世界内存在とは異相とする立場です。此の立場からは、地上の有限存在、なかでも人間の成因である存在は、楽園追放以来無限な本質とは深淵の渕で隔てられている。時間的には有限な存在、少なくとも肉体を保持・履歴を保有すること不可能な人間が「信仰を離れて」神との繋がりを望むとすれば、其れは人間の傲慢さが成さしめたものとします。ヘーゲルの理性思考によって、絶対存在・精神・意識と意思を人間との合一を目指す姿勢を正し、再び、人間を「本質」と「存在」を神格化して深淵を与えんとするのが、キルケゴールが観念論を批判し実存の個人主義から推敲した結論です。後世には「神は死んだ」の言も此処から解明できるでしょう。ヘーゲル哲学の「神」は全体世界若しくは其れをも覆う絶対意思ですから殺そうにも対手とは成り得ません。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年07月13日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/キルケゴール33(四百七十七) キルケゴールが人間理性の基底である霊魂を思考し、其の経緯の果てに「神」を見たのは偶然ではなく、彼の当初の命題「個人主義」から帰結が予想されています。個人或いは個体が見え得る全体世界とは集合体となり神格に行き当たります。ヘーゲル哲学の神学的な装いを引き剥がすには、二つの思考方法が考えられます。一つは、当たり前といえば当然なのですが、世界的現実を全て物質の性向だとする唯物論です。唯物論の思向性からヘーゲル哲学では世界的現実を、所謂、神格性を持たない本質・根源としての神、例えれば、ビリヤードのナインボールの全体世界と合一したハスラーと合一させているところに神秘性を持ち込んでいるとします。然し乍ら、ヘーゲル体系以降の科学の進歩が彼の神秘の衣を引き剥がすとします。ヘーゲルの「現実的なものは全て合理的である」とする命題は、ヘーゲル哲学左派やマルクス主義の思考動向、現実的なものは、現象的に現実と見えているものが、必ずしも、真に現実的であるわけではなく、日々に合理性を失いつつあるものは如何に現状強大であっても衰退する。反対に、今さように現実性が乏しくとも、真に合理性があれば、必ず勝利るという。ヘーゲルの「現実的なものは全て合理的である」とする命題を転化されるべきものとします。謂わば、不合理の合理性への転化を説いています。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年07月12日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/キルケゴール32(四百七十六) キルケゴールがヘーゲル哲学の「神の汎用性」を批判、其の客観的観念論を実存主義と個人主義を持って打ち砕かんとした結果は「宗教権威であるキリスト教」でした。彼はヘーゲルの人間の基底に眠る精神が「絶対精神」の現れと位置付けるのを人間に本拠に実存・個体主義でヘーゲル体系の掲げる神を粉砕する心づもりが、豈図らんや、人間云うところの人格せいの極まりである「神格」を主張することになります。ヘーゲル哲学が基底とする観念論に於ける「神」とは、何ものもにも干渉されない存在の「要(かなめ)」であり根源である絶対精神」を指しています。裏を返せば、神は信仰上の対象ではあり得ず、世界其の地球上の存在に対立する要素、人間精神と本質的に対立する要素はなく現実世界其のものです。即ち、ヘーゲル哲学によって、宗教は人間理性に基づいて、「神」は宗教的特質を放棄させられています。言い換えれば「神」は存在する。其れは人間の人格の対象となるものではなく、対立などは毛頭起こらない。神には「神格(神性たる個体)」なる卑小なものは存在せず「絶対の精神」「絶対の意思」である「根源の霊」だとあるのみと云えます。然し乍ら。対話することは不可能にしろ其の意思・精神の片鱗を受け止めることはあり得ます。それ故、神を愛することは自己の精神に「至福」を与えてくれることの約束になるのは理の当然でしょう。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年07月12日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/キルケゴール31(四百七十五) 個体主義なかでも典型的な個人主義である実存を掲げているキルケゴールが、何故に、神を失い其の自己思考から、青年キルゲゴールが逆説的な跳躍、其れも、哲学的には特殊な神秘学とも云える「基督の父」を神と宣言するのかは、キルケゴールを誕生させたデンマークがキリスト教を国教としていたことも一因にはなりますが、当初の青年キルゲゴールは教会其のものの世俗化を非難したに留まり、所謂、教会権威には挑戦することはしませんでした。だが、其れが仏教乃至イスラム教でないのは何故か、元来、ダレスやデモクリトス以来、哲学は宗教的色彩を排除した唯物主観的なものであり、たとえ、観念論であろうとも形而上の真理を自己の理性に鑑みて追求するものであった筈です。キルケゴールの抽象批判は自ら焔硝させることになり、新教を受け入れれれずにいるキルケゴールと同様の思考を辿った後世の青年を破滅へと駆り立てます。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年07月10日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/キルケゴール30(四百七十四) 青年キルゲドールの自己の精神を直向きに追求した個人主義の思考に誘われて、哲学的に探求してきた結果が、信仰の戸口であり、其処に足を踏み入れることは如何なる意味においても哲学からの離脱と言うよりも離反を意味します。キルゲドールは我々有限な存在としての人間を、個体主義を展開し全体世界との融合を試みていた筈である。其の深淵の最中(さなか)で彼は、彼の思考経過を踏んできた人間を絶望の哲学へ追い込んだ。「信仰の戸口」を叩かない者には「絶望と死」以外にはないとします。以降の彼は哲学思想を離れた教会倫理の斡旋者へと変貌しています。然し乍ら、基督の教会世界に入らず生きない環境の人間には「絶望と死」が待ち受けていることを教え説くのでしょう。少なからずも哲学にては神を信奉するものは、「神とは無限で知らざれざるもの」であり「識る」ことは出来得ても「知る」ことは出来得ないとするのが本筋でしょう。其処には青年キルゲゴールが抱いたヘーゲル体系の汎用的な絶対性を覆す力はもはや無く、哲学の「我確信する」が「我信じる」というよりは「世界の方から信ぜらしめられる」とした世界への、キルケゴールの宣教師さながらの信仰と宗教の世界しか用意されていません。其処には哲学の目指す理性思考、人間の霊魂の尊厳は一切が受動的なものであり能動性に欠けていることは歪めません。現代人の合理性とは懸け離れた思考、非合理と逆説を哲学調に展開したと表現しても過言であるとは非難されることはない筈です。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年07月09日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/キルケゴール29(四百七十三) 青年キルゲドールが自己の精神を直向きに追求した筈の個人主義が、キルケゴールが云うところの「キリスト教に人々を導くための誘いに過ぎない」との文言(もんごん)は逆説的な神を失った人間の悲鳴だとしても、何故(なぜ)にキリスト教に其の地位を与え哲学を超えさせるのか、キルケドールの外殻を育成した当時のデンマークの国情を眺めてみなければなりませんデンマークは国体こそ王国としての威厳は失われてはいなかったにしろ、国風はドイツ一色に染め上げられる寸前にありました。青年キルゲドールが庶民層は別にしても、話し言葉までドイツ語に知識人を自認する思想家の公用語をドイツ語化している状況は強制されたものでないとはいえ、非常な不快感を覚えたでしょう。其の代表格がヘーゲル体系でした。此のドイツの哲学者巨人ヘーゲルに挑戦を挑むことは成り行きであり、初志の思考であったと考察できます。其の自己が推敲に推敲した結果がヘーゲルに及ばないと覚った時には、絶望からにしろ「キリスト」に回帰するのは当然の成り行きであり、彼の霊魂の平安への実在となります。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年07月08日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/キルケゴール28(四百七十二) キルケゴールが云うところの「キリスト教に人々を導くための誘いに過ぎない」とは、真実、自己の思考が最初からキリスト教への門口に人々を導く意志をもって、ソクラテスやヘーゲルまで登場させて思考を展開・進捗させたのでしょうか。先ず以て。其のように捉えることは出来得ません。彼はカントやヘーゲルの汎用的な神を否定して実存の個体主義を主張していたからです。此の論を突き詰めてゆくならば「マルクス主義」の唯物観に近づいたであろうから解き明かせます。最初は人間の倫理的実存を確信して思考を突き詰めてゆく腹積もりであったものが、推敲を重ね練り合わせるうちに巨人ヘーゲルの前に崩れ去ったと見るのが妥当でしょう。其のことがあってこそセーレン・キェルケゴールが「絶望の哲学者」の称号が符合します。とは言え、人間の倫理的実存を頑なに哲学に求めた姿は認めるべきでしょう。青年ヘーゲルがミレニアムに復活するのは其の姿勢に共鳴にあるのです。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年07月07日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/キルケゴール27(四百七十一) 絶望の哲学者とも称されることもあるセーレン・キェルケゴールですが、世界を絶対存在の意思、世界理法と捉えるヘーゲル哲学の影響を受けるも、その思弁的合理主義に反対して主観主義の立場をとり、将又、人間実存の真理は「あれかこれか」の選択、融和しがたい対立にあると説き、個人主義の先駆け、実存哲学の先駆者とされているキェルケゴール。著書「あれかこれか」や「不安の概念」及び「死に至る病」に代表される「客観的真理が人間を生かすのではなく主体性内面性が真理である」と「徹底した個人主義」の思考に誘(いざな)われた人間はとどの詰まりが、信仰とは思わない筈です。まして、自己の思考経過は「キリスト教への誘い」と述べるあたりは、仏祖の教えを飛躍的に高しめた偽経「大乗仏教」の「火事の方便」を彷彿とさせてくれます。彼がなに故に「悲嘆の哲学者」と云われる所以は哲学放棄の所業からの指摘です。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年07月06日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/キルケゴール26(四百七十) 一般に云うところの疑問「信仰とは何ですか」と問うて、正直その語彙の意味するところを説明することには正答することは甚だ難しいことは歴史が示しています。「何故信じるのか」と問われれば大半の人間がそうあるべくした環境に根拠を求め示します。キルケゴールの思考の観えない実体思考と哲学の行き付く先のとどの詰まりが、信仰とは保証された期待であり、観えない事柄にを実相させ得る意味の慣用句がポケット・ビリヤードの玉溜まりからの再度の台上への帰還を人間に、意識させたのかもしれません。人間は見想(けんそう)し得ないもの、当然に、「神」とは人間には見えないのが特質であるから、見えることがあり得るならば、科学的証明が可能となり、宗教や哲学は無用の長物となります。人間は見えない故に一層不安を感じ、其の実相を求めます。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年07月05日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/キルケゴール25(四百六十九) キルケゴールが云うところの「キリスト教に人々を導くための誘いに過ぎない」は、自己の思考の推敲の結果が「信仰」にあったということです。彼の育った環境がキリスト教徒であった故に「新教」が持ちだされ、「旧教」の環境にあれば「エホバ(ヤウエ)」を持ち出したかもしれません。何故なら、彼は信仰の人ではなく思考を突き詰めてゆく思想家、其れも、愛したソクラテスの顰(ひそみ)に倣っての「何か」を期待した思想家であるからです。それ故に、彼の思考の中心を占めていたのが哲学であり信仰が先行していたとは想像が出来得ないからです。想像するに、彼に娘の言葉を発せしめたのは「哲学」への愛したソクラテスの顰に倣っての「何か」を期待していた或いは愛したソクラテスの顰に倣っての「何か」を期待していた挫折或いは悲嘆の結果でしょう。其れ程までに彼を結果的に魅了した信仰とは何なのでしょう。実際、人に尋ねても答は人其々の生活環境により違いが露呈するので定義し、亦、されることの困難がここに表面化します。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年07月04日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/キルケゴール24(四百六十八) キルケゴールの哲学からの離脱、此のことは、彼の輝いた何十年もの文学的著作に見せる思考の片鱗、哲学的思考の表彰を見事に砕きます。其の彼自らの言(げん)「キリスト教に人々を導くための誘いに過ぎない」は、彼の思考経過に期待した人間を裏切っています。彼の著作を愛した人間は、キルケゴールの愛したソクラテスの顰に倣っての「何か」を期待していた筈だからです。其れ等の信仰には期待せず、哲学的真理を求めた人間を自己の思考経過に歩調を合わさせながら、信仰へと誘い、キリスト教に焦点を求めるように導きます。此のことはキルケゴール自身が云う「人を信仰の戸口に迄、騙し誑し込む」そのものでしょう。仏教の祖であるシッダールタの思考・哲学を飛躍的に前進させた「大乗仏教」説くところの「方便」と捉えると解釈が容易になります。しかし其のことは、キルケゴールが思想、哲学的には何も解明していないことが顕彰しています。彼が「挫折の人」「悲観主義者」として非難され、中途半端に彼の思考を辿ると自己の精神のみならず自らの肉体の消滅を望む可能性があることは夫々が肝に銘じて触れることが肝要でしょう。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年07月03日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/キルケゴール23(四百六十七) キルケゴールが存した時代から20世紀を経てミレニアムの現代の科学的理論と技術の発展は日進月歩どころか日々刻々の飛躍的進歩を見せています。クローン技術はもとより人間の皮膚細胞からの受胎までをも可能にしています。此れ等の環境に対してのIT環境の格段の飛躍が齎されれば「アンドロイドは夢を見る」即ち自らが思考し霊魂を観想するのも、あながち、間違ってはいない現実が迫っています。然し乍ら、人間の倫理的実存と其の観念は相も変わらずキルケゴールが存した時代からの飛躍的な進歩はありません。コンピューターが曖昧思考と自覚を持った時には人類は考古の哲学である人類機関説を受け入れナノテクノロジーにより自らをアンドロイド化するつもりなのでしょうか。此の思考経過はキルケゴールが存した時代にも表面化します。其のことがキルケゴールの形而上哲学からの離脱を促します。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年07月01日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/キルケゴール22(四百六十六) キルケゴールがいう人間の現実は実存其のものであり、其の実存の実態はと問うと答は「絶望」であり、其の絶望の真相は死に至る病と主張し、其のことの結果は罪だとします。ならば、罪とは一体全体何を指すのか。答は人間が神から離れて在ることです。人間が肉体に捉えられ有限の範疇からは脱け出すことを得ず、神とは永遠と深淵をもって隔てられていくとの思考経過を描き出します。 キルケゴールは彼の思想を好意的に受け止めた思考を絶望の淵へと誘い(いざない)ます。此の思考の推敲に再度「悲観のパウロ」の言を引用し「私は何と惨めな人間なのだろう。此の死する身体から私を救ってくれるものは誰か。」人間を絶望の真相である死に至る病「絶望」からの救いはあるのか。キルケゴールはパウロの言を引用し「此の死すべき肉体から自分を救ってくれるものは誰か。まことに、私達人間の主「イエス・キリストによって、神は感謝すべきかな。」と結んでいます。此処にはキルケゴールは信教者としての一面しか見られず、哲学者としての面容は消滅します。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年07月01日
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