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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/ヘーゲル-3(四百四) 理神論は神学史上的には、17世紀後半から18世紀にかけてイギリス主体で展開し、フランス、ドイツに波及した合理主義的、自然主義的な「神」の概念を指します。理神論のチャーベリのハーバートが理神論の父と呼称され、宗教の基本教義を、万人に共通な自然理性によって承認せざるを得ない生得的な五つの箇条に集約した基本思考を基底にします。1624年にチャーベリー・ハーバート (Herbert of Cherbury)卿(1st Baron)は、「真理について」を公刊して、自然宗教の5つの基本命題を掲げます。それは一に神の存在、二に神を礼拝する義務、三に経験と徳行の重要性、四に悔悟することの正しさ、五に来世における恩寵と堕罪の存在を信じることでした。それ故に、啓示や個々の宗教の制度などは二次的なものとされ、其の愛弟子ブラウントはこの説を普及させることに努めますた。但し、ロック以後の理神論者は、経験論的傾向を強め、生得観念を否定し、奇跡、預言、秘儀などを科学的実証性に堪ええぬものとして排除し、これらを神的権威の衣を着た聖職者の権力欲に発する行為として進んで攻撃し、思想の自由、宗教的寛容を主張します。斯くして宗教の実質的内容は、基本教義で合致する限り、現実的な、よき市民たる道徳に還元されていきます。代表者としては、ジョン・トーランド、アンソニー・コリンズ、マシュウ・ティンダル、トマス・ウールストン、トマス・チャブ、トマス・モーガン、ジョン・ボリングブルク等々が輩出しています。フランスでは、イギリス理神論やロック、ニュートンの影響を受けたボルテールに代表されるが、其の後を引き継いだフランス革命の思想の背景となるルソーを経て反カトリック、反絶対王制のイデオロギーとして無神論へ急速に移行します。此の思考はドイツのカントやヘ-ゲルの生涯上の環境には影響を齎し神的実像を再構築させます。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年03月31日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/ヘーゲル-2(四百三) 近世啓蒙期以降の西洋哲学に於ける「神」の取り扱いに関する思考の基底には常にキリスト教の権威と神学の影響下にあり、極東日本の天照信仰と仏教を基底にする信仰思考では捉え切れない面はあるにしても、カントやヘーゲルの「神」の取り扱いについての思考を究明するには、ラテン語のデウスdeus(神)に由来し、ギリシア語のテオスtheos(神)に由来する有神論(theism)とは語源的に同じである「理神論(deism)」を二人の思考に影響が無かったとは考え難いのは事実です。特に、万能学者であり思想家としても傑出していたニュートンが近代哲学に影響したことは疑いを挟めません。其の既定にあったのが「理神論(deism)」なのです。此のことを認識しない限り、其の後の西洋哲学の流れに於ける「神」の取り扱いに誤謬が産まれます。カントやヘーゲルの「神」の取り扱いについての思考は、「理神論(deism)」を基底にしています。神を大宇宙世界と其の時間制を超えた永遠、世界の普遍の理法の秩序の創造主としつつも、世界の埒外にたつ超越的存在・超越的理性である「絶対存在」とする点で汎神論や内在論とは区別され、人格的な意志発動者としての神を認めず、世界は創造後には「絶対意識存在」は創造主からは離れ自動的に運動し続けると考え、人間生活に直接関与しない点でカント「物自体」やヘーゲルの「思考の思考」と軸を同一にします。したがって、人間生活に直接関係する摂理や恩寵、奇跡、啓示も認めない点で、正統的有神論からも区別され哲学的にも「理神論」は影響を与えます。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年03月30日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/ヘーゲル-1(四百二) 近世に於ける日本で教壇に立つ哲学関連の思想家は、良かれ悪しかれ、カントとヘーゲルの影響下にあったと言えます。特に神を全面的には否定しないことから、「理神論」と軸を同一にしたところから近世日本では受け入れやすかったことも事実でしょう。二人の巨頭は哲学史上の大きな峰であり超えなければならないし、更なる思考のためには受け入れ或いは対決するにしろ必須の思想であり、事実、西洋にかぎらず日本の思想家も其の段を踏むことになります。カントとヘーゲル共に「理神論」と軸を同一にしたというのは、理神論(deism)が、宇宙創造主としての神性は認めるが、神を人格的存在とは認めず啓示を否定することから神学説ではあるがカントの「物自体」との共通性がみられ、哲学的にも許容出来得る。 其れ故に、神の活動性の発揮は宇宙の創造のみ限られ、それ以後の宇宙は自己発展する力を持ち、 人間理性の存在を創造時のみに「絶対理性」が働き、その説を前提とする限り、奇跡・予言などによる神の介入はあり得ないとして排斥されることから、啓蒙期の思考として哲学・神学が対決するまでには至らなかった。、神の活動性の発揮は宇宙の創造のみ限られるにしろ世界は存在し、創造時のみに「絶対理性」が働かないにしても「人間の理性或いは霊魂」が現存することは「神」を出発点とすることの証です。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年03月29日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/哲学の二大潮流(四百一) 理性の哲人カントと哲人の理性を説くヘーゲルは、古代ギリシァの三哲人ソクラテス、プラトンに続いたアリストテレスの霊魂観念を共に「理性」こそが其れであり、其の最高峰に位置するのが、何ものからも影響され得ない「絶対理性」の精神存在、アリストテレスの霊魂観念が哲学的に神と呼称するものであり、其の「神」は特定の人間の教唆や奇跡で示され与えられる神ではなく、アリストテレスの云う「思考の思考」のみによって現れ、示され、亦、証される「絶対的存在」としての精神であり、それ故に、神は何処までも「理性的存在」であり、其の実像を観相し得るのは哲学にある。此れはカント及びヘーゲルが共に「神」は「最高の理性存在」としての形姿を纏うのであるから宗教ではなく哲学が概念によって把握すべきものであり、現代にも続く合理主義的な思想家や科学者の理性論と軸を同一にします。但し、此処から、思考を一歩進めれば人間理性論が多分に「宗教的神」の信仰、神秘性を否定する「無神論」への危険性が待ち侘びている可能性をも否定しきれないことは。21世紀の現状を踏まえれば理解されます。宗教的「神」と「思考の思考」から捉えられる神、即ち、「絶対理性」としての神は乖離が進み現代では「教条」と「思考」の対決が課題となり、人間世界の急務の事実は哲学本来の万有の学際が求められ、宗教を哲学が分野を別とはせず其れを超えることことこそが急務だともいえます。此の稿の記者は思考、其れも自ら己を思考する能力は世界理法の奇跡であり、永遠に通じる鍵となっていると認識し「人間の霊魂を思考」することを現代哲学及び科学が解答を出すまで絶止む事などは自らの死を現前にするまでは認識し、確信に到ることを求めています。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年03月28日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/哲学の二大潮流(四百) 中央アジアと東アジアとを考慮しないならば、人間の理法へ思考の探求は今日(こんにち)哲学に携わる者ならば共通して認識される二つの潮流に関わらない訳にはいきません。一つは古代ギリシァの三哲人ソクラテス、プラトン、アリストテレスと続く霊的観念思考様式及び其の形態の潮流、一方はドイツ古典学派、カントに始まる大陸合理論とイギリスの経験論の流れを汲みながら現世生活に適用させようとしたカントとイギリスの経験論を更に後世に引き渡す潮流を生み出したヘーゲルの弁証法を駆使して哲学的体系を構築したゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル(Georg Wilhelm Friedrich Hegel/1770年-1831年)が其の今日現在に到るまでの世界の本質を明らかにする思考方法です。但し、双方ともに共通するのは、極端な外感覚的で物質的な存在以外を疎外する現世理論は謳ってはいないことです。言い換えると、人間の肉体死を生命全般の仕留めと区分していることが認められます。cap-hiroのプロフィール
2016年03月27日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/イマヌエル・カント-40最終章(三百九十九) カントの実像を東洋の最果て日本では、過去どの様に捉えられていたのかは、江戸・明治に跨る西周(にしあまね)や加藤弘之を揚げるまでもなく、カントを進歩的或いは革命的哲学者として評価し、井上円了(いのうええんりょう)にいたっては、自ら建立した哲学堂に、孔子・ソクラテス・釈迦と並んでカントを据えています。明治も末年から昭和の初期まで哲学はカントの代名詞でした。戦前に学生に歌われ流行った「デカンショ節」は「デ」はデカルト、化「カ」はカント、「ショ」はショーペンハウアーを意味すると言われる程哲学的にはポピュラーな存在でした。此の誘引は明治初期以来の紹介した哲学者としてのカント像、即ち、小市民的で個人主義者、或いは進歩的で革命的な側面、更には仏教や儒教はたまた封建主義の妥協者として受け止められています。日本の倫理教育と云えばカントの代名詞です。日本のカント像は現実生活における側面が強調され、カントの深遠な思考であるインド大陸のシッダルタの思考に近似した「物自体」の霊性は破棄されていたのです。カントにしろシッダルタにしろ人間の霊性を完全には否定はしません。「神」を完全否定しない態度もカントしろシッダルタも共通しますが、カントは神を「存在有」と象徴したのに対し、シッダルタは限り在るものとしているのが異なります。若かりし頃の記者はカントが道徳の見本だと見做して嫌悪感を抱いていたものです。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年03月26日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/イマヌエル・カント-39(三百九十八) カントの描く世界は、所謂、物質世界であり人間には外感覚的に捉えられ内応する感性が支配す世界、其の感性世界では東西世界の思考が課題とする「因果法則」の探求があります。カントは此の「因果法則」の認識するのを「理論理性」と呼称しています。他方、「物自体」に要請される世界では因果律は部外視されている世界であり、意志の自由がどの様にして行われるのかが課題とされています。カントの此の異相の世界の統合の要請を受け入れます。詰まるところ、自然には因果の法則が働いているだけでなく、目的と手段という問題も関係が働いている。自然は根源的に超感性的なものに接し得る接点を持ち、そこから目的性を与えられ成り立っている。此の世界の内外自然「因果法則」が支配する世界と「物自体」の領域が自然の合目的性として実現されている。其のものこそが、「美」と「有機体」の世界であり「自然の合目的性」概念だとします。カントは、此の「自然の合目的性」を認識する能力は、18世紀のイギリスの「常識(common sense)」がドイツではカントの定義するところの「理論理性」言い換えれば「悟性」結びつけられ無反省に生活で使用される通俗的悟性よりも論究的理性が上位に置かれるようになった「理論理性」と本質的には観念上の事柄であり実行動(外覚反応的運動)を伴わない「実践理性」の両方に跨る中間的要素として在る特殊を普遍のもとに関係づける能力。普遍が与えられていて、それに特殊を包摂する規定的判断力を、与えられている特殊に対して、それを包摂するための普遍を求める反省的判断力とに区別しますが、悟性と理性あるいは意欲と認識を媒介する此の能力としての判断力、美および目的はこれで把握されるとして、ギリシア三哲人の美学および生命現象の学が再構想されます。 即ち、美の探求は生命現象の学にも通じ、見えない世界人間の深層に眠る理性のしか感受することの出来得ない世界の理法、「物自体」に要請される人間の「意志の自由」と「霊魂の不滅」及び「神の存在」を繋ぐ接点にも成り、且つ亦、架け橋になります。宗教的説諭が諄々(くどくど)と道理を述べるよりも、一つの偉大な芸術が人間の霊魂を呼び覚ますのは此のカントの定義の「判断力」かもしれません。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年03月25日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/イマヌエル・カント-38(三百九十七) カントの道徳律を心に留めて行動していると自覚している時だけ人間は自由意志でいられるとする此の「自由論」は、良し悪しは兎も角も、ドイツに身を置くカントが、フランス革命の精神的支柱とされたルソー(Jean-Jacques Rousseau)の、人間に於ける権利である平等は自由だとする思想の影響下にあったと言えます。ルソーはよりラディカルに,政治社会の再構成の担い手になることこそが自由を意味するとし,さらには自由であるように強制することまで説きます。此の自由概念の展開は,君主主権論から国民主権論ないしは人民主権論への転換と表裏をなすものであったとはいえ、カントは其の「自由」を形式化し、唯物観からは距離を置き、自由を思考上の問題として形式化し唯物主義者からは「自由」を空疎化・形骸化したと非難されます。カントは唯物主義者の思考する経過を異にし、「自由」を誰にもある権利として平等と一体化させています。其の思考に由縁すれば、唯物主観の全てを支配する自由、後世にはスターリン(Iosif Vissarionovich Stalin)の主義の側の基本姿勢から云えば、正義に準ずれば自由の翼のもとに「ポア(本来的意味合いではない現代の和風流通語)」する姿勢を推し進めたこととは正反対の思考だと言えます。。カントの「自由」とは、人間には決して譲ることの出来ない、他人の侵すことが出来得ないし、許される筈もない筈もない夜会生活一般からの全ての関与から逃れる自由がある。此の自由は他人が侵すことは許されなう生得的権利とします。此の意味するところはカントがブルジョアジーの私的財産を護符してるに過ぎず、思考の基底というよりは、社会学上の問題であり、「人間の霊魂」とは多少の関わりはあるにしても俎上が異なります。ルソーの思考の生臭さを引き継いだものとしてカント哲学を汚穢しています。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年03月24日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/イマヌエル・カント-37(三百九十六) あれだけ実生活においても自己の思考其のものといえる倫理を現実生活に実践(通常の意味合いで)していたカントが、「物自体」に要請される、人間の「意志の自由」と「霊魂の不滅」及び「神の存在」をどの様に取り扱い、尚且つ、信仰のみに制限されない自己の精神の自由を得るのかを「道徳」に求めます。カントの哲学の主要な課題は「人間の意思の自由」にこそ重きを置くからです。「道徳(moral)」といえば我々が通常抱く概念は、字句の如く「道」と「徳」からなり、「道」とは世の中で人が従うべき道のことであり、「徳」とはそれを体得した状態のことと受け止めています。此の和漢の言語は中国の古典「易経」に「(聖人は道徳に和順して義を理(おさ)め、理を窮(きわ)め性を尽くして以て命に至る」というのように表現され、道徳は「天道」でもあり、人間の従うべき理法と自然の理法とが一体であることが示されているように、西田哲学の「理法」がカント哲学の「物自体」に要請される「道徳(moral)」と受け止めるのが適切です。人間が道徳法則に従うこととは、カントは「道徳的な振る舞いは、自分の損得を乗り越えた結果、出てくるものでなくてはならない」とします。行動の理非を道徳的に正しいかどうかの正邪を決めるのは、行動の結果ではなくて心構えなのだちします。道徳律を心に留めて行動していると自覚している時だけ人間は自由意志でいられる。人間が或る特定の目標の指針に自ら命ずるのではなく、世界理念の法に従うか従わないかは人間の自由であるが、其の道徳律に反することは人間を拘束する。詰まりは、世界理念に自己の意思を開放して同期させることが、人間を柵(しがらみ)から解放させ真の精神の自由、シッダルタ説く我執の柵(しがらみ)から離れた奔放な自由精神を手にすることを可能だとするのに対応します。此処で問題とするのは「自由」とは現実生活における権威や権力関係を排除し、自らの精神生活を謳歌することなのです。「最高の幸い」即ち理念との一体化は理性が思考する深層に隠された世界であなたを待ち受けます。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年03月23日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/イマヌエル・カント-36(三百九十五) カントの実践認識論にいう「実践」の語彙には唯物史観である唯物論者の社会的行動の実践なる意味合いはなく、本質的には観念上の事柄であることが重要な要素となります。此のことが「実践理性」に認識の働きをも含有していることを矛盾なく意味をなさしめます。カントは其のこと故に、「実践」を認識には「実践的理性」があり、「理論」には「理論的理性」があると述べ、其の二つの働きを区別しています。しかもカントは、其の「認識」なるものが、「実践的理性」と「理論的理性」が同様な「認識」は意味しないとします。「実践理性」の場合には要請される認識、要請される対象に人間には不可知とされるも存在を秘めた玉突きのハスラーの決して観えない「物自体」の領域を想定します。其れこそがカントを単なる経験論者や唯物論或いは認識論者にしない所以です。カントの「物自体」とは幽遠極まりないものであり、その「物自体」に要請されるものは、人間の「意志の自由」と「霊魂の不滅」此の霊魂の不滅はナインボールのキューに突かれた玉が台上からは消え失せたにしろ再び台上に蘇得ることをも可能だとする意味合いかもしれません。最後の「物自体」に要請されるものは「神の存在」です。此のことからカントを単なる信仰容認というよりかは神秘主義に傾いているとするのは日和見主義(Opportunism)と成ります。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年03月18日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/イマヌエル・カント-35(三百九十四) カントの秘められた観念の世界の真相に近づくには、彼の用いる述語を明確にしておかなければ彼の思考の基底さえ掴むのが覚束なくなります。第一にはカントの哲学に取り上げる「実践」の語彙です。辞書的には「実践」とは道徳的な「行為」、或いは「道徳」其のものを指しますが、「道徳」は観念的なものであることに通常は分別しています。然し乍ら、カントは道徳的な「行為」を唯一の「実践」と定義して、生産行為としての労働を「実践」の埒外に位置さしめます。第二にカントは「実践」には必然的に「理性」が伴い、行為をするところ理性無きところに「実践」は皆無だとしています。此れが彼の云う「実践理性」、ギリシア語のフロネシス(希:phronēsis)に由来、プラトンの定義ではヌース nous (ヌース )或いは,ノエシス・ノエセオス (noēsis ) としての知的直観の能力と区別され、更にはアリストテレスは、プラトンの定義を押し進めて、フロネシスが理論的認識能力として他の仕方ではあり得ないもので在るのに対し、生産行為としての労働は制作の能力であるとしており、カントの云う「実践理性」は此の流れを汲みます。しかし、カントは「実践理性」に、更に認識的能力としてに「理論理性」を付け加えざるを得ない事になります。実践をも、感性的・経験的動機に規定された実際的で有用的な実践と,理性の法則に従う道徳的,精神的なな実践とに区別けして倫理的実践行為をより優れたれた意味での実践と考えています。キリスト教神学神学の一部門「実践神学」にも影響は波及します。カントは人間の認識の物主観ではなく「物自体」を認識出来得ないにしても「何か?」は心得ています。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年03月17日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/イマヌエル・カント-34(三百九十三) カントの「認識論」に基づく実践と思考を探求する上では「実践」なるものの語彙が解明の門口となります。和名のじっ‐せん(実践)は国語的に解すれば、主義及び理論などを実際に自己自ら行うこと、即ち、「理論を実践に移す」と云うように使用されます。対して、哲学上では其れ其れ各々に思考方法及び思想により多少なりとも意味合いが異なっています。先ずは哲学上での人間の実践とは、人間の「倫理的行為」とするもので、此の用法はアリストテレス使用し、カントは凡そこの意味で用いています。此の哲学上の言葉を、マルクス及びエンゲルスは人間の社会性を持ち込み、人間が外界(人間社会上の外界)についてもっている自らの知識に基づき、これに働きかけて変革していく行為としています。実践と似通った言葉に実行と実施がありますが、実践」は理論や徳目などを、自ら実際に行う場合に多く使う、例えば、「理論と実践」「神の教えを実践する」のに対して、「実行」は最も通常一般に使われるが、倫理的な事柄についてはあまり用いることはまずありません。「親孝行の実践」とは聞こえが良いが当て付けがましくなり不穏当と言えるでしょう。「実施」となると、予めに計画された政策や祭事などを実際に行う意で、「消費税の年度内実施」や「祭期」などと用いられています。殊程多様に「実践」は頻繁に用いるためにカントは厳密に「実践」を定義します。凡そ実践とは現実経験主義的であり、外物質思考環境世界に育った人間には当たり前として意識することも考えられますが、其処には秘められた観念の世界があることをカントは解明して行きます。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年03月16日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/イマヌエル・カント-33(三百九十二) カントは人間の思考形態の理性の定立・反定立という矛盾が浮上するのを、「二律背反(Antinomie)という論理学上の用語、論理的にも事実的にも同等の根拠をもって成り立ちながら,両立することの有り得ない二つの命題、カントにより立てられた二律背反を例え、「世界は時間的にも初めがあり,空間的にも限られたものである」「世界は時間的にも空間的にも無限である」という I二律背反」は有名です。 此の理性の定立・反定立をカントは決して「神・霊魂」の精神的な物自体」を除外して、自然的世界に限って「二律背反」を説きます。カントの真意は経験なきところには認識が出来得ない。不可知は人間存在の思考認識及び経験の埒外である外界或いは外道にあるといったところでしょう。「二律背反(Antinomie)という論理学上の用語「二律背反」という論理学上の用語は、自然世界に関してだけ云えば、同時に真相であると定義付けることをも可能だとすることです。カントの「理性」観念は、人間の思考形態の内精神である理性が頭脳の中で世界を「理念」として捉えるならば、仮想或いは空想するのではなく客観的に実在するものとして否応なく取り扱うことに成り、「二律背反」に取り込まれてしまうと主張します。此のことは、カントの「物自体」を人間思考の直接対象にしてはならず、「物自体」は人間の内精神の表層に顕われる現象、即ち、感覚に止めておくべき対象であり、人間の知性と認識は矛盾へと陥る。其のことを受けて、19世紀以降の新カント派は、「物自体」を人間思考の直接対象にしてはならないとする基底に立ち位置を置いたがために「不可知論」に陥り、カント直後のドイツ古典学派は I二律背反」を弁証法として開花させます。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年03月15日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/イマヌエル・カント-32(三百九十一) カントは認識できない「物自体」は存在するかもしれないが、それは人間には不可知なもの、単に人間理性の「理想」に過ぎないと述べています。たとえ「物自体」が絶対者で創造主であるにしても人間が其の実体に見合うことは不可能、信仰以外には、精神が「認識」として意識すること、更には自覚するのは甚だ困難だと云えます。「神が絶対者で創造主である」ことの根拠は、カントが云うように人間理性の「理想」に過ぎないとするのが妥当だとも言えます。デカルトによる定立あるいは措定(そてい)観念、何かをそれとして立題すること、事態や対象の存在を想定したり肯定したりすることであり、狭義には、ある命題を証明なしに直接に主張する思考の働き、将又、其の様に主張されう命題です。定立・措定は推論の開始をなし、フィヒテでは自己や対象を生み出す自我の活動が其れで、ヘーゲルでは弁証法の第一の契機(モメント)が措定と呼称されていますが、構想ととった方が解りやすい。何れにしても何かをそれとして立題すること、事態や対象の存在を想定したり肯定したりすることの二つの意味を併せもっています。フィヒテとヘーゲルの両者とも措定・反措定・総合という運動を考えたが、フィヒテが措定を絶対的であるとするのに対し、ヘーゲルは総合に強調点を置きます。対して神の存在証明「神とは全能である。全能であれば、存在という属性も備えているはずである。故に神は存在する」には、カントは定立に対立するのがアンチテーゼ(Antithese)、肯定的主張に対応する否定的主張を反定立をもって応えます。認識論によれば「検証」されないものは存在するものではないとします。それ故、フォイエルバッハの「キリスト教の本質」という著書に「神は私たち人間の作った空想の産物」というのも不可知なものを人間が認識出来ないという語彙としえ捉えるべきものなのでしょう。此処にカントの思考法である二律背反が俎上します。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年03月14日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/イマヌエル・カント-31(三百九十) カントは「純粋理性批判」の弁証論で、「神はレアールな述語ではない」といっているのに、解釈的にいまいち訳が判らないのは、和訳が「レアールな述語(reales Prädikat)」という言葉に「実在的述語」なる語彙を当てたからです。独逸語の「Realität」は、凡そ、英語に云う「real」に意味合いを同様にしており「実在」を意味しません。此のことはドイツの思想家も永いあいだ誤解していた、カントがデカルトの神の存在証明への異論として立てられた「テーゼ」、詳細に述べると観念をまとめて表現・主張する文章である「命題」を意味します。デカルトによる神の存在証明とは「神とは全能である。全能であれば、存在という属性も備えているはずである。故に神は存在する」という趣旨であり、存在という「モノ」は有ると摩り替え頭の中だけにある神は論理的述語に過ぎない、詰まるところ、人間の精神思考の中だけにある「神」は、カントは考えうる時点で「論理的述語」としては成立していないとします。頭の中だけにある神は思考上は成立しています、しかし、そのことは「レアルな述語」として現実に存在していることを意味しないことを表現するのです。カントによれば何ものかが「存在する」といわれるためには、それが時間・空間に位置するものでなければならず、しかも人間の内なるアプリオリ、先験的で先駆する時間・空間に位置するな四つのカテゴリーである質・量・関係よって分類されるものでなければならないとしています。我々人間存在は「物自体」、なかでも真実在の神の様態の変様であるにしても、精々恵まれて「真実在の神」の言葉の通詞(御霊の賜物及び預言者)なる者、或いは人間が神を真実在のとするならば其の自身の様態の延長は内在的に認識として意識することは有り得ても、実体としての「物自体」であるビリヤードのキューを突く存在は緞帳の彼方にあり不可視なのです。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年03月13日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/イマヌエル・カント-30(三百八十九) デカルトやイギリス経験論での主観として、人間の意識内容、観念の意に限定されたものに理性の先天的概念という価値観を持ち込んだカントが、「無制約的存在」であるものに魂・世界・神について先天的概念という価値観を持ち込んだことは、人間の外部に存在する「物物自体」を不可視としたことに対応しています。カントが不可視とするものは「存在自体」を問えないということです。自己以外の制約を一切受けずに存在する者。多くの観念論哲学・神学などにおいて、「神」は無制約者とされる表現に「魂・世界・神」を持ち込んだカントは「純粋理性批判」の弁証論で、「神はレアールな述語ではない」といって批判し、最終的に中世以来続いた「神の存在証明」を論駁し、最終的に終止符を打ちます。此のことは「神」が完全である、全能である、無制約であり無限定であるというのは神の定義から導き出せる述語に過ぎない。カントによれば不可視の「物自体」を何ものかが「存在する」ことを匂わせはしますが、不可視なものを幾ら考察しようが何ものも摑み得ない。カントが無制約者とされる表現に「魂・世界・神」を持ち込んだのは存在は神の定義から導き出せる述語ではないということです。此のことは、カントによれば何ものかが「存在する」といわれるためには、それが時間・空間になければならず、更には人間の内なる先験的(ア・プリオリ)である四つのカテゴリー、すなわち質・量・関係・様相のカテゴリーによって分類されなければならない範疇におさまらなければならないということです。然し乍ら、不可視とした「物自体」に「魂・世界・神」を持ち込んだことにより、人間の霊魂が神の様態の延長とするスピノザの思考の中に取り込まれることに成ります。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年03月12日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/イマヌエル・カント-29(三百八十八) カントの「統覚」が人間の脳の感覚意識の視聴覚室に過ぎないのであれば、経験を幾ら積み重ねても、其れ其れの経験は偶然性を伴い、それ故、先天的統合判断を基底にしていては経験から認識の拡大を図ることは不可能になることを重々承知したうえで、其れを可能にする人間感性をより高める働き「理性(reason, sense特に人間理性としてVernuft)を用意、此の「理性」こそが人間の外部に存在する「物自体」を知っており、更には、其の「物自体」は無条件的な「全体存在」言い換えればスピノザの絶対存在と捉えるべき語彙を持ちます。カントは更に「物自体」を解明するための人間が内奥の精神に持つ、「物自体」に感応する能力を、新たにカントの思考方法を表意する「理念(Idee)]、 理性の働きとして得られる最高概念であり、プラトンで存在者の原型・形相ととらえられたイデア、近世のデカルトやイギリス経験論での主観として、人間の意識内容、観念の意に限定されたものに、カントは無制約者(魂・世界・神)についての理性の先天的概念という価値観を持ち込みます。其れを直覚すれば、「神」「世界自然の根源的な法」「人間内部に限られた霊魂のみならず外部世界の根源存在」直覚することも可能となります。人間の「理性/Vernuft)は「理念(Idee)]という価値観を認識することなしには、凡そ、人間精神の「理性」段階では解明出来得ない「シロモノ」であるということです。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年03月11日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/イマヌエル・カント-28(三百八十七) カントは「統覚」こそが、科学的認識に耐え得る終局の客観性を持ち、統覚の地点に立ち位置を得た時に先験的或いは先駆的立場、背後の実体存在を思考しない認識が可動するとします。不可視なものを現実化しないで理念が達成できることになります。しかし、カントの「統覚」による認識論が此処で終わっていたならばイギリス経験論哲学の完成者デイヴィッド・ヒュームの感覚に基づく実体の観念は、個々の印象の連想による主観的な結合を客観において支えるべき何ものかとして、単に想定されたものであるとする主観主義の代わりに、カントは「統覚」による主観主義を立てたに過ぎないやにとも捉える向きもあるかにやとも覚えますが。それではカントの「統覚」とは人間の脳の感覚意識の視聴覚室に過ぎないのかといえば経験は積み重ねても、其れ其れが偶然性を伴い、先天的統合判断を基底にして、経験から認識の拡大を図ることは不可能となります。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年03月10日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/イマヌエル・カント-34(三百八十六) カントの高度の人間精神の基底に可能性として在るのが「客観的超主観」を紐解けば、世界の理法に否が応にも「神」を持ち出すことの必要性はなくなります。カントの「客観的超主観」をシッダルタの到達した「無我」の境地と捉えることも可能となるでしょう。己を虚しゅうすることは、神或いは絶対視されていた「神」を放逐することもカントは成し得たでしょう。但し、カントは「物自体」の不可視性を訴えています。仏教哲学の世祖シッダルタは「神」にも、生者必滅を適用し「空」理論により世界理法の根本を探求します。片や西洋では、ニーチェがキリスト教的な神や価値観が、プラトン的な形而上学的真実在、超越的な彼岸世界への信仰が消滅さして、現実の生・世界が無価値・無意味になり、ヨーロッパが歴史的に危機状況にあることを、神は死んだということばで表意しています。カントの認識論はマルクス・レーニン主義の其れとは違い人間理性に重きを置いたために、神の放逐には至りませんでした。但し、マルクスの社会的哲学である唯物論の見直しに伴ってカントの実践認識論は再び其の存在的価値を現代に高めています。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年03月09日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/イマヌエル・カント-33(三百八十五) カントは「12の範疇」の相互関係については詳細を語らず、此の「12の範疇」の背景にあって統合する「モノ」を先験的統覚とか先験的自我と呼称しています。其の先験的なる語彙をカントはラテン語の「より先なるもの」「後なるものから」という意味のラテン語を転用して認識の経験からの独立性に関連して使い認識論上の術語と成さしめます。例えば、数学の真理の正しさは、経験とは独立に、つまり経験に先だって知られる。従って此れは、ア・プリオリ(a prior)な知識です。対して物理学の法則の正誤は、実験や、観察といった経験的な事柄によってのみ確かめられる。即ち、経験した後になって真理として知られるので、いわゆる「経験則」の事である「経験を通じて得るまたは得た」というような意味合いを持つア・ポステリオリ(a posteriori)な知識と区分しています。但し、此の区分には異論も多くあり、極端な経験論者は、数学上の成果を含めて全ての知識はア・ポステリオリに得られるとするし、更には物理学の法則は全てア・プリオリなものだと主張する思想家もいます。また、「経験」の内容をどう了解するかによっても、ア・プリオリとア・ポステリオリの区分範囲がは変わってきます。カントは原因あるいは実体からの認識・推論が伝統的に真理性が高いと生得的・先験的・非(超)経験的といった含意を決定づけ持たせたのがカントで,空間・時間は先駆的な直観形式,カテゴリーはア・プリオリな思考形式とします。更には、人間の思考形態が統覚という立ち位置を持つことが、自らを「先験的」にするのであり、此の位置から認識を取り扱うことによって、通常には主観的に過ぎない感覚が「超主観的」、此の語は、仏教哲学云うところの「我執を離れる」を連想させますが、「超主観主義」仏教哲学云うところの我執を離れる「無我」へと引き上げられるとしています。高度の人間精神の基底に可能性として在るのが「客観的超主観」だとするのです。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年03月08日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/イマヌエル・カント-32(三百八十四) カントの真実の「認識」には「12の範疇」をもってすれば12通りの判断である認識に到達することを成し得るとするのは明らかでしょう。但しカントは「12の範疇」の相互関係については詳細を語らず、此の「12の範疇」の背景にあって統合する「モノ」を、カント以前の多くの合理論の思想家がカントの云う「物自体」を客観的存在である実体として捉え、此の客観的存在である実体と一致した認識を行うのを思考・学問の王道と説いていたのを、カントは其の見解に反して「統覚」に其れを求めます。「統覚」は人間精神に先験的に備わった「自我」であり、統覚の対象である諸感覚が統覚によって構成されるので「物自体」を客観的存在である実体として問う必要がないとします。カントの此の思考論は構成主義認識論とも呼称されています。更には、此の統一する12の範疇」の背景にあって統合する「モノ」とは、カントは先天的統覚、直観 (Anschauung) と 概念 (Begriff) とを通じて超越論的制約である空間と時間という二つの純粋直観 (reine Anscuauungen)が、理性 (Vernunft) がそれ独自の原理 (Prinzip) に従って事物 (Sache, Ding) を認識すると考えます。但し、この原理は経験に先立って理性に与えられる先駆的で内在的内在的なものであるとします。カントの合理論の思想との相違は「物自体」を客観的存在である実体ととはせず「身体感覚を持つ人間精神の理性」を頂点にしたことです。此のことにより、神を兎も角も俎上させること無きことに成功したかに覚えますが、「自我の定義」が「物自体」を滅却するわけではなく「神は死んだ」のニーチェの登場を待ちます。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年03月07日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/イマヌエル・カント-31(三百八十三) カントは人間は外環境の多種多様経な験的世界についての普遍的認識を基礎づける「12の範疇」、アリストテレスの「範疇論」では、実体・量・性質・関係・場所・時・状況・所持・能動・受動の10分別ですが、カントは直観の形式である時間・空間で受容した感覚材料を伝統的な形式論理学の判断形式で分析し12の基本的な思考形式を導き出します。先ず第一分類に「量」として単一性・数多性・全体性の3つを、第二分類として事象内容性・否定性・制限性の3つを、第三分類には体と属性・原因と結果・相互作用の3つを、最後の第四分類に可能性・現実性・必然性をカテゴリーの枠組みとして「12の範疇」で整理します。人間の経験的な認識は「受容的」なので、むしろ「受け身的」なイメージをもつ枠組みだと捉えるのが妥当でしょう。詰まるところ、「範疇」という人間の普遍的認識を基礎づけるフィルターを通過しないものは認識し得ないことを断じているのです。言い換えれば、科学的で真実の「認識」には「12の範疇」をもってしか到達は不可能と主張します。此れをカントは感性と悟性の総合と説きます。仮に人間の受容するのが感覚だけであれば、人間の認識は盲目であり、片や純粋悟性観念、即ち範疇だけしか人間が保持しないならば「空虚」そのものだと思考しています。カントの「先天的総合判断/synthetisches Urteil a priori」とは、此の認識を意味します。然し乍ら、カントの先天的総合判断の前提語の「先天的」哲学的には、ア・プリオリ(a priori)な認識です。「先天的な認識」とは恐らくカントは生物学的に本能的な遺伝子とは掛け離れた超経験的といった含意を直観形式である空間・時間に適用させています。其の背景にある空間・時間を実体と看做すならば、絶対理法の根源である「実有」が浮かび上がります。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年03月06日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/イマヌエル・カント-30(三百八十二) カントは認識に先立つ「経験」は「認識」の起源および所与として経験を不可欠とは考察するも、知識の必然性の根拠を主観の先天的形成に求めて、両者の不可分な結合である現象界を認識理論の領域と考え、理性論、経験論の総合を試み、知識の必然性の根拠を主観の先天的形成、先天的悟性概念を持ち込みます。人間には本来的に先天的悟性概念「12の範疇」が備わり此れを用いてこそ、必然的で普遍的な判断を下すことにより、人間は初めて思考論理のみならず科学的にも真実の認識到達が可能となる。この事の実動こそがカントは感性と悟性の統合と語ります。其の先天的悟性概念「12の範疇」の範疇なる語ですが、和文での通常の意味合いでは、「書経」の洪範の「天乃ち禹に洪範九疇を錫う」から引用されたものであり、同様近似の集合体、日常語としては部門の意として用いられ英語に云うカテゴリーと捉えられています。哲学用語としては、通常・根本的概念・最高類概念、なかでもギリシア語の「 述語する(kategorein )」 に由来する語源は裁判上訴訟を意味していて、特殊な事件を一般的法律に照らして判決を下すことでしたが、時を経て一つの概念をより普遍的概念の下に包摂することを意味するようになり、更には他を包摂するのみで、けっして自己は他によって包摂されない最普遍的概念を示す語となります。但し其の語彙の性格、内容は、哲学史上多岐に亘り一義的に定めることは出来ません。プラトンにあっては、有とか同とかいくつかの概念をあげたのを、アリストテレスが詳しく範疇論を展開、アリストテレスによると、範疇を最初に示したのはピタゴラス派の徒(やから)で、有限と無限、奇と偶、一と多、右と左、男と女、静と動、直と曲、明と暗、善と悪、正方形と長方形、の十対(つい)を掲げていたのを示しています。其れに加えてアリストテレスが詳しく範疇論を展開しています。即ち彼の著「オルガノン」のなかで、実体の概念と、分量・性質・関係・場所・時間・位置・状態・能動・受動、の九つの最普遍的術語概念をあげ、これらが、あらゆる存在者がその下に包摂される最高の類(たぐい/kategorein)であると規定します。後世にはストア学派がこれを四つに縮小しますが、近代以前における範疇概念は、基本的にはアリストテレスのそれに基づいてます。此れを全くあり、新しい観点からとらえ直したのはカントであり、彼は経験的世界について本有「ほんゆう或いは(ほんう)」観念によらずに普遍的認識が成立すると確信し、経験的世界についての普遍的認識を基礎づけるために、主観が対象を構成するという、いわゆる認識論的主観主義の立場をとります。思惟(しい)および直観の先天的形式を主観としての推論の前提として、とりあえずは肯定されたいまだ証明されていない命題として構成します。所謂、「直感」が空間と時間を先天的に形式を伴い、悟性の先天的形式がすなわち範疇だということです。アリストテレスも含めて哲学の範疇概念が、いずれも存在論的な意味を強く有していたのに対し、カントのそれは、完全に論理学的・先験的な概念となります。然し乍ら、カントの思考経過にも異論が多く、フィヒテからヘーゲルに至るドイツ観念論者たちは、範疇をふたたび形而上学的な存在形式の概念に戻しています。「範疇」なる語は絶対存在の許容する人間精神の限界事項かも知れません。pc=http%3a%2f%2fitem.rakuten.co.jp%2foh-platter%2f612791%3fscid%3daf_link_txt&m=http%3a%2f%2fm.rakuten.co.jp%2foh-platter%2fi%2f10001693%2f" target="_blank">cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年03月05日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/イマヌエル・カント-29(三百八十一) カントの認識に先立つ「経験」は、通俗的解釈では、生物なかでも本能的ではなく思惟出来得る生物、とりわけ、人間が外環境から感覚器官を通して捉えられた感覚を言いますが、だが、感覚だけでは、瞬間的で個別的な偶然性であるに過ぎません。内省を通じて通じて得るもの、およびその獲得の過程を言っています。同類の言葉に日常的な事柄については「体験してみて分かる」「はじめての体験」などと経験と相通じて用いられる。「体験」がありますが、「経験」は体験よりも間接的で公共的及び理知的な含みをもち、因果発生的定義では経験の成立の説明が心理学や大脳生理学その他の諸科学の立場から重要視されます。然し乍ら、経験も認識や知識の一要因であるからには、哲学的にも、古来より認識論の根本概念として重要視されてきました。とりわけ近世以降は観察や実験を重視する科学の方法や理論が発展し、認識論が哲学の中心課題となるにつれて、「経験」は活発な論議の的となり、また「経験論」の有力な思考傾向が生まれます。経験をめぐる認識論の根本問題は、一方では経験が多少とも主観的、相対的であるのに、他方では、経験を一部に含む学問理論などの知識が客観的、必然的、公共的であるという事実をいかに説明するかにあり、近代理性論や一般に観念論の立場からは、知識の確実性の根拠を理性や先験的基準に求めて、経験を知識における消極的契機と考え、対する経験論の立場からは、経験を全認識の源泉とは考えつつも、経験のその結果は知識の確実性を疑う懐疑主義や相対主義に陥る危険があるとします。カントは認識に先立つ「経験」は「認識」の起源および所与として経験を不可欠とは考察するも、知識の必然性の根拠を主観の先天的形成に求めて、両者の不可分な結合である現象界を認識理論の領域と考え、理性論、経験論の総合を試みます。人間には本来的に先天的悟性概念「12の範疇」が備わり此れを用いて、初めて必然的で普遍的な判断を下し得るとします。此の思考には人間が経験しようのない「神」或いは「世界意思」は除外されていますが先駆的より高次の認識能力である様態としての人間の生得の霊性までをも否定するまでに至っていないのには安堵感を覚えます。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年03月04日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/イマヌエル・カント-28(三百八十) カントの認識論を探求する根本課題は、人間が外世界から感覚として与えられた経験を人間の内世界の独逸語でVerstandそして和訳が「悟性」を中心に展開させます。Verstandに「悟性」の和訳をあてたのが、philosophiaに「哲学」の訳をあてた西周です。然し乍ら、「悟性」というのは、もともとは禅教の言葉で、達磨大師が「悟性論(ごしょうろん)」という書物を著しています。日本の語彙から捉えると「仏法の覚り(悟り)」を連想させる故に誤解しがちな言葉です。本来の哲学用語としては「Verstand」というのは、広くは理解力を指し、より厳密には感覚及び理性(ratio)に対置された知的能力を指していました。プラトン・アリストテレスにおいては、上級な対象を直接的並びに直観的にとらえる知的能力noēsisに対して,より下級な推論を伴う間接的な認識能力ディアノイアが区別されているおり、上級な対象を直接的,直観的にとらえる知的能力ヌース(nousnoēsis)、より下級な推論を伴う間接的な認識能力ディアノイア (dianoia)が区別されています。人間に固有の思考力及び認識力は一般に知性(intellect)乃至「理性」と呼称され,古来,規則に従って分析し論証する悟性を「理解(understanding)」原理・始元を直覚・洞察して総観し統括する{理性(reason)」の二面を含むとされ、本能,感覚,記憶,想像,意志とは区別され,また啓示や信仰に対置されてきたのですが、カントの「悟性」というのは、は理念の能力である理性と異なって、感性に受容された感覚内容に基づいて対象を構成する概念の能力,判断の能力をいう。スピノザの場合には、理性(ratio)は間接的推論による認識を事とする能力として、低次の感性的直観の能力と高次の知的直観の能力たる知性(intellectus)の中間に位するものと考えられていたのを啓蒙(けいもう)時代以降における神学的形而上(けいじじょう)学の退潮ないし世俗化という時代の潮流に伴って、知的直観といったものを認めないカントを一つの転機とし直観的知性の意味で使う「悟り」とは遠く離れてしまいます。此のことは、単に訳語の問題だけではとどまらず近世西欧の思考での大きな転換が絡むものでもあるので慎重な配慮と検討を必要します。広い意味では思考の能力を意味し、感覚的な諸能力、すなわち一般的にいって感性と対立する意味で使われるが、とりわけカント以後定着した今日の用法においては、他方で、より高次の認識能力、あるいは能力一般としての理性、更には、ヘーゲルの思考ではには、何らかの意味での文化的、集団的なきずなの総体としての精神に次ぐ位置を占めるものと看做されています。もともと中世哲学の思考において、さらに近世に入っても、スピノザの場合などには、理性(ratio)とは間接的推論による認識を事とする能力として、低次の感性的直観の能力と高次の知的直観の能力たる知性(intellectusの)中間に位するものと位置付けしていました。ところが、とりわけ啓蒙期以降における神学的形而上学の退潮ないし世俗化という時代の潮流に伴って、単に訳語の問題にとどまらず、近世西欧の思考での大きな転換が絡み、慎重な配慮と検討を必要になりました。いずれにせよ、今日では、古典的形式論理学がもはや歴史的なものと化した以上、カント的な理性並びに悟性の区別が生きたものとしてそのまま使われることはないとも云えます。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年03月03日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/イマヌエル・カント-27(三百七十九) カントの精神的には恵まれ生物の優位に立ち位置を定める人間が、思考認識法に関しても、拡大する側面と総合する側面並びに経験と先天的な先駆的な二つの要素がカント哲学の基底に流れる思考です。それでは、経験が拡大するとはどの様なことを意味合いを持つのかを通常思考で捉えれば、世界は無限であり我々人類を無限に外感覚的及び物質的に刺激する。それ故、生存する限り人間は経験に枯れることがないと考えます。然し乍ら、カントは人間を取り巻く外部世界の存在、否、人間存在の根本存在をも含めて、其の根底をなすのは「物自体」と解釈しています。しかも、カントは「物自体」を精神的なものと物質的なものとの二種に大別出来得ようが、意識的或いは思考的に区別は明瞭にはしません。カントは「物自体」を人間自身の経験では不可知なものとして、其の真相を人間が知ることはあり得ないが、経験の累積が其れを予感させる。しかし、其の感覚は多種多様であり自らを総合統御する形式がない、それ故に「先天的総合判断」の必要性が生じ、時間と空間という先天的な形式を纏わなければ、人間は実際感覚として受け入れられることは不可能だと主張します。カントの時空間には不可視・不可知の「物自体」が存在し、其のこと自体は解明されてはいません。不可視・不可知の「物自体」を究明するにはインド大陸に育まれた「禅」や「瞑想」、スピノザの演繹思考(Deductive thinking of Spinoza)を待つことになります。神秘主義を離れたカントの思考も「神」を放逐することは成し得なかったのです。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年03月02日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/イマヌエル・カント-26(三百七十八) カントは必然的確実な知識とは可能かの方法論として、其れを可能とするものとして認識論の根本課題にはは「先天的総合判断/synthetisches Urteil a priori」を如何にして可能であるかという問いに要約されていると云えます。簡潔に述べれば、なんらかの仕方で経験と実在にかかわり、しかも知識といえる語彙に値する普遍的・必然的な判断はどの様にして成立するのか、将又その客観的妥当性すなわち実在との適合性はどのように立証されるのかというのがカントの認識論を探求する根本課題です。カントによれば何はともあれ、先ずは生命に優れた人間精神が、通常の分析判断では言語における述語で語られる筈のものは、既に主語に含有されているものの判断力ですが、此れに対して、カントは「先天的総合判断」を持ち出し、主語には含有されないものも新たに付加されることを認めます。例えば、現代物理学における粒子宇宙論が掲げる「無から有・有から無」への変遷、世界は在るのに対して世界は「無」存在をも新たに含有させ得るということも可能になります。此の観点からすると経験は、内容を絶えず拡大する総合判断では一致していますが必然性には到らない。対して分析判断は人間の生得的要素を持ち必然性には対応するものの内容性に乏しい。そこでカントは新時代の自然科学に対応する認識としては先天的総合判断が最適な判断だとします。カントの認識論は拡大する側面と総合する側面、経験と先天的な先駆的要素が思考経過の特徴です。此処にカントの「物自体」の定義が再び課題として浮上します。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年03月01日
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