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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/唯物論的哲学47(五百八十五) チェルヌイシェフスキーの言に拠(よ)れば、凡(おおよ)そ哲学と呼ばれるものは、物事の本質を探求する限り、人間の医学や生理学及び化学、其れに基づく科学の進展を認識する筈のものである。科学の発展的究明と解答には人間の深層心理や理性は関与せずというより介入させないことが当然であり物質世界は一元として在る。物質其のものを対象として人間の五感による心の動きや感情を敢えて投写して思考を体系化することなどの体系化は、独逸観念論を持ち出し、カントやデカルトの思考方法を持ち出そうが、人間の基本法則には弊害あるのみである。何故なら、物質世界に於ける人間が、実在的な自分の本性の他に物質世界に於ける人間精神が心の深層に本性があるとすれば、其の本性は必ず実相として現出する筈のものでなければ、其の本性が現出したものを神秘家や信教の預言者を除いて哲学が実相を捉えた事実はない。人間のうちに生じ現ずるもの全ては、一つの実在的な彼、人間その実在せしめる、他ならない本性、物質世界内存在の本性以外に本性は有り得ない。詰まるところ、人間の精神及び心の動きや理性は物質の本性だとします。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年10月31日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/唯物論的哲学46(五百八十四) 古代ギリシャ以来のフィロソフィーたる哲学の命題には、観念論は勿論の事、たとえ唯物論の立場の思想であっても、宗教に関しては壱分の哲人を除き神を否定しないし、殊のほか人類、其の中で精神を持つ人間に関しては霊魂と物質である肉体の二元論に立ち位置を基底にしています。対して唯物思想で万物の源泉を水に求めた哲学の祖タレスやアルキメデスから理性哲学のカントにいたるまで人間精神を物質とは別ものである取扱をしています。チェルヌイシェフスキーは同時期に生きたマルクスとエンゲルスの唯物主義とあらかた同じ思考基底を共通し、其の著「哲学の人間学的原理」で人間精神、殊更、理性や霊魂を否定して理性的人間とされる其のものが一元的に物質論で展開されるということをマルクス主観からは独立して証明しようとしています。此のことが、マルクス主義を理解する上では極めて貴重な資料となっています。此処に興味を惹くのは、此の時代の多くの哲学者が神教を生業(なりわい)を仏教学的には信教を説く者の生業を厳しく戒め、大乗の祖ナーガルジュナは財畜に長けていたためペナルティーを何度か蒙りますが、キリスト教であれば其れ程の厳禁さはなく、布教等を職とした聖職者の家系から唯物主義者が多く輩出したことでしょう。キリスト教の政治権力との癒着に対する反感が此の状況を醸し出したのです。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年10月30日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/唯物論的哲学45(五百八十三) 唯物論の史的変遷は、古代ギリシャの多分に観念論を否定はしない。アリストテレスは「形而上学」論書の中で、哲学とは知を愛することであるが、知の中でも、ものごとのそもそもの始まり、つまり万物の根源である「アルケー」に関する知こそが根元的なのだとしたミレトスのタレス哲学なるものはギリシャの賢人タレスに始まるとしています。ギリシャの七賢人(Greek Seven)アテナイのソロン、スパルタのキロン(Chilōn)、ミュティレネのピッタコス、プリエネのビアス(Bias)、コリントスのペリアンドロス(Periandros)、リンドスのクレオブロス(Kleoboulos)、若干の異動はあるにしても、最初に「アルケー」について深い思索をしたのはタレスは省けない存在であり、アリストテレスも哲人の祖だったと言い切ります。タレスが其の栄誉に輝くのはアリストテレスの記述合ってのこそです。タレスこそが智恵の愛求「哲学」の始祖であるとするのです。世界を世界たらしめているとは、世界の根源とは何か、そのことにかんする智恵こそが真の智恵であった筈の哲学を見えない根源は仮想であり、世界は在るべくして在り根元を他に求める愚をとなえたのがマルクスと其の僚友であるエンゲルスの主張する唯物論です。不可視性の否定、現存在の分析こそが哲学の命題だとし、テーゼから始まる筈のものを答えを最初から賦与します。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年10月29日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/唯物論的哲学44(五百八十二) チェルヌイシェフスキーの唯物主観もマルクス主義の思考と哲学的には相通じます。1856年に「現代人」と題した雑誌を発刊、其の後六年間に亘り、ロシアの当時の農奴制を基礎にして、厳格な身分秩序と官僚制機構を骨格とした絶対専制国家のツァーリズムのもと、厳しい検閲をものともせず発行し続けた結果が検閲委員会の告発文で彼の思考が逆読み出来ます。「チェルヌイシェフスキーの発行する「現代人」誌のなかの彼の論文は、依然として、宗教に関しては一切のキリスト教的影響を有せず、法に関しては現秩序に反対し、哲学に関しては粗野な唯物論に満たされ政治に関しては革命を弁護し、穏健な自由主義をも排し、社会に関しては上流階級を軽蔑し、女性を極度に理想化し、下層階級に異常な愛着を示すものである。」と結論づけています。此れを後世のロシア共産革命ごの状況を見ればマルクス主義とは同根の思想であり、農奴解放(Serfs release)の革命を旗印としたことが理解されます。市民階級の育たたなかったロシアでは観念論を哲学に迎い入れる余裕はなく、先ずは、人間の霊魂よりも厳しい労働と搾取される下層民の生活の救済が哲学に求められたのは当然です。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年10月28日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/唯物論的哲学43(五百八十一) 専制支配に対する不満を背景として1905年には「血の日曜日」を機に民衆が蜂起して労働者の代表によって構成する評議会(ソヴィエト)を結成、其の後の戦艦ポチョムキン号の下層兵士の反乱・全国的なゼネストが行われたが、第一次革命では失敗し、1917年の3月に帝都モスクワ(Moskva)でのストライキとデモを機に労働者・兵士が蜂起して、栄華を誇った流石のロマノフ朝(Romanov dynasty)もニコライ二世が退位で終結。三月革命を経てレーニンの指揮下のボルシェビキがプロレタリア革命への転化とプロレタリア独裁を主張して武装蜂起,ソビエト政権を樹立した十一月革命が成立しますが、其の全てにマルクスと其の僚友であるエンゲルスの主張する唯物史観が基盤であったことは歪めませんが、マルクスと其の僚友であるエンゲルスの同時代に生きた哲学者、特に実践哲学を追求した神父の家系に誕生したチェルヌイシェフスキーの影響も見逃せません。彼は亡命その他の処世術は取らず、生涯が悪戦苦闘、遂には故郷に至るとも急死、マルクスと其の僚友であるエンゲルスの思想も流刑のために知らざる状態で血の病を患い急遽家族の訴えにより帰省を許され帰郷しますが僅か数ヶ月で故郷の土となります。しかし、其の業績はマルクス主義の唯物史観を紐解く上では貴重な資料となりました。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年10月27日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/唯物論的哲学42(五百八十) 今は、早とも云えるナザレの大工の子として誕生、生誕年に史的事実ではないものの誕生から2千年のミレニアムを経過し、更には人類史は3千年紀の開始を視野に立ち入ろうとしてています。ハード面においては人間の深層心理の性状としての描画意識、口述伝搬史、動物全般に当て嵌まる火焔の恐れを制した人間が、外覚的存在を実験的・理論的にしろ本源的に捉えようとすれば、唯物論が浮上し、モノ(質)の存在としての本質である起源を究めんとするのは当然であり、外世界の影響を精神内で受け止め咀嚼している人間が世界自然の不可思議さに興味を持ち神秘性を意識するのも当然です。マルクスと其の僚友であるエンゲルスの主張する唯物論は、モノは在るべくしてあり、其れ以上のものに非ず。外世界の自然の不可視性には抑々(そもそも)が案件としては浮上せず、浮上するのは生物全般に見られない観念論の「理性」或いは「霊魂」を対象物から除外して、同じく生物全般に見られないところの人間特性「労働」を主たる思考の基礎に置いたことが、信教・哲学、万物を合理的に解釈する現代人の物資主義一辺倒が、新たな問題、生命の本質を問う人間精神の救済を無碍に唾棄しているようにも捉えかねず、救済を宗教に走らせていること顕著です。今日の時代にいたりては其の思考の見直しを人間精神の深層にある理性或いは霊魂欲求の充足へとする復活的展開も望まれています。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年10月26日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/唯物論的哲学41(五百七十九) マルクスと其の僚友エンゲルスの思想の特色は、古来からの存在論的な唯物的思考を古来からの自然史観想ではなく、社会科学・経済学・人類史にまで唯物思考を推し進めたことにあります。其のことは人間の精神解放を齎す筈でした。マルクス主義と云えば史的唯物論としての唯物史観がその中心思想に置かれていると云えます。古代からの哲学観想概念型の唯物主観は影を潜め専ら思想方法としての唯物論が際立ちます。詰まるところ、唯物史観とは世界自然を対象としてきた唯物論を、其の自然史の延長として人類史に取り込もうという訳です。其のこと故に、ヘーゲル体系の弁証法が必要不可欠なのです。自然を弁証法的に発展的に捉えられてこその史的唯物論なのですから。マルクス主義は人類史上稀に見る神的存在の不在どころではなく本源的な意味で人類が観念に傾くことの危惧を訴え、権威の体制に便用される観念論を排除します。其のことが、後世に逆説的な意味あいで財的な富裕層は生まなかったにしろ、全て欲するものは「労働」の名のもとに力が支配する権力層を新たに産み出します。人間精神の深層にある観念や理性は主義の名のもとに抑圧される「魂の冬」の時代を生み出した因ともなり、現代はマルクス主義の原型を変型した修正マルクス主義が一般化しています。何れにしろ、マルクス主義は労働擁護的な共産革命の基盤となり労働者階級の台頭、中華人民共和国では農本主義的共産を目指したために農事者が解放されます。人間社会体制における解放とは、既成権威の権益奪取にほかなりません。其処には、人類の抱えてきた精神の奥底の魂の救済は疎かにされ、現代社会に数々の悲劇を起こす要因の一つとなりました。唯物史観とは社会体制を見直し変革する手段であって、人間の深層で叫ぶ心の拠り処には成り得ません。共産主義体制の綻びとともに「宗教」が頭を再び持ち上げたことを鑑みれば「思考と直覚」は何方にも参与せず、人間を問う哲学、及び、モノの原点を問う哲学、将又、人間理性の発祥に対する思考、其の分析を追求する思想史の原点である観念論は科学万能主義の世界にこそ存在意義をもって輝きはじめます。アニメチックに譬えると観念、俗悪に挑む愛と慈悲の救世主北斗の星の輝くことを夢見ます。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年10月23日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/唯物論的哲学40(五百七十八) 抑々が弁証法の対象を「世界外存在」或いは「世界内存在」、「物的存在」乃至は「精神の動静的存在」、「人間生命の本源的先行性」と対立する「人間の社会的現実性」とした分類では、其々に、弁証法の思考分野が相違し相容れるものがないのも当然です。弁証法とは疑問を解決する思考の仕様であって対象が変われば目的とす矢の的が相違するからです。ヘーゲルの弁証法の解説に定立(テーゼ)・反定立(アンチテーゼ)・総合(ジンテーゼ)の三段階乃至三分法(正・反・合)で構成される論理であるのはフィヒテの用語を援用しているにしても、其の思考方法の大成者はヘーゲル其の人に間違いありません。マルクス主義のヘーゲル批判は弁証法の対象批判にしか過ぎないものと捉えるのが妥当でしょう。マルクス主義の「もの」に捕らわれた思考こそが、たとえ、人間が物的世界の原則から逃れられないにしろ、人間の精神の内層に秘(ひ)そむ深層の霊魂が叫びを上げる以上は、此のことをむげに却下して塵芥の扱いをするマルクス主義には「思考と直覚」が認容の声を掲げることは、人間に心があるとした者は受け入れ難い思想です。現代IT時代PCやアンドロイドの心の発生の可不可が問題になっている現在こそ観念の概要を定義するヘーゲル体系が蘇ります。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年10月22日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/唯物論的哲学39(五百七十七) 人間を主体として其の内なるものと外なるもの、本質と現象、一なるイデアと多なる個物、意味するものと意味されるものを、自己意識を媒介として統一させた結果が、「もの」の把握としての「概念」、其の概念のうちには「本質という普遍」、本質が個別化されているという媒介関係そのものをも含有しています。「もの」とは推論、普遍、特殊、個別の総合である」とします。マルクス主義では、認識以前の物質の構造が精神に反映されて、弁証法の構造となると主張される。自己意識の内省構造の弁証法性を否認して、「関係の実在性」という存在論的な規定として弁証法がとらえられる。観相すれば現実離れした「三分法」であり、教会権威に媚びた思考と映ることはやむを得ないことでしょう。更に、ヘーゲルは「三要素の一体」という新プラトン派の観念を、キリスト教の「三位(さんみ)一体」に重ね合わせて、近代汎神論の土台の上に据え直すことまで展開してみせます。従来から、ヘーゲルの弁証法の解説に定立(テーゼ)・反定立(アンチテーゼ)・総合(ジンテーゼ)の三段階乃至三分法(正・反・合)で構成される論理であるという説明がなされているが、此の解説はフィヒテの用語を援用しているものです。対して、マルクス主義では、認識以前の物質の構造が精神に反映されて、弁証法の構造となると主張される。自己意識の内省構造の弁証法性を否認して、「関係の実在性」という存在論的な規定として弁証法がとらえられ、精神の本源的先行性を否定し神格的思考や神秘性を拒否します。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年10月21日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/唯物論的哲学38(五百七十六) ヘーゲルの大成されたと評価される「弁証法」で特徴的なのは、発展・成長・変化する合一構造を人間の心の内省のうちにも見い出すことにあります。人間自己の精神が自己の心を意識するとき、精神として意識する心は意識される心と一体化するが其れも同一とは言えない。此のことは、人間精神の主観としての内心と客観としての外心が同一であるからこそ、外部の媒介を経ない直接の関係知が成り立つ。喩えれば、自分である我(われ)が真赤な薔薇を見ているということは客観的に観想する自分がいても、一切の外部環境に干渉されることなしに其のことを認識しており、「見る」という外的活動を意識することと内的な反省意識は見る意識と同時に働く同一の意識である。然し乍ら、知る主体と知られる客体、内面と外面という作用面での区別がある。従い、人間精神の心の内省・反省のうちには「区別のない区別」という対立的な同一の、異質であるが亦同質のものが反映されることになると主張します。人間を主体として其の内なるものと外なるもの、本質と現象、一なるイデアと多なる個物、意味するものと意味されるもの、主観と客観は自己意識の構造を媒介として統一されます。ヘーゲル言わんとする処から新プラトン派の説く「イデアの流出」及びキリスト教的な「受肉」の概念を合理化させています。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年10月20日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/唯物論的哲学37(五百七十五) 古来より論理的特性を持つとされてきた民族である独逸系の種族は啓蒙思想をリベルタン、即ち現実主義から哲学を高みに押し上げる担い手となります。其の当事者こそが、ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲルです。自己の宗教論を、所謂(いわゆる)通俗的な神格性、ましてや、人格神としての「神」にではなく、哲学が最高の真理としての絶対存在を宗教とは一線を踏まえて、哲学は信仰とは相違し神格には人格性を付与しません。とはいえ、観念的なものに絶対性及び全体性を賦与していることには宗教と異なるところがないところに、唯物主観的弁証法を至上の原則とするマルクス主義が刃を剥きます。ヘーゲルの大成されたと評価される「弁証法」とは、人間精神の場合に限らず、発展・成長・変化するものには、「他となりつつ同一を保つ」という「対立の統一」が既に含有されている。発展・変化の限界点では相互いに相違するものが違うものを合とする。この限界の矛盾性が、数学においては微分に表現される極限点に成立する。グラフ上接点で示される極限点では、曲線が直線に等しい。微分の弁証法的な解釈には、「点の本質的な規定として隣接点との関係が含まれる」という原理があるが、世界内存在に此の原理を拡張すると、あるものの本性には他のものとの異なするとともに等々の関係が内在することとなる。即ち、関係という構造が新たな構造を生み出すとします。此処までの思考方法はマルクス主義の弁証法は認容しています。但し、人間精神内の「心」と呼称される観念的存在に発展・成長・変化する合論を持ち込むことを経験的客観論から否定するのです。発展・成長・変化する合一があるとすれば社会科学の分野であって観念論に対しては矛盾を主張しています。cap-hiroのプロフィールcap-hiroのプロフィール
2016年10月19日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/唯物論的哲学36(五百七十四) 弁証法は何もヘーゲルが体系づけることはあったにせよ、まして、マルクスとエンゲルスの主張する「唯物論的弁証法」が弁証論的に確立づけされたとの解釈は、マルクスとエンゲルスのの批判は兎も角も正・反・合の三分法を弁証法として来たのが人類の思想史です。弁証法の父と看做されるヘラクレイトスの「万物は流転する」の語句が、弁証法の底流でしょう。ヘーゲル的には、「存在」を絶えず新陳代謝によって、自己を外界に分解させながら、同時に自己を再生産し、同一を維持することだと把握しています。対立する力の均衡という本質が、静止した存続という現象「エントロピー」の対義語として、物事が秩序化される現象という意味で用いられる「ネゲントロピー」若しくは1974年に「ネゲントロピー」を「シントロピー」と言い換えることを提案した、物事が秩序化される現象という意味で用いられることのある語、ノーベル医学・生理学賞を受賞したセント・ジェルジ・アルベルト(Nagyrápolti Szent-Györgyi Albert )が提案した事実が「弁証法」の理解の補助に役立ちます。ヘーゲルによれば「崩壊と維持」、精神に限らず、発展・成長・変化するものには、「他となりつつ同一を保つ」という「対立の統一」が含まれているとしています。発展・変化の限界点では違うものが同じものもしくは合である。興味深いのは「エントロピーとネゲントロピーもしくはシントロピー」の動的弁証法の思考です。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年10月18日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/唯物論的哲学35(五百七十三) マルクスとエンゲルスの思考「唯物論的弁証法」の抑々(そもそも)が抱えている誘引である弁証法との原点は、物事の対立要因、必然とされるものの根源が矛盾を含まないか、且つ、仮象と見做すかの螺旋構造に特定思考法を齎したものです。弁証法の父とみなされたのはアリストテレスによって弁証法の父とみなされた「アキレスと亀」及び「飛ぶ矢」のゼノンですが、「万物は流転する(Everything flows)」と語ったヘラクレイトスによって「人は同じ川に二度入ることができない」という理論、宇宙は絶えず消えつつ燃えている火のようなものである。静止して存続している物も、事実的にはには世界は二つの対立する力が均衡している不安定な状態であるとして世界を描きます。近代においては、ヘーゲルが存在を、絶えず新陳代謝によって、自己を外界に分解させながら、同時に自己を再生産し、同一を維持することだと把握します。対立する力の均衡という本質が、静止した存続という現象を支えているという訳です。然し乍ら、マルクス主義では、認識以前の物質の構造を精神に反映させて、弁証法の構造となる自己意識の内省構造の弁証法性を否認し、「関係の実在性」という存在論的な規定をして弁証法を捉え人間精神の神秘性を実践性により破壊してみせます。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年10月17日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/唯物論的哲学34(五百七十二) 弁証法(dialectic)とは、哲学の思考様式の用語であり、現代において使用される場合には、ヘーゲルによって定式化された弁証法や、それを継承しているマルクスの弁証法を意味することが一般ですが、本源的にはギリシア語の(dialektikē technē)に由来した対話術・問答術を意味しています。アリストテレスによれば、エレア学派のゼノンが弁証法の創始者とし、「多」と「運動」の実在性を主張する論理の矛盾を一種の帰謬法によって明らかにしたことが最初とされていますが、問答法の祖ソクラテスも「ものの何であるか」を考察する手段として否定的弁証法の思考論を展開しています。弁証法を体系化させたとされるヘーゲルは、懐疑主義思想の研究を通じて、その否定のなかに秘むものから肯定の契機が出てくると見做して、弁証法を一つの物事を対立した二つの規定の統一として捉える方法というマルクス主義から見れば曖昧な方法論、観念論であり現実世界の実践に耐えうる事の出来得ない思考方法とは批判されますが、私見的には人間精神に重きを置くことは極めて重要です。「思考と直覚」は直ちにマルクス主義を迎えることを是とはしません。マルクス主義を是とすることは人間観念、理性の深層をも破壊し得る危険性を併せ持つからです。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年10月16日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/唯物論的哲学33(五百七十一) ヘーゲル哲学の根本体系には、マルクスとエンゲルスに言わせれば、観念論を体系化したいがために弁証法とは名ばかりの、矛盾を含む否定性に積極的意味を見いだすヘーゲルは,有限なものが自己自身のうちに自己との対立・矛盾を生み出し,それを止揚することで高次なものへ発展する思考、正・反・合の三分法を弁証法として体系化し、其れが存在を貫く運動の論理としている。其のことは思考と存在との根源的な同一性である、理性によってのみ認識される実在であい、 感覚的世界の個物の本質若しくは原型、将又、価値判断の基準となる永遠不変の価値イデーの自己展開と観念的に捉えており弁証法の本来的な発展性に欠けるから弁証法とは名実を伴わないとの批判なのでしょう。対してマルクス主義に於ける世界観、弁証法としては「実践」こそが弁証法の経緯過程には基底であり不可欠とし、従来の発展段階を踏み、より高層の段階に踏み込むには、従来の矛盾を踏まえ更なる矛盾の解決を次々(じじ)繰り返すことが真の弁証法だと定義付けしています。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年10月15日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/唯物論的哲学32(五百七十) ヘーゲルは自ら築き上げた思考方法に「弁証法」を体系化していますが、マルクスとエンゲルスの思考方法である「唯物論に調和した弁証法では。ヘーゲルが自ら築き上げた思考方法論其のものに矛盾を抱えているために、ヘーゲル哲学が基礎を置く観念論的思考が方法論的に矛盾を引き起こしていると指摘します。「弁証法」とは方法論として思考を体系化するには人間精神に囚われない、唯物主観があってこその方法論としての「弁証法」であり、ヘーゲルの思考方法では世界内現実の真相に近づくには、到底、前提的に思考其のものの初期段階に誤りがあり解答が出る筈がないと批判しています。眼に見えない観念的な世界、なかでも、世界創造の神秘を抱く観念的な弁証法は、人間を基底とする社会世界中心を基礎に置いた「唯物論的弁証法」ではヘーゲル体系は意味を成さないのでしょう。マルクスとエンゲルスの人間の精神解放と生存環境を改善しようとする立ち位置からは、人間が観想するだけで視認或いは経験し得ざるものを排除することからして相容れないことから当然の批判です。マルクス主義の弱点は人間世界の社会科学に重きを置き過ぎたために、古代人の洞窟壁画に見られる自然への畏敬から湧き上がる神秘性をもって描かれた内面精神を軽んじてるところに直覚的に疑問が生じます。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年10月14日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/唯物論的哲学31(五百六十九) マルクスとエンゲルスから見れば、人間の精神が抱(いだ)く意識についても、其れを「弁証法」を基礎思考としている限りは、ヘーゲル信奉家の言う観念からは真相は見えない。何故なら、全ての矛盾に解決を齎すのは真の「弁証法」である「唯物論的弁証法」に立ち位置がなければ成り立たない。ヘーゲルの弁証法は人間の観念を根拠に置いたがために世界との調和を得られない。真の「弁証法」とはマルクスとエンゲルスの思考方法である「唯物論に調和した弁証法でしか有り得ないとしています。マルクスの僚友エンゲルスの言(げん)によればヘーゲルの哲学体系には抑々(そもそも)が、思考方法に矛盾を解消する便法を持たない。結論付ければヘーゲルは自己の哲学体系に弁証法を発案したまでは正解だと取れるが、其の方法論が観念に傾いたために矛盾を生み出したのだと決め付けます。然し乍ら、弁証法は我々もたえず{あれか、これか、然らずんば其の新たなる合としての解決可能なものか」として思考方法に取り入れています。正当な判断だとしたことも明日は不当となり、新たな側面を迎え、其の回答にも疑問が生じ反対の場面が生じること度々です。「唯物論的弁証法」には正答がないのかとも疑問を生じます。正答を得るためには「観念」なかでも亜細亜的な瞑想における覚りに導く方法を基礎とするのも一考には値します。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年10月13日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/唯物論的哲学30(五百六十八) マルクスとエンゲルスの唯物史観は、低位置の段階からより高層段階へと昇る発展を説きます。弁証法的には或る事物が対立的な事物に転化し、先の事物の「質」を含有する形で、更なる「質」を産み出し、其の事物は更なる対立的な事物に出会い転化を繰り返しながら、高層段階へと昇ることを繰り返します。此のことは事物の外形的転化と捉えれば、優曇華の如くイネの仲間である竹林を形づくる竹類はイネの仲間ですから、発芽してから長い年月、地下茎によって繁殖を続けますが、 ある一定の時期に達すると、花を咲かせ、種子を実らせて一生を終えます。無性生殖だった筈の竹が、発芽してから長い年月、地下茎によって繁殖を続けますが、 大凡(おおよそ)孟宗竹は約60年、真竹の場合その周期は120年程度と言われていますが、其の周期で一生を終えるときに、花を咲かせ、種子を実らせます。無性生殖ばかりだと環境の変化に耐えられないので、最晩年に有性生殖を引き起こす訳です。花を咲かせなくても子孫を殖やしていけるのに、花を咲かせて枯れてしまう。マルクスとエンゲルスの云うところの「質」の転移・転換・転生の転換です。其処にはマルクスとエンゲルスの唯物史観が主張するより高位への世界環境への対応が準備されていることになります。観念論的には霊魂の不死性を観相することも可能だとしましょう。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年10月12日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/唯物論的哲学29(五百六十七) 世界内物質において絶えず進行している物的相互浸透に限らず或る事物の他の事物が「量」の干渉により、対立する質の変化さえ転化可能とすれば、其の転化には矛盾を要因として成されていることが解ります。平たく云えば、此の情熱の赤い椿は白くて潔い。要するに赤い椿は白い椿の性状を併せ持つと云うことです。極論すれば、地球は丸いが同時に丸くない事物が変化する過程においては、一方の側面と他方の側面に相反する要素が相互浸透しており、「量」の干渉を運動と解釈すれば、マルクス&エンゲルス的には存在物の変遷経過は「量」の干渉が全ての矛盾を解消し、観念論的には「相互浸透」が浮上します。人間は誕生と同時に「死」を迎い入れ、死と生命が相互浸透します。それ故に、死は生命の転化であり無に帰すことはあり得なく、存在的には、何がしらの痕跡を残します。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年10月11日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/唯物論的哲学28(五百六十六) 時は流れる、且つ止まる。止むことの出来ないからこそ時間は流れていると人は云う。但し、神学哲学の云う著書「エチカ」では、世界外存在に有る絶対存在は過去・現在・未来を俯瞰出来得る故に「永遠の瞬間」次元外存在とされることになります。然るに、人間は流れる時間の支配下に甘んじなければならないかというと、さも非ず、大宇宙の始原のコア(Core)の爆発、其の時点では質量子のみ、光子どころか其後の時間は存在しません。マルクスとエンゲルス的には、将に、「量」の干渉によって新たなる「質としての時間」が誕生したのです。其のことから分かるのは、時間は永遠ではないことです。時間を「質」として捉えた場合は、超重力の持ち主「ブラックホール」環境では流れようがないことが理論科学的に想定されています。視点を変えて時間を「量」と観相すれば、時間は「量」的干渉により大宇宙其のものの「質」の変化、宇宙にあるすべての物質は、時間とともに、だんだんと無秩序な状態になっていき、それがもとの秩序に戻るということはないエントロピーの原則に従い大宇宙を崩壊させ終末を齎します。マルクスとエンゲルスが説く相対立する相互浸透とは「矛盾」を含有するにしろ「変化」を或る意味、解釈的には穏当な解答を与えているとも解釈によっては取れます。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年10月10日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/唯物論的哲学27(五百六十五) マルクスとエンゲルスが説く「質」が「量」の干渉によって新たなる「質」が誕生するのには、対立物の相互浸透という思考を持ち込みます。水と油が相互浸透により水性オイルが出来るということでしょう。当時の科学段階では分子式レベルでもあり矛盾しますが、原子レベルでは不可能事ではないかも知れません。生物学的には誕生とともに其の生命が死と共存することになります。従って、始原を持たないマルクスとエンゲルスが説く世界は誕生も無く滅びである終末がない恒常的世界となり弁証法的には矛盾しますが、最初に世界ありきではなく「世界は有る」とした思考は、神的存在の否定のための便法だとも言えますでしょう。マルクス主義の唯物観の欠損だとも云えます。現代科学では、物質的宇宙理論として無から有が生じ、有は無に変じることまで理論化されています。此のことは、マルクスとエンゲルスの唯物論的哲学の思考には相入れるものではない。何故なら、無は有を其の「質」に含有することにな、此のことに従えば,「無」が存在性を持つことになり、「無」が有性を予め持つことになります。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年10月09日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/唯物論的哲学26(五百六十四) 世界内存在の本質を「もの」在りと捉えて本質はマルクスとエンゲルス的に永劫の始原の開始に求めるにしても、世界内存在に合う様々な「質」の始原を求めることは容易ではありません。但し、現代科学は宇宙始原の解明を大凡は解明しつつありますが、科学進化段階にあるマルクスとエンゲルスは精々(せいぜい)が「質」の転化は「量」の支配下にあって転遷していると解釈しています。物の質とは量の変遷、「質」がコンピューターにおけるハードディスクとしての置き場であり、頭脳としてのCoreであるCPUとメモリーとしての「場」が、言い換えれば世界内物質エネルギーであり、従って、「量」の要素に因って如何様にも転化することが可能だととも解釈できます。其のことをコンピューターに於ける世界で捉えてみれば、プログラマーがあってこその世界であり機会学的存在哲学の再浮上が予期されることになり、唯物主観に矛盾の翳りが襲います。自ら編み出した唯物主観の弁証法をもって新たなる「質」と「量」の解決に迫られているのです。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年10月08日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/唯物論的哲学25(五百六十三) マルクスとエンゲルスの思考する「質」の転化は、大乗哲学の祖龍樹の説く如く「質」とは定体を保つことが出来得無いとすれば全ての造物には「本質」はなく、マルクスとエンゲルス的には万物を「量」としてしか捉えることしかあり得まないことになります。「量」現代の理論化学で云う「質量子」ではなく運動量「エネルギー」と捉えると、「質」としての大宇宙も「エネルギー」消失の原則通り無に帰す筈です。まして、マルクスとエンゲルスの思考する対立物の相互浸透は薪が燃えることを前提にして炎を質に持ち、炎は消失することを自らの「本質」に持たなければなりません。燃えないことを本質にした炎であれば最初から燃えることは有り得ないことは、マルクスとエンゲルスの思考する「質」の転化、対立物の相互浸透の矛盾です。逆にマルクスとエンゲルスの思考を是とするならば、大宇宙生成の内外に及ばず、人間の観念の造物主たる「絶対的なもの(有)」にも相互浸透が及ぶことになり、人間は世界そのものと同化することさえ可能となります。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年10月07日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/唯物論的哲学24(五百六十二) マルクスとエンゲルスの思考する「質」の転化を其の変遷経過を注意深く考察すれば、或る「質」においては、其の「質」の「量」の漸次的増大若しくは減少が或る時点で、其の「質」が他の「質」に転化することになります。詰まるところ、量的変化は質的転化を齎すと云うことです。さすれば、「質」とは「量」を含有する故に、一定に固定することはありえません。世界内物質全ては量に換算され、「質」とは経過性を帯びた変容体と捉えることになります。換言すれば、「質」が新しく転化したことにより更なる量的変化を齎すという永劫変化の構造が成立し、世界はもとより大宇宙内外には変化をしないものはなく、恒常的な「有」であれ「無」は存在する余地はなく、恒常的な質を敢えて求めるならば、西洋哲学からは虚無主義と罵倒される大乗哲学の祖である龍樹の説く「空」しかありません。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年10月06日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/唯物論的哲学23(五百六十一) マルクスとエンゲルスの思考する「質」の変遷とは社会科学的であり、物理的宇宙の変転は考慮外だったでしょう。宇宙の変遷はエントロピー(entropy)に従い、熱力学の第二法則により、内部変化、即ち、常ににエントロピーが増大する方向に起こる。仮に生命が系として孤立しているとすると、エントロピーは限りなく増大しようが、ネゲントロピーとして反対にエントロピーとは関係を断つ、つまり、生命のシステムは何れかの力により秩序化されており、生命は環境に対して開かれ、呼吸などの代謝を通して環境にエントロピーを排出することで、その補償により自己の低エントロピーを保つことが出来得る。このような作用がネゲントロピーである。これによって生命は自己組織化され散逸構造を維持することが可能となる。ネゲントロピー単体の存在は否定されたものの、観念論学的に精神、取り分け理性の起動因を絶対性の存在を認めれば霊魂の常在も絶対有があると仮定した場合には、霊魂の不滅をマルクスとエンゲルスの思考する「質」の変遷とは違い、「質」の保全性的性格が浮かび上がります。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年10月05日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/唯物論的哲学22(五百六十) 「質」の変遷は其の要因に「質」自身が保有する本質に由縁している「量」に由来する。即ち、量的変化が質的要素に変化を促す。其の結果である「質的変化」は、新たに更なる「質」として量的変化を促すとしても、詳細に解析してみれば矛盾点があります。何故なら、変化は、譬えれば其の「質」自身が保有する本質に変化要因を含有し、「質」自身が安定定着することはあり得ないからです。まさに、「万物は流転する」わけです。大乗の祖である龍樹の世界には「何々で在る」ものなどは常住有ること総じて無く、変化しない「質」を空観でとらえています。当然に、マルクスとエンゲルスの思考は経験的史的唯物論を掲げますから、人間の根底の概念である「質」、其の特性である理性や霊魂自身の転生の変転は「質」の固定化であり、其れを認めることには唾棄すべきものとして否定します。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年10月03日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/唯物論的哲学21(五百五十九) エンゲルスがマルクス主義の弁証法の基本をヘーゲルの論理学体系の各部門の一部を第一に拾い上げた量的変化が質的変化を齎し、質的変化は量的変化に促進要素として働くとした「質と量の関係」に関して如何様に定義しているのかは、マルクス主義を考察し、理解するのに重要です。人間の観念と対峙する世界内事物は、其れ自身が保有する本質に由縁して他の事物に転化する。事物の本質が転化するのは、其の本質に変化を含有しているからである。其れ故に、「事物が質を持つ」というのは「事物は変化をする」と同義である。其の事物の転化を詳細に観察すれば、どの事物の転化にも、其の「質」の量的変化が観察されよう。「質」の量的変化が、或る水準に達すると、突然に他の「質」に転化する。「質」の変遷は其の要因に「質」自身が保有する本質に由縁している「量」に由来する。即ち、量的変化が質的変化を促す。其の結果の「質的変化」は更なる「質」として量的変化を促す。此の思考方法はスピノザのエチカの定義と証明の相互関係に相似しています。何故なら、定義は証明の史的変遷に従い変化していくものだからです。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年10月02日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/唯物論的哲学20(五百五十八) マルクスとエンゲルスは人間の生得の理性、譬えば正義感や慈悲慈愛を否定する傾向は歪めません。但し、当時の社会環境が人間の宗教権威を援用した神権政治を土台に築かれている以上、其の社会学てきな異見合いにおいて世界に自由世界はなく人間の精神解放は急務の事実であったことは頷けます。神が人間を救済する其のことを奉じる神権政治はマルクス主義の排撃対象になることは致し方無いことで、其の根源的なキリスト教排撃も、亦、致し方ないのかも知れません。然し乍ら、ナザレのイエスの説く全てを嘘言し扱いするのは如何なものでしょう。自らの思想を説くために対立思想を無視する態度は、其の思考を是とする人間にとっては内面生活の破綻を齎しかねません。人間進化上に史実以前より此の思考は刷り込まれており、其のことを拒絶することは、マルクスとエンゲルスの思惑とは異なった展開、社会権力に宗教権威を援用した神権政治と同様に援用され、歴史は其れを展開してみせます。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年10月01日
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