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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/サルトル29/ヤスパースの9(六百四十五) ヤスパースの包越的存在論は、ヤスパースの思考は、哲学をすることとは「存在そのものを問うこと」とは基底としますが、彼の思考表現の存在其のものの表現には、先ず「包越者( Umgreifende )」が掲げられ、其のピラミッドの包越者としての頂点の「包越者」をカントの云う「超越者(Transzendenz)」と解釈されるのかと云えば、多分に疑問点が現出し解明に困難を来たします。彼は「包越者」の頂点を「超越者」だと呼ぶのかと云えば、イマヌエル・カントの超越理論を批判する限りには無理があります。此処に哲学思想家のそれぞれが表現する語彙を、先ず何より哲学する人間の思考経過を解読するためには、哲人の思想そのものよりも、先んじて対象の思考家のて哲学文献に使用する用語の理解を基本に置く必要に迫られます。ピラミッドの頂点の「包越者」を定義した筈のヤスパースが、イマヌエル・カントが哲学的には主観と客観の超越関係を可能にするとした人間が己の無自覚な惰性的存在と看做して、決断と選択の絶対的自由をもつ主体的実存へ飛躍することが(超越)原理とすることは、イマヌエル・カントが哲学的には主観と客観の超越関係とは異質なものと捉えることは、シモーヌ・リュシ・エルネスティーヌ・マリ・ベルトラン・ド・ボーヴォワール(Simone Lucie-Ernestine-Marie-Bertrand de Beauvoir/1908年-1986年)と「契約結婚」、即ち、結婚後の「自由恋愛」の二年間を契約するも、事実上は50年間に及び、最晩年には日本人妻を迎えたサルトルの思考を理解するうえでも「要(かなめ)となります。哲学はギリシア古典哲学以来「存在」を追い求めます。此のことはインド哲学にも共通する課題です。彼ヤスパースは存在を究めたのかと云えば其れへの方法論を述べたに過ぎないとも云えます。何故ならば、普通一般に人間が確信する三角形の内角の総和が180度のようには至らないからです。キリスト教の史的に積み上げられた教義、宗教とはいえ体系の強靭さを再認識する次第です。何故なら、哲学は人間精神の深奥の理性が絶えず変化を伴う大宇宙そのものと進化する或いは退化の経過を生みかねない人間精神の霊魂を究めんとする体系からくる思想だからです。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年12月31日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/サルトル28/ヤスパースの8(六百四十四) ヤスパースの実存主義とはベルリン、ゲッティンゲン、ハイデルベルクの各大学で医学を学び「精神病理学総論」を著し、精神病理学者としての地位を確立したのちに其れだけでは遺伝子的阻害、彼の得意とする精神病理学上の遺伝子的要因と推察しますが、其れを省(はぶ)いただけでは満足し得ない人間存在を、精神病理学の博識を活かしてから「実存」を考究したところに特徴が顕著に顕れています。彼の主著「哲学」の第一巻文献「哲学的世界定位」では、「世界知」、即ち世界の実在が全てであり、科学的認識が確実性の総てであるとする世界内在的な態度、現代においても科学信奉信者は数多いですが、科学的認識に確実性の総てを求めることを改め、イマヌエル・カントが哲学的には主観と客観の超越関係を可能にする「超越」原理を、後にサルトル共に人間がおのれの無自覚な惰性的存在を脱して、決断と選択の絶対的自由をもつ主体的実存へ飛躍することが超越原理であり、存在意識変革の登頂への第一歩が踏み出します。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年12月30日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/サルトル27/ヤスパースの7(六百四十三) ヤスパースのいう「包越者」とは人格性或いは神格が賦与された存在ではありません。大宇宙の自然世界の人間と世界における関連性を人間の実存から真相を究めるのだとすれば、其の「真実在」或いは「其の実相或いは虚相」を極め得んとした人物が亜細亜にいます。インドの仏教哲学の完成者たる大乗哲学の祖ナーガールジュナです。彼は仏祖である世祖シッダルタの思考を覚りではなく哲学によって真相を究めんとした人物です。漢字ではは「竜樹」の字が当てられています。其の世界観は名前に負けず現代においても衰えを知りません。彼はシッダルタが名を挙げたシッダルタ以外の六仏とされる人間は無視して、世祖シッダルタの思考の経緯を追求します。その経緯から導き出されたのが「因果関係」についての構想です。此の思考方法をヤスパースの実存的世界観に当て嵌めれば、全ての存在をあらしめる、言い換えれば連関させる或る「モノ」が浮かび上がります。ナーガールジュナは其れを「実存とも実在も問えない「空」として解き明かそうとし、ヤスパースの世界観では、無数に捉えられる関連枝が「包越者」として捉えられ、其れが更なる真実在の包越者に向かって進み、ヤスパースの考える真実の存在、人間の生きられる人生の可能性を、最大限にまで引き出す或る「モノ」を「包越者」として抽象化していますが、神存在や絶対存在を否定すれば「包越者」とはナーガールジュナの「空」が「真実在」として現象化します。詰まるところ、実存はとは、死や悩み、争いや罪といった人間が免れることの出来得ない「限界状況」に会して自らの有限性に絶望する。だが、それと同時に実存は超越者が主宰する真の現実へと目を向け、存在意識を変革しつつ、本来の自己存在へと回生する。まるで其の儘、シッダルタの覚りへの道程を説くが如くに思えるのは不思議に同調しています。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年12月29日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/サルトル26/ヤスパースの6(六百四十二) ヤスパースが人間側面での「包越者」と世界的側面の「包越者」、更には多々の側面的「包越者」を掲げるのは、包越者の真の姿を捕らえる思考方法であり「方便」ともとれます。包越者を其々の状況に応じて区分して考察することはヤスパースが究極の真実在を捉ら得んがための便法です。包越者を区分して考察するこそが、其々に加えて相互関係にも対立要素が無いことが認められ区分して考察された包越者は夫々が「包括的要素」に収束することが予見されています。仮に、区分された「包越者」が独立するとしても完璧な依存関係、突き詰めれば「真の包越者」は一者だということになります。ヤスパースの実存的世界観は真の包越者へと上昇することを予見した世界観だと云えます。即ち、思考的に区分される包越者はピラミッド構造にあり、個別の人間存在と個別の世界存在の各々の包越者等々が、それぞれの状態の包越者に包括され、更には其れ等の包越者も、その上位の包越者に包括されます。最終的には、全ての包越者を包括する包越者の存在に行き着くとするのです。包越者の階段を段々に上に昇って行き、究極の包越者に出会うとしています。ヤスパースのいう「包越者」とは人格や神格が賦与された存在ではありません。大宇宙の自然世界の関係性の真相を求めるものだとも言えましょう。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年12月28日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/サルトル25/ヤスパースの5(六百四十一) 北部ドイツは北海沿岸に近いオルデンブルクに独逸民族の銀行家の子として生まれ、弁護士を志したものの、ベルリン、ゲッティンゲン、ハイデルベルクの各大学で医学を学び「精神病理学総論を著し、精神病理学者としての地位を確立したカール・ヤスパースは思考専門職を志す者が羨む金字塔として評価され誰もが認める巨頭です。自ら精神科医であり「精神病理学総論」では独逸国内のみならず西洋のみならず亜細亜にまで有名を馳せます。然し乍ら、運命は国家社会主義ドイツ労働者党(略称: NSDAP)に妻がユダヤ人であるをもって一切の発言は禁制されます。其の圧力あっても妻を離縁することは勿論、沈黙したことはあっても自己の信念は変更する、所謂、踏み絵による転向はヤスパースは、肖像の眼力(めじから)通りの自己の意志を貫き通す人物です。精神病理学者として更には哲学者及び神学者として、加えて政治評論家としての活動には後世に影響を与えたことは歪み得ません。とは言え、彼の専門的能力が良くも悪くも思考に偏光性を与えていることも見逃せません。彼の云う「包越者」とはヤスパースの学的分野、其々に思考形式が異なる精神医学や神学思想及び哲学からの到達点であり、干渉の一切ない世界です。彼は世界の「真実在(有)」を求めるのです。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年12月27日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/サルトル24/ヤスパースの4(六百四十) ヤスパースに云わせれば自己の精神の深層において主観と客観・人間と世界とが対立している状況は、ものごとの基盤としての主観と客観言い換えれば人間と世界の関係を取り違えることから起因しています。主観と客観とが対立している状況とはものごと小さな観点から見ている状態を指します。但し、ヤスパースの「包越者」は一として在るわけではなく様々な包越者を予期し、夫々の包越者が何を包括するのかによって区別はされています。ヤスパースは、基本的には世界を主観と客観とに分けて思考しています。其れ故に、「包越者」にも此の基本を前提に思考していきますが、其の思考経過は自ずと全体化し、{包越者」の概念は人間と世界の存在を包含した統一概念が起こります。其の思考経過を辿ると、先ず、人間の存在と世界の存在を其々の面から考察し、二つの{包越者」を想定し、一には人間の存在を包括するもの、二には世界の存在を包括するの「包越者」を掲げていますが、人間であれ世界であれ、対立存在を認めれば、一も二も論理的矛盾しか見えてきません。人間存在や世界の存在を、各々に考えている時は、対立的な考え方が出現しているのであり、対立状況の思考は真実の存在性ではなく「何れが真実」かは「何れもが真実でない」状況しか生み出せません。複数の「包越者」は此処に来て雲散霧消と化します。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年12月26日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/サルトル23/ヤスパースの3(六百三十九) 「包越者/das Umgreifende」或いは「包括者」とも訳されるヤスパース哲学の核心をなす包越者とは、ヤスパース哲学独自の実存概念のひとつである。我々が存在そのもの考察を哲学的に思索するときには,対象として認識されうる総てのものが,自己の認識が更なるなにものか広いものによって包まれていることを経験する。 ヤスパースは人間が世界の中で、如何様に将又(はたまた)どのように位置付けられ存在するのかを考察する時、ヤスパースは「包越者」の言葉を多用します。彼は人間と世界の関わり合いを思考するとき、先ず人間の主観を前提とし、客観的な世界を捉えます。人間の内面である主観を客観的な世界と対抗して考察します。然し乍ら、主観と客観とが対立しているままでは、人間の大いなる世界観は期待するようには望めません。実存主義の立場と精神医学から捉えても人間を大いなるものとするのがヤスパースの思考の基底にはあり、其のことが「包越者」の概念によって、主観と客観との対立が克服されると主張します。何故なら、主観と客観との対立を克服する「包越者」には大いなる余裕と自由が生じるからです。北ドイツの北海沿岸に近いオルデンブルクに銀行家の子として生まれ、ベルリン及びゲッティンゲンそしてハイデルベルクの各大学で医学を学び、妻がユダヤ人であることから1933年ナチスにより大学運営への参加から締め出され、37年には教授の職から追放された彼にこそ「包越者」の概念が要求されるからです。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年12月25日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/サルトル22/ヤスパースの2(六百三十八) カール・ヤスパースの精神病理学の功績は然(さ)ること乍(なが)ら、10年余に及ぶ思索ののちに三巻からなる大著として現代にも名を残す「哲学」では、「限界状況」における挫折を直視することによって超越者の暗号の世界へと立ち居出て行く立場を体系化していますが、ヤスパースの云う「限界状況」とはヤスパースの実存哲学の用語であり、平素は無自覚であるが、従来の環境への適応手段が、全く役立つことが出来得なくなった状況。環境の変動が激しすぎて、社会的に慣習化された適応手段による処理が生きている限り不可避的にそれに直面するしかない状況。死・苦悩・闘争・罪責などの根源的な場面を通して、人間は自己の実存に覚醒するとされるを極限状況を意味し、此れ等の限界状況の経験が我々人間精神を絶望のなかに突落すが、其のこと故に絶望に直面したときに初めて真の自分となる事が出来える可能性が見出され、「包括者」とも訳されるヤスパース哲学の核心をなす最も独自の実存概念「包越者/das Umgreifende」が現れ出るとしています。一部で「超越者」と翻訳されている方も見受けられていますが、「超越者」はイマヌエル・カントが哲学的には主観と客観の超越関係を可能にするもの、神学的には有限な偶然的存在を超え出た必然的存在者を指すものとしたもので、ヤスパースやサルトルの実存主義においてのように、人間がおのれの無自覚な惰性的存在を脱して,決断と選択の絶対的自由をもつ主体的実存へ飛躍することがを超越と呼称した者であり「包越者/das Umgreifende」とは意味合いが異なります。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年12月24日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/サルトル21/ヤスパースの1(六百三十七) 人間の宿命としてある苦悩や自他を問わずある闘い、自己を苛(さいな)む責めといったものは人間の限界状況の現れであって、此処に人間の精神は限界状況の突破を模索します。「実存」という人間のあり方に「絶望」という限界状況の陥穽(かんせい)に嵌(はま)って初めて「実存」という人間の在り方に目覚めます。キルケゴールの云う「実存」は死・苦悩・争い・責(せ)めといった挫折による人間の越えられない壁を知ったとき、初めて「実存」という人間のあり方に目覚める。挫折を知らなければ実存ということはあり得ないことその文言(もんごん)に不条理を認識し条理を究めんとしたのが、先達であるセーレン・キルケゴールの影響を受けて、心理学から哲学思想に転身したドイツの哲学者カール・ヤスパース(独: Karl Theodor Jaspers/1883年-1969年)です。ドイツはオルデンブルク生まれで初め法学を学ぶが医学に転じ、ハイデルベルク大学の精神医学部で学位を取得後、1903年「精神病理学総論」を発表し精神病理学者としての地位を確立するも、西欧近代の文明を他の文明から区別する根本的な原理は「合理性」であるとし、その発展の系譜を「現世の呪術からの解放(die Entzauberung der Welt)」と捉え、それを比較宗教社会学の手法で明らかにしようとした宗教社会学における「合理化」のテーマを検証しようとしたドイツの社会学者・経済学者カール・エミール・マクスィミリアン・ヴェーバー (Karl Emil Maximilian Weber)との交流からの影響もあって10年余に及ぶ思索ののちに三巻からなる大著として現代にも名を残す「哲学」を著し、「限界状況」における挫折を直視することによって超越者の暗号の世界へと立ち居出て行く立場を体系化し、現代実存主義哲学の基礎を築いた三つの顔を持つ男と称される「精神病理学者としては勿論のこと哲学者並びに神学者」として、更には政治評論家としての活動するカール・ヤスパースの出現です。彼はキルケゴールに関しては、自らの経験と信念から、思考経過の方法論は評価しつつもヤスパース自らが獲得した精神医学を活かした在り方をもって継承発展化させてみせます。キルケゴールの階段を別階段昇り思考して解析してみようと云うわけです。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年12月23日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/サルトル20/キルケゴールの17(六百三十五) キルケゴールによれば、実存の進行展開の第一段階である感性や享楽に求める「美的実存」も人間は生活を実践するに連れて空しくなり、次の倫理的実存という実存の第二段階に移行する。人間現実生活を経れば「あれもこれも」、財力・健康・社会的地位や名誉、社会的権力の掌握等々の何ものかをも獲得しようとしても得られるべくして得られない。人間が世の中で其れ々各々の全ての欲求を満たそうとすれば、その反動は想像に難くない。然らずんば、己自身でやれる道徳的理性に従った人生、イマヌエル・カントの理性的人間、人間として正しいことをやっていれば、その人は幸せなのだという倫理的実存の立場はそうそう人間が出来得るものでもない。これが絶望を知ってしまったがゆえの絶望と称するものです。其れ故に、人間が此れ等の諸問題の打開を目指すならば、単独者としてたった一人で神の前に立つ、神と一対一で向き合い、信仰に生きる決意をすることが、人間は絶望を乗り越えることができる唯一のものだとします。神と一対一で向き合い、信仰に生きる決意をすることで人間は絶望を乗り越えることが出来得る。無力な自身を自覚し、其れを神に投げ出し絶望を受け入れること、此れが絶望を受け入れることの可能性であり、宗教的実存の段階こそが絶望を超えさせるとしています。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年12月22日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/サルトル18/キルケゴールの15(六百三十三) セーレン・キルケゴールはカール・マルクスの世界原因を「在るものはあり」、人間が観念上捉えるものは幻想に過ぎなく実態がないとするのに対し、現実在したナザレのイエスを通して、神は原罪宇宙内外を問わず「有」として実在しており其の神の愛によって生かされている充実感の中を通してこそ、真の人間の生き方があり、人生があるとします。人間が人間たる由縁は神から齎された精神の充実にこそ、人間たる真の生き方があり人生がある。カール・マルクスの社会全体からの旧体制・旧階級の打破、新しい労働者階級追求の人間救済だけの思考では、個々の人間精神の真の救済は見えて来ない。社会全体の利益を追求する精神と自分自身の利益を追求する精神は必然的に矛盾を持ち込む。自分個人にとって必要なことと社会はこうあるべきだと自分がいだく理想が一致しない。過去のイマヌエル・カントの時代までは社会全体の利益を追求する精神と自分自身の利益を追求する精神は一致していたとも言えようが現状はそうではない。其れ故に、汎用的な理性中心の考え方はもはや通用しない。主体性こそが真理であるとセーレン・キルケゴールは自分だけの生きがいになる理念である「主体的真理」を求め、真に人間夫々の個性的で人間らしい生き方の問題を課題として追求しています。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年12月21日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/サルトル17/キルケゴールの14(六百三十二) ダニエル デフォー(Daniel Defoe)の小説「ロビンソン・クルーソー」のモデルともされる1704年にマサティエラ島(チリ政府は1966年に島の名前をロビンソン・クルーソー島に変更)に置き去りにされた海賊アレクサンダー・セルカークはいざ知らず、人間の元来の本性は個人的存在であると同時に社会的存在である。キルケゴールの1843年の著作「あれかこれか」の出版時期にはヘーゲルの弁証法を取り入れ、ヘーゲル体系に対する批判をする二つの流れ、一つはセーレン・キルケゴールの資本経済化する時代に労働が人間の人間の個性喪失と大衆化のうちに人間の非人間傾向を促したとする見方、他方、第二にはキルケゴールと保々同時代に居たマルクスが、彼等の時代の「非人間化社会の傾向」を指摘していることです。但し、カール・マルクスが「非人間化傾向」を大量生産指向故に疎外された労働及び資本家への団結への警戒から生じる人間的連帯性の喪失という姿で捉えたのに対し、セーレン・キルケゴールは人間の個性喪失を、人間そのものの大衆化の傾向に非人間化傾向を読み取ります。マルクスが社会的側面から人間存在を捉え、私有財産の否定を主張したのに対し、キルケゴールは個人的側面から人間救済の道を模索します。ソヴィエト連邦の最高指導者だった レオニード・ブレジネフ(Leonid Brezhnev/1907年1月1日-1982年11月10日)ブレジネフが母親に自分が偉くなったところを見せて喜んでもらおうと、ヘリコプターで母親をモスクワへ呼んだことに、権力乱用をこっぴどく叱られた騒動が浮かびます。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年12月20日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/サルトル16/キルケゴールの13(六百三十一) 実存主義は「現代実存主義哲学の祖」とされるキルケゴールの、神を認め、神と人間との関係を重視する有神論的実存主義に始まる事になりますが、真理のためには絶望を受け入れて死の願望を理念として受け入れます。キルケゴールは父ミカエルと同様に、あくまで、理不尽とした神を、自らの主体的真理を追い求めて、自己の創造原因である故からを事実として此れを認識します。カール・マルクスは自己が生きる社会世界の状態に、資本家階級の余剰価値を見出すために非搾取者が生じる。個性を失い画一化している労働者の非人間化傾向の状況、疎外された労働及びそこから生じる人間的連帯性の喪失という姿を「私有財産の否定」としての克服を説きます。其処には、猿人段階から共同意識が生まれ人間は社会生活からは切り離され得ない社会的側面が要素として重視されています。旧体制の権威は権益保存の思考であり非人間化される非搾取者である労働者には、権威である王統や教会権威は一慮すべきものではなく、害こそあれ一理なしと決め付けます。カール・マルクスは人間を個人的な精神面、人間自身の側面を現在時的なマクロとして捉え此処の観念には焦点は当てませんでした。但し、此の一面には人間が共同生活を営み始めた頃の原始社会では私有という意識はなく日常で獲られるものは共同で行動し当然に参加したものには、其の労働に見合ったものが均等に分配される「原始共産制(Primitive communism)」を意識したものではなく、階級制が思考の基底にあります。然し乍ら、社会全体が階級世界が労働者階級一色になるとしても其の体制維持には何らかの強制が生じます。強制を為すことで得べきもの、共産制は私的独占破壊のために金銭交換性すら廃止を目論むのですが、現出したのは体制維持の階級を生み、其の階級に至ると金銭の代わりに命令書一枚での土地や家屋を一定期間であれ我が物とする悪弊が生まれます。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年12月19日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/サルトル15/キルケゴールの12(六百三十) 実存論が見えざるものを霊魂若しくは理性深奥にある直覚で認識する観念論に対しては、人間が実見的に見え得るものを認め再認識することは、キルケゴールの「神」存在は一見矛盾しています。然し乍ら、彼は人としての性質を持って現われた「神的存在」ナザレのイエスは現実在したものであり、人間存在「イエス」が見え得るものならば、「神」もまたイエスを通して実在として見えると判断します。実在として見えるといっても、其処には「信教」の前提があります。ヘーゲルの「見えざる手」を第一テーゼ(独:These=正)として、キルケゴールのアンチテーゼ(反)の「見え得る神」、初めに立てられた命題ヘーゲルの「見えざる手」とキルケゴールのアンチテーゼ(反)の「見え得る神」を第三には合一(合)してを「無」と答えるか、有なるものと答えるかによって其の後の進展は大きく変わります。そこに思考方法としての弁証法なるものが、必ず正当なる解答としての真相に近づくのかどうかの判断の難しさがあります。イエスは「現存した」のアンチテーゼとしてイエスは「現存していない」成り立たないし、弁証法も其々に命題を選びます。「神は存在する」に対して「神は存在しない」から得られる第三テーゼは「存在を問うべき問題の何ものでもない」と返答すべきなのでしょうが、此のことが信仰の特徴なのでしょう。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年12月18日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/サルトル14/キルケゴールの11(六百二十九) キルケゴールの哲学はヘーゲル哲学の思弁的合理主義に反対して主観主義の立場から、自己の不安と絶望を実相として、人間の観念的概念である理性の箍(たが)を解き、自由と人間性とを希求する「実存」の思想に目覚め、人間の主体性こそ真理だと確信、真のキリスト者・単独者への道を追求することになり、現代の実存哲学や弁証法神学に大きな影響を与えるわけですが、「神」を離れることはしません。其のことはキルケゴールの著作「あれかこれか」の表題に言い尽くされます。彼の思考は聖書から案出され、人間の認識から独立した事物それ自体の存在である「アン‐ジッヒ」、即ち、人としての性質を持って現われる以前のイエス・キリスト。そして第二のテーゼとして人としての性質を持って現われ、第三に神は、キリストを高く上げて祝福の正・否・合のヘーゲル的論法でヘーゲルの観念論を否定します。「あれかこれか」は我々人間が人生に携わる限り避けては通れない道です。人間が生きていくうえでは、現実生活が何よりも優先し観念は後方に下がります。但し、心の拠り所を見えないものである「不・可・思・議」であるよりも、現実の人間ナザレのイエスを拠りどころにするのが、ヘーゲルの観念論より遥かに現実的であり、人間存在の実存を納得させるではないかと説きますが、キルケゴールの現実とは基底に信教あってこその現実であり、「神」の人格性を否定するヘーゲル観念論とは相容れないことはもとよりです。然し乍ら、此の「実存主義」がキルケゴールからヤスパースそしてニーチェからハイデガーを経てサルトツに至ると修正されます。要は実存論とは観念論に対しては「見える」ものを認め再認識することです。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年12月17日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/サルトル13/キルケゴールの10(六百二十九) キルケゴールはヘーゲル批判は人間には見えない存在を仄(ほの)めかすだけで実際的でないこと。其のことがヘーゲル体系を観念論的で夢想的なものとします。其の観念上の予期存在を「神」に置き換えれる方が解決が容易だと仄めかします。此のことは、ヘーゲルの弁証法の思考経過の原型が聖パウロの「ピリピ人への手紙」の第二章の手法を借りていることを指し示します。イエスが人の性質として現れる以前の状態、即ち間の認識から独立した事物それ自体の存在、キリスト教では「Godであるエホバ」、ヘーゲル的解釈では人格性を与えられた「神格」を否定する以上不可視的存在或いは基底ですが、聖パウロの言葉を借りれば、第一のテーゼに「アン・ジッヒ」人間の認識から独立した事物それ自体の存在であるもの、神格性を与えられた意思からイエスは生まれたことになり、イエス其の物が神の栄光を表現します。ヘーゲルの弁証法では事物の弁証法的発展の第一段階を示す用語として、発展の要素をすべて潜在的に含みながら、なお未発展の状態にとどまっている段階「不可解」言語上の厳密な意味での思いはかることのできない、どの様にう考えようとしても原因や理由などがわからない「不可思議(不思議)」を語彙としては言葉としては名付け様のないものを表現していすが、キルケゴールは「神」と表現します。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年12月16日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/サルトル12/キルケゴールの9(六百二十八) キルケゴールを語るとき当時の西欧世界の思想を席巻していた自己の内的認識にある矛盾を自らの思考を発展させることによって矛盾点をなくして、あたらしく統合された統一に到達する理論「弁証法」を体系づけたヘーゲル体系の基本的な思考がアンチテーゼ(反対命題)として彼の思考の基底にあることが重要であり、且つ、キルケゴールの思考の流れを汲み取るには必須となります。抑々(そもそも)が、弁証法(dialectic)なるものはソクラテスの対話を基本とする問答法と同じように、暗黙的な矛盾を明確にすることで発展させていくことに特徴があります。暗黙的な矛盾を明確にすることで発展させていくことはソクラテスと基本的には同様だとも云えます。問答法と異なるのはソクラテスが意図的に自己の思考に論理的に相手を導くのに対し、弁証法は自己の内にある矛盾をみずからの発展により其の矛盾を解消して、より新しい統合された統一に到達するための理論であり、命題であるテーゼ(正)と、それとは矛盾する、若しくは其の命題を否定する反対の命題であるアンチテーゼ(反対命題)、そして、それらを本質的に統合した命題(ジンテーゼ=合)の三分類した命題です。特筆すべきは、それらの三要素全てに矛盾が内在しており其のこと故に更なる己と矛盾するものを生み出す。矛盾するものを生み出すものと矛盾するものから生み出されたものは相互に対立しあうが、相互の優劣関係はなく、同時に矛盾を介して結びつきます。其のことを相互媒介とヘーゲルは主張します。キルケゴールは此の手法を彼の代表的著作「あれかこれか」で此の無限展開する思法を借りています。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年12月15日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/サルトル11/キルケゴールの8(六百二十七) 史上でこれまでに偉大な哲学の曾祖と称される者、此処では結婚後覚りを開いた後の覚醒した者までを含めて、結婚後覚りを開いた後の覚醒したシッダールタと問答法のソクラテスを除いて、かって結婚したものがいたであろうか。哲学の曾祖ヘラクレイトス、プラトン、デカルト、スピノザ、ライプニッツ、カント、ショーペンハウアーらは結婚しなかった。宗祖ではキリスト、解脱後は女性を人間の性別を超えたものとしての霊魂性を説くシッダールタは言うに及ばず皆挙に暇がありません。其の列に更にはニーチェ本人とキルケゴールを付け加えることに誰も異論はない筈です。ところが豈図らんや、キルケゴールは危うくこのリストから除外されるところでした。麗しの令嬢レギーネ・オルセンと婚約まで行ったのである。其れも自らの愛を告白して結婚を申し込み、彼女の父の御機嫌伺いをしてまでです。ソクラテスは自分の精神に宿している心を偽って、其れもニーチェの言を借りれば「偉大な哲学者は結婚しない」という命題を実証するために、世界の三代悪妻とされるモーツァルトの妻コンスタンツェ、トルストイの妻ソフィア、あるいはナポレオンの妻ジョセフィーヌの第一に名を上げられるクサンティッペと結婚しています。さも自身が偉大な哲学者には及ばないと言いたそうに。輪廻転生を「空」で解脱したシッダールタは息子の誕生を知らされたときには、「私のラーフラが生れた、私に頚枷(くびかせ)がつけられた。」と嘆いたといいます。ジャン・ジャック・ルソーなどは実際に子供を捨てこの頚枷を取り払います。哲学を女性が嫌うのはこのあたりにも要因がありそうです。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年12月14日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/サルトル10/キルケゴールの7(六百二十六) キルケゴールのレギーネを死ぬまで愛し続けることと、結婚は「神の前に罪あるものとして,単独者として立つ」彼にとっては両立し得ないことであり、彼キルケゴール(アブラハム)は「神」を選びレギーネ(イサク)との結婚を破談にせざるを得なかったことです。自らの思考路を大切にする実存哲学の考え方が非難はあろうとも肯(がえ)んぜられます。其の証拠に、後の彼の著作「反復」で再び彼女を別件にて取り戻すための思想を展開してみせます。彼は幼少から父ミカエルから刷り込まれた信仰と自らが持つ内精神と学業を経た思想をもって、其のことを無視する単なるドンファンではありません。後の彼の著書「反復」では「反復」は過去の行いをさらに未来への可能性に託すものであり、期待とはまた違うものとあるが、キルケゴールの自己への取り組み方は浮ついたものではなく、あくまでも自分の内精神の声に忠実だったと云うべきでしょう。何れにしろ、人間中心主義である筈の実存主義は「神」を前にしての個人であり、実存だということです。ヘーゲルの見えない存在を「神」に置き換えたに過ぎないともとれます。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年12月13日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/サルトル9/キルケゴールの6(六百二十五) キルケゴールは「神の前に罪あるものとして,単独者として立つ」ことを求めます。ヘーゲルのごとく人間が決して存在を知ることを得ない「絶対的何か」ではなく、彼は「神」を存在者として認識します。此のことは彼の著書「恐れと慄き(おそれとおののき)」に著されるレギーネと別れた理由が暗に示されており、おそらくは、聖書の中のアブラハムとイサクの問題、アブラハムが神に告げられて、息子のイサクを生贄にしようとする。そして自らナイフを向けて、息子を屠ろうとし、其の信仰故に神はアブラハムを認め、間一髪その行為は止められる。だが、通常に考えればアブラハムは人殺し、其れより酷い子殺しである。然し乍ら、何故に牧師は平気な顔をしてこれを語ることができるのであろうか。もしこの話に何か意味があるとすれば、アブラハムは信仰の騎士であったことによるとする。そうでなければ虚しいだけであろう。アブラハムは真偽の判別は別にして確固たる信仰を持っていたのである。息子イサクを誰よりも愛し、かつ其の息子を放棄する、しかし彼は神を信じていた。イサクは必ず自らの手に戻ってくると。此のことが、レギーネと別れた理由であり、破談にしても彼女を愛し続ける理由になったのでしょう。彼は後に続くヤスパース、ニーチェ、ハイデガー、サルトルとは異なり信仰の人間でした。ある意味、神を捨てきれない人間実存主義を思考の基底にしていると捉えると彼の行動が解釈できるかもしれません。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年12月12日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/サルトル8/キルケゴールの5(六百二十四) キルケゴールの青春は14歳のレギーネ・オルセンと出会う迄は、現代にも共通する裕福な家庭に多く見られる金銭感覚を持たないでいられる境遇に在って、日々欠かすことなくコーヒーハウスやブックショップで友人と語りこみ、本を読み漁り買い込む、其れも富裕な父ミカエルの名でサインのみでツケとする生活で、流石の父ミカエルをもってしても困惑させています。レギーネに会ってから自己の存在を彼女に認識を高めようとして始めた語学教師のアルバイトも持ち前の放蕩は1年も保たず挫折。相変わらす、父ミカエルが支払いを背負わされています。彼の容貌はアメリカ合衆国の作家ジョン・スタインベックが1952年に発表した長編小説「エデンの東」の映画初出演のジェームズ・ディーンで、この作品で名実ともに一躍スターの地位を不動のものとした容貌をも凌ぐほどに恵まれ其のジーンズ姿とともに世界の若人(わこうど)の憧れになり、容貌は兎も角もジーンズを世界に定着させたのは紛うことなき事実ですが、キルケゴールの青年時代は頭の良さと寂莫観が眼に現れており、それに麗しの令嬢レギーネ・オルセンは許婚も何のその一目惚れ、或る意味、自己の運命を司る「神」を呪ったとされる父ミカエルの死後、彼女の得意のピアノの演奏中に求婚、返事は迷うことなく許諾です。愛し合う二人、家族との関係にも何の憂いもなく、すべては円満に進むように思われた矢先のキルケゴールの一方的な破談、理由は悲喜交交と憶測されていますが、彼の霊魂に語りかける「声」虚偽に覆われた其の姿で「神」の前に永遠の愛を誓えるか、秘密を顕にして彼女に「永遠の愛」を誓えるかでした。此の彼の性状が後の「実存主義」の形成に関与します。)キルケゴールの青春は14歳のレギーネ・オルセンと出会う迄は、現代にも共通する裕福な家庭に多く見られる金銭感覚を持たないでいられる境遇に在って、日々欠かすことなくコーヒーハウスやブックショップで友人と語りこみ、本を読み漁り買い込む、其れも富裕な父ミカエルの名でサインのみでツケとする生活で、流石の父ミカエルをもってしても困惑させています。レギーネに会ってから自己の存在を彼女に認識を高めようとして始めた語学教師のアルバイトも持ち前の放蕩は1年も保たず挫折。相変わらす、父ミカエルが支払いを背負わされています。彼の容貌はアメリカ合衆国の作家ジョン・スタインベックが1952年に発表した長編小説「エデンの東」の映画初出演のジェームズ・ディーンで、この作品で名実ともに一躍スターの地位を不動のものとした容貌をも凌ぐほどに恵まれ其のジーンズ姿とともに世界の若人(わこうど)の憧れになり、容貌は兎も角もジーンズを世界に定着させたのは紛うことなき事実ですが、キルケゴールの青年時代は頭の良さと寂莫観が眼に現れており、それに麗しの令嬢レギーネ・オルセンは許婚も何のその一目惚れ、或る意味、自己の運命を司る「神」を呪ったとされる父ミカエルの死後、彼女の得意のピアノの演奏中に求婚、返事は迷うことなく許諾です。愛し合う二人、家族との関係にも何の憂いもなく、すべては円満に進むように思われた矢先のキルケゴールの一方的な破談、理由は悲喜交交と憶測されていますが、彼の霊魂に語りかける「声」虚偽に覆われた其の姿で「神」の前に永遠の愛を誓えるか、秘密を顕にして彼女に「永遠の愛」を誓えるかでした。此の彼の性状が後の「実存主義」の形成に関与します。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年12月11日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/サルトル7/キルケゴールの4(六百二十三) 哲学を志向する者も生身の人間であるからには、全てを言葉としては発しません。シッダルタのちには釈尊ですら説法上事実を伝えないこともあります。絵画や彫刻と言った芸術は自己の内精神の叫びを形象として現しますが、更には、詩人は自分には表現できない小さな秘密を代償にして,自分以外の全ての人の重い秘密を表現する言葉の力を償うものだと唱う「自然とは言語であり、人が学び得るあらゆる新しい発見とは、新しい言葉なのである。しかしそれは、個々に分けられて辞書の中で生気を失った言語ではなく、一体として最も重要で普遍的な意味合いを伝えるものである。私はこの言語を学びたい。それは新しい文法を知ることではなく、その言語によって書かれた大いなる書物を読むことであるだろう。」としたマサチューセッツ州はボストンに生まれた19世紀の合衆国の思想家、哲学者、作家、詩人、エッセイスト。無教会主義の先導者として知られるラルフ・ウォルドー・エマーソン(Ralph Waldo Emerson)をして興味を向かせるほどのキルケゴールの14歳の乙女レギーネに対する愛と其の破談は、一人の哲学家としてキルケゴールを見るだけでなく彼の詩人としての素養を認識し其の内在する精神が詩人の其れであり哲学にはないのを彼の性格に見たのかもしれません。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年12月10日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/サルトル6/キルケゴールの3(六百二十二) キルケゴールの生涯は確かに「聖人」と呼称されることには些か抵抗があります。其のことが彼を「実存主義者」として成さしめます。例えば、彼の若干17歳でコペンハーゲン大学に入学し、神学と哲学を学び、1841年には「イロニー亦はアイロニー(irony)の概念について」、所謂、一般に意図せざる結末(「運命のいたずら」ironie du sort)という論文でマギステルの学位を得たことからも其の英才が伺えます。キルケゴールはハイデガーやヘーゲル、神学哲学とも或いは反信神学ともされ教会権威から非難の誹りを受けたスピノザの当時には最も正当性の認識を受けていた数学論理から倫理に高めた異界に居ます。彼の哲学の思考の基底にあるのは、芸術家や理論科学者に見られる「直感」、其れを我がものとする「直覚」、言い換えれば「詩人の思考」なのかもしれません。キルケゴールは半ば学生であり、14歳の乙女レギーネに会ってからは、浮つく青年らしく始めた語学教師のアルバイトも地に付かず、辞めた其の後はまったくと言っていい程に職業に就いていません。その間には、今どきの学生にも少なくないと想われる喫茶や本屋の「ツケ」が山のように溜まり、父親がその尻ぬぐいをさせられていることからも其の性向は。当時としては稀だとしても今どきは取り立てるものでもないが、神学を志すもの、まして恋する者の所業としては頂けません。愛する14歳の乙女レギーネが17歳になったときに婚約しています。永遠に愛することを約束する行事、但し、14歳の乙女レギーネに対する愛は紛うことなきものであった筈が、後にキルケゴールの唇から「この秘密を知るものは私の全思想の秘密を知るものである」との声が漏れています。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年12月09日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/サルトル5/キルケゴールの2(六百二十一) 日本で云う端午の節句5月5日キルケゴールは、一代で毛織物で富を築いた商人56歳のミカエルを父、女中(現代的には家事手伝い)から後妻に入る45歳の母アンネをして誕生します。日本では端午の節句で目出度い日ですが、前妻には六人の兄弟があり、然るに、其の誕生を踏まえて幼少の折から憂鬱性とその反面としての外面性にはユーモアと快活性を見せる屈折した性格を見せています。仮に、後添えである母親が身分上逆であったならば彼の錯綜した性格は浮上しなかったでしょう。彼の育(はぐく)まれた環境が、彼の異性であるところの女性観を変貌させています。幼少期から父ミカエルのキリスト教の戒律の修練があり、憂鬱さの発散は外面的には快活で社交的な面を見せなければストレスに押し潰されたでしょう。彼は後世には「実存主義の祖」と謳われる程の人間の主体的実践を人間存在の要とする筈であるが、人間が生を受けたことから其れを源泉に観念哲学を超えなければならないのに1870年代のドイツの学生反乱に影響を与えている行動的神学者モルトマンに「キルケゴールは人間を精神として捉えすぎたの。たとえばレギーネとの婚約を破棄したのではないか」と言わしまます。キルケゴールは幼少から染み込まれた、「哲学」とは異質の「信教」から乖離することは出来得なかった。キルケゴールは「人間は精神である」ことを基底に「神の前に罪あるものとして,単独者として立つ」ことを求めます。然し乍ら、哲学がどこまでも観念の高みに上昇し,抽象的体系の形式的整合性に中で現身(うつしみ)の生を完全に忘却してしまうことこそが、キルケゴールのヘーゲルに対する最大の批判であり、彼はヘーゲルについて「大宮殿を建てた人間がその宮殿に住まないで,その傍らの犬小屋に住んでいる」と揶揄しているのです。ヘーゲルの云う「人間には見えない存在者」と譬えイエス・キリストの十字架磔刑が「神の王国建設」の挫折と捉えていたにしても「神の前に罪あるものとして、単独者として立つ」ことを求めたことは観念論は廃しても幼少の折に刷り込まれアイロニーは其の名残があります。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年12月08日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/サルトル4/キルケゴールの1(六百二十一) サルトルへと繋がる実存主義思考の5人の第一に挙げるセーレン・キルケゴール(Soren-Aabye-Kierkegaard1;デンマーク語Søren Kierkegaard/1813-1855)と云えば、現代実存主義哲学の祖と謳われ、神学者としての立場にありながら、プロテスタンティズムの革新的思想を展開してみせます。コペンハーゲンに生れ、コペンハーゲン大学神学部卒業後ベルリン大学でシェリングに学び、環境上当然に、ヘーゲル哲学の影響を受けるが、度重なる肉親の不幸や自身の婚約破棄の体験のうちから、不安と絶望を実相とて、理性を超出して自由と人間性とを希求する「実存」の思想に目覚め、ヘーゲル哲学の思弁的合理主義に反対して主観主義の立場をとり、ヘーゲルの思弁的体系や教会的キリスト教を鋭く批判し、主体性こそ真理だと確信、真のキリスト者・単独者への道を追求することになり、現代の実存哲学や弁証法神学に大きな影響を与えています。彼の実存観念はキリスト教の罪観念は一般的価値としての善悪の観念によっては測られないものだとし、悪を善の欠如や無知と呼ぶギリシア哲学の論理は,キリスト教のいう罪観念をほとんど理解しないものだと決め付け、著書「死に至る病」では、罪を神の前での絶望,反抗と呼び,神と人間との根源的関係の齟齬(そご)と規定します。此の論理思考は、心理学の雄フロイトやユングにおいても顧みられています。人間実存の真理は「あれかこれか」の選択、融和しがたい対立にあると説き不安と絶望のうちに個人の主体的真理を求め、容貌は腺病質的に見られるようであるが美貌であり、絶望を救い出す異性が現れなかったことが、彼の思想傾向に明るさが欠如している一因とはなります。但し、絶望の最中(さなか)にあっても、なお単独者として神を求める宗教的実存のあり方は壮絶を極め、人間の本質を理性と据えて合理性のみを追求してきた近代精神への批判として,19世紀にキルケゴールによって説かれたものを嚆矢(こうし)とする現代青年の支持は衰えていません。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年12月07日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/サルトル3(六百二十) サルトルが標榜したとされる「実存主義」は、多様性に関しては唯物論や観念論に比しては少ないが、現代を生きる人間に与えている影響は勝っていようとも劣りません。其の多様性を示しているのが、夫々に独自の思考様式を備えた論理を経るヤスパースやニーチェ、そしてハイデガーとサルトルが現代にも影響を及ぼしている実存主義の代表的な思想家でしょう。此の五人の実存主義をもって、実存主義の立ち位置にいる思想家は、現代に失われた人間の主体性の回復を目指します。「実存(Existence)」とは、人間の現実存在、真実の人間存在の略であり、個別的で具体的な形象と精神の自己を意味していると捉えられ、元来は、全体的で抽象的な人間を意味する「本質(Essence)」に対する個別的で具体的な人間の存在を意味し、観念論的な自己を離れて本質があるなどとは思考方法論としては一切合切持たない傾向が後世に成る程顕著になり、各人各様の主体的な在り方にこそ真実の人間の姿である人間存在としての実存があると思考します。西洋思想ではプラトンの「イデア」からゲオルク・ヘーゲルの「絶対精神」までの哲学思考は、我々人間が「在る」環境世界、現実認識の世界とは別に永遠不変の「本質」の世界が「有る」と考え、其の本質を追求することが形而上と云われる思考方法論です。実存主義はそれらに対するアンチテーゼであり、キルケゴールとヤスパースやニーチェ、そしてハイデガーとサルトルに多少の違いはあれ、立ち位置には人間の現実存在、真実の人間存在を基礎としていることが共通しています。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年12月06日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/サルトル2(六百十九) 20世紀の高名な哲学者であるパイプ姿のサルトルは、老齢で日本人妻を迎えたことで日本でも可成りの人々に興味を抱かせたことで知られていますが、彼の難解な思想はというと、西洋実存主義の系統に属するとされます。実存主義は優れて現代主義の思想の一つとされていますが、哲学史上は二つの系統に分類されます。一つはキルケゴールやニーチェに代表される、人間を形象的に捉え、その感性を哲学的に表現する様式です。片やサルトルが分類的に属するとされている実存主義とは、人間の形象を離れ、倫理的実存に重きを置く新カント派や現象学の認識論をもって、思考を論理的に概念として表現しようとする立場です。抑(そもそも)が実存主義は、所謂、形而上学を離れることを志望した哲学であり「人間論」としての様相を帯びています。詰まるところ、古史以来の自然哲学や認識哲学,所謂「観念論」とは立ち位置から異なります。マルクス主義の社会的・全体的な側面から個人を追求するのではなく、ブルジョア文化期の唯物論的な個人主義を離れたところから個人主義的人間感を見直そうとする思考です。サルトルの特異性は同時代の個人主義的思考の行き詰まりを、事もあろうに唯物論には属しているとはいえ、全体性を重んじるマルクス主観を組み込んで解決しようとしたことにあります。此れでは市民文化を謳歌する階級からは正当な評価が期待でき得ません。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年12月05日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/サルトル1(六百十八) アルタミラ洞窟時代以来、人間はハードディスクに思いを込め、自己を突き動かす衝動を刻み、其の衝動の素因を考え、象形文字であれ、文字を獲得した記史の時代に入ると其の衝動を刻み後世に残す意思が有る無しにかかわらず、現代にまで影響は連続的に転変變化は歴(へ)ようとも、時間線があるとすれば、飛ぶ矢の先端に実存していると確信する人間に影響を与えています。然し乍ら、宗教は別にして、人間存在の有り様或いは精神の成り立ち、なかでも生物界にあって人間特有と云われる「理性」はそう簡単には精神の成り立ちを把握することは出来得ません。此処に、20世紀に名を馳せる名言は云うにおよばず格言でも際立つフランス共和国はパリに生を受けたジャン=ポール・シャルル・エマール・サルトル(フランス語ではJean-Paul Charles Aymard Sartre/1905年6月21日誕生 -1980年4月15日没)は20世紀に誇るフランスの哲学者、小説家、劇作家であり、 学派的には大陸哲学、実存主義・現象学・解釈学・西欧マルクス主義・アナキズムまで精髄し、研究分野は形而上学はもとより認識論から倫理学、意識・自意識・文学・政治哲学そして存在論と多才を極めます。当世、時代的には独逸はマルクス&エンゲルスの唯物論・米国がプラグラィズム全盛の時代に、かって西洋歴史上には変革の重要素となるフランク王国のカール大帝の威厳と名誉を蘇らせます。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年12月04日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/プラグラティズム18(六百十七)最終章 プラグラティズムの発展型といえるインストルメンタリズム(道具主義/instrumentalism)を掲げたジョン・デューイ(John Dewey)は民主主義体制における現代合理主義の典型的な心理学に秀でた哲学者と評価されるが、彼は「実在」を如何様に捉えていたのかもプラグラティズムの面から見ても重要です。彼は「実在」を、個人と社会とを「同一実在」の二面性であり変化として思考しています。其のこと故に、原理的には両者は有機体の其々の部分であり調和的である筈まのであるが、人間個々の衝動から、資本家と労働者、男も女も共に社会である組織全体、其の延長上の国家体制の有機的とした部分を担うにもかかわらず、社会習慣から来る衝動が徒党を組ませて同一実在の分裂化という矛盾を顕す。其の根底には「衝動」と「生物学的非合理主義」がある。デューイは人間が本源的に持つ諸能力に信を置きますが民主主義と人間にとって人間が最高で、人間性こそ尊重すべきものだとするヒューマニズムの結合を理想として描きますが、人間を突き動かす「衝動」を人間性に含有すれば、結局のところ其の本拠であるところの、ナインボールの玉突きのキューで白球を突く「ハスラー」の影が見え隠れします。プラグラティズムは玉突きのキューを突く存在をマルクスの唯物主観的なものではなく、神秘性は許容していることになります。然し乍ら、生きてる神や形骸を持つ神、主張を垂れる神や人間との交流を志向する神、「神格性」の存在は否定します。プラグラティズムは人間の尊厳を認識し国家の主権からの保護を明確化したことに意義があるのです。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年12月03日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/プラグラティズム17(六百十六) 第二次世界大戦敗北の結果、日本の思想は占領国がアメリカ合衆国であったために、マルクス主義は当然に規制の対象であり、アメリカ合衆国が発祥の地であるプラグマティズムが日本で花咲かせます。此処にプラグマティズムは知識層に普及し、恰も現代思想の新進哲学の如く持て囃されています。此の時期、敗戦後の日本に於けるプラグマティズムは教育学と心理学の権威としてのデューイの思想を基本とし教育改革を進めます。当然のこと乍ら、米国とともに戦勝国である露西亜と中華人民共和国は日本の教育改革制度にも干渉します。此のことがプラグマティズムを基本に置く政治体制に於ける文部科学省と教育委員会に対抗する日教組の軋轢を現代に引き摺ります。教育にプラトンのギリシアのアカデミーが理想とした思考発想の自由は政治体制の体制下に置かれ、憲法条項の中の「教育を受ける権利」自由権利から拘束された範囲の権利へと成り下がります。人間の思考とは事程左様に環境に影響され、ギリシア最大の哲人の、知らないことを知っていると思い込んでいる人々よりは、知らないことを知らないと自覚している自分の方が賢く、知恵の上で少しばかり優っている」ことを指しているの「無知の知(Ignorance of knowledge)」を学ぶ機会が失われることになります。pc=http%3a%2f%2fitem.rakuten.co.jp%2foh-platter%2f612791%3fscid%3daf_link_txt&m=http%3a%2f%2fm.rakuten.co.jp%2foh-platter%2fi%2f10001693%2f" target="_blank">cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年12月02日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/プラグラティズム16(六百十五) マルクス主義が其の指導原理に基づいてレーニンとトロッキーにより国家体制其のものを変革を指向させ、国家による人民、労働者・農民に思想革命を強制したのに比して、良い意味で穏やか、逆の意味では政治其のものの体制には思想的影響はあっても、プラグマティズムが体制に働き掛ける目立った行為はありませんでした。の科学的哲学思考や教育学及び心理学は吸収され活かされることにはなりますが、信教とはかかわりを避ける傾向のプラグマティズムは、其の思考の底流であるアメリカ合衆国に、科学万能主義と国家安全政策の理念として極東日本に置ける広島・長崎の二発の無差別大量破壊の原子爆弾には関与せずに、見て見ぬ振りの傾向さえ見せます。成る程、人間の精神欲求の想像の創造「神存在」を認めないことによる当然の成り行きであり帰結です。大正時代の日本のプラグマティズムと云えばウィリアム・ジェームでしたが、科学実証哲学を標榜するデューイ、当時のアメリカ合衆国での刊行された著作が「心理学者」としての名声が鳴り響いていたために、論壇は勿論のこと、著作家や教育界及び文化人に及びます。彼の名を高しめた「哲学の改造」は日本での講演集であることからも歓迎されたことが理解(わか)り、大正デモクラシーは花を咲かせます。表の影響がプラグマティズムとするならば、文筆家や反体制派に強力な影響力(インパクト)を与えていたのがマルクス主義であり第一次世界大戦の勝利とあいまって、治安維持法の成立其のものによって影に潜み、昭和の第二次世界大戦敗北までの思想の締め付けが続き、デモクラシーは萎み枯れます。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年12月01日
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