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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/唯物論的哲学19(五百五十七) マルクス&エンゲルスが主張する「主観的な弁証法」とは「客観的事物の弁証法」其のものだというのは歴史的条件である唯物史観から観想であり、唯物論其のものは、本来的に「客観的事物の弁証法」其のものだとして、とりわけ、エンゲルスがマルクス主義の弁証法の基本をヘーゲルの論理学体系の各部門の一部を拾い上げ、自己なりの思考で練り返した基本法則を掲げます。第一には、量的変化が質的変化を齎し、質的変化は量的変化に促進要素として働くことです。第二には、世界内環境(世界自然とはニュアンスが違います。)は相互に対立し、闘争するも、相互に影響しあい、立場の相互交換を引き起こす傾向を持つこと。第三点として掲げるのは、事物の発展は、最初期状態が否定され他の状態に变化するとともに、更なる、其の状態が否定され以前の状態が外形を蘇るさせることの法則を弁証法の基本法則としています。其の実、此れ等の三法則はヘーゲル哲学の焼き直しに過ぎずマルクス主義の新思考だとは言えないでしょうが相反する諸要素が繰り返されることには意義あることなのでしょう。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年09月30日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/唯物論的哲学18(五百五十六) マルクス&エンゲルスの思考する「客観的事物の弁証法」が、人間の実践を通してのみ位置付けられるのであって「客観的事物の弁証法」の常に史的制約の傘下にあるとした「主観的な弁証法」が「客観的事物の弁証法」の傘下にあって卑少化されているかと云えば其れを否定します。何故なら、「客観的事物の弁証法」そのものが、実は、「主観的な弁証法」としてしか捉えどころを持たないからです。驚くべきことには、マルクス&エンゲルスの思考は「主観的な弁証法」を排撃しようとしたのも其の論には訂正を含有させ、世界内自然の事物は、或る特定的な人間、「模写」或いは「反映」を正確に看取った人間の限りでしか、其れから結論付けられるのは、一定の歴史的条件である唯物史観から観想すれば「主観的な弁証法」とは「客観的事物の弁証法」其のものだと証しています。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年09月29日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/唯物論的哲学17(五百五十五) マルクス&エンゲルスの思考の目論見は形而上学に終止符を打つことあります。見えざるもの、人間の知覚や経験が観想することが出来得ないものを夢想は許しても思考に混入させることは排除することです。マルクス&エンゲルスの掲げる「弁証法」とは自然は勿論のこと、外界ににおいては社会や経済学をも唯物論的に捉えんするとの思想です。人間の思考の一般的な反応の運動法則は「模写」或いは「反映」されたものであり、「主観的な弁証法」とは「客観的事物の弁証法」の「模写」であり鏡像的に「反映」されたものである。其の「模写」或いは「反映」は、人間の実践を通してのみ位置付けられるのであって「客観的事物の弁証法」の常に史的制約の傘下にある。其れ故に、「主観的な弁証法」とは有限的、且つ、相対的であり、「主観的な弁証法」の限界を際立たせているとします。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年09月28日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/唯物論的哲学16(五百五十四) マルクス&エンゲルスが主張する「真理」に弁証法に「真と偽」にもう一つの要素、相対的真理と絶対的真理を取り入れたのは、無限なる自然世界を認識・受諾することを人間が繰り返し、其のことを弁証法的に正誤の認識を繰り返すことが可能であることを主張すること、マルクス&エンゲルスが主張する唯物論の立ち位置を徹底化していることに、その他と異質な思考形態が読み取れます。此の思考形態自体が、哲学が自然発生的な唯物論から始まり、マルクス&エンゲルスが主張する弁証法の最終的な思考方法により、世界の根源は世界自然其のものであり、他に根拠を求むべきではない蛆が何も無いとろから湧く、昔人が思考した「Maggots of flies」とします。マルクス&エンゲルスは此のことを主張するために、ヘーゲルの弁証法の思考形態が好都合でした。然し乍ら、現代の理論科学の思考と其の考察から来る事実認証の進みはIT時代の今日では認証進行速度は比較にならず「唯物論」傾向を持つマルクス&エンゲルスの主張する「マルクス主義」も古典化しつつあります。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年09月27日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/唯物論的哲学15(五百五十三) マルクス&エンゲルスが主張する「真理」に弁証法に「真と偽」にもう一つの要素、相対的真理と絶対的真理を取り入れたのは、無限なる自然世界を認識・受諾することを人間が繰り返し、其のことを弁証法的に正誤の認識を繰り返すことが可能であることを主張すること、マルクス&エンゲルスが主張する唯物論の立ち位置を徹底化していることに、その他と異質な思考形態が読み取れます。此の思考形態自体が、哲学が自然発生的な唯物論から始まり、マルクス&エンゲルスが主張する弁証法の最終的な思考方法により、世界の根源は世界自然其のものであり、他に根拠を求むべきではないとします。マルクス&エンゲルスは此のことを主張するために、ヘーゲルの弁証法の思考形態が好都合でした。然し乍ら、現代の理論科学の思考と其の考察から来る事実認証の進みはIT時代の今日では認証進行速度は比較にならず「唯物論」傾向を持つマルクス&エンゲルスの主張する「マルクス主義」も古典化しつつあります。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年09月26日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/唯物論的哲学14(五百五十二) マルクス&エンゲルスが主張する「真理」には相対的真理と絶対的真理があるとするする思考は、彼ら両者が基準として考察すべきだとした弁証法に「真と偽」にもう一つの要素を加えています。何故に、事実上、相対的に過ぎないものを真偽値の中に取り入れたのか、其れは「観念論」の「模写を真理として扱う」思考方法への拒否です。絶対的な真相は客観的事物である自然の方に在り、人間が鏡面を観るように左右逆転の誤謬をおかしている。「誤謬」とは語彙的には「真理」の反対とされるが、全く持って、虚妄な認識だとも云えず、認識の無限の信仰おける真理への一端を担っている人間の観念構造だとします。夏蚊が飛び回っていれば人間は痒みを想像し叩き潰しますが、人間の血は吸わない雄蚊にも同様の反応を催すことと捉えても当たらずとも遠からずでしょう。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年09月25日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/唯物論的哲学13(五百五十一) マルクス&エンゲルスはというと、カントの影響下にあった当時の観念論に対抗すべく、観念の発生と其の真理性を問います。「観念」は自然の客観的事物を「模写」して発生し、其のこと故に「模写」することが、言わずもがなの真理ではあるが、「模写」である限りにおける「真理性」は絶対終局的な「真理」と断定することは出来ない。其れだけでは「真理」の絶対的で終局的な真理の本質解釈が不充分だと述べます。マルクス主義は「真理二義説」、客観に存在する自然的事物を捉え、絶対的真理へと近接していく経過における真理を想定し、一応の相対的な真理を組み立てるとことが出来得るとしています。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年09月24日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/唯物論的哲学12(五百五十) 唯物論的思考の対向思想である観念論の「観念」の語彙はと云えば、プラトンのイデア観にもみられた存在観・世界観・人間観などが、カントの影響下にあった当時の観念論者は、客観的真理とは、人間の「知」とか「思考」とかとは次元を異にする「別もの」とはせず、人間が自然の中で、其の頭脳に自然の客観的事物を「模写」して「観念」が発生することは肯定するにしても、其の認識は人間の頭脳の中にある。真及び偽の判断は自然の客観的真理にあるのではなく、予め備わった人間における先天的能力にあることに本意を置きます。此の先天的能力とは生物一般からは区別された地球上唯一の理性的生物である人間の精神の深層に眠る理性、言い換えれば誕生と死の環境の経緯或いは循環の影響さえ離れた霊魂を想起させます。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年09月23日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/唯物論的哲学11(五百四十九) 唯物論的思考を志ざす者は「観念」の語彙を、粗(ほぼ)共通して人間が客観的真理としての自然を把握するのを「模写」説、認識論における実在論の一つの立場であり、認識とは外界の事物が認識主体のうちに結んだ映像であり、既にプラトンのイデア観にもみられます。但し、夫々の思想家の存在観・世界観・人間観などによって多様なニュアンスを伴いながら哲学の歴史を通じて常に顧みられますが、マルクス主義では、人間の頭脳にある「観念」とと表意されるものは、自然の映像であると断言しています。原型とする基底は人間の夫々の頭脳に外在し人間の頭脳が「模写」するとしています。然し乍ら、「模写」を「鏡面」としてイメージすることは許されません。偉大な画家が肖像画を描写するが如く、深層に眠る真姿を受け止めると解釈するべきでしょう。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年09月22日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/唯物論的哲学10(五百四十八) 主観的な精神の奥底から真理を見い出そうとする「観念論」に対し、マルクス&エンゲルスの掲げるマルクス主義は、徹頭徹尾、人間精神の内奥に囚われない客観的真理、人間の存在そのものの思考を離れた不考、考慮外に現存する事物或いは其の存在を無視したものこそが「自然」であると見做します。其れ故に、客観的真理とは、人間の「知」とか「思考」とかとは次元を異にし別ものとしています。此処に、マルクス主義は、実践が哲学及び理論に指針を与える要素として働き、哲学及び其の理論が実践によって検証されるという観念論的実践構造の逆を主張し、人間は実践の仲介によってのみ客観的真理に迫っていけるとする思考を「理論」を正調とします。マルクス&エンゲルスは相反する「観念論」を、哲学の思考経過において自己の精神を固定化し将又、其の思考方法を人間の絶対視し、人間が精神の奥底から理法とされるものを、全ての現象に枠組みし、真理が永遠のもの、将又、世界其のものの先天的根源として思考の基底に置かれていることを、客観的真理を阻害する悪壁だとします。観念論の、「精神」は自然を創造することを精神に想定し、言わずもがな此のことは人間精神ではなく其の深奥の霊的理性が感応する「絶対意思」を想定してのことですが、自然には在るべき筈の、「実(じつ)なき」稔りのない空想だと考察しています。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年09月21日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/唯物論的哲学9(五百四十七) マルクス&エンゲルスの掲げるマルクス主義は、自己の唯物論思考から進展させた思想を哲学より実践を重んじた「主義」として定着正当化させます。殊更、マルクス主義は哲学を明確に或いは厳密に、「唯物論」と「観念論」に区分別けしています。其の真意は、マルクス&エンゲルスの掲げる「唯物論」を、対抗する一方の「観念論」を攻撃及び排撃を目論みることにあります。マルクス主義以前にも、此の「唯物論」と「観念論」を対立関係として考察する思考方法は、思想史においても意識的な思考の有無を問わずありました。然し乍ら、哲学史を世界内自然を基底と成し、人間精神の根拠が自然からの派生に過ぎないと見做すマルクス主義は、人間精神の萌芽を自然を根源とするとする「観念論」とは、相容れない水と油であるとし、其れを変革させたのはマルクス&エンゲルスの掲げるマルクス主義を最初とします。但し、現在は其の観念論が再び頭を上げ、「水と油」を融合させようと活動しています。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年09月20日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/唯物論的哲学8(五百四十五) マルクス&エンゲルスは実践(じっせん)を強調していますが、般的には実際に行う意であり実行とは些か趣を異にした人間の自然や社会に対する働き掛け、其の活動を指して使用されます。但し、practice(英語)やPraxis(独語)、pratique(仏語)などの語彙は自然に対する働き掛けは「労働」と呼称し、社会に対する働きかけをドイツ語ではHandlung、フランス語ではconduiteと別の語意を持たせることもあります。此処で気を付けたいのが、ギリシャ観念論の「理論理性的実践」、其の系統を発展させドイツ古典哲学の雄カントの「実践理性」、フィヒテやヘーゲル的には実践こそが理性の働き其のものであり哲学することだとする定義です。以上、何れにしても観念論的な思考性を離れてはいません。何れにしても、実践哲学とは哲学の一部門であり、実践的な事柄が対象とします。人間とはどのようであるべきであり、また何をなすべき存在であるかということを定義するという分野で、例えば倫理学や道徳などがこれに当て嵌まります。倫理学や道徳というのは実践哲学の狭義解釈であり、これらを中心として実践哲学というものの範囲が広がっていくこととなっていくことから、政治や経済や芸術や技術なども広義という意味で実践哲学の対象となり、なかでも、マルクス&エンゲルスの実践は、生産的実践を重視し、人間が意識的に環境「人間・社会・自然」に働きかけてこれを変革してゆく行為こそが「実践」とされるとしています。 つまり、実践と哲学及び理論との相互関係は実践こそが哲学及び理論の基礎であり、実践が哲学及び理論に指針を与える要素として働き、哲学及び其の理論が実践によって検証されるという観念論的実践構造の逆を主張し明らかにしたと主張します。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年09月19日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/唯物論的哲学7(五百四十四) マルクス&エンゲルスが掲げる戦旗は、人間が勝ち獲るべきとした「人類の知」こそが、此の世界、生命の地球世界を指すと解釈するのですが、生の自然世界で最高の栄誉を受ける資格を持つものであり、其の思考の規定とされる哲学さえも実相は、一般大衆の実践や生活基盤を基礎として築かれたものに過ぎず、哲学は人間の実践や生活基盤を離れては成り立たない。人間を離れては、哲学其のものが成り立たないとします。哲学本来の語彙は真相を究明し、其の思考方法を突き詰めていく論理学であるものを、観念論的唯物論や信教が人間の「知」の限界を説くのに対し其の破壊を目論みます。「哲学其のものの活動が、人間の心の働きと其の行動から出ている以上、一般大衆の実践と活動の上に築かれ営なまれている以上、何も「哲学」が特異な才能の持ち主の高尚な考察と考える根拠はない。マルクス&エンゲルスは「哲学」を文字通り「sophia(智)をphilein(愛する)」とする一部の考察家から開放させて、各人の経験に基づく人生観や世界観。また、物事を統一的に把握する実践に基づく思考法を進捗させます。生産手段を持たず、生活のために自分の労働力を売って賃金を得る階級・労働者階級・無産階級こそに開放する重要性を説きます。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年09月18日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/唯物論的哲学6(五百四十三) マルクス&エンゲルスが主張する第二の実践とは、第一の実践要素を引き継ぎ、人間が自然世界に働きかけ、此処ではマルクス&エンゲルスが描く自然とは地球内環境としてしか捉えないと、世界への働きかけが、大宇宙を仮想すると其の時点で人間が「神存在或いは絶対者」となります。とはいえ、マルクス&エンゲルスの主張する人間の自然世界の働き掛けとは世界理法を想定しつつも、あくまで社会環境を取り巻く自然を想定したものであり、其の後に述べる皮相に過ぎなかった「知」から深層なる「知」へ、人間の感性的な側面を脱して理性として考察する段階に達する。其の理性として考察する段階を前提にしても、精々が地球環境自然であると推察します。人間の自然世界の働き掛けが世界を変えるとするのが大宇宙の根源的生成や根源的破滅招来の体を変更する能力は人間存在が世界内存在である限りには思考の常軌を逸脱しています。此の思考の真意の対象が信仰の排撃に他ならないところに格別に唯物主観の思考の考察思考経緯が読み取れます。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年09月17日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/唯物論的哲学5(五百四十二) マルクス&エンゲルスが描く哲学上の三つの実践と其の意義とは、先ず第一に自然世界における物理学上の「知」自然其のものを基礎とするだけでなく、本質的には人間の自然への作用力の増大に従い其の包含する豊かさを増さしめる。「知」は世界自然からの受動的な受け身の存在ではなく能動的存在だと主張します。フォイエルバッハの人間精神の至高主義や神存在は否定しつつも観念論は引き摺っているとした思考を否定したマルクス&エンゲルスの理論は、哲学や諸科学が、人間の実践経緯の成果に応じて歴史的に発展するとします。人間が大宇宙に影響なさしめるのは如何様(よう)の角度から観想しても答は否(いな)しか出て来ません。マルクス&エンゲルスの基底にあるのは、大宇宙の自然其のもの、言い換えれば、物理法則或いは世界原理其のものではなく、あくまで、人間の「知」に焦点を与えています。物的世界は依然として世界理法の規定に従って拡張縮小の枠、或いは、エントロピーの向かうところの「滅」及び「無」を予定しています。マルクス&エンゲルスの唯物論は此のことには関与しません。インド大陸の偽経とは呼称されますが、仏哲学の世祖「シッダルタ」の思考を哲学に高めた大乗の祖「龍樹(ナーガールジュナ)」の思想の基盤、物質的な基底に拘束されない人間精神の解放を目指し紐解いた「空論」との共通性が見い出せます。マルクス&エンゲルスの基底にあるのは、人間精神からの世界の内面的観相からの逸脱を目的していると解釈するからです。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年09月16日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/唯物論的哲学4(五百四十一) マルクス&エンゲルスの唯物論が希求するのは、機械論的唯物論が世界が物質的な根拠に立脚することを支持はしますが、其の生半可さを批判します。マルクス&エンゲルスは其れを拡大・各層深く探求することを欲し、機械論的唯物論の観念層を破壊し、全てを唯物学的に証明することを基底に、哲学を人間の思考要素の抱く「知(Wissen)」を遅滞させ、先ず「実践(Praxis)」先行させます。言い換えれば、マルクス&エンゲルスの説くところの哲学としてのマルクス主義は現状世界を変革することを前提に思想展開が成されます。其れにより、マルクス主義は世界の真理とは人間の実存とは不離不足或いは附則するものであり、観念論や宗教が観想するところには真相はないと断言します。其のこと故に人間にとっての真理とは理論や思想の問題ではなく実践あるのみだとします。哲学の本道は人間生活の別思考として考察すべきではなく、人間生活の実践上の世界を基礎にすべきが当然だと述べます。其のために三つの実践の意義てしての要素を掲げています。然し乍ら、{思考と直覚」著者としては人間の心の問題を全て唯物化するのには、人間が人生を生き抜く統べ全般には何かしらの不安要素を人間精神から拭い去るまでには到っていないと断じざるをを得ません。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年09月15日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/唯物論的哲学3(五百四十) 唯物主観が学壇においては支配的であり哲学の再構築が望まれるとは云え、マルクス&エンゲルスの唯物主観が現代思想に与えた影響は見過ごすことが出来ないものがあり、現代でも対応に変遷はあるにしても奉じる国家は、世界に数多(あまた)あります。勿論の事、マルクス&エンゲルスの唯物主観以前にも機械論的唯物論があり、自然の基底は自然の源泉によって成立しており、自然以外の何ものに因っても解明・解釈することは出来得ないとする根拠は同様です。マルクス&エンゲルスの唯物論が不足不満を述べるのは、自然における諸現象を機械論的唯物論が、分割すること非ざる物質要因、原子と呼ばれるアトム(Atom)の結合であるとか、運動とは本質的には位置の変移動でありエネルギーを伴うとともに円環的に循環しているとする、精々、物質的な根拠に立脚することです。マルクス&エンゲルスの唯物論は此の中の自然を発展に於いて観想することが出来ないこと、此れでは、人間が現在置かれている社会現象は「自然の延長」に捉えることは大凡(おおよそ)考えられない。社会現象は結局のところ人間の観念の延長の結果としている。唯物論とは呼称すれども形而上の思考を引き摺っているものとして否定しています。自然、此の語彙には形而上の観念論は何ものの関与も受けず自ずとして在り、人間の精神活動も自然活動其のもの範疇は脱せず観念は単なる人間の精神活動の擬装だとします。IT技術の現代では此の思考を受け入れれば、曖昧思考検索まで取り入れたコンピューターは最も秀でた人間として君臨することに矛盾はなくなります。マルクス&エンゲルスの唯物論が人間精神の救済に貢献したのかしないかの別れ目でしょう。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年09月14日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/唯物論的哲学2(五百三十九) マルクス&エンゲルスが想定して描く自然とは、哲学の祖タレスの観想した自然とは、おおいに異なり、人間の実践を基底としたために自然を地球内環境としてしか捉えない傾向が顕著です。唯物論哲学の祖タレスであれ、形而上哲学の雄ギリシャの三哲の観念論では世界への働きかけが、大宇宙を仮想すると其の時点で人間が「神存在或いは絶対者」となります。対して、マルクス&エンゲルスの主張する人間の自然世界の働き掛けとは、あくまで社会環境を取り巻く自然を想定したものであり、形而上哲学の観念論が抱(いだ)世界の定義とは基底において異なることは、マルクス&エンゲルスが想定して描く自然の語彙・真意を理解する上で誤謬を冒さないためには必定です。マルクス&エンゲルスは存在を人間に基礎を置き世界を観相する故に、大宇宙の起源や理法は些少のことであり、人間の霊魂や信教は無視する態度です。否、芸魂や宗教を排除しています。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年09月13日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/唯物論的哲学1(五百三十八) 哲学は哲学の祖と呼称される唯物論の始祖タレス(Thalēs/BC624年頃-BC546年頃)が説くが如く、唯物主観を最初にして生まれ、ギリシャ三哲により形而上の問題を追求する観念論に席を譲りますが、其の思考方法は形式の変遷はあれどもは連綿と続き観念論とともに歴史を歩み其の思考に磨きを入れて積み重ねられます。従って、其の唯物論も形而上学的唯物論と機械論的唯物論の二系統がへと別れ、中間にイギリス経験論の唯物観やフランス唯物論を挟み、マルクス&エンゲルスへと引き継がれていきます。唯物論は抑々が(そもそも)が世界自然に関する特定の科学的な哲学的見解を示すものでした。唯物論は世界が無からの神の創造物と捉える宗教や、世界が見えない存在・人間の不知的存在原因の被造の結果と捉える傾向がありがちな観念論に対立的な立場、世界はひとりでに出来上がっている、其のことが世界自然の「自然、自ずから然り」を主張する立場です。此れは、一見、原因の無い結果を掲げているようですが、科学分野では基底に置かれる基本的立場です。つまり、対象が対象の存在其のものの中にあるものによって究明・特定され、対象を人為的に造られた要因に左右されないとした立場を基本と考えます。科学の究明探索の進化は本源的には理論科学の登場するまでは理論構成にはなく現実存在を探求することになります。唯物論的哲学は此の科学が基底に置く基本的立場を基底にして変遷していきます。然し乍ら、一般科学、其のなかでも現代物理学にあっては仮想理論に基づく「無から有」並びに「有から無」の現象を具体的に検証しつつある段階に踏み込んでいます。人間の理性から生まれる観念と自然と科学が一体化することも夢・幻とも云えない時代が今まさに待ち受けている状況です。ともあれ、現代では、哲学といえばマルクス&エンゲルスの唯物主観が学壇においては支配的ではありますあg、唯物主観の再構築が要請される時期を迎え、宗教・哲学・政経及び社会学の分野も既得権益の問題と絡んで混乱しているのが現状と云えます。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年09月12日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/フォイエルバッハ50(五百三十七)最終章 フォイエルバッハの思考はヘーゲル哲学を批判的にあるにしても継承し、人間の「神格性」を前面に押し出しますが、ヘーゲル体系を成すアダむ・スミスが「国富論」で提唱した神の見えざる手がぴったりフィットする「見えざる絶対存在」の「絶対意思」までは否定はしていません。只、思考が観念論に傾くことによる人間の実存の軽視を危ぶみ実世界でのヘーゲル体系の再構築を試みます。然し乍ら、人間の精神が基底にする理性を神格化することがマルクスとエンゲルスにより拒否され、人間社会其のものの社会思想に変遷し、哲学は人間の見えないことの観想の形而上の概念からは離別し、政治・権力闘争の「資本論」の曙を迎えます。其処には階級による貧困の矛盾が露呈され、「資本論」は市民経済を批判し、計画経済へと世界を揺れ動かしますが、現代経済では金銭的財がなくても権力を手中にすれば何でも手に入ることが表面化し現状の共産主義体制の衰微を齎します。信教を拒否し、人間の霊性を批判し、人間が理性の獲得に伴って本来的に抱く観念、絶対的能力や絶対意思を拒絶する故の弊害、何でも集団のパワー、闘争力の比肩による実行動が目立ち、再び、観念論の最後のフォイエルバッハが現代に浮上します。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年09月11日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/フォイエルバッハ49(五百三十六) マルクスとエンゲルスは人間の観念を映像と断じ、現実社会に生活する人間の歴史の現実的な動因を権力の変遷として捉え、ブルジョワ的な生産秩序は、過剰生産と大衆の貧困という矛盾を生み出す仕組みを生み出す。ブルジョワ社会は国家権力を作り出し、これをもって自分たちの共同の利益を守ろうとする。かくして国家権力が一定の階級を代表するようになると、それは社会から独立してしまう。それゆえ抑圧されている階級の闘争は、必然的に支配階級に対する政治的闘争とならざるをえないのだと主張します。支配階級にたいする被抑圧階級の闘争は必然的に政治闘争、支配階級の政治的支配にたいする闘争となります。ドイツの労働者階級の運動こそ、ドイツ古典哲学の相続者であると自負します。人間誰しも持つ筈の、何故に産まれた、何故に情に悩む、何故に死ぬのかは、弁証法的唯物論は今を大切に、状況を闘争で打破しろ、人間の理性には期待するな、形而上学の戯言(たわごと)に惑わさせるな、信教の虚言に迷うなとドイツ古典哲学の系統を引き継ぎなからも「哲学」其のものの故郷を捨て去ります。現代に引き摺る人間理性への期待や霊魂観及び信仰が破壊され、現在は復帰を促され再び「タレスからソクラテス」に「唯物観から形而上学」が蘇って、人間の理性から生まれる「観念」が再度の必要性に迫られています。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年09月10日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/フォイエルバッハ48(五百三十五) フォイエルバッハを追求する経過は正しかったが、目的を遂げずに終わったとエンゲルスは言う。マルクスとエンゲルスの両名がフォイエルバッハを乗り越え、完全な理論を打ち立てることに成功したとエンゲルスことを言うがために。此処に唯物論的、「唯物論」的というのは、万物の根源は「水」とした哲学の祖タレス以来連綿と伝わった自然哲学でいう唯物観を人間の内面世界にまで、引き込んだことにより、唯物論の思考を精神にまで及ぼしたことによります。マルクスとエンゲルスは、人間の行動を左右する根本的な物の考え方の体系である観念形態を逆転させ、概念は現実の事物を写し取った映像であるとしました。所謂、ヘーゲルの弁証法から観念論の側面を抜き去り、弁証法は現実および思考の運動の一般法則についての科学とします。歴史上初の哲学が形而上側面を離れたのは此の時です。弁証法的唯物論とは、マルクスとエンゲルス以前の歴史哲学や法哲学は社会事象について観念的な連関を想定していたのに対して、現実的な連関である人類史の一般的な運動法則を発見することへ移行させます。哲学を現実の人間社会に引きずり出し、観念其れに基づく宗教及び霊魂は抹殺されることになり、政治学上の権力闘争の始まりが訪れます。神は死んだのニーチェを持ち出すまでもなく、一方には超人思想的な極右であるファシストを誕生させる、他方ではプロレタリア独裁を旗印とした階級間闘争を誘引しています。其処では、神は死んだ或いは精神も運動法則の一因に過ぎないとする思想が世俗にも波及することになるのは必然でした。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年09月09日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/フォイエルバッハ47(五百三十四)フォイエルバッハの考察によれば宗教とは人間と人間の間の直接的な愛のうちにあると定義します。人間同士の関係が宗教によって追認されるときに初めて、その関係は完全に価値あるものになるとさえ思考している。フォイエルバッハにおける人間は、宗教哲学に現れるような人間であり、抽象的な人間、頭で考えだされた観想の人間に過ぎない。私たちが他者との関係において人間的な感情を抱くことのできる可能性は、この階級社会ではすでに失われてしまっているのにだと唄います。此処に、当時の階級世界の悲惨な状況を救おうとする哲学者というよりは社会学者のエンゲルスが頭を擡げます。エンゲルスのフォイエルバッハへの批判は、更に続き、フォイエルバッハは形式からみれば実在論であり、人間から出発しているようには一見には想える。然し乍ら、人間がそのうちに生活している世界については一言もなく、宗教哲学のうちで口をきいていたのと同じ抽象的な人間のままである。フォイエルバッハの人間は母親の胎内から生れたのではなくて、一神教的な神から脱皮したに過ぎなく、歴史的に発生し、歴史的に限定されている現実の世界のなかに密着していないと批判します。あくまで、人間の観念、其の深層に眠る理性や霊的観念を唾棄し、拒否しています。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年09月08日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/フォイエルバッハ46(五百三十三) 「観念と霊魂」と「唯物と現実」の思想的対決は、恐らくは、人間が理性を獲得した時点からの対立的課題でしょう。エンゲルスの主張によれば、ヘーゲルの「イデオロギー的な逆立ち」、弁証法の思考方法により折角に取り入れた現実論を体系に円環を適用した観念論を批判し、実存を唯物主観で解き明かすために其の機会を与えるものであり、概念は現実の事物を写し取った映像であると考察、観念論と唯物論の対立の根本には、我々人間が現実の世界について「正しい映像」を作り出すことができるかどうか、主観と客観の一致が可能かどうかが哲学の課題だとします。エンゲルスの主張は 「学者の圧倒的多数は主客一致の可能性について肯定的だ。しかし、ここで忘れてはならないのは、哲学者自身が社会的な進歩によって動かされているということ、言い換えるならば、彼らの認識それ自体が自然科学と産業の進歩の影響のもとにあるということに気付かされていない」と述べ、更には、デカルトからヘーゲル、ホッブスからフォイエルバッハまでの長期間を経ても、哲学者たちはけっして、自らが信じ確信していたように、純粋な思考の力によってのみ推し動かされていたのではない。それどころか其の反対である。彼等を推し動かしていたものは、自然科学と産業との、力強い絶えず速度を増しながら突進する進歩であったことを強調します。その意味で、ヘーゲルの体系傘下にあるフォイエルバッハはヘーゲル体系に批判的であっても、精神が物質に基づけられているとする点で唯物論的ではあるものの、フォイエルバッハは哲学を宗教に解消しようとすることに疑問を呈します。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年09月07日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/フォイエルバッハ45(五百三十二) フォイエルバッハの評価はマルクス・エンゲルスの一方の雄フリードリヒ・エンゲルスによって「空想より科学へ」の著作後六年を経て出版されますが、其の著書「フォイエルバッハ論」はフォイエルバッハの評価というよりは、ヘーゲルの評価のために著されたものとの印象を受けます。エンゲルスのヘーゲル評価の論点は、フォイエルバッハの述べるがごとく、ヘーゲルは観念と現実を転倒してしまったことにあります。ヘーゲルは世界環境に於ける人間の自然意識や文明を獲得した以後の歴史の一切を認識の「経緯」として捉え、ある存在についての認識とは私たちの意識における経過それ自体だとします。此のことは優れた見方だとエンゲルスは評価しています。然し乍ら、ヘーゲルが思考する体系は、人間の自然意識や文明を円環をなして完結しているものだと考えてしまい、哲学は現実を写し取っているに過ぎない現実世界其のものだということを忘れてしまったとエンゲルスは断言しています。ヘーゲルは観念と現実を転倒してしまったというわけです。ヘーゲルの弁証法は、それまで現実的だったものが非現実的なものに変わり、合理的なものが不合理的なものに転化することを示唆しているとも述べます。但し、このことがもつ意義は思考の究極性を否定したことにあり、真理が認識の過程のうちにしかないことをヘーゲルの弁証法は明らかにしたことだと述べ、このことからヘーゲルの弁証法的哲学のもとでは、完全な歴史や国家は存在しないことになり、向上の過程のみが永続的だと捉えます。此処で、エンゲルスはヘーゲルの弁証法解釈の矛盾、その論理学においては、終結点が始発点となされている。絶対的理念が「外化」し、思考と歴史を経てみずからに帰るとされる。しかしこれは絶対的理念を認識することを前提としているから弁証法の方法に矛盾していると批判しています。ヘーゲルの体系においては自然ではなく理念が本源的で観念論其のものを至上に置くことに到っている。其れ故に、ヘーゲル没後の主力の一つだった青年ヘーゲル派は唯物論へと回帰することになります。即ち、エンゲルスにとって好都合に「キリスト教の本質」を著したフォイエルバッハの存在です。エンゲルスは観念論に対する唯物論の優位を示したことに着目します。言い換えれば人間の「霊魂観」と「現実論」を天秤に掛ける訳なのでしょう。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年09月06日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/フォイエルバッハ44(五百三十一) フォイエルバッハが要請した「神格性」を人間に観ることは容易(たやす)いことではない。フォイエルバッハは人間に「神格性」を要請するに止どまり、解答は成し得ませんでした。人間の人間に対する「信仰」を現実化するということは、日本の延暦寺の千日回峰の聖者である酒井行者の行道と民衆の冬の猛吹雪の最中に凍てついたアスハルト道路に庶民が家から出て座して頭を地面に付ける姿に結果があるといえます。其処には、最早、信教の境い目はなく人間が人間の霊魂に触れた様子が観えます。其処には、フォイエルバッハ説くところの「人間が宗教をつくるのであり、宗教が人間をつくるのではない」を、見事に結果を出しています。酒井大阿闍梨の前歴が如何ようであれ、庶民が「神」を見出しているのです。経験主義や唯物主観が、いくら人間の持つ思想や哲学、学問といった観念の世界を否定しようと試みても、人間は観念の世界を離れては生きて行けない。人間は自己を取り巻く環境世界、あらゆる事物や他の人間と観念の世界を通してしか「意味」を汲み取れない。言い換えれば意味ない世界とは関われない。観念の世界を欠いては、人間は人間ですらない下等生物に成り下がる。観念に生きる人間が自己の観念の基底にある理性の奥底に気がついた時に、フォイエルバッハが要請した「神格性」を人間に観ることが出来得る。cap-hiroのプロフィール人気ブログランキングへ
2016年09月05日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/フォイエルバッハ43(五百三十) 人間の精神の中に「神格性」を観相し、人格に「神格性」を与えるにしても、其れはあくまでも人間の特性としての「理性」の備わった人間にしか適用され得ないことは明白です。幾ら哲学であれ宗教が、例えば「歎異鈔」で「善人なほもて往生を遂ぐ、况んや悪人をや」とあり,この思想が言及されており、阿弥陀仏の本願が,善人よりは,悪人こそ本願力によって往生しうるのだとする考え方ですが、ここに云われる悪人とは特定の社会階層及び道徳上及び法律上の背徳違法者を指し示しては居ません。自己の理性の深層に眠る根源の精神を仏の前に晒した自己を在らしめる自我の源流である「霊魂」が汚れており、仏の前に自己を直視するときには、あらゆる自己の行為、更にはその存在自体すらも悪であるとの認識を抱くことを言っています。此の時点では人間が、抑々生まれるときに原罪を抱いているとする基督教と同様の思考を感想しますが、「歎異鈔」では此れを更に推し進めて、阿弥陀仏の本願は,汎ゆる人間を救済の対象とし善悪の差別はない。然し乍ら、善人は自己の能力でもってさとりを開こうとするから,仏に全面的に頼る心が薄いとし、俗に混みれた親鸞の悪徳も救うとしています。命を懸けた懺悔は信教の基底ではないでしょうか。但し、フォイエルバッハの見出したのは人間の「善性」に神を見出したに過ぎず、フォイエルバッハの思考には権力は其の階層が如何なるものであっても人間自身の善から離れた思考を基礎にする限り悪であり無垢の民衆に神格性を与えることの切迫性を感じ思考の中に取り入れたのでしょう。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年09月04日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/フォイエルバッハ42(五百二十九) フォイエルバッハは信教を人間自身の心情的に流れる基礎としての人格を「神格性」として観相することを要請しますが、現実には、人間の精神には我が愛(め)でし子や親を愛し慈しみ、友人のことを心配する人的な心情とともに、立ち上がる劣等感や傲慢、将又、他人への憎しみや孤独感、人知れぬ悩み等々といった非常に人間的な心情が渦まいています。全て、生身の人間であり、現実的な人間関係のなかに生きているが故の苦しみです。他者も現実的な人間であり、自己も現実的な人間であるとするなら、このような二人が相互の尊さを認め合うことなど本当はたいへんな労苦と誠実さとを伴なうの筈です。だからこそ、生身の人間が他者に向かい、その「仏性」を認めることは一つの「行」となるのでなげればならないのです。人間の価値と尊厳の絶えざる確認と発見を神存在確認の「行」と為すことをフォイエルバッハは人格を「神格性」として観相するのを要請するのです。然し乍ら、人間の人間に対する「神格性」を認識し現実化するのは到底無理に想われます。「悪魔性」も共用しているとしたら納得される人も少なからずは出てくるとは思います。問うのは哲学にではなく仏法に向けられるのが自然です。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年09月03日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/フォイエルバッハ41(五百二十八) 仏道とは神を感じることではなく自然と同期することを探求する道、目的とするのはあくまで「即身成仏」を意味しますが、宗派によって其の語彙は様々です。フォイエルバッハが要請はしたが、其れだけに留まった、人間の人間に対する信仰を現実化するということに対する解答を日蓮の解釈した思想としての法華経が手懸りとなります。日蓮仏法における「行」とは現実の社会に住む人々を離れることはない。其れ故に、厳密な「禅」行のように、別段に、山林に籠もり、荒行を積んだり、壁に向って瞑想に耽ったりすることは要しません。日蓮の目指すのは「即身成仏」ではなく、現実の社会に住む人々を離れることはない「菩薩道(Bodhisattva line)」、即ち、仏の大慈悲の発露・行為を一つの修行として行なうものが菩薩行であり、一切の人々にある人間性の「仏性」を信じて、但し、此れには多くの人が疑問を持つことあるやもしれない現代風情ですが、自己が推敲して他人の仏性を信じ確信するときに、自己も亦、仏性を開くこと得べしと説きます。私が君の「仏性」を信じ、その「仏性」を君自身が開き且つ顕すことが出来る様に尽す時には、私もまた、私自身の「仏性」を開くことが出来得ると述べます。他生に「仏性」を見ること、彼・彼女の現実の「生」のなかに最も尊い価値があることを自分が知る時、自己の現実の「生」もまた何ものにもかえ難いことを知るとし、フォイエルバッハの人間中心にデザイン化された信仰が顕(あらわ)になります。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年09月02日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/フォイエルバッハ40(五百二十七) フォイエルバッハの神を観想する眼は、まさしく自己の深層に眠る理性との問答です。人間理性を神から伝授されたものとは見做さない人間が自然のままに神を見る、言い換えれば、「世界理性」の意思を自己の精神が共鳴するとでも云うのでしょうか。「世界理性」の意思を自己の精神が共鳴するためには、インド大陸に始まった仏教では「行」の思考方法が浮かび上がります。フォイエルバッハの思考が西洋思想史で異質なのは、人間の主体性、其処から神を論じることです。キリスト教に近似した信仰においては、本質的には、仏教概念で言う「行」の思考概念や方法は出て来ません。西洋・西アジアではナザレのイエスの苦行は描かれていますが、あくまでも、父なる神に殉ぜんがための与えられた「行」の意味合いが濃く、超越者としての「神存在」が宗教意識に含まれてくるところでは、人間の主体性はそのことに応じて無くなっており、「啓示」の概念が浮上します。人間が「神」を信じるのは、人間の努力によるのではなく、あくまでも、「神」が「神存在」を「啓示」することによるほかはない、ただ人間はそれを受動的に信じうるだけであるとするのに特徴があります。片や、仏的哲学の思考は、あくまで「仏」とは自らの真相のことであり、それを覚り自ら「「仏存在」になることが思考の基底となります。其処には能動的主体的で実践的な「行」の実践方法と思考の過程と経緯が説かれます。人間は自らの発心の「行」によって、自分の奥底に眠る理法と他者にもある仏性を聞き取らねばならない。仏道とは神を感じることではなく自然と同期することを探求する道を示しているのです。世界が自然として、宇宙が無に帰さないかぎりは此の道は正論だと云えます。反的に言えば、「有と無」を反復する世界が考えられ得るならば、創造者であり世界とは隔絶した存在を離れた超越者「絶対意思」が必要となります。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2016年09月01日
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