全33件 (33件中 1-33件目)
1

神の存否-216 宇宙には果てがあるのか無かろうか、誰もが一度は疑問に思うことです。現在の宇宙年齢は推定138億年とされています。だとすれば、我々が観測できる領域は、光が138億年かかって到達できる距離を半径とする宇宙、宇宙の形態が平面であれ馬蹄形であれ円球(内球ではなく外球面)であれ138億年に限られる筈です。但し、此れは定常宇宙論でのこと。現在は宇宙が膨張しており、その膨張速度は天体の距離に比例していることが宇宙の背景放射を観測したハッブルの発見によって分かったのです。然し乍ら、宇宙は138億年前に始まり、宇宙には光より速く伝わるものは存在しない。従って、我々が原理的に観測できる領域の大きさには限りがある。ところが、宇宙には光より速く伝わるものは存在しない。従って、我々が原理的に観測できる領域の大きさには限りがある。したがって、宇宙は138億年前に始まったのだから、光の速度で到達するのに138億年かかる距離、つまりは、138億光年ではないのかと思われたかもしれない。ところが、光が昔に通過した領域は、その後、我々の観測可能域が宇宙の膨張により引き伸ばされているので、光が通ってきた経路の長さを今の宇宙で予測すれば、約464億光年になるということになります。宇宙は「観測可能な宇宙の果て」よりもずっと大きな領域まで広がっているということです。遠方から届く光はそれだけ昔に放たれたものであり、よく言われるように宇宙では「遠くを見ることは過去を見ること」になる。宇宙では「空間方向の宇宙の果て」に迫る旅は、「過去にさかのぼる宇宙の果て」に迫る旅でもあるのは事実です。天文観測は「過去」を見ている。ここに、歴史学や考古学、あるいは地球史といった過去の歴史を扱う他の学問分野にはない、天文学ならではの魅力があります。より性能のいい超望遠鏡を作り、より遠くを観測していけば、銀河や宇宙がどのように進化してきたかをタイムマシンのようにさかのぼって直接見ることができる筈なのですが、今は未だ、観測不可能です。宇宙の創生ビッグバンを見ようとしても其の空間の拡がりに観測が追い付かずビッグバンそのものも永久の霞となります。スピノザの云う人間精神の観念に頼るしかないかも知れません。 定理一二 人間精神を構成する観念の対象の中に起こるすべてのことは、人間精神によって知覚されなければならぬ。あるいはその物について精神の中に必然的に観念があるであろう。言いかえれば、もし人間精神を構成する観念の対象が身体であるならその身体の中には精神によって知覚されないような、或いは、それについてある観念が精神の中にないような、いかなることも起こりえないであろう。 証明 なぜなら、おのおのの観念の対象の中に起こるすべてのことは、神がその対象の観念に変状したと見られる限りにおいて必然的に神の中にその認識がある(この部 第二部「精神の本性および起源について」の定理九の系)により、言いかえれば(等しくこの部の定理一一 人間精神の現実的有を構成する最初のものは、現実に存在するある個物の観念にほかならない。)により、神がある物の精神を構成する限りにおいて、必然的に神の中にその認識がある。ゆえに人間精神を構成する親念の対象の中に起こるすべてのことは、神が人間精神の本性を構成している限りにおいて必然的に神の中にその認識が存する、言いかえれば(等しくこの部の定理一一の系 この帰結として、人間精神は神の無限な知性の一部である)により、そのものについての認識は必然的に精神の中に在るであろう、すなわち精神はそれを知覚する。Q・E・D・=此れが証明すべきことであった。 備考 この定理は第二部「精神の本性および起源について」この部の定理七の備考からも明白であり、しかもいっそう明瞭に理解される。その個所、すなわち、無限な知性によって実体の本質を構成していると知覚されうるすべてのものは単に唯一の実体に属しているということ、したがってまた思惟する実体と延長した実体とは同一の実体であって、それが時にはこの属性のもとにまた時にはかの属性のもとに解されるのであるということ、これである。哲学・思想ランキング
2021年10月31日
コメント(0)

神の存否-215 スピノザの「有」概念は、神の実体であり、変わらぬ絶対存在としての意識、その意思と精神の「常住・恒常の有」です。対して人間の精神のなかの有と覚える観念は、其の人間が在するものと観相する現実的、つまりは、自己が実相を捉えていると思う精神であり、常住・常恒・実体の本来的な有ではなく、スピノザは其れを人間精神の「現実的有」つまりは「観念としての有」と呼称します。 定理一一 人間精神の現実的有を構成する最初のものは、現実に存在するある個物の観念にほかならない。 証明 人間の本質は(前定理一〇 人間の本質には実体の有は属さない、あるいは実体は人間の形相(フォルマ)を構成しない。)の(系 人間の本質は神の属性のあるあり方の様態的変状から構成されていることになるこの帰結として、人間の本質は神の属性のある様態的変状から構成されていることになる。)により神の属性のある様態から、すなわち、人間は思惟の諸様態から構成されている。そしてこれらすべての様態にあっては(この部の公理三により)観念が本性上さきであって、観念が与えられればその他の諸様態(すなわち本性上観念のあとになるもの)が同じ個体の中に存しなければならぬ(この部の公理三 愛・欲望のような思惟の様態、その他すべて感情の名で呼ばれるものは、同じ個体の中に、愛され・望まれなどする物の観念が存しなくては存在しない。これに反して観念は、他の思惟の様態が存しなくとも存在することができる)により。したがって観念は人間精神の(*現実的)有を構成する最初のものである。 しかしそれは存在しない物の観念ではない。なぜなら、その場合は(この部の定理八の系 個物がただ神の属性の中に包容されている限りにおいてのみ存在する間は、個物の想念的有、すなわち個物の観念は神の無限な観念が存在する限りにおいてのみ存在する。しかし個物が神の属性の中に包容されている限りにおいて存在するばかりでなく、さらにまた時間的に持続すると言われる限りにおいても存在すると言われるようになると、個物の観念もまた持続すると言われる存在を含むようになる。)により、観念自身が存在すると言われ得ないからである。ゆえにそれは現実に存在する物の観念でなければならぬであろう。 しかしまたそれは無限な物の観念ではない。なぜなら、無限なものは(第一部定理二一 神のある属性の絶対的本性から生ずるすべてのものは常にかつ無限に存在しなければならぬ、言いかえればそれはこの属性によって永遠かつ無限である。および、第一部定理二二 神のある属性が、神のその属性によって必然的にかつ無限に存在するようなそうした一種の様態的変状に様態化した限り、この属性から生起するすべてのものは同様に必然的にかつ無限に存在しなければならぬ。)により、常に必然的に存在しなければならぬ。しかし人間についてそれを言うのは(この部の「第二部「精神の本性および起源について」の公理一人間の本質は必然的存在を含まない。言いかえれば、このあるいはかの人間が存在することも存在しないことも同様に自然の秩序から起こりうる。)により不条理である。 ゆえに人間精神の現実的有を構成する最初のものは現実に存在する個物の観念である。Q・E・D・=此れが証明すべきことであった。 系 この帰結として、人間精神は神の無限な知性の一部であるということになる。したがって、我々が「人間精神が此のこと、或いは、彼のことを知覚する」と言う時、それは、「神が無限である限りにおいてではなく、神が人間精神の本性によって説明される限りにおいて、あるいは神が人間精神の本質を構成する限りにおいて、神が此の、或いは、彼のことの観念をもつ」と言うのにほかならない。また我々が「神が人間精神の本性を構成する限りにおいてのみでなく、神が人間精神と同時に他の物の観念をも有する限りにおいて、神がこのあるいはかの観念をもつ」と言う時に、それは「人間精神が物を部分的にあるいは非妥当的に知覚する」と言う意味である。 備考 ここで読者は疑いもなく蹟(つまず)くであろう。そして躊躇を促す多くのことが心に浮かぶであろう。この理由から私は、読者がゆっくり私とともに歩を進めて、すべてを通読するまではこのことについて判断を下さないようにお願いする。 此処では、スピノザは人間の感覚・情動的知と理性的知、更には「直観知(scientia intuitiva)若しくは直覚知」を予言しています。実体が、世界の時間軸とは無縁の先後を問えない永久無限で唯一の因子であることに鑑み、哲学及び宗教並びに物理学が挑戦しますが、今は未だ、万人への解答は得られてはいません。哲学・思想ランキング
2021年10月30日
コメント(0)

神の存否-214 「第二部「精神の本性および起源について」の定理一〇の系で帰結として、人間の本質は神の属性のあるあり方の様態的変状(モディフィカティオ)から構成されていることになると結論しています。系に次いで 証明 なぜなら、実体の有は人間の本質に属さない。ゆえに人間は(第一部定理一五 すべて在るものは神のうちに在る、そして神なしには何物も在りえずまた考えられえない。)により、神の中に在りかつ神なしには在ることも考えられることもできないであるものである。言いかえれば(第一部定理二五の系 個物は神の属性の変状(アフエクテイオ)、あるいは神の属性を一定の仕方で表現する様態(モードス)、にほかならぬ。この証明は定理一五および定義五から明らかである。)により、神の本性をある一定の仕方で表現する変状あるいは様態(モードス)である。 備考 神なしには何ものも在りえずまた考えられえないということは、確かにすべての人の容認するところに違いない。なぜなら、神は万物にとってその本質ならびに存在の唯一の原因であること、言いかえれば神は、単にいわゆる「生成に関して」だけではなく「有に関して」も「モノ」の原因であることをすべての人が認めているのであるから。しかしそれでいて大抵の人々は、ある物の本質にはそれがなければそのある「モノ」が在ることも考えられることもできないようなものが属すると言っており、これで見れば彼らは、神の本性が被造物の本質に属すると信じているか、それとも被造物が神なしにも在りあるいは考えられうると信じているか、それともまた、そしてこれがもっともありそうなことであるが、これについて何ら首尾一貫した意見を持ちえないでいるか、そのどれかであることになる。こんなことになる原因は、私の見るところでは、彼らが哲学的思索の順序(デカルトの方法序説参考)を守らなかったことに在るのである。なぜなら、神の本性は認識上から言っても本性上から言っても最初のものであるから何ものよりも先に観想されなければならなかったのに、彼らはこれを認識の秩序の上で最後のものと信じ、そして感覚の対象と呼ばれる物をすべてのものに先立っていると信じたからである。この結果として彼らは、自然物を観想するに際しては神の本性については少しも思惟せず、またあとで、神の本性の観想に心を向けた時には、彼らが初め自然物の認識を築くに際して根底としたもろもろの勝手な想像については少しも思惟しえなくなったのである。そうした想像は神の本性の認識に何ら役立ちえなかったのであるから。だから彼らがいたるところで自己矛盾に陥ったのも何ら怪しむに足りない。 しかし私はこのことには深く触れないでおこう。というのは、私のここでの意図は、彼らを攻撃することにあるのではなく、ただなぜ私が「ある物の本質には、それがなければそのある物が存することも考えられることもできないものが属する」と言わなかったかの理由を。すなわち、私がそう言わなかったのは個物は神なしに在ることも考えられることもできないが、それにもかかわらず、神は個物の本質には属さないからだということを、示そうとすることにのみあったからである。それで私は先に、ある物の本質は、それが与えられればそのある物が定立され、またそれが除去されればそのある物が滅びるようなもの、あるいはそれがなければある物が、また逆にそのある物がなければそれが在ることも考えられることもできないようなもの、そうしたものから必然的に構成されていると言ったのであった。哲学・思想ランキング
2021年10月29日
コメント(0)

神の存否-213 定理一〇 人間の本質には実体の有は属さない、あるいは実体は人間の形相(フォルマ)を構成しない。に次いで、其の証明。 証明 なぜなら、実体の有は必然的存在を含んでいる(第一部定理七 実体の本性には存在することが属する。)により。ゆえにもし人間の本質に実体の有が属するとすれば、その場合、実体が存するとともに人間も必然的に存することになるであろう 「第二部「精神の本性および起源について」の定義二 同じ本性の他のものによって限定されうるものは自己の類において有限であるといわれる。例えばある物体は、我々が常により大なる他の物体を考えるがゆえに、有限であると言われる。同様にある思想は他の思想によって限定される。これに反して物体が思想によって限定されたり思想が物体によって限定されたりすることはない。)により。したがって人間は必然的に存在することになるであろう。これは(この第二部の公理一 人間の本質は必然的存在を含まない。言いかえれば、このあるいはかの人間が存在することも存在しないことも同様に自然の秩序から起こりうる。)により不条理である。Q・E・D・=此れが証明すべきことであった。 備考 この定理はまた第一部の定理五 自然のうちには同一本性あるいは同一属性を有する二つあるいは多数の実体は存在しえない。からも証明される。すなわち、同じ本性を有する二つの実体は存しえない。ところが多くの人間は存在し得る。ゆえに人間の形相を構成するものは実体の有ではない。 さらにこの定理は実体のその他の諸特質からも、すなわち実体はその本性上無限・不変・不可分などなどであることからも、明白である。これは何びとにも容易に解しうるところであろう。 さらには、定理一〇から直ちに導かれる視点を変えたものとして「系」を用意します。哲学・思想ランキング
2021年10月28日
コメント(0)

神の存否-212 多くの人間は霊魂、非物質的な存在として肉体とは独立に人間の精神的・生理的諸活動を支配しかつその原動力と考えられている精神的実体を指すことをいい、「霊魂」という言葉は「霊」と「魂・魄」両方を含む概念を指すために用いられています。「魂(こん、たましい)」の方は、精神を司る精気を指し、肉体を司る「魄」と対比されているようです。また、人の死に際しては、「魂」は上昇して天に帰し、「魄」は屍が地下に埋葬されるのにともなって地に帰するとも考えられたこともあります。多くの宗教が、人は死んでも意識あるいはそれに近いものは霊魂となって残ると説く。霊魂は生前暮らしていた土地に鎮まるとも、黄泉のような霊魂の住まう世界に旅立つともいう。霊魂の存在は、しばしば道徳・倫理などと結びつけて語られます。キリスト教などが説くように、生前の行いに応じて天国や地獄などに送られるともいわれる報償論。あるいはヒンドゥー教のように霊魂は生前の行いに応じて「転生」すると説く宗教もあります。 此処に今日、量子脳理論のアプローチがあります。ケンブリッジ大学の数学者ロジャー・ペンローズとアリゾナ大学のスチュワート・ハメロフは、意識は何らかの量子過程から生じてくると推測。ペンローズらの「Orch OR 理論」によれば、意識はニューロンを単位として生じてくるのではなく、微小管と呼ばれる量子過程が起こりやすい構造から生じる。この理論に対しては、生物学上の様々な現象が量子論を応用することで説明可能な点から少しずつ立証されていて20年前から唱えられてきたこの説を根本的に否定できた人はいないとハメロフは主張します。臨死体験の関連性については以下のように推測します。「脳で生まれる意識は、驚くべきことに、宇宙世界で生まれる素粒子より小さい物質であり、重力・空間・時間にとわれない性質を持つため、通常は脳に納まっている」が「体験者の心臓が止まると、意識は脳から出て拡散する。そこで体験者が蘇生した場合は意識は脳に戻り、体験者が蘇生しなければ意識情報は宇宙に在り続ける」あるいは「別の生命体と結び付いて生まれ変わるのかもしれない。」と述べています。これをスピノザの定理一〇人間の本質には実体の有は属さない、あるいは実体は人間の形相(フォルマ)を構成しないに当て嵌めれば、如何ように解釈されるのか。此の論にしても宇宙サイクル説を考慮すれば其の宇宙の情報はフォーマットされるために霊魂の不滅は期待できません。 「エチカ」第二部「精神の本性および起源について」の定理一〇の証明・備考・系で繰り返し実体の有と人間の本質を突き詰めています。哲学・思想ランキング
2021年10月27日
コメント(0)

神の存否-211 アリストテレスは、「魂とは可能的に生命をもつ自然物体(肉体)の形相であらねばならぬ」と語る。ここで肉体は質料にあたり、魂は形相(けいそう)にあたる。なにものかでありうる質料は、形相による制約を受けてそのものとなる。いかなる存在も形相のほかに質料をもつ点、存在は半面においては生成でもあるとします。スピノザの形相(けいそう)は、やや、アリストテレスとは意を異にしているようです。また、キリスト教には人間を神御自身の姿に似せて創られたとの記述もあり、スピノザの形相論は定理一〇は教会権威からの批判は避けられそうもありません。 定理一〇 人間の本質には実体の有は属さない、あるいは実体は人間の形相(けいそう)を構成しない。 証明 なぜなら、実体の有は必然的存在を含んでいる(第一部定理七 実体の本性には存在することが属する。)により。ゆえにもし人間の本質に実体の有が属するとすれば、その場合、実体が存するとともに人間も必然的に存することになるであろう (第二部「精神の本性および起源について」のこの部の定義二 それが与えられればある物が必然的に定立され、それが除去されればそのある物が必然的に滅びるようなもの、あるいはそれがなければある物が、また逆にそのある物がなければそれが、在ることも考えられることもできないようなもの、そうしたものをその物の本質に属すると私は言う。)により。したがって人間は必然的に存在することになるであろう。これは(この部、第二部「精神の本性および起源について」の公理一 人間の本質は必然的存在を含まない。言いかえれば、このあるいはかの人間が存在することも存在しないことも同様に自然の秩序から起こりうる。)により不条理である。Q・E・D・此れが証明すべきことであった。 スピノザの形相論は旧教であるユダヤ教の神の姿、大天使の取り扱いの一部の解釈では受け入れられるかも知れません。但し、イエスを預言者の一人とするイスラームでは受け入れられないでしょう。仏教では人間シッダールタが仏陀に化身し神=仏となったと説くむきもありますが、此れは、釈尊の哲学を宗教化したものと云えます。哲学・思想ランキング
2021年10月26日
コメント(0)

神の存否-210 スピノザの主著「エチカ」第一部は神は自己の本性の必然性のみによって活動する。即ち神の必然とは何ものにも捕らわれない真の完全な自由がある。而も、万物は神が必然としてあるべく決定したものです。即ち、宇宙=世界=自然には神を起因とするものが全てであり、万物の生起が完全であることを示します。此処で肝要なのは神は「何故に」の原因のみであって「何のために」という目的は論外だということです。此処にスピノザは人間が思考する意味での神の恣意的自由を否定し、目的論的性状を頑なに捨てない人間を批判します。そして人間が自分を自由だと思うのは、歴史的環境にも負うところが大きいとします。人間は自己の意志衝動を意識はするが、駆る原因には全く無盲だというのです。此れがスピノザの「決定論」といわれるものです。 此れを踏まえて、スピノザの主著「エチカ」第二部「精神の本性および起源について」の記述が、人間の精神の本性が目的論が否定された「決定論」にあることをいまさらに心に留めおいて紐解く(ひもとく)のが肝要です。哲学・思想ランキング
2021年10月25日
コメント(0)

神の存否-209 現代物理科学のの最先端を走る量子重力理論といえども、充足の粋に達しているかといえば未だに課題を抱えています。宇宙の始まりに半古典的に量子論を適用したのが、かってのソ連ウクライナのハルキウ出身。25年にわたり現代宇宙論の分野で活動する理論物理学者であり、タフツ大学の宇宙学研究所の所長を務め、これまでに150以上の論文を執筆しているアレキサンダー・ビレンキン(Alexander Vilenkin/1949年5月13日 -)です。彼が提供した「無からの宇宙創生」という論文は今までの物理科学的な「無」概念を覆します。「無」がスピノザの云う宇宙=世界=実体を産み出すのであれば、神はその「無」であり、スピノザの云う宇宙=世界=実体としての神の公式は破綻します。然し乍ら、ビレンキンの「無」概念はそれとは些か異なります。ビレンケンはまず真空のエネルギーを持つ閉じたインフレーション宇宙を考えると、ポテンシャルエネルギーと膨張の運動エネルギーを合計した全エネルギーがゼロである条件から、宇宙はある大きさより小さくなれないド・ジッター宇宙であることを示しました。つまり、一(点)の「無」から始まる宇宙は量子論を考えない古典論ではもはや不条理で許されないのです。しかし、量子論的に考えればより小さな宇宙を考えることができ、宇宙の波動関数はホイーラー・ドウィット方程式に従います。宇宙の始まりは1点ですが量子論的には物理量の発散は無く、ポテンシャルエネルギーはゼロです。これをビレンケンは「無」の状態と呼んだのです。つまり宇宙はそこでは大きさを持ちませんが、宇宙の波動関数とポテンシャルが宇宙の発展を記述し、「無」の状態では宇宙の大きさはゼロ点振動によってゆらいでいます。そして「トンネル効果」によってポテンシャルの壁を通り抜け、あるときある大きさを持った実時間、実空間の宇宙が創生されます。ホーキングとハートルはそれをより厳密に取り扱い、虚数の時間と実数の時間を解析的に接続したリーマン面を考え、その上で宇宙がゆらいでいるとしました。するとそこには「時間の果て」は無くなるので、「無境界仮説」と呼ばれます。此れは、泡ぶくのような我々の宇宙とはかかわりの無い無数のほかの宇宙が存在することを示唆しています。はたして此れがスピノザの云う宇宙=世界=実体としての神の公式にどう嵌るのかは「エチカ」を尚、読み解く必要がありそうです。哲学・思想ランキング
2021年10月24日
コメント(0)

いっぷ句-67秋空に銀杏吹雪が踊り舞う 愚通
2021年10月24日
コメント(0)

いっぷ句-66 風邪ひいて前後左右がどん引きに 愚通
2021年10月24日
コメント(0)

神の存否-208 スピノザの活躍年代には定常宇宙論が一般的には物理科学理論の主流であり、宇宙=世界(自然)=実体を神として捉えても其の事自体、哲学的には不条理や誤謬が顕現せず、識者にもあまり抵抗がなかったでしょう。ところが、ハッブルの法則、宇宙が膨張していることを示すもので、1922年にすでにA・A・フリードマンが、一般相対性理論に基づいて宇宙の膨張を理論的に予言していたもので。この宇宙膨張の発見は、宇宙が最初は非常に小さく高密度の状態から出発したことを意味することとなり、1946年、G・ガモフがビッグ・バン宇宙論を提唱することとなります。1965年、ペンジアスとウィルソンは宇宙背景放射(Cosmic Microwave Background Radiation/CMB、宇宙マイクロ波背景放射、宇宙黒体放射、3K放射ともいう)を発見し、ビッグ・バン宇宙論を定着させたことにより、常恒であるとも思われた宇宙が変幻することが認識され、宇宙=世界=実体を「神=有」と等式化することに疑問を呈することになりました。とは云え「神=有」とすることに別の道が開かれます。それが量子重力理論です。哲学・思想ランキング
2021年10月23日
コメント(0)

神の存否-207 スピノザが捉えるところの実体としての「有」の概念は、本性上無限・不変・不可分なものを指しています。此れは大乗哲学説くところの否定若しくは「無常」の対比の例として掲げるところの「有」概念と共通します。スピノザが捉えるところの実体としての「有」の概念を、現代物理科学の宇宙論からすれば、宇宙そのものは実体としての無限・不変・不可分を充足しているのかどうかは怪しくなります。此の点では、大乗哲学説くところの否定若しくは「無常」が理に適うかも知れません。然し乍ら、現代物理科学の宇宙論が問う並行宇宙論や多元宇宙論が真実味を帯びると、やはり、其の背景には何がしらかの「有」を想定せざるを得ません。量子重力理論の真空のゆらぎは真空の場の量子論的ゆらぎです。同様に無のゆらぎとはロシア・ソ連の宇宙物理学者、数学者、気象学者で1922年に一般相対性理論の場の方程式に従う膨張宇宙のモデルをフリードマン方程式の解として定式化したことで知られる「フリードマン宇宙の特異点」の量子論的ゆらぎ、つまり宇宙の大きさの量子論的ゆらぎを指します。フリードマン宇宙とは標準ビッグバンモデルの宇宙で一般相対性理論の解です。宇宙の歴史をさかのぼるとこの古典論では宇宙の始まりは一の特異点に行き当たり、宇宙のポテンシャルエネルギーは無限大に発散します。つまり一般相対性理論は破綻し、説明することが出来ません。哲学・思想ランキング
2021年10月22日
コメント(0)

神の存否-206 我々人類の偉大な古(いにしえ)の叡智は、観測物理科学の未開の時代には自己の身体の感覚器官からの認識のみで、それを推理して深層に潜む精神の能力と理知に鑑み世界を観念として具現がするしかなかった。 定理九 現実に存在する個物の観念は、神が無限である限りにおいてではなく神が現実に存在する他の個物の観念に変状・発現したと見られる限りにおいて神を原因とし、この観念もまた神が他の第三の観念に変状した限りにおいて神を原因とする、このようにして無限に進む。 証明 現実に存在する個物の観念は、思惟のある特定の様態であって、他の諸様態とは区別されるものである(この部の定理八の系 個物が神の属性の中に包容されている限りにおいて存在するばかりでなく、さらにまた時間的に持続すると言われる限りにおいても存在すると言われるようになると、個物の観念もまた持続すると言われる存在を含むようになる。および備考 たがいに交わるすべての直線の線分から成る矩形が相互に等しいような本性を有する云々)により。したがってそれは(この部「E T H I C A II. DE NATURA ET ORIGINE MENTIS」の定理六 おのおのの属性の様態は、それが様態となっている属性のもとで神が考察される限りにおいてのみ神を原因とし、神がある他の属性のもとで考察される限りにおいてはそうでない。)により神が思惟する物である限りにおいてのみ神を原因とするが、しかし(第一部定理二八 あらゆる個物、すなわち有限で定まった存在を有するおのおのの物は、同様に有限で定まった存在を有する他の原因から存在または作用に決定されるのでなくては存在することも作用に決定されることもできない。そしてこの原因たるものもまた、同様に有限で定まった存在を有する他の原因から存在または作用に決定されるのでなくては存在することも作用に決定されることもできない。このようにして無限に進む。)により、神が絶対的に思惟する物である限りにおいてではなく、神が他の有限な思惟の様態に変状したと見られる限りにおいてである。そしてこの思惟の様態もまた神が他の有限な思惟の様態に変状した限りにおいて神を原因とする、このようにして無限に進む。ところで、観念の秩序および連結は(この部「E T H I C A II. DE NATURA ET ORIGINE MENTIS」の定理七 観念の秩序および連結は物の秩序および連結と同一である。)により、原因の秩序および連結と同一である。ゆえに各個の観念は他の観念を、あるいは他の観念に変状したと見られる限りにおける神を原因とし、この観念もまた他の観念に変状した限りにおける神を原因とする。このようにして無限に進む。Q・E・D・=此れが証明すべきことであった。 系 おのおのの観念の個々の対象の中に起こるすべてのことは、神がまさにその対象の観念をもつ限りにおいてのみ、神のうちにその認識がある。 証明 おのおのの観念の対象の中に起こるすべてのことは、神の中にその観念が存する(この部の定理三により)、しかしそれは神が無限なる限りにおいてではなく神が他の個物の観念に変状したと見られる限りにおいてである。だが観念の秩序および連結は物の秩序および連結と同一である。ゆえに個々の対象の中に起こる事柄についての認識は、神がまさにその対象の観念をもつ限りにおいてのみ神の中に在るであろう。Q・E・D・此れが証明すべきことであった。 此処で述べられているのを紐解けば神存在そのものが自己の観念を持つとしか捉えられかねません。観念とは前述したとおり人間が物事に対する考えや物事について抱く意識です。それならば絶対存在・絶対知性・絶対意識をもつ普遍の有存在が何を観念するといえるのかスピノザの真意が霧の迷宮となります。哲学・思想ランキング
2021年10月21日
コメント(0)

神の存否-205 スピノザの云う「E T H I C A II. DE NATURA ET ORIGINE MENTIS」定理八「存在しない個物ないし様態の観念」をその文章の儘に読み込むと曲解しそうです。此処では、現代科学、なかでもミクロの物理及びマクロの物理双方の「先端物理学の理論」を「存在しない個物ないし様態の観念」と読み換えれば解りやすと思われます。人類の感覚及び認識器官が身体に囚われている以上、喩え超高度量子コンピューターに頼ろうとする人間は其の結果が感覚及び認識出来なければ盲目です。その辻褄を合わせるのが人間の思考が生み出す論理的思考力である理論でしょう。 定理八 存在しない個物ないし様態の観念は、個物ないし様態の形相的本質(エッセンティア・フォルマリス)が神の属性の中に含まれていると同じように神の無限な観念の中に包容されていなければならぬ。 証明 この定理は前の定理から明白であるが、さらに前の備考からいっそう明瞭に理解される。 系 この帰結として次のことが出てくる。個物がただ神の属性の中に包容されている限りにおいてのみ存在する間は、個物の想念的有(エッセ・オブエクティヴム)すなわち個物の観念は神の無限な観念が存在する限りにおいてのみ存在する。しかし個物が神の属性の中に包容されている限りにおいて存在するばかりでなく、さらにまた時間的に持続すると言われる限りにおいても存在すると言われるようになると、個物の観念もまた持続すると言われる存在を含むようになる。 備考 もし誰かがこの事柄をもっと詳細に説明するために例を求めても、私がここに語っている事柄は特殊な事柄だから、これを十分に説明するいかなる例も私は挙げることができないであろう。しかし私はできる限りこの事柄を一つの例をもって解説することに努めよう。円は、その中でたがいに交わるすべての直線の線分から成る矩形が相互に等しいような本性を有する。ゆえに円の中には、相互に等しい無限に多くの矩形が含まれていることになる。しかしこういう炬形は、どれも、円の存在する限りにおいてでなくては存在すると言われえない。同様にまたこれらの矩形の観念は、どれも、円の観念の中に包容されている限りにおいてでなくては存在すると言われえない。今、かの無限に多くの矩形の中でただ二つだけ、すなわちEおよびDの線分から成る矩形だけが現実に存在すると仮定しよう。そうすればたしかに、それらの矩形の観念もまた、単に円の観念の中に包容されている限りにおいて存在するだけでなく、さらにまたそれらの矩形の存在を含む限りにおいても存在する。そしてこれによってそれらの矩形の観念は、他の矩形の観念と区別されるのである。哲学・思想ランキング
2021年10月20日
コメント(0)

神の存否-204 「観念(かんねん)」の意味は、物事に対する考えや物事について抱く意識です。「概念(がいねん)」の意味は、事物の本質をとらえる思考の形式です。哲学では、思考の対象となる意識の内容・心的形象の総称を意味します。仏教では、「観察し思念すること。仏陀の姿や真理などに心を集中してよく考えること」を意味します。仏教においては、「観」は「観察」で「念」は「念想」を意味します。仏教でいう真理や仏の覚りを正しく見極めて精神を集中させて思い考えることを表します。亦、仏の姿を観想することを「観念念仏」、観じたことを行うことを「観念修行」と言いますが、仏は人間としての正覚者であり世界を在らしめるものを俯瞰したと見られます。その意味では観念や概念を超えた究極の「真覚=神」を捉えたのかも知れません。此れは釈迦入滅後の最大の後継者と目される大乗仏教哲学の祖ナーガールジュナ(龍樹)の「空論」に行き着きます。スピノザの捉える神の実体、そして自身が観相する観念とその概念は「龍樹の空論」に近似します。此れを現代物理科学の最先端を走る量子重力理論に当て嵌めれば、ナーガールジュナ(龍樹)の「空論」の世界であっても其の成り立ちが虚無ならば何ものも発生顯現しない。其の隠されたエネルギーの原元を求めることが現代物理科学の最先端を走る量子重力理論の使命だと云えます。 定理七 観念の秩序および連結は物の秩序および連結と同一である。 証明 観念の秩序および連結は物の秩序および連結と同一であるのは第一部公理四 様態とは、実体の変状、すなわち他のもののうちに在りかつ他のものによって考えられるものと解するから明白である。なぜなら、結果として生ぜられたおのおのの物の観念は、そうした結果を生じた原因の認識に依存するからである。 系 この帰結として、神の思惟する能力は神の行動する現実的能力に等しいことになる。言いかえれば、神の無限な本性から形相的(フォルマリテル)に起こるすべてのことは、神の観念から同一秩序・同一連結をもって神のうちに想念的(オブエクティヴェ)に、すなわち観念として起こるのである。 備考 先へ進む前に、ここで、我々が以前に示したことを記憶に呼び戻さなくてはならぬ。それはすなわち、無限な知性によって実体の本質を構成していると知覚され得るすべてのものは単に唯一の実体に属しているということ、したがってまた思惟する実体と延長した実体とは同一の実体であって、それが時にはこの属性のもとにまた時にはかの属性のもとに解されるのであるということ、これである。同様に、延長の様態とその様態の観念とは同一物であって、ただそれが二つの仕方で表現されているまでである。(このことは二、三のヘブライ人たちもおぼろげにではあるが気づいていたらしい、なぜなら彼らは神と神の知性と神によって認識された物とが同一であることを主張しているのだから)。例えば自然の中に存在する円と、同様に神の中にあるこの存在する円の観念とは同一物であり、それが異なった属性によって説明されるのである。ゆえに我々が自然を延長の属性のもとで考えようと、あるいは思惟の属性のもとで考えようと、あるいは他の何らかの属性のもとで考えようと、我々は同一の秩序を、すなわち諸原因の同一の連結を、言いかえれば同一物の相互的継起を、見いだすであろう。 私が先に、神はただ思惟するものである限りにおいてのみ、例えば円の観念の原因でありまた延長した物である限りにおいてのみ円の原因であると言ったのも、その理由とするところは次のようなものにほかならない。すなわち、円の観念の形相的有(エッセ・フォルマーレ)はその最近原因としての思惟の他の様態によってのみ知覚され、思惟のこの様態はさらに他のそれによって知覚され、このようにして無限に進み、こうして物が思惟の様態として見られる間は全自然の秩序あるいは原因の連結は思惟の属性によってのみ説明されなければならぬし、物が延長の様態として見られる限りは全自然の秩序もまた延長の属性のみによって説明されなければならぬ、という理由からにほかならない。そして同じことが他のすべての属性についてもあてはまると私は考えるのである。ゆえに、神が無限に多くの属性から成っている限りにおいては、神は真に、それ自体においてあるがままの事物の原因である。私はこのことを現在のところこれ以上明瞭に説明することができない。 以上のことからスピノザの云う神が、人間を観念するとか想念するとかは殆どに可能性を失います。あくまでも、我々が自然を神の延長の属性のもとで考えようと、あるいは思惟の属性のもとで考えようと、人間の理知が神を捉えたにしても、神に影響を齎すことは有り得ません。然し乍ら、其の人間は随喜の心に満たされる筈です。哲学・思想ランキング
2021年10月19日
コメント(0)

神の存否-203 スピノザの「様態」論は、個物は、思考という属性のもとに考察すれば観念であり、広がりという属性のもとで見れば物体であるが、スピノザはこれを偶有性の概念、彼の言葉を用いれば「様態」の概念によって捉えている。様態とはしたがって、実体という普遍的存在が特殊化する個別的な存在様態である。様態は、たえず消滅して少しも恒存しない形態として、その実体との関係は、海に立つさざ波の海の水への関係に似ています。仮に、実体が限りない一の宇宙の絶対存在であるならば宇宙は唯一無二の存在となり、並行宇宙や多元宇宙では唯一無二の存在では無くなるのかと問えば、スピノザの云う神存在そのものが破綻するのかどうかは難問ですが、スピノザであれば宇宙が一であろうと無限の多であろうと、無限で唯一の神存在が実体として存在すると答えることが予想されます。スピノザの云う神としての実有・普遍・恒常性は全ての世界の背景に潜む大乗仏教哲学説くところの「空」、画家が描くところの画材としての信教的象徴の神ではなく、背景に神を予想させるもの、アインシュタイン云うところの「創造力の秘密とは、その源を隠すことにある。」の当事者なのかもしれません。哲学・思想ランキング
2021年10月18日
コメント(0)

神の存否-202 宇宙の物質の基本的な構成要素を理解するための諸要素とそれら相互の関係を定式化して表したものに超弦理論(superstring theory)があります。物理学の仮説理論の1つです。物質の基本的単位を、大きさが無限に小さな0次元の点粒子ではなく、当然に無限に小さな0次元の点粒子を幾億倍集合させたとしても、0次元の点粒子であることには変わりがありません。その物質の基本的単位を1次元の拡がりをもつ弦であると考える弦理論に、超対称性という考えを加えが拡張したものが超ひも理論、スーパーストリング理論とも呼ばれる超弦理論です。1次元に広がりをもつ物体として振動する弦の導入をしたことにより重力の量子論の解決が目されるのです。極力大きい距離観を以て電子や光子などの素粒子を考察しても、現状の物理学では電子や光子は「点」のまま。「点」は数学的には空間体積がゼロなので、物理的には不自然な感じ、不条理な感が否めない。そこで発想を転換して、現実の世界には最小の尺度があるとして、そこから理論を制限できないだろうかとして超弦理論です。此れを予期したかの様相を見せるのが、スピノザの「様態」論です。 定理六 おのおのの属性の様態は、それが様態となっている属性のもとで神が考察される限りにおいてのみ神を原因とし、神がある他の属性のもとで考察される限りにおいてはそうでない。 証明 なぜなら、おのおのの属性は他の属性の助けを借りずにそれ自身によって考えられる(第一部定理一〇 実体の各属性はそれ自身によって考えられなければならぬ。)により。ゆえに各属性の様態はその属性の概念を含み他の属性の概念を含まない。したがって様態は(第一部公理四 結果の認識は原因の認識に依存しかつこれを含む。)により、自らが様態となっている属性のもとで神が考察される限りにおいてのみ神を原因とし、神がある他の属性のもとで考察される限りにおいてはそうでない。Q・E・D・此れが証明すべきことであった。 系 この帰結として導かれるのは、思惟の様態でない事物の形相的有(エッセ・フォルマーレ)は、神の本性がそれらの事物を前もって認識したがために神の本性から起こるのではないということである。むしろ観念の対象たる事物は、観念の概念の意味合いを示したとおり、観念が思惟の属性から生ずるのと同一の仕方・同一の必然性をもって、それ自身の属性から起こりあるいは導き出されるということになる。 観念が思惟の属性から生ずるのと同一の仕方とは。観念は神そのものへの思惟だからです。様態とは、実体という普遍的存在が特殊化する個別的な存在様態であり。絶えず恒存しない形態であり消滅して、その実体への関係は、海に立つさざ波の海の水への関係に似ています。様体に実体性が認められるには思惟と同様の至極の極みともいえる「理知の力(覚り)」と究極の「実践物理科学」に依存します。哲学・思想ランキング
2021年10月17日
コメント(0)

神の存否-201 スピノザの体系の三つの根本概念の三の「様態」の語彙ですが、個物は、思考という属性のもとに考察すれば観念であり、広がりという属性「延長」のもとで見れば物体であるが、スピノザはこれを偶有性の概念、彼の言葉を用いれば「様態」の概念によって捉えている。様態とはしたがって、実体という普遍的存在が特殊化する個別的な存在様態である。様態は、たえず消滅して少しも恒存しない形態として、その実体への関係は、海に立つさざ波の海の水への関係に似ている。有限なものはそれ自身のうちに独立の存在を持たない。…・・・何となんと、スピノザは、勘ぐれば現代物理学の最先端を走るとされる量子重力理論を先取りしていたかのようです。或いは、龍樹の大乗仏教哲学の理を熟知していたか。何れにしろ、大乗仏教哲学の「空」論や「量子重力理論」の「ゆらぎ」は有限なものはそれ自身のうちに独立の存在を持たない、宇宙は海に立つさざ波の海の水への関係に似ているのです。「時空を量子化する」理論は案外此のあたりからも発案されたかもしれません。哲学・思想ランキング
2021年10月16日
コメント(0)

神の存否-200 スピノザの体系は三つの根本概念の二の「属性」の語彙ですが、此処にもデカルトが登場します。デカルトは無限の実体、即ち神のほかに、神によって創造された二つの派生的実体として、精神(思惟)と物体(延長)とを想定していた。この二つである「思惟と延長」、簡略化して云えば「思考と広がり」とは、スピノザにおいても、その下(もと)にあらゆる現実が包摂される二つの根本形式ではあります。しかし、彼スピノザによれば、それらは実体ではなくて、「実体の属性」であるとします。然し乍ら、スピノザの体系である三つの根本概念の二の「属性」が、無限の実体との関係をどう構想し構築するのかは難しい問題です。何故なら、実体の本質はこの二つ属性に尽きることはないからです。二つの属性に尽きるものであったら、実体は規定され限定されたものとなって、それは無限の実体という概念に矛盾を生じます。したがって、もし仮にこの二つ属性が実体の客観的本質の全てないとすれば、それらは、それ自身では無限である実体が、すべてを思考と広がりとに分かつ悟性の主観的認識に現れる規定であるより他はないことになります。そしてこれこそがスピノザの考えの要点です。彼によれば属性とは、「悟性が実体についてその本質を構成していると認めるもの」である。二つの属性はしたがって、実体の本質が知覚する悟性に対してのみ、このような一定の仕方で現れる規定である。実体そのものはこのような一定の存在の仕方に尽きるものではないから、それらはただ実体の様態にすぎない悟性に対してのみ、実体の本質を表現するものとして顕れるにすぎない。悟性がこの二つの属性の下でのみ実体を見るということは、実体そのものとは無関係になります。実体そのものは無限に多くの特性を持っている。すなわち制限でない限りあらゆる可能な属性がそのうちに想定される。右の二属性を実体に帰するのは人間の悟性にすぎず、しかもその人間の悟性が理解しうる諸属性のうちこの二つのみが真に肯定的であるから、言い換えれば実在性を持っているから、この二つも実体に帰するのである。したがって、神すなわち実体は、悟性がこれを思考という属性の下に考察する限り思考であり、広がりという属性の下に考察する限り広がりである。一口に言えば、この二つの属性は経験的に採用された規定であって、実体の本質を尽くすのではない。実体はそれらの背後に絶対的に無限なものとして立っているのであるとします。哲学・思想ランキング
2021年10月15日
コメント(0)

神の存否-199 スピノザの主著「エチカ」第二部「精神の本性および起源について」の定理六では「属性の様態」なるものが登場します。然し乍ら、属性であれ様態であれ、スピノザが独自の語彙を持たせることもあり、注意が肝要です。スピノザの体系は三つの根本概念に基づいていて、その理解から他のすべてが数学的必然性をもって帰結されるようになっています。先ず第一に実体(substantia)です。次いで属性(attributus)、および様態(modus)の概念が根本概念となります。スピノザ思想の基底とも言うべき「実体」、「実体とはその存在のため他のものを必要としないものである」というデカルトの実体概念を踏襲するものの、デカルトが想定していたような、複数の実体、神の次に精神と物質という二つの実体を認めるとことは必然的に矛盾であるとします。唯々一つの実体、しかも一つの絶対的に無限の実体しか有り得ない。多数の実体があるとするのは不条理であり誤謬だとし、この唯一の実体をスピノザは神と呼称します。即ち、世界とは、神の意志の自由な産物ではなくて、その本性に従って無限である創造的な神の本質そのもの流出である。彼にとって神とは万物の実体であって、それ以外のものではない。神のみが存在するという命題と、万物の実体は一つであるという命題とは、彼にとっては同じ命題です。哲学・思想ランキング
2021年10月14日
コメント(0)

神の存否-198 スピノザにあって特殊の意味を有する「形相的有」とは、代表例としてアインシュタインの 「E=mc²」、「ほんのわずかな物質にも、膨大なエネルギーが秘められている」人間の理知が捉えた法則、即ち人間思考が捉えた思惟を意味します。 E=mc²によると、物質からエネルギーを引きだせ、また逆に、エネルギーから物質を生みだすことができるのは、神の思惟するものだという訳です。 定理五 観念の形相的有(エッセ・フォルマーレ)は、神が思惟するものと見られる限りにおいてのみ神を原因と認め、神が他の属性によって説明される限りにおいてはそうでない。言いかえれば、神の属性の観念ならびに個物の観念は観念された物自身あるいは知覚された物自身を起成原因と認めずに、神が思惟するものである限りにおいて神自身を起成原因と認める。 証明 これはすでにこの部の(定理三 神のうちには必然的に神の本質の、ならびに神の本質から必然的に生起するあらゆるものの観念が存する。)から明白である。なぜなら、我々はそこで、神がその本質の観念およびその本質から必然的に生起するすべてのものの観念を形成しうることを、単に神が思惟するものであるということに基づいて、神が自己の観念の対象であるなどということに基づいてではなく、観念の起生因であり結果であり完全体であるがゆえに神が思惟するものは世界であると結論した。ゆえに観念の形相的有は、神が思惟する物である限りにおいて神を原因と認める。 しかしこのことは別に次のような仕方でも証明される。観念の形相的有は、それ自体で明白なように、思惟の様態である。言いかえれば(第一部定理二五の系 個物は神の属性の変状(アフエクテイオ)、あるいは神の属性を一定の仕方で表現する様態(モードス)、にほかならぬ。)により、思惟する物である限りにおいての神の本性をある一定の仕方で表現する様態である。そこでそれは(第一部定理一〇 実体の各属性はそれ自身によって考えられなければならぬ。)により神の他のいかなる属性の概念も含まず、したがってまた(第一部公理四 結果の認識は原因の認識に依存しかつこれを含む。)により、思惟以外のいかなる他の属性の結果でもない。ゆえに観念の形相的有は、神が思惟する物と見られる限りにおいてのみ神を原因と認め云々。Q・E・D・=此れが証明すべきことであった。哲学・思想ランキング
2021年10月13日
コメント(0)

神の存否-197 数学的便宜から用いられる虚数に対しては、存在しない個物ないし様態の理念的な観念として成り立つのかどうかは気になります。存在しない個物ないし様態の観念が、個物ないし様態の形相的本質が神の属性の中に含まれているのと同じように神の無限な観念の中に包容されていれば「虚数」も神に属することになり、「形相的有」と認識されます。「数」には本質的に逆説を含んでおり、現実世界には存在し得ないと言わざるを得ないものがあります。其の代表的なものが「虚数(i)」でマイナス1の平方根でしょう。ところが其のような現実世界には存在しない数を使い、此の物理学に支配されているとされる世界に起こる事実現象が記述され測定されている事実があります。その測定されている数というものは、勿論のこと、それ自体は現実のものではありません。然れども、一応数学に通じているとされている方なら、「数の世界」はある意味において我々が通常実感している以上に現実だということを実感されます。勿論「数」というものがある程度何某(がし)ら以上に現実だと言うには、「数」が現実的だとの了解がなければなりません。スピノザの構想する神の世界は観念それ自体が「事物」でもあり、したがって固有の実在性を持っているのです。デカルトの実体二元論( Substance dualism)が想起されます。哲学・思想ランキング
2021年10月12日
コメント(0)

神の存否-196 スピノザ著「エチカ」に用いられる漢訳語「形相的有」とはスピノザにあって特殊の意味を有しています。スピノザにおいては観念それ自体が「事物」でもあり、したがって固有の実在性を持っているのです。人間精神の形相的有(エッセ・フォルマーレ)を構成する観念は単純ではなくて、きわめて多くの観念から組織されている。存在しない個物ないし様態の観念は、個物ないし様態の形相的本質が神の属性の中に含まれているのと同じように神の無限な観念の中に包容されていなければならぬ。此れは人類の知的理性に多大な期待を持ったスピノザの至言です。言い換えれば、世界並びに宇宙尽くに「無」は有りえても、観念として観相出来得ぬ「虚」は有り得ないこと、「虚」は神に属さないことになります。然し乍ら、数学的便宜から用いられる虚数に対しては、存在しない個物ないし様態の理念的な観念として許容しているようにも憶えます。現代物理科学では宇宙で、今尚、解らない未知のものの一つとして宇宙の7割強を占めるとされる「暗黒エネルギー」があります。「暗黒エネルギー」がはたして「有」なのか「無」なのか「虚即ち不条理」なのか其の成り行きが注目されます。何れにしろスピノザの構想する神の世界は「実有」であることを述べるに留め置きます。哲学・思想ランキング
2021年10月11日
コメント(0)

神の存否-195 スピノザの思考には無限の宇宙は無限の仕様を以て無限の結果を生じることが頭にかすめたのでしょうか。確かに、有限の宇宙は有限の仕様を以て有限の結果を生じる筈です。此れを哲学的則面から、信教的面面から捉えれば世界を神そのものとして捉えるスピノザ思考は宇宙の無限全体的です。宇宙創造を外的要因に例えば創造者に求めれば世界は全くの部分存在となり、万全ではなくなることになります。 定理四 無限に多くのものが無限に多くの仕方で生じてくる神の観念はただ唯一でしかありえない。 証明 無限の知性は神の属性とその変状のほか何物も把握しない(第一部定理三〇 現実に有限な知性も、現実に無限な知性も、神の属性と神の変状を把握しなければならぬ。そして他の何ものをも把握することがない。)により。ところが神は唯一である(第一部定理一四の系一 これからくるきわめて明白な帰結として、第一に神は唯一であること、言いかえれば(定義六 神とは、絶対に無限なる実有、言いかえればおのおのが永遠・無限の本質を表現する無限に多くの属性から成っている実体と解する。)により、自然のうちには一つの実体しかなく、そしてそれは絶対に無限なものであることになる。これは我々がすでに定理一〇の備考 これから分かるのは、たとえ二つの属性が実在的(レアリテル)に区別されて考えられても、言いかえれば一が他の助けを借りずに考えられても、我々はそのゆえにその両属性が二つの実有あるいは二つの異なる実体を構成するとは結論しえないことである。事実その属性のおのおのがそれ自身によって考えられるというのは実体の本性なのである。なぜなら、実体の有するすべての属性は常に同時に実体の中に存し、かつ一が他から産出されえず、おのおのは実体の実在性あるいは有を表現するからである。ゆえに一実体に多数の属性を帰することは少しも不条理でない。それどころか、おのおのの実有がある属性のもとで考えられなければならぬこと、そしてそれはより多くの実在性あるいは有をもつに従って必然性(すなわち永遠性)と無限性とを表現するそれだけ多くの属性をもつこと、そうしたことほど自然において明瞭なことはないのである。したがってまた、絶対に無限な実有を、おのおのが永遠・無限な一定の本質を表現する無限に多くの属性から成っている実有(我々が定義六 神とは、絶対に無限なる実有、言いかえればおのおのが永遠・無限の本質を表現する無限に多くの属性から成っている実体と解するで述べたように)と定義しなければならぬことほど明瞭なこともないのである。だが今もしある人が、ではいかなる標識によって我々は諸実体の相違を識別しうるかと問うならば、その人は次の諸定理を読むがよい。その諸定理によって、自然のうちにはただ一つの実体しか存在しないこと、またその実体は絶対に無限なものであること、したがってそうした標識を求めることは無用であることが判明するであろうで暗示したことである。ゆえに無限に多くのものが無限に多くの仕方で生じてくる神の観念はただ唯一でしかありえない。Q・E・D・此れが証明すべきことであった。 神の観念とは人間が観想するものであり、神が自己を観想することを意味しません。有としての実有「完全体」である「全知」が、何故に自己を観相するのでしょうか。スピノザの神が信教並びに宗教的権威から迫害された所以(ゆえん)です。哲学・思想ランキング
2021年10月10日
コメント(0)

神の存否-194 定理四では世界の無限性が説かれます。現代今日の物理科学はマクロであれミクロであれ、世界の真のあり方の統合的論理を目指して突きん出る矢先にいます。此処に立ちはだかるのが無限の観念です。我々は無限を漠然には思い浮かべても、尋ねられれば、無限を永久か将又ブラックホールの特異点のような無限小に置き換えてみたりするしか想像が働きません。無限(infinity+nfinitesimal)とは、一言で言えば限りの無いことである。単純に「限界を持たない」とする概念だとも云えます。ところが、有限な世界しか知り得ないと思われる人間にとって、無限というものが一体どういうことであるのかを厳密に理解することは非常に難しい問題を含んでおり、。古今東西、屡々、哲学や、数学、論理学や自然科学などの一部の分野において考察の対象として無限という概念が取り上げられ、そして深い考察が行われてきたのは周知のとおりです。また、無限はヨーロッパにおいては哲学的・数学的に主題化され、「無限論」として展開されました。その無限論は二つに大別されます。すなわち可能的無限と現実的無限で、前者の可能的無限は無限を限りなき増大・減少と考える立場であり、不定的進行を本質とします。後者の現実的無限では無限は有限を超えて完結して実在すると考えます。この二つの区別は哲学的にも数学的にもいずれもに基本的なものとなります。可能的無限は古代ギリシアの無限論であり、現実的無限は近代のそれであるということも出来得ます。哲学・思想ランキング
2021年10月09日
コメント(0)

神の存否-193 古代より人類が何らかの体験や経験を表象や文字を使って記録、否、恐らくは其れより遥かに遡っても、自然の偉大さに屡々戸惑い、此の不可思議な幸・不運を自らの思考に照らして、超越者を創造しています。人類史を見れば世界の古今東西に神話として、神託や呪術その他の方法で神との接触が試みられています。古代の「神の観相」は自己を取り巻く自身では如何せん対抗する術(すべ)がない自然の脅威や偉大さを自らが見立てたものです。此れ等は人間が物理科学的発展を以てしても全てが解決されたとは云えません。但し、宗教として現代に繋がる「一神教」や「仏教」では神の能力を無限と捉えて神そのものに人格性や人間が観想する神格性に自由意志を付与する傾向は減少しつつはあります。然し乍ら、人間の本能的とも云える依存的性向の狂信は現代にも集団自殺等の事件を齎しました。定理三は、神の本質から必然的に生起する全て、ありとあらゆる全てのものの観念が存することを述べますが、備考は其れに対する人類側からの論述です。 備考 民衆は、神の能力ということを、神の自由意志、並びに、ありとあらゆる一切ものにたいする神の権能と解する。此の由縁にあらゆるものは一般に偶然なものと見なされている。何故なら彼らは神があらゆるものを破壊して無に帰する力を有すると言っているからである。さらに彼らは、屡々、神の能力を王侯の能力に比較する。しかし我々(*注)はこのことを第一部定理三二の系一 この帰結として第一に、神は意志の自由によって作用するものではないということになる。及び系二 第二に、意志および知性が神の本性に対する関係は、運動および静止、または一般的に言えば、一定の仕方で存在し作用するように神から決定されなければならぬすべての自然物(定理二九により)が神に対する関係と同様であるということになる。なぜなら、意志は、他のすべての物のように、それを一定の仕方で存在し作用するように決定する原因を要するからである。そしてたとえ与えられた意志あるいは知性から無限に多くのものが生起するとしても、神はそのために意志の自由によって働くと言われえないことは、運動および静止から生起するもののために、というのはこれからもまた無限に多くのものが生起する神は運動および静止の自由によって働くと言われ得ないのと同様である。ゆえに意志は、他の自然物と同様に、神の本性には属さないで、むしろこれに対しては、運動および静止、また神の本性の必然性から生起しかつそれによって一定の仕方で存在し作用するように決定されることを我々が示した他のすべてのものとまったく同様な関係に立っているのである。で反駁したし、また第一部定理一六では、神は自己自身を認識するのと同一の必然性をもって活動することを示した。言いかえれば神が自己自身を認識することが神の本性の必然性から起こるように、これはすべての人が一致して容認するところである。神が無限に多くのことを無限に多くの仕方でなすこともまたそれと同一の必然性をもって起こるのである。次に我々は第一部定理三四 神の能力は神の本質そのものである。において、神の能力は神の活動的本質にほかならないことを示した。したがって神が活動しないと考えることは神が存在しないと考えるのと同様に不可能である。 なおもし私がこれらのことどもをいっそう深く追求してよいならば、私はここで、民衆が神に帰しているあの能力は、人間的能力である、つまりは民衆は神を人間としてあるいは人間に類似のものとして考えているのであるというばかりでなく、さらにまたそれは無能力をも含むものであることを示しうるであろう。しかし私は同じことについてそうたびたび語ることは好まない。 私はただ読者に、第一部において定理一六 神の本性の必然性から無限に多くのものが無限に多くの仕方で、言いかえれば無限の知性によって把握されうるすべてのものが生じなければならぬから、終結に至るまでこれについて述べられてあることを改めて熟慮されるよう幾重にもお願いするのみである。なぜなら、何びとといえども、神の能力を王侯の人間的能力あるいは権能と混同しないように極力用心しなくては、私の述べようとするところを正しく理解することができないであろうからである。 此処では政治的権力の正当性を権威付ける「王権神授説」を批判しています。此処で誤解しやすいのが今だに皇統を重んじる日本でしょう。其の本意は公民の総意の象徴であり、一時的に政治的権力を掌握したことがあるとはいえ、権力の掌握とは相違し、日本人民の総意の代理者であり、神との仲介を職務としていたことが伺えますが、北畠親房の「神皇正統記」を踏まえて天皇を権力の総帥とするのは如何なものでしょう。哲学・思想ランキング
2021年10月08日
コメント(0)

神の存否-192 スピノザの最大主要著作「エチカ」第二部「精神の本性および起源について」の定理三では観念なるものが登場します。観念なるものは我々が普段通常に使っていますが、説明するとなると甚だ困難を極めます。日本大百科全書(ニッポニカ)「観念」の解説では、あるものについて心中にもつ表象を指示する用語。一般的には、感覚的あるいは空想的表象から理性的、知的表象にまで及ぶ広い範囲の表象一般、あるいはそのいずれかをさすものとして使われると記述されています。哲学の術語としては、感覚的あるいは感性的表象に対立するものとして、知的表象ないしは概念、さらにはその複合体を意味するのが本来の用法であるとあります。人間があるものについて心中にもつ表象を指示する用語。一般的には、感覚的あるいは空想的表象から理性的、知的表象にまで及ぶ広い範囲の表象一般、あるいはそのいずれかをさすものとして使われます。感覚的あるいは感性的表象に対立するものとして、知的表象ないしは概念、さらにはその複合体を意味するのが本来の用法であるとしているのがスピノザです。スピノザは人間の「観念」なるものを遡及すれば神の本質に触れることを期待しています。 定理三 神のうちには必然的に神の本質の、ならびに神の本質から必然的に生起する全て、ありとあらゆる全てのものの観念が存する。 証明 なぜなら、神は(この部の定理一 思惟は神の属性である。あるいは神は思惟するものである。)により無限に多くのものを無限に多くの仕方で思惟しうる。あるいは(第一部定理一六 神の本性の必然性から無限に多くのものが無限に多くの仕方で、言いかえれば無限の知性によって把握されうるすべてのものが生じなければならぬにより、神は神の本質、ならびに神の本質から必然的に生起するあらゆるものについて観念を形成しうる。ところが、神の力の中に在るすべてのものは必然的に在る(第一部定理三五 神の力の中に在ると我々の考えるすべての物は必然的に存する)により。其のこと故にそうした観念は必然的に在りかつ(第一部定理一五 すべて在るものは神のうちに在る。そして神なしには何物も在りえずまた考えられえない。)により、神のうちにのみ在る。Q・E・D・=此れが証明すべきことであった。 スピノザの人間の「観念」なるものは遡及すれば神の本質に触れることを期待しています。神の本質とは神の真理、彼の存在の本質について認識することなのですが、信教では私たちには絶対不可能なことなのですと説かれています。然し乍ら、スピノザの神存在の世界観(全き宇宙)や仏教におけるシッダールタの覚りは此の可能性を完全には否定し得ません。全き世界が現存するからです。哲学・思想ランキング
2021年10月07日
コメント(0)

神の存否-191 スピノザの現実性に関する見解は二様のものがあると目されます。即ち「一定の時間と場所に関係して存在する」現実性と「神にあって含有、神の本性の必然性から帰結する」現実性でしょう。「一定の時間と場所に関係して存在する」現実性は、物理学的な現実性として、観察的想像力 や理論において捉えられ、「経験的現実性」と見做すことができ得ます。一方、「神に神にあって含有、神の本性の必然性から帰結する」現実性は、スピノザの徹底した必然主義によってもたらされる存在論的な現実性として、知性において捉えられる「知性的現実性」と見做せます。換言すれば、経験的現実性とは「一定の時間と場所に存在するもの」は同時に「他の時間と場所に存在すること」が不可能な「その在りか」が只々唯一に定まる現実性であるとも云えます。一方、知性的現実性とは、唯一の神から必然的に生じる故に、この世界は他の世界であることが不可能な「世界」がただ一つである現実性を示していると云えましょう。 こうしたスピノザによる現実性の見解を踏まえるならば、存在しない個物の本質は経験的現実性ではなく知性的現実性を示すと言わなければなりません。存在しない個物の本質は神の属性の中に内在し潜在している。存在しない個物の本質は神の属性の中に内在し潜在する限りにあっては想像力にあって、経験的に捉えることはできないのです。然し乍ら、其れも神の属性の中にある限り、その原因としての神による必然性によって知性的に捉えることができ得るのです。即ち、存在しない個物の本質も、亦、唯一の神の必然性から只一つに定まったこの世界に確かに実在として知性に現れるのです。神の属性の中にある限りはその原因としての神による必然性によって知性的に捉えることができ得るのです。言い換えれば、存在しない個物の本質も、亦、唯一の神の必然性から只一つに定まったこの世界に確かに実在として知性に顕れる訳です。 現代に生きる人類は広域の宇宙観測ではハッブル望遠鏡、逆に極小のその他の粒子は、サイクトロン等の加速器、電子や陽子のような粒子や、ヘリウムからウランに至るまでの様々な原子核を、電場の力を利用して高速に加速する装置の高度な物理観測機器のおかげで過去の人類が見得ざる世界だったものを発見、その解読を深めています。今は早や、多くの「知性的現実性」が「経験的現実性」へと置き換わる時代を迎えているのです。哲学・思想ランキング
2021年10月06日
コメント(0)

神の存否-190 スピノザが捉える神の「延長」とは如何なるものか。哲学上の用法としての「延長(extention)」はデカルトにおいて重視された近代哲学史における基本的な概念です。感覚的自明性として物体は長さ・広さ・深さに拡がってがっているものとみることができますが、此処では物体を三次元空間として捉え、物体のこのような空間上の広がりを延長という語を用いてます。デカルトの二元論においては、物体は精神とともに実体であり、延長は物体の本性とされます。スピノザにおいても物体の本性としての延長は捉えられ、またロックも第1性質として延長の実在性を認めています。このように、延長を客観的実在性として物そのものに帰属させる立場に対して、カントは延長を純粋直観の形式としてとらえ,これに経験的実在性のみを認めているとします。即ち此れは、「一葉落ちて天下の秋を知る」心境なのでしょうか。我々人間が単なる情報因子だけでなく身体をも持つことは「延長」の語彙に更なる意味を付加します。カントは延長を純粋直観の形式として捉え、これに人間の経験的実在性のみを認めているからです。 定理二 延長は神の属性である。あるいは神は延長した物である。 証明 この定理の証明は前定理の証明、個々の思想、すなわちこのあるいはかの思想は、神の本性をある一定の仕方で表現する様態であると同様の仕方でなされる。このように我々は、単に思惟だけを眼中に置くことによって無限の実有を考えうるのだから、思惟は我々が主張したように、必然的に神の無限に多くの属性の一つである「延長」にも適用される。哲学・思想ランキング
2021年10月05日
コメント(0)

神の存否-189 思惟(しい/しゆい)は哲学では、感覚即ち身体の感覚器官からの刺激や、その知覚以外の認識作用。分析、総合、推理、判断などの精神作用をいうとありますが、スピノザは「思惟」を単純に人間が頭を巡らす「思考」とは捉えずに、ものの正邪を理知で捉える思惟、神の意思的理を理解する「直観知及び直覚知」を意識しているようにも憶えます。 定理一 思惟は神の属性である。あるいは神は思惟する「物(ものであり、者ではないの)は人格表現更には神格表現を避けていることに要注意」である。 説明 個々の思想、すなわち此のあるいは彼の思想は、神の本性をある一定の仕方で表現する様態である(第一部定理二五の系 個物は神の属性の変状(アフエクテイオ)、あるいは神の属性を一定の仕方で表現する様態(モードス)にほかならぬ。この証明は定理一五 すべて在るものは神のうちに在る、そして神なしには何物も在りえずまた考えられえない。および定義五 自然のうちには同一本性あるいは同一属性を有する二つあるいは多数の実体は存在しえないから明らかである。)。ゆえに神には(第一部定義五 自然のうちには同一本性あるいは同一属性を有する二つあるいは多数の実体は存在しえないから明らかである)により、一属性、即ちそれの概念がすべての個々の思想の中に含まれており、またそれによってすべての個々の思想が考えられもするそうした属性があることになる。したがって思惟は神の無限に多くの属性の一つであって、神の永遠・無限な本質を表現している(第一部定義六 一の実体は他の実体から産出されることができない。)を見よ。神は思惟する「もの」である。 この定理はまた、我々が思惟する無限の実有を考えうることからも明白である。なぜなら、思惟する実有がより多くのものを思惟しうるに従って、それはそれだけ多くの実在性あるいは完全性を含むと我々は考える。ゆえに無限に多くのものを無限に多くの仕方で思惟しうる実有は、必然的に、思惟する力においては無限である。このように我々は、単に思惟だけを眼中に置くことによって無限の実有を考えうるのだから、思惟は、我々が主張したように、必然的に神の無限に多くの属性の一つである。此れはスピノザが単なる形而上哲学の信奉者ではなく、認識・認証哲学を志向していたことが読み取れます。哲学・思想ランキング
2021年10月04日
コメント(0)

神の存否-188 スピノザの「公理」の語彙は如何なるものと捉えているのでしょう。一般には公理 ( axiom)とは、その他の命題を導きだすための前提として導入される最も基本的な仮定のことであるとされます。 一つの形式体系における議論の前提として置かれる一連の公理の集まりを公理系 (axiomatic system) ともいいます 。 公理を前提として演繹手続きによって導きだされる命題は定理とよばれることとなります。 論理学では、演繹的理論の出発点として、証明なしに採用される命題。古くは、自明の理と考えられるものだけがそれに値するとされたが、現在では、その無矛盾性を証明することは不可能であっても、直接に自明の理として承認され、それによって他の命題を証明することのできる基本命題をいうとありますが、スピノザは此の語彙を援用してるように憶えます。 公 理 一 人間の本質は必然的存在を含まない。言いかえれば、このあるいはかの人間が存在することも存在しないことも同様に自然の秩序から起こりうる。 二 人間は思惟する。或いは他面から言えば、我々は(自己が思惟することにより)我々が思惟することを知る。 三 愛・欲望のような思惟の様態、その他すべて感情の名で呼ばれるものは、同じ個体の中に、愛され・望まれなどする物の観念が存しなくては存在しない。これに反して観念は、他の思惟の様態が存しなくとも存在することができ得る。 四 我々はある物体、たとえば身体が多様の仕方で刺激されるのを感ずる。 五 諸々の物体および諸々の思惟の様態の他には、如何なる個物も、或いは所産的自然に属する如何なる物も、我々は感覚ないし知覚しない。定理一三 人間精神を構成する観念の対象は身体である、あるいは現実に存在するある延長の様態である、そしてそれ以外の何ものでもないとの後の要請を見よ。 要請 一 人間身体は、本性を異にするきわめて多くの個体、そのおのおのがまたきわめて複雑な組織から組織化されている。 二 人間身体を組織する個体のうち、あるものは流動的であり、あるものは軟かく、最後にあるものは硬い。 三 人間身体を組織する個体、したがってまた人間身体自身は、外部の物体からきわめて多様の仕方で刺激される。 四 人間身体は自らを維持するためにきわめて多くの他の物体を要し、これらの物体からいわば絶えず更生される。 五 人間身体の流動的な部分が他の軟かい部分にしばしば突き当るように外部の物体から決定されるならば、その流動的な部分は軟かい部分の表面を変化させ、そして突き当たる運動の源である外部の物体の痕跡のごときものをその軟かい部分に刻印する。 六 人間身体は外部の物体をきわめて多くの仕方で動かし、かつこれにきわめて多くの仕方で影響することができる。 以上を掻い摘んで見ればスピノザは人間の感覚中枢における本能的官能を制御可能としていることが伺われます。哲学・思想ランキング
2021年10月03日
コメント(0)

神の存否-187 定 義 一 物体とは、神が延長した物と見られる限りにおいて神の本質をある一定の仕方で表現することと解する。第一部定理二五の系を見よ。 二 それが与えられればある物が必然的に定立され、それが除去されればそのある物が必然的に滅びるようなもの、あるいはそれがなければある物が、また逆にそのある物がなければそれが、在ることも考えられることもできないようなもの、そうしたものをその物の本質に属すると私は言う。 三 観念とは、精神が思惟する物であるがゆえに形成する精神の概念のことと解する。 説明 私は知覚というよりもむしろ概念という。その理由は知覚という言葉は精神が対象から働きを受けることを示すように見えるが、概念はこれに反して精神の能動を表現するように見えるからである。 四 妥当な観念(十全な観念)とは、対象との関係を離れてそれ自体で考察される限り、真の観念のすべての特質、あるいは内的特徴を有する観念のことであると解する。 説明 私は内的特徴と言う。これは外的特徴すなわち観念とその対象との一致を除外するためである。 五 持続とは存在の無限定な継続である。 説明 私は無限定な継続と言う。なぜなら、存在の継続は決して存在する物の本性自身によっては限定されることができないし、また同様にその起成原因によっても限定されることができないからである。起成原因は物の存在を必然的に定立するがこれを除去することはないのだから。 六 実在性と完全性とは同一のものであると解する。 七 個物とは有限で定まった存在を有する物のことと解する。もし多数の個体、あるいは個物がすべて同時に一結果の原因であるようなふうに一つの活動において協同するならば、私はその限りにおいてそのすべてを一つの個物と見なす。哲学・思想ランキング
2021年10月02日
コメント(0)

神の存否-186 エチカ第二部定義に置いてもスピノザの数学的、幾何学的演繹法が効果的に援用されます。定義は、一般にはコミュニケーションを円滑に行うための、人々の間で共通認識を抱くために行われる、ある言葉の正確な意味や用法について使用されますが、 十七世紀には中世的しがらみ・桎梏を脱して自己の立場を確立しようとした哲学が、新しく勃興してきた数学的自然科学に喚起されて、「方法論」を積極的に取扱った時代であす。スピノザも例外ではなく、幾何学的方法をもって自己の方法となします。なかでも彼は単に幾何学の外面的な形式をその模範とし、最早証明を覆させられない要素から、定義・公理を駆使して論証の体系を構成する外面的な方法と幾何学の内的な方法を哲学的認識に適用しています。もって幾何学の内容とその内的合法則性或いは諸関係を哲学的存在の模範とする内面的方法論に取り入れます。外面的方法は周知の如くユークリッドを模範とし彼の主著エチカに於いて果され、内面的方法に関しては彼の認識論の心身平行関係が等式と曲線との関係に於いて表現されていることから、デカルトの幾何学をその模範としていたことは周知の事実です。スピノザに於いては形而上学・物理学・論理や数学的世界像は相互に区別されて考察されるも、それらから新しく再構成することにより、その真の体系が樹立されました。このため彼の定義論は、物理学と並んでその体系樹立の一環として、彼がしばしば言明したところの真の観念による自然の再現の方法が如何なる論理が数学的秩序に基づいているかを示さねばならないが、だが彼はよき定義の条件を知ることとその定義の発見法を知ることにその定義論を限定している。そして此れは彼の認識論に於いて考察されねばならないものです。定義の語彙に関してスピノザはアリストテレス・スコラ的な類・種差による定義を排します。この点に於いては彼はデカルトと軌を一にします。神をも「定義」しようとするスピノザは、アリストテレス派の論理学者の主張と同様に、最高類或いは最高の存在としての神が、類・種差によって定義されないことを認めたうえで、彼の場合は、神が定義されなければ、それから生ずる他の一切の事物は理解されることも認識されることもできない。デカルトの影響を否定できないが、数学的な分類法・論理に基づいて、神並びに他の一切の事物を定義しようとする。彼スピノザの定義論についての考察はその定義の論理的構造を明らかにし、もってそれを如何に実在的事物に適用したかを見なければ、彼の「定義」の枠が見えて来ないことになります。哲学・思想ランキング
2021年10月01日
コメント(0)
全33件 (33件中 1-33件目)
1