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神の存否-65 スピノザの世界観は宇宙の果て、其の先は考慮の他のようです。世界の果ての其の先が存在すれば、実体無き実体が発現します。此れはスピノザ思考からは不条理です。且つ又、実体無き無限の無を許容する羽目にもなります。 定理八 すべての実体は必然的に無限である。 証明 同一属性を有する実体は一つしか存在せず(定理五 自然のうちには同一本性あるいは同一属性を有する二つあるいは多数の実体は存在しえない。により)、そしてその本性には存在することが属する(定理七 実体の本性には存在することが属する。により)。ゆえに実体は本性上有限なものとして存在するか無限なものとして存在するかである。しかし有限なものとして存在することはできない。なぜなら、有限なものとして存在すればそれは同じ本性を有する他の実体によって限定されなければならず(定義二 同じ本性の他のものによって限定されうるものは自己の類において有限であると言われる。例えばある物体は、我々が常により大なる他の物体を考えるがゆえに、有限であると言われる。同様にある思想は他の思想によって限定される。これに反して物体が思想によって限定されたり思想が物体によって限定されたりすることはない。により)、そしてこの実体もまた必然的に存在しなければならぬのであり(定理七 実体の本性には存在することが属する。により)、したがって同一本性を有する二つの実体が存在することになるが、これは不条理だからである(定理五 自然のうちには同一本性あるいは同一属性を有する二つあるいは多数の実体は存在しえない。により)。ゆえに実体は無限なものとして存在する。Q・E・D・=此れが証明されるべきことだった。とします。 備考一 有限であるということは実はある本性の存在の部分的否定であり、無限であるということはその絶対的肯定であるから、この点から見れば、単に(定理七 実体の本性には存在することが属する。)だけからして、すべての実体は無限でなければならないことが出てくる。なぜなら、もし実体を有限であると仮定すれば、我々は実体の本性の存在を部分的に否定することになるが、これは前述の定理、実体の本性には存在することが属する。により不条理だからである。 備考二 事物について混乱した判断をくだし・事物をその第一原因から認識する習慣のないすべての人々にとって、定理七 実体の本性には存在することが属する。の証明を理解することは疑いもなく困難であろう。なぜなら彼らは実体の様態的変状と実体自身とを区別せず、また事物がいかにして生ずるかを知らないからである。この結果として彼らは、自然の事物に始めがあるのを見て実体にも始めがあると思うようになっているのである。 いったいに、事物の真の原因を知らない者はすべてのものを混同し、またなんら知性の反撥を受けることなしに平気で樹木が人間のように話すことを想像し、また人間が石や種子からできていたり、任意の形相が他の任意の形相に変化したりすることを表象するものである。同様にまた、神の本性を人間本性と混同する者は、人間的感情を容易に神に賦与する。特に感情がいかにして精神の中に生ずるかを知らない間はそうである。 これに反して、もし人々が実体の本性に注意するならば、定理七 実体の本性には存在することが属する。の真理について決して疑わないであろう。そればかりでなくこの定理はすべての人々にとって公理でありそして共通概念の中に数えられるであろう。なぜなら、そうした人々は実体をそれ自身のうちに在りかつそれ自身によって考えられるもの、すなわちその認識が他の物の認識を要しないもの、と解するであろうから。それから様態的変状を、他の物のうちに在るもの、そして自らが含まれている物の概念によってその概念が形成されるもの、と解するであろう。だから我々は存在していない様態的変状についても真の観念をもつことができる。たとえそうした様態的変状が知性の外には現実に存在しなくともその本質は他の物の中に含まれていて、この物によって考えられることができるようになっているからである。これに反して実体はそれ自身によって考えられるのであるから、その真理は知性の外にはただ実体自身のうちにのみ存する。ゆえにもしある人が、自分は実体に関して明瞭かつ判然たる観念すなわち真の観念を持っているがそれにもかかわらずそうした実体が存在するかどうかを疑うと言うならば、これは実に、「自分は真の観念を持っているがそれにもかかわらずそれが誤った観念ではあるまいかと疑う」と言うのと同然である(これは十分注意する者にとっては明白であろう)。あるいはもしある人が、「実体は創造される」と主張するなら、これは同時に「誤った観念が真の観念になった」と主張するものである。実にこれ以上不条理なことは考えられない。したがって実体の存在はその本質と同様に永遠の真理であることを我々は必然的に容認しなくてはならないのである。哲学・思想ランキング
2021年05月31日
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神の存否-64 更に、スピノザは、「デカルトの哲学原理」第二部にて、以下抜粋して掲載。 定理三 真空が存在するということは自己矛盾である。 証明 真空とは物体的実体のない延長のことと解される 真空とは物体的実体のない延長のことと解される。換言すれば、物体のない物体のことである。しかしこれは不条理である。とします。 真空(vacuum)それは物質がまったく存在しない空間である。しかし、その意味合いは真空を扱う立場によって大きく異なってくる。真空は、通常の大気圧より低い圧力の気体で満たされた空間の状態。将又、物理学の理論における概念として、古典論における絶対真空、量子論における真空状態を指す場合にも用いられることがある。とされますが、一般的には古典論における絶対真空をイメージされることが多い。実は「なにも無い状態」は実現不可能で、宇宙空間が真空とされることが多いが、そこでも希薄な物質が必ず存在している。 此の事実は、ゼロ点を持たない量子論に追い風となります。更には、現代物理科学理論の最先端を走る量子重力理論では、宇宙は波で充たされているために真空はありません。無にはどんな特質も属しないことから、空間を真空が占めることは有り得ません。例えば、あなたの身体に空間はあれども、真空があれば其れは「虚空」のように、あなたを呑み尽くすでしょう。哲学・思想ランキング
2021年05月30日
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神の存否-63 現在の物理観測科学は光学的には宇宙の膨張を捉えていますが、電磁波など光に準ずるものは光速度を超えて見得うる手段がない限りは、膨張する宇宙の果を捕らえることは不可能です。勿論のこと、スピノザの「実体」であれば、人間が身体の枠組みを認識するが如く認識しています。但し、其の認識は通常三次元といわれる空間に囲まれた人間身体と、空間そのもののない虚無とも云えるものを相手にする膨張、勿論縮小をも含めた宇宙は、現段階の人間には想像を絶するものとなります。人間思考の「有無」を超えて存在論では語り得ないからです。 人間思考の「有無」を超えた存在「神」なら其の解答を持ち得ます。注:以下、『デカルトの哲学原理』第一部(岩波文庫p.79)より抜粋、 「定理十九 神は永遠である。」 証明 神は最高完全な実有である(定義八により)。これからして(定理五により)、神は必然的に存在することになる。今もし我々が神を限定された存在とするなら、神の存在の限界は、我々によっては認識されないにしても少くとも神自身によっては必ず認識されねばならぬ。神は全知だからである(定理九により)。従って神はその限界の外では、自己を、換言すれば(定義八 永遠性とは、存在が永遠なるものの定義のみから必然的に出てくると考えられる限り、存在そのもののことと解する。)により最高完全の実有を、存在しないものとして認識するであろう。これは不条理である(定理五 自然のうちには同一本性あるいは同一属性を有する二つあるいは多数の実体は存在しえない。)により、 故に神は限定された存在を持つものでなく、無限な存在を持つものである。この無限な存在を我々は永遠と呼ぶのである。このようにして神は永遠である。Q・E・D・=此れが証明されるべきことだった。とあり、神なる実体は現段階の人間の理知を超えた永遠の存在であり、人間の認識の究極の目的でもあります。それは哺乳類の子供が母の乳を欲するが如くの究極の愛欲です。哲学・思想ランキング
2021年05月29日
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神の存否-62 現時点の最先端観測物理学は、宇宙衛生望遠鏡で知られるエドウィン・パウエル・ハッブル(Edwin Powell Hubble/1889年 - 1953年)の主張以来、光が捉えられない程の速度、とはいえ、光速度を超えて膨張してる訳ですが、光に頼る観測者には捕らえ切れないだけのことで、遠くの物体は光速よりも速く遠ざかっていきます。相対性理論を齧っていれば、光速よりも速いものはない筈、不可解と思うかもしれませんが、これは相対性理論とは矛盾しないのです。相対性理論で禁止されているのは、ある出来事の情報が光速以上で他の場所に伝わって何らかの結果を及ぼすようなことであり、「相対論的な因果律」があるのです。仮に此の原則が破れるとすれば相対性理論では時間を逆行することが出来得ることが示され、結果が原因の前に来るという、全く不可思議な現象起こり、SFでは許されても現実的とは云えません。現代物理論では、基礎原理として相対論的な因果律は破れてはならないのが原則とされています。膨張宇宙では観測者からより遠くの天体はそこまでの距離に比例した速度で遠ざかっています。さすれば当然に、十分遠くの宇宙の速度はどうしてもいずれにしても光速以上になる必要があり、論理的にも認識されます。そうでなければ宇宙全体が全方向にい一様に膨張することはでき得ないのです。ここで、空間が全く静止した状態で銀河の相対速度だけが光速を越えるならば、上述の相対論的因果律に矛盾するのですが、膨張宇宙とはそういうものではなく、「空間自体が膨張」しているのです。単に銀河が相対的に遠ざかるということと、空間そのものが膨張するということとの間には大きな違いがあり、空間の膨張の場合、距離の膨張率が光速を越えてしまうような遠方の場所からはどのような方法によっても信号が届くことがなく、全く観測不可能な場所になります。このため、物理学の基本原理である相対論的因果律にはなんの問題もないとされるのです。光速を超えるものは存在しない、というのは物体に限って適用されることであって空間の膨張には当てはまりません。正確に言えば、光速を超えて情報が伝わってはならないという言い方の方がより正しいのです。固定された空間の中で物体が光速を超えれば、必然的に情報が光速を超えてしまうので、光速という速度制限を受けますが、空間自体が光速を超えて膨張したところで、光速を超えて情報が伝わるわけではないので、空間の膨張は光速という速度制限を受けないのです。此の論を正確に把握すれば、宇宙の果、膨張速度がが高速を超えているからといって、驚くには値しません。哲学・思想ランキング
2021年05月28日
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神の存否-61 ルネ・デカルトの説く「我思う故に我あり/コギト・エルゴ・スム」の如く存在論は、人間の根底に関わる問題です。仮に神が人間存在に関わらないところに存在することとし、人間とは格別に異相の世界に在るとするならば、人間は考える葦であることにより、世界の究極を認識し異相世界の「神」に対することがあるやも知れません。此れはとてもスピノザの「実体」とは相容れないものでしょう。 定理七 実体の本性には存在することが属する。 証明 前定理の系実体は他の物から産出されることができない(前定理の系 実体は他の物から産出されることができないことになる。なぜなら、公理一 すべて在るものはそれ自身のうちに在るか、それとも他のもののうちに在るかである。および定義三 実体とは、それ自身のうちに在りかつそれ自身によって考えられるもの、言いかえればその概念を形成するものに他のものの概念を必要としないもの、と解する。定義五 様態とは、実体の変状、すなわち他のもののうちに在りかつ他のものによって考えられるもの、と解する。から明白なように、自然のうちには、実体とその変状とのほか何ものも存在しない。ところが実体は 定理六 一の実体は他の実体から産出されることができない。実体から産出されることができない。ゆえに実体は絶対に他の物から産出されることができない。自然のうちには、実体とその変状とのほか何ものも存在しない。ところが実体は実体から産出されることができない。ゆえにそれは自己原因である。すなわち、定義一 自己原因とは、その本質が存在を含むもの、あるいはその本性が存在するとしか考えられえないもの、と解する。その本質は必然的に存在を含む。あるいはその本性には存在することが属する。Q・E・D・=此れが証明されるべきことだった、とします。 相対性理論や量子重力理論や観測物理科学のテクノロジー無きスピノザの時代に流石のスピノザも宇宙の消失や再生論は思考を掠めなかったでしょう。然し乍ら、実体を「神」と捉えるならば宇宙である世界は「神である実体」の神の生活リズムをも夢想します。世界の究極は生命の反復を想像させるのです。オカルト・ホラー小説 ブログランキングへ
2021年05月27日
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いっぷ句-62ヴィーナスを産みし帆立に臍はなし 愚通人気ブログランキング
2021年05月26日
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神の存否-60 スピノザの説く実体とは実有としての「神」そのものであり、他の何者にも関せず、其の認識も「一」の完全なる認識であり、「全体」の認識であって其の認識に他者をば必要とはしません。他者を必要とはしないとは、敢えて厳しく自己を認識することがない。自他を離れた認識、即ち、仏教で云う涅槃のようなものなのでしょうか。 定理六 一の実体は他の実体から産出されることができない。 証明 定理五 自然のうちには同一本性あるいは同一属性を有する二つあるいは多数の実体は存在しえない。により、自然のうちには同一属性を有する二つの実体は存在しえない、言いかえれば、定理二 異なった属性を有する二つの実体は相互に共通点を有しない。により、相互に共通点を有する二つの実体は存在しえない。したがって、定理三 相互に共通点を有しない物は、その一が他の原因たることができない。一の実体は他の実体の原因であることができない。あるいは一の実体は他の実体から産出されることができない。Q・E・D・=此れが証明されるべきことだった。 系 この帰結として、実体は他の物から産出されることができないことになる。なぜなら、公理一および定義三と五から明白なように、自然のうちには、実体とその変状とのほか何ものも存在しない。ところが実体は実体から産出されることができない(前定理により)。ゆえに実体は絶対に他の物から産出されることができない。Q・E・D・=此れが証明されるべきことだった、とします。 別の証明 このことはまた反対の場合が不条理であるということからいっそう容易に証明される。すなわち、もし実体が他の物から産出されうるとしたら、公理四 結果の認識は原因の認識に依存しかつこれを含む。により、実体の認識はその原因の認識に依存しなければならなくなり、したがって、定義三 実体とは、それ自身のうちに在りかつそれ自身によって考えられるもの、言いかえればその概念を形成するものに他のものの概念を必要としないもの、と解する。によりそれは実体ではなくなるからである。 此処で重要なのが「神」は自己を認識するしないにしろ、人間は神の延長としての思惟と精神を併せ持つ幸運を得ており人間が神を認識する可能性を秘めていることです。 最先端の量子重力理論ではミクロの世界のみならず其のマクロをも解明しようとしており、スピノザの説く「実体としての神」は人間の表象に登ることがあるやも知れません。哲学・思想ランキング
2021年05月26日
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神の存否-59 スピノザの時代背景における物理学のうち現代から見れば観測物理科学は甚だ未熟段階にあり、物質の極小単位の量子を扱う量子論なるものは生まれてもいない。まして、重力量子力学説くところの宇宙の組成が究極は「波」であり、それらが宇宙を充たし其の変状が、時空間を満たすとすれば、スピノザの「実体」は「無限小の一」にして世界を「無限大の一」と成す「実有」なる「神」の肉体及び精神となります。 定理五 自然のうちには同一本性あるいは同一属性を有する二つあるいは多数の実体は存在しえない。 証明 もし異なった多数の実体が存在するとしたら、それらは属性の相違によってかそうでなければ相違変状によって区別されなければならぬであろう(定理五 自然のうちには同一本性あるいは同一属性を有する二つあるいは多数の実体は存在しえない。により)。もし単に属性の相違によって区別されるなら、そのことからすでに、同一属性を有する実体は一つしか存在しないことが容認される。これに反して、もし変状の相違によって区別されるなら、実体は本性上その変状に先立つのだから(定理二 異なった属性を有する二つの実体は相互に共通点を有しない。により)、変状を考えに入れず実体をそれ自体で考察すれば、言いかえれば(定義三 実体とは、それ自身のうちに在りかつそれ自身によって考えられるもの、言いかえればその概念を形成するものに他のものの概念を必要としないもの、と解する。および公理六 真の観念はその対象として観念されたものと一致しなければならぬ。により)実体を正しく考察すれば、それは他と異なるものと考えられることはできない。すなわち(定理五 自然のうちには同一本性あるいは同一属性を有する二つあるいは多数の実体は存在しえない。により)同一属性を有する実体は多数存在しえず、ただ一つのみ存在しうる。Q・E・D・=此れが証明されるべきことだった。とします。哲学・思想ランキング
2021年05月25日
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神の存否-58 スピノザの云う「実体」とは世界の究極の「一」であり、他の存在は有り得ません。例えば、其の個人の固有の人格が、他の個性とかぶること、双子であれ三つ子であれ同一の人格には成り得ないこと。クローン人間でさえ、人格の面から見れば異相のものであることを鑑みれば、世界が「一」であることを受け入れれば、他者の入る余地は有り得ません。 定理五 自然のうちには同一本性あるいは同一属性を有する二つあるいは多数の実体は存在しえない。 証明 もし異なった多数の実体が存在するとしたら、それらは属性の相違によってかそうでなければ相違変状によって区別されなければならぬであろう(定理四 異なる二つあるいは多数の物は実体の属性の相違によってか、そうでなければその変状の相違によってたがいに区別される。により)。もし単に属性の相違によって区別されるなら、そのことからすでに、同一属性を有する実体は一つしか存在しないことが容認される。これに反して、もし変状の相違によって区別されるなら、実体は本性上その変状に先立つのだから(定理二 異なった属性を有する二つの実体は相互に共通点を有しない。により)、変状を考えに入れず実体をそれ自体で考察すれば、言いかえれば(定義三 実体とは、それ自身のうちに在りかつそれ自身によって考えられるもの、言いかえればその概念を形成するものに他のものの概念を必要としないもの、と解する。および公理六 真の観念はその対象の観念されたものと一致しなければならぬ。により)実体を正しく考察すれば、それは他と異なるものと考えられることはできない。すなわち、定理四 異なる二つあるいは多数の物は実体の属性の相違によってか、そうでなければその変状の相違によってたがいに区別される。により同一属性を有する実体は多数存在しえず、ただ一つのみ存在しうる。Q・E・D・=此れが証明されるべきことだった。とします。 拡張解釈すれば、仏教で説く阿弥陀世界、大乗哲学が説く多数の仏が世配する世界も「一」の阿弥陀の根本に帰すと云えます。量子重力理論の力学的に問えば世界の究極因子は思惟なる因子から成り立っているとも云えますでしょう。哲学・思想ランキング
2021年05月24日
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いっぷ句-61五月雨や衣替えして梅雨の雲 愚通人気ブログランキング
2021年05月23日
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神の存否-57 定理四では何某かの以前とは異なった状態、その変状の相違とは変化を意味し、運動乃至時間経過が持ち込まれます。 定理四 異なる二つあるいは多数の物は実体の属性の相違によってか、そうでなければその変状の相違によってたがいに区別される。 証明 存在するすべてのものはそれ自身のうちに在るか、他のもののうちに在るかである。「公理」第一:すべて在るものはそれ自身のうちに在るか、それとも他のもののうちに在るかである。により、すなわち、定義三 実体とは、それ自身のうちに在りかつそれ自身によって考えられるもの、言いかえればその概念を形成するものに他のものの概念を必要としないもの、と解する。定義五 様態とは、実体の変状、すなわち他のもののうちに在りかつ他のものによって考えられるもの、と解するとする理により、知性の外には、実体およびその変状のほか何ものも存在しない。ゆえに知性の外には、実体、あるいは同じことだが、定義四により、属性とは、知性が実体についてその本質を構成していると知覚するもの、と解する。その属性、およびその変状のほかは、多くの物を相互に区別しうる何ものも存在しない。Q・E・D・=此れが証明されるべきことだったと締括ります。哲学・思想ランキング
2021年05月22日
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神の存否-56 スピノザの云う「実体の属性」とは如何なるものを範疇にしたものでしょう。「実体」というからには全ての属性は「一の実体」からの本質の「属性」だということ。その属性の語彙は広義には対象に所属する諸性質を意味し、哲学上の用語としては、事物の基本的な性質、すなわちその性質によって初めてその事物が可能となるような性質である本質を意味します。偶有性や様態と区別されて使われており、様態はその事物にとって付帯的、偶有的であるような諸性質、諸規定を意味します。スコラ哲学では全能や存在のような性質が神の属性とされ、デカルトでは思惟(しい)と延長がおのおの精神および物体という実体の属性とされました。またスピノザは、神が唯一の実体であり、無限の属性をもつとし、そのうちの思惟と延長のみが人ににあっては認識可能であるとしています。さて、其の思惟ですが、哲学では感覚、知覚以外の認識作用。分析、総合、推理、判断などの精神作用をいうとあります。延長とは哲学では、物体が空間を占める存在の様式とありますが、延長を物体の本性として物そのものに帰属させる立場であるデカルトと、純粋直観の形式として主観に帰属させる立場ととるカントとがあるのですが、スピノザはデカルトの延長を物体の本性として物そのものに帰属させる立場であるとも看做し得ます。哲学・思想ランキング
2021年05月21日
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神の存否-55 我々現代の人間はIT時代の今日、自己の思考を持って納得できる認識を求める傾向が顕著です。喩え眼には見えないであろうと、其れが仮想的であろうと具象化され、納得出来得るものであれば証がされたとして認証します。 定理三 相互に共通点を有しない物は、その一が他の原因たることができない。 証明 もしそれらの物が相互に共通点を有しないなら、それはまた、公理五:たがいに共通点を持たないものはまたたがいに他から認識されることができない。すなわち一方の概念は他方の概念を含まないにより相互に他から認識されることができない、したがって、公理四:一の認識は原因の認識に依存しかつこれを含む。によりその一が他の原因たることができない。Q・E・D・=此れが証明されるべきことだった。とします。 因果とは一による一の結果であり、相互に共通点を有しないものからは派生しない。原因は結果を予期し其れを含み、結果は原因を含有するとなります。一方の概念は他方の概念をも含まなければ連続性が断ち切られるからです。哲学・思想ランキング
2021年05月20日
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2021年05月19日
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神の存否-54 定理二 異なった属性を有する二つの実体は相互に共通点を有しない。 証明 これもまた、定義三:実体とは、それ自身のうちに在りかつそれ自身によって考えられるもの、言いかえればその概念を形成するものに他のものの概念を必要としないものと解する。に導かれれば明白である。なぜなら、おのおのの実体はそれ自身のうちに存しなければならずかつそれ自身によって考えられなければならぬから、すなわち、一の実体の概念は他の実体の概念を含まないからであるとします。成程、スピノザの世界は宇宙そのものを全体としての実体と捉えているようです。彼の眼中には宇宙の誕生や終末は考慮の外です。まして現代最先端物理科学理論の並行宇宙論や無限分枝宇宙論に至っては想像さえ出来得なかったでしょう。とは云え、「異なった属性を有する二つの実体は相互に共通点を有しない。」ことは事実であり、我々が其れを仮想しようとも無縁のものであり、一切が知るべきよすがもないものです。我々が持つ実体は一つであり他者はなく、「属性」事物の基本的な性質、すなわちその性質によって初めてその事物が可能となるような本質を意味し、偶有性や様態と区別されて使われ、たとえばスコラ哲学では全能や存在のような性質が神の属性とされ、デカルトでは思惟(しい)と延長がおのおの精神および物体という実体の属性とされものでしたが。スピノザは、神が唯一の実体であり、無限の属性をもつとし、そのうちの思惟と延長のみが人間にも認識可能であるとしたのが独自性を持ちます。哲学・思想ランキング
2021年05月18日
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神の存否-53 スピノザ「付録」の章は、一般民衆の信徒の神への人格性の付与「神格」を批判し、神の「全格」即ち完全体としての実体を訴え、「神の愛」及び「神を愛する喜び」其れに続く幸福への実践へと流れるための信号機のようなものだと云えます。此処からはスピノザの神の「定理」に戻り、更に検討します。 定理一 実体は本性上その変状に先立つ。 証明 定義三:実体とは、それ自身のうちに在りかつそれ自身によって考えられるもの、言いかえればその概念を形成するものに他のものの概念を必要としないものと解する。および定義五:様態とは、実体の変状、すなわち他のもののうちに在りかつ他のものによって考えられるものと解する。と定義されることから明白だと証します。 此れは世界が量子重力論の宇宙を基本構成する唯一単体の究極極小の情報因子であるゼロ点を持たない「空間粒子乃至は波」の統合体とも解釈できます。「空間粒子乃至は波」其のものに情報因子があり、其の変容が世界を構成しているとも解せます。哲学・思想ランキング
2021年05月17日
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神の存否-52 スピノザの育った時代背景のこともあり、彼は民衆が真に正しい認識よりは正邪怪しい単に表象の様式をもって概念とし、表象力の状態を示すのみで、物の本性を知ったが如くの錯覚に陥っているとして、「このようにして、民衆が自然を説明するに用い慣れたすべての概念は単に表象の様式であって、何ら表象力の状態を示すのみで表示せずただ表象力の状態を示すのみであるということを我々は知る。そしてこれらの概念は、あたかも表象力の外部に存在する実有を意味するかのような名称を有するから、私はこれを理性の有とではなく表象の有と呼ぶ。こうして我々はこれと類似の概念に基づいて、我々に向けられるすべての論拠を容易に撃退することができる。すなわち、多くの人々は次のように論ずるのが常である。もし万物が神の最完全な本性の必然性から起こったとするなら自然におけるあれほど多くの不完全性は一体どこから生じたのか。例えば悪臭を発するにいたるまでの物の腐敗、嘔吐を催させるような物の醜怪、混乱、害悪、罪過などなどはどうかと。しかし、今も言ったように、これを反駁することは容易である。なぜなら、物の完全性は単に物の本性ならびに能力によってのみ評価されるべきであり、したがって物は人間の感覚を喜ばせ、あるいは悩ますからといって、また人間の本性に適合しあるいはそれと反撥するからといって、そのゆえに完全性の度を増減しはしないからである。さらになぜ神はすべての人間を理性の導きのみによって導かれるようなふうに創造しなかったかと問う人々にたいしては、次のことをもって答えとするほかはない。すなわち神には完全性の最高程度から最低程度にいたるまでのすべてのものを創造する資料が欠けていなかったからである、あるいは、もっと本源的な言いかたをすれば、神の本性の諸法則は、定理一六:神の本性の必然性から無限に多くのものが無限に多くの仕方で、言いかえれば無限の知性によって把握されうるすべてのものが生じなければならぬ。 系一:この帰結として、神は無限の知性によって把握されうるすべての物の起成原因であることになる。で示したように、ある無限の知性によって概念されうるすべてのものを産出するに足るだけ包括的なものであったからである。これが私のここで述べようと思った諸偏見である。もしこうした偏見の粉末がいくらかまだ残っているとしても、誰でも少しく考察すれば、その誤りを正しうるであろう。ゆえに私はこうした事柄にこれ以上留まっている理由はない云々。」。此の結論は当時の時代が宗教勢力の制限下にあり、神に人格性を賦与した如きの「神格性」を王権神授説のような政権保持の思考が罷り通っていた事への彼の悲痛の叫びとも云えるものです。この思考態度は、現在の最先端物理科学の方法論に取り入れらっれ、先ずは物理観測その結果からの報告の諸判断の正誤の判定を基底にした人間の表象を極力排除した量子重力理論へと反映されます。第一部 終りとスピノザは締め括っています。哲学・思想ランキング
2021年05月16日
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神の存否-51 スピノザの使用する「概念」と「観念」とは意識的に区別して使用しています。「概念」とは概ね必要にして十分な意味素性で構成される特徴リストとして心の中に表現されるとする表象であり、「観念」とは理知の捉える物事の認識と捉えているようです。人間の諸概念を表象力を種々なふうに刺激する表象の様式にほかならない。けれどもそれは無知者たちからは事物の主要属性と見られている。として正しい観念の下位に甘んじさせます。次にその他の諸概念も、同様に、表象力を種々なふうに刺激する表象の様式にほかならない。けれどもそれは無知者たちからは事物の主要属性と見られていると前提し、「なぜなら、すでに述べたように、彼らはすべてのものが自分たちのために造られていると信じ、そしてある物から刺激されるぐあいに応じてその物の本性を善あるいは悪、健全または頽廃および腐敗と言うからである。例えば目に映る対象から神経が受ける刺激が健康に役立つなら、これを引き起こす対象は美と言われ、反対の刺激を生ずるものは醜と言われる。次に鼻によって感覚を刺激するものを芳香あるいは臭気と呼び、舌によるものを甘あるいは苦、美味あるいは不味などと呼ぶ。また触覚によるものを硬あるいは軟、粗あるいは滑などと言う。また最後に、耳を刺激するものを騒音、音響、または諧音を発すると言う。これらのうちで諧音は、神もまたこれを喜ぶと信じたほど人々の心を奪った。そればかりでなく天体の運行が諧音をたてることを確信した哲学者たちもなくはない。これらすべては、各人が事物を脳髄の状態に従って判断し、あるいはむしろ表象力の受けた刺激を事物自体と見たことを十分に示すものである。このゆえに更についでながら注意するが、人々の間に、我々の見聞きするようなあんなに多くの論争が生じ、これからついに懐疑論が発生したことも怪しむに足りない。なぜなら、人々の身体は多くの点において一致するがもっと多くの点において異なり、そのゆえにある人に善く見えるものが他の人に悪しく見え、ある人に秩序正しく思えるものが他の人には混乱して思え、ある人には快いものが他の人には不快だからである。そしてその他のことについてもこれと同様であるが、それはここに述べない。ここはそうしたことを詳しく論ずる個所でないし、それにまたそれはすべての人が十分に経験しているところだからである。というのは、頭数だけの意見・誰でも自分の意見で一杯になっている・脳髄は味覚に劣らず相違しているなどいう諺はすべての人の口にするところである。これらの諺は、人間が物を脳髄の状態に従って判断し、また物を知性的に認識するよりはむしろ感覚的に表現することを十分物語っている。なぜなら、もし彼らが物を知性的に認識するとしたら、数学において見るように、それらの物は、彼らすべてを惹きつけないまでも、少なくとも彼らすべてを同じ確信に導いたであろうからである。」と人間の概念の正否の曖昧性・危うさを指摘します。スピノザの一般社会が抱く「概念」とは、其々の環境での社会規範における思考だと捉え、正しい「観念」は場所や時代を選ばない普遍的思考と位置付けします。哲学・思想ランキング
2021年05月15日
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神の存否-50 スピノザの神の存在の存否を述べる真意は、人間精神の拠り所を見付ける探求の旅の一里塚に過ぎません。其の精神の拠り所が曖昧模糊としたものであれば、人間精神の善き在り処もまた曖昧模糊であり、虚神・虚偽の信教の餌食となります。スピノザの神とは人間の精神を反映した表象されるものではなく、世界の根本としての実体、無限の「有」として「形態や運動」に関連性はあるものの、完全体としての活動一般だとします。ところが、人間の脳髄は神の概念を表象力をもって事物に神の主要属性を見ます。「なぜなら、すでに述べたように、彼らはすべてのものが自分たちのために造られていると信じ、そしてある物から刺激されるぐあいに応じてその物の本性を善あるいは悪、健全または頽廃および腐敗と言うからである。例えば目に映る対象から神経が受ける刺激が健康に役立つなら、これを引き起こす対象は美と言われ、反対の刺激を生ずるものは醜と言われる。次に鼻によって感覚を刺激するものを芳香あるいは臭気と呼び、舌によるものを甘あるいは苦、美味あるいは不味などと呼ぶ。また触覚によるものを硬あるいは軟、粗あるいは滑などと言う。また最後に、耳を刺激するものを騒音、音響、または諧音を発すると言う。これらのうちで諧音は、神もまたこれを喜ぶと信じたほど人々の心を奪った。そればかりでなく天体の運行が諧音をたてることを確信した哲学者たちもなくはない。これらすべては、各人が事物を脳髄の状態に従って判断し、あるいはむしろ表象力の受けた刺激を事物自体と見たことを十分に示すものである。このゆえに、ついでながら注意するが、人々の間に、我々の見聞きするようなあんなに多くの論争が生じ、これからついに懐疑論が発生したことも怪しむに足りない。なぜなら、人々の身体は多くの点において一致するがもっと多くの点において異なり、そのゆえにある人に善く見えるものが他の人に悪しく見え、ある人に秩序正しく思えるものが他の人には混乱して思え、ある人には快いものが他の人には不快だからである。そしてその他のことについてもこれと同様であるが、それはここに述べない。ここはそうしたことを詳しく論ずる個所でないし、それにまたそれはすべての人が十分に経験しているところだからである。というのは、頭数だけの意見、誰でも自分の意見で一杯になっている、、脳髄は味覚に劣らず相違している、などいう諺はすべての人の口にするところである。これらの諺は、人間が物を脳髄の状態に従って判断し、また物を知性的に認識するよりはむしろ感覚的に表現することを十分物語っている。なぜなら、もし彼らが物を知性的に認識するとしたら、数学において見るように、それらの物は、彼らすべてを惹きつけないまでも、少なくとも彼らすべてを同じ確信に導いたであろうからである。」と締めくくります。オカルト・ホラー小説 ブログランキングへ
2021年05月14日
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神の存否-49 スピノザの「エチカ」第一部の「神について」の存在・実在論ですが、「付録」を読む限り、神の存否というよりは実体の存否及び其の完全性を「神」として捉えるのか、人間精神の性状からくる神の想定するものを神の象として認識するのか二者択一を迫っています。スピノザは神の存否よりも人間の幸福感其のための神の認識を「エチカ」の題名通りに求め、倫理の実践を求めます。「人々は生起する一切が自分のために生起すると思いこんでからは、すべての物について、彼らに最も有用な点を重要事と判断し、彼らを最も快く刺激するものをすべて最も価値あるものと評価しなければならなかった。ここからして彼らは、物の本性を説明するために善、悪、秩序、混乱、暖、寒、美、醜のような概念を形成しなければならなかった。また彼らは自分を自由であると思うがゆえに、これから賞讃と非難、罪過と功績のような概念が生じた。後者についてはあとで人間本性を論じた上で述べることにして、ここでは前者について簡単に説明しよう。すなわち健康と敬神とに役立つ一切のことを人々は善と呼び、これに反することを悪と呼んだ。また物の本性を認識せずに物を単に表象のみする人々は、物について何ら正しい肯定をすることなく、表象力を知性と思っているから、そのゆえに彼らは、物ならびに自己の本性に無知であるままに、秩序が物自体の中に存すると固く信じている。すなわち物が我々の感覚によって容易に表象され、したがってまた容易に思い出せるようなふうにできていれば、我々はそれを善き秩序にある、あるいは善く秩序づけられていると呼び、その反対の場合は、悪しく秩序づけられている、あるいは混乱していると呼ぶのである。そして、我々が容易に表象しうる物は我々にとって他の物より快いから、そのゆえに人々は混乱よりも秩序を選び取るのである。あたかも秩序が我々の表象力との関係を離れて自然の中に実在するある物であるかのように。また彼らは神が一切を秩序的に創造したと言う。このようにして彼らは知らず知らず神に表象力を帰している。もし神に表象力を帰しているのでないとすれば、あるいは彼らは、神が人間の表象力を考えてすべての物を我々が最も容易に表象しうるようなふうに按配したと思っているのかもしれぬ。だがその際彼らは、我々の表象力をはるかに凌駕する無限に多くのものが存在し、また我々の表象力が微弱であるゆえにそれを混乱させるきわめて多くのものが存在するということには何の顧慮も払わないらしい。しかしこのことについてはもう十分である。」 と断罪します。スピノザの神とは人間の精神を反映したものではなく、人間の情欲や単なる知性を超えたものであり、其の実体認識には理知と直感知を求めます。人間が世間のしがらみから開放されるには理知を基底とした「直感知」こそが、神が世界であることの思考論理だというのです。此の基本から追求するならばスピノザの時代の物理科学の遅滞を超えた現代こそが、神を捉えることには無理があるとは云え其の実体への方法論は期待しても良さそうに時代は時々進化しています。哲学・思想ランキング
2021年05月13日
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神の存否-48 近代東洋哲学の西田幾多郎の世界即ち「神」を「直観知」することが、神への愛に通じ其の喜びは幸福と成り、其の実践は善を成す、というのはスピノザの影響を多分に受けたものと思われます。スピノザの東洋思想への関心、西田幾多郎のスピノザへの思考の探求は、共に世界が在るが儘に「神」を表現します。スピノザの関心は「神」の在り方、其の理の認識、其処から生じる実践にあり、西田幾多郎の関心は「人間の幸が、神の認識としての「善」の実践が人間に「幸福」を齎すと結辞しています。「神」の完全体としての「完璧」は、世界が「美しい」と捉える思考家及び科学者は、世界が持つ法則性の美に感嘆します。ところが、人間世界の社会生活では此の法式は成り立ちません。此のことがスピノザに次なる発言「なおここに見逃してならないのは、物の目的性を説明するにあたって自己の才能を示そうと欲したこの説の信奉者たちが、この自説を確証するために、一つの新しい証明法を提起したことである。それは帰謬法ではなくて帰無知法、人の無知に基づく証明法とでも言うべきやりかたである。このことはこの説にとって他の何の証明方法もなかったことを物語るものである。例えばもしある屋根から石がある人間の頭上に落ちてその人間を殺したとするなら、彼らは石が人間を殺すために落ちたのだとして次のように証明するであろう。もし石が神の意志によってそうした目的のために落ちたのでなかったら、どうしてそのように多くの事情が偶然輻輳(ふくそう)しえた、というのはしばしば多くの事情が同時に輻輳するからのであるかと。これに対して、それは風が吹いたから、そして人間がそこを通ったから起こったのだと答えでもすれば、彼らはなぜ風がその時吹いたか、なぜ人間がちょうどその時刻にそこを通ったかと迫るであろう。これに対してまた、前日まだ天候が穏かだったのに海が荒れ出したからその時になって風が起こったのだ、そしてその人間は友人から招待されていたのだ、と答えるならば、彼らはさらに々問いには際限がないから更に迫るであろう、しかしなぜ海が荒れ出したのか、なぜその人間がその時刻に招待されていたのかと。このように次から次へと原因の原因を尋ねて、相手がついに神の意志すなわち無知の避難所へ逃れるまではそれをやめないであろう。同様にまた彼らは、人間の身体の構造を見て驚く。そしてそうした巧みな技術の原因を知らないので、それは機械的技術によってではなく神的な、あるいは超自然的な技術によって作られ、一つの部分が他の部分を損なわないようなふうに仕組まれていると結論する。このゆえに諸奇蹟の真因を探究する者、また自然物を愚者として驚歎する代りに学者として理解しようと努める者は、一般から異端者、不敬虔者と見なされ、民衆が自然ならびに神々の代弁者として崇める人々からはこのような者として罵倒されることになる。なぜなら、神の代弁者と崇められる人々は、無知あるいは寧ろ愚鈍がなくなれば、驚き、すなわち自己の権威を証明し・維持するための唯一の手がかりもまたなくなることを知っているからである。しかしここに述べたような証明法にどんな効力があるかの判断はこの証明法の提起者自身にまかせる。私はこれらのことどもを措(お)いて、ここで取り扱おうと定めた第三の事柄に移る。」として辛辣に相手方の対象者を批判しますが、現実的にも周囲に心当たりの在る方も多く見付かりそうです。世界は人間の思考の理屈通りには動きません。其れは、逆から観ると、人類は世界を理解することに能力があまりにも到らないことを示しています。哲学・思想ランキング
2021年05月12日
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神の存否-47 スピノザの云う神は、平面上の三角形の内角の和が180度、その他n角形の内角の和は、180°×(n-2)、アインシュタインが解き明かしたE = mc²「イー・イコールズ・エムシー・スクウェアード」の如く、世界が神の摂理に従っていると思考します。ところが神に「目的原因」をありとする「目的原因説」は、「もし神が目的のために働くとすれば、神は必然的に何か欠けるものがあってそれを欲求していることになります。「もっとも神学者ならびに形而上学者たちは需要の目的と同化の目的を区別してはいるが、それでもやはり彼らは神が一切を被造物のためにではなくて自己自らのためになしたことを承認する。なぜなら彼らは、創造以前においては、神のほかには神がそのため働くような何ものも示すことができないからである。したがって神がある物のために手段を用意しようとしたと言うなら、神はそのある物を欠いていてそれを欲求した、ということを必然的に彼らは承認せざるをえなくなる。これは自明の理である。」とし、更なる追評というよりは痛烈な罵倒を加えています。此のことからスピノザへの迫害が何故にあるかの根拠が垣間見えるでしょう。量子重力理論のように観測物理科学を根拠にした認証哲学であれば、此処までの迫害は受けなかったでしょうが、スピノザの骨頂は認識哲学にあります。認識の行き尽くところは「同化」があると言っても良さそうです。西田幾多郎の「直観知」には認識の全てがあります。西洋思考と東洋思考の論理的流れには多々異はありますが、基底的には共通するものがあります。哲学・思想ランキング
2021年05月11日
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神の存否-46 スピノザの世界自然乃至神が「目的原因」と思考及び確信する人間に対する批判は、更に検めて強調されます。「しかしまだ付け加えたいことがある。それは、目的に関するこの説は自然をまったく転倒するということである。なぜならこの説は、実は原因であるものを結果と見、また反対に結果であるものを原因と見る。次にこの説は本性上さきなるものをあとにする。また最後にこの説は最高かつ最完全なものを最不完全なものにする云々。神から直接的に産出される結果は最完全であり、そして物は産出されるためにより多くの中間原因を要するに従ってそれだけ不完全である。ところがもし神から直接的に産出される物は神が自己の目的を達するために造ったのだとすれば、最後のもの、それのために始めのものが造られたところのものはすべてのもののうちで最も価値あるものになるからである。」と付言しています。少し解り辛い文章ですが、スピノザは神から直接的に産出される結果は最完全であり、神は永遠で完全なる実体である以上、ものが経過を経ていくなかでもその完全性は揺らぎなく、変化による時間の経過は神の実体の様相、様体や延長の変化に過ぎず、神が自体の完全性を目指すことは不条理だと解釈できます。中国の「完璧」の語彙のごとく完成されたものに、手を加えることは蛇足であり、思考論理に間違いがあるというのでしょう。スピノザの神とは汎ゆるものの根本であり結果である「不変」を基底とした観点から、世界の自然変化を見通しているように覚えます。スピノザの云う神の「自由原因」と「目的原因」の区分も多分に「目的原因」説を批判するために用いた方便であり、実際のところ「神」に「自由」や「目的」の語句を当て嵌めることは不条理です。哲学・思想ランキング
2021年05月10日
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いっぷ句-59初夏の雨木々の成長無法松 愚通人気ブログランキング
2021年05月09日
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神の存否-45 スピノザは敢えて厳しく「自由原因」と「目的原因」を取り上げて、神を源ととするその原因を「自由原因」として、世界は「自由原因」から成り立っていること、当然に其の構成も「自由原因」からなることを強調します。そこには、先ず人間は汎ゆる存在や物事に「何故に」と問う傾向があります。在るが儘の事態を受け入れ難い性分を持つものです。其のこと故に、人類は最初は自然物を道具として、後には、自己の目的に役立つ道具を手に入れるために工夫してきた経緯から「目的原因」が身に付いた性状となっています。対してスピノザの云う「自由原因」とは、何者にも関わらない自己自身を認識する必要性を持たない完璧なる思考を指すように想われます。自然の中で右顧左眄(うこさべん)する人間は、自然からのしっぺ返しに出会うと、此れは自己の目的としたものの誤謬に原因があるとした、「目的原因」説を受け入れる傾向が極めて強いのです。ところが、スピノザの「自由原因」とは世界自然の在りと汎ゆる物事は神の完全なる「自由原因」から成り立っており、そこには何ら欠如するものはないとします。全てはある永遠なる必然性と最高の完全性とから生ずることを示しているのです。哲学・思想ランキング
2021年05月08日
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神の存否-44 スピノザ当時の貿易立国ネーデルランドの自由都市群もオレンジ公隆盛以降はなり鳴りを潜め、自由を求めてスペインを脱出したユダヤ系商人の息子のスピノザの思想に迫害を持って生涯を苦しめます。其の最たる問題はスピノザは「偏見」にあると付録にて訴えます。「ところで、ここに私が指摘しようとするすべての偏見は次の一偏見に由来している。その一偏見というのは云々。一般に人々はすべての自然物が自分たちと同じく目的のために働いていると想定していること、のみならず人々は神自身がすべてをある一定の目的に従って導いていると確信していること、これである。なぜなら彼らはこう言う、神はすべての物を人間のために造り、神を尊敬させるために人間を造った、と。。だから私はまずこの偏見を考察しよう。それには第一に、なぜ多くの人々がこの偏見に甘んじ、またなぜすべての人が生来この偏見をいだく傾向があるかの理由を探究する。次にそれが誤っていることを示し、最後にいかにしてこの偏見から善と悪、功績と過罪、賞讃と非難、秩序と混乱、美と醜その他こうした種類の他のことどもに関する諸偏見が生じたかを示そう。」に続いて、すべての偏見は次の一偏見、自然、偏見者にあっては言い換えれば神格が何ら無駄なこと、更に言い換えれば人間の役に立たぬことをしないことを示そうと試みながら、彼らは自然と神々とが人間と同様に狂っていることを示したにすぎないように思われると、偏見に鉄槌を下します。此れを量子重力論に当て嵌めて思考すれば、誰かがインプットした情報で成り立つコンピューターが人間に役立つ情報を引き出すように、宇宙が成立したように取れることからの偏見への鉄槌です。現代に危機が叫ばれるオゾン層破壊や地球温暖化は、其の罪過は人類そのものではなく、倫理的な生活を送る人間にも危難を及ぼしているのにも関わらず、スピノザは断言します。「見るがいい、事態はついにいかなる結末になったかを!。 自然におけるかくも多くの有用物の間にまじって少なからぬ有害物を、例えば暴風雨・地震・病気などなどを彼らは発見しなければならなかった。そこでこうした事柄は、彼らが自分たちと同種のものと判断しているような神々が人間の加えた侮辱のゆえに、あるいは敬神に際して人間の犯した過失のゆえに怒ったから起こったのだと信じた。そして日常の経験は、これに反して、有用物ならびに有害物が敬虔者にも不敬虔者にも差別なく起こることを無数の例をもって示すのであるけれども、彼らはそのゆえに昔ながらの偏見から脱することをしなかった。なぜなら、彼らにとっては、これをもろもろの不可知な事柄、何のためそれが生ずるか了解できぬ事柄の中に数え入れ、このようにして彼らの現に在る生まれながらの無知状態を維持するほうが、前述の組織全体を破壊して新しい組織を案出するよりも容易だったからである。このため彼らは、神々の判断が人間の把握力をはるかに凌駕すると確信した。そしてもし数学が一目的には関係せずに単に図形の本質と諸特質とにのみ関係する数学がー真理の他の規範を人間に示さなかったとしたら、この理由一つだけでも真理は永遠に人類に秘められたであろう。なお、数学のほかにも、人々といっても全人類から言えばごく少数の人であるがにこの共通の偏見に気づかせて物の真の認識に進むことができるようにさせた他の諸原因が挙げられうる、と結びます。哲学・思想ランキング
2021年05月07日
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神の存否-43 スピノザは、神が自己原因を認識しない、且つ、何故に自由原因たるかを示すに至り、神の本性を示し、その諸特質を説明したと結び、其の詳細を語ります。「すなわち神が必然的に存在すること、唯一であること、単に自己の本性の必然性のみによって在りかつ働くこと、万物の自由原因であること、ならびにいかなる意味で自由原因であるかということ、すべての物は神の中に在りかつ神なしには在ることも考えられることもできないまでに神に依存していること、また最後に、すべての物は神から予定されており、しかもそれは意志の自由とか絶対的裁量とかによってではなく神の絶対的本性あるいは神の無限の能力によること、そうした諸特質を説明した。さらに私は、機会あるごとに、私の証明の理解を妨げるような諸偏見を取り除くことに努力してきた。しかしまだ少なからぬ偏見が残っていて、人々が私の説明した仕方で物の連結を把握することを同様に、いな、きわめてはなはだしく、妨げ得たしまた現に妨げ得ているのであるから、それらをここで理性の検討にゆだねることはむだではないと思うのである。」と、スピノザの証明の理解を妨げるような諸偏見があることを強調します。事実此の偏見がスピノザの「エチカ」生前出版を断念させ、死後の出版も無名という形式になるのですから、其の偏見は宗教のみならず政治的なものでもあったでしょう。以上を量子重力論に当て嵌めれば、宇宙の究極の因子が情報因子であるとすれば、其れは一切の他者を相容れない自立・自由意志の因子であり、究極の世界の構成素材そのものが「神」と呼ばれることになります。インプットは唯一つの自由因であり、目的因は無いか若しくは人間の物理観測的には永遠に隠され、世界の成り立ちを理知を超えた人間の「直覚」が担える問題となるのか、行く末は見渡せません。哲学・思想ランキング
2021年05月06日
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神の存否-42 スピノザが、神が自己原因を認識しない、且つ、自由原因たるかを示すに、人間の思考の浅はかさを提示します。「自然が何らむだなこと、言いかえれば人間の役に立たぬことをしないことを示そうと試みながら、彼らは自然と神々とが人間と同様に狂っていることを示したにすぎないように思われる。見るがいい、事態はついにいかなる結末になったかを!。自然におけるかくも多くの有用物の間にまじって少なからぬ有害物を。例えば暴風雨・地震・病気などなどを彼らは発見しなければならなかった。そこでこうした事柄は彼らが自分たちと同種のものと判断しているような神々が人間の加えた侮辱のゆえに、あるいは敬神に際して人間の犯した過失のゆえに怒ったから起こったのだと信じた。そして日常の経験は、これに反して、有用物ならびに有害物が敬虔者にも不敬虔者にも差別なく起こることを無数の例をもって示すのである。けれども、彼らはそのゆえに昔ながらの偏見から脱することをしなかった。なぜなら、彼らにとっては、これをもろもろの不可知な事柄、何のためそれが生ずるか了解できぬ事柄の中に数え入れ、このようにして彼らの現に在る生まれながらの無知状態を維持するほうが、前述の組織全体を破壊して新しい組織を案出するよりも容易だったからである。このため彼らは、神々の判断が人間の把握力をはるかに凌駕すると確信した。そしてもし数学が一目的には関係せずに単に図形の本質と諸特質とにのみ関係する数学がー真理の他の規範を人間に示さなかったとしたら、この理由一つだけでも真理は永遠に人類に秘められたであろう。なお、数学のほかにも云々」は、現代物理学理論の量子宇宙論に解答が用意されているのかどうかは今後を待つしかありません。哲学・思想ランキング
2021年05月05日
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神の存否-41 何故に、人間は神が自己原因を認識しない、且つ、自由原因たるかを認識しないのかを理解し難いもは、人間のもって生まれた性状に起因します。「それは第一に、人間は自分を自由であると思うということである。実際、彼らは自分の意欲および衝動を意識しているが、彼らを衝動ないし意欲に駆る原因は知らないのでそれについては夢にも考えないからである。第二に、人間は万事を目的のために、すなわち彼らの欲求する利益のために行なうということである。この結果として、彼らはできあがったものごとについて常に目的原因のみを知ろうと努め、これを聞けばそれで満足する。彼らにはそれ以上疑念をいだく何の理由もないからである。これに反してもしそれを他人から聞くことができない場合は、自分自身をふりかえって見て、自分が平素類似のことをするように決定されるのはどんな目的からであるかを反省してみるよりほかない。このようにして彼らは必然的に、自分の性状から他人の性状を判断することになる。さらに彼らは、自分の利益を獲得するのに少なからず役立つ多数の手段を、例えば見るための目、咀嚼するための歯、栄養のための植物や動物、照らすための太陽、魚を養うための海のごときものを自分の内外に発見するから、そして他のほとんどすべてのものに関してもこれと同じ次第であって、彼らはそうしたものの自然的原因が何であるかについて疑念をいだく何の理由も持たないのであるから、このことから彼らは、すべての自然物を自分の利益のための手段と見るようになった。そして、それらの手段は彼らの発見したものではあるが彼らの供給したものではないことを知っているから、これが誘因になって彼らは、そうした手段を彼らの使用のために供給した他のある者が存在することを信ずるようになった。すなわち、一度物を手段と見てからは、彼らはそれがひとりでにできたと信ずるわけにはいかなくて、彼らが平素自分自身に手段を供給する場合から推し量り、人間的な自由を賦与された一人あるいは二、三の自然の支配者が存在していて、これが彼らのためにすべてを熟慮し、彼らの使用のためにすべてを造ったと結論せざるをえなかった。彼らはまたこうした支配者の性情については少しも聞き知ることがなかったので、これを自分の性情に基づいて判断せざるをえなかった。このことから彼らは、神々は人間に感謝の義務を負わせ、人間から最高の尊敬を受けるためにすべてのものを人間の使用に向けるのだと信じ込んだ。この結果として各人は、神が自分を他の人々以上に寵愛し・全自然を自分の盲目的欲望と飽くことなき食欲の用に向けてくれるように、敬神のいろいろの様式を自分の性情に基づいて案出した。こうしてこの偏見は迷信に堕し、人々の心に深い根をおろした。そしてこれが原因となって各人は、すべてのものについて目的原因を認識し・説明することに最大の努力を払うようになった。」と説く此の文言は、人間が生を受けて過ごした人間精神の弱点の露見だと云えます。其れ故に、古史印度大陸では人格神を認めない目的論意識を務めて無くす宗教的実践法。心身の統一・訓練などによって,物質の束縛から自由になることを目指す行。近代になって宗派としての力は弱まるが、苦行による超日常的能力の開発法や神秘的瞑想法として、宗派を超えて実践された「瑜伽」、人格神を超えた自然を身に取り込む瞑想が独自に発展を遂げ、釈尊を代表として幾人かの仏や尊者を生み出します。彼らは所謂、人格神の認否には関わらず、世界を飲み込ます理を究めんとするものであり、スピノザの思考法と似通っています、否、スピノザは「瑜伽」を熟知していた可能性があります。哲学・思想ランキング
2021年05月04日
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神の存否-40 スピノザ「付録」にある「以上をもって私は神の本性を示し、その諸特質を説明した。」の文言は、「神の本性」は一切のものからの受託はなく、スピノザの定義する神は、須らく神を世界と捉えてもいいと思いますが、そのもの自体が有する自由原因であり、他に関与・拘束されること無きが故に、完璧なる意思を損なわれない自由故に神が自己の自由や其の不足を持ついわれは悉くにありません。 神が「目的原因」なるものを抱くであろうか無かろうかを問うこと自体の愚弄を示します。何故なら、目的原因とは自己の至らなさを自覚することであり、神存在には有り得べきものでないからです。「しかしこのことを人間精神の本性から導き出すことはこの場所では適当でない。ここでは何びとも承認しなければならぬこと、すなわちすべての人間は生まれつき物の原因を知らないこと、およびすべての人間は自己の利益を求めようとする衝動を有しかつこれを意識しているということ、そうしたことを議論の根底とするので十分であろう。」と締めくくります。ましてや、一部の信教が唱える神は世界外の存在であり、此の宇宙世界に内在するものではないとの主張には、神は虚空、虚実の世界に在する虚神となり、神には実体が無い「虚無」となり、喩え、現在宇宙の外殻に「虚」があろうとなかろうと、世界内実体と虚の世界外実体との軋轢が起こり、統一体としての「神存在」は雲散霧消します。現代物理学の最先端を進む量子重力理論は残念ながら宇宙の果の行きつく先の外縁を超えたものを完全に否定する論拠は持ち合わせません。其処では、スピノザを迫害した宗教勢力の維持の今後への継続も予想されます。哲学・思想ランキング
2021年05月03日
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いっぷ句-58豪雨にて実の重さには耐えられず 愚通人気ブログランキング
2021年05月02日
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神の存否-39 スピノザ「エチカ」の第一部に締め刳られる「付録」はスピノザの生活の魂の叫びであり、憤りを文章に託したように想われます。定義一から八、公理一から七、定理一から三六に述べた文章は、神の実体・恒常としての有・始まりを持たない常有ですが、此れに関しては最新の宇宙科学理論である量子重力理論を除いては宇宙の消滅をも説いており、其の場合においては汎ゆる世界の情報実体である神は、或る意味、虚に陥らなくてもリセットされるものであり、神の再興・再構成があるのかも知れません。何れにしても、神の消滅はスピノザの「神存在」の立ち位置では有り得ません。スピノザ「付録」にある「以上をもって私は神の本性を示し、その諸特質を説明した。」の文言は、「神の本性」とは受託の意味は一切なく、須らく世界そのものが持つ自由原因であり、関与・拘束されること無きが故に、完璧なる意思を損なわれない自由、其のこと故に神が自己の自由や其の不足を持ついわれはありません。哲学・思想ランキング
2021年05月01日
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