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神の存否-245 スピノザは妥当な観念(十全な観念)とは、対象との関係を離れてそれ自体で考察される限り、真の観念のすべての特質、あるいは内的特徴を有する観念のことであると解するとします。 定理二四 人間精神は人間身体を組織する部分の妥当な認識を含んでいない。 証明 人間身体を組織する部分は、それが自己の運動をある一定の割合で相互間に伝達する限りにおいてのみ身体自身の本質に属し(補助定理三の系のあとにある定義 同じあるいは異なった大いさのいくつかの物体が、他の諸物体から圧力を受けて、相互に接合するようにされている時、あるいは(これはそれらいくつかの物体が同じあるいは異なった速度で運動する場合である)自己の運動をある一定の割合で相互に伝達するようにされている時、我々はそれらの物体がたがいに合一していると言い、またすべてが一緒になって一物体あるいは一個体を組織していると言う。そしてこの物体あるいは個体は、構成諸物体のこうした合一によって他の諸物体と区別される。)を見よ。それが個体として人間身体と関係なしに考察されうる限りにおいては身体の本質に属さない。事実、人間身体の部分はきわめて複雑な組織の個体であり(要請一 人間身体は、本性を異にするきわめて多くの個体、そのおのおのがまたきわめて複雑な組織されている。)により、それらの部分は、身体の本性および形相を少しも変えることなしに、身体から分離することもできるし(補助定理四 もし多くの物体から組織されている物体あるいは個体から、いくつかの物体が分離して、同時に、同一本性を有する同数量の他の物体がそれに代るならば、その個体は何ら形相を変ずることなく以前のままの本性を保持するであろう。)により、また自己の運動を他の諸物体へ異なる仕方で伝達することもできる(補助定理三のあとにある公理一 ある物体が他の物体から動かされる一切の様式は、動かされる物体の本性からと同時に動かす物体の本性から生ずる。したがって、同一の物体が、動かす物体の本性の異なるにつれてさまざまな様式で動かされ、また反対に、異なった物体が、同一の物体からさまざまな様式で動かされることになる。)を見よである。こうして(この部第二部の定理三 神のうちには必然的に神の本質の、ならびに神の本質から必然的に生起するあらゆるものの、観念が存する。)により、おのおののこうした部分の観念あるいは認識は神の中に在るであろうが、しかしそれは神が他の個物自然の秩序から言ってそうした部分に先立っているような(この部の定理七 観念の秩序および連結は物の秩序および連結と同一である。)により。その観念に変状したと見られる限りにおいてである(この部第二部の定理九 現実に存在する個物の観念は、神が無限である限りにおいてではなく神が現実に存在する他の個物の観念に変状(アフェクトゥス)した〔発現した〕と見られる限りにおいて神を原因とし、この観念もまた神が他の第三の観念に変状した限りにおいて神を原因とする、このようにして無限に進む。)により。さらに人間身体を組織する個体自身のそのまたおのおのの部分についても同じことが言われうる。したがって人間身体を組織するおのおのの部分の認識は、神が単に人間身体の観念、言いかえれば(この部第二部の定理一三 人間精神を構成する観念の対象は身体である、あるいは現実に存在するある延長の様態である、そしてそれ以外の何ものでもない。)により、人間精神の本性を構成する観念を有する限りにおいてではなく、神がきわめて多くの事物の観念に変状した限りにおいて、神の中に在る。したがって(この部第二部の定理一一の系 人間精神は神の無限な知性の一部である云々。)により人間精神は人間身体を組織する部分の妥当な認識を含んでいない。Q・E・D・=これが証明すべきことであった。 人間精神は人間身体を組織する部分の妥当な認識を含んでいないとは如何様なことなのか。コロナに罹患しても無症状で気付かないことなのかと早とちりしそうです。哲学・思想ランキング
2021年11月30日
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神の存否-244 スピノザの「エチカ」第二部「精神の本性および起源について」の定理二二の人間精神は、身体の変状(刺激状態)のみならずこの変状の観念をも知覚するの証明で多用される「観念の観念(idea ideae)」とは何を指し示すのか。通俗には「観念」とは人間があるものについて心中にもつ表象を指示する用語とあります。哲学の術語としては、感覚的あるいは感性的表象に対立するものとして、知的表象ないしは概念、さらにはその複合体を意味するのが本来の用法とされます。何かを意識したり、考えたりしたときに、意識のうちにあらわれる内容。人間の意識内容として与えられているあらゆる対象が観念の持つ語彙。「観念の観念」、此の術後は、前後の文章を読み解くに「人間精神が神の認識あるいは観念を有する限りにおいても神に帰する」其の観念を指し示すと思われます。 定理二三 精神は身体の変状(刺激状態)の観念を知覚する限りにおいてのみ自分自身を認識する。 証明 精神の観念あるいは認識は(この部第二部の定理二〇 人間精神についても神の中に観念あるいは認識がある。そしてこの観念あるいは認識は、人間身体の観念あるいは認識と同様の仕方で神の中に生じ、また同様の仕方で神に帰せられる。)により、身体の観念あるいは認識と同様の仕方で神の中に生じ、かつ同一の仕方で神に帰せられる。ところが(この部第二部の定理一九 人間精神は身体が受ける刺激(変状)の観念によってのみ人間身体自身を認識し、またそれの存在することを知る。)により人間精神は人間身体自身を認識しないから、言いかえれば(この部第二部の定理一一の系により)人間身体の認識は神が人間精神の本性を構成する限りにおいては神に帰せられないから、したがって精神の認識もまた、神が人間精神の本質を構成する限りにおいては神に帰せられない。それゆえ(同じくこの部の定理一一の系 人間精神は神の無限な知性の一部である云々)により、人間精神はその限りにおいては自分自身を認識しない。次に身体が受ける刺激(変状)の観念は人間身体自身の本性を含む(この部第二部の定理一六 人間身体が外部の物体から刺激されるおのおのの様式の観念は、人間身体の本性と同時に、外部の物体の本性を含まなければならぬ。)により、言いかえればそれは(この部第二部の定理一三 人間精神を構成する観念の対象は身体である、あるいは現実に存在するある延長の様態である、そしてそれ以外の何ものでもない。)により精神の本性と一致する。それゆえにこれらの観念の認識は必然的に精神の認識を含む。ところが(前定理 人間精神は、身体の変状(刺激状態)のみならずこの変状の観念をも知覚する。)により、これらの観念の認識は人間精神自身の中に在る。ゆえに人間精神はその限りにおいてのみ自分自身を認識するのである。Q・E・D・これが証明すべきことであった。 スピノザ研究者のあいだでは精神の同一性を保証するのは観念の観念の役割とされてきた。人間精神についての観念が「ある人があることを知るなら、その人はそれによって同時に自分がそれを知ることを知り、同時に、且つまた、自分は自分がそれを知ることを知ることを知り,こうして無限に進む」という自己知を包含する無限の再帰認識を主張しているからであるとします。だが、観念の観念は精神の同一性を根拠づけることはない。スピノザが観念の観念でもって意図するところは甚だ難解です。哲学・思想ランキング
2021年11月29日
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神の存否-243 定理二二 人間精神は、身体の変状(刺激状態〕のみならずこの変状の観念をも知覚する。 証明 変状の観念の観念は、変状の観念そのものと同様の仕方において神の中に生じ、また同様の仕方において神に帰せられる。これは第二部 「精神の本性および起源」について、この部の(定理二〇 人間精神についても神の中に観念あるいは認識がある。そしてこの観念あるいは認識は、人間身体の観念あるいは認識と同様の仕方で神の中に生じ、また同様の仕方で神に帰せられると同様の方法で証明される。ところが身体の変状の観念は人間精神の中にある(この部の定理一二により)。言いかえればそれは神が人間精神の本質を構成する限りにおいて神の中にある(この部第二部の定理一一の系 この帰結として、人間精神は神の無限な知性の一部である、ということになる。したがって我々が「人間精神がこのことあるいはかのことを知覚する」と言う時、それは、「神が無限である限りにおいてでなく、神が人間精神の本性によって説明される限りにおいて、あるいは神が人間精神の本質を構成する限りにおいて、神がこのあるいはかの観念をもつ」と言うのにほかならない。また我々が「神が人間精神の本性を構成する限りにおいてのみでなく、神が人間精神と同時に他の物の観念をも有する限りにおいて、神がこのあるいはかの観念をもつ」と言う時に、それは「人間精神が物を部分的にあるいは非妥当的に知覚する」と言う意味である。)により。ゆえに此れらの観念の観念は、神が人間精神の認識あるいは観念を有する限りにおいて神の中にあるであろう。言いかえればそれは(この部の第二部定理二一精神のこの観念は、精神自身が身体と合一しているのと同様の仕方で精神と合一している。)により人間精神自身の中にあるであろう。それゆえ人間精神は、身体の変状のみならず、その観念をも知覚する。Q・E・D・= これが証明すべきことであった。 スピノザは人間身体と精神の、観念の関係及び連結を強調します。言い換えれば健全たる肉体に健全たる精神、その逆に、健全なる精神は健全なる身体、其の土台に立つ観念が理想だというわけです。ところが、此の「健全たる云々」が問題になります。とりわけ、肉体に関しては疑問でしょう。現代に我々が尊敬する車椅子の天才ホーキング博士やパラリンピックのアスリートたちを想起すれば健全たる肉体が何を持って健全なのかはいかにも曖昧です。健全なる身体能力が健全なる精神を齎すことがかえってないのは、自己の身体を絶えず意識しないことが所以です。人間の身体は其の精神が制御してこその価値が生じます。但し、スピノザは人間の観念の観念は、神が人間精神の認識あるいは観念を有する限りにおいて神の中にあるであろうと云い、其の逆、人間精神が神の認識あるいは観念を有する限りにおいても神に帰するのかを実践倫理に問うています。哲学・思想ランキング
2021年11月28日
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神の存否-242 定理二ー 精神の(人間精神についても神の中に観念あるいは認識がある。)この観念は、精神自身が身体と合一しているのと同様の仕方で精神と合一している。 証明 精神が身体と合一していることを我々は身体が精神の対象であることから明らかにした(第二部 「精神の本性および起源」についての部の定理一二 人間精神を構成する観念の対象の中に起こるすべてのことは、人間精神によって知覚されなければならぬ。あるいはその物について精神の中に必然的に観念があるであろう。言いかえれば、もし人間精神を構成する観念の対象が身体であるならその身体の中には精神によって知覚されないような〈あるいはそれについてある観念が精神の中にないような〉いかなることも起こりえないであろう。及び、定理一三 人間精神を構成する観念の対象は身体である、あるいは現実に存在するある延長の様態である、そしてそれ以外の何ものでもない。)を見よ。したがってこれと同じ理由により、精神の観念も、精神自身が身体と合一しているのと同様の仕方でその対象と、言いかえれば精神自身と、合一していなければならぬ。Q・E・D・=これが証明すべきことであった。 備考 この定理はこの第二部の定理七の備考の中、無限な知性によって実体の本質を構成していると知覚されうるすべてのものは単に唯一の実体に属しているということ、したがってまた思惟する実体と延長した実体とは同一の実体であって、それが時にはこの属性のもとにまた時にはかの属性のもとに解されるのであるということ述べたことからはるかに明瞭に理解される。なぜなら、我々はそこで、身体の観念と身体とは、言いかえれば(この部第二部の定理一三 人間精神を構成する観念の対象は身体である、あるいは現実に存在するある延長の様態である、そしてそれ以外の何ものでもない。)により、精神と身体とは同一個体であって、それがある時は思惟の属性のもとである時は延長の属性のもとで考えられるのであることを明らかにした。同様に、精神の観念と精神自身ともまた同一物であって、それが今度は同一の属性すなわち思惟の属性のもとで考えられるのである。つまり、精神の観念と精神自身とは同一の必然性をもって同一の思惟能力から神の中に生ずるのである。なぜなら、精神の観念すなわち観念の観念と(ideae idea)というものは実は観念、その対象との関係を離れて思惟の様態として見られる限りにおいての形相(本質)にほかならないからである。これは、ある人があることを知ればその人はそれによって同時に自分がそれを知ることを知り、また同時に自分は自分がそれを知ることを知ることを知り、このようにして無限に進む、ということから明らかである。しかしこれについてはあとにゆずる。 以上の「定理二を要約:精神の観念を精神自身が身体と合一しているのと同様の仕方で精神と合一している」を鑑みればスピノザは人間身体と精神は合一しており人間の肉体の滅びには内在する精神も雲散霧消すると考えているのでしょうか。哲学・思想ランキング
2021年11月27日
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2021年11月26日
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神の存否-241 此の章の定理二〇で戸惑うのは、人間精神についても神の中に観念あるいは認識があるとの記述でしょう。唯物論に傾いていたスピノザが突如、ルドルフ・シュタイナー(Rudolf Steiner/1861 - 1925)の神秘論的唯心論に変貌したのかの感があります。ここにスピノザの「思惟」の語彙の扱い方の特性があります。スピノザの神の思惟とは全ったきものとして人間精神についての観念あるいは認識に干渉することは有り得べくもありません。此の思考倫理は恐らくは「エチカ」の神髄である人間倫理を強調する「釈迦の便法」なのかも知れません。 定理二〇 人間精神についても神の中に観念あるいは認識がある。そしてこの観念あるいは認識は、人間身体の観念あるいは認識と同様の仕方で神の中に生じ、また同様の仕方で神に帰せられる。 証明 思惟は神の属性である(第二部 「精神の本性および起源」についてのこの部の定理一 思惟は神の属性である。あるいは神は思惟する物である。)により。ゆえに思惟ならびに思惟のすべての変状について(この部第二部の定理三 神のうちには必然的に神の本質の、ならびに神の本質から必然的に生起するあらゆるものの、観念が存する。)により、したがってまた人間精神についても(この部第二部の定理一一 人間精神の現実的有を構成する最初のものは、現実に存在するある個物の観念にほかならない。)により、必然的に神の中に観念がなければならぬ。次に精神のこの観念あるいは認識は、神が無限である限りにおいて神の中にあるのではなく、神が他の個物の観念に変状した限りにおいて神の中にある(この部第二部の定理九 現実に存在する個物の観念は、神が無限である限りにおいてではなく神が現実に存在する他の個物の観念に変状したと見られる限りにおいて神を原因とし、この観念もまた神が他の第三の観念に変状した限りにおいて神を原因とする、このようにして無限に進む。)により。ところが観念の秩序および連結は原因の秩序および連結と同一である(この部の定理七 観念の秩序および連結は物の秩序および連結と同一である。)により。ゆえに精神のこの観念あるいは認識は、身体の観念あるいは認識と同様の仕方で神の中に生じ、また神に帰せられる。Q・E・D・=これが証明すべきことであった。哲学・思想ランキング
2021年11月26日
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神の存否-240 スピノザは当然に大乗哲学にも接していた筈であり、其の思考論法は熟知していたに違いない。大乗哲学が人間の認識を「縁起」と解き明かし因果を離れた「空論」を展開したのに対し、いかにも旧教ユダヤ教的解釈、西洋キリスト教的解釈を意識しつつも組み込まんとした「観念の連結」すなわち「因果」の輻輳をここで問います。 定理二〇 人間精神についても神の中に観念あるいは認識がある。そしてこの観念あるいは認識は、人間身体の観念あるいは認識と同様の仕方で神の中に生じ、また同様の仕方で神に帰せられる。 証明 思惟は神の属性である(この部第二部の定理一 思惟は神の属性である。あるいは神は思惟する物である。)により。ゆえに思惟ならびに思惟のすべての変状について(この部の定理三 神のうちには必然的に神の本質の、ならびに神の本質から必然的に生起するあらゆるものの、観念が存する。)により、したがってまた人間精神についても(この部第二部の定理一一 人間精神の現実的有を構成する最初のものは、現実に存在するある個物の観念にほかならない。)により、必然的に神の中に観念がなければならぬ。次に精神のこの観念あるいは認識は、神が無限である限りにおいて神の中にあるのではなく、神が他の個物の観念に変状した限りにおいて神の中にある(この部第二部の定理九 現実に存在する個物の観念は、神が無限である限りにおいてではなく神が現実に存在する他の個物の観念に変状した)と見られる限りにおいて神を原因とし、この観念もまた神が他の第三の観念に変状した限りにおいて神を原因とする、このようにして無限に進む。)により。ところが観念の秩序および連結は原因の秩序および連結と同一である(この部第二部の定理七 観念の秩序および連結は物の秩序および連結と同一である。)により。ゆえに精神のこの観念あるいは認識は、身体の観念あるいは認識と同様の仕方で神の中に生じ、また神に帰せられる。Q・E・D・=これが証明すべきことであった。 スピノザは人間精神の観念の観念、その観念の連結は個物の変遷変化の観念を遡及することを否定はしません。個物自体はものの時系列の変遷を逃れるすべはないが、人間の観念の秩序および連結は物の秩序および連結と同一であるとしながらも、人間精神の観念の連結状況の神への遡及をば匂わせています。哲学・思想ランキング
2021年11月25日
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神の存否-239 定理一九 人間精神は身体が受ける刺激(アフェクティオ)、変状(アフェクトゥス)の観念によってのみ人間身体自身を認識し、またそれの存在することを知る。 証明 なぜなら、人間精神は人間身体の観念あるいは認識にほかならない(第二部 「精神の本性および起源」についての定理一三 人間精神を構成する観念の対象は身体である、あるいは現実に存在するある延長の様態である、そしてそれ以外の何ものでもない。)により。そしてこの観念あるいは認識は、神が他の個物の観念に変状したと見られる限りにおいて神の中に在る(第二部 「精神の本性および起源」についての定理九 現実に存在する個物の観念は、神が無限である限りにおいてではなく神が現実に存在する他の個物の観念に変状した、発現したと見られる限りにおいて神を原因とし、この観念もまた神が他の第三の観念に変状した限りにおいて神を原因とする。このようにして無限に進む。)により。言いかえれば、人間身体はいわば絶えず更生されるためにきわめて多くの物体を要するから(要請四 人間身体は自らを維持するためにきわめて多くの他の物体を要し、これらの物体からいわば絶えず更生される。)により。そして観念の秩序および連結は原因の秩序および連結と同一であるから(第二部 「精神の本性および起源」についての定理七 観念の秩序および連結は物の秩序および連結と同一である。)により、この観念〔人間身体の観念〕は、神がきわめて多くの個物の観念に変状したと見られる限りにおいて神のうちに在るであろう。こうして神は、人間精神の本性を構成する限りにおいてではなく、きわめて多くの他の観念に変状した限りにおいて、人間身体の観念を有し、あるいは人間身体を認識する。言いかえれば(第二部 「精神の本性および起源」についての定理一一の系 この帰結として、人間精神は神の無限な知性の一部である、ということになる。したがって我々が「人間精神がこのことあるいはかのことを知覚する」と言う時、それは、「神が無限である限りにおいてでなく、神が人間精神の本性によって説明される限りにおいて、あるいは神が人間精神の本質を構成する限りにおいて、神がこのあるいはかの観念をもつ」と言うのにほかならない。また我々が「神が人間精神の本性を構成する限りにおいてのみでなく、神が人間精神と同時に他の物の観念をも有する限りにおいて、神がこのあるいはかの観念をもつ」と言う時に、それは「人間精神が物を部分的にあるいは非妥当的に知覚する」と言う意味である。)により、人間精神は人間身体を認識しないのである。これに反して、身体の変状(刺激状態)の観念は、神が人間精神の本性を構成する限りにおいて神の中に在る。すなわち人間精神はそうした変状(刺激状態)を知覚する(第二部 「精神の本性および起源」についてのこの部の定理一二 人間精神を構成する観念の対象の中に起こるすべてのことは、人間精神によって知覚されなければならぬ。あるいはその物について精神の中に必然的に観念があるであろう。言いかえれば、もし人間精神を構成する観念の対象が身体であるならその身体の中には精神によって知覚されないような〈あるいはそれについてある観念が精神の中にないような〉いかなることも起こりえないであろう。)により。したがって人間精神は(この部第二部 「精神の本性および起源」についての定理一六 人間身体が外部の物体から刺激(アフィキトゥル)されるおのおのの様式の観念は、人間身体の本性と同時に、外部の物体の本性を含まなければならぬ。)により、人間身体自身を知覚し、しかもそれを(この部第二部 「精神の本性および起源」についてのの定理一七 もし人間身体がある外部の物体の本性を含むような仕方で刺激されるならば、人間精神は、身体がこの外部の物体の存在あるいは現在を排除する刺激を受けるまでは、その物体を現実に存在するものとして、あるいは自己に現在するものとして、観想するであろう。)により、現実に存在するものとして知覚する。ゆえにこの限りにおいてのみ人間精神は人間身体自身を知覚する。Q・E・D・=此れが一番証明すべきことであった。 ここに顕われるのはギリシァ哲学、なかでも代表される物質的なものを根本的であるとみなし、それを自然科学によって認識された対象と同一視する唯物的で認識を重んじた唯物論の思想が見え隠れします。スピノザが人間精神を至上とする唯心論でないことは「精神の本性および起源」についてから読み取れます。哲学・思想ランキング
2021年11月24日
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神の存否-238 第二部定理一八でスピノザは、人間身体への複数の物体からの同時刺激からのちの、精神のその中の一つを表象する場合のほぼ同時の他者・他物の想起に触れます。スピノザは知性の観念の連結を解析してみせます。異なった人間が同一の事物から異なったものを想起するという現象をペテロとパウロを定理一七の備考で述べ、各々の人間の表象像の連結のあり方に注目します。 定理一八 もし仮に人間身体がかって(現在時以前に)二つ若しくは多数の物体から同時に刺激されたとしたら、精神は後でその中の一つを表象する場合ただちに他のものをも想起するであろう。 証明 精神がある物体を表象するのは(前の定理一七系 人間身体をかつて刺激した外部の物体がもはや存在しなくても、あるいはそれが現在しなくても、精神はそれをあたかも現在するかのように観想しうるであろう。)により、人間身体のいくつかの部分がかつて外部の物体自身から刺激されたのと同様の刺激・同様の影響を人間身体が外部の物体の残した痕跡から受けることに基づくのである。ところが、仮定によれば、身体はかつて、精神が同時に二つの物体を表象するようなそうした状態に置かれていた。ゆえに精神は、今もまた、同時に二つのものを表象するであろう。そしてその一つを表象する場合、ただちに他のものを想起するであろう。Q・E・D・=此れが一番証明すべきことであった。 備考 このことから我々は、記憶(メモリア)の何たるかを明瞭に理解する。すなわちそれは、人間身体の外部に在る物の本性を含む観念のある連結にほかならない。そしてこの連結は精神の中に、人間身体の変状(刺激状態/アフェクティオ)の秩序および連結に相応して生ずる。 私は第一に、それは単に人間身体の外部に在る物の本性を含む観念の連結であって、それらの物の本性を説明する観念の連結ではないと言う。なぜなら、それは実は人間身体の変状(刺激状態)の観念にほかならぬのであり、そしてこの観念は人間身体の本性と外部の物体の本性とを含んでいるからである(この部の定理一六 人間身体が外部の物体から刺激(アフィキトゥル)されるおのおのの様式の観念は、人間身体の本性と同時に、外部の物体の本性を含まなければならぬ。)により。私は第二に、この連結は人間身体の変状(刺激状態〕)の秩序および連結に相応して生ずると言う。そのわけはこれを知性の秩序に相応して生ずる観念の連結と区別するためである。この知性の観念の連結においては精神はその第一原因によって知覚する。そしてこの知性の観念の連結はすべての人間にあって同一なのである。 さらにこれから我々は、なにゆえに精神が一つの物の思いからただちにそれとは少しも類似性のない他の物の思いへ移るかを明瞭に理解する。例えばローマ人はポームム(くだもの〕)という言葉の思いからただちにある果実の思いへ移るであろう。この果実はあの発音された音声とは何の類似性もなくまた何の共通点もない。ただ同じ人間の身体がこの両者からしばしば刺激されただけにすぎない。言いかえれば、人間がその果実自体を目にしながら同時に幾度もポームムという言葉を聞いたというにすぎない。このようにして各人は、自分の習慣が事物の表象像を身体の中で秩序づけているのに応じて一つの思いから他の思いへ移るであろう。例えば軍人は、砂の中に残された馬の足跡を見て、ただちに馬の思いから騎士の思いへ、また騎士の思いから戦争その他の思いへ移るであろう。ところが農夫は、馬の思いから鋤や畑その他の思いへ移るであろう。このようにして各人は、自分が事物の表象像をこのあるいはかの仕方で結合し、連結するように習慣づけられているのに応じて一つの思いからこのあるいはかの思いへ移るであろう。哲学・思想ランキング
2021年11月23日
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神の存否-237 スピノザの「エチカ」第二部「精神の本性および起源について」の定理一七の備考後半部には、突如、キリストの弟子パウロとペテロを持ち出してきます。ペテロとパウロなくして今のキリスト教なし。イエス最初の弟子にして復活後の教会指導者ペテロ。迫害者から異邦人宣教者へと変身したパウロを何故に引用するのでしょう。 続定理一七の備考後半部 その上我々は(前の系 人間身体をかつて刺激した外部の物体がもはや存在しなくても、あるいはそれが現在しなくても、精神はそれをあたかも現在するかのように観想しうるであろう。ならびに、この部の定理一六の系二 第二に、我々が外部の物体について有する観念は外部の物体の本性よりも我々の身体の状態をより多く示すということになる。これは私が第一部の付録の中で多くの例を挙げて説明したところである。)から、例えばペテロ自身の精神の本質を構成するペテロの観念と、他の人間例えばパウロの中に在るペテロ自身の観念との間にどんな差異があるかを明瞭に理解し得る。すなわち、前者はペテロ自身の身体の本質を直接に説明し、ペテロの存在する間だけしか存在を含んでいない。これに反して後者はペテロの本性よりもパウロの身体の状態をより多く示しており、したがって、パウロの身体のこの状態が持続する間は、パウロの精神は、ペテロがもはや存在しなくてもペテロを自己にとって現在するものとして観想するであろう。 なお普通に用いられている言葉を保存するために、人間身体の変状(刺激状態/Affectus)、我々はこの変状の観念によって外部の物体を我々に現在するものとして思い浮かべるのである。我々人間は物の形状を実体として再現はしないけれども我々はこれを物の表象像(イマゴ)と呼ぶであろう。そして精神がこのような仕方で物体を観想する時に我々は精神が物を表象(イマギナリ)すると言うであろう。 それから私はここに誤謬とは何であるかを示す手始めとして、次のことを注意したい。それは、精神の表象はそれ自体において見れば何の誤謬も含んでいないということ、言いかえれば精神は物を表象するからといってただちに誤りを犯しているのではなく、ただ精神が自己に現在するものとして表象する事物についてその存在を排除する観念を欠いていると見られる限りにおいてのみ誤りを犯しているのであるということである。なぜなら、もし精神が存在しない物を自己に現在するものとして表象するのに際し、それと同時にその物が現実に存在しないことを知っていたとしたら、精神はたしかに、表象するこの能力を、自己の本性の欠点とは認めず、かえって長所と認めたことであろう。特にもしこの表象能力が精神の本性にのみ依存しているとしたら、言いかえれば(第一部定義七 自己の本性の必然性のみによって存在し・自己自身のみによって行動に決定されるものは自由であると言われる。これに反してある一定の様式において存在し・作用するように他から決定されるものは必然的である、あるいはむしろ強制されると言われる。)により、もし仮に精神のこの表象能力が自由であったとしたら、なおさらそうであろう。 スピノザはペテロの名を上げて、決してイエスとはいっていません。本音はイエスといいたかった筈です。そもそも新約聖書の中でパウロがイエスの復活、つまり、死後のイエスがパウロの目の前に現れたということを何度も述べていることからしても、ここでスピノザがわざわざパウロの名前を出していること自体がその言説を自己の哲学に照らし合わせていたに相違ありません。少なくともスピノザは、パウロはイエスの表象像であり、混乱した観念を十全な観念であると思い込んだのだと主張していることになります。スピノザはニーチェのように「神は死んだ」とキリスト教自体を否定していなかったのは間違いありませが、パウロに対する批判的精神はスピノザのうちにもあったのでしょう。哲学・思想ランキング
2021年11月22日
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神の存否-236 スピノザの哲学概念は形而上学的には神概念に関する限りは唯物論的に、人間に関する限りは認識論的に捉えられます。 備考 このようにして我々は、屡々起こるように、もはや存在しないものをあたかも現在するかの如く観想するということが如何にして起こり得るかを知る。そしてこのことは他の原因からも起こることが可能である。しかしここでは真の原因によってそれを説明したと同様の効果のある一つの原因を示しただけで私にとっては十分である。それにまた私は真の原因からそれほど遠ざかっているとは信じない。なぜなら、私が採用したあのすべての要請は経験によって裏付けられないことを殆ど含んでいないのであり、そして人間身体が我々の感ずるとおりに存在していることを示した今では、経験について疑うことは我々にとって許されないからである(この部の定理一三 人間精神を構成する観念の対象は身体である、あるいは現実に存在するある延長の様態である、そしてそれ以外の何ものでもない。のあとにある系 この帰結として、人間は精神と身体とから成りそして人間身体は我々がそれを感ずるとおりに存在するということになる。)を見よ。 此の備考前半部は、如何にも西洋的な認識論に基づく身体精神観念です。此の思想に対照的なのがインド大陸古来からの瞑想法でしょう。自己の身体の柵(しがらみ)から自らの精神を解放して自然に同期して世界を知る修法なのですから、スピノザの方向性とは全く異なります。此れが現代には西洋思想に飽き足らない欧米人を引き付けて止まない魅惑となっているのです。哲学・思想ランキング
2021年11月21日
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神の存否-235 スピノザは、個物の人間身体への刺激が人間精神の観念に及ぼす影響を更に詳細に述べます。 系 人間身体をかっては刺激した外部の物体がもはや存在しなくても、あるいはそれが現に在しなくても、精神はそれをあたかも現在するかのように観想しうるであろう。 証明 人間身体の流動的な部分が軟かい部分にしばしば衝き当るように外部の物体から決定されると、軟かい部分の表面は(要請五 人間身体の流動的な部分が他の軟かい部分にしばしば突き当るように外部の物体から決定されるならば、その流動的な部分は軟かい部分の表面を変化させ、そして突き当たる運動の源である外部の物体の痕跡のごときものをその軟かい部分に刻印する。)により変化する。この結果として、流動的な部分は、軟かい部分の表面から、以前とは異なる仕方で弾ね返ることになる。そしてあとになって流動的な部分がこの変化した表面に自発的な運動をもって突き当たると、流動的な部分は前に外部の物体から軟かい部分の表面を衝くように促された時と同じ仕方で弾ね返ることになる(補助定理三 運動あるいは静止している物体は、他の物体から運動あるいは静止するように決定されなければならなかった、この後者も同様に他の物体から運動あるいは静止するように決定されている、そしてこれもまたさらに他の物体から決定され、このようにして無限に進むの系 のあとにある公理二 運動している物体が静止している他の物体に衝突してこれを動かすことができない場合には、それは酔ね返って自己の運動を継続する。そして弾ね返る運動の線がその衝突した静止物体の面となす角度は、打ち当る運動の線が同じ面となす角度に等しいであろう。)を見よ。したがってまたそれはこのように弾ね返る運動を継続する間は、以前外部の物体に促されてした時と同じ仕方で人間身体を刺激することになる。この刺激を精神は(この部の定理一二 人間精神を構成する観念の対象の中に起こるすべてのことは、人間精神によって知覚されなければならぬ。あるいはその物について精神の中に必然的に観念があるであろう。言いかえれば、もし人間精神を構成する観念の対象が身体であるならその身体の中には精神によって知覚されないような、あるいはそれについてある観念が精神の中にないような、いかなることも起こりえないであろう。)により、ふたたび認識するであろう。言いかえれば精神は(この部の定理一七 もし人間身体がある外部の物体の本性を含むような仕方で刺激されるならば、人間精神は、身体がこの外部の物体の存在あるいは現在を排除する刺激を受けるまでは、その物体を現実に存在するものとして、あるいは自己に現在するものとして、観想するであろう。)により、ふたたび外部の物体を現在するものとして観想するであろう。そしてこのことは、人間身体の流動的な部分がその自発的な運動をもって軟かい部分の表面を衝くたびごとに起こるであろう。ゆえに人間身体をかつて刺激した外部の物体がもはや存在しなくても、精神は、身体のこうした活動がくり返されるたびごとに、外部の物体を現在するものとして観想するであろう。Q・E・D・=此れが一番証明すべきことであった。 上記は我々が武術や球技や水泳などでもシュミレーションするときには絶えず経験することです。此れがなければ熟練は有り得ません。スピノザの心身平行論は全くの接触がない幾何学上の平行ではなく「心身並行論」であり、時には同時体験を伴うものなのでしょう。
2021年11月20日
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神の存否-234 スピノザ哲学は、過去には永らく唯物主義(materialism)の立場であると解釈されてきました。19 世紀から 20 世紀にかけてはマルクス主義思想においてスピノザは受容された経緯があります。然し乍ら、唯物主義的スピノザ解釈が妥当かどうかには疑問が残ります。現代思想では唯物主義を経験的唯物主義、存在論的唯物主義、方法的唯物主義に分別されるが、此のなかでは、スピノザは物質的事物についての探求とまさしく同じ方法で精神的事物についての探求を行おうとする方法的唯物主義者だと捉えたい。 定理一七 もし人間身体がある外部の物体の本性を含むような仕方で刺激されるならば、人間精神は、身体がこの外部の物体の存在あるいは現在を排除する刺激を受けるまでは、その物体を現実に存在するものとして、あるいは自己に現在するものとして、観想するであろう。 証明 明白である。なぜなら人間身体がそのような仕方で刺激されて(情動/Affectus)いる間は、人間精神は(この部の定理一二により)身体のこの刺激(Affectio)を観想するであろう。言いかえれば、精神は(前定理一六 人間身体が外部の物体から刺激(アフィキトゥル)されるおのおのの様式の観念は、人間身体の本性と同時に、外部の物体の本性を含まなければならぬ。)により、現実に存在する刺激状態について、外部の物体の本性を含む観念を、言いかえれば外部の物体の本性の存在あるいは現在を排除せずにかえってこれを定立する観念を有するであろう。したがって精神は(前定理の系一 この帰結として第一に、人間精神は自分自身の身体の本性とともにきわめて多くの物体の本性を知覚するということになる。)により、身体が外部の物体の存在あるいは現在を排除する刺激を受けるまでは、外部の物体を現実に存在するものとして、あるいは現在するものとして観想するであろう。Q・E・D・=此れが証明スべきことであった。哲学・思想ランキング
2021年11月19日
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神の存否-233 スピノザは人間身体の構成を心身平行論として唯物論的に解釈しようとしているのでしょうか。 定理一六 人間身体が外部の物体から刺激(アフィキトゥル)されるおのおのの様式の観念は、人間身体の本性と同時に、外部の物体の本性を含まなければならぬ。 証明 なぜなら、ある物体が刺激される一切の様式は、刺激される物体の本性からと同時に刺激する物体の本性から生ずる(補助定理三の系のあとにある公理一 ある物体が他の物体から動かされる一切の様式は、動かされる物体の本性からと同時に動かす物体の本性から生ずる。したがって、同一の物体が、動かす物体の本性の異なるにつれてさまざまな様式で動かされ、また反対に、異なった物体が、同一の物体からさまざまな様式で動かされることになる。)により。ゆえにこれらの様式の観念は(第一部公理四 結果の認識は原因の認識に依存しかつこれを含む。)により必然的に両方の物体の本性を含む。したがって人間身体が外部の物体から刺激される一切の様式の観念は、人間身体の本性ならびに外部の物体の本性を含む。 Q・E・D・=此れが証明スべきことであった。 系一 この帰結として第一に、人間精神は自分自身の身体の本性とともにきわめて多くの物体の本性を知覚するということになる。 系二 第二に、我々が外部の物体について有する観念は外部の物体の本性よりも我々の身体の状態をより多く示すということになる。これは私が第一部の付録の中で多くの例を挙げて説明したところである。 スピノザは人間精神も物体同様に自然の秩序に従うということ、其れ故に外部の環境に規定される存在であり、その範疇の枠内でしか人間精神の自由意志が認められないと述べます。哲学・思想ランキング
2021年11月18日
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神の存否-232 スピノザの代表著作「エチカ」は、光の直進や反射の法則を発見した科学者 プラトン学徒ユークリッドの幾何学を自己の世界概念として思想を展開して見せます。片や、ライプニッツはニュートン力学を知悉し、1676年にはバールーフ・デ・スピノザを訪問したことでも知られますが、自己のモナド (単子哲学/Monade)を展開してみせます。モナド(monad)は哲学用語で単子と訳します。初めピタゴラス学派が用い、プラトンおよび中世キリスト教系思想家も種々に用い、ライプニッツに至ってはその形而上学説の中心に置かれました。ライプニッツの形而上学説はモナド論と呼称されます。万物を構成するモナドは不可分で不滅の実体であり、一つのモナドは他のモナドと相互作用をもたないが、最高のモナドである神によって立てられた予定調和があるとする。彼はこの思想によって機械論と目的論の対立を克服しようとしました。モナドはライプニッツの哲学においての、あらゆる事物を構成する究極的要素となります。分割不可能の単純な実体をさすモナドは、ギリシア語で一をあらわすモナスに由来し、能動的な活動性を持つ力の中心で、空間的な広がりを持つ物体的な原子(アトム)、現代物理科学の素粒子とも異なる。モナドの能動的な力は、物体を表象する精神の力となってあらわれ、モナドは、表象の表象の明晰によって、暗い無意識な無機的物質から、明るい意識を持つ理性、さらには最高の神までの段階がある。モナドは、外部と交渉を持たない「窓のない」独立した実体であるが、個々のモナドの表象が一致して宇宙の調和的秩序が存在するように、神によってあらかじめ定められている「予定調和」全世界のモナドの変化の過程を、あたかも直接的相互関係があるかのように支配しているこの原理が予定調和。無数のモナドは、独自に全宇宙をみずからの内に映し出す生きた鏡。宇宙全体を表象する小宇宙にたとえられる宇宙は無数の小さな「時空の泡」でできているのかもしれないとする此の予測は驚くべきものです。スピノザとライプニッツは現代版の相対性理論と量子理論の対立の前哨戦といえるかも知れません。哲学・思想ランキング
2021年11月17日
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神の存否-231 スピノザ(Baruch De Spinoza/1632ー 1677)に17世紀の同系列にして論敵とも云えるドイツの哲学者にして数学者、自然科学者のライプニッツ(Gottfried Wilhelm Leibniz/1646ー1716)が実体概念の形而上学説モナドを唱えます。ライプニッツは幾何学的数学の演繹法を以って世界を在らしめるものを解き明かそうとするスピノザ哲学に対する批判を背景にしながら、スピノザ哲学の意義をある意味で照らし出すと共に自己の世界概念を顕します。ライプニッツ自身によるスピノザ哲学の評価という優れたコメンタリーの検討はスピノザ哲学をより鮮明にします。ライプニッツによるスピノザ批判に対する、あり得べきスピノザの反論を予想、検討しつつスピノザ対ライプニッツ間の体系的な比較研究は有意義でしょう。具体的には、神概念の肯定性、無限な属性によって構成される絶対的に無限な存在のスピノザ。定義によって事象的に構成される存在のライプニッツ。精神的自由に関しての具体性個体の自発性及び様態における個体に関してのスピノザの自論。モナドとしての個体のライプニッツ。スピノザの原因概念が形相因と作用因との統合の意味を有すること。以上がスピノザ解釈に関する新たな論点として浮上し、これに関するライプニッツの議論との突き合わせの必要と力の哲学としてのスピノザ哲学とライプニッツ哲学との体系的な思考の比較研究の重要性が現代物理学の解明にも役立つことが改めて期待されます。哲学・思想ランキング
2021年11月16日
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神の存否-230 場の量子論は、その名の示す通り、場を量子的に調べる理論です。 空間方向と時間方向に広がっていれば物理的なものは何でも場と呼ばれますので、たとえば電磁波も、結晶の振動も場の例とされます。其れ故、 場の量子論は、理論物理の広い局面で基本となる分野であり、素粒子理論においても物性理論、物性物理学は、物質のさまざまな巨視的性質を微視的な観点から研究する物理学の分野で、量子力学や統計力学を理論的基盤とし、その理論部門を指す理論とされています。物性論と呼ぶことも多いのですが、これらは日本の物理学界独特の名称です。しばしば凝縮系物理学、電子・原子・分子といった量子力学に従うミクロな要素が マクロな数だけ集合し相互作用を及ぼし合うと、個々の要素が持っていた性質とは著しく異なった 全く新しい物理現象が生じることがあります。 超伝導、超流動、インドの物理学者ボーズ(Satyendra Nath Bose/1894―1974)アインシュタインがボースの考えを使って理想気体の量子論を展開したボーズ・アインシュタイン凝縮・磁性・金属絶縁体等々は、そのような典型例だとするに比定される点では重要とされています。しかし今や観測物理化学でさえ、宇宙は量子力学や相対論では解決が望み得ない課題が山積み状態です。さらにはどうしても宇宙の始まりがインフレーション理論だけでは見えてこないのです。ビッグバンを宇宙創造だとする理論を覆したインフレーション理論、但し、これにも弱みがあります。其の始点の問題です。此処に物理学者は答えます。憶測するに「原子核以下のゼロ点の状態のようなもの」から一気にゼロエネルギーからの温度ゼロ、即ち温度の意味あいはなしの拡大能力のみのものが一気に137億光年乃至は138光年もの宇宙を築き上げ、なおその拡張は止まない。 スピノザがこのインフレーション理論を知れば、希望若しくは悲嘆を味わうでしょうか。そうは思えません。その「原子核以下のゼロ点の状態のようなもの」を究明しようとしたでしょう。其れは「虚」ではなく「実有」だからです。哲学・思想ランキング
2021年11月15日
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神の存否-229 世界をマクロに捉えるのに好都合な「相対性理論」、但し、ブラックホールの特異点のゼロ点エネルギーの総和が計算上無限大になるという問題を抱えます。対して世界をミクロに捉えることから全体像を描き出すのが「量子論」では、ゼロ点エネルギーの総和が計算上無限大になるという発散の問題を「繰り込み理論」によって回避しているものの、点状の粒子という従来の物理学上の矛盾を内包しています。この両者の矛盾を解消すべく現れたのが「量子重力理論」です。其れにもまして、其の「量子重力理論」の発展型である統一場理論や超弦理論よりも遥かに時代を先駆けていると期待されるのが、点状の粒子という従来の物理学上の矛盾、其の矛盾を粒子は最小領域である「泡」の中で惹起されると捉える「素領域理論」です。粒子は最小領域である「泡」の中で惹起されると捉えるのであれば、その矛盾は生じず、且つ亦、個々の粒子に対応する場を無限に想定する必要もなく、それぞれの泡の固有振動数の違いよって異なる粒子が惹起されると捉えるミクロからマクロのスケールにまで適応される統一場理論、超弦理論よりもはるかに時代を先駆けていたとする素領域理論、素領域理論そりょういきりろん theory of elementary domain四次元時空を分割不可能な最小領域 (素領域という) に区分し,エネルギーが加わって励起された素領域が素粒子であるとみなして,素領域間のエネルギーの授受によって素粒子の生成・消滅などを論じようとした試論が、今は亦、脚光を浴びています。哲学・思想ランキング
2021年11月14日
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神の存否-228 スピノザは現実に存在する個物の観念は、神が無限である限りにおいてではなく神が現実に存在する他の個物の観念に変状・発現したと見られる限りにおいて神を原因とし、この観念もまた神が他の第三の観念に変状した限りにおいて神を原因とする、このようにして無限に進むと指定した上で、其の観念を自己の観念の観念として抱(いだ)くのは健全なる人間精神の道程にあるとします。仮にスピノザの示唆する神が此の我々の属する宇宙が「泡宇宙」どころか、並行宇宙や多元宇宙、あらゆる宇宙が存在するマルチバース宇宙論であろうとそこに矛盾と不条理を生じさせないものであるならば、スピノザは神が無限である限りにおいて主張する限りには存在します。「神」とは「存在」の意味合いの取り扱いにもよりますが、スピノザの神概念が人間がつとめて求め止まない「有りて在る・在して有る」の「究極の常・究極の有」である神を目指すならばそれにも妥当するやも知れません。たしかに、最先端物理理論の量子重力理論や超弦理論は通常一般としての神・宗教的神概念の「神」を持ち出さないで解決を見い出そうとするものです。理論物理学理論は神概念の「神」を持ち出さない「何か?」を求めていますが、スピノザの「神」の概念は此れに近似するのでしょうか。哲学・思想ランキング
2021年11月13日
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神の存否-227 道徳や倫理は学校教育で学んだけれど、人間を拘束するようで嫌だとする方が世間には確かに多いのですが、其れは学校教育の教科書と教え方によることが大半だと憶えます。 スピノザによれば実践倫理の最大の恩恵は服従を蔑むことが出来るということです。実践倫理を学んだ者は、服従を学ぶことはない。実践倫理の行動の覚悟があれば、汎ゆる束縛や屈従から解き放たれ自由を我等に齎すとスピノザは捉えているのです。 定理一五 人間精神の形相的有(エッセ・フォルマーレ/Esse Formale)を構成する観念は単純ではなくて、きわめて多くの観念から組織されている。 証明 人間精神の形相的有を構成する観念は身体の観念であり(この部の定理一三 人間精神を構成する観念の対象は身体である、あるいは現実に存在するある延長の様態である、そしてそれ以外の何ものでもない。)により、そしてこの身体は(要請一 人間身体は、本性を異にするきわめて多くの個体、その各々(おのおの)がまたきわめて複雑な組織の部分から組織されている。により)により、きわめて複雑な組織のなかの極めて多くの個体から組織されている。ところが身体を組織する各々の個体については必然的に神の中に観念が存する(この部の定理八の系 個物がただ神の属性の中に包容されている限りにおいてのみ存在する間は、個物の想念的有(エッセ・オブエクティヴム)すなわち個物の観念は神の無限な観念が存在する限りにおいてのみ存在する。しかし個物が神の属性の中に包容されている限りにおいて存在するばかりでなく、さらにまた時間的に持続すると言われる限りにおいても存在すると言われるようになると、個物の観念もまた持続すると言われる存在を含むようになる。により)により。ゆえに(この部の定理七 観念の秩序および連結は物の秩序および連結と同一である。)により、人間身体の観念は、身体を組織する部分についてのきわめて多くのこうした観念から組織されている。Q・E・D・=此れが証明スべきことであった。哲学・思想ランキング
2021年11月12日
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神の存否-226 スピノザの認識哲学及び実践倫理は、ギリシァ三哲、なかでもプラトンのイデア論の影響が見られるようです。イデア論の構想は、人間として善悪・正邪の判断において普遍的な規準とな倫理的領域を超え認識論、存在論、自然学などにわたる統一的な原理とされました。アリストテレスはこのプラトン的イデアを否定して、イデアをより具体的な事物の内にある形相(エイドス)に置きかえます。中世ではイデアは神の精神の内容として解され、人間身体の行動が此れに則り実践行動に及ぶとすればスピノザの実践倫理が見えてきます。イデアという語は近世においては英語のidea(観念)やドイツ語のIdee(理念)に受け継がれつつもプラトンとは違った近世哲学者スピノザを含め独自の解釈が与えられています。イデアは生成消滅する人為によっては動かされぬ必然的な自然そのものの本質・本性であるフュシスを超越して、永遠に同一でありつづける超自然的で超時間的存在者である。そして、プラトンの考えでは、すべての存在者は形相(エイドスeidos)と質料つまり素材の結合体なのですが、その存在者の「何であるか」を規定するのは、イデアを分有し、謂わばその模像である形相であるとします。したがって、存在者の「何であるか(本質)」はそれ自体では変化をまぬがれており、生成消滅するのはその質料的部分だということになります。スピノザが「精神の本性と身体」を永遠性からどう捉えていたのかは憶測しか出来ませんが、少なくとも人間精神が神に起因していること、これを勘ぐれば、神が「常住の有」であれば人間精神に滅びがないことになります。哲学・思想ランキング
2021年11月11日
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神の存否-225 21世紀に現れた、其れまでの量子理論と相対性理論の関係相互の矛盾点解消しようとする「量子重力理論」は、かっての形而上哲学の神概念や神学哲学を超えた、理論物理学を以て世界を在らしめるものを解き明かそうとしています。其の究明は困難を極めますが、それは根底に安易に神を持ち出させないことが理論物理科学の基底にあるからです。此れは人類の生体を探る生命科学全般にも今日では認容されるでしょう。極論すれば、スピノザが「エチカ」で神を幾何学的演繹法で神を証明しようとしたのも、現代最先端の物理科学宇宙論の思考経路に共通すること無きにしもあらずです。 定理一四 人間精神はきわめて多くのものを知覚するのに適する。そしてこの適性は、その身体がより多くの仕方で影響されうるに従ってそれだけ大である。 証明 なぜなら人間身体は(要請三 人間身体を組織する個体、したがってまた人間身体自身は、外部の物体からきわめて多様の仕方で刺激される。及び、要請六 人間身体は外部の物体をきわめて多くの仕方で動かし、かつこれにきわめて多くの仕方で影響することができる。)により、きわめて多くの仕方で外部の物体から刺激されるし、亦、きわめて多くの仕方で外部の物体を刺激するような状態にされる。ところが人間身体の中に起こるすべてのことを人間精神は知覚しなければならぬ(この部の定理一二 人間精神を構成する観念の対象の中に起こるすべてのことは、人間精神によって知覚されなければならぬ。あるいはその物について精神の中に必然的に観念があるであろう。言いかえれば、もし人間精神を構成する観念の対象が身体であるならその身体の中には精神によって知覚されないような、或いは、それについてある観念が精神の中にないような、いかなることも起こりえないであろう。)により。ゆえに人間精神はきわめて多くのものを知覚するのに適し、そしてこの適性は人間身体の適性がより大なるに従ってそれだけ大である。Q・E・D・=此れが証明スべきことであった。 以上を言い換えれば、スピノザは、大なる人間精神には健全なる身体、此れは単に五体満足を意味するのではありません。人間身体の適性がより大なる身体あればこそ大なる人間精神が宿ると「実践哲学」を主張のです。哲学・思想ランキング
2021年11月10日
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神の存否-224 スピノザは此処、要請(postulate)で以って、「物体の運動および静止」を人間身体に当て嵌めています。要請は公準と訳されることもある語です。ある事柄を成立させるためには必要であるとして、証明なしにたてられる事柄または命題。カントは、最高善の実現のためには必要であるとして、理論的には証明されない三つの事柄、自由の存在、霊魂の不滅、神の存在を要請し、これを「実践理性の要請」と名づけたのですが、これをスピノザはまさに「実践倫理」を目的とするのに此の「要請」を必須なものとします。 要請 一 人間身体は、本性を異にするきわめて多くの個体から成る。そのおのおのがまたきわめて複雑な組織の複層構造から組織されている。 二 人間身体を組織する個体のうち、あるものは流動的であり、あるものは軟かく、最後にあるものは硬い。 三 人間身体を組織する個体、したがってまた人間身体自身は、外部の物体からきわめて多様の仕方で刺激される。 四 人間身体は自らを維持するためにきわめて多くの他の物体を要し、これらの物体からいわば絶えず更生される。 五 人間身体の流動的な部分が他の軟かい部分にしばしば突き当るように外部の物体から決定されるならば、その流動的な部分は軟かい部分の表面を変化させ、そして突き当たる運動の源である外部の物体の痕跡のごときものをその軟かい部分に刻印する。 六 人間身体は外部の物体をきわめて多くの仕方で動かし、かつこれにきわめて多くの仕方で影響することができる。 スピノザは第二部の「精神の本性および起源について」如何に「物体の運動および静止」が、人間身体を組織する個体に影響を及ぼすのかを運動力学から納得させようとしたものと思われます。哲学・思想ランキング
2021年11月09日
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神の存否-223 スピノザの哲学は全体論、汎神論的世界観と捉えます。人間の本性は神や神聖な宇宙の一部と考えるのは仏教やヒンドゥー教のようなインド宗教哲学に共通します。スピノザは述べます。全自然が一つの個体であってその部分すなわちすべての物体が全体としての個体には何の変化もきたすことなしに無限に多くの仕方で変化することを容易に理解するであろうとしています。此れは彼が初めて無限宇宙を主張したコペルニクスの説を支持したブルーノGiordano Bruno(1548―1600)及びニュートンが考えた「無限宇宙論」を受け入れていたことの証でしょう。更には、定常宇宙論、無からの物質の創生により、任意の空間の質量は常に一定に保たれ、宇宙の基本的な構造は時間によって変化することはないとする1948年にフレッド・ホイル、トーマス・ゴールド、ヘルマン・ボンディらによって提唱された宇宙論のモデルを予期していたかも知れません。 補助定理四 もし多くの物体から組織されている物体あるいは個体から、いくつかの物体が分離して、同時に、同一本性を有する同数量の他の物体がそれに代るならば、その個体は何ら形相を変ずることなく以前のままの本性を保持するであろう。 証明 なぜなら、物体は(補助定理一 物体は運動および静止、迅速および遅緩に関して相互に区別され、実体に関しては区別されない。)により、実体に関しては区別されない。一方、個体の形相を構成するものは単に構成物体の合一に存する。ところがこの合一は仮定により、構成物体の絶えざる変化にもかかわらず保持されることになっている。ゆえにこの個体は実体ならびに様態に関して以前のままの本性を保持するであろう。Q・E・D・=此れが証明スべきことであった。 補助定理五 もし個体を組織する各部分が、すべてその相互間の運動および静止の割合を以前のままに保つような関係において、より大きくあるいはより小さくなるならば、その個体もまた何ら形相を変ずることなく以前のままの本性を保持するであろう。 証明 この補助定理の証明は前の補助定理のそれと同一である。 補助定理六 もし個体を組織するいくつかの物体がある方向に対して有する運動を他の方向に転ずるように強いられ、しかもその運動を継続しかつその運動を以前と同じ割合において相互間に伝えることができるようにされるならば、その個体はやはり何ら形相を変ずることなくその本性を保持するであろう。 証明 それ自体で明らかである。なぜなら、仮定によれば、この個体は我々が先に個体の定義の中で個体の形相を構成すると言ったすべてのものを保持しているからである。 補助定理七 そのほか、このように複合した個体は、全体として運動ないし静止していようとも、あるいはこのないしかの方向に運動していようとも、もしただその各部分が自己の運動を保持してそれを以前と同じように他の部分に伝えてさえいれば、その本性を保持する。 証明 これもまた、その定義から明白である。補助定理四の前にある定義を見よ。 備考 このようにして我々は、これから、複合した個体が多様の仕方で動かされかつそれにもかかわらずその本性を保ちうることの理由を解しうる。 これまで我々は単に運動および静止、迅速および遅緩によって相互に区別される諸物体からのみ組織されている個体、言いかえれば最も単純な諸物体からのみ組織されている個体を考えた。しかし今もし本性を異にする多くの個体から組織されている他の個体を考えるなら、その個体は他のいっそう多くの仕方で動かされかつそれにもかかわらずその本性を保ちうることを我々は見いだすであろう。なぜなら、その個体の各部分が種々の物体から組織されているのだから、その各部分は個体の本性を少しも変えることなしに、ある時は緩やかにある時は速やかに運動し、したがってまたその運動を他の部分へ速やかにあるいは緩やかに伝えることができるだろうからである。 もしさらに我々がこうした第二の種類の個体から組織された第三の種類の個体を考えるなら、我々はそうした個体がその形相を少しも変えることなしに他の多くの仕方で動かされうることを見いだすであろう。そしてもし我々がこのようにして無限に先へ進むなら、我々は、全自然が一つの個体であってその部分すなわちすべての物体が全体としての個体には何の変化もきたすことなしに無限に多くの仕方で変化することを容易に理解するであろう。 もし私の意図が、物質について、あるいは、物体について専門に且つ特別に論ずることにあったとしたら、私はこれらのことをもっと詳しく説明し証明しなければならなかったであろう。しかし、すでに述べたように、私の意図するところは別のものであり、私がこうした事柄をここに問題としたのは、私が本来証明しようと企てたことをそれから容易に引き出しうるためにほかならなかったのである。哲学・思想ランキング
2021年11月08日
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神の存否-222 スピノザは第二部の「精神の本性および起源について」の定理一三の系の備考にてこれによって我々は、人間精神が身体と合一していることを知るのみならず、精神と身体の合一をいかに解すべきかをを知ると共に実践をも問うているのでしょうか。此の後に公理を配材するのは、何が彼に衝動を突き起こしたのかは難解ですが此の項の公理から読み解すことが可能となるかも知れないと敢えて置いたのでしょう。定理一三の系の備考だけで哲学小論文が出来上がります。 公理一 ある物体が他の物体から動かされる一切の様式は、動かされる物体の本性からと同時に動かす物体の本性から生ずる。したがって、同一の物体が、動かす物体の本性の異なるにつれてさまざまな様式で動かされ、また反対に、異なった物体が、同一の物体からさまざまな様式で動かされることになる。 公理二 運動している物体が静止している他の物体に衝突してこれを動かすことができない場合には、それは酔ね返って自己の運動を継続する。そして弾ね返る運動の線がその衝突した静止物体の面となす角度は、打ち当る運動の線が同じ面となす角度に等しいであろう。 以上は最も単純な物体について、すなわち単に運動および静止、迅速および遅緩によって相互に区別される物体についてである。これから我々は複合した物体に移ろう。 定義 同じあるいは異なった大いさのいくつかの物体が、他の諸物体から圧力を受けて、相互に接合するようにされている時、あるいは(これはそれらいくつかの物体が同じあるいは異なった速度で運動する場合である)自己の運動をある一定の割合で相互に伝達するようにされている時、我々はそれらの物体がたがいに合一していると言い、またすべてが一緒になって一物体あるいは一個体を組織していると言う。そしてこの物体あるいは個体は、構成諸物体のこうした合一によって他の諸物体と区別される。 公理三 個体の、あるいは複合した物体の、各部分がより大なるあるいはより小なる表面をもって相互に接合するにつれて、それらの部分は自己の位置を変えるように強制されることがそれだけ困難にあるいはそれだけ容易になる。したがってまたその個体自身も他の形状をとるようにされることがそれだけ困難にあるいはそれだけ容易になる。そこで私は、その部分が大なる表面をもって相互に接合する物体を硬、その部分が小なる表面をもって接合する物体を軟、最後にまたその部分が相互に運動する物体を流動的と呼ぶであろう。 さすがに、物理科学思考が専門ではなく認識科学は受け入れても理論物理学の思索には躊躇が見られるスピノザですが、此処では自己の物理学思考を吐露しています。哲学・思想ランキング
2021年11月07日
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神の存否-221 「縁起」とは、すべての存在は無数・無量の因縁によって在り得ているという、仏教の基本思想を表す重要な用語ですが、「因果律」結果と原因の関係および何事にも原因があるとする原理の二つも相互に関わり合う意味合いを持ちます。更には、ピエール=シモン・ラプラス(Pierre-Simon Laplace /1749 – 1827)が説くところの「ラプラスの悪魔」、ある瞬間における全ての物質の力学的状態と力を知ることができ、かつそれらのデータを解析できるだけの能力の知性、即ち、因果的に決定された未来を完全に見通すことができる者の存在を仮定した空論上の概念的存在であるとの思想もあります。神を持ち出さずに極力にして人間の物理科学で理論解明につとめる量子理論は量子力学においては、観測者が完全な情報を得ていたとしても、系の波動関数はシュレーディンガー方程式に従って時間発展し、波動関数そのものは決定論的に振る舞うが、観測される物理現象は確率的に振る舞う。従って、量子論的な世界における因果律は、従来考えられていた古典論に則した因果律とは違ってくるところの立場です。 スピノザは第二部の「精神の本性および起源について」の定理一三 人間精神を構成する観念の対象は身体である、あるいは現実に存在するある延長の様態であるの系にて因果律を人間の精神面を故意とも云える観想を以って定理一三の系として著します。 系 この帰結として、運動している物体は他の物体から静止するように決定されるまでは運動し、また同様に、静止している物体は他の物体から運動に決定されるまでは静止しているということになる。 備考 これによって我々は、人間精神が身体と合一していることを知るのみならず、精神と身体の合一をいかに解すべきかをも知る。しかし何びともあらかじめ我々の身体の本性を妥当に認識するのでなくてはこの合一を妥当にあるいは判然と理解することができないであろう。なぜなら、我々がこれまで示したことどもはごく一般的な事柄であって、人間にあてはまると同様その他の個体にもあてはまる。そしてすべての個体は程度の差こそあれ精神を有しているのである。なぜならあらゆる物について必然的に神の中に観念があって、その観念は、人間身体の観念と同様に神を原因とするのであり、したがって我々が人間身体の観念について述べたことはあらゆる物の観念についても必然的に言われうるからである。しかし私は同時に次のことも否定しえない。すなわちもろもろの観念はその対象自身と同様に相互に異なっているということ、そしてある観念の対象が他の観念の対象よりもより優秀でより多くの実在性を含むにつれてその観念も他の観念よりもより優秀でより多くの実在性を含むということである。このゆえにいかなる点で人間精神が他の精神と異なるか、またいかなる点で人間精神が他の精神より優秀であるかを決定するためには、すでに述べたように、その対象の本性を、言いかえれば人間身体の本性を認識することが必要である。しかしこうしたことをここで十分詳しく説くことはできないし、またそれは我々が証明しようと欲する事柄にとって必要でもない。私はただ一般論として次のことを言っておく。すなわちある身体が同時に多くの働きをなし・あるいは多くの働きを受けることに対して他の身体よりもより有能であるに従って、その精神もまた多くのものを同時に知覚することに対して他の精神よりそれだけ有能である。またある身体の活動がその身体のみに依存することがより多く・他の物体に共同して働いてもらうことがより少ないのに従って、その精神もまた判然たる認識に対してそれだけ有能である。そしてこのことから我々は、二つの精神が他の精神に対して有する優秀性を認識しうるし、さらにまたなぜ我々が我々の身体についてきわめて混乱した認識しかもたないかの理由ならびに私が以下においてそれから導こうとする他の多くのことどもを知りうる。このゆえに私はこれらのことをある程度詳しく説明し証明することを徒労ではないと考えた。しかしそれには諸物体の本性についていくつかの注意を前提とすることが必要であるとして注意を前提とすることが必要である締め括ります。哲学・思想ランキング
2021年11月06日
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神の存否-220 定理一三 人間精神を構成する観念の対象は身体である、あるいは現実に存在するある延長の様態であるの、系から備考を経て唐突な面が歪めない「物体の運動および静止」を俎上にあげます。此れは憶測するに身体論の射程を明らかにすることを目的とし、スピノザが単に運動と静止のみによって区別される物体についてのみ語っているのではなく、デカルトの「哲学の原理」において延長様態の例とし「あらゆる形状(figurae omnes)、諸部分の位置(situs partium)、それらの運動(ipsarum motus)」を挙げていることから見てスピノザが「実体」および「様態」という概念に関するデカルトのこのような用語法を熟知していたことに疑いは無い。にもかかわらずスピノザは,敢えて「物体=延長様態」という等式を設定しているのです。此れには二つの解釈が可能でしょう。一方は,「延長様態の基体化」、即ち、スピノザは本来的に物理的状態を意味する「延長様態」という概念を、物理的基体を意味するために用いているという解釈です。他方は「物体の状態化」、即ち、スピノザは本来は物理的基体を意味する「物体」という概念を物理的状態を意味するために用いているという解釈です。 私は、以下において「物体の状態化」解釈を正当化する。 証明 物体は、運動および静止に関して相互に区別される(補助定理一 物体は運動および静止、迅速および遅緩に関して相互に区別され、実体に関しては区別されない。)により個物である(この部の定義一 物体とは、神が延長した物と見られる限りにおいて神の本質をある一定の仕方で表現することと解する。)により、したがって(第一部定理二八 あらゆる個物、すなわち有限で定まった存在を有するおのおのの物は、同様に有限で定まった存在を有する他の原因から存在または作用に決定されるのでなくては存在することも作用に決定されることもできない。そしてこの原因たるものもまた、同様に有限で定まった存在を有する他の原因から存在または作用に決定されるのでなくては存在することも作用に決定されることもできない。このようにして無限に進む。)により、各々(おのおの)の物体は必然的に他の個物から、すなわち同様に運動もしくは静止している他の物体から運動あるいは静止に決定されなければならなかった。ところがこの後者もまた他の物体から運動あるいは静止に決定されなかったならば運動あるいは静止することができなかった。そしてこのものも亦更に、同じ理由により他の物体から決定され、このようにして無限に進む。Q・E・D・此れが証明スべきことであった。 以上を亜細亜哲学の西洋社会思想の双璧とも呼べる大乗哲学説くところの空観から読み解けば、龍樹の「中論」の西洋的解釈ともとれます。認識哲学のスピノザと一切の実在論を否定し、すべてのものは真実には存在せず、単に言葉によって設定されたのみのものであると説う見地から紐解けば、勘ぐれば重なる意味合いが見て取れます。哲学・思想ランキング
2021年11月05日
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神の存否-219 スピノザは第二部の「精神の本性および起源について」の定理一三 人間精神を構成する観念の対象は身体である、あるいは現実に存在するある延長の様態であるの、系 人間は精神と身体とから成りそして人間身体は我々がそれを感ずるとして、備考 これによって我々は、人間精神が身体と合一していることを知るのみならず、精神と身体の合一をいかに解すべきかを述べた上に、「エチカ」の流れに唐突とも言える「物体の運動および静止」を問いかけます。 公理一 すべての物体は運動しているか静止しているかである。 公理二 おのおのの物体はある時は緩(ゆる)やかに、ある時は速(すみ)やかに運動する。 補助定理一 物体は運動および静止、迅速および遅緩に関して相互に区別され、実体に関しては区別されない。 証明 この補助定理の始めの部分はそれ自体で明白であると考える。次に物体が実体に関しては区別されないということは、第一部の定理五 自然のうちには同一本性あるいは同一属性を有する二つあるいは多数の実体は存在しえない。ならびに、定理八 すべての実体は必然的に無限である。から明らかである。しかし第一部の定理一五の備考の中 神のほかにはいかなる実体も存しえずまた考えられえないことを示し、このことから延長的実体が神の無限に多くの属性の一であることを結論した。で述べたことから、なおいっそう明瞭である。 補助定理二 すべての物体はいくつかの点において一致する。 証明 なぜなら、すべての物体は同一属性の概念を含むという点で一致する(この部の定義一 自己原因とは、その本質が存在を含むもの、あるいはその本性が存在するとしか考えられえないものと解する。)により。次にそれらは、ある時は緩やかに、ある時は速やかに運動しうるという点で、一般的に言えばある時は運動しある時は静止し得るという点で一致する。 補助定理三 運動あるいは静止している物体は、他の物体から運動あるいは静止するように決定されなければならなかった、この後者も同様に他の物体から運動あるいは静止するように決定されている、そしてこれもまたさらに他の物体から決定され、このようにして無限に進む。 更には証明・系、更なる公理・補助定理とその要請までをも記述しています。此れには読むほうが呆気にとられた感ぜざるを得ません。其の内容はと云えば一冊の小論文が書けそうな程です。哲学・思想ランキング
2021年11月04日
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「怪異」奇跡の遺伝子組み換え 中国は武漢にはじまり2020年から猛威を振るい、数多の変異株により多くの死者を出した新型コロナウイルス感染症(COVID‑19)、その後も変異はとどまらず2021年末になっても衰えを見せません。ところが、年も開けた2022年、日本において90歳以上のコロナ陽性罹患者に異常が起きて世界を震撼させます。その症状というのが極めて特異なものであったからです。92歳の男性がコロナ陽性発覚後若かりし頃のマラソンを再起動、99歳の過去に競泳選手だったコロナ陽性女性に至っては世界記録更新を連発する有り様です。例によって知識人と呼ばれる医療関係者はワクチン効果を謳い上げましたが、99歳の過去に競泳選手だったコロナ陽性女性はワクチンを一度も打っていませんでした。世の中騒然、ああもこうもと叫んでいます。唯一人、今までは日陰で地道に腫瘍型遺伝子の基礎研究を行っていた学者が、がん遺伝子をDNAから取り除くことを研究していたのですが、其れは遺伝暗号の中にしっかりと組み込まれていて、其の詳細を見れば実のところは人間身体に役立った部分があることを発見します。腐ってはいても人間が渡る程度には役立つ吊橋の足板みたいなものですが。更には、五代・六代にも亘ってがん患者を出さない家系を見ると、腫瘍形成遺伝子と同時に、その発現を押さえるプラスミドが付加されていることが解かり、ある発想からCOVID‑19を99歳の過去に競泳選手だったコロナ陽性女性から頼み受けて其の女性のコロナウィルスを培養、遺伝子レベルの活動を観測、目を疑います。何とコロナウィルスがヌクレオチド (nucleotide) に干渉し、かっては、人間には遺伝子として細胞レベルで再生サイクルの回数を制限する組み込まれていたものを、まさに、ちょん切って自己を守るために、その寄生体をDNAを分離化し自らを組み込ませたのです。つまりは、人間に不死遺伝子を組み込ませることに成功したのです。おまけとして、若返り遺伝子までもをプレゼントしました。ところがここに大きな問題が持ち上がります。遺伝子の死のスイッチを切っても、脳細胞は産まれたときの細胞が分裂増殖しないまま、一個また一個と減少していきます。八百歳ともなれば皆が脳みそ無しでフラフラ歩き廻るゾンビってことになります。オカルト・ホラー小説 ブログランキングへ
2021年11月03日
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神の存否-218 スピノザは第二部の定理一三 人間精神を構成する観念の対象は身体である、あるいは現実に存在するある延長の様態であるの、系以下では、心身一元論と心身二元論をさらに進捗させるために「心身合一論」を詳細に述べます。 系 この帰結として、人間は精神と身体とから成り、そして人間身体は我々がそれを感ずるとおりに存在するということになる。 備考 これによって我々は、人間精神が身体と合一していることを知るのみならず、精神と身体の合一をいかに解すべきかをも知る。しかし何びとも予め(あらかじめ)我々の身体の本性を妥当に認識するのでなくてはこの合一を妥当にあるいは判然と理解することができないであろう。なぜなら、我々がこれまで示したことどもはごく一般的な事柄であって、人間に当て嵌まる(あてはまる)と同様その他の個体にも当て嵌まる。そしてすべての個体は程度の差こそあれ精神を有しているのである。なぜならあらゆる物について必然的に神の中に観念があって、その観念は、人間身体の観念と同様に神を原因とするのであり、したがって我々が人間身体の観念について述べたことはあらゆる物の観念についても必然的に言われ得るからである。しかし私は同時に次のことも否定しえない。即ち諸々の観念は其の対象自身と同様に相互に異なっているということ、そしてある観念の対象が他の観念の対象よりもより優秀でより多くの実在性を含むにつれてその観念も他の観念よりもより優秀でより多くの実在性を含むということである。このこと故にいかなる点で人間精神が他の精神と異なるか、またいかなる点で人間精神が他の精神より優秀であるかを決定するためには、すでに述べたように、その対象の本性を、言いかえれば人間身体の本性を認識することが必要である。しかしこうしたことをここで十分詳しく説くことはできないし、またそれは我々が証明しようと欲する事柄にとって必要でもない。私はただ一般論として次のことを言っておく。即ちある身体が同時に多くの働きをなし、或いは、多くの働きを受けることに対して他の身体よりもより有能であるに従って、その精神もまた多くのものを同時に知覚することに対して他の精神よりそれだけ有能である。亦、ある身体の活動がその身体のみに依存することがより多く、他の物体に共同して働いてもらうことがより少ないのに従って、その精神もまた判然たる認識に対してそれだけ有能である。そしてこのことから我々は、二つの精神が他の精神に対して有する優秀性を認識し得るし、更に亦、なぜ我々が我々の身体についてきわめて混乱した認識しかもたないかの理由ならびに私が以下においてそれから導こうとする他の多くのことどもを知りうる。このゆえに私はこれらのことをある程度詳しく説明し証明することを徒労ではないと考えた。しかしそれには諸物体の本性についていくつかの注意を前提とすることが必要である。哲学・思想ランキング
2021年11月02日
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神の存否-217 精神と身体に関しては、心身一元論と心身二元論が顕著な思想の代表例です。キリスト教スコラ学の論拠とされたアリストテレスに代表される「心身一元論」によれば、身体の中に心が存在するから動いている。見えない物質であっても身体の中に存在する。一方、プラトンの「霊―肉二元論」にその起源を求めることも可能である心身二元論では、物質と精神はまったく違うものと考える。心とは目に見えない部分である。身体の中にあるとしても、腕なら腕、影なら影と目に見える形であらわすことができるものではない。其れ故に、心とは身体の一部分には存在しないと捉えます。デカルトの心身二元論は、精神に固有の機能として「自由意志」を認め、それを中心にして「心身合一」という人間の現実的なあり方を理解しようとする実践的な帰結をも伴っています。此れを受けて「心身合一」という事態が人間にとって根源的なものであるとしたのがスピノザの云う「心身合一」論です。 定理一三 人間精神を構成する観念の対象は身体である、あるいは現実に存在するある延長の様態である、そしてそれ以外の何ものでもない。 証明 なぜなら、もし身体が人間精神の対象でないとしたら身体の変状である刺激状態の観念は(この第二部の定理九の系 おのおのの観念の個々の対象の中に起こるすべてのことは、神がまさにその対象の観念をもつ限りにおいてのみ、神のうちにその認識がある。)により、神が我々の精神を構成する限りにおいて神のうちになく、神が他の物の精神を構成する限りにおいて神のうちにあるであろう。言いかえれば、身体の変状の観念は我々の精神の中にはないであろう。ところが、我々は身体の変状の観念を有する。ゆえに人間精神を構成する観念の対象は身体であり、しかも現実に存在する身体である。次にもし身体のほかにも精神の対象が他にあるとすれば、およそ何らかの結果の生じないようなものは一つとして存在しないのであるから、その対象から生ずる何らかの結果についての観念が必然的に我々の精神の中に存しなければならぬ。ところが(この第二部の公理五 観念の形相的有は、神が思惟する物と見られる限りにおいてのみ神を原因と認め、神が他の属性によって説明される限りにおいてはそうでない。言いかえれば、神の属性の観念ならびに個物の観念は観念された物自身あるいは知覚された物自身を起成原因と認めずに、神が思惟する物である限りにおいて神自身を起成原因と認める)により、何らそうした観念が存しない。ゆえに我々の精神の対象は存在する身体であって他の何ものでもない。Q・E・D・=此れが証明すべきことであった。 身体(肉体)は、通常一般では生命体と呼ばれるものの中でも比較的高度なものに適用されます。其れ故に、一部の信仰を除き、自己増殖機能を持たないウィルスに始まり植物や脳細胞を保有しないものには身体(肉体)概念を適用しません。更には、精神に至っては現在でも生物学的に人類に限る思想もあれば、異をとなえる思想も多くあるのが現状です。哲学・思想ランキング
2021年11月01日
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