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このブログは私の人生の軌跡を綴る為に始めました。まだいない私の子供へのメッセージになればという願いを込めて・・・・~This Brog is a message from my baby. ~そして私の夢。株式上場を果たしたときの思い出の為に・・・・・~Memories when my dream listing of stock is accomplished.~まずは私の歴史を振り返ることからBLOGを始めます。
2006/07/30
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まずは簡単に自己紹介。私の名前は船橋憲敏(フナハシノリトシ)。昭和49年2月23日生まれの寅年魚座です。これまで生きてきて同姓同名に出逢ったことはまだ一度もありません。とても難しい漢字ばかりだった為、テストの時には自分の名前を漢字で書くことに一番時間を費やしました。何でも一番が好きだった私はもちろんテストも一番最初に提出することを生きがいにしていました。しかしこのときばかりはこの名前を恨みました。もっと簡単な漢字だったら・・・・「憲敏」という名前。名前の由来は聞いたことがありません。この名前は、おじいちゃんが付けてくれたそうです。小さいころに亡くなってしまったおじいちゃんの記憶は私の中にはありません。ただ私の誕生を誰よりも喜んだのはおじいちゃんだったそうです。おじいちゃんは亡くなる前に私の父にこう言ったと聞きました。「憲敏を頼むぞ。この子は周りのみんなを幸せにして生きていく。だから大事に育ててあげてくれ。」両親は今でも私にこう言います。「お前を守ってくれてるのはおじいちゃんなんだぞ。」私はこれまで30年、振り返れば何不自由なく好きな道を進んで生きて来れた気がする。辛かった事、苦しかった事もあったと思う。ただそれらの事全てを忘れポジティブに思い生きてこれた。全て自分の選んだ道ではあるが、そっと私の背中を押してくれているのはおじいちゃんなのかもしれない。おじいちゃんこれまで本当にありがとう。そしてこれからもよろしくね。私はこれからも与えられた使命を全うして生きて行きます。
2006/07/30
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こんな私の血液型は・・・私が正式に血液型を知ったのは専門学校の献血の時でした。献血は自由参加ではあったもののこれは血液型を決定付けるチャンスだと思い参加しました。それまでは両親共に同じ血液型でしたし、私の性格ならこの血液型で間違いないだろうと勝手に思い込んでいました。誰に聞いてもだいたい見た目ですぐに当てられていたこともあり、ある程度の確信は持っていました。本当おおざっぱで興味のない話はまったく聞いてないくせにあいづちだけは一人前(笑)片付けをする時には机にあるほとんどの物を捨てることで綺麗にする。面倒臭いことが大嫌い。思ったことをすぐに口にはせず先を見据えて話を進める。新しい物事にはすぐに興味を持ちある程度極めるとすぐに飽きてしまう。どんな環境でもとりあえず楽しむことができる。こんな事を言えば綺麗ごとになるかも知れないが人の喜ぶ顔を見ることに幸せを感じる。いわゆる平和主義者。私はそんな予想通り典型的なO型人間でした。私はO型が大好きです。O型に生まれて本当に良かったと今でも思っています。学生時代編に続く >>
2006/07/30
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6歳になった私は大芝小学校に通うことになりました。小学4年生までの通知表は体育以外の教科全てが「普通」という人間でした。しかし小学校5年生になった時、担任の先生が私の潜在能力を開花させてくれました。その先生の名前は新谷先生。新谷先生は、私の知能指数を見て「こんなに知能指数の高い子には久しぶりに出逢ったわ」そう私の両親に言ったそうです。私は新谷先生にどんな魔法を掛けてもらったのかは覚えていませんがそれから先の通知表がほとんどが『良い』に変わっていたことを覚えています。新谷先生から貰ったプレゼント。それは「勉強の喜び」でした。私は今でも勉強することを「苦」と思うことがありません。むしろ「楽しい」と思うことの方が多いかもしれません。新谷先生のかけた魔法。それはいつまでも解けることのない永遠の魔法でした。
2006/07/29
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大芝小学校を卒業した私は地元の中広中学校へと進みました。中学校に入り私の周りにいる人間は「ヤンキー」と言われる人間ばかりでした。授業をさぼり、たむろするのが大好き。好きなアーティストはBOOWY。愛用したタバコはセブンスター。バイクを乗り回し悪い格好をすることがカッコイイと思っていた。今でも親に感謝していること。それは私がどんな格好をしていようともいつも笑顔で接してくれた事。私をどんな場所にも恥ずかしがらず連れて行ってくれた事。私はそんな温かい家庭で育った一人っ子です。無事中学校を卒業した私は観音高校に入学することになりした。高校1年生の担任は生活指導の藤川先生でした。私は入学式に金髪のアフロという格好で出席しました。藤川先生はそんな私に驚きもせず普通に接してくれました。私はF先生がいたからこそ無事高校を卒業することが出来たと思っています。当時やんちゃだった私は、高校にあまり真面目に通っていませんでした。一緒に通学していた友人とは毎日といっていいほど朝は喫茶店でモーニングを食べるかパチンコ屋でモーニングを取ってから登校していたのを覚えています。そんな私を校則から守ってくれたのは藤川先生でした。藤川先生はいつも私に言ってました。「お前は出来る人間じゃけえ、わしゃ何も言わん。ここの学校じゃあお前みたいに馬鹿な格好を真似する奴もおらんじゃろ~し。そのかわり人に迷惑を掛けることをしたらしばき倒すけえの。ただこれだけは約束せえ。親にお金を出してもらって学校に来とんじゃけえ必ず卒業はせえよ。」と・・・・。藤川先生はいつも親の事を気にしてくれていました。タバコを吸う時も一人なら何も言わない。でも周りの人間を巻き添いにすれば叱ることなく殴られた。でもなぜ殴られたかは会話はなくともきちんと理解出来た。そんな藤川先生は3回だけ私に髪を黒くするように言ったことがあります。1回目は2年生の始業式。2回目は3年生の始業式。3回目は修学旅行。後にも先にもこの3回だけでした。藤川先生との約束があったからこそ卒業できたのかもしれません。藤川先生本当にありがとう。ミュージシャン編に続く>>
2006/07/29
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私は中学3年生の時にBOOWYのギタリスト「布袋寅泰」への憧れからギターを始めました。布袋寅泰のギターにはメロディーがありました。ギターは私が夢中になった初めての趣味だったかも知れません。ある意味私は布袋寅泰から趣味を貰った幸せな人間ってことになります。そんな私が高校時代に夢中になった事。それは「バンド活動」でした。一人っ子に生まれ育ち中学時代には帰宅部専門だった私にとって「バンド」は始めての共同作業の場所でした。それぞれの楽器が各々の演奏を奏でる。それらがひとつに重なり音楽に変わる。音楽は私にとってとても心地の良い空間でした。私達のバンドはいわゆる「ビジュアルバンド」でした。男なのに化粧をしてステージにあがる。当時ビジュアルバンドの走りと言えば今はなき「X」(エックス)ではなかったでしょうか。私達は「FEED BACK」(フィードバック)というバンド名で活動していました。バンド名の意味は特にありませんでした。ただ単にゴロが良かっただけ・・・(笑)始まりはBOOWYのコピーバンドからでした。大好きなBOOWYの音楽を自分達で演奏し、それを聴いてくれる人々がいる。「共有空間」これこそバンドの醍醐味ではないでしょうか。
2006/07/28
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向上心の強かった私達の腕は日々上達していき、遂には自主制作ではありますがレコーディングまで行える程になりました。自信だけは人一倍強くメンバーにも恵まれたことから高校2年の時には本気でプロデビューも目指していました。高校時代には様々な大会にも進んで出場しました。大会前日にはメンバー全員で私の家に集まり、自転車に乗って近くのお地蔵さんに手を合わせに行った事を今でも覚えています。毎週3回スタジオを借りて練習にも励みました。その成果も実り、私達は中国大会や全国大会にも出場することが出来ました。ほとんどの高校生の大会では1曲しか演奏することが許されません。たった5分という短い時間でバンドの集大成をアピールしなければなりません。評価は演奏だけではありません。ステージングも重要な評価となります。ビジュアルバンドの私達はステージングにもかなり力を入れてました。5分間突っ立って演奏すれば完璧な演奏をする自信がある。しかし5分間動き回って演奏すれば当然演奏レベルは下がる。それでも私達は「魅せるバンド」を貫き通しました。高校生らしくない。当然そんな批判の声も沢山ありましたが、「だから見てて楽しい」そう言ってくれるファンも沢山出来ました。「5分間に全てを魅せて燃え尽きます」これがコンテストで演奏前に紹介される私達のバンドの決まり文句。「集中力」これはバンド活動を通して得ることが出来た私の宝物です。
2006/07/28
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高校2年の冬には月に1度は地元のライブハウス(並木ジャンクション)でワンマンライブを開催していました。ライブは私達にとって「麻薬」と同じような物。バンドを辞めた今ではもうあの気持ちを味わうことはないでしょう。暗闇の中からスポットライトが当たる瞬間の緊張感。小さな箱の中で一瞬だけヒーローになれる心地良い時間。私達の作った歌をステージの前で踊りながら口ずさんでくれてるFANがいる。サクラと分かっていながらも、なぜか期待してしまう「アンコール」の声。自分達が一から築いた物を認められる事ってこんなにも幸せなことなんだと感じた瞬間だった。FANの方達と歩んだバンド活動を通して本当に充実した時間を貰った。絶対プロになる。メンバー皆でいつも語り合ってた夢だった。しかし高校3年の夏、当時リーダーだった私は突然バンドを解散することを決意した。一緒に組んでいたメンバーの中には卒業後東京に上京し実際にプロにもなった奴もいます。松ヶ下宏之http://www.bgbcom.com/matsu/彼の類まれない才能には驚かされっぱなしだったように思います。何をさせても超一流。コンテストでは賞を総取りするのではと思わせる位の実力者でした。私は今でも彼は将来名を残す作曲家の一人になると信じています。では私はなぜプロの道へと勝負しなかったのか?それは自分の実力は自分が一番知っているからです。世の中を勢いで貫いていくのも、これ位が限界。これも理由もひとつではありましたが、本音は違いました。全く違った新しい魅力に出逢ってしまったのです。それは「仕事」というとても魅力のある物でした。コンビニ編に続く >>
2006/07/28
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私は高校3年生の時、人生の育ての親とも言えるT師に出逢いました。T師は私に「経営」という勉強を教えてくれました。「経営」これは今まで味わったことのない位、奥深いものでした。まず私に与えてくれた勉強の場所はコンビニエンスストア「ポプラ」でした。ポプラは私の実家の近く西区のK町にありました。高校に通いながら店舗を運営管理していくことは楽しさ半分辛さ半分でした。毎日の商品発注業務は深夜にまで及びました。コンビニエンスストアとは、24時間いつでも開いてて欲しい物が簡単に買える場所。みんなが当たり前に利用しているコンビニ。この当たり前を実践することはとても大変なことなのです。年中無休の苦しさと在庫管理の大切さは身を持って覚えることが出来ました。24時間年中無休のコンビニエンスストア。高校生にして盆正月どころか遊ぶ時間さえありませんでした。その当時私が一番欲しかった物・・・・それは「時間」でした。ポプラを通じて私は時間の大切さを知りました。性格や容姿などは人によって与えられる物がそれぞれ違う。もちろん環境にしてもそうだ。お金持ちの家もあれば貧乏な家もある。しかし時間はどうだろう。1日は24時間。それ以上でもそれ以下でもない。「時間」は皆に平等に与えられたお金では買えない大切な物なのです。
2006/07/27
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ポプラを始めて2年間売上げは順調に伸び続けました。その当時1日の売上げが平均で50万円。月の売上げは1500万円位ありました。そこでT氏はもう一件新たにポプラを出店することを決断しました。出店場所はN区のS女子高の近くでした。営業時間は7時~深夜1時まで。今回のポプラは地域性も考慮し24時間営業にはしませんでした。午前7時からの営業開始。夜中の作業を早く済ませ少し寝ることもしばしば・・・・その為寝過ごして開店を遅刻することもありました。営業時間に開いていないコンビニ・・・こんなお店を人々はなんて思うでしょうか?頭の中では1件目にかなりウエイトが掛かっていることも分かってましたし、こんな考えで2つの店舗をうまく運営できるはずはありません。当然売上げも思うように上げることは出来ませんでした。T氏は開店から1年で2件目のポプラを本部に売却する事を決意しました。「えっまだ借金もあるし損するのに店を売るの??」当時18歳だった私には理解の出来ない出来事でしたが「これで少しは寝れる。」正直な気持ちはこれでした。その後残ったK町ポプラはこれまで通り順調に経営していくことが出来ました。T氏の決断の早さ。これが今の地位を一代で築いたT氏の目利きなのかもしれません。事業を立ち上げていく人にはこれまで色々出逢いましたが、事業を撤退することを瞬時に判断出来る人。こんな人にはまだT氏の他には出会った事がありません。事業を辞める事の難しさ。世の中が不景気になり倒産する企業が増える中、事業の見切りは何を基準に付ければ良いのでしょうか?「いつか良くなる。」「いつか取り戻せる時が来る。」これはパチンコに例えれば分かり易いのではないでしょうか?T師は私に世の中には「3つの坂」があると教えてくれてました。1つ目は「上り坂」2つ目は「下り坂」3つ目は「まさか」このまさかを常に想定して事業を進めていかなければならない。そうすれば失敗するリスクは最小限に抑えることが出来る。人間が数字を通して想定できない坂「まさか」があるから人生は楽しいのだと。当時18歳の私にはとても難し過ぎる話だった。
2006/07/27
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私はポプラをする以前、実はコンビニで気になっていたことがありました。「なぜ本を綺麗に整理しないんだろう?単行本が1巻から順番に並んでないなんてありえない。」こんなことを思っていました。通常コンビニでは動線の最初に本の売り場を配置します。それ位コンビニにとって本の売り場は大切な場所なんです。もちろん綺麗に整頓されているコンビニもたくさんあります。しかし実際自分で店を始めるとどうでしょう。そんなこと微塵にも思わなくなりました。日々の業務に追われていた私にそんなことまで考える能力はありませんでした。それこそ返品しなければならないような日付の古い本だって平気で並べていたこともあります。いろんなコンビニに視察にも行きました。他のお店はどんな企業努力をしてるのかを隅々まで観察していたはず。しかし以前と同じ気持ちにはなりませんでした。既に視点が別のところに移っていたのです。全く顧客の視点では無くなってました。例えばもしあの時にバイトを一人増やしてでも本の整理を毎日かかさずやっていたらどうなっていたでしょう?今さら答えのない問いかけをしてもしょうがありませんが・・・・・そう考えると「現状満足」なんて言葉は無いに等しい。視点が変わった事に気付いてないことに、まずは気付く。これが大切だと思います。「現状上手くいっている物事に対しての投資は無駄だ」という人がいますがそんな時にでも「投資する箇所」に気付く事。それは素晴らしいことだと私は思います。ビジネスは金があれば上手くいく。そんな簡単な物ではありません。金を掛ける場所が分からなければ金なんて何の意味ももたない。視点の変わった人間が出す発想は偏りすぎている。そう考えると社員やアルバイトが発する言葉には大きな宝物が隠れているかもしれない。私は宝を引き出す人間になりたい。
2006/07/27
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ポプラを始めて2年後、道路向かいにあるコンビニエンスストアー「ローソン」が遂に閉店した。ローソンまではわずか徒歩1分。兼ねてからのライバル「ローソン」が閉店したとあってフラストレーションは一気に高まった。もしかして勝負に勝った??そんな気持ちでいっぱいだった。日販売上も50万円から80万円まで一気に伸びた。しかしその時こそ神様が私達に与えてくれた「チャンス」だったことには気付くことが出来なかった・・・「閉店してくれればいいのに・・・・・」いつも願ってたことなのに、本当に閉店するなんて想定外。今までに味わったことのない忙しさに毎日がてんてこまい。品切れ商品は連発。商品陳列は汚いなど散々たるもの・・・・せっかくの流動客を満足させるどころか不満を買う毎日。そんな2ヵ月後には同立地に「デイリーストアー」がオープンした。当然オープン後の売上は50万円に戻った。結局私達は何も残すことが出来なかった。目先の嬉しさに満足して準備を怠ってしまったのだ。「勝負に勝ってチャンスに負けた。」チャンスは突然やってくる。まずはチャンスに気付くこと。過ぎ去った後には誰もが気付く。そしてチャンスはものにしなければ意味が無い。だから常に戦闘態勢でなければ掴み取ることは出来ない。チャンスのイメージが頭に描けてなければ実現させることは不可能。チャンスには勢いがある。勢いに押されては想定外の出来事に身も心も不自由にさせられる。それが当時20才の私にとっての貴重な経験。
2006/07/27
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高校卒業後はポプラの運営を続けながら電気工事の専門学校に通った。なぜ電気関係?私は「親戚が電気工事の会社をやっているから」と言っていたと思う。でも本音はそうじゃなかった。正直24時間年中無休のサービスに嫌気がさしてました。電気工事の道に進むことは自分に与えられた、ごく平凡な生活を送れるレールのひとつだったのだ。朝起きて夜は寝る。そんな平凡な生活に憧れていた。友達がポプラに買い物に来て雑誌と弁当を買って家に帰る。家で雑誌を読みながら弁当を食べている姿が目に浮かぶ。そんな行動ひとつが私には羨ましくてたまらなかった。GWやお盆や正月。旅行に行きたい。まだ20才なのにそんな事すら思わなくなっていた自分がいた。電気の専門学校を卒業した20歳の私はポプラを辞め、親戚の電気工事会社K社に入社することになった。そう決意した私はある意味T氏の心の期待を裏切ったのかもしれない。しかし人生とは不思議な物。この後またT氏と仕事をすることになるとはこの時の私には微塵も想像出来なかった。電気工事士編に続く >>
2006/07/27
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私にとって初の就職場所は電気工事会社K社となった。右も左も分からない環境に加え、聞いたこともない単語が飛び交う世界に初めはとまどった。暑さと寒さにも驚いた。夏はクーラーにあたり、冬は暖房の中でぬくぬくと育った私に現場の気候はかなり酷だった。冬には6枚くらい着込んで仕事に行っていたのを覚えている。しかし昔から細かい作業などが好きだった私には意外と向いていた仕事だったのかもしれない。電気工事を始めて一年ですぐに棒心(現場責任者)をさせてもらえるようになった。21歳の時だった。後輩も出来、現場仕事に魅力を感じるようになっていた。自分が仕上げた現場は今でも全て細かな所まで覚えている。これは私に現場を教えてくれた同じ職場の先輩玉井さんのおかげだろう。玉井さんは入社当初から様々な仕事のチャンスを私に与えてくれた。玉井さんは人を褒めるのがとても上手な人だった。人間褒められて悪い気がする人なんていない。褒められ続けた私は職人として上達出来た気がする。玉井さんの優れていた点は他にもあった。いかに仕事を楽に進めるかを常に考えていた。仕事は段取りで決まると言われるが、玉井さんは段取りと環境を整える。この仕事をこなすにはこの道具と材料が必要。しかしこの道具を使うためにこれを用意すれば作業効率は2倍に上がる。こんな感じでいつも作業風景を頭に描き環境にも気を配っていた。私の仕事に対する方程式段取り7分・環境2分・仕事1分こうなったのは玉井さんのイズムなのかもしれない。
2006/07/26
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電気工事を始めて2年22歳になった時に私には新しい野心が生まれた。それは電気工事で独立することだった。もともと勉強が嫌いな方ではなかったので第1種電気工事士などの免許を取得することは、さほど苦ではなかった。資格を取得し、知り合いの建築屋や工務店などにお願いして時間の許す限り電気工事の請負いのアルバイトをさせてもらった。しかし23歳になったときには違う自分が現れた。電気といった建築の一部ではなくもっと全体を見わたせる仕事がしたい。それは何だったのだろう?不動産?設計士?デザイナー?デベロッパー?そんな時私は、はっきりしてない自分に意味もなく試練を与えた。「宅地建物取引主任者」の試験を受け合格することができたら電気の会社を辞めよう。もし受からなかったら電気の仕事をこのまま続けよう。宅建の試験まで3ヶ月と短い期間ではあったが死ぬほど勉強した。会社から帰宅後、毎日6時間。こんなに勉強したことは過去には一度もないだろう。「宅建」の短期集中コースにも週3回通った。試験の結果は合格だった。久々に達成感を感じた私は、合格発表の帰りの車の中で一人ガッツポーズを何回も繰り返したのを覚えている。24歳を迎えた年の3月に電気工事という仕事に終止符を打った。今では電気工事という仕事に巡り合えた事に本当に感謝している。その後に選ぶ人生において電気工事で得た経験は私にとって大きな財産となった。
2006/07/26
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電気工事を辞める時期、私に人生の分かれ道が訪れた。「宅建」を活かせる道に進むか「スーパー銭湯」を経営するか?スーパー銭湯??そう、ここで私の前に現れたのは人生の師であるT師だった。T師はスーパー銭湯の経営者を探していた。どちらの選択をするか?実際はほんの少しも迷いなどなかったかもしれない。ただ単に自分の選択に対してこんなに簡単に決めてもいいの?そう問いただしただけだった気がする。もちろん私の選んだ道は「スーパー銭湯」の経営だった。T氏は言った。「人生の成功は自分で勝ち取る物。チャンスはいつでもあるものではない。与えられた物が自分にとってチャンスかどうか見極めることが能力だと。」この時の私にスーパー銭湯の経営に対する不安は不思議なことに一切なかった。スーパー銭湯編に続く >>
2006/07/26
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スーパー銭湯の経営を始めて2年間は寝ることも忘れてがむしゃらに働いた。任せてもらっているからにはT師に認めてもらいたい。仕事を頑張った一番の理由はそれだったと思う。私は仕事をする中で必ず実践していたことがある。仕事は絶対に次の日に持ち越ししない。気づいた時に多少の遠回りをすることがあってもすぐに処理する。スーパー銭湯には毎日1000人以上のお客様が来店されます。もし修理するのを一日延ばせば1000人のお客様に嫌な思いをさせることになります。またイベント告知を始める日を一日後に伸ばせば1000人のお客様に物事を伝えるチャンスを逃します。仕事は次の日に持ち越ししない。これは経営をしていく上でとても大切なことだと今でも思います。
2006/07/25
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スーパー銭湯の経営。私はまず掃除を極めることから始めた。銭湯たるもの清潔がモットーだ。家で掃除をしたことはあるものの規模も違えば使う洗剤も違う。経験すること全てが初めての事ばかりだった。この汚れにはこの洗剤。この汚れにはこの方法。洗剤を間違えれば化学反応を起こし浴室内に煙が蔓延する。一歩間違えればサリンだ(笑)本当毎日がスタッフみんなとの勉強だった。お風呂は清潔なのが当たり前。でもこれほど難しい当たり前には出逢ったことが無い。清掃が始まるのは午前2時。営業が始まるのが午前6時。お店が閉まっている時間はたったの4時間。たった4時間の清掃時間でどれだけ綺麗な銭湯を演出することが出来るかが毎日の戦いだった。しかもその4時間で清掃、売上げ計算、開店準備をしなければならない。これでは24時間営業と変わらない。毎日洗剤の掛かったタイルの上を裸足で作業する為、足の裏はぼろぼろになった。思い返せば毎日が戦争だった気がする。そんな私に風呂掃除をさせたら右にでる支配人は全国探しても誰もいない。これが当時の私の自負だった。
2006/07/25
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スーパー銭湯を経営していく上で大切な物の中に衛生管理がある。これは清掃と同じく大切なものだ。当店でも「接客・清掃・衛生管理」これを経営理念にしていた程。私のスーパー銭湯では2時間に1度水質検査を行っていた。これは保健所からの指導の元に行う。銭湯の天敵は大腸菌だ。大腸菌がお湯の中から検出されるとたちまち店は営業停止の処分を受ける。営業停止を受けた銭湯の行く末は暗い。そうならない為にも日々の検査は徹底して行わなければならない。「大丈夫だろう。」「今日はまぁいいか。」この怠け癖が命取りになる。世の中でレジオネラ菌が話題になった時には本当大変だった。それはお風呂の法律すら変えた程の出来事だった。お客さんはマスコミにはほんと敏感。今まで聞かれたことも無いような質問を次々してくる。毅然とした態度で接することが出来なければそれが不信感に繋がる。従業員とのコミュニケーションも当然必要。営業時間の長い業態では従業員全員が集まることがほぼ無いに等しい。時間単位で区切られ働くスタッフを集めて日々朝礼や終礼を行うことも出来ない。いかにこのような状態で日々の問題や改善点、連絡事項などを漏れなく伝えることが出来るか。これがお客様への安心と接客にも繋がる。銭湯の運営は一日たりとも気が抜けない。地域密着のリピート商売では結果がすぐに数字に跳ね返ってくる。
2006/07/25
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私はスーパー銭湯で現在の最大の武器となるパソコンに出逢った。当時の私はパソコンの電源を入れる事は出来るが切り方が分からない。そんな程度の知識しかない純然たる「パソコン音痴」だった。私にパソコンのきっかけを与えてくれたのはバイトのI君だった。I君は当時の私にとって、とても心強いスタッフだった。元々イベント好きだった私は様々なイベント企画を考案した。そこでぶつかった新たな壁。それは「告知方法」だった。スーパー銭湯で客単価はせいぜい600円程度。そんな業界ではイベントを開催する度に広告を打つ予算はない。やはり一番有効な手法は店内POPだった。スーパー銭湯はお客様のほとんどがリピーターで構成される。毎日来て頂けるお客様も珍しくは無い。回数券を利用してくれるお客様は実に3割を超える。店内POPを有効に打ち出すことが出来れば必ず効果は出せる。だからこそ目に止まるPOPを作成しないと意味が無い。目に止まらないPOPを作成したところで、常連さんにしてみれば通常の景色と変わらない。私は色んな広告や本を読んで真似をすることで広告技術を学んだ。最高の広告を自分で作りたい。I君のパソコンと広告作成意欲。それが私がパソコンを始めたきっかけとなった。強い欲望があったからこそ独学の私でもパソコンの実力を上げることが出来たのだと思う。
2006/07/25
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スーパー銭湯の経営を始めて3年目。私に新しい野心が生まれた。「スーパー銭湯 湯楽里」を日本で最先端のスーパー銭湯にする。大きすぎる野心だが私の中では本気の野望だった。まず始めたことはHPの作成だった。当時HPはあまりメジャーではなかったが、全国の人々にアピールできる安価な手段のひとつであることには間違いなかった。目標は銭湯とは無縁である渋谷の女子高生に「スーパー銭湯 湯楽里」の名前を浸透させること。来る日も来る日もHPの勉強をした。サイトを作成するのには、さほど時間は掛からなかった。しかし誰にも見てもらえなかった・・・・これが現実・・・・(悲)しかしHPの勉強をしていく中でひとつの方法を学んだ。他の温泉やお風呂のサイトとの相互リンクだ。私は「温泉広辞苑」と名付けたページを作成し100近くの温泉サイトと相互リンクを貼ってもらうことにした。結果毎日50人近くだがお客様がサイトに訪れてくれるようになった(嬉)http://www.yurari.com/top/rink/rink1.htmただそれだけではサイトのリピーターにはなってもらえなっかった。常に新規を呼び続けるには限界がある。そこでまた新しいコンテンツの作成を始めた。「湯楽里の珍事件File」http://www.yurari.com/top/youkoso/tinjikenfile1.htm当スーパー銭湯で起こった様々な珍事件を定期的に掲載した。このコンテンツはお客様からかなりの反響を頂いた。これを機にサイトへの訪問者は毎日200人を超えるようになった。その当時流行っていたもの。それは「家電占い」だった。すぐに私は占いブームにのり、あるサイトを作り始めた。「スーパー銭湯占い」http://www.yurari.com/uranai.htmタグの知識など全く無い私が、本屋を駆け回り参考書を買いあさりCGIの勉強を始めた。はっきりいって習得は出来なかったが、占いの作成は完成した。占いブームが追い風となり雑誌でも何回か取り上げられた。しかしそのコンテンツを境にHPに対する興味がほとんど無くなってしまった。今でもサーバーに残っている当時のHPは私の思い出の1ページです。http://www.yurari.com/top.htm
2006/07/25
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HPの立ち上げと同時期に行っていたのが全国のスーパー銭湯巡りだった。毎月2回は出張に出掛けた。出張では1日3件の銭湯を回る。3件の銭湯で頭を洗っていた私の髪はパサパサになっていた(笑)だいたい1回の出張で6件を目処に視察した。これを3年位続けた。3年間で回った銭湯は300件程度にのぼる。しかし、振り返れば私の中で経営能力が一番伸びたのはこの時期かもしれない。いろいろな銭湯を回り、様々なヒントを貰った。すぐに持ち帰り自分の店で実践した。銭湯巡りをする中で同時に強く感じたことがある。「この業界は何をするのも遅い」これだった。例えばスタンプカードをやってるお店があれば目新しいって言われてた時代です・・・・出張に行くと私はその銭湯のスタッフにお勧めの飲食店を聞き、そこで食事をするようにしていた。飲食店はとても競合が多いため、様々な所に工夫がされている。このサービスを銭湯だったらどう置き換える?これが出来れば銭湯の経営は簡単に行うことができる。これが出来れば客様を飽きさせることなく、居心地の良い空間を提供し続けることができる。だからサービスに関して困った事は一度も無い。そんな歯止めの利かない私はお風呂の視察に遂に韓国まで出掛けた・・・・
2006/07/24
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スーパー銭湯にはほとんどと言って良いほどレストランが併設されている。スーパー銭湯の経営ではレストランの売上げも重要な要素となる。しかし多くのスーパー銭湯ではレストランを他の業者に委託する所が多く見られる。その選択はどうなんだろう?私たちも一時はレストランを委託したことがあった。しかし当店の場合、委託は大失敗に終わった。一番の問題はスタッフ同士のコミュニケーションが取れなかった事。お互い同じ館内にいるのに協力が全くと言っていいほど出来ないのだ。何か不都合があれば、「なんで私がしなきゃならないの?」「レストランのバイトの人がすればいいのに」こんな苦情が飛び交う。会社の体制なんてアルバイト達には関係ない。自分の環境を主体に話をしてくる。無理やり仕事をさせることは簡単だ。しかしそれでは効率はうんと下がる。私は船井総研のセミナーでこのような言葉を教わった。「1:1.6:1.6×1.6」スタッフのモチベーションでスタッフの仕事量は変わるという話だった。私はレストランの売上げが低迷していた頃、頭の中ではレストランを直営に戻す計画を進めていた。オープンから4年後、素晴らしい料理人と出会うことが出来た。のちに料理人T氏は湯楽里の料理長となる。当時の私の構想は定食屋だった。一番高いメニューの金額が800円。それでいて味付けに工夫がある定食屋としてリニューアルしたい。実は見本にしたい店舗が既にあった。当時は東京にしかなかった「大戸屋」だ。一度だけだが「大戸屋」の社長の話を聞いたことがある。とても素晴らしい話だった。女性が一人で入れる定食屋を作る。このコンセプトは私の描く銭湯とマッチしていた。料理長に定食屋の事を話すと快く快諾してくれた。料理長は生粋の和食職人。そんな料理長にこんな簡単な料理をさせてもいいのか?気の迷いはあったものの何事も進まなければ意味が無い。私は料理長と「大戸屋」に何度も通いほとんどのメニューを食べつくした。メニュー構成は全て料理長に任せた。そんな中、私はひとつだけお願いをした。全てのメニューにおいて完璧なマニュアルが欲しい。うちのアルバイトのレベルは決して高くありません。そんなアルバイトに「だいたいこの位」などのマニュアルでは、味がその都度変わってしまう。いつご来店頂いたお客様にも料理長の味の定食を食べてもらいたい。店内の改装も同時に行い、無事レストランを定食屋としてスタートさせることが出来た。蓋を開ければ結果は大成功。当時400万円台だったレストランの売上げは平均で700万円台になった。利用して頂いたお客様からはおいしいとの喜びの声を頂いた。週末は常に満席状態。ウエイティングは当たり前だった。こんなにも差があるものなのか。これには私も驚いた。
2006/07/24
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人材についての考え方も経営をしていくにつれ、変わっていきました。スーパー銭湯の経営では社員はほとんど必要ありません。実際、私の経営する湯楽里では社員は2人しかいませんでした。あとの30人は全てアルバイトとパートで構成されていました。経営当初はアルバイトのレベルの低さに驚かされっぱなしでした。しかしそれは決してレベルが低いのではなくそれが当たり前の世の中なのです。その当たり前をいかに上手に戦力にするかが経営ではないでしょうか?無駄に人員を使えば経費を圧迫してしましますし、人員を絞ればサービス力は低下します。最小限の人員配置で最大限のサービスを提供しなければなりません。スタッフはモチベーションによっても働きが変わります。スーパー銭湯の経営に関してではありますが、私の組織体制の考え方はこうです。右腕・左腕と駒多数。将棋で言えば飛車と角あとは歩です。歩はいろんな種類を揃えます。これが私の持論です。しかしこれだけは気を付けなくてはいけません。右腕よりも左腕よりも何をやらせても自分が一番優れている。これを怠ってはいけません。私は仕事を口では教えませんでした。必ず実際にそれをやっている所を理解するまで見せます。私が見つけた最大の近道をしっかりと覚え込ませます。右腕・左腕は自分の70%の力を持ってくれていればいい。そうすれば野心を持つこともないだろう。人は目標に近づくと必ずと言って良いほど野心が芽生える。これなら自分の方が・・・・てな感じで。王は飛車と角を失えば弱くなります。王だけでも当然生き延びることは可能ですが、より上手く戦略進める上で飛車と角は重要です。将棋にも裏があるように、育てれば育てる程より戦力になります。育てたからには辞めさせることなく自分の側において置く方が利口なことは言うまでもありません。あとはアルバイトです。アルバイトとパートには100%のマニュアルを与えることが大切です。。これが出来ていない経営者にアルバイトを叱る権限は無いに等しいと思います。状況判断をさせるなんてもっての他ではないでしょうか。どんな事件がいつ起こるか分からない世界においては、あらかたの事件を想定したマニュアルは必要不可欠だと思います。個人に判断を任せていると必ず例外が生まれます。一度例外を許すと、規律を貫き通す事が難しくなります。「この間良かったのに」とか「○○さんは良いって言ってたよ」などと。マニュアルがないなら24時間現場に張り付いてその度に指示を出す。自分自身が嫌な作業から逃げるな。まずは率先して行え。これを徹底するしかないと思います。経営者は誰よりも働き誰よりも優れている。だからスタッフのカリスマ的存在になれる。
2006/07/24
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私は失敗を怒ることはほとんどありません。自分がその人間に仕事を任せたことにも原因があるからです。仕事の失敗とは「失敗した事」に気づかないことです。もし失敗したと思うならならすぐに改善すればいい。時間が経つにつれて改善はどんどん難しくなる。上司がいるならすぐに失敗を報告をする。経営者は失敗をすぐに言える環境を作り、なぜ失敗したのかを必ず考えさせる環境を創る。「なぜ?」を徹底することで人間は又一回り大きくなれる。そうすれば次からは失敗することはないかもしれない。当然一度失敗したことは二度としてはならない。しかし逆に失敗しない人間がいたとしたら・・・・それは企業にとって本当に理想な人間なのだろうか?私はそうは思わない。機転が利く人間。危険回避が出来る人間は経験から生まれる。私は失敗する人間を育てるの事が大好きです。
2006/07/24
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スーパー銭湯の経営を通じて私は様々な人に出逢いました。若干23歳の私に当時40歳や50歳の会社の社長さんが真剣に提案してくれます。経営を始めた当初は「若いからといってなめられたくない。」という強い思いがありました。だからこそいろんな知識を得る為に勉強に時間を費やしました。逢える機会があればどんな人にも時間を作り逢いました。無知だった私が様々な人から得る知識はとても新鮮で勉強になりました。そんな機会を経験することで私は学びました。どんな人に対しても威張って得することは何もありません。その反面、低姿勢で望むことで損することは何もありません。むしろ得することの方が多いと思います。私はそんな経験を若い時期にさせて頂きました。お話をさせて頂く人たちはみんな年上だったので低姿勢で臨むことになんのためらいもありませんでした。しかしそんな経験をするのが40歳だったなら・・・・。私には無理だったかもしれません。自分自身のプライドをどこに置くのかを判断するのは自分です。どんな人にも低姿勢で臨む。これが人間向上の最大の近道のような気がします。P+KACHI編 vol.1に続く >>
2006/07/24
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遂に「P+KACHI編 Vol.1」を無事アップすることが出来ました。本当はまだまだ伝えたい事が山ほどありますが、それはおいおいということで・・・本編では私の人生の核となるP+KACHIの出逢い~P+KACHIVol2の開発までを綴りました。これが私の人生の中で転機となった1年間です。
2006/07/23
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2002年8月有限会社オフィスオンアンドオフ社長岡田祥司(以下:祥司さん)と出逢う。出会いはひょんなことからだった。かねてからお互い付き合いの合ったI氏と通しての出逢いだった。それは二人が出逢うべき場所ではなかった気がする。その出逢いは神様の仕掛けたいたずらのように感じた。場所は広島県坂町のFINDS。ここでI氏に渡すはずだった商品を取りに来たのが祥司さんだった。祥司さんの話はI氏から聞いたことはあったものの話をしたことはなかった。話は以外な方向で盛り上がった。祥:「明日なんだけど船で海出ない?」船:「あっいいね~ いこっか。」あっさりと決まった海の約束。この海を境に私のP+KACHIへの扉は開かれることになる。
2006/07/23
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2002年8月のとある日。祥司さんからこんな話を持ちかけられた。祥:今度知り合いで凄い奴がいるんだけど一緒に逢ってくれない?船:それってどんな奴?祥:なんか携帯のビジネスで特許とか持ってんだって!船:へぇ~凄いねぇ。特許なんて世界とは無縁だった私に大きな衝撃が駆け抜けた瞬間だった。そんなこんなで噂の凄い奴、D社のK社長と一緒に海に出掛けることになった。とっても気さくなK氏だったが話の内容は凄かった。「株式上場、株主、ベンチャーキャピタル」テレビでしか聞くことのない言葉が次々と出てきた。K氏は私の一歳年上。こんな30歳が世の中にいるなんて・・・・小さな箱の中で勝負している私には大きな世界で勝負しているK氏がとても羨ましく思えた。K氏は当時はやりのIT企業の社長だった。K氏との出逢い・・・・・私が1億3000万人をターゲットに出来るITビジネスに興味を持ち始めたのはその時だった。
2006/07/23
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その後K氏と接点は必然的に増えた。というか私の方から増やしていったという方が正しいかもしれない。K氏との友好関係が深まるに連れいつの間にか私は携帯電話ビジネスにどっぷり浸かっていた。全国のマーケットを対象に出来るビジネス。それは私がこれまでに経験したことのない新しい世界だった。売り上げの天井が無い。利益率の高い商売。まさに私が描く理想の形。ただこのビジネスは片手間では出来ない。スーパー銭湯の経営を続ける傍ら日々この現状を刻々と感じていたことは間違いなかった。私には昔から叶えたい夢がひとつだけある。それは「歴史に名前を残すこと」。それは自分の名前を残すことではない。自分の関わってきた物の名前を世の中に刻み込むのだ。一昔前で言えば「たまごっち」今回のビジネスならこの夢を達成できるかも。いやこれで必ず達成させてみせる。そんな願いを込めて私はある決意をした。それは、またしても私の人生の師であるT師の期待を裏切る決意だった。
2006/07/23
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携帯電話を使った商品開発はD社との共同事業という形でスタートした。ブランドネームは「P+KACHI」(ピーカチ)に決まった。ピーカチとはP=POINT(ポイント)PROMOTION(プロモーション)PREZENT(プレゼント)PROFILE(顧客属性)PRODUCT(製品・サービス) PLEASURE(喜び・楽しみ)PRINT(印刷物=P+KACHIカード)に+KACHI=付加価値P+KACHI のネーミングは様々なPに+付加価値を付けてお客様に提供するサービスという意味から生まれた。開発会議のほとんどは大阪で行われた。しかし私達は広島・・・・日々遅くまで企画・開発案を何度も何度も練り直していた私達の努力とはうらはらに開発は思うように進まなかった。会議といっても月に2回程度。しかも時間は1回の会議が2~3時間程度。あとはミナミで飲みながらの夢物語。現実を知らない私達は、夢を見続けていた。しかしK氏にあせった様子など全く見られなかったことを覚えている。当時D社はカード決済ビジネスと携帯ビジネス、ビデオオンデマンドビジネスの3本柱で事業展開を図っていた。まあK氏がいれば大丈夫。K氏を雲の上の人間だと思っていた私は商品開発ってこんな感じでいいんだ。実は意外と簡単なもんなんだな~。これで儲かるんだからなんて良い商売なんだ。そう心の底から思っていた。無知だった私はK氏を完全に信じ込んでいた。
2006/07/23
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そんな中、転機が訪れた。兼ねてから付き合いのあったコンサル会社船井総研のO氏に「東京ホテル&レトランショー」にブース出展してみないかとの話を持ちかけられた。出展費用は1コマ約30万円。その話を頂いた時にはこれに出せれば売れる。そんな安易な考えしか思いつかなかった。すでに申し込み期日は過ぎていたものの上手くはからってもらい出展にこぎつけた。コンベンションには来場者として何度も行った事はあるものの出展なんて人生の中では初挑戦。何をどうすればいいのか全くわからない。しかも・・・・・パンフレット・会社概要・チラシ。肝心のシステムすらまだ出来上がっていない状態。全てが無い。もう出店費用も払ってしまったし、一体どうなるの・・・・・・
2006/07/22
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ともあれ早速用意に取り掛かった。まずはブースのデザイン。ブースに取り付ける装飾品からパンフレットの作成。期日も迫りてんてこまい。そしてコンパニオンの確保。コンパニオンは派遣会社Aに依頼することになった。祥:何人頼もっか?船:10人位はいるじゃろ?そんな勢いでコンパニオンは10人用意する事に。今となっては小さなブースにとんでもない人数のコンパニオンを頼んだなって思うけど、このイベントで最高の経験ができたのも全て勢いのお陰だったのかもしれない。東京会場に入りブース作成の準備を始めた。イベントの為に用意したものはブースに飾るパネル。赤いシール。ロゴの入った大きな気球。パンフレット・・・・・。そして人材派遣のコンパニオン10名。しかもコンパニオンは前日入りさせ当日の打合せまで行った。どんなに大きな企業やねん(笑)今考えると本当に笑いが出てくる。精一杯背伸びをする子供の気持ちが良く分かる気がした。出展経験のない私達は主催社に怒られっぱなしだった。これはやってはいけない。これもだめ。あれもだめ。限度を知らない私達はとにかく目立てば良い。これしか考えずにプランを立てていた。主催社の目を盗みながらなんとか制限時間内に完成。出来たブースは想像以上にかっこよかった。今思うとブース出展出来ることを誇りに思ってったのかも知れない。コンパニオンを会場全体に配置させパンフレットを配布しまくった。ここでまた主催社からのクレーム・・・・「自分のブース以外でのチラシ配布は禁止となっておりますので(怒)」そーなん(冷汗)じゃあこのコンパニオンどうづればいいの???こんな小さなブースに10人もコンパニオンいるわけないじゃん。2人いれば充分・・・・・そこで考え付いた案。怒られてもいいからチラシ配布を続ける。怒られたら違う場所に移ってまた配る。今の私達にはこれしか無いと私は思った。結果は散々・・・・・500枚程度名刺は集まった物のさすがは日本の首都東京。住所は全国各地。すべて訪問することは到底不可能。さらに電話アポをしてみるものの反応はかなり薄かった。それはそうだろう。折角ブースに来てもらっても肝心のシステムは未完成。「こんなになる予定なんですよ。」っていいながらパンフレット見せても説得力なんてあるはずがない。
2006/07/22
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私の一番の相方「西林厳史」通称「いっちゃん」株式会社オフィスオンアンドオフの取締役最高営業責任者いわゆるCSOってやつだ。初めて見たときの印象?「なんか怪しい奴が事務所に来てるな~」って印象だったかな(笑)そんないっちゃんと仲良くなるのに時間は掛からなかった。いっちゃんと初めて繋がったのはいっちゃんの知り合いとの飲み会だった。西:船橋さん明日Yさんの飲み会あるねんけどきいへん?船:うん行く行く。飲み会ではみんなわいわい騒いで千鳥足で二次会へ。二次会の場所は今でも私達二人にとっての憩いの場所「CANDLE」だった。二人の仲を決定的にしたのはこの場所「CANDLE」だった。そこでいっちゃんの先輩からの一声。先:おまえら二人で歌歌えよ。その一言で歌うはめに。選んだ曲は、今でも二人の思い出の曲。ケミストリーの「MY GIFT TO YOU」歌い終わった時の表情は今でもはっきりと覚えている。「俺らって今日初めて一緒に歌うんだよね?」驚くほど二人の息はぴったりだった。それからは毎日と言っていい程夜通し二人で語り合った。自分自身の人生観や今後の人生、女の話も何もかも。私は自分の全てを1人の男にさらけ出した。いっちゃんがいれば歴史に名前を残すことができる。私が年下の男、いや同年代の人間を尊敬するのはあとにも先にも西林厳史ただ一人となるだろう。
2006/07/22
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その後いっちゃんはP+KACHIを広める為単身で大阪へ向かった。事務所は当面大阪のD社を間借りすることになった。当時いっちゃんの寝泊り先はミナミのグランドサウナ。体制も次第に整いこのまま上手くいくと思われたビジネス。しかし神様はまだ私たちに微笑んではくれなかった。あれは確か203年のGWの終わりくらいだったと思う。いっちゃんから一本の電話が入った。西:「のりくんこのままじゃやばいよ・・・」西:「P+KACHIはこのままじゃやばい」私はノーテンキにこんな言葉を返した。船:「大丈夫よ」と。しかしこんな言葉とはうらはらにいっちゃんは西:「とにかく今からすぐ広島戻るけえ。」とにかく至急を要する様子だった。それから2時間後すぐにいっちゃんは広島に帰ってきた。そこから2人で緊急ミーティング。現在の状況報告と今後の戦略を話あった。しかし私の固定観念がこの状況をまだ理解しようとしなかった。
2006/07/22
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いっちゃんとサウナで夜通しの話合い。固定観念を打ち砕かれ蓋を開けてみると・・・・このビジネスに全てを掛けていた私にとってかなり深刻な状態になっていた。ほんといっちゃんには感謝だ。このままD社を信じ続けていれば今はなかった。状況を把握した私はすぐに大阪に飛びシステムを発注している業者と会うことにした。私たちが考えるシステム構想と発注業者が考えるシステム構想。あきらかに溝が発生していた。結果交渉は決裂に終わった。原因はP+KACHIに対するウエイトが弊社とD社では大きく違い過ぎたのだ。そんなD社がシステム製作全てを取り仕切っていたのだからしょうがないことかもしれない。これは主導権を握れなかった私達に原因がある。その日を境にD社との共同事業に終止符が打たれた。P+KACHIはどうなるんだろう・・・夢へと向かう道が途切れた瞬間だった。それからは来る日も来る日もP+KACHIの戦略についてみんなで話合った。交渉決裂になった今、P+KACHIシステムは世の中に存在しないのに・・・・人は夢を見ることが大切。私はいくどとなく夢に助けられてきた。その夢に向かってどれだけ本気で努力できるかが大切。夢は努力すれば必ず叶う。しかも今回は夢を共有できる仲間にも出会えた。私はこれまで人を頼ったことは無いに等しい。全て自分で行動し決断してきた。そんな私に、一人では叶えることが出来ない大きな夢の舞台を用意してくれた神様に今でも感謝しています。次へ >>
2006/07/22
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そんな先の見えない私達に、一本の電話が入った。「広島に携帯を使ったシステムを開発している会社があるんだけど一度逢って見ない?」その会社こそ現P+KACHIの開発プログラムを作ったN社だ。「本当神様っているんだな」って思った。システム開発に関して無知だった私達はN社との交渉に、好意にしてもらっている東京のデジタルコンテンツ会社の社長F氏に同席をお願いした。まずはN社に訪問しこれまで作成してきた携帯コンテンツを見せてもらった。「凄い!!」思わず声が出てしまうくらいのレベルの高さだった。それにはF氏も絶賛!「ここの会社なら任せてもいいんじゃない?」私はこれまでのP+KACHIとは天地の差があるシステムの完成度に驚きそして喜んだ。「それでは開発に関して細かい打ち合わせを始めて行きましょう。」もちろん私はすぐに答えを出した。2003年7月 P+AKCHIバージョン2の開発が始まった。
2006/07/21
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私はこれまでの失敗経験を活かし、N社と頻繁に打ち合わせを行った。システムの細部に渡るまで、納得いくまで打合せを何度も続けた。寝る間も無いくらい忙しい。そんな忙しさがたまらなく心地よかった。いっちゃんは某大手飲食WEBサイトGの立ち上げスタッフだ。その後も飲食求人誌Gの神戸エリアを立ち上げた程の飲食業界の達人。P+KACHIを開発するにあたり現場の要望を隅々まで知っているいっちゃんは本当に心強い味方だった。8月末の完成を目指しP+KACHIの開発は順調に進んでいった。
2006/07/21
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システムの仕様を決定後はすぐにツールを作りいよいよ営業活動を開始した。いっちゃんはすぐに契約を決めてきた。しかも2件。業態はゲームセンターだった。夏休みの間に会員をいっきに集めておきたいというクライアントの意向だった。しかし肝心のシステムはまだ出来上がっていなかった・・・・完成予定はお盆明けの8月20日予定。急遽代替のシステムを用意しなんとかピンチを乗り切った。人間努力すればなんとかなるもんだなって感じた。そして8月20日P+KACHIシステムVer2.0は無事完成した。やっと巡りあえた最強の武器。完成前の2件の契約。順風満点の人生が待っているかに思われた。しかし肝心の武器はなかなか威力を発揮してはくれなかった。システム完成と同時に立てた事業計画書は机上の空論。もちろん資金繰りに苦しい企業に金融機関は一切相手しない。その後2~3ヶ月、契約はほとんど上がらなかった。月の売上○万円。この会社は一体どうなってしまうのだろう・・・。P+KACHI編 vol.2に続く >>
2006/07/21
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P+KACHIver.2の開発途中、2003年11月に行われる関西ホテルレストランショーへの出展を決めた。今回は2ブースを申し込んだ。出展費用は50万円。決して安い値段ではない。多大な経費を掛ける分失敗は出来ない。前回の東京ホテレスの経験を活かしブース場所も角地を確保した。コンベンションに出せば客は来る。そんな簡単に考えている人もいるかもしれないが実際はそんな簡単な物ではない。来場者をいかに自分達のブースに呼び寄せるかが勝負となる。コンベンションとは箱の中に人間を集めてくれるだけ。そこから先は各々の努力勝負なのだ。私が以前スーパー銭湯を経営していた時にも同じ環境を味わったが事がある。スーパー銭湯のレストランは箱の中のお客さんをいかに呼び込むかが勝負となる。スーパー銭湯には毎日1000人以上の人が来店する。その中の何人をお店に呼ぶかで売上げが決まる。だからある意味経営が簡単なのだ。万人にうける必要はない。お風呂に来るお客さんに喜ばれるレストランさえ用意すればお客さんは自然と集まるものだ。そんな経験も考慮しながら早速私はブースの準備に取り掛かった。これまでの東京・広島のブースを振り返ってもやはりイメージは赤しかない。私達のような名前の売れてない企業は目立ってなんぼ。その気持ちに変わりはなかった。目立つ事が出来れば必ず目を引く自信がある。しかし場所は大阪。広島のように職人さんを呼ぶわけにもいかない。もちろん私は建築屋の先輩Nさんにすぐに相談した。「今度大阪でブースやるんじゃけどまた赤で目立ちたいんよ。どうしたええーかね?」するとN先輩は「大阪かあ~。まかせとけ。コンパネ赤で塗って寸法合わせて作っといたげるけん。現地で組立てや。」なんとも心強い言葉・・・・持つべきものは親友だなとつくづく実感した瞬間だった。ブースの展開イメージも固まり順調に準備も進みあとは開催日前日を待つだけとなった。「これならいける!」そう思った瞬間だったが「私達だけで本当にうまく設営出来るだろうか?」と不安に思う気持ちもあった・・・・。
2006/07/19
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遂にホテレス開催日の前日を迎えた。朝早くから広島オフィスに集合。設営材料を全てトラックの荷台に詰め込んだ。ソファーもトラックの荷台に詰め込んだ。ソファー???って思う人もいるだろう。それは荷台に乗り込む人用のソファーなのだ。大阪に行く人間は全部で6人。運転席と助手席には合計3人しか乗れない。だからあとの3人は荷台なのだ。更に出発直前にひとつの問題が発生!!なんとブースの壁が一枚足りない!!何回数えても一枚足りないのだ。すぐにN氏に電話して一枚段取りしてもらった。当然まだ色を塗ってない壁。N氏の事務所に寄り向かうは大阪インテックス。高速道路に乗った時私達は凄い状況に驚くことになる。なんと音が凄い。風の音がとにかく凄い。これは想像をはるかに超えていた。「ドンドンドン・バタバタバタ」文字では伝えられない位の音だった。しかし会場におけるブース設営の時間が限られている私達は荷台の中で壁のペンキ塗りを始めた。想像できるとは思うが荷台という密室でのペンキ塗りはシンナー中毒になりそうな程臭かった・・・・
2006/07/19
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荷台で聞こえる「ピーピーピー」のバック音。どうやら会場に着いたらしい。まずは自分達の出展するブースの場所を探した。ポジション的には最高の場所だった。と同時にすでに完成されている他のブースの凄さにも驚かされた。こんな中で目立つことなんて出来るのだろうか??少し弱気になった瞬間だった。私達は作業服に着替えブース作成を始めた。他のブースでは専門の職人がブースを組み立てている。弊社のブースはスタッフが組み立てている。なんとも面白い光景だった。「おつかれさん」と声を掛けられたりするが、それは多分私達が職人と間違えられているのだろう。そんな気配を感じた。「ここはどうする?」「これはどうしよっか?」全ての工程が行き当たりばったりで進んでいく。横5M縦3Mの真っ赤なパネルを「せーの」の合図で全員で起こしブースは遂に完成した。「いいじゃん!!」「いいじゃん!!」みんなの声がひとつになった。他のブースには到底かなわない予算しか掛けれなかったが私達の赤いブースは予想以上に目を引く最高のブースに仕上がった。そんなブース作成はとても楽しかった。後にも先にもこのブース作成が一番思い出に残っている。何でも自分達で創れる環境。こう言えば聞こえはいいが、何でも自分達でやらなければならない環境。こんな環境がはたまらなく心地いい空間だとは思いもしなかった。さあ、いよいよ本番。「絶対人を集めてみせる。」そう思って会場を後にした。
2006/07/19
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午前10時開場の音楽と同時に関西ホテレスは幕を上げた。来場者はチラホラ・・・・・ちゃんとうちのブースに寄ってくれるのだろうか?不安と期待を胸に抱いて来場者を待った。思うように集まらない・・・・そこで私達はある行動に出た。用意していた集客イベントの告知だ!「シールを合わせると抽選結果が浮かび上がる未来くじの抽選会場はこちらです。どうぞお立ち寄り下さい。」イベント期間の3日間私といっちゃんは八百屋並の声を張り上げ来場客を赤いブース会場へと導いた。F氏にご協力頂いた「POP’NWEB」のイベント効果もあり弊社のブースは常に長蛇の列が続いた。他の出展者が偵察に来るほど連日大盛況だった。結果ホテレスイベントは大成功に終わった。3日間でブースに来場して頂いたお客様1500名。延べ900社の企業様に来場して頂いたのだ。私達は前回のホテレスイベントのリベンジを成功させた。この3日間は私の人生の中で忘れられない大切な思い出となった。
2006/07/19
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広島に帰り早速取締役全員で戦略会議。満場一致で大阪営業所を出すことを決定。その時暦は12月。1月の大阪営業所を開設に向け、すぐに私といっちゃんは大阪へ物件探しに出掛けた。ネットで予め目星は付けていたものの実際の建物はどれも想像とはかけ離れた建物ばかりだった。「他にいい所ないの?」こんな会話を続け半ばあきらめかけていたときに不動産担当者に一本の電話が入った。担当者は電話越しに「これはごっつい。ごっついなあ」と繰り返し言っていたのを今でも覚えている。電話を切ったあと担当者は「めっちゃいい物件が見つかりましたよ。これはごっついですよ。早速いってみますか?」早速3人で下見に・・・・現地に到着。そこに経ってたマンションは築30年物。かなりぼろい・・・・??担当者に案内され部屋の扉を開けた。「ここにしよ!」私達はすぐに返事をした。外観からは想像付かないほど内装がとても綺麗だったのだ。ここなら良い事務所が創れる。私の脳裏にはアメリカンスタイルの事務所の完成図が描かれていた。それが前大阪営業所だ。ここからピーカチの大阪ストーリーが始まる。
2006/07/19
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新年を向かえ大阪事務所はスタートする。3LDKと広い間取りの中で、付いている物は台所にある棚下の蛍光灯と冷暖房。安いお金で買ったテレビの台はテレビの入っていたダンボール。照明器具はオークションで揃えた。カーテンの無い部屋では朝日が目を覚ましてくれる。こんな事務所で大阪はスタートした。いっちゃんほんまごくろうさん。私といっちゃんは大阪営業所の本格稼動に向け事務所の改装を始めた。改装といってもお金の無い私達。業者は雇わず全て自分達でやることに・・・・・・じゅうたんとクロスを業者から仕入れ、ホームセンターでペンキを買った。イメージカラーは白。部屋に見える木部分は私達の手で次々と白く塗り替えられていった。和室の障子には白いクロスを貼った。終わった後の何とも言えない満足感。最高の至福を味わえた。自分達でやったから・・・・・・・これがなければ今は無いかもしれない。夢実現の為。その為なら私はどんなことも辛いとは感じません。
2006/07/18
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とんとん拍子とまではいかないまでもホテレスでの案件やORAへの加盟を皮切りに徐々に契約は上がっていった。急速に展開を考えていた弊社は世の中が歓送迎会で盛り上がる時期に新たな事業拡大計画を進めた。契約ととるにはやはりマンパワー。従業員獲得に向けリクナビに掲載した。なんと2週間の間に150名の問い合わせがあった。こんな企業になんで・・・・・本当に驚いた。これで気を良くした私達だった。もしかしたら天狗になってた??その後書類選考で応募者を50名に絞り、大阪の会場で会社説明会と一時面接を同時に行った。当然こんな大きな面接は初めての経験だ。社長の挨拶私の進行いっちゃんの商品説明とたんたんとスケジュールをこなしていった。「なんか企業っぽくてかっこいいなあ。」これが私の正直な気持ちだった。そんな中、会社説明を終え監査役が発した言葉を今でも覚えている。「本日はお忙しい中お越しいただきありがとうざいました。見てのとおり若い人間が経営する会社でございます。これからどうなるかなんてわかりません。倒産する可能性だってあります。ただ一つ夢とやる気は人一倍強い会社です。この中で弊社と一緒に夢を実現していこう。そんな考えを持っている方だけ次の面接会場に進んで頂ければと思います。」この言葉を聞き何人かは会場を後にした。しかし今でもこの考えは変わっていません。弊社は従業員全員が経営者でなくてはならないのです。即戦力が欲しい。これが当時の思い。私達は結局一次面接の結果、その中から10名に絞込み2次面接で営業経験者3名の採用を決定した。
2006/07/18
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大阪営業所のスタッフも増え、いよいよ事業計画に向かい新体制がスタート。1ヶ月2ヶ月と急速なスピードで過ぎ去りました。試用期間の3ヶ月はあっという間に経過しました。しかし採用した3人に結果は付いてきませんでした。弊社では当時3ヶ月後から給与体系がインセンティブ形式に変わりました。契約が取れなければ給料は急激にダウンすることになります。結果3人とも弊社を後にすることになりました。携帯販促がまだ早かったのでしょうか?それともピーカチのブランディングが確立してないから?それとも男だから?若くないから?私達の育て方が悪いから?いろんな理由を模索しましたが、理由は全ての融合だったと思います。今では本当良い経験をしたと思っています。「有頂天になるなよ。まだまだだぞ。」そんな神様からの助言だったのではないでしょうか。
2006/07/18
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同じ時期広島でも2人の社員を採用しました。一人は男性。一人は初の女性社員でした。実は広島では事務員を募集していた為、4人の女性より応募がありました。履歴書を見た時点ですでに私の中では決定していたものの全ての方に面接をお願いした。採用させて頂いた女性。現在の総合秘書:福山典子(通称:のりちゃん)は期待を裏切らないずば抜けた人材だった。典ちゃんは全ての仕事を簡単にこなしていった。この人はどこまで潜在能力があるんだろう。こんな思いをいつも持っていたように思います。今だから言える話。当時の典ちゃんはこんなことを感じてたそうです。この会社ってどうやって資金繰りしてるんだろう?他に何か収入源があるのだろうか?ってね(笑)coming soon ........株式会社ピーカチ(32才~)に続く >>
2006/07/18
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2006年私は新会社を設立する。会社名は株式会社ピーカチ。そう、これまで築いてきた事業を更に飛躍させるためだ。相方はもちろん西林厳史。株主にはT氏を迎え入れる考えだ。資本金3,000万円の会社設立とし、経営状態を誰からも認めてもらえる最高の会社を必ず創る。これからどんな展開が待っているかなんて全く予想出来ない。ただ「とってもワクワクする」が正直な気持ちだ。私の頭の中でのプランニングはすでに完成している。
2006/07/13
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遂にこの日が来た。2006/03/08あの大阪に本当の意味での基地を構える。場所は西中島。そう西中島の駅前だ。これからは東中島じゃない。いっちゃん今まで我慢してくれて本当にありがと!でも考えて見ればこれってホントに凄いこと。でも私には「イツノマニカ」。この言葉の方が妙にあてはまる。人の力ってほんとに凄いと思う。一人で出来る物事には限りがある。だからといって人数を揃えればいいって訳じゃない。最高のスタッフが揃う企業には一秒たりとも気の休まる時間は無い。それぞれの人間が企業の夢を共有し自分の力を最大限発揮してくる。私の仕事における優先順位。それを極めることが上場への近道なのかもしれない。
2006/07/13
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