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私の仕事遍歴 2 「心身障害児の療育指導員」で書いたような経緯で、私は思いがけず「肢体不自由児療育指導員」になることになった。札幌の整肢園での研修は、初めて見聞きすることばかりで本当に大変だった。半年くらい精神薄弱児収容施設にいたからといって、障害について詳しくわかっているわけではない。私はその研修で初めて、脳性まひやポリオの重度障害の子ども達に出会い、それは「ショック」の連続だった。もちろん重度の障害の原因は、ポリオや脳性まひだけではない。毎日毎日、私は新しい病名を教えられ、その子どもたちへの治療やハビリテーションについての説明を受けたが、たった1ヵ月半でそんなことがわかるはずもない。研修を受け入れてくれた整肢園の医師も理学療法士も、そんなことが無理だということはわかりすぎるほどわかっていた。しかし、道内にはそもそも、このような子ども達を受け入れる施設も病院も足りず、主要都市には「マザーズホーム」はあっても、地方の市町村には親同士が集まる場もないのだ。だから、こんな小娘が指導員になることがどんなことかは想像はついても、「ないよりはマシ」ということで、精一杯指導をして下さった。必死に先生達が手渡してくれる参考書を読み、医師や理学療法士の方々にくっついて、お母さん達に語る言葉や、子どもたちへの対応を見逃すまいと努力はしたが、結果的には、多少障害について理解し、基本的な訓練の考え方や方法を知ったという程度にしかならなかった。「これでは、指導なんてできません」と叫びたかったが、もう開設の日は決まっていて、そのための準備にも私が関わらなくてはならず、暗澹たる思いで研修を終えた。それでも、「いつでもわからない時には電話をしなさい」と、色々な先生が声をかけて下さったので、私はそれを頼りに仕事につくしかなかった。その後、開設までに子ども達が使う玩具類や、最低限訓練に必要な器具をそろえたり、福祉事務所や保健婦さんたちに色々と話を聞いたり打ち合わせしたりで、あっという間に開設の日となった。さて、いよいよ「肢体不自由児訓練室」の開設の日がきた。肢体不自由児父母の会の親子が、会館の一室に集まった。これから私が付き合うことになる子どもと親とのご対面である。それ以前から、役員の人たちとは面識があったが、それ以外の人たちとは初めて合うのである。そして私は、集まってくる子ども達を見て「???」と頭の中がパチクリ。というのは、とうてい「肢体不自由児」とは思えない子どもがいたのだ。あとで詳しくそれぞれの子どもの障害や生育歴を聞くのだが、その時に私は、今まで聞いたことのない「自閉症」という病名を聞く。さらに、「ダウン症候群」の子どももいた。私が整肢園で研修を受けたのは、主にポリオと脳性まひについて。もともとはポリオ対応でできた病院&施設だったので、「脳性まひ」については、整肢園でも欧米の研究資料などを学びながらの試行錯誤状態だった。知的障害からくる運動機能の遅れの子どもへの対応は、あまり重要視されておらず、ダウン症候群をはじめとする知的障害についての話も、ほとんど聞いていない。10人前後集まった子ども達の中で、私が研修を受けた範疇に入るのは半分以下。あとは、知的障害と自閉症、さらに後で自閉症とわかる子どもであった。その時の私の気持ちをご想像いただけるだろうか。「私はいったい、どうすればいいの? 何ができるっていうの?」である。現実を知った私は、体の震えが止まらなかった。緊張と不安との塊というのは、あの時の私である。そんな私に、ダウン症候群の息子を持つ一人の父親が言った。「障害は違っても、親の気持ちはおんなじなんです。 今までは、このように集まる場所もなかった。 子どもが友達に会う場所もなかった。 みんな、先生に子どもの障害を治してほしいとか、良くしてほしいなんて思っていない。 ただ、子どもが楽しくなる場所にしてほしいんです」その言葉で震えが止まったかどうかは覚えていないが、私には暗闇に一筋の光のような言葉であった。自閉症の子は、一時もじっとしていられないようだった。常に猛烈な勢いで走り回っている。子どもの中にはごろんと転がっている状態の子も複数いたので、私は「この子がこの場に一緒というのは、危険ではないか?」と危惧した。そんな私の気持ちを察したのか、その母親が言った。「うちの子が肢体不自由児でないことは、よくわかっています。 この子がここにいるのは場違いだとも思います。 でも、この子には他に行くところが無いのです。 お願いですから、ここに通わせて下さい」私に、その痛切な母親の言葉を拒否できるはずがないではないか。そんなところから、私の悪戦苦闘が始まった。最初は、週3回訓練室を開き、あとの3日は在宅の子どもの訪問指導だった。指導とは名ばかりで、訪問して可能ならば子どもと遊び、母親の話を聞くだけ。私は当時も今も自動車を運転しないので、自転車で市内を回った。当時は、私だけではなく女性で車の免許を持つ人はとても少なく、開設日には、免許を持つ会長の奥さんが、ボランティアで各戸を回り送迎していた。ご自分のお子さんも一緒にではあるが。指導なんてできないことははっきりしているが、当時の私はやはり「私は指導員なんだから、それらしくしなくちゃ」と気負っていた。それが自分を苦しめることになるのだが、考えてみれば若い頃は多少の背伸びをして頑張らなくちゃ、成長もできない。私なりに、色々と指導計画を考えたり、一人一人の子どもに何ができるのか考えた。親子の関係、特に「母子関係」が指導に重要と研修で教わったので、そのあたりを観察したりもした。だが、当時の私は母親にもなっていない。そんな私がそんなことを考えて試行錯誤したり、時にはエラソーなことを言ったりして、今では穴があったら入りたいと思うくらいだ。そんな私であったが、お母さん達はみんな優しかった。そして、最初は「エッ?」と思うような障害を持つ子ども達も、次第にそれなりになついてきてくれて、みんな可愛く思えるようになった。視力が無いと言われていた子どもが、少しずつ動けるようになるにつれて、「目が見えるみたい」となり、やがてはお医者さんに「これは見えてますよ!」なんてびっくりされて、みんなで喜び合ったこともある。先天性の無眼球で、家の中をはいずりまわっていた子が、色々な刺激の中で好奇心や意欲も生まれてきて、機械的な筋力トレーニングも功を奏したのか、ちょうど訓練室に来ていた日に突然自分で歩き始め、私も勿論感動したけれど、そこに集まったみんなで涙を流し合った日もあった。今の私は、それは「奇跡」ではなくて当然の成長だったと思うが、当時の私には奇跡的なものに思え、日々のプレッシャーや悩みを瞬間的に忘れ、何とか仕事を続ける原動力になった。しかし、たった一人で毎日障害を持つ子と、その親達と向き合うのは、当時の私には本当に苦しいことであった。そして、そんなことは私でなくても無理な話であろうと今は思う。そんな中で、私は結婚し子どもを二人産んだ。健康な子どもを育てて、私は驚いたものだ。障害を持つ子どもが本当に苦労する壁を、健康な子どもはなんと易々と越えられるのだろう。親が何も教えなくても、訓練をしなくても、我が子は時期が来れば寝返りをし、はいはいしてやがて歩きだし、すぐに走り出す。そんな喜びも確かにあったけれど、やはり仕事と家事と育児の両立は大変だった。加えて、たった一人の指導員の苦しみは、年月がたったも少しも軽減されない。色々なことがわかるようになるにつれ、「こんな私が指導員をしているのが間違いだ」という気持ちになってくる。6年目頃から、私は今思えば鬱状態に近くなったと思う。そして、「心身障害児訓練センター」を市が開所するのをきっかけに、やっと私は仕事を辞めることができた。このセンターが開設されるまでが私の仕事と、思いつめたように日々を過ごしていたので、退職の日は本当に待ち遠しかった。もう2度と、この世界には足を踏み入れないぞとまで心に誓っていた。と同時に、猛烈な挫折感にも襲われていた。あれほど願った「福祉の仕事」を、達成感なしで去らねばならない情けなさ。結婚し子どもを育てながらも仕事をするという、理想を捨てる悔しさ。退職後の私は、解放感からとは程遠い自信喪失感・挫折感と向き合うことになった。蛇足であるが、私が仕事をやめることに決めた時、お世話になった道立肢体不自由児総合療育センターの理学療法士の先生にご挨拶に行った。その時先生は、「君は、孤独に耐えてこれまでよく頑張った。お疲れさん」と言って下さった。私はその先生に、そんなに愚痴をこぼしてはいなかったと思うのだが、(愚痴をこぼしたら自分が崩れそうになるので、誰にもあまり言えなかったと思う)先生は私の辛さをお見通しだったのだと思うと、有難いのと張りつめたものがはじけたように、涙がこぼれて困った。普段の私はあまり涙を流さない方なので、意思に関わらず涙が流れる状態は、やはり鬱だったように思う。
2011年05月31日
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このテーマで最後に書いたのは、3月2日。3月11日の東北大震災&大津波&福島原発事故で、私の個人的なことなどのんびりと書くことなんて、申し訳なくてできない気分が続いていた。ブログは書いていなくてもほぼ毎日チェックし、メールへのお返事などはしている。このところ、現在慶應通信で勉強中のお二人から、このブログがきっかけでメールをいただき、かなり過去のものとなってしまった「通信教育体験記」も、まだ多少の参考になるのやもと、少しホッとしたり、新たな刺激を受けたりもしている。地震・津波・原発災害関連は、まだまだ復興には程遠く、この日本の緊急事態に際しての政治家達の動きにはブログを書くのもなんだか力が入らない。現政権の対応については、決して満足はしていないし、特に原発関係についてはもっとしっかりやってほしいと強く思っているが、じゃあ誰がやったらもっとましなのか、民主党がダメなら自民党かというと、それだけはやめてほしいと思うし……。今はとにかく、これ以上の政局混乱は避けて、この事態を力を合わせて乗り切ってほしいと祈るのみ。しっかりと次の政権にバトンタッチできるのだと示してくれたなら、それは歓迎しないでもないけれど。ということで、ニュース関係は考えると自分でもわけがわからなくなりそうなので、久しぶりに「私の仕事遍歴」の続きをしたい。ここまででずいぶん長くなってしまったので、これはまえがきにしちゃおう
2011年05月31日
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実は、この3カ月で何本か映画を観ている。誘われて行ったのが多いが、なかなか見ごたえのあるものだったので、記録として残しておこう。「英国王のスピーチ」現在のエリザベス女王の父君、ジョージ6世の実話に基づく映画。兄のウィンザー公とシンプソン夫人との「王冠を賭けた恋」については何となく知っていたが、その陰に弟君のこのような苦悩があったとは全く知らなかった。幼い頃からの育った環境や虚弱な体質や性格、奔放な兄との関係なども絡みあって吃音となったのであろう。その状態で国王としてスピーチをしなければならなくなったプレッシャーはいかばかりであったかと、想像するだけでも胸が痛む。しかし、愛する妻や娘たちに励まされ、苦労を乗り越えてきた忍耐強さと痛みを知る優しさや誠実さは、苦難のイギリスを支える力となったことは、救われるような気もする。それにしても、ご苦労の多い人生だった。しかし、多くの国民はその姿に励まされたのだろうとも思う。映画を見ながら、ウィンザー公とチャールズ皇太子を重ね合わせたり、ウィリアム王子が父親ではなく曾祖父に似ていればいいなと思ったり、長い間体調がすぐれない雅子妃殿下のことや、不登校傾向のあった愛子様のことを思い、そのことが、同じような悩みを抱える人々にとって大きな励ましになることも思い、何とか乗り越えていただきたいと思ったり…。色々な意味で、とても考えさせられる映画であった。「ザ・ライト」エクソシストの真実これも事実をもとにした映画ということで観たのだが…。うーん、キリスト教では現在もエクソシストという職業があり、「悪魔払い」をしているとは知らなかった。映画自体は面白かったし、エクソシストを演じたアンソニー・ホプキンスの演技は「この役はこの人でなければ」と思わせるものだったが、やはり私の頭の中は「これって、何?」という?マークが次々に点灯していた。私達普通の日本人は、あまり悪魔とは縁がないし、強いて言えば「狐憑き」や霊に取り憑かれるというような感じだろうか。やはり「悪魔」は、キリスト教世界に存在するということなのだろう。日本でもカトリックの人たちは多いと思うので、その人たちの中には悪魔に取り付かれる人もいるのかな?映画の中で「カエル」が象徴的に登場するので、「なんで蛙?」と思い帰宅して調べてみた。この悪魔「バアル」は、もともとは悪魔ではなく、嵐と慈雨の神、豊穣神であったようだ。それが忌み嫌われる悪魔になっていったのは、やはり人間のなせる業のようで…。なんだかバアルが気の毒になってきてしまった。ともあれ、現在ではバアルは蛙や猫の姿で現れるようだ。私はもちろん、悪魔は信じてはいないので、やはり悪魔に取り付かれた状態はやがては精神医学的に説明可能なことではないかと思っている。「塔の上のラプンツェル」連休中に孫達と一緒に観た映画。典型的なお姫様物語というか、これぞディズニー映画というか。私にとって楽しかったのは、「3D映画」の初体験ということであろうか。キャラクターで今も印象に残っているのは、白馬のマキシマス。考えてみれば、孫達と同じ映画を映画館で観たのも初体験だった。「ブラック・スワン」これは、全く予備知識なしで観に行った。「バレリーナの話だよ」という友人の話で、バレリーナが葛藤の中で成長する物語らしいと想像しつつ映画館へ。ところが、美しいバレーの話しというよりは、ホラー映画だったはっきりいって、私はホラーものは苦手である。それでも、これはサイコホラーととでもいうのか、心理的・神経症的なものが生み出す妄想が映像化されているので、いわゆるホラーではなかったのかも。そして、それゆえに私には様々な感情や考えが渦巻く映画だった。母と子の関係、母親の過去が我が子にどのように影響するのか。その中での子どものとしての感情や、親の支配への反抗や自立への葛藤、コンプレックス・妬み・尊敬と愛憎などなど、もう人間の持つ業がこれでもかという感じで次々と描かれる。まさに、悪魔は人間の心の中にありとでもいおうか。ひょっとすると、あのような世界に生きている人たちは、程度の差こそあれこれに似たような心理状況を日々体験しているのだろうか。私は、特別な才能がなくて幸いだったと思ったりして…。
2011年05月21日
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このブログを始めたのは、慶應大学文学部を通信教育で卒業した体験が、これから始めようとしている人、または現在頑張っている人への参考になれば思ったのがきっかけ。どんな勉強であれ、通信教育で学校を卒業したり資格を取ったりすることは、独学が基本であり孤独なものだ。このような勉強方法でいいのかという不安も、常につきまとうことだろう。でも、卒業してからもう10年以上もたち、そのことでメールや書き込みをいただくことも本当に少なくなった。だが先日、本当に久しぶりに、同じ慶応の一類で勉強を始めた方からメールをいただいた。懐かしくなって通信教育関係のページを見直したりしていて、ふと気付いた。実は私は、慶應卒業後の数年後に、同じく通信教育で図書館司書資格を取ったのである。これは明星大学の通信教育部での、図書館司書課程履修生となり、二年間で司書資格をとったというわけである。慶應で学んでいた時、図書館には大変お世話になったし、その頃から図書館を中心としたボランティア活動にも関わっていたので、少しでも図書館での活動の役に立てばという思いと、あわよくばパートでもいいから図書館の仕事がしてみたいという夢もあった。結果的には、司書資格を生かす仕事にはつくことはなかったけれど、その後の図書館関係の活動にはとてもとても役に立った。現在も色々な場面で図書館に対する意見を言う機会があるが、図書館の役割・使命、図書館サービスのありかたなどについて、全体がわかっているのといないとでは、意見の言い方が違ってくる。図書館司書の勉強のためのレポートやスクーリングは、慶應でのものとは全く違った。科目試験は慶応の方が難しかったように思うが、レポートやスクーリングは、図書館司書課程の方が私には厳しかった。図書館司書の仕事の内容、特にレファレンスと関連するが、レポートは課題に対して必要なことがきちんと網羅されていなければいけなかった。「大体いいだろう」というあいまいさでは、再提出となってしまう。というわけで、私はレポートは何度も再提出をすることになった。スクーリングで難しかったのは、それまで全くなじみのなかった特に、資料の分類法や目録法は、予習しようにもテキストを読むだけではよくわからず、「まあ、スクーリングに行ったら何とかなるさ」と、慶應でのスクーリングをイメージしていたら大間違いだった。結局、スクーリング中に完全に理解することができず、慶應でもなかったスクーリングの再受講をしてしまった。とても役に立ったのは、スクーリングでパソコンなどを使った資料検索ツールを知ったこと。そして、レファレンスということが理解でき、それが司書の仕事の重要な要だと知ったことである。図書館は間違っても単なる貸本業ではないということが、それらの勉強によってはっきりと知ったことが、その後の私の図書館との関わり方を大きく変えたとも言える。今の私は、地元の図書館の理解者であると同時に、司書の人たちにとっては「味方なのか、意地悪ばあさんなのか」という感じだろう。それでも、大好きな図書館にそのような形で関われることが、私には喜びであることは間違いない。私は、通信教育で得た卒業資格も司書資格も、そのものとしては生かしてはいないけれど、日々の活動の中では大きな力となっている。学んだ知識は必ず過去のものとなる。でも、その知識をとっかかりとして、次の道筋を考えることはできる。それが多分、「学ぶことの意義」なのではないかとも思ったりする。
2011年05月20日
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正常稼働時に運転を停止してトラブルがあったとは・・。じゃあ、地震なんかがあったらどんなことになるか考えるのも恐ろしい。浜岡原発 海水400トン混入か 5月15日 23時51分5基すべての運転が停止した静岡県御前崎市の浜岡原子力発電所で、5号機の原子炉を通る水に海水が混じったとみられるトラブルで、中部電力が調べた結果、「復水器」と呼ばれる設備の配管が損傷し、およそ400トンの海水が原子炉などに流れ込んだ可能性があることが分かりました。このトラブルで、放射性物質は外部に漏れていないということですが、中部電力は、5号機の原子炉が海水で傷つかないよう対応することにしています。中部電力は、菅総理大臣から、浜岡原発のすべての原子炉の運転を止めるよう要請されたことを受け、4号機を停止させたのに続き、14日に5号機の運転も止め、5基すべてが停止しました。5号機では、14日の午後4時半ごろ、原子炉を通る水に不純物が混じっていることが分かり、中部電力が詳しく調べていました。その結果、原子炉で出来た蒸気を海水を使って水に戻す「復水器」と呼ばれる設備の配管が損傷し、およそ400トンの海水が原子炉などに流れ込んだ可能性があることが分かりました。このトラブルで、放射性物質は外部に漏れていないということです。中部電力は「400トンの海水は、原子炉に大きな影響を与えるものではない」としていますが、今後、5号機の原子炉が海水で腐食して傷つかないよう、塩分を取り除くことにしています。原発関連のことについては、最近は書く気も萎えてきた。ガクゼン、ゲンナリ、ウンザリの連続なんだもの。今は、一日も早くすべての原発を止めてほしいと祈る。このままじゃ、どれだけ地球上の皆様にご迷惑をかけるかわかったもんじゃない。東電初め「原子力村」のお偉いさん達も、政府与野党こぞって、能力もないのに見栄張って、事態をどんどん悪くしている感じ。それでも、私達はこの人たちに頑張って貰うことを祈るしかないという悲しさばかりが募る。
2011年05月16日
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福島原発の現状は、まだまだ予断を許さないように思う。福島の本格的復興がいつのことになるのかは、神様でもわからないのではないか。原発、海水利用の冷却断念…外付け空冷装置に読売新聞 5月2日(月)3時8分配信何回かブログでも書いてきたが、このような状況の時に「東電や政府の責任や保障」をいくら叫んでも、一人一人の生活や健康、そして未来の保障など無理というものだ。自分の未来は自分で切り開いてほしい。都合によって基準値を変えるなどというとんでもないことを、この国のお役人や権力を持つ人たちは平気ではないにしても、平然とやるのだ。非常時には、信ずべきは他人ではなく自分自身の直感と決断だ。自分では決断も行動もできない子ども達を守ることが、今は一番重要なことではないのか。辛抱強いのは素晴らしいとだけど、我慢するだけが強いことではない。辛抱は、明るい光に向けて歩くために使ってほしい。また、武田邦彦さんのブログの転載。福島やその周辺の人たちは、辛いだろうが現実から目をそむけず、自分(達)の底力を信じて勇気と決断をしてほしい。福島の30年福島は今、文科省の1年20ミリシーベルトの基準で動いている.これは何を意味するか、これからの30年を描画してみる.最後の判断をするのは福島の人だが、参考にしていただきたい。1) 人体への影響放射線は被曝する量に比例してガンが発生する.セシウムの半減期は30年だが、土壌が流れたりするので、それを10年としても、今から10年は他県より普通の状態より増えるガンが20倍、次の10年は10倍になるだろう.福島は「若年層ガン多発県」になる。福島の人には言いにくいし、申し訳ないが、これは科学的事実である.今、言いにくいからといって耳障りの良いことを言っても、そのうち事実となって現れる.そしてこのデータは「武田説」ではなく、国際的にも国内的にも多くの専門家が認めているデータである。2) 産業への打撃国際的に1年に1ミリと決めているのは、外国旅行をしたり、安心して外国の食材や工業製品を買えるためである.従って、これも福島に悪いけれど、今後、30年は福島には観光客は来ないだろう。福島の食材は買う人がいないだろう。そして外国の企業は従業員が赴任を拒否するし、サッカーも国際試合はできない。福島は日本の孤島となり、そこで仕事ができるかも不安が残る。3) 解決策唯一の解決策がある。それは郡山市の小学校が表土を除いただけで、1時間3.2マイクロシーベルトが0.5マイクロシーベルトに下がった。つまり放射線は福島の大地に落ちている「粒」から来ているので、それを除くだけでよい.梅雨の前に洗浄してしまえば、福島は綺麗になる.20ミリまで安心だというのは政府が福島にお金も人も出したくないからで、福島を綺麗にしないと福島の子供達の将来が心配だ。よく考えれば、「福島の復興は福島を綺麗にすること」であることは当然だ。削り取った表土は福島原発に返す.「1年1ミリシーベルト」は国際的な約束である。またヨーロッパは1年0.1ミリシーベルトを主張している.今、20ミリで良いと言っている専門家は、絶対に国際会議で時代に逆行する20ミリを認めさせる力は無い.「田舎としての日本」だけで通用する話だ。だから、20ミリまで大丈夫ということは、健康上も問題であり、さらに将来の福島を失うことを意味している.私は福島の人の決断に期待している.私は福島に安心して旅行したいし、綺麗になったらどんどん食材を買いたい。だから綺麗になることを期待している.(平成23年5月1日 午後9時 執筆)「風評被害」というけれど、現実的に放射性物質が日々放出されているのは、まぎれもない事実であり、それが将来的に「健康に影響はない」なんて、そんな風評を一般化させてはいけない。農業や漁業の使命を忘れないでほしい。安全で安心で、新鮮な食べ物を届けるのが、その使命だったはずだ。親の責任と使命を忘れないでほしい。我が子が元気に育ち、「生まれてきて良かった」と人生を楽しめるように育てるのが親の、そして大人の第一の仕事であろう。
2011年05月02日
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