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3月28日の拙ブログにアップした妙円寺墓地での上の写真は一体どういう石造物なのか、少し調べてみた。私が「この像はなんだろう」と書いたところkopandaさんから次のようなコメントをいただいたことがヒントになった。 「馬に乗った人物像、見たことがありません。まるで馬頭観音の逆バージョン。新たな謎です」それを読んで「なるほど! 馬頭観音に関係があるかもしれないなあ」と思いウイキペディアで「馬頭観音」を見てみた。私は過去に一枚だけ馬頭観音の写真を写して拙ブログに説明をつけてアップしたことがあるが、その馬頭観音は小さく写しており、全体像をはっきり見ることは出来ない。ウイキペディアの説明を引用すると「頭上に馬頭を戴き胸前で馬の口を模した『馬頭印』という印相を示す。観音としては珍しく忿怒の姿をとる。目がつりあがり忿怒の相に見える。馬が移動や荷運びの手段として使われることが多くなったことから路傍や馬捨場などに多く祀られた」という。そして右下に馬に乗った観音が写されていて「馬乗り馬頭観音」とあり、「千葉県を代表する特徴のある石仏」とある。目からウロコとはこのこと。馬を頭に戴く石仏だけでなく、kopandaさんの仰るように逆バージョンでも馬頭観音があったのだ。 そこで「千葉県の『馬乗り馬頭観音』」でウエブ検索してみると千葉県に多く見られる旨の記述があり、写真も多数掲載されている。 同じように鹿児島県で検索すると「伊佐の文化資源」に行きついた。そこに「平出水仁恵ノ木馬頭観音」が出てきた。説明に「馬頭観音像 三面四臂像の馬乗り」とある。意を強くした私は見出しの「馬頭観音像」から入り、次々に写真を見ていくと数枚の「馬乗り馬頭観音像」を見ることが出来た。デザインはそれぞれ違うがいずれも馬に乗っている。 ということは、妙円寺墓地で見つけた謎の石仏も「馬乗り馬頭観音」に間違いないのではと思う。
2013.03.29
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先日、妙円寺を訪ねたときに「歴代住職墓地」を徳重神社の境内奥に見つけて「五輪塔双式板碑」などの写真を撮ってきたのだが、帰ってから改めて「妙円寺のホームページ」を見ると私が訪ねた場所ではない写真が「歴代住職墓地」として掲載されている。私としては一応写真を撮るという所期の目的は果たして帰ってきたのだが、今度は「歴代住職墓地」が気になり始めた。そこで、不躾とは思ったが妙円寺殿にその場所や諸々のことを訪ねるメールを入れた。すると早速丁寧な返信メールが届いた。それには概略次のようなことが書いてあった。 妙円寺の歴代住職墓地は現境内の裏手の方にあります。これは移設したものではなく、昔よりこの場所にあったと聞いております。旧妙円寺は寺領が1万坪という広大なものでしたので、クマタツさんの行かれた徳重神社境内の墓地も昔よりのものと考えられます。ただ仁王像や、石像は廃仏毀釈の際に隠され(放置)たままになった状態となっています。徳重地区一帯が妙円寺寺領であり、境内の東側が寺守護職屋敷群、西側が墓地群であったと考えられます。尚、石屋真梁墓は玉龍高校奥の墓地や、深固院跡、天昌寺跡、また、石屋和尚が法を継いだ由緒の兵庫の永沢寺などにも点在しております。これが分骨を意味するものなのか、単に記念碑的な意味を持つのかは分かっておりません。また、妙円寺歴代住職墓地はいつでも案内できますのでお気軽にお越しください。 以上のような、非常に懇切丁寧な回答いただき、私が前回「仁王像」か? としていた石像も「仁王像」ということがはっきりした。ありがとうございました。 そこで早速「歴代住職墓地」を探しに行ってきた。メールで案内してくださるということだったが、先ず自力でと思い探したらすぐ見つけることが出来た。先日探したところのすぐ近くの山の手だった。上の写真と下の写真が「歴代住職墓地」である。 ここには、「五輪塔双式板碑」などは無かった。 妙円寺殿からのメールにあったように、徳重神社境内の墓地は「仁王像や、石像は廃仏毀釈の際に隠され(放置)たままになった状態となっています」とあったので、帰りにもう一回寄ってみようと思い、行ってみた。聞いた話ではここは妙円寺の管理ではないそうだ。この日はお彼岸の後だったからか、きれいに清掃され花もあげてあった。いくらかホッとしたが、やはりメールにあったように、よく見れば、確かに放置されたままという状態のものが多く、その後いくらかは手入れをされたり、並べられたりされたのだろうことが伺える状態である。しかし考えようによっては、よくこれだけのものが残されたものだと思う。これからも大事に保存してほしいものだ。 改めて「仁王像」を写してきた。 次の像は何なのか? 馬に乗る人物像(少年?) 放置された石像物
2013.03.28
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今朝は曇りで明けたが、しばらくするとお日様がのぞいてきた。近所の桜は先日からほぼ満開である。高齢者で作る「どんぐりの会」の花見は31日私が昨年の今頃まで借りていた市民農園のある「都市農業センター」で予定しているが、そのときは葉桜になっているだろう。 それなら満開の今のうちにミニ花見をしようと一人デジカメを持って出かけた。先ず最初は我が「どんぐりの会」のグラウンドゴルフ定例会場の公園に足を向けた。この公園は比較的新しいので、桜もまだ小さい。しかも5本しかなので、この時期グラウンドゴルフで集まる度に「市役所の許可をもらってどんぐりの会で沢山植えようか」という話になるのだが、許可が出るか出ないかも確かめないまま現在に至っている。上の写真がその公園。 次に行ったのがそこから10分くらいの公園である。比較的広いのでサッカー少年たちの練習場にもなっている。午前中は周回する人や、グラウンドゴルフをする人で賑わっている。 次はこの公園の上にテニスコートもあり、午前中からテニスボールを軽快にたたき合う音が聞こえることが多い。下ではここもグラウンドゴルフや体操、散歩をする人も多い。四阿もあるなかなか落ち着ける公園でもある。 私の住む団地には小学校が2つ、中学校が1つ、高校が2つ(高校野球の強豪校・樟南高校もある)、それに養護学校もある広い団地だが、私の子供の頃は全くの山で、あちらこちらに畑があり、さつまいもなどを作っていたような場所だった。それだけに起伏に富み次の並木道の右側は大きな崖になっている。この手前が公園になっていて桜もさいていたが、ここでは桜街道? を写してきた。 最後に行ったのは中央公園の一角である。ここは団地のほぼ中央にあり、テニスコートもあり、団地の夏祭りやグラウンドゴルフ大会なども行われる広大な公園である。ここでは散歩をする人も多く今日もそこそこの人々がくつろいでいた。 こうしてお手軽花見を楽しんできたが、速足の私が歩くと1時間で終わってしまった。もっともいつもの散歩コースの一つでもあるので、目標を定めて効率良く歩けたためである。
2013.03.25
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伊集院麓、城山公園、徳重神社、妙円寺を回り、そこから先日、日置市の教育委員会社会教育課文化係からメールでいただいた「五輪塔双式板碑」があるという「妙円寺墓地」を探すことにした。現在の妙円寺はそんなに広くなくて、本堂や石碑などの他、檀家さんが入る納骨堂もある。だが墓地らしきものは見当たらないので、お寺から出て周囲を歩き回ってみたが、それらしきものはない。諦めて帰ろうとしたが、そこで、以前、妙円寺があった現在の徳重神社の周辺にあるのではと思い再び徳重神社に行ってみた。そうすると本殿から少し離れた左側に小高い山に向かって2本の小道を発見した。先ず左の小道を進むとそこは墓地だった。 先ず目を惹いたのが石像に疎い私には判別できないが仁王像? みたいな石像だった。 次に正体不明の「五輪塔」二つ。右は「五輪塔単式板碑」なのか? 次に見つけた墓碑に「石屋和尚之墓」とある。開山石屋真梁(せきおくしんりょう)禅師の墓と思われる。石屋禅師はこの後、鹿児島市の島津家の菩提寺・福昌寺の開山にもなっていて、福昌寺墓地ににも墓がある。もともと島津家一族の伊集院家の出身である。 ここを出て、右側の小道に入る。ここは、左側の墓地よりも広く妙円寺の歴代の僧侶の墓標が林立している。入ってすぐ右に「五輪搭双式板碑」を発見。福昌寺にあったものと似ている。 次に目に入ったのが卍付「五輪塔双式板碑」。暗かったのでオートでフラッシュがたかれてしまって写りが悪い。ウイキペディアによると「卍とはヒンドゥー教や仏教で用いられる吉祥の印である」「左卍と右マンジがあるが日本では左卍が多く用いられている」とある。ただこの妙円寺の卍もそれとは反対の右マンジであり、先日アップした「島津立久公御夫妻之墓」にあった卍も右マンジだった。 次もはっきりしない双式板碑。 次は単式。僧侶の名前か。文字が書いてある。 左を写す。 右を写す この日はここまでにして帰路についいたが、先の情報にある「伊集院町内の石塔スケッチ集」にあるという、あと3か所「円通寺跡」「長寿庵跡」「破鞋庵墓地」もゆっくり探してみたい。
2013.03.23
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伊集院麓と城山公園を巡りいよいよ関ヶ原の戦いや慶長の役で勇名を馳せて、後に島津家17代当主となった島津義弘公のゆかりの徳重神社へ。 途中、島津忠良日新公の嫡男で伊作島津家から島津本宗家の15代当主となった貴久の息子たち、いわゆる「島津四兄弟」の義久、義弘、歳久、家久(18代当主・家久とは別人)の16代当主・義久に因む「島津義久公剃髪石」の前を通る。 一番上の写真は伊集院駅前の島津義弘公の銅像。関ヶ原でまさに敵中突破(島津の退き口)をする瞬間をイメージした像と言われている。 いよいよ島津義弘公を祀る「徳重神社」へ この徳重神社の地には、もともと法智山妙円寺という曹洞宗のお寺があったのだが、明治の廃仏毀釈により、廃寺になり、徳重神社が建立された。しかし義弘公の菩提寺だったこともあり、後年すぐ近くに妙円寺は再建され、義弘公の位牌もあるという。 鹿児島の三大行事「妙円寺詣り」「赤穂義臣伝輪読会」「曽我どんの傘焼き」の一つ「妙円寺詣り」は毎年秋、鹿児島市から20数キロの道を歩いてお詣りすることが、現在も続けられている。私のすむ団地のすぐ近くを通る道は前日の夜から歩く人が出始めて、当日は朝早くから終日歩く人でいっぱいである。中には甲冑姿で歩いてお詣りする人や集団もあり、壮観である。私も何回か近所の人たちと歩いてお詣りをしたことがある。 ただお詣りをする場所が徳重神社になっていて、通常は妙円寺まで行かないので妙円寺側から「妙円寺詣り」の名称についてなど異議が唱えられている。私は両方ともお詣りすることにしている。
2013.03.22
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伊集院麓を後に、すぐ近くの城山公園に向かって歩く。ここは「一宇治城跡」を公園にしてある。 天文5年(1556年)3月、島津家中の統一を目指していた島津忠良(「日新公のいろは歌」の日新公)・貴久親子は先祖代々の居城であった不便な伊作城から薩摩の中央部にあるこの城に拠点を移し、鹿児島(現鹿児島市)の制圧を目指していた。 当時、島津本宗家の居城は、私が「鹿児島清水城ガイド養成講座」を受講した「鹿児島清水城」そのものであった。鹿児島清水城は島津家7代当主・元久の1387年から14代当主・勝久の1550年までの164年間居城であったが、いまだ薩摩治まらず領国は騒乱、分家も反乱するような有様であった。そういう中、14代当主・勝久はやむなく1526年分家の伊作島津家忠良の嫡男・貴久を養子として世子(次期当主)とした。1527年貴久は清水城に迎えられ当主・守護職を継承したが、その後も幾つか波乱はあったものの、1535年一族等から支持を取り付け、1540年薩摩半島を統一した。そういう意味で「一宇治城」に陣取った伊作島津家の戦略は功を奏したということになる。 1549年、来航したフランシスコ・ザビエルとこの一宇治城で会見し領国での宣教活動を許した。 城山公園から日置市伊集院町を眺望する。 参考資料;三木靖先生「鹿児島清水城ガイド養成講座」資料。 ウイキペディア「一宇治城」
2013.03.21
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薩摩藩は1615年の「一国一城」令を受けて内城の鶴丸城以外の城は廃城とし、「麓」を置き「御仮屋」「地頭仮屋」という役所を置いた。これを外城制度(とじょうせいど)という。後に「郷」と称した。仮屋の周辺には犬槇の生垣や、石垣造りの郷士屋敷を置いた。1889年の町村制度後はここを村役場や小学校とした。薩摩藩には113の麓があったと言われている。現在でもその名残で県内各地に麓集落やバス停としてその名を留めている。 私もこれまでに10数ヶ所の麓を訪ねて、幾つかはブログでも紹介してきたが、今回初めて伊集院麓には行った。もっとも伊集院は鹿児島市の隣町なので、仕事では毎週のように行っていた時期もあり、また島津義弘公の故事に因む「妙円寺詣り」に歩いて行ったことや、温泉にもよく行っていたが、麓を訪問するのは初めてだった。 上記写真の「地頭仮屋本門」は伊集院小学校にある。つまり、仮屋跡が小学校になったのである。次の写真は伊集院小学校の正門前であるが、小学校で大きな工事が行われており、片側は車のオンパレードで麓の雰囲気がほとんど感じられなかった。前方にかすかに見えるのが、南方神社(みなみかたじんじゃ)である。諏訪神社とも言う。 境内に面白いものを発見。木彫りの仏像? が向き合っていた。だいぶ古いもののようだが、塗料のみならず、彫刻自体も痛んでいる。説明版もなく、何なのか分からないが、手入れが急がれる状態である。 南方神社を右に進み案内板に従って行くと「有馬新七」の墓に行きついた。有馬新七は幕末の志士の一人であるが、薩摩藩士によって寺田屋事件で粛清された。島津久光は島津家28代当主・斉彬の弟で29代当主忠義の父親であるが、斉彬亡き後、国父と呼ばれる権力者であった。久光は「公武合体」をめざしていたが、尊王攘夷派で急進的な有馬新七などはそれに飽きたらず、関白九条尚忠や京都所司代酒井忠義邸を襲撃することを決定したので、それを引きとめに行った薩摩藩士に粛清された。寺田屋騒動とも言われている。 麓を歩いていると石垣のある通りや石門のある屋敷、武家門のある屋敷もあった。これらが残る麓も多いが、同じ麓でも、ほとんど名残を留めない所もある。
2013.03.19
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写真は南さつま市にある「竹田神社」祭神は日新公。もともと日新寺であったが、ここも廃仏毀釈により廃寺となり、明治6年竹田神社として創祀されたという。奥には日新公の墓もある。 このところ、二回に亘って「日新公いろは歌」に触れる機会があった。一つは鹿児島城西ロータリークラブ、鹿児島国際大学自主講座、かごしま県民大学中央センター連携講座の特別講演会の中の「鹿児島歴史の旅」の中で、鹿児島国際大学名誉教授・三木靖先生が「島津藩主と歴代藩主の思想」として、「日新(じっしん)いろは歌」を取り上げられてお話を聞いた。そしてもう一つは、3月9日当ブログに書いた「全国藩校サミット鹿児島大会」で幼稚園児による「日新公いろは歌」朗誦や大学生の体験発表という形で大きく取り上げられ、記念誌にも寄稿文として掲載された。 では「日新公いろは歌」とはどういうものなのか。私も子供の頃からその歌の存在は知ってはいたが、人としての道を教えるものというくらいの認識しかなかった。これまで詳細については知る機会がなかったが、今回認識を新たにした。 島津忠良日新(1492~1568)は島津家の分家(島津家3代当主・久恒の次男に始まる分家)伊作家の10代当主・相州家3代の当主であった。時は島津家嫡流の14代当主・勝久の時代であったが、領国は騒乱、分家も反乱していた。そこで1526年伊作家・島津忠良は長男・貴久を勝久の養子にし世子(次期当主)にすることを認めさせた。その後も二転三転するが、1550年指揮権を貴久に譲り、さつま加世田城に隠退した。貴久により、薩摩は統一される。戦国大名忠良日新は同じころの他家には全く見られない「いろは歌」を作った。これは後継者(大名)、家臣、領民を念頭に詠んだものである。「いにしへの道」入り口石碑 このような一句一句「いろは歌」を書いた歌碑が47個左右に並んでいる。 「い」の一番の歌 「いにしへの道を聞きても唱えても わが行ひにせずばかひなし」(昔の偉い人たちの教えをいくら聞いても、自分の口で復唱しても、それを行動に移さなければなにもならない) 「楼の上もはにふの小屋も住む人の 心にこそはたかきいやしき」(立派な家に住んでいても、みすぼらしい草葺の家に住んでいても、人間の価値には関係ない。心がけが立派であれば、その人は尊敬されるのである) 「はかなくも明日の命を頼むかな 今日も今日もと学びをばせで」(今日できることを明日に延ばし、さらに明後日に延ばす。明日という日を頼みにすると結局何も出来ない。今日できることは必ず今日しなさい) 以上3句のみ書いたが、この歳になっても、47句全部が成程と思うことばかりである。時々読み返して自身を律しなければと思う。尚、興味のある方は「日新公いろは歌」でウエブ検索すれば、47句とその解釈も出てきます。 この「いろは歌」は人としての在り方を示すものとして広く人々に親しまれ、後の薩摩の郷中教育の基盤をなすものとなり、現在においても鹿児島の各地で普及に努めている。(尚、本文作成に当たり、三木靖先生の「島津藩主と歴代藩主の思想」のテキスト、並びに「第11回全国藩校サミット鹿児島大会」の記念誌を参考にさせていただいた)
2013.03.18
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昨年の暑い盛りの8月4日の第一回講座・記念講演「山城のあるまちづくり」で始まった「鹿児島清水城ガイド養成講座」もこの3月10日の第十回「甦る鹿児島清水城」を以って予定の講座を修了した。 第一回から第十回まで暑い日も寒い日も鹿児島まで毎月駆けつけて、しかもボランティァとして私達40人の生徒たちに毎回2時間以上休憩もされずに熱く語っていただいた三木靖先生の情熱には頭が下がるばかりだ。先生本当にありがとうございました。 私もその熱意に負けまいと、10回一回も欠席することなく講座を聞くことが出来て、3月10日の閉講式において、「鹿児島清水城整備推進協議会、会長 肥後吉郎」氏名の修了証をいただくことが出来た。 今回の講座は島津氏・薩摩藩の勉強を始めたばかりの私にとって、興味津々で、大変楽しく、これをきっかけにして、更にいろいろな事を知りたいという大きな動機づけにもなった。この歳になってもうあまり時間もないのだが・・・。(苦笑) 10回の講座で一緒に勉強したメンバーがこのままでは、まだ不足した点もあるので、今後は県内の「山城見学会」も予定されていて、3月25日「志布志城、高山城」を皮切りに5回の予定が立てられている。ところが一回目の日は他に予定を立てていたため、残念ながら参加出来ない。 話題は変わり我が家の雑草園の「玄海つつじ」が今年も咲いたので、変わり映えがしないがアップしたのでご覧ください。昨年来、草花の好きな妻が多忙で近所の皆さんが楽しみにしてくれている雑草園の花も今年は目ぼしいものがない中で、この花だけは健気にもいつもと同じように咲いてくれました。
2013.03.15
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昨日に続く。双体だけでなく中には単体もある。 大日寺僧侶の墓の一部を写した。大体の配置が分かると思う。 それより前、日置市教育委員会文化係にメールを入れて写真も添付し島津立久公御夫妻墓地跡にある石造物は何なのか、という問い合わせをした。しばらくして次のような返事がきた。 類似のものが、同じ日置市伊集院町の「円通寺跡」「長寿庵跡」「妙円寺墓地」「破鞋庵墓地」にあります。「伊集院町内の石塔スケッチ集」によると、「板石塔婆、五輪塔婆を陽刻し・・・」と説明があり、五輪塔を模したものと考えられます。因みに円通寺跡、妙円寺墓地所在のものは江戸時代とされています。日置市内の他の地区にもあるようですが、図面や写真の記載がなく、特定できませんでした。 以上の内容でkopandaさんから教えていただいた通りの見解であった。ということで、鹿児島にはこの形式のものが、他にも沢山あることが分かった。いずれ見に行ってみようと思う。これ以外にも県内各地に散在しているのか? もしそうであれば、とりたてて珍しいものではないのかもしれない。 そういう中、先日、島津氏歴代の墓所のある鹿児島市の福昌寺跡墓地に行った。入り口に向かっていろいろな石造物を眺めながら歩いていると、なんと、ここにもあるではないか。何回か行ったが初めて目についた。それが下の写真である。 双体の右の人形には彫文字があったが、風化している部分もあり、私の力では全部の文字を読み解くことは出来なかった。いずれにしても、島津本宗家の墓地の入り口にあったことで、大いに興味をそそられる。これも調べてみたい。 日置市からも新たな貴重な情報をいただいたので、近々訪ねてみたい。とりあえず、この2回で一段落として、新しいことが分かったらまた書くことにしたい。
2013.03.11
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上の写真は拙ブログ2月15日にアップしたものである。鹿児島県日置市東市来にある「島津立久公御夫妻墓地跡」にあったものを写してきたのだが、初めて見る石造物であったので、ブロ友のkopandaさんに「お分かりだったらお教えいただきませんか」と質問をしたところ「双子模様が彫られた石造物は、形は少し違いますが、五輪塔ではないかと思います。五輪塔は庚申でもつくられますが、この石造物はよく見ると、中央上に卍があるようですね。すると庚申ではなく、お寺自体が作ったのかもしれません。いずれにしても、図柄としては、五輪塔だろうと思います」ということをご教示いただいた。そもそも五輪塔は供養塔や墓搭のことである。 ただ珍しかったので好奇心に駆られて写してきた写真だったが、こういう形の五輪塔もあるのかと、ますます興味が湧き、ネットでも調べてみたが、情報が少なく同じような形のものがなかなか出てこない。そのうち、この形が五輪塔の中の「双式板碑」ということが分かり、さらに検索すると「球洲市第2巻・・・」というのでやっと見つけることが出来た。他にも「諏訪神社・・・」でも見つかったがいずれにしてもこの形状のものは少なかった。 そこで私は再度「島津立久公御夫妻墓地跡」を尋ねてみることにした。すると先日は目につかなかった石造物が墓地跡内に幾つかあるのを発見した。 次のの石像物には単体しか彫られていない 次は風化と苔で単体か双体かもはっきりしない もともとこの一帯は、市來鶴丸城のあった場所でその関連の史跡が多く残されている。この一帯は昨年の2月にも訪れてブログに書いているが、この日も歩き回ってみた。鶴丸城の山城跡に向かって山道を登って行くと、右側に「大日寺の歴代住職の墓」案内板がある。そこに10基を上回る五輪塔板碑を発見。 次は3体の彫刻がある 地蔵さん? も一緒 梵字も彫ってある 次回はこの続きと日置市役所からの説明を書く予定です。
2013.03.11
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「第11回全国藩校サミット鹿児島大会」が今日城山観光ホテルで開かれた。鹿児島においては、島津家第25代当主・薩摩藩第8代藩主重豪(しげひで)公が安永2年(1773年)藩校・造士館を設立し、西郷隆盛、大久保利通、東郷平八郎など多くの人材を輩出した。同校は、江戸幕府の湯島聖堂・昌平学問所をモデルとし、儒教の聖堂である「宣成殿」、講堂・学寮・文庫などを設け、また、「演武館」、漢方医学を学習する「医学院」天文学の研究所である「明時館(天文館)」を創設した。また、各地には「郷校(ごうこう)」が置かれ、環境や条件の厳しい中にも関わらず、遠く海外にも目を向けつつ、「進取の気風」をもって心身の鍛錬に励み幅広い教育を行った。それが第七高等学校造士館さらに鹿児島大学に継承されて現在に至っている。その精神を今後の教育にどう生かして,来たる新しい世の到来に備えて、人づくり、街づくりを考えていくのかというのが、大会の大きなテーマである。 午後1時、ロイヤルガーデンで開会された大会のオープニングで私達・鹿児島大学男声合唱団フロイデコールOBで作る合唱団が三曲歌うということになり、七高寮歌「北辰斜めに」逍遥歌「森の梢」鹿児島大学創立30周年記念祭歌「火の島は」を歌った。総勢50人平均70歳を超すおじさんたちの合唱に会場から一曲ごとに大きな拍手をいただくことが出来た。 歌を終わって、一般席に座り、大会に参加。大会会長の吉田浩己鹿児島大学学長の開会の辞、主催者挨拶、大会実行委員長の基調報告、歓迎の挨拶として、島津家第32代当主・島津修久氏、鹿児島県知事・伊藤祐一郎氏、鹿児島市長・森博幸氏の話を聞く。来賓祝辞として徳川家当主のご長男の挨拶があった。その後、来賓(旧藩ご当主)紹介があり、今回参加された31藩のご当主が壇上に上がられた。旧藩主とはいえ、歴史上有名な旧藩ばかりで歴史好きの私にとっては夢のような出来事であった。いくつか披露すると、米沢藩・上杉家、仙台藩・伊達家、福島藩・板倉家、水戸藩・徳川家、江戸幕府・徳川家、彦根藩・井伊家、和歌山藩・徳川家、土佐藩・山内家、薩摩藩・島津家などである。 その後、午後5時30分まで、記念講演や鼎談などがあった。明日10日は4コースに分かれて視察研修旅行が行われることになっている。
2013.03.09
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鹿児島市に甲突川五石橋と呼ばれた有名な橋があった。いやあっと、いうのは間違いで現在でもあるにはあるのだが・・・。これ等は江戸時代末期に肥後の名工・岩永三五郎によって架けられ、創建以来150余年の間、現役の橋として利用されてきた。甲突川上流から「玉江橋」「新上橋」「西田橋」「高麗橋」「武之橋」の五つである。その橋のうち「新上橋」と「武之橋」が今からちょうど20年前、平成5年8月6日(1993)の集中豪雨による洪水で流失してしまった。鹿児島で今でもよくいわれる「8,6水害」である。20年経った今でも私も当日のことは忘れることのない豪雨だった。 その後、残った3つの橋もこのままでは、再び豪雨がくれば危ないということや、古い橋ゆえの交通問題もあり、市民の反対運動もあるなか、平成12年4月上町地区にある祇園之洲公園に「玉江橋」と「高麗橋」が、移設復元され、隣に新しく石橋記念公園を造り、そこに「西田橋」が同じく移設復元された。 上の写真は石橋記念公園に移設復元された現在の西田橋(県指定重要文化財)である。では移設前の西田橋はどうだったのか。ここにもともとあった場所に新しく架けられた新西田橋の写真と当時を写したモニュメントとして川沿いに残された案内板を写してきたので紹介したい。 尚、古い写真にもあり、移設復元された橋の入り口にもある「西田橋御門」はここが参勤交代の出水筋でもあり、藩にとって重要な街道だったので、通行人チェックのための番所の一部として設置され、西南の役で焼失してしまったが、復元がなされた。 移設復元された玉江橋。 移設復元された高麗橋。 岩永三五郎像。 同じ公園内にある薩英戦争の砲台跡碑。 尚、当ブログを書くに当たり、「石橋記念公園」のパンフレットを参考にしました。
2013.03.07
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久しぶりの上町歴史散歩である。もっとも散歩は最近行ったのではなく、昨年3回ほど訪ねたもので写真もその時のものである。 この日は、「鹿児島清水城ガイド養成講座」終了後近くのスーパーでパンとコーヒーを買い込んで鹿児島本線の踏切を渡り、多賀山公園への階段を登って行った。私は中学2年生の途中から22歳の春までこの清水町の住人だったので、数えきれないほど遊びに行った場所である。 次の写真は「多賀神社の御由緒」である。 それには次のような記述がある。「当神社由緒は、16代の藩主島津義久、近江国多賀大社のご祭神が寿命神であることを聞き当て、藩内にこのような社が無い所から、是非この神を祀って藩内万民の保命を祈らむと、鷲頭不動院に命じて本社のご分霊を斎せんと、天祥年近江国へ遣わし、還魂を執行せしめ、天正7年己鵜2月6日御勧請、現在の地に御鎮座されたもので、以降代々の藩主の崇敬篤く、殊に戦前戦中は参詣多く隆盛を極め、永年子宝に恵まれなかった夫婦が当神社に祈願を為て子宝を授かり、又、瀕死の重症者が御神慮に依り一命を取止めた等々、枚挙にいとまがない程、数々の実例を持つ、霊験顕かな神さまであります。 鶴江神社は21代の藩主吉貴 江戸芝神明宮より宝永3年丙成9月15日勧請。後、大正5年2月14日春日町より多賀神社へ合祀され、現在に至る。」 ここ多賀山は、今ではすっかり公園化されているが、私が清水町に住んでいた頃は、多賀神社の他には東郷平八郎元帥の墓があるくらいの場所と思っていた。ところが、今回「鹿児島清水城ガイド養成講座」を受講したり、いろいろ島津氏について調べるなかで、ここに島津氏が清水城に移る前の城・東福寺城があったことを知る。もっとも島津氏が自分で築いたものでは無く、肝属氏との戦いで勝ち取ったものである。東福寺城の石垣か確認は摂れていないが、このようなものが何ヶ所もある。 東福寺城について「島津家おもしろ歴史館」に次のような記述がある。薩摩国と大隅国の境目に位置する鹿児島は、錦江湾にも面し、両国を統治するのに絶好の場所でした。島津氏がこの鹿児島を拠点にするようになったのは、南北朝時代の暦応4年(1341)、5代貞久が南朝方の肝属兼重らが立て籠もる東福寺城を攻略し、6代氏久をこの城に住まわせてからのことです。この東福寺城は、鹿児島市の北部、錦江湾に突き出た小高い山に築かれた山城です。貞久がこの城を占領した頃、北朝方の島津氏は、鹿児島の南部にある谷山城の谷山隆信ら南朝方と激戦を繰り返しました。ですから、防御を第一に考えて、東福寺城が島津氏の拠点として選ばれました。 ここ多賀山から海側に下ると磯公園に向かう道に出る。本来は車でも登ってこれるこちらが本道である。
2013.03.04
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2週間ぶりの更新である。もう弥生三月になってしまった。「二月は逃げる」とは昔の人はうまく言い表したものものだと思う。日数が少ないこともあろうが、ほんとに二月はあっという間に逃げて行ったというのが実感である。こうして歳を重ねていくのかなあ? 徒然なるままに旧いエッセイを読み返していたら、私が閑になって急に主夫業に目覚めたころ書いたものが出てきた。このエッセイを書いた頃と現在の生活はほぼ同じに推移しているので披露してみる。 エッセイ「主夫業 定着?」 (2009年10月記) 私の会社からの完全リタイアを待っていたかのように、妻の持病の手荒れが酷くなってきた。昨年までもそうだったが、夏の入り口くらいから特に毎年悪くなるようだ。皮膚科も何軒もまわり、色々なアレルギー反応の検査なども受け薬を試してみたがなかなか良くならない。民間療法も取り入れてみたり、大概のことはやってみた。 今年は伊集院の太田鉱泉まで霊験あらたかという冷泉の水まで買いに行く始末だった。これも二カ月くらい続けてみたがどうもはっきりしない。 こうなれば、しばらくの間、出来るだけ水を使う仕事を控えて、しかも乾燥を防ぐ手立てを講じなければならない。市販の手袋はどれも「帯に短し、たすきに長し」という感じでぴったり来ないという。そこで私の働いた会社が特殊な手袋を無数に取り扱っていたので、取り寄せてもらった。そして買いに行ったとき、別な試供品なども貰えて、いま5、6種類の手袋をTPOに応じて使い分けているようだ。 そういうことで、茶碗洗いくらいは私がやろうと自分から手伝うようになった。結婚して40数年、忙しさと怠け心からたまの風呂掃除と買い物のつきあいくらいしかしたことのなかった私にとっては、それでも革命的なことである。洗い物は茶碗・皿から鍋・釜までご飯を炊くための米とぎまで、もちろん一切である。少ない数ではあるが、一日三度、必ずやらなくてはならない仕事であり、やり始めてみるとそれなりに大変なことだ。「まだ子供たちも家にいたころからの40数年毎日よくやってきたねえ」と妻に言ったほどだ。だが慣れない仕事ゆえ、たまに皿を割ったり、傷つけたりするが、妻に「ランニングコストだから・・・」と慰められるのか、励まされるのか分からない言葉をかけられながらやっている。 最近は朝6時、妻と一緒に散歩に出かけ、7時ごろ帰って草花の水やりの後、私はコーヒーを沸かし、パンにバターを塗り、トーストにする。妻は我が家特製の果物入りヨーグルトの準備をして朝のドラマ「ウェルかめ」と「街道てくてく旅」を見ながら食事をすることが、朝の定番になってきた。 そんなかたちで一日が始まるが、妻は最近、以前にも増して出かけることが多くなった。所属する二つの合唱団が二つとも近く大きな行事を控えているためだ。一つは日本の合唱界の大御所であったT先生の七回忌の祈念コンサートが東京であり、お世話になった合唱団の一員として、それに出かける練習のためである。T先生は2、3カ月に一回、鹿児島にみえて、妻の所属する合唱団の指揮をされておられたが、お亡くなりになり、その後を今度は息子さんにお願いして同じ形で指導を受けている。 もう一つはこれも所属する合唱団の指揮者の先生が別の合唱団も指揮をされており、この二つの合唱団が12月11日ジョイントコンサートを開こうというのだ。こちらは役員もしているので、その打ち合わせのため練習日以外にも出かけることが、多くなっている。 それやこれやで最近は否応もなく、私の出番が多くなったわけだ。洗い物の他、朝のゴミ出し、洗濯物の取り込み、簡単な買い物などなど我ながら少しは仕事のレパートリーが増えてきたなあと思う。だが決定的な料理、洗濯は一切やらない。いや未だに料理は全然出来ないし、洗濯機も動かし方も分からないのだ。 ということは、私の主夫業と言ってもたかが知れたもの!妻がやったことの後始末だけじゃないか!でもまあ、そう自嘲的にならずに頑張ることにしよう。【完】 現在から見ると約3年半前の出来事だが、つくづく進歩がないなあと思う。その後、当ブログにも書いたように、数回の料理教室参加はあったものの、相変わらず料理はインスタント以外は手を付けていないし、洗濯機も動かせない。今も、反省点は同じ「でもまあ、そう自嘲的にならずに頑張ることにしよう」お後がよろしいようで!
2013.03.01
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