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島津家の墓地のある福昌寺跡に私の母校G高校はあった。墓地は現在も高校の敷地上の山側に静かな佇まいを残してきれいに残されている。この墓地については拙ブログで数回にわたって紹介してきたが、今回は先日に引き続き別な観点から見てみたい。 島津家の菩提寺・玉龍山福昌寺は1394年島津家7代当主によって創建された。そしてここに島津家6代氏久と師久(二人いた)から28代斉彬までの当主が眠っている。しかし明治の廃仏毀釈によりここも廃寺となった。 上の写真は見にくいが、島津家歴代当主とその墓標の位置を記した案内板である。初代当主から5代当主までの墓は、ここから近い清水町の本立寺と出水市の感応寺にあり、29代以降はここの西方の常安峯にあると書いてある。 そういうことで墓地内を見て回ったが、ただ一人7代島津伊久(これひさ)の墓だけはいくら探しても見つからない。改めて案内板を見ると7代当主・伊久と書いてある(島津家正統系図」でもそうなっている)のに墓の配置図には伊久墓の表示がない。伊久の墓だけが無いとはどういうことだろう。そのことについては、数回ここを訪れるなかで気がついていたが、いろいろ調べても回答を見出せなかった。 では、その第7代島津伊久とはどういう人だったのか。明治維新までの島津家700年の歴史の中で、前記6代当主が氏久と師久、7代当主が元久と伊久と二人づついたのも異例だが、これには、訳がある。その辺りにも問題の根はありそうだ。 元久の祖父5代当主・貞久(薩摩・大隅の守護)は息子たちが協力しあいながら南九州を統治していくように第3子・師久(総州家初代)には薩摩国守護職を、第4子・氏久(奥州家初代)には大隅国守護職を譲ったためである。 しかしその息子たちの代になり、師久の長子・伊久(総州家2代・当時薩摩国守護職)とその息子・守久は仲が悪く、守久は父を攻めた。氏久の長男・元久(奥州家2代)は父親から引き継いだ大隅守護のため志布志にいたが、帰ってきて伊久と守久親子を和解させた。そしてこのとき、元久は大隅と薩摩の両方の守護をするようになり、それ以降当代当主はまた一人になった。当然のことながら6代の二人と7代の元久の墓標はここ福昌寺跡にあるのに、伊久の墓標のみがここにないのである。 では何故そいうことになったのか。伊久という人は私からみれば欲のない、お人好しの面があったようだ。と言うのは先に書いた伊久親子が争ったとき、同じ7代当主で大隅守護だった元久が仲介に入り、事なきを得たのだが、元久に恩義を感じた伊久は家宝を元久に譲り、あまつさえ薩摩国守護も元久に譲っている。しかし、その後、元久と戦うという局面もあり、凋落していくのだ。こうしてみると自業自得の面もあるが、悲劇の人である。そして最後は薩摩平佐城(薩摩川内市)で病没したとされる。しかし薩摩川内市にもどこにも墓はないという。 福昌寺跡墓地の7代元久の墓標 実はこれまで高校の同期会でKクンが中心になって(いや ほとんど彼一人で)「八期会通信」を16年間にわたって発行してきたのだが、古希の年を最後に休刊になっていた。ところが昨年末の同期会で老い先短い? 我々だが、いくらかでも余力のあるうちに「最後の記念誌」を作ろうということになった。そこで私が選んだテーマが「鹿児島清水城と玉龍山福昌寺」である。 今日の文章はその一部を思うがままに書き抜いたものである。ここでは、島津家第7代当主・島津伊久の墓が無いことを中心に書いて、何故そうなったかということまでは書いていないが、島津家ゆかりの場所に厚かましくもメールを入れて丁重な回答をいただいた。そこでもはっきりとしたことは分からないようだが、一応私も「なるほど、そうかあ」と思うものだった。そのことは記念誌の原稿には書いて提出したが、拙ブログでそれを書く日があるかもしれない。
2013.06.28
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私が子供頃住んでいた武町にあった「島津どんの墓」と呼ばれていた島津墓地のことは2011年11月25日の拙ブログに「鹿児島市武にあった島津墓地のこと、再び」というタイトルで書いたほか何回か書いている。 上の写真は「武郷土誌」にあったものを以前コピーしていたので、今回それをデジカメで撮影してアップしたものだ。(武郷土誌によると島津久敬氏提供とある)この写真の墓地は私が小学校の3年生のとき疎開先から鹿児島市に帰ってきて、借りた家の大家さんの隣りの土地にあったので、私たちの遊び場でもあった。しかし、なんと言ってもまだ小さかった60数年前のことで墓の形や数などは全然覚えていなかった。ただ子供のころ遊んだ墓地や山の佇まい当然のことながらそのままで、この写真を見たときには懐かしさがこみあげてきた。残念ながら区画整理の後、九州新幹線のトンネルがこの横を貫き、昔の面影を残すのは裏山(武岡)だけである。 ではこの墓は島津家のどなたの墓だったのか。詳しくは以前の拙ブログに詳しいが、4基のうち3基は、第20代島津家当主で第3代薩摩藩主・島津綱貴公の御夫人、後のご婦人、娘さんの墓標である。(この写真には3基しか写っていないが、武郷土誌には4基の詳細が記述されている) 今回はその武の「島津どんの墓」が区画整理により、島津家の菩提寺である福昌寺跡墓地に移設されたのを追いかけてきたので、書いてみる。 武の島津墓地の写真には3基しか写っていなかったが、今回は4基並んだ全景も写してきた。ただ並びは武の墓地の真逆になっている。 一番右側は八角柱が特徴の前記・島津綱貴公の後のご婦人の信證院殿の墓である。 右から二番目は五輪塔で、綱貴公の娘さん・信解院殿の墓である。 右から三番目の宝塔は同じ綱貴公の御夫人常照院殿の墓である。これは私が見たところ、宝塔の特徴である円筒形の塔身は新しいものではないかと思った。というのは武郷土誌の記述と表面の文字などが少し変わっていて、しかも新しい塔身に思われた。とすれば、移設の際に風化していたかで、新調されたものだろう。 円筒形の塔身の下の石は武郷土誌にある通りだった。 宝塔の左側にある祠状の墓は島津家26代当主で第9代薩摩藩主・斉宣公の後夫人である蓮亭院殿の墓である。 もちろんこの同じ墓地には綱貴公の墓も、斉宣公の墓もある。 ここに綱貴公の写真をアップする。
2013.06.25
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台風が予想より早く「温帯低気圧」になり、何事もなく終わってしまったが、その後も雨模様の日が多い。おかげで宮崎に行っていた妻の留守中も水やりも一日だけやっただけだった。そして今日夕方、雑草園を覘いてみると、ご覧のとおりいつの間にか「にがうり」がそこそこの実をつけていた。雄花ばかりでがっかりしていたが、ここにきてうまく回り始めたようだ。 金曜日から宮崎で開催された「おかあさんコーラス九州大会」に行っていた妻が、昨夜遅く帰ってきた。合唱漬けの3日間でお土産も買う暇もなかったそうで、宮崎名産は何も買ってこなかった。ただ大きなお土産を持って帰ってきた。全国大会出場という大きなお土産である。 鹿児島県から19団体、九州全体で91団体の参加があったそうだが、その中の約一割の9団体が大阪で8月22、23日から開催される「おかあさんコーラス全国大会」への切符を手にしたとのこと。妻は二つの団体で出場したが、そのうちの一つが合格。この団体は全国大会出場3度目である。鹿児島からはこの一団体のみだそうだ。
2013.06.24
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6月の梅雨と台風が重なってしまって、南国鹿児島も鬱陶しい日々が続いている。妻は明日・明後日と二日間にわたって宮崎で開催される「おかあさんコーラス九州大会」に出場のため、先ほど家を出て行ったが、貸し切りバスが10時出発とのことだったので、今頃は高速道路を宮崎に向かっていることだろう。しかし、出発までが大変でこの2,3日台風情報に振り回されていたようだ。二つの合唱団で歌っている妻は、一つの平均年齢70歳越えの方の団長をしており、事故があったら大変なので、昨日になって、今日の出発時間も1時間遅れにするなど、最後まで旅行社との調整などやっていた。 いまは空は暗いものの、雨も止んでおり、宮崎に着くまで台風が大人しくしてくれることを願うばかりだ。 ところで、梅雨時になると思い出す歌がある。北原白秋の作った詩「柳河風俗詩」の中の四つの詩に多田武彦が男声合唱組曲として作曲した「柳河風俗詩」である。「柳河」「紺屋のおろく」「かきつばた」「梅雨の晴れ間」の4曲からなり、男声合唱の不朽の名曲といわれている。 私たちも学生時代から何回も歌ってきた歌であり、ほとんど暗譜で歌えるくらい歌いこんだ歌である。ユーチューブを見ていたら「西南大学グリークラブ」が90周年記念演奏会で歌った「梅雨の晴れ間」が出てきたので、久しぶりに聴いてみた。 「西南大学グリークラブ」といえば私の学生時代、西部合唱コンクールの大学の部で常勝といっていいほどのうまい男声合唱団だった。そこで常連で入賞を争っていた「山口大学メンネルコール」と私たちの男声合唱団と3つの合唱団が毎年一回持ちまりで3大学合同演奏会を開催したものだった。 この「梅雨の晴れ間」は軽快なリズムで梅雨を吹き飛ばすような歌である。他の3曲もユーチュウーブで聴けると思うので興味のある方は聴いてください。 上の2枚の写真は我が家にささやかに咲いたアジサイである。
2013.06.21
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梅雨の晴れ間の一日である。台風が心配される今日・明日である。そいうのかで自分が冬籠りならぬ梅雨籠りを決め込んでいただけのことで、前回の更新からだいぶ日にちが経ってしまった。 とは言うものの、別に梅雨籠りをしなくてはいけないほど南国鹿児島に梅雨らしい雨が降ったわけでもない。と言うよりも全国的な例に漏れず空梅雨に等しいのである。ただ恐れるのは空梅雨と梅雨末期の集中豪雨であり、まんべんあく降ってくれるのが一番ありがたいことだ。いつもの気まぐれがブログから私を遠ざけていただけである。 少し梅雨らしい季節を感ずるとすれば、上と下の写真の通り、今年は我が雑草園の少しの夏野菜が葉っぱを茂らしていることくらいである。昨年の春、まだ権利のあった市民農園のささやかな土地を返却し、庭先の雑草園に今年と同じくらいの野菜を植えたことは昨年も拙ブログに書いたが、その時は、農園と比べて生育も悪く、葉っぱすら大きく育つことはなかった。 今年はその反省から同じ鉢植えながら、肥料も水も絶やさず与えたせいか、写真のような状況になってきた。特にミニトマトは農園を彷彿とさせるくらいに沢山の実をつけ始めている。これからが楽しみである。
2013.06.19
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