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私は死刑廃止論者だ。そしてそのことは以前このブログでも書いた。その際にも存続派の方々から様々なご意見を頂いた。ものの見方、考え方もいろいろだから、何が正解かということは、簡単には導き出せないということを、その時思った。ところで先日、中国で麻薬を密輸しようとして逮捕された日本人に、死刑の執行が通告された。間違いなくあと数日で、彼は命を絶たれるだろう。個人的にはかなり厳しすぎるのでは、と思ったが、しかしこれは中国国内でのことである以上、彼の国の基準に従わざるを得ない。この場合の死刑執行は止むを得ない、というのが私の見解であるが、同時にそのことを哀れにも思う。ただネット上でのいろんな声を見聞きしていると、これまたいろんな意見が飛び交っている。「ちょっと厳しすぎやしないか?」という声もある一方で、「当然!」とか「日本の恥!」とか、果ては「日本は甘すぎる。中国を見習え!」などという声も少なからず見受けられた。私は国粋主義者というわけではないが、同胞がこのような扱いを受けることに関して、こういうリアクションが返ってくることに、少なからず違和感を覚えた。もちろんどの意見が正しいか否か、などということは誰にも判定できない。ただ「人の死」というものがずいぶんと軽く考えられているのだな、というところで、価値観のあまりの違いを痛感したまでだ。
2010年03月31日
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最近ちょっと変わったお酒の飲み方を試している。どういうことかというと、「原料を見ながら飲む」ということだ。日本酒を飲むときに米粒を見つめながら、ワインを飲むときにブドウの実を眺めながら、といった具合だ。どうも私たち現代人は、様々な食品や飲料が造られる過程を、頭では分かっていても実感として感じられないことが多い。例えば日本酒の原料が米だということは誰だって知っていても、それがどういう過程を経てあの馥郁たる飲み物になるのか、具に見たことのある人は少ないはずだ。だから実感としては、何となくタンクからじょろじょろと出てくるところか、あるいは大手メーカーの瓶詰めラインくらいしかイメージが湧かないかもしれない。でも目の前に米粒があって、これが今飲んでいるこのお酒になるのだ、と考えると、詳しい過程は分からなくても、ああ、この一粒がいろんな旅を経てこの透明な液体になっていくんだな、と感慨に浸ることが出来る。そうすると飲んでいるお酒の味が、ひと味もふた味も変わってくるというものだ。バカバカしい話かもしれないが、よかったらぜひお試しあれ。
2010年03月28日
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ツイッター上のある人の話の中に、腹筋を鍛えるときは、同時に背筋もやらないとバランスが悪い、というのがあった。ふ~ん、そんなものなのか、と思ったものだが、実は最近それを実感している。もう5ヶ月ほど、ジムでトレーニングをしている。5ヶ月といっても週に一度程度のペースだし、それほど過酷なことをしているわけではない。しかしジムでトレーニングするようになってから、私の中でちょっと変わってきたことがある。以前から患っていた腰と背中の張りが、さほど苦にならなくなってきたのだ。考えてみれば私の日常の仕事といえば、特定の箇所に過剰に負担を強いるものだ。だから、日常的に体を動かしてるつもりでも、実際のところは全体的にバランスの良い運動ではない。だから腰や背中などにそのシワ寄せが来るとも言えるだろう。そこへ行くとジムでのトレーニングというのは、一定のメニューに沿って忠実に行うもので、それは専門家が練りに練ったものだろうから、理に適ってるはずなのだ。そうやって体中の筋肉のバランスを保つことで、今までシワ寄せがいっていた腰や背中が、気にならなくなってきたのかもしれない。私にとってこれは嬉しい誤算だった。で、ここまで書いて思い出した。私が2年半ほど前に急に腰痛を患い出したのは、ある日ふと思い立って毎日腹筋をするようになったことがキッカケだったのだ。「だった」と断定口調で言い切るにはその根拠がいささか乏しいが、あの時も背筋はやらずに腹筋だけだったから、冒頭の話に当てはめると合点がいくのだ。
2010年03月24日
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今日から選抜高校野球が始まったが、それとは全く違う次元で、高校野球春季大会の地区予選も今日から始まった。この大会は勝ち上がっていっても東海大会どまりなので、メディアの注目度はあまり高くないが、選手たちにとっては数少ない公式戦のひとつだし、夏の甲子園予選のシード権も掛かっているので、否応なく気合が入るというものだ。わが長男は一応ベンチ入りは果たしたものの、まだ1年坊主で、もらって来たのもずいぶんと大きな背番号なので、まず出番は無いだろうと思ったが、ちょうど日曜日でもあるし、妻と一緒に観戦に行ってきた。ところが行ってみると、なんと8番キャッチャーでスタメン大抜擢、そしてそのままフルイニング出場した。これにはこちらがビックリしたが、同時に彼がその期待に応えられるかどうか、いささか不安な気持ちで見つめていた。結果的には守備面でのエラーは無く、打つ方では5打席中3度の出塁だったので、まずまず及第点といったところか。チームの方は辛くも1点差で何とか逃げ切ったが、公式戦デビューがいきなりのフルイニング出場で、さすがに今日は疲れたようだった。今日出掛けにセンバツの入場行進を見ていた時、地元高校の選手の中に、かつて長男が小学校の時にしのぎを削った、あるライバル選手の顔があった。そういえば私がこのブログを始めた頃、ちょうど長男が小学校のチームで、レギュラーとして出始めていた頃だったことを思い出した。テレビに映ったライバル選手の顔をぼんやり見つめながら、その間の年月の長さを実感し、同時にそれだけ長くブログを続けてきたんだな、ということに自分自身驚きもした。
2010年03月21日
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この時期、あちこちで高校や大学受験の合格発表が行なわれている。今年は我が家には縁の無いハナシだが、周りにはその当事者になっている人はたくさんいるし、そういう人達の合否情報などもいろんなところから伝わってくる。今日もとあるお得意先の飲食店に配達に行ったら、そこのお嬢さんにばったり出くわした。彼女は先日高校受験を終えた中三生だ。県立高校の合格発表は昨日だったから、もう彼女の進路は決まっているのだが、それが判らない以上さすがに軽々に声は掛けられない。しかしスルーするわけにもいかないので、とりあえず「卒業おめでとう」という言葉で、お茶を濁した。今はとかく個人情報保護ということが先に立つので、噂話か直接尋ねるしか、受験の合否や進路などを知る手立ては無い。確かに所詮他人様のことなので、知らなくてもそれはそれで済んでいくものだが、これがお得意先のご子弟となると、顧客情報の一環としてぜひとも掴んでおきたいところだ。というのも普段の何気ない会話の中で、相手がそのこと(自分の子供の進路など)を、私が知っているものだという前提で話すようなことが、往々にしてあるからだ。そこで私が知らないと、話自体がかみ合わなくなる。また私が知らないがために、図らずも失礼なことを口にしてしまう恐れもある。しかしそういった受験の合否や進路のことなど、当事者にあけすけに尋ねるのは、少々憚られる。どんなに近しい間柄でもやっぱり気を遣ってしまうし、相手がお得意先ならなおさらだ。合格してれば問題ないのだが、不合格だったときに他人から合否を尋ねられることの辛さは、私たちも昨年イヤというほど味わっただけに、余計にそう感じてしまう。先方の方もあけすけにしゃべってくれる人なら問題はないのだが、たいていの人は「訊かれるまで言わない」というスタンスだったりする。そりゃそうだろう、不合格だったらもちろんだが、合格しててもそれをベラベラしゃべると、あたかも自慢話を言いふらしているように取られかねないからね。こうして、「訊こうと思っても訊きづらい」、「自分からはなかなか言いづらい」という双方の思惑がすれ違ったまま、何ヶ月も経過していったりするのである。
2010年03月19日
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以前から何となく、「ビールは比較的酔いが回りやすいのではないか」ということを感じていた。しかしこれといった根拠があったわけではなかったので、多分に気分的なものだと割り切っていた。しかし綿密に計算すると、意外な事実が見えてくるのだ。私は「リカーマン」などと名乗っているわりに、その飲酒許容量は意外と少ない。要するに「酒に弱い」のだ。ビールで500ml缶1本、日本酒なら一合(180ml)、ワインならフルボトルを3回で空けるから250ml、このあたりが限界だ。もちろんそれぞれのお酒はアルコール度数が異なるから、当然ながら同じ土俵で比べるわけにはいかない。そこでまず、アルコールそのものの質量に変換して比較してみることにする。私の限界がビールなら500mlということは、ビールのアルコール度数はおよそ5%だから、その中に含まれるアルコール量は「25ml」という計算になる。つまり私の摂取アルコール量の限界は「25ml」ということになる。ところが同じ要領で計算すると、アルコール度数15%の清酒180mlだと、そこに含まれるアルコール量は「27ml」、アルコール度数12%のワイン250mlだと「30ml」で、いずれもビールのそれよりも多い。これで私の仮説が実証されたわけだ。ただ、どうしてビールが酔い易いのか、その理由については残念ながら解からない。炭酸が含まれているからか、あるいはグイッと飲む一口分の量が相対的に多いからか、もしくは原料や含有物によるのか.......などとあれこれ考えてみるが、いずれも説得力に欠ける。もっとも、どうしても解明しなけりゃいけないことでもないのだが。
2010年03月17日
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ここへきてにわかにブレイクの兆しの出ている『トイレの神様』。私はハヤカツさんのブログで初めて知ったのだが、やはり初めて聴いたときには思わず泣きそうになってしまった。そしてここへ来て、地元のラジオ局でも「今月の歌」に採用されて、ヘビー・ローテーション・モードになっている。もっとも10分近い曲だから、毎回フルコーラスで掛けることは出来ないが、それでも私の耳にはすっかりこびりついてしまって、ことあるごとに脳内でプレイバックされている。そして先日はYahooニュースでも採り上げられていたが、そこでは同じくラジオから火がついた、あの『千の風になって』になぞらえた紹介がされていた。ただ、死者をテーマにしたという点が共通してはいるものの、私にはこのふたつの曲は全く別物に思える。『トイレの神様』は一見、亡くなったおばあちゃんへのレクイエムのようにも聴こえるが、そんな単純な内容ではない。小さい頃は誰しも祖父母にべったりなついていたのが、思春期に差し掛かるにつれ、少しずつ距離を置くようになってくる。祖父母は幼い頃と同じように愛情を以って接するにもかかわらず、自分はそれをかえって鬱陶しく思い、邪険にしたりもする。私も全くそんな人間だった。この歌の後半にこんな歌詞がある。 「いい孫じゃなかったのに、こんな私を待っててくれたんやね」この“いい孫じゃなかったのに”という部分に、この歌のエッセンスが凝縮されているように思う。ふんだんに注がれる愛情を、素直に受け取ることが出来ない、間違っていると頭では解っていても、それを態度に出せない、ある種の「もどかしさ」、そして後悔の念......それらがないまぜになって詰まっているような気がする。私の場合、自分の気持ちが素直に戻らないまま、祖母は他界してしまった。同じような思いをした方は、結構多いんじゃないだろうか?そしてこの歌を書いた植村花菜さんも、そうなのかもしれない。だから余計に沁みるのだろう。この歌は時間が長いが故に、テレビには馴染まない。どこを端折っても、この歌の真意は伝わらない。でも逆にその方がいいだろう。安易にテレビで“消費”されてしまう歌になってもらいたくはないからだ。まだ聴いたことのない方は、ぜひこちらでどうぞ。
2010年03月14日
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先日のテレビ東京「カンブリア宮殿」に出演していたのは、東京の酒屋チェーン「カクヤス」の社長だった。同じリカーマンとして(“同じ”と言っては彼に失礼かもしれないが)非常に興味深い内容だった。もっとも私の目指す方向は「カクヤス」とはまた違ったものなので、単純に彼のマネをしてどうこうということではないのだが、同じくらいの年代で同じく3代目という意味では、非常にシンパシーを感じるのだ。そうやって私に準えながら見ていると、彼は私などよりもずっと行動力に富み、機を見るに敏感で、しかもコレと決めたものはとことんやりぬく辛抱強さを持っている。それが「カクヤス」が今のシステムをビジネスモデルとして定着させることが出来た、最大の要因だろうと思った。「玄関を制するものが、次の流通の主役になる」というのも、蓋し名言だと思う。とても刺激になった。
2010年03月12日
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JAYWALKのボーカルが、覚せい剤不法所持で警察に逮捕された。それを受けて所属レコード会社は、店頭に並んでいるCD在庫の自主回収を決めた。酒井法子のときもそうだったが、このところ過敏とも思えるようなこんな措置が、当たり前のように行なわれている。既に市場に出回っている製品の回収といえば、製品自体に不具合のある恐れが生じれば当然だが、今回の場合はCD自体に全く問題は無い。どういうことなんだろうか、勝手に解釈してみた。ひとつには、不法行為をしでかすようなヤツの作った音楽を売っていることについて、言われなき批判を回避するため、あるいは、会社としての世間に対するポーズ。まあまとめて言えば、「目に見えない社会的プレッシャーの中で、とりあえず自粛するのが得策」という安易な発想かと思う。私は、アーティスト本人と、彼らの作成した商品とは、全く別物と考えている。仮にアーティスト本人に何らかの非があっても、彼らの遺した音楽には何の罪も無い。したがって彼らのCDを販売し続けることは、社会的に見て誰に迷惑を掛けるものでもない。逆に彼らの音楽を聴きたい人にとっては、その機会が奪われることになる。聴き手にしてみれば、自分たちが制裁を課せられたのも同じだ。これを迷惑行為と言わずして、何と言おうか。ぜひレコード会社は、巷に流布するかもしれない謂われなき雑音に耳を貸すことなく、自信と信念を持ってCDを販売し続けて欲しいと思う。「目に見えない社会的プレッシャー」に一旦どこかが負けてしまうと、それは次第に増幅し続けて、いつか日本中をがんじがらめにしてしまう、そんな恐怖を感じてしまうのだ。
2010年03月10日
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他の方はどうか分からないが、私は自分のブログの過去の記事を時々読み返したりしている。○年前の今日はどんなことを書いたんだっけ、とか、あの頃はどんなことを考えてたんだろう、とか、そういうことに興味があるのだ。ブログというものはそもそも「Web日記」なのだから、そういう風に過去を振り返ることはごく自然なことだと思う。言うなれば、私自身の「アーカイブ」とも言えるだろう。ところで私は最近、ひょんなことから「Twitter」も始めた。最近では、原口総務相が地震の「Twitter」で津波情報を流したということで、ちょっとした話題になっている。「Twitter」は「ミニブログ」という言い方もされるように、140字限定で手軽に投稿していくものだ。「Twitter」という言葉自体、そのまま訳すと「つぶやき」という意味で、文字通り実生活の中での自分の「つぶやき」を文字にして、WEBにアップするというものだ。これが最近ブレイク中で、中には表現の手段がブログからこちらに完全に移ってしまった人も少なくないようだ。確かにそれは頷ける。即座にアップ出来るという点では、ブログとは比較にならないし、自分の「つぶやき」が自分をフォローしてくれているフォロワー(場合によっては何万人単位)の手元にすぐ表示されるというシステムも、功を奏している。しかし発信件数が多い分、その1回分の「つぶやき」の賞味期限も極端に短く、自分のつぶやきでさえ1日経ってしまうと、もう探し出すのに苦労するのだ。そうなると、自分の書いたことを読み返すのが好きな私のようなタイプだと、全面的に「Twitter」に依存してしまうことはできないのである。「Twitter」はもともと、「情報を消費」するようなタイプの人に向いているツールかとも思う。私はそういうタイプでは無いので、いまだにブログを手放せないでいる。おそらくはこのまま両者を並行させる日々が続きそうだ。
2010年03月06日
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実はしばらく前から、日々心掛けていることがある。それは、「コンビニやスーパーで食料品を買うときに、一番日付の古いものを買う」ということだ。義務感というわけでもなく、単なる思いつきで始めたことだが、巷にはびこる「奥の方から一番新しいものを選んで買う」という風潮に一石を投じる、ささやかな反骨精神という側面もあるかもしれない。もちろん私も今までは、どちらかといえば「新しいものを選んで」買っていたほうだったが、それはそれで何となく得した感じになっていたものだった。しかし一番古いものを買うようになって、損したような気分になっているのかといえば、これがそうでもないのだ。「得した気分」、とは言わないまでも、なんだか「良いことをしている」ような気分なのだ。「良いことをしている」というと、なんだか偽善者っぽく思われそうだが、言い換えれば「爽やかな気持ち」と言ってもいい。それは逆に言うと、以前のように奥の方から新しいものを選んで買うことに、ある種の「浅ましさ」を感じていて、その呪縛から開放されたからではないかと思う。もちろん、奥の方から新しいものを選んで買うという行為を否定するわけではない。しかし、当たり前と思っていた行動をホンのちょっと変えるだけで、自分の心持ちがこんなにも変わるものか、というのは、新しい発見だった。別にたいして実害はないと思うので、他の方にもお勧めしたいと思った。
2010年03月03日
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