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10年以上前にサイトに動的な画像やイラストを挿入するために有効だった、リッチコンテンツの一つであるFlashが1月12日をもって完全に見られなくなリます。現在一部のオンラインゲームやサイトの閉鎖が多いのはこの影響です。嘗てゼミのホームページを自分で作りましたが、無料のレンタルサーバーを使用したため5回引っ越しをしました。4回目の引っ越しでFlashを好んで多用しました。Flashは今考えても芸術性に富み、とてもお洒落なデザインが可能でした。そのFlashがなぜ無くなるのかと言えばセキュリティの脆弱性のようです。ですので、Flashの入っているサイトを見ることはよくないようです。スマホでは随分前からFlash Playerをインストールできないため見れない状況です。ゼミのホームページにいくらFlashを入れても多くの人は見れていなかったと思います。3年以上前のパソコンはおそらくソフトが入っていますので見れるかと思います。延原ゼミとNOBU-ZEMI DIPLホームページでは、表紙、インデックス、写真ページにFlashを多用していますのが、今これを変換可能であるHTML5に変換するつもりはありません。Flash Playerの入っているパソコンであれば、1月14日まではホームページを見ることができます。2013年までの延原ゼミホームページゼミの卒業生の活動をまとめたNOBU-ZEMI DIPLÔMÉのホームページこれらのページは1月14日を過ぎるとこれらのホームページは廃墟の状態になります。それでも、ホームページの各ページ、ブログやレンタル写真アルバムなどは、名前などで検索すれば出てきます。ブログは今だ日々多数のアクセスがあります。また、YouTubeなどの動画が主流の現在、Flash Playerで音源を再生していた機能もなくなります。2014年からの新たなホームページでは2014年以降はYouTubeに変換をしましたが、それより古い録音はFlash Playerによる再生システムになっていて聴けなくなります。時代の流れと言ってしまえばそれまでですが、こんなことは頻繁に起きています。しかも多くの民意に沿うものではなく、一人の判断で変わることもあります。それだけに指導者は重要で影響力が大きく、人々の人生や将来設計をも変えてしまいます。いちばん重要なことは、人の人生を変えたり自由を奪う権利は原則的にはないことです。今まで新型コロナウイルスの感染に際して自由と権利を尊重したのは他ならぬ日本です。前にも書きましたが、ヨーロッパ諸国はロックダウンという強制措置をとりました。最も大きな要因は日本とは全く事情が違うことがあると思われます。そこで、「フランス人が日本に戻って心底感じた『自由』』という記事があります。このことから日本は新型コロナウイルスとの戦争をもっとも行なっていない国と言えます。しかし、世界的に評価されていても日本国内では不安を煽り、戒めや批判ばかりです。いくら不安を煽り、戒めや批判をしても感染者数が減らない事実を受け止めるべきで、むしろ外国人の感じる日本の自由を自負し、それを維持するべく意識を高めるべきです。GoToキャンペーンをやめて人の移動が減ったと言いますが本当でしょうか。都内や近郊の観光地では人が増え、いわゆる密集状態はあちこちで見られます。遠方への移動はなくなっても近辺での移動は逆に増えたため、地方の感染が減ったとしても首都圏の感染は増えるのではないでしょうか。つまりGoToキャンペーンだけを止めることは政府批判からで実質的ではないのです。菅総理は自身が人と面会し、絶えず移動しており、それでも感染しないことを身をもって証明しているとも言えます。どこに行こうとも感染するのは人と人との接触からですから意識で防ぐしかありません。いくらコロナ禍だからと言っても、人の人生を平気で変えるような批判については、どうしても聞くに絶えません。政府が経済を回すと言っているのは、まさに弱者に向けての優しさだと感じます。特措法の改正は自由が奪われる方向になり、メディアを反映した民意に圧されたかたちですが、政府は本当はそこまではしたくないのだと思います。
2020.12.29
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人の死の重さは皆同じはずです。新型コロナウイルスによる重症化は防がなくてはなりませんが、感染することとは異なるいわゆる関連死は本来救われるべき命です。感染者が増えると医療関係が逼迫するから失業しなさいというのは乱暴な話です。GoToキャンペーンがなくなると旅行飲食を始め経済的に困る人が増えます。自分が失業すると思えば経済を止めろとは言わないでしょう。また、GoToキャンペーンを利用するのは確かに余裕のある人かもしれませんが、その余裕のある人から余裕のない人にお金がまわる助け合いがこのキャンペーンです。日本の2020年死者数は1997-1999年の3年間よりも1-〜2万人少ない推移をしており、外出自粛等に伴う病院不受診や生活習慣の変化に伴う持病の悪化による死亡が考えられ、外出が減ったことによる交通事故死は例年より減少しているとのことです。そして何よりも問題なのは、「増え続けるコロナ関連自殺」です。新型コロナ対策によって守られる命があることは確かです。しかし、一方で、経済を政策的に(人為的に)ストップさせることは、本来、失われる必要がなかった命を死に追いやる側面もあることは絶対に忘れてはいけません。 この記事を書いたエコノミスト・島澤諭氏は経済政策を絶対止めないように、「コロナ関連自殺の増加も失政だ」とも書いています。自殺予備軍は、新型コロナ患者と違って、皆さんからは見えないかもしれません。しかし、自殺予備軍は確実に存在します。自殺予備軍は、新型コロナ患者と違って、重症者ベッドを占有しないかもしれません。しかし、自殺予備軍はどこかで苦しんでいます。自殺予備軍は、新型コロナ患者と違って、医療崩壊の引き金にはならないかもしれません。しかし、自殺予備軍の放置は社会崩壊の引き金になります。新型コロナ患者も、自殺予備軍も、助けようと思えば、助けられる命であることにかわりありません。さらに次のように書かれています。現実には、新型コロナの影響を受けやすく、経済を止めても収入が保障されている者と、新型コロナの影響を受けにくく、経済を止めたら収入が保障されない者とでは、優先したいと考える政策が異なるでしょう。政治はより声の大きい方に向くきらいがあるのは間違いありません。特に、ポピュリズムがはびこる昨今にあってはなおさらです。昨日、医療関係の逼迫について、日本赤十字社医療センターの出雲雄大医師が、指定感染症レベルを第2類から5類にする提言をテレビ朝日・報道ステーション内で行いました。インフルエンザが今年は極少ないのですが死者数は減っているわけですから、まさにインフルエンザと同等になれば例年並みの医療状態になるのだと思います。以前にも書きましたが陽性者が感染者(病気である)と言えません。無症状者が多いことの理由でもあると思われますが、PCR検査が安価で受けられるようになったことで、感染者が0になるとは考えにくいです。反面、感染することによって誹謗中傷や風評を受けたり、濃厚接触者との個人関係に影響し、集団感染すると公表される可能性があることから検査を受けたくない人も多いと思われます。陽性者数を日々公表し増えると経済を止めることを繰り返すことが日常的になったのでは、経済的な打撃にとどまらず文化の衰退、生きることの喜びすら感じられなくなることが考えられ、特に高齢者の生き甲斐や、若者の目標変更、経済困窮による人生設計の変更など、今までになかった貧富の格差が進んだり、人と人との関係が荒むのではないかと危惧されます。菅総理が5人を超えるステーキ会食でマスク会食を行わなかったことが報道されていますが、政府は当初から経済を止めない方向だと考えられます。つまりメディアから発せられているさまざまな批判や意見とはもとから袂を分けています。世論として多数を占めたと考えられた時にやむなく緊急事態宣言や自粛を呼びかけています。しかし、菅総理は就任直後に携帯電話料金値下げなどできることをいち早く実行に移しています。新型コロナウイルスについては後手後手の対応とは言われがちですが、一刻も早い終息を望んでいることは確かだと思います。諸外国の例を見てもわかるように、検査を増やしても経済を止めても自粛を促しても第3波では大きく増えることは摂理だったのです。ここからわかることは、医療の手が回らなくなったための重症化や犠牲を防ぐことができれば、経済を止めたり自粛による失業や関連死は回避してよかったことになります。感染拡散は政府の責任ではなく国民の意識の問題で、総理や政府はそう考えていると思います。自粛はあくまで自粛、働く自由や会食、移動についても容認しているのが政府で、帰省、外出、会食を避けるように明言しているのは東京都をはじめとした自治体です。菅総理は任期が短いため不退転の決意で何事も実行する内閣を築いていると思います。私見では暫定内閣ですが官房長官、経済再生相ほか組閣人選もすばらしいです。また、菅総理の実行力の真価を裏付けるものは政府内外の根回しや調整です。ネットワークが円滑だから何をするにも有言実行できます。先に挙げた総理の会食についてどうこう言うメディアには閉口してしまいます。世の中は全体に子供ウケ、若者ウケ、そんな人たちに対して発信しているような、深みのない精神年齢の低い発信が目立つのですがいい加減やめてもらいたいと思います。だから、世の中の意思がまとまらないのです。
2020.12.19
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鈍感の長所を表した鈍感力という言葉が以前に持て囃されたことがあります。そんな鈍感力を感じさせる強者は、誰しも周りに思い当たる人がいるのでは?思い当たらない場合は、周りの人が皆自分と同じようなものだと考えているか、鈍感なのに人より優越感を持った鈍感力の持ち主本人ではないでしょうか?何事もわかりすぎるとストレスが溜まり神経質になります。つまりストレスが溜まる余計なことは知らない方がいい、「知らぬが仏」です。また、人によって気にすることとどうでもいいことはまったく異なりますが、鈍感でない人が今から鈍感になることはできないことです。他人に興味がなく鈍感な人は、自分が批判をされても深刻に悩んだりはせず、自分の考えることに自信を持って躊躇なく実行できます。また、たとえうまくいかなかったとしてもさほど凹まず立ち直れるのだと思います。ただ、周りの人が逆に期待してもアテにできないのが特徴です。つまり、全体的には敏感な中に程よい鈍感力があればもっといいのでしょう。鈍感力が偏った人はサイコパスやソシオパス的要素の強いことがあります。相手の気持ちを汲むことができる人は、このような人に傷つけられてしまいます。しかもその特徴は、容姿は平均以上で表面的には好印象、社会的に地位が高いそうです。もっとも大きな特徴は、他人に対して理解はできても共感できないことです。上司や師匠がそのような場合は苦労が絶えないことになります。可能性が高い職業は下記のようになるそうです。最高経営責任者 (CEO)弁護士メディア関係者 (テレビ、ラジオ)セールスマン外科医ジャーナリスト警察官聖職者シェフ公務員さて、新型コロナウイルスワクチンができて実用化されたニュースがありました。社会問題化して各国が緊急使用を進めているわけですが明るいニュースではないでしょうか。しかし、日本のメディアでは安全性がまだないのではないかと言う話もよく聞かれます。臨床試験の数や報告が足りないからですが、臨床試験も希望者を募って人で行われるわけで、感染者数や死亡者数の多い国々では前倒しして使用するのは当然のことのように思えます。海外の比ではないほど少ない日本の感染者数を多いと言うのであれば、日本でもワクチンをいかに早く使えるようになるのかという発想が一般的だと思います。なお、ワクチンの副反応については今までと同様に人によって起こりえるものなのです。現状でまずワクチンそのものを疑うのは、サイコパス的な共感のなさを感じてしまいます。因みにこの写真を見ると注射の打ち方が痛そうに見えます。年に数回注射や採血を受けますが、針を刺す人によって上手い下手があると思っています。この打ち方が痛くないのかもしれませんが、日本と海外は何においても異なることを理解できます。PCR検査が日常的に安価で受けられるようになりました。以前から全員検査を主張しているメディア関係者や医師がいます。会社からの指示で受ける人はいると思いますが、社員が自ら受けることが難しいのは変わりません。会社側が指示しなければ、自ら受けて何の利もないことはなかなか報道されません。自主的に無症状で検査を受けて陽性になったら「受けなければよかった」と思うでしょう。自主隔離、仕事の休業、濃厚接触者の検査など、一般的には大ダメージです。感染接触確認アプリCOCOAの普及が進まないのも仕組に共感できないからです。一般的な感性に共感できないメディアが何を言おうと収束するはずがありません。マスク会食を勧めた神奈川県の黒岩知事、それに政府も乗っかりました。マスク会食とは会食中に一口食べてはマスクをして話をする方法です。マスク会食「着脱は2時間で65回」実際に試して分かった効果と課題マスクをいちいち着脱しながら食べるのは面倒ですし美味しく感じないでしょう。そう思う人はたくさんいると思いますが、もっと大きなNG理由は他にあります。この記事にも書いてありますが、マスクは紙ナフキンではないので汚れても装着する点です。汚さずにうまく食べられる人もいるかもしれませんが、衛生的でないことは確かです。日本で飲食店の各テーブルに紙ナフキンの設置が定着したのは2000年以降です。フランスでは主食のサンドウイッチを買えば必ずついてきますし、レストランでテーブルにつけば布や紙のナフキンがあります。これは食べた時に汚れた口周りなどを拭くためのもので必須のアイテムです。その意味で、欧米においてマスク会食はありえないことだと思います。異なる文化への共感がないままに普及させようとする様子は何とも恥ずかしいです。それでも日本でマスク会食的なことを行うのであれば、サイゼリヤ式の紙ナフキンをマスクに挟む形式で使い捨てにする方法がベストです。医療崩壊について、最近は病床数ではなく医師や看護師が足りないと言われています。メディアの中には国が報酬をとても多く出して、新型コロナウイルス専用病床に医療従事者をかき集めるべきと言っています。以前にも書きましたが、従来の重篤な病気で治療されている人に従事するか、新型コロナウイルス患者の手当に従事するかは医療従事者にとって自由なのです。なぜならば新型コロナウイルス以外の重病はとてもたくさんあるためです。ここでそれらを投げ打って新型コロナウイルス治療に全精力を傾けるかどうかは自由です。また、たとえ新型コロナウイルスに専念しても風評被害を受け、慣れない仕事の指示を受け、それなりの報酬がない、集団感染を起こせばその病院ごと報じられ、利がありません。医療崩壊があるとすれば、それは今まで報じられた負のイメージが仕向けたのです。うわべは医療を労っていますが、医療従事者の共感は得られていないのです。
2020.12.13
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物事を計画的に考え真面目に生きているほど損をする、しかし真面目だから同調圧力にも弱いかもしれません。でも、本当に困ってしまったらどうするのか?このような人が増えれば社会が荒れてくるのは致し方ありません。当初労われていなかった医療は今や全幅の労いが寄せられるようになりました。しかし、医療に負担をかけないように他のことを規制するという考え方、また医療の崩壊という悍ましい言葉の真理はどこにあるのかどうしても疑わしく思います。むしろ感染拡大を防ぐために何を強いるのかということのほうが問題だと考えます。新たな生活様式とは何かと考えると、そこには新たな世の中の青写真を皆が考え、多くの飲食業や旅行業、人が集まる興行や文化は衰退止む無し、家族以外のコミュニケーションや伝統文化の減少などに伴うリセットがかけられています。ここには他へのカタストロフィー願望が潜在し、一部の人の自己実現と結びついています。ローンを返済できないなどの経済的困窮から人生設計を変えざる得なくなった人は多く、多くの負債を抱えてしまい生きていくのが苦しくなることからのリセット、すなわちカタストロフィー願望を持つことは自殺に結びつきます。つまり、カタストロフィー願望を持つこと、リセットを考えることは過激なことです。そんな困窮の傍らIT関連企業が多い米ナスダック市場は連日史上最高値をつけており、今の表向きの不景気とは大違いの現実があることを忘れてはならないことです。大きな損害の裏には大きな繁栄があり、実はウイルスの被害ではない盛衰のほうが大きく、新たな生き方はそれまでの文化や「人生の機微」のカタストロフでもあります。「医療崩壊」がよく言われますが、やはり随分と演出された言葉だと思います。医療関係者には「頑張っています。医療崩壊など起こしません。」と言ってほしいのですが、残念ながら今の時代にそのようなことを言う人はいなくなりました。しかし、自治体側は医療崩壊させないように運営する自負が実はあるのだと思います。本当に医療崩壊というのはあるのでしょうか。当初一部で言われていた医療用ガウンが足りないなどということはもはやありません。医療用ガウンは余り過ぎて生産中止しているのです。そこで日本の死因別死亡率が公開されている気になる記事がありました。日本において10万人に対しての新型コロナウイルスの死者は2.3人です。上の表の中では結核より少し多い程度でほぼ下の線スレスレになります。この表からわかることは、これまで如何にさまざまな足跡を残してきたかということで、現状の新型コロナウイルスが如何に特別扱いされているかということ、今言っている医療崩壊を医療崩壊と言うならばはこれまで何度も起こっていたということです。次にインフルエンザとの同時感染の不安が囁かれていたことについて、12月初旬に出た記事ではまずインフルエンザ感染が激減していることを伝えています。インフルエンザと新型コロナウイルスは感染の方法が同じことから減ったとも言われていますが、実際に同時感染した人はまだ1人くらいで探しても見つからないのだと思います。テレビに出ている医療関係者は出続けたいのが如実にわかります。だから不安を煽ります。ニュースやワイドショーが今の報道を正義感から行っているとは思えず、政府批判によって世論を支配することを強めることが目的だと見ています。しかし、民法キー局の経済状況は当然のことながら悪くなっています。今の状況は新型コロナウイルスとの戦争ではなく、2月から書いていたメディアと政府、民意との戦争なのだと考えています。院内感染で新型コロナウイルスの人手が足りなくなった病院を医療崩壊と報道されていますが、一方で新型コロナウイルス以外で重篤な病状の人は何百何千倍といるわけです。新型コロナウイルス中心に世の中を考えることに無理はないでしょうか。今までなかった発想をいきなり取り入れ生活様式までもを変えることに無理はないでしょうか。少なくとも、日本において世界と比較しうる医療崩壊やカタストロフはないと考えます。日本の人々は悪性新生物などの疾患にもっと重きを置くべきなのです。
2020.12.09
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11月にヴァレリー・ゲルギエフ指揮のウイーンフィルが来日しました。ウイーンフィルの熱狂的なファンや久しくなかった贅沢が再び戻ってきました。今の状況下でこの公演をすることは多大な尽力とリスクがあったことでしょう。主催がサントリーホール、協賛がダイワハウスで、制作する側としては偉業レヴェルです。ウイーンフィル、ベルリンフィル、アメリカのオーケストラが素晴らしいなど、若い頃にさまざまな批評を読み、生で聴いてみたいと憧れたこともよくありました。また、同じ曲の異なる演奏の聴き比べるためレコードや CDを聴きあさりました。そして、いつしか世界のオーケストラ・ランキングのような意識が根付きました。日本人はヨーロッパから伝来したクラシック音楽をずっと学ぶ立場でここまできました。今も指揮者、ソリスト、楽団など音楽時事の中心である来日するプレーヤーは、名前が知られていなくてもステイタスが高く外国人というだけで見方が変わります。今の世の中は批判的なレビューが極めて少なく美化されるためにこの価値観は変わりません。これまで演奏家としては演奏する場を手にすること、主催者側は聴衆人気を求めてきました。「いい音楽を提供すればいつか報われる時がくる」こう言われて学生の時から研鑽を積んでもそれだけでは仕事になりません。質が求められているのではなく外国由来とブランド力が求められています。外国由来とは海外の演奏家や海外における実績は日本より上だということ、海外のコンクールなどで認められることが日本のそれより上だという認識です。ブランド力とは人気のある組織に所属していることで、音楽の質と言うよりもこれらの人そのものが今のトレンドということになります。今年は外来演奏家の来日がほぼキャンセルとなりコンサートすら実現しにくい状態、しかし在京オーケストラは来シーズンも外国人指揮者の招聘が中心です。こんな状況だから元に戻したいという意識が働くことは意義深いことですが、逆に今こそ新しい日本人が独自の音楽を発信していく好機だと思います。日本は音楽に限らず無条件に欧米のものを良しとする風潮があります。欧米を規範とし紹介することを好み、人々は異なる文化を新鮮に感じるのです。日本のメディアも海外と比較して日本のものをあえて推奨しない傾向があります。日本が素晴らしいと自負されているものは、日本独自の文化、ものづくり産業、最近ではアニメもその仲間入りをしている気がします。音楽においてはこの20〜30年間のトレンドは大きく変わっていません日本の音楽家の中には人知れずとても優秀な人がとてもたくさんいます。しかし、盛んに取り沙汰される音楽家は旧来から活動している重鎮か、海外での功績を判断基準として、演奏内容の検証や批判されることはなくなりました。世の中の風潮として、過大に美化することはあってもネガティヴな発信をしないことで、批評家のポジションが形骸化してしまい、宣伝の一環としての発信に同化しています。絶対的な価値観を検証しなくなったことが音楽文化全体の衰退に結びつくと思われます。それでも、口には出さないとしても審査や評価は歴然とあるわけで社会の表裏を感じさせます。もっともクラシック音楽文化を継承しているオーケストラの世界でも、名演の例として目にするのは今だにカラヤンやバーンスタインだったりしますが、これまでに曲ごとの名演がなかったわけではなく取り沙汰されなくなってきたと思われます。いかに多くの聴衆を集め、多くのステージを順当に消化することに集中してきたのです。1970年くらいまでの現代音楽には深く日本のアイデンティティを感じさせ、海外の現代音楽にはない和の良さを共有できるものが多かったと思います。しかし、そのような方向性が楽壇にはあまり好まれず欧米で認められたものに向きました。ヨーロッパとの関係は密接ですが、音楽で西欧に日本的な感性が認められたことは少なく、西欧ナイズされた音楽でコンクールに通るなどして活動の幅を広げた現代音楽が、音楽を志す若者の興味の対象にはなっても聴衆層から支持を得ているとは思えません。それでも、海外から指揮者を招聘して日本の曲を演奏する場合は、海外で認められた邦人作曲家の作品が挙げられますが日本の聴衆には好まれていません。日本の指揮者が日本の現代作品を選曲する場合は逆に日本のアイデンティティを持つ、嘗ての日本の名曲、伊福部昭、武満徹、矢代秋雄、三善晃などなどです。ここからわかることは最近は日本的な価値観で発信されている音楽がないことです。新たな音楽が紹介されて聴衆が集まったとしてもポップス的にシフトされている曲や、調性的な部分が増えている曲でなければ再演、再聴の余地はありません。この行き詰まりは以前からのもので、新たな方向性が欠けていると思われます。新型コロナウイルスで海外からの招聘が難しくリスクが高い現在、宝がたくさん埋まっている日本の人材やクラシック音楽の真髄を取り戻すべく、新たな発信が今こそ必要なのだと思います。クラシック音楽の初心者や若者への啓蒙活動よりも深さを取り戻すべきです。ちょうど100年前、クラシック音楽界は無調と調性音楽に分かれる節目でした。以降、12音技法による無調音楽が発展し更なる前衛音楽がつくり出されましたが、フランス6人組を始めとして調性を有する音楽も反主流としてつくり続けられました。音楽史を勉強するなかで調性を有する音楽の多くは当初知られていませんでした。しかし、2000年に入り知られていなかった調性を有した1930年以降の音楽が、留学生の増加やインターネットにより海を越えて盛んに採り上げられるようになりました。演奏する人の増加によりレパートリーが多く必要になったこともこの要因ですが、いかなる用途であっても無調の現代音楽が演奏されることは滅多にありません。経験上、ほとんどの演奏家は音楽を分析したり意味を紐解くことを好きではなく、理論を考えて演奏するのは古典やロマン派くらいでまでだと思われます。大学院で研究することを除けば普段は分析までは行わない人がほとんどです。一般的に理論から音楽に入ることはなく、理論に勝る共感がまず先決になります。以前にも書きましたが、純然な無調音楽を自ら演奏する人はごく稀で、学術上紹介されることはありますが、聴く対象は専門的な音楽教育を受けた人です。現代の日本では海外に支持されることよりも、まず日本人に支持されるポストモダンを独自に発信すべきで、それは既存の現代音楽風ではなく今までの調性音楽にただ戻すことでもありません。
2020.12.07
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