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1993年頃から学生の頃に習った西洋音楽史はなくなってしまうのではないかと考えていました。正確にはなくなってしまうのではなく、クラシックではない他のジャンルに流れが変わってしまうということです。しかも、定説というものがなくさまざまな説が共存するでしょう。現に教育的なクラシック番組でも近年の音楽がロックに変わる紹介がされていました。現代音楽の潮流として嘗て新しさや芸術的完成度が備わった作品が生まれてから、新しい音組織が出尽くした1990年頃から音楽としての新鮮さや可能性が感じられなくなり、最近のYouTubeやSNSにおいて現代音楽の人気が如実にないこともわかってきました。自分の30年間の教員時代に知った演奏家や音大生の意識から考えても、自ら現代音楽を担うという人は本当に減りました。現代音楽の価値はこれまで作曲家が決めてきました。作曲家が作曲家を評価する方式は昔から変わっていませんが、それは書法=エクリチュールという名の楽譜上の美学として発展してきた経緯があります。そして、それはひじょうに緻密で数学的、図形的になりました。また、調性を破棄しストイックで演奏、聴衆共に我慢の強いられる音楽になりました。それでも音楽の新しさや可能性をもたらす意味でリスペクトされてきました。そして、新しい芸術を研究する意味で発表する場が提供されてきています。演奏家は作曲へのリスペクトや生業のひとつとして現代音楽に関わっていますが、人同士の関係以上に他のクラシック音楽のように曲を愛し理解して演奏しているかと言えば、ごく一部の現代音楽エキスパートの演奏家がそれにあたるのみです。これまで、近現代のクラシック音楽と演奏家の関係、理解ということを考えてきました。以前にも書きましたが、12音技法で作られた曲をコンサートで選曲する人はいないと言え、院生が研究テーマに選んでも課題曲に課される以外はまず演奏しません。その代わりに、ポップスのイディオムを用いた新しい音楽やロマン派、近代的な語法による音楽、映画音楽、劇音楽、ディズニーなどをクラシックと同様に演奏するようになりました。院生がテーマとしてロマン派から現代、邦人作品を選択しても、その曲の分析を本当にできる人はごくごく少ないです。ジョリヴェなどの近現代の旋法による音楽や12音技法の曲にしても、皆が音楽的な仕組みを理解して演奏しているわけではないことが多いのです。これはプロであってもそれほど変わりません。それまでの経験や楽譜に書いてあることを感覚として的確に捉えているのだと思います。また、作品の意味を深く考えずに自己流でいいと考えるのは最近の若者の特徴でもあります。しかし、そのことは演奏したり聴いて楽しいかが全てだという主張にも受け取れるのです。最近の現代作品の解説で若い作曲者は曲の内容や理論を書かなくなってきました。その理由は、自分だけの誇れる語法や理論がない、アイディアはあっても着想や音組織は以前にもあったものが多く、言い方を変えたり既成のものを再構成しているように聴こえます。そして、海外で認められている評価の高い作品についても、同様に先人の理念を活かしつつ作曲家に受け入れられやすい楽譜をつくっていると感じられます。その繰り返しが現代音楽の歴史をつくってきたわけですが、クラシック由来の音楽として、また音を感覚的に受け入れることがだんだん難しくなり、世の中の数ある音楽から乖離してしまったように思えるのです。ただ、昔は特殊奏法が演奏者に嫌がられたこともありましたが、今は理解を示してくれるようになったことは確かです。特殊奏法については演奏精度が上がったことがあり、昔よりも演奏効果が上がっています。また楽器の可能性としていろいろな道具で音を鳴らすアイディアは続々と生まれていますが、その楽器の本来とはかけ離れてしまうことはクラシック音楽の美学とは裏腹です。1990年前後は自分の作曲作品が批評家にどう書かれるのかひじょうに気にしていました。若手でエリートでもない自分は毎回酷評が多く、それを糧に次に繋げていました。当時に高評価だった作曲家の作品を参考に研究もしていましたが、今はどうでしょうか。その批評家たちの言っていた美学はどこにいったのか?という感じです。つまり、批評家の美学が正しかったにしても世の中はそのようには進まなかったのです。実際にその昔に素晴らしい作品はたくさんあり、素晴らしい作曲家はたくさんいます。問題は日本において芸術音楽を自ら肯定できないことにあります。海外における実績でしか評価を下せない日本があるのです。しかし、例えば留学してわかることは日本がいかに便利で住みやすいかということ、日本で受けた教えがいかによかったかということです。日本独自の音楽文化が伝統音楽ではなく芸術音楽にどうしても向かないのです。最近は新型コロナウイルスのために音楽活動が失われました。その間にSNSなどで拡散されている音楽はお世辞にも質の高いものとは思えません。そうせざるを得ないからやっているものです。そう思うと、今後は本当に必要とされる音楽しか残れないかもしれません。そのような時に現代音楽が生き残れるのでしょうか。私感としては、こんな時期だからこそクラシック由来の芸術性を感じられる、ポストモダンが必要なのだと感じます。今までの伝統や足跡が押し流されようとしています。時代の趨勢とは言え、あの老舗のFAUCHON(フォション・パリ)ですら、経営破綻し再建されるとのことです。時代を見直す時にきているのは確かなのだと思います。
2020.06.29
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「PCR検査をなぜもっと増やさないのか!?」「海外では検査しているじゃないか!」この話がずっと聞こえてきます。SNSではこの考え方に対して賛否ありますが、症状がないのに誰かに感染させてはいけないと自ら検査を受ける人は、医師からの許可がなくても受けられるとしても少ないでしょう。陽性と診断された場合に仕事を休んだり、ポジションを奪われたりすることは好まないからです。今の状況では感染したことを公表した場合、社会的に責められる可能性があり、感染ルートを明かすことは感染者の環境にリスクが及びますから公表しなくていいと思います。新型コロナウイルスの感染が疑わしい人、感染者と濃厚接触した人以外では、症状のない人や感染していない人がPCR検査を自ら希望して受けなければ、今の日本では検査数が増えないのは自然だと思います。PCR検査の数を増やすべきと考えている人は、感染者数が減らない、もしくは0にならないという理由からでしょうが、あくまで自分はうつされる側だと考えているのではないでしょうか。誰であっても感染している可能性が0ではないわけですから、何とかして自ら受けてその方法を示してから、「皆さんも受けましょう」と言うほうが説得力があります。それでも受けない人がたくさんいる予想はたちます。義務化する必要はないと考えている人もたくさんいると思います。メディアで言われていることが一般庶民の意見とは限りません。世の中にはさまざまな出来事が起こりそれがニュースになります。何が重要で本質かということ、そのバランスはひと昔前のほうがよかったと思います。なぜ変わってしまったかと言うと、その要因はSNSと写真や動画の投稿が挙げられます。今までは件数や生の声そのものが多くなければ取り上げられなかったようなことが、可視化されることによって極めて珍しいことや小さなことであっても、あたかも総意やたくさん起こっていることのように演出されることです。そして、SNSの写真や動画は引用者の言いたいことのエビデンスとして流用されます。また、日本の人口1億2,000万人に対して1人単位の感染者数の増減を発表することは、完全なデータ化ができる制作者の自負、見た人がわかりやすい指標としている感があり、今まで曖昧でしかなかったことを現代ならではのデータ収集ありきの報道と思えています。しかし、公表の核心はデータをどう捉え何を言うのかに関わってきます。そこには、フレーミング効果「あと2,000円しかない」と言うより「まだ2,000円もある」と言うほうが前向き。果汁を使ったジュースで「果汁は半分だけであとは砂糖水です」と表現するよりも、「果汁が50%も含まれています」と表現したほうが美味しそうに感じる。などの情報操作が加わっていて、世の中のことはすべて言い方によると言っても過言ではありません。次稿になりますが、音楽も例外ではないと思っています。都知事選が7月6日に行われますが、史上最多の22人の立候補がありました。現状を変えたいと考えている人がいかに多いかということの顕れです。私感としても、今の日本の現状には憂いと共に明るい未来が感じられません。リセットするならば今までのさまざまな流れまで一新することも必要かと思うのです。この都知事選前の今に「東京都民に知ってほしい 小池百合子の『通信簿』職員の評価は歴代最低、あの舛添さんより低かった」という記事が出ました。これは自治体専門誌「都政新報」内の都職員アンケートを基にした記事です。評価の低い理由は「粛清人事の横行」「自分の評価を上げることしか考えていない」などです。この情報を今出す意図は都知事選で再選して欲しくないからであることは明白です。しかし、この記事の信憑性も先ほどのフレーミング効果から量りづらい面があります。自分の存在感を周囲に強調するために昔流の「鶴のひと声」を発出する人、突然の変更や決定事項に横槍を入れてくる権力者はどこにでもよくいます。おそらくひと昔前は仕方ないなあと認められていたことも、今の世の中では知事が昔ほどリスペクトされておらず、下からの不満が言いやすくなったことが考えられます。「東京アラート」のネーミング、発出した際の都庁やレインボーブリッジのライトアップは、中身よりもパフォーマンス性が高く小池知事の存在感を印象付けたのも確かです。その意味では、目的達成よりも威厳や存在感のアピールに重心を置いているのかもしれません。やり手でもあるのですが、せっかくうまくいっていても傍観している人へのアピールのために、突然「鶴のひと声」で予定を変更しスタッフはそれに渋々着いていく、そんな光景が浮かびます。逆に、すべて職員に丸投げで考えがない、リーダーシップがない、知識に乏しく相手にされないような知事がいいかと言えば、それも考えものです。では都職員が何を望んでいるか、それはどちらかと言えば全てお任せの知事ではないか、自分のモチベーションとペースで仕事がしたいのではないかとも考えます。新型コロナウイルスのこの数ヶ月間もそうですが、ものごとが変わる時、変える時、変わらざるを得ない時、改革には痛みが伴います。今、過度に変わらざるを得ない方向性、新しい生活様式が示されていますが、どうせ変わるのならものごとの内面的な軌道修正もとことん期待したいものです。
2020.06.28
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COCOAという厚生労働省が開発した新型コロナウイルス接触確認アプリを、ダウンロードできるようになった6月19日から試しています。接触したからと言って必ず受診や検査ではなく症状や環境に応じて、その後どうすればいいのかという指示が出ます。個人情報は守られ名前などの登録もありません。ただ、まだ開発途上で不具合も多いようです。このアプリの普及率は23日現在392万件で3%だそうです。確実に機能するするためには国民の60%の登録が必要のようです。また、感染するとわかると言っても一度感染した人が登録しなければ機能しません。ヨーロッパでより被害が甚大な国々でも数%しか普及していないと聞きます。濃厚接触したかどうかの条件は感染者が1m以内に15分以上いた場合だそうです。一般的には電車に15分以上乗った場合などが考えられますが、濃厚接触した感染者が特定できる可能性が高いのではないでしょうか。電車内などのように他人のこともあれば知人のこともあると思います。また、お店の店員などであれば会わないように足が遠のくことも考えられます。結果として、わかることによって都合が悪いことも多いでしょう。感染者の登録はリスクがあるかもしれません。いずれ意味があるのかどうかという議論が出ると思います。しかし、このアプリの意味はまだ別にあると思います。不安や恐怖に取り憑かれている人の一時的な安心が得られることです。実際の感染者数やダウンロード数から考えて、このアプリに表示されるのは、半永久的に「感染者との接触はありませんでした」でしょう。その精度がどうであれ、つかの間の安心感は得られると思います。このアプリが普及するかどうかは、新型コロナウイルスを本当に怖いと感じているかどうかの試金石ではないでしょうか。本当に怖いと感じていたら皆ダウンロードすると思いますが、自粛を強いられ緩和された今になってもう辟易としてきたとも考えられます。ところで、新型コロナウイルスが収束して生活がある程度もとに戻ることがあるでしょうか。できるかできないかで言えばできるようになると思われます。ただコンサートのようにお客を集める場合は、以前も書きましたが、座席に間隔を空けなければならないためスタッフの準備に多くの負担がかかります。コンサートホールの場合はお客が少ないと響き過ぎのうえ採算もとれません。ステージが狭いと奏者間の距離も取れません。そしてお客が以前ほどは来ません。今、いちばん怖れられていることはウイルスに感染することそのものよりも、感染したことが職場に知られることではないでしょうか。職種によっては職種そのものにもダメージが生じることもあり、感染した本人はポジションを失うことにもなりかねないわけで、職を賭してわざわざ人の集まる場には行きたくない人も多いと見られます。これは奏者側にも同じことが言え、感染してしまったら何週間も休まざるを得ず、他の人にも迷惑がかかるためにダメージが計り知れません。国内のプロオーケストラが再開し始めましたが、本来、個人練習はより離れて音を出すことが望まれ、合わせる時はより近づいて演奏するのが理想であり、今はその反対を迫られていますが、とにかく再開したいということだと思います。しかし、とりわけ音大はただでさえ練習室が切迫しているうえ、教育上難しい対応をせざるを得ないことや環境による制約がかなり増えたと思われます。SNSで見ることは本当に等身大の人が垣間見られます。日本古来の謙虚さが失われたのもSNSが普及してのことでしょう。ひと昔前は理想の音楽を目指してそれなりのものしか演奏できない時代がありました。今は音楽の質は問わずできることは何でもやるようになりました。いくらできるからと言ってもかの大先生は同じことはしないはずです。音楽の尊さ、人が芸術として成しえる素晴らしさをなくして欲しくないのです。今聴きたいのは、少し前までは普通に聴けたベストコンディションで演奏された音楽です。そうでない音楽はしばらく静かにしたほうがいいかもしれません。それでできるんだと思われるのはあまりにも残念で、芸術を犠牲にしてはならないのです。いかに従来の環境を取り戻せるか必死で考えなければならないのです。
2020.06.23
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新型コロナウイルスについて思っていたことが裏付けられました。やはり日本の対処は間違っても遅くもなかったと思います。ダイアモンド・プリンセスで過ごした14日「元乗客が明かした報道されなかった事実」として、「報道ではセンセーショナルで批判的な内容ばかりで、あの現場でどれほど多くの方の支援活動があったかを伝える内容があまりありませんでした」「皆様から頂いたご支援と感謝を何かの形に記しておきたいと思いました」という記事が出ました。当初から厚労省の対応がネガティヴなイメージでしか見られていなかったのです。政府批判が強く、無理難題を突きつけたこと、諸外国と比較して日本の対応を信用しなかったことから不安を煽り、世の中の見方が緊急事態宣言を出さざるを得ない状況になったと感じます。ピークはあったものの緊急事態宣言前後で状況は変わっていません。依然として、感染しても8割が無症状か軽症、14%が重症化、10代から40代までは1%以下、50代で1.3%、60代で3.6%、70代で8%、80代以上で14.8%で、あくまで基礎疾患のある人が重症化しやすく、高齢なほど心肺機能が弱いのは普通です。日本ではインフルエンザの死者は年間3000人以上、新型コロナウイルスの死者数は今日現在935人です。『なんと1日50人以上「インフル死者」が日本で急増する不気味』の記事の中には、新型コロナウイルスについて、「同じウイルスによる感染症であり、毎年、秋から冬にかけて猛威を振るっているインフルエンザの犠牲者と比較するとヒートアップしすぎだとも言えるのではなかろうか。」「犠牲者の数からいえば、高齢化の進んだ先進国では、一般的に感染拡大が深刻化しているインフルエンザの封じ込め対策についてももっと関心が払われるべきであろう。」と提言されています。インフルエンザにはタミフル、リレンザ、イナビル、ラピアクタ(点滴)などの薬や、ワクチンもありますが、死者数が多いのは推定感染者数が1,000万人とも言われ、新型コロナウイルスの現在の感染者数である1万7千人とは比べものにならないからです。今の問題はソーシャルディスタンスが日常化しつつあり、心理的に人を避けるような行動をとる人が出てくることです。人を疑うことを態度に出すわけですから受ける側はストレスが増え新たな影響が出ます。結局、ウイルスが怖いと感じてしまうとその呪縛から逃れられないのかもしれません。そんな人が増えてしまったとしたら、それがもっとも深刻な問題ではないでしょうか。怖いと思ってしまうと「感染したくない」「誰がウイルスを持っているかわからない」「人が信じられない」「第2派がすぐにやってくる」など感じ、さらにその不安を他の人に広げていくというループが繰り返されます。人は人や物事のことをイメージや風評によって判断してしまいます。イメージを持たれることで対話をする機会も失い聴く耳を持たなくなります。聴く耳を持たなくなった人にいくら話しかけても話は伝わりません。これは教育も同じで、好きなことと好きではないことでは聴く耳がまったく異なります。「話せばわかる」かどうかは相手が「聴く耳」を持っているかどうかです。音楽でも顕著で、自分の知らない曲を知らない人が演奏するのと、よく知っている人が演奏するのとでは「聴く耳」が変わったりします。また、曲に印象は音そのものではなく、作曲者に対するイメージが優先されるのです。もう一点、今新型コロナウイルスに効くと言われている薬ですが、ある人に効いたとしてもその経験だけで、その薬が効くというエビデンスにはなりません。芸能人による臨床目的での報道があるとそれが効くと人は信じるわけですが、少数の症例だけでは経験に基づいていても薬として承認されないのです。音楽で言えば、コンサートのアンケートにおいて自分がいいと考えていた曲や演奏が、100%聴衆から支持されることはありそうでなかなかありません。どちらかと言うと作曲者や演奏者のステイタスを評価する人が多いと言えます。今、廃業や経済苦で立ち行かなくなってきた人々は、新型コロナウイルスよりもその現実のほうがよほど怖いのではないでしょうか。政府や都が進めるように、今早急に元に戻そうとしていることは英断です。戻れなくなったことで失うものは人類にとってあまりにも甚大だと思うのです。音楽で言えば、純粋にその音、音楽を聴ける場や機会が狭くなることです。
2020.06.19
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小学生の頃から生意気にもクラシック音楽愛好家について興味があり、憧れていた時がありました。最初は管弦楽曲、交響曲、ピアノ曲が好んで聴く対象でした。子供ですから、華やかな音、親しみのある曲、身近なピアノ曲など、音楽の授業や鑑賞教室で取り上げられる曲が興味の対象でしたが、それらがクラシックの本当の名曲とはやや違っていることにすぐに気がつきました。そこからレコード芸術や音楽の友、FM雑誌を読み漁るに至りました。それでも室内楽曲は作曲のレッスンを受けるまで遠い存在で、室内楽を好んで聴くようになるのは、クラシックファンでも50代くらいからと他の人から聞いていました。しかし、作曲を志すにあたり最初に書くのが室内楽でしたので、そのお陰で高校に入った頃には室内楽ばかり聴くようになっていました。入試で弦楽四重奏を書く予定だったので、古典の弦楽四重奏をよく聴きましたが残念ながら当時それは長くて退屈で、特にベートーヴェン、メンデルスゾーンは聴きながら気が遠くなっていました。それに比べればラヴェルはとてもよく、アカデミックとは言い難いプロコフィエフ、ショスタコーヴィチ、スメタナ、リゲティなどは好きで聴いていた気がします。宍戸睦郎先生に師事した高校時代にベートーヴェン漬けになりました。彼はどんな作曲においても根本はベートーヴェンだと考えていました。宍戸先生はジョリヴェに師事した僅か3人の日本人のうちいちばん兄弟子で、大学に入ってからもいつジョリヴェの分析を教えてもらえるだろうと心待ちでしたが、ジョリヴェの逸話はされても、ルトスワフスキやリゲティの曲を見ることはあっても、ジョリヴェの分析は最後までお預けでした。曲として好きとは思わなかった12音技法は分析できるとその達成感がひとしおで、ジョリヴェもその時期に分析していたらもっと早くに好きになったかもしれません。大学教員になってから演奏会実習ゼミでジョリヴェをとりあげた学生は、サックスとピアノのための幻想即興曲のみで、サントリーホール・レインボウ21で取り上げましたが、他は院生の研究テーマとして論文指導として多くの分析をしました。その結果、宍戸先生の教えはジョリヴェそのものだったと感じました。今はジョリヴェの音楽を土台として作曲するようになりました。そして、クラシック音楽の中においてもっとも芸術性を感じさせる、室内楽、ソロを聴くことによって内面的な影響を受けています。若い頃に、ここに辿り着くことはまったく想像していませんでした。しかし、これまでの全ての出来事が今の自分に導いていたと感じます。今更になってということですが、ルーツを考え今の音楽事情を見るのです。再評価とはそれを誰かが主張した時に起るものかもしれません。しかし、その多くは残っている音源や記録を見た一般の愛好家の文章で、あたかもそうであったかのように実しやかにwebにある限りです。よって、知る限りの事実を少し書いておきたいと思います。宍戸先生とまだ会っていない1960年代に書いたエッセイや解説から、先生が留学していた頃には留学生の類にもれず屋根裏部屋に住み、隣に住む60歳くらいのおばさんから弾いているピアノについて、「ピアノがよく聞こえますが、音楽を弾いてもらえませんか?」という苦情を受けたことがあり、フランス人の友人の運転でドライブに出て大きな事故に遭ったことがあるそうです。また、一人でノルマンディを旅して鰯とライスをレストランで食べたなどの話があります。そんな宍戸先生の1960年頃に作曲したピアノ協奏曲第1番を聴くと、ジョリヴェのピアノ協奏曲からの影響と感じさせる打楽器の用法、日本を想わせる旋律、また伝統的なピアニズムと現代的なピアニズムが交錯することは、ジョリヴェの思想に合致していてさまざまな様式感を感じさせます。しかし、何よりも音楽は構成力だということを感じさせます。要所要所の圧倒的な力強さは生涯変わらなかったことだと思います。ピアノの田中希代子氏は先生の前妻ですが、この録音の頃は離別されていたかもしれません。現代音楽をこれほどに演奏する凄い日本人女流ピアニストがいたことは驚きです。宍戸先生のピアノ作品には「トッカータ」と名付けられた作品がいくつかあります。子供も演奏するピアノソナタ第2番の終楽章もトッカータです。日本人の作品として誇れる内容で、デュティユーなどのフランスのピアニズムは気品も感じさせます。この曲を聴くと宍戸先生が現代音楽を除いてもすばらしいことがわかります。今の若い作曲学生は形式や構造をあまり考えない傾向があります。ある時まじめな学生が次のように言いました。「いかにも盛り上げるぞと言った音楽を聴くと気持ちが萎えてしまいます」型に嵌った音楽、感覚的な音楽が多い中、形式や構造はもっとも工夫すべきところで聴き手はその時間の中に身をおき、その時間の中で盛り上がっていると感じるわけですから、単に大きな音を出しているとか多くの音があるだけではありません。盛り上がりを感じない音楽がNGというわけではありませんが、形式や構造という音楽の大きな因子を活かさずに評価はないと思います。音楽で最初にクリアしなければならないのが形式や構造であって、経験上よく「長すぎる」「短すぎる」「あそこが長すぎる」「あそこが短すぎる」などと言われたら真摯に反省しなければならない時です。「綺麗な音」と言われたらそれは必要条件で、「汚い音」と言われたら問題です。「格好いい」と感じるかどうかは、人それぞれ自己満足の範囲です。よくある画一的な格好良さを問うことは個性や表現の幅がなくかえって虚しいです。逆に格好いいと感じる趣味に合わせて作ることはいくらでもできるのです。若い人たちがよく言う「格好いい」とは映画音楽的、映像的な「格好いい」であって、そんな表現はやろうと思えばできて個性的でないことが多いのです。
2020.06.18
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政府がメディアから責められ、策を講じても評価されない様子が続き、知事たちが独自の新型コロナウイルスに対するガイドラインを立てました。その勢いはここぞとばかり強権を発動して存在感を出しているように見えました。当初想像したのは強い締め付けによる休業要請と思いましたが、その後の緩和から都の全面解除に至る経緯はすばらしく速かったと思うのです。解除基準に一応沿っているとは言え、世の中からは逆風の解除を出す風の読みと勇気はとてつもなかったのではないか、苦言を呈するようで実は経済ありきであったことにいい意味で驚きました。当初、神奈川県の黒岩知事が緊急事態宣言解除後すぐに緩和に向きましたが、小池都知事と共通していることは2人共元ニュースキャスターだということです。その意味ではもっとも適役なのかもしれません。もちろん都知事選がもうすぐあるから、小池都知事が早く収束させたという見方もあるかと思いますが、たとえそうであっても問題はないと思います。「自粛から自衛」とはうまいこと言っていて、今回の件は本当は日本では最初から自衛でできたと思っています。国によって感染の仕方や医療、経済がまったく異なるのに、他国と比べ政府や専門家会議を批判することは、例えば、前にいる先生の言うことを全生徒の前で非難しているのと同じです。本来は生徒の自発的な能力を高めて結果を出すべきところが、先生のやっていることはなっていないと広まるわけですから、結果的に自発性が生まれず先生も追い込まれます。特に医療は専門性が高くないものを急に作れとか、なぜできない、などと言っても、できないものはできないしかないでしょう。それでも日本は医療、経済など全てに恵まれていて、さらに感染しない術を生活習慣の中ですでに身につけていますから、医療や経済を充実させながら皆の気持ちをうまく自衛に持っていけたら、おそらく自粛をここまでしなくてもできたのではないかと考えます。感染したら重篤にならない限り医療が受けられないかもしれない、今はキャパとしてそういう状況だから感染しないように自衛してください、ということを国民にうまく伝わればより強い自衛力が生まれたかもしれません。もとから自衛しようと思っていた人はたくさんいたはずですし、多くの人の自らの生活習慣は前も後も何も変わっていないのですから。先に不安が大きくなりすぎた結果、経済に犠牲がまわってしまいました。ちょうど横田めぐみさんの弟の拓也さん・哲也さんの、メディアへの苦言というニュースが話題になりました。何を取り上げるか、現場や当事者の思いや事情が重要なのだと思います。
2020.06.13
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人が何をするために、どんな使命を持って生かされているのか、などということを最近よく感じます。それは良いことも悪いこともあり、そのとおりにしていなければ軌道修正されることもあります。その因縁は長い時を経てわかります。そう考えると、最近の新型コロナウイルスの一件は、今はこれまでのことを振り返って感謝し反省し、世の中が浄化されリセットされる機会を与えられたのかもしれません。今、何が良くて何が確かでという社会がなく、人の脆さを見た気がします。話を音楽に戻します。パリに留学していた四半世紀前のこと、以前に書いたかもしれませんが、アルジェリア人の女学生の友人がいました。アルジェリアは当時治安が悪く、そのためにパリに来ていたと聞きました。彼女はとても賢くエリートで、しかもチャーミングで気が利く優しい人、北アフリカ出身でイスラム教、フランス語を話す人としてとても新鮮でした。また、アルジェリア人のイメージがものすごくアップしたことを憶えています。外国では少し嫌なことに会うと、その人の国ごと悪く思ったりするものですが、もちろんそれも行き過ぎた見方だと思います。ある時、パリでもっとも流行っているアルジェリア人シンガーだということで、ぜひ聴いて欲しいと1枚のポップスのCDをプレゼントしてくれたのです。足繁く現代曲やクラシックのコンサートに通っていましたが、何とこれが留学中もっとも刺激的な音楽のひとつになりました。感覚的にも日本人に近いと感じていた彼女の中の文化はまったく違うのだと、当時カルチャーショックに匹敵するくらい聴いたことのなかったものでした。その後、この種の音楽は日本でも北アフリカ系のレストランのBGM、J-POPでこの曲を参考にしたと感じられる曲が出たりしましたが、当時はさまざまなアジア音楽までは聴くことができても、イスラム圏の音楽が日本にはあまりに入って来ていませんでした。世界から見れば、日本で見ていることは偏ったうえごく一部なのです。YouTubeが素晴らしいのはかつては聴けなかった、アルジェリア人のステージ名Idirの音楽も聴くことができます。Idir - Les Chasseurs de lumières(「灯の狩人たち」のような意味)このような独特の民族性を感じさせる音楽は、理論で考えた音楽よりも文字どおり理屈抜きでインパクトをもたらします。土俗性や民族性は音楽の素材としては無敵なのかもしれません。師から作曲した音楽には必ず国籍が必要だと教えられたことがあります。海外から日本や日本人を見た場合はまだまだ特異だと感じるでしょう。それはアルジェリア人の彼女に見たのと同様に文化に触れた時です。人は人に対してまず最初に自分との違いをチェックするのかもしれません。師が音楽の国籍のことを言った際に、師の師であるアンドレ・ジョリヴェがそう言ったと言うのですが、今振り返ると、ジョリヴェの音楽はフランス人であるにも関わらず、アジアをはじめ北アフリカなどさまざまな音楽的要素を用います。その基は独特の民族性を表す旋法を駆使したことが挙げられ、民族性を取り払った旋法を操ったオリヴィエ・メシアンと対照的に、同時代にまったく独自の世界をつくろうとした二人の作曲家です。実を言えば、ジョリヴェのことは学生時代あまり好きではありませんでした。ピアノ協奏曲の印象が強くともかくごちゃごちゃしていると思い、もっと洗練された響きを憧れていました。師がジョリヴェの直弟子だったことから、研究テーマをジョリヴェにしている院生の論文指導がよく担当になり、文献がないために楽曲分析を繰り返しているうちに理解を深めました。このピアノ協奏曲は傑作だと思うように変わりました。ジョリヴェは演奏される以前に比べて機会が増えていると思うのですが、演奏者はほとんど内容を理解しておらず難しい分野と言えます。このことは、演奏はされるがあまり好んで聴かれてもいないという、最近特有の現象を生んでいると思います。話をIdirことアミッド・シェリエに戻します。Idirは約1ヶ月前の5月2日に70歳でパリの病院で亡くなりました。死因は肺線維症とのことですが、この病気は新型コロナウイルスに感染した場合に発症します。新型コロナウイルスに罹患したかどうかは定かではありません。彼のことを思い出したことと彼の死が偶然重なりましたが、住みやすい社会、差別のない民族を尊重する社会、真に芸術的な音楽の台頭を期待します。
2020.06.08
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世の中の大ごとは新型コロナウイルスのみのようになっていますが、もっと大事なことや問題はたくさんあると思います。他国のことを見習おうとする評論がありますが、その何百分の一の感染者しかない日本の現状で、第2波がやってきたと言う根拠は何でしょうか?日本で感染症を0人にする目標を立てるのは総意ではありません。感染者0人にするために皆が動くとか、動いているとか、そんな妄想を掻き立てている知事周辺はおかしいと思います。現状の感染者数から言えば、感染しないのが普通で、それでも感染してしまう状況の人が感染するわけです。ただ、気をつけている人はとても気をつけているでしょうし、気にしていない人はあまり気にしていないと言えますが、感染者数から言えば日本では気にしなくても感染しないと考えます。ところで、ヨーロッパでスリが多くしばしば目撃することがありました。自分がスリに遭いそうになることもありました。おまわりさんがもっと取り締まって欲しいと思ったこともありましたが、スリはいつもいるので遭わないようにするしかありませんでした。今の新型コロナウイルスのことで、「感染しないようにする」のは個人の責任において必要だと思いますが、「人に感染させないようにする」考え方には無理があると考えます。まず感染しているかどうかわからない、まず感染していないにも関わらず、感染させない配慮をすることに美徳があるでしょうか?それを言ってしまうと、もう何もできなくなります。それこそ皆が抗体検査かPCR検査をしなければならなくなります。これは同調圧力から生まれた観念で、いい人ぶるのはよくないと思います。皆が人を疑うもととなり、過剰な防御姿勢が当たり前になります。それによりできなくなる営みがたくさんできてしまいます。警察から月に1回は必ず電話があり、つい最近は郵送で送られてきたもの、それは特殊詐欺に遭っている人がごく身近に頻繁にいることです。詐欺に遭ったからと言って死ぬことはありませんが、人が人に行う以上防ぐことはウイルスより遥かにできます。なぜ真の人災をもっと問題にしないのか不思議です。警察署から郵便が届いたのは初めてでした。
2020.06.05
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「クラスター」に続いて「自粛警察」という言葉が流行語として印象的です。 テレビを見ていると外出自粛をしていないと見るとインタビューしたり、 場所を特定して人がたくさんいると伝えています。 このことについて、橋下徹氏は次のように言っています。 『現在の法律の建前が“要請”、つまり“お願い”である以上、 営業を続けるかどうかは自由だし、パチンコ屋に行くのも自由だ。 営業妨害になるような行為をすれば罪に問われることになる。 強制的に止めようとするなら政治が命令し、併せて補償もするというのが本来の姿だ。 それを忘れちゃいけない。 でも、今は自粛要請に反した方が非国民扱いされてしまっているし、 メディアも逆転してしまっていると思う。』 『結局、仕事ができている側が“ステイホーム”と言っている状態だ。 一部の人だけが止めさせられて、“8割達成ができてない”って言われれば、 それは不公平感も出てくると思うし、仕事が続けられている人と、 そうでない人との間の分断が高まっていると思う。 本気で“8割削減”をやるなら、テレビ局も含めて考えないといけない。』 都内にあるテレビ局は社員だけで1,000人規模ですから、 テレビを続けるだけでも外出自粛とは言えないわけですが、 そのテレビが外出自粛を言い続け、その影響で自粛警察が生まれています。 その自粛警察をまたメディアが報道する… 最近、自粛緩和に連れてテレビの語気が営業再開歓迎ムードになってきました。 しかし、感染状況に大きな目途がたったわけではありません。ただ、前にも書きましたが緊急事態を宣言するのも解除するのも、数値目標を決めただけのことであって終息するエビデンスはありません。経済と自粛は相反するものですが、感染するかどうかは別の気がしてなりません。アメリカと日本の比較をすると、5月31日の1日あたりアメリカの感染者数 21,703人 日本の感染者数 32人これまでアメリカの総感染者数 183万人 日本の総感染者数 16,804人アメリカの総死亡者数 10.6万人 日本の総死亡者数 886人アメリカの総回復者数 40万人 日本の総回復者数 14,406人アメリカの人口 3億2820万人 日本の人口 1億2650万人規模が全く違うことがわかります。それでもアメリカは経済に力を入れています。日本は本気で0になると思っているのか、数人単位で緊急事態かどうかが騒がれます。1日の感染者数が32人としてよく考えてみてください。近所にも知り合いや友人はたくさんいると思いますが、ある程度都市の中でばったり出会う確率がどれだけあるでしょうか。それよりも少ない人数の32人と出会うことはまずありません。この人たちが触ったものを触る確率はもっと少ないと考えます。無症状の感染者のことはそもそも気にしても仕方ありません。世の中の病気で発症していないのに気にして仕事は休みませんから。つまり、この数人の増減で物事を決めることに信憑性はあるのでしょうか。ドイツの著名なウイルス学者が日本の新型コロナウイルス対策を「近い将来の手本にしなければならない」と語りました。そして、今自粛緩和が勘所かと思います。SNSでは全体に元に戻そうという気概が感じられます。例えば吹奏楽で個人持ちでない楽器を貸出を再開しようとする部活です。消毒やフィジカルディスタンスはどこまでできるのでしょうか。政府や自治体の緩和規制から漏れる確率は高いわけですが、感染者を出してしまったら即日ニュースになりそうな材料です。感染ルート不明というのはどこで感染したかわからないという意味ではなく、感染したプライバシーを公表したくないということです。クラスター感染しなければ非公表を貫くことは可能のようです。感染者数が増大せず、経済の再開がメディアに好感され続ければ、感染リスクを伴うことであっても元に戻せることも可能かもしれません。
2020.06.01
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