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〇健康維持へのバロメータはストレスの貯金残高の大小に関わって居そうだということ、またストレスの解消法として笑うこと、または泣くことと思っていましたが、某日のテレビ番組を観て、その意を強くしました。 現代の社会生活ではストレス無しに過すことは甚だ難しいことで、避けて通れない道のようです。だからストレスを巧く発散しないことには、招かざる客・ストレスの残高が増える一方になります。その解消法として一日最低一度は大笑いする、或いは大泣きすることが効果的なのだそうですが、泣くという行為は心の中が真っ白の状態にすることなので、笑う以上に効果があるようです。わたしの作曲について、家内はもっと楽しい曲の方が効果的だという見解を持っていますが、自分より数倍不幸な話などに接したら、わが身を客観視できるようになりますので、悲し気な短調の曲の方が癒しの曲として相応しかろというのがわたしの持論なのです。MACの作曲ソフトは平成4年頃に購入したものですから、それ以降の新しいパソコンにインスツールできませんので、作曲は諦めています。
2025.07.31
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〇私が1年生の時は下諏訪湖、2年生:小豆島、3年生:信州の霧ヶ峰高原、4年生:蒜山高原でした。では、最初の合宿はと言えば、ゆったりとしたスケジュールでの練習、楽譜読み、パート練習、そしてトップテナー、セ カンドテナー、バリトン、ベースが一堂に会しての音合わせ。指揮者の考えや各フレーズへの注文など。男性合唱には女性の声が無いと思って居られるでしょうけれど、それは大きな間違いです。 皆さんもお経を聴けば理解できると思いますが、女性よりも1オクターブ低い音で歌うので、その倍音であるオクターブの音が幾重にも聞こえているのです。 もう直ぐお盆。厭だったお経を聴いてご覧なさい。お坊さんの地声より、もっと高い音程の女声のお経が聞こえるようになります。脱線しましたが、昼飯や夕食も、そこは戦場さながらの光景。例えばカレーライスのメニューなら、1杯目は呑み込むようにして平らげ、すぐお代わりの列が出来てしまいます。2杯目をキープして、やっと味わいながら食べる。浅ましい光景ですが、何となく微笑ましい男ども じゃ~ありませんか?
2025.07.30
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〇金田一晴彦著『ことばの歳時記』に<お化けと幽霊の違い>の章がありましたので、お裾分け致しましょう。 <お化けと幽霊との違いについては、柳田国男氏の『妖怪談義』の中の説が要を得ている。氏によると第一にお化けは出没する場所がきまっていたが、幽霊の方は足がないにもかかわらずかぜのようにどこへでも出張して行くものであると言う。第二にお化けは誰かれの見境なしに「ばー!」とやって喜んでいるが、幽霊の方は特定の人だけをつけ狙って他には心をむけない。第三には幽霊は丑三つの鐘がこもってものすごくというような刻限にかぎって戸をたたいたり、屏風の背後にひそんだりするが、お化けの方は特にそういうめんどうな時間を定めることもないと言うのである。 要するに、お化けは大衆的でタクシーのごとく、幽霊はエリート的でハイヤーのようなものである。
2025.07.28
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〇もう何年前のことだったでしょうか、何気なく見て居て感動した手塚治虫さんの自伝ドラマ。戦争前のことだから景色も衣装も時間の移ろいも子供の頃に似ていて懐かしく思ったのでした。田中邦衛さんが演じる中田という名の時計技師の言った台詞が記憶に残っています。壊れた古時計を直しながら「さあ、生きるんだよ、カチカチ動くんだよ」 哀しい哉、親として、我が子に愛情を注いでも、或る時点でそっぽ向かれる時期が来ます。それでも親子仲良く暮らすには、同じ時間に揃って食事する機会を多く持つのが一番。 再びドラマに話を戻しますが、永遠の旅人である中田氏に手塚少年は同行したいと申し出ます。それは、漫画を描くことを父親に禁止されている抑圧から逃れる為でした。しかし約束の深夜12時に手塚少年は居眠りして星の流れる様を確かめられなかったのですが、ドラマでは少年の大望を叶えるべく、星が著しく降ったことになっていました。素人から玄人への分岐点の第一は、夢を果たす為に何もかもかなぐり捨てて裸一貫で荒野に立つこと。・・・凡人にはそれが容易に出来ません。それでも生きている限り、夢を持ち続け、夢を語り、夢を表現することは、人間として大切なことなのでしょう。不治の病に侵された人でも、夢を持ち続ける限り、病魔に打ち勝つ奇跡もあります。健康な者なら、尚更のことお互い、夢を大切にして参りたいものですね。
2025.07.27
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〇数年前から大学教授5名と「京鹿子図書館」長のTさんと私、計7名のメンバーで取り組んできた数年前から鈴鹿野風呂先師の書き残された毛筆の日記、「野風呂俳諧日誌」(S19~S22)の読み解き作業(凡そ800頁)、そして最終段階の地名・人名索引簿凡そ50頁に亙るチェック作業がこの程終了。9月か10月には約30数冊発刊できそうです。野風呂先師のこの日誌は終戦直前から戦後の京や国家の生活状況をも含む俳諧交流の記録誌。献本先として、国立図書館、国立国会図書館関西分館をはじめ、京都大学、京都市立中央図書館、大阪府立中之島図書館、神戸大学山口誓子記念館等々の他、個人宛に2冊配布されますので、私の母校関西大学図書館にも寄付する予定です。古文書や毛筆に慣れておられる先生方に歩調を合わせる事や細かい作業の索引作成など、涙なしでは語れません。
2025.07.26
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〇志村有弘著『陰陽師列伝』第1章の列伝には、吉備真備から始まり、7番目に安倍晴明など13名の陰陽師。カラー口絵には妖狐調伏の題があって、時は久寿元年(1154)の頃、或る魔物に憑かれ給うた鳥羽院の話。事の次第は以下のとおり。 御所に現れた美女は知恵学問に優れ、弁舌にも長け、忽ち院の寵愛を受け「玉藻前」と称されました。しかし院の健康が優れず、諸山の高僧の祈祷も効果なく、死期を悟られた院は玉藻前とも今生のお別れの辞を申されようとしました。この事態に、安倍安成は病気の根源を玉藻前と卦をたて、「泰山府君祭」を行い、もろこしからやってきた老狐を追い払いました。世に言う七戸狐。桂米朝師匠の熱演は今も瞼に新しい。 〇
2025.07.25
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〇小倉百人一首の絵札の内、後ろ姿の姫は数人で、式子内親王もそのひとり。 玉のをよ絶えなば絶えねながらへば 忍ぶることのよはりもぞする心の中が晒されてしまう前に死んでしまいたいとの意。後白河院の第三皇女で以仁王・殷富門院らと同腹。1159年(平治元年)から10年間賀茂斎院を務められ、陽の目を見ない境遇の許、53歳で崩御。歌は149首。 さて、藤原定家の日記『明月記』の建仁元年、記述がかなり途絶えていた中、1月25日、内親王の逝去に触れています。その前の年には、実に36回も年上の内親王に御目通りしていました。お二人の縁は1181年から、凡そ20年にわたり、内親王は珍しいお香を焚いて歓迎したり、時には筝を御自ら弾いて下さったようです。 定家は出世が遅れがちで、27歳にして漸く左近衛権少将に任ぜられ、10年も据え置かれましたが、同格の少将の同格の少将の年少は6歳、多くは10代、20代の若者でした。こうした不幸な境遇が、お二人を近寄せていたのかも知れませんね。
2025.07.25
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〇通常の句会では各人が選んだ作品の読み上げは、多数集まる例会や特別な句会、そして吟行句会では特定の人が披講します。一方、当番制で毎月、披講者の変る句会では披講の仕方が大変勉強になります。リズム、声質、抑揚、余韻・・・・。 句の構成が5+7+5の基本パターンなら問題は少ないのですが、5+3、9=17の場合や5+4、8のケース、7、5、5=17など色んな組み合わせに対面します。 それに字余りが加わる場合など、いろんなリズムの採り方がしてあって、それを意識しないと吟者の主旨に合わないこともあります。或いは自分の知らない漢字や知らない語彙、全体の意味が掴みにくい場合もあります。 レベルの高い句会では、殆どルビを振っていませんので、漢和辞典を引いたり、広辞苑を引いたり・・・ノートの余白にメモしておく必要があります。また(互選=各人が好きな句を選ぶ)選者が、うっかり間違えて選句用紙に書き込んでしまわれることも日常的にありますので、そんな場合でも、原句通りに披講する気配りも肝要です。 披講者として常時選句を読み上げるのですが、巧く行って当たり前、下手をすれば当然不平の声なども水面下では起こりそうですから、俳句という凝縮の芸術を学べる恰好の機会と前向きに考え、日々精進を重ねていくことが肝要であると思っています。
2025.07.24
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〇家紋について再び勉強してみたくなりましたので『家紋で読み解く日本の歴史』鈴木亨著(学習研究社)を繰っていると、菊の文様と後鳥羽院とに触れている箇所がありました。 <菊の文様は古くから人々に愛されていました。『源氏物語』には菊が20回も出て来る。朝廷では9月9日の重陽の節句には、天皇が手ずから群臣に菊酒を賜る習わしがあった。>醍醐天皇から下賜された御衣を眺める道真公を描いた「北野天神縁起絵巻」には、御衣を納めた箱に菊の文様が附されています。 元来、皇室の紋は正式には「日月」。ところが後鳥羽上皇が殊のほか菊を好まれ、御自ら焼き延ばされた「菊一文字」の名刀を初め、衣服・調度品・御車などの 身の回り品に菊の文様を用いられ、後深草、亀山、後宇多と菊の好きな天皇が歴代続いたので、公家たちは次第に”菊”の使用を遠慮するようになり、皇室専用のご紋になっていきました。 明治維新になると、新政府は皇室以外の”菊”の使用を一切認めないという布告を発布しました。それ故、宮家と一部の公家、そして皇室ゆかりの神社仏閣にのみ、菊御紋の名残がありますね。
2025.07.23
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〇古来より”水も滴る好い女”などと美人の喩えに使う諺がありますが、人体には体重の半分から3分の2を占める水分があるとか。その大半は細胞内にあり、また細胞周囲に8リットル、血液中に4リットルの水分があるようです。体が正常に機能するには、これら水分が一定レベルに保たれる必要があります。その役目を負うのが腎臓で、1日に150リットルもの血液をろ過し、99%を血液に戻して再利用させ、余分を体外に排出しています。 ここで注意すべきことは、運動などで大量の発汗による水分の不足は、運動後に必死で飲んだ水の量ではかなり不足するという事実。それに、口を湿らせたり、水で漱いだり、洗濯バサミで唇を挟む動作でも、脳は水分を補給したと錯覚するようです。一方、水の飲み過ぎは「水中毒」という死の危険性も孕むことになるので、要は小刻みに水分を摂ることが大切なのでしょう。
2025.07.22
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〇むかしテレビが行き渡る前ぐらいの昔、朝日テレビで日曜の午前に放映されていた徳川夢声と柳屋金語楼との時世対談「こんにゃく問答」という番組。とぼけた風刺対談が面白かった。蒟蒻は大阪府高槻地区で栽培されていたようで、厳冬の風物詩。逆に夏らしい食べ物として人気のあるのは「ところてん」。テングサ類の海藻である大凝菜を熱湯で煮て寒天質を抽出し、冷ませばゼリー状になります。これがところてん。平安時代には既に食されていた古い食材です。夏には爽やかな喉越しが暑気を払って呉れるし、寒さへの抵抗力を高めるということで冬にも好んで食べられています。ノンカロリーだからダイエット効果もあって根強い人気商品のひとつ。 平安時代には古留毛波(コルモハ)と言い、心太という字をあて、俗にココロブトと呼んでいたようです。この俗称が残り、ココロブト→ココロタイ→ココロテイ→トコロテンと転訛してきたと言われています。
2025.07.21
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〇某年某日、KBS京都の「ほっかほっか ラジオ」で笑福亭晃瓶さんが、家で使用する手拭は、「洗面場用、台所用、そしてトイレ用と分別している」と切り出されたところ、相方の中村薫さんが「私はそんなん分けへん、洗たら皆一緒や」と応じられたことに対して多大な反響がありました。いくら洗濯をしたからと言って、便所は不浄の場だから気分的な問題で台所用とははっきり区分しているという意見がわんさかと放送局に届いたようです。 実はわが亡母もきちんと手拭の模様(白無地、柄もの、色ものなど)で区別していました。トイレ用の箒や雑巾の一般分との区分は言うに及ばずでした。それに洗った洗濯物を干す方向は常に南向きにしていたこと、洗った皿も南向きに並べるという徹底ぶりでした。朝一番、仏壇に供える飲み物は水ではなくて必ず仏様専用の土瓶に淹れた茶でした。ゴミの扱いも仏壇のものは別にしていました。此岸(シガン生きている側)と彼岸(ヒガン仏様の世界)との違いなのでしょうか。要するに阿弥陀如来様を筆頭にご先祖様の霊位には充分過ぎるほどの敬意を払い、あの世の方々とこの世に生きる者とをはっきり区分していたようです。朝夕30分ほど、冬の寒い日も仏前に向かって拝んでいました。それ故でしょうか、母は苦しむことなく彼岸に辿り着いたのでした。
2025.07.20
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〇子供の頃、夜店で買ったほおずき。大阪の社宅の庭にも植えていましたが、姉達を真似て、その赤い実を柔らかく揉んで、種が泳ぎ回るのを皮ごしに確認してから、待ち針や楊枝で突きながら中身の種などを抉り取り出していました。 この遊びはどうやら平安時代から続いているようで、をんな・子供ばかりでなく、貴人もほおずきを鳴らして遊んだようです。 ほおずきの薬効が広く行き渡ったこともあって、浅草寺でのほおずき市も盛んになりました。 堕胎の方法の一つに、咳止め、利尿、下剤効果もあるほおずきの根を煎じて飲ませる、いわゆる人工的流産法の中条流(婦人雑誌の広告にも載っていた)がこれでした。何故、堕胎効果があるかもしれないほおずきを七夕の頃に飲んだのかと言えば、七夕の頃に嫁が妊娠すると、秋の収穫期に流産する危険が高くなり、妊婦は仕事ができなくなり、それでは貴重な労働力を失うことになるので、七夕の頃に妊娠してもすぐ流産してしまうよう、ほおずきを煎じて飲ませたのです。少女が早々と妊娠してしまわないよう、七夕さまにほおずきをぶら下げる地方もあったようです。
2025.07.19
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〇昭和40年代にアサヒビールが刊行していた小冊子「ホロニガ」にある一文。リンボー・ダンスは、普通、男二人、女一人のチームでおこなう。最初に二人の男が、どこまで棒を下げて、その下をくぐれるかを競い合い、勝った方が女を抱いて棒の下をくぐる権利を得る。写真はその光景で、ショーとは言え、演ずる黒人たちは真剣そのものだ。とあって、赤地にロウケツ染め模様のような長袖のシャツに、オレンジ色のフィットズボンを履いた男の上に上半身はごつ目のブラジャーだけ、下半身は色鮮やかなスカートをしたチャーミングな黒人女性が乗っかり、側面から見ればちょうどV字になるようなバランスを保つ恰好をして、 棒の下を潜るシーンが写っています。信じられないほどの足腰の強さですね。
2025.07.18
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〇某年某日、滋賀県は守山にて500円での乗り放題の乗車パスを首からぶら提げ、専用バスに乗り込みました。蓮の花が数万本、一斉に咲く公園は草津市に属しますが、ここ3日間だけ特別に守山から運行しています。新聞紙上で案内の通り、池に咲き誇る数万個の蓮の群れは、正しく「彼岸」の世界のようでした。珍しい睡蓮も多々生育して居り、この公園(博物館や水族館)だけで一日楽しく過ごせそうな場所でした。画面は東之湖作の青いお雛様。
2025.07.17
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〇父が遺した色紙は沢山あります。季節ごとに変えるので、普段は家内が管理保存しています。何気なく見ていたら、その箱のなかに、筆遣いの見事な色紙、そうみちのくのこけし作家達の遺した色紙です。一瞬にしてこころを奪われてしまいました。
2025.07.16
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〇浅井建爾著『日本の地名』。雑学事典というものはどの情報も興味深いものがあります。 例えば今2つしかない「府」は一時、全国に10カ所もありました。東京、京都、大阪、箱館、神奈川、新潟、甲斐、度会、奈良、長崎。府という名称は最高の地位とか、中心的と言う意味合いのもの。東京は日本の首都・政治の中心地、大坂は天下の台所・経済の中心地、京都は千年も首都であったという輝かしい歴史の中心地。これには一歩下がる意味で、神奈川は明治9年9月、新潟は明治2年2月、長崎は同じ6月に、箱館(函館)、甲斐、度会、奈良は明治2年7月に県へと移行したようです。 明治4(1871)年の廃藩置県により藩が廃され、県という行政組織になりましたが、当時は3府302県という夥しい数でした。その一例として、千葉には20以上もの県があったようです。新政府は試行錯誤の末、明治11年11月に漸く、4分の1以下の3府72県まで削減しました。但し、現在ある県名のうち、この間に消えた県として、富山、福井、奈良、鳥取、香川、徳島、佐賀、宮崎などが挙げられます。明治13年高知県から徳島が独立、福井、鳥取、佐賀などもこれに習い、明治21年、香川が愛媛から独立。 東京が都制を敷いたのが戦時中の昭和18年(1943年)、北海道が府県と同格の自治権を持つのはその3年後、沖縄が日本に返還されたのが凡そ30年あとの昭和47年(1972)で、今から50数年前のことです。
2025.07.15
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〇読書は三度の飯同様、欠かしてはいけないと痛感しました。と言うのは、先日借りた『帝王聖武』(瀧浪貞子著)の第一章に、掲題の内容が書かれてあり、驚愕したからです。 オビト聖武天皇は幼名首皇子と呼ばれ、誕生と同時に生母宮子が鬱病罹られ、紀伊家や橘家を漸次押しのける勢いをつけて来た父藤原不比等の屋敷で育てられ、三十七歳にして漸く、実母と対面された暗い経緯があります。 一方光明子は、犬養三千代との間に生まれ、乳母の名を採る習慣から、 アスカベヒメ幼名は安宿媛と称され、恐らく不比等の邸内の別棟で育ったようです。ご在位の天平年間は災害や疫病(天然痘)の大流行に苦心され、みんなの力で大仏を建造、そのご威光で平癒する事に着手されました。今更、新たに大仏さんを造る必要は無いと思われますが、大仏さんほどのスケールの大きい施政者の出現を待ち望む今の日本ですね。
2025.07.14
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〇集中豪雨による空前の被害を受けられた方々に心からお見舞い申し上げます。 さて明治18年6月17日、折からの長雨に淀川が増水して枚方辺りで堤防が決壊しました。北河内、南河内のみならず、網島、桜の宮など天満川堤防から生駒山の麓まで泥水で埋まったのでした。太閤秀吉が万が一に備えて造らせた”わざと切り(和佐登幾利)”の堤防の扱いによって、流木が暴れ、川崎橋、天満橋、天神橋、難波橋が壊れ、市内水びたしになったようです。その為、御成橋(備前島橋)の先の網島にあった大長寺。近松門左衛門の浄瑠璃「心中天網島」で有名な治兵衛・小春の心中墓もろとも押し流され、現在は400メートルほど先に移転していて、寺の跡地は現在、藤田美術館となっています。 安永6(1777)年の「難波丸網目」という本には大長寺の鯉塚については触れているものの、歌舞伎・浄瑠璃ですっかり有名になった二人の墓は載せて居ません。ところが24年後の「葦の若葉」(蜀山人著)には、<南に行けば野田村なり、小さき流を渡りて右の方に大長寺あり、ここは網島という所なりけり。門の内に地蔵堂あり、その側に鯉塚あり(中略) その右のかたに一の石のしるしあり 釈了智・妙春信女 俗名 かみや治兵衛・きの国や小はる 寛政七年丙辰に七十五回忌の卒塔婆をたつ、これは世の人浄るりに作りてかたり伝へし紙治と小春の心中せし処なり>とあって、その年には墓があったことが解ります。 一方、翌年の1802年享和2年に大阪に旅した曲亭馬琴の「覊旅漫録」によると<紙屋治兵衛が墓は大坂網島大長寺にあり、近日の大水にこの大長寺決水口にあたり墓所混乱して或るはおし流し或るは崩れたり、故に治兵衛が墓は見ずにゆかずしてやみぬ。>とありますから、たった1年の間に、治兵衛らの心中墓が流されたこと、江戸・明治期にも洪水が頻繁にあったことが解ります。(参考・牧村史陽「大阪史蹟地図」)
2025.07.13
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〇東京テレビ「和風総本家」で茶の間をほっこりさせて下さったのが今は亡き地井武男さん。或る時は「椎茸」の着ぐるみで喫茶へ、呼び出しが「しいたけお」さまとあるなど、親しみを醸し出すお人柄でした。彼にテレビ朝日から東京近郊の散歩の案内役のオファーがあった時、散歩の終りには必ず1枚の絵を描かせて貰うことを条件にされたようです。その集積が新日本出版社による『地井さんの絵手紙』として10数年前に出版されました。テレビ番組収録は200回を越え、その同じ数の作品が残っているのですが、その内の40枚が上梓された次第です。何とも言えない味わいのある絵は大評判で、伝統の職人技、古さと新しさが絶妙に調和する街風景などを纏めた第2~5(最終)集が発刊されています。
2025.07.12
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〇古来、俳句の世界では声のない生き物を鳴かせることができました。「亀鳴く」「田螺鳴く」「鰍鳴く」などのほか、ミミズやミノムシまでも。民俗学者柳田国男著『桃太郎の誕生』の中の「米倉法師」を引用すると、蚯蚓(みみず)を鳴かせたのは座頭、つまり坊さんで、蛇は歌が巧みで目を持っていませんでしたが、蛇に歌を習っていた蚯蚓が、自分の目と蛇の歌唱力との交換を申し出た結果、蛇は目を持つ代りにもう鳴けなくなり、一方蚯蚓は目を失った代わりに鳴けるようになったと米倉法師が説いたようです。 里の子や蚯蚓の唄に笛を吹く 一 茶 三味線をひくも淋しや蚯蚓なく 虚 子 蚯蚓鳴く六波羅蜜寺しんのやみ 茅 舎
2025.07.11
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〇花の小枝を手折って瓶に挿し、室内に飾り自然の美を取り入れた風習は既に平安期の文献にあるようですが、この瓶生花は元来、仏への供華から始まっており、仏教の伝来とセットで小野妹子が関わっていた模様。 + + 武家社会の鎌倉期になると、人を殺めることへの無常観から野辺の草花にまで心を寄せるようになりました。 + + 室町時代、銀閣寺で著名な足利義政の頃、相阿弥真相が華道に秀で、村田珠光の茶道と時を同じくして + + 元服の花、出陣の花、祈祷の花、三具足の花などという形式を固めて行き、その伝を受けた六角堂の執行・池坊専応が池坊流派を興すに至りました。秀吉の時代には茶人として名を成した千利休は、茶道と一体化した華道家として注目するに値する人物でした。 + +再び時代を遡ると、嵯峨・大覚寺において、平安期に嵯峨天皇が臨幸され、境内にある菊島に小舟でお渡りになり、枝ぶりのよい菊をひと株おとりになって花器にお飾りになった。 + + 華道でいう、天地人三才のありさまを見事に表現なさったとか。これをきっかけに大覚寺では、華道としての免許を天皇から授かった由。 + + 千利休、細川三齋(忠興)、古田織部(重勝)、小堀遠州(政一)、近衛信尹といった茶人はこぞって、華道にも優れていました。のちに広口の花器も出ましたが、いずれも銅製のもの、明治時代になって初めて陶器の花器が出ました。 (参考・日置昌一著「ものしり事典」)
2025.07.10
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〇全国に五十数個ある小京都の中から厳選した二十八の小京都。青山誠:文(技術評論社)の綺麗な小冊子があります。太宰治・石坂洋次郎ゆかりの弘前、啄木・宮沢賢治の盛岡、勇壮な祭りの角館、水郷風情の栃木、武家文化の足利、謙信・信玄夢の跡である飯山、城端、そして利家・お松が築いた金澤百万石。大野に、仏像が語りかける小浜、曳山で有名な高山、水と踊りの町:郡上八幡、松茸と猪肉といえば丹波の篠山、固めの蕎麦どころ:出石、童謡の町:龍野、白壁土蔵の倉吉、文豪:森鴎外生家の津和野、桜の名所美作:津山、質実な高梁、贅を尽くした豪商跡の竹原、西の京と呼ばれる山口、維新のふるさと:萩、木造復元された城の大洲、四万十川に咲く小京都:中村、相良氏ゆかりの人吉、此処にも山鉾のある日田、武家屋敷の残る飫肥(オビ)、そしてどん尻は、南国の情熱:知覧の明るさ・・。
2025.07.09
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〇オランダ、アムステルダムのスキポール空港の男子トイレには、小便器の真ん中に天道虫のような画が描かれていて、用を足すとき、自然とそのゴミのような部分をめがけて・・・。小水が便器から零れ出さないように工夫してあるのだそうです。誰だって、目標物があれば、それを狙い打つ。(付録)子子子子子子子子子子子子(子が12)と書いて、何と読む?平安初期、冥界と現世とを自由に往き復きできた博学天才の小野篁に、嵯峨天皇がこの問題を解くよう仰せになりました。やがてたかむらの答えるに、<猫の子の仔猫、獅子の子の子獅子>宇治拾遺物語に実際に書かれているとか。(参考図書・上前淳一郎著『読むクスリ32』)
2025.07.08
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〇明治四十年東大卒、物理音響学の権威:田辺禎一氏が書き残された『朝風呂の味』という昭和三十一年発刊(住吉書店)のちょっと粋な大人の読む本があります。その中の<心中と情死>の件りに、遊女が馴染みの客に向かって心中立てするには、先ず軽い方から重い方へ順に、誓紙、入れ墨、髪切り、生爪はがし、指切りへと進んだそうな。『こそごり草』という古書からの引用で、下記のものが、京都島原の誓紙の面白い文として紹介されています。恐らくこれは戯言の文だろうと思われますが、1、あれさまと申しあわせ候より外、其許よりおいとおしく思う人持ち申すまじく候。1、そもじ様の外、口吸はせ申まじく候。1、そ様の外、手枕此方より入れ申まじく候事。1、煙草、盃のつけさし、お主様の外わが身方より致すまじく候事。1、誰様と寝ねいたし申とも、かのときあちら様を馳走に○○○○○申まじく候。但しわが身なぐさみに○○○申候事は此限りにてはあるまじく候まま御許し下さるべく候事」云々(原文のまま) さて、○○○○○や○○○にはどんな言葉を当てはめましょうぞ?
2025.07.07
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〇寝室の洋服ダンスの上に積まれた塗りの文書箱の中から家内の祖母の毛筆書きの旅行記数冊が出て来ました。従妹に貸し出し中と思っていたので嬉しい発見でした。「日記と短文」これは明治44年11月に書かれたもの。どうやら祇王寺や小督などに触れてありますが、筆遣いに強弱のリズムがあって魅力的です。高尾山紀行は表紙側にはもみぢの旅の記として色も塗ってあります。明治41年10月18日、本科2年ろ組と氏名が記してあります。 他に「鎌倉の夏」「暑中休暇日誌の内、関西紀行」朱筆で訂正してあるのは、当時の教師だろうと思われます。昔の学徒は画数の多い旧字体の漢字を覚え、書くことや毛筆で綴るなど、偉かったように感じます。
2025.07.06
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〇詐欺師になるには先天的な才がある方が都合良く、努力とノウハウで一定のレベルに達せそう。相手がそうならば、善良な私たちが騙されない為には、こっち側も見破るコツがあって然りです。話すときに目の玉がうろうろしている場合や指先の震えや貧乏ゆすり、身振り手振りが大袈裟になる(コメント、だからテレビタレントが派手な身振りをするのも、話半分に聞き流すべし)、ハッタリ的な出だし、早口、聞かれもしないことを話すなど、冷静に受け止めれば、相手の術から逃れます。さて5ヵ条。1)ハッタリ、2)左顔は右顔より正直。これは左半分+左半分の表情と右半分+右半分の表情を比べたら前者の方が顕著という、実験事実に基づいたデータ。3)一旦話を広げさせ、急遽、元の部分に戻って尋ねると相手は支離滅裂に成りがち。4)相手にどんどんイエス、イエスと肯定させておき、突如、イエスの中の矛盾点を追求する。5)わざと相槌を打たないで、相手の目を凝視する。素人なら逃げ出すこと請け合い。(参考図書・荘司雅彦著『嘘を見破る質問力』)
2025.07.05
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〇私事ながら小学生時代に「小粋な娘さん」や「姉妹」の歌、高校の音楽では「マント」の曲などを作っていましたが、何と言ってもNHKの「あなたのメロディ」が大好きでよく観ていました。中でも<おへその中には何があるドンドン・・・ おへその中は暗い暗いツボの中>といった歌詞の「おへそ」は抜群でした。もし高木東六氏が現在もご存命なら、目を三角ににてお叱りになるような歌詞が今、横行しています。山本直文、湯川れい子、平尾昌晃といった一流どころの審査員たち。森山良子「この手のひらいっぱいに」、トア・エ・モア「空よ」、「与作」などは著名ですが、私には<三宮泣いて別れた 三宮雨の慕情・・・>転調風に、<ポートタワーに>という歌が脳裏から離れないのです。おそらく父が録音して残していたテープを就寝や寝覚めに聴いていたからなのでしょう。
2025.07.04
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〇亡父は大手生命保険会社に勤めていましたが、時々東京への出張を命ぜられたりしていました。その折、昔の部下で、既に嫁いで居られた女性から、是非我が家をご利用下さいと誘われ、そのご好意に甘えていました。昔の部下の家に泊らせて貰うということは余ほどの信頼関係がないと考えられないことです。その夫君も快く協力して下さいましたし、お子達も、泊る都度、大阪・京都からの土産物を持参する小父さま(=亡父)に親しんで下さいました。父が生命保険会社を円満退職し、京都のミッションスクールで教鞭を取っていた時も、フリーになった時も、亡くなる直前までこちらのご家族と親密にして戴いていました。このような信頼関係が出来ましたのも、すべて俳句が仲立ちになっていました。浦和のこの女性のお宅では、退職後の父を囲んで「七夕句会」が毎年行われるようになっていました。不思議なことに殆ど毎年、雨の降る天候だったようです。俳句という趣味は景色を愛でたり、花を愛でたり、四季折々の心情をものに委ねて表現する世界ですが、利害関係のない、純粋なお付き合いは、その命が果てるまで、いいえ、心の中ではいつまでも尽きることなく生き続けるものなのでしょう。
2025.07.03
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〇午前中はどちらかと言えば能動的に過ごしますが、午後からは余り有意義に過ごしていません。そのツケが句作にも表れてくるのでしょうね。サルビアの焔(ほむら)を咲かせ卒寿女史御覧なさいこれが千入の藍浴衣 千入=ちしお、つまり何度も染めること歌舞練へ赤帯きりり白浴衣水中花泡(あぶく)ひとつの独り言花あぢさゐ今日に染まるはどんな彩夜咄の茶事なかごろや冷奴 茶事七式→曉、朝、正午、夜咄、不時、飯後、 跡見紫陽花や女御の如く侍りをり麗容のくじゃく仙人掌花堂々奉行とな結界石の雨蛙哲学の道のかたへは木下闇一雨得て古社大豊の大茂り
2025.07.02
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〇大正時代、電気事業社と定額灯の契約を選んでいた一般家庭では、夕刻から送電が始まり、夜明けに切られたので、日中は電気とは無縁の暮しだったようです。夜間は使い放題とは言うものの、総使用量枠があり、使用できる電球も電力会社指定の製品しか使えませんでした。当時の子供や乙女にとって、半畳足らずの狭いトイレには、五燭といわれた薄暗い電球がねじ込められていたので、こわい小説を読んだ後や恐い夢を見た後に家の一番奥にある便所は、ぽっかり穴の空いた便器の下から青白い手が伸びてくるような錯覚がして恐かったようです。 西院にある春日神社の皇太子(のちの昭和天皇)ご生誕祝賀記念の鳥居は西院電燈使用組合によって建てられたものです。
2025.07.01
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