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〇谷崎潤一郎の『朱雀日記』の原稿は彼が京都に下宿し、生活する資金源となる新聞社との約束事で、律儀に書き送ったようです。 或る時の文中に「磯田と呼ぶ40近い老妓が居て、(小説家などが)訪問すれば、・・・素晴らしい気焔を吐くさうである」 と書いてあったのを、祇園新橋の「大友」を訪ねるや、開口一番に「谷崎さん、老妓はひどいじゃありませんか」 と磯田多佳が文句を言ったそうな。時に多佳33歳、花街の女性らしからぬ魅力を持った女性だったようです。 谷崎潤一郎が2度目宇治に訪れた時には、旅館「万屋」の岡本橘仙、金子竹次郎、そして磯田多佳も同伴していました。 磯田多佳は昭和20年5月15日、養子又一郎の家(南禅寺北坊町)で67歳の生涯を閉じました。 祇園新橋の茶屋「大友」が強制疎開で立ち退きを命じられ、そのショックが糸を引き、虚脱状態になったものと思われます。翌年、谷崎にとって思い出深い上田敏も住んでいた知恩院内の源光院で、多佳の追善演芸会が催され、夫人松子や妹の重子らと一緒に観ています。その日から1カ月ほど経った6月、 「大友」の跡地を訪れたら、白川の流れに沿って茶屋が並んでいた路地は「ぽかっと穴があいたやうに明るくなってゐて」その跡は掘り返えされて野菜畑になっていた。 しら河の流れのうへに枕せし 人もすみかもあとなかりけり あぢさゐの花に心を残しけん 人のゆくへもしら川の水 これらの一文「磯田多佳女のこと」(全国書房)は、谷崎潤一郎が戦後、1番目に書いたもののようです。 「大友」の跡地は現在、<かにかくに祇園は恋し寝るときも枕の下を水の流るる>吉井勇の歌碑が建っています。
2025.02.28
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〇ボランティア・ガイドをリタイアして数年経ちますが、史実の発見や新しい情報の収集も楽しみのひとつでありました。サントリーウイスキー山崎蒸留所のお姉さま達のガイドを受け持った折、事前の資料作成で歴史上の人物の繋がりを知り驚きました。例えば、水無瀬の滝に関連して言えば、 水無瀬山せきいれし瀧の秋の月 おもい出るもなみだなりけりの作者は藤原家隆で、彼の歌は百人一首98番目 風そよぐならの小川の夕暮は みそぎぞ夏のしるしなりけるまた関大明神さんのガイドで紹介する平兼盛 遙かなる旅の空にもをくれねば うらやましきは秋の夜の月は百人一首では40番目の和歌、 忍ぶれどいろに出にけりわが恋は ものや思ふと人の問ふまでという有名な歌の作者で次の41番目 恋すてふわが名はまだきにたちにけり 人しれずこそ思ひそめしかと詠んだ壬生忠見との大接戦で結局兼盛が勝ちました。忠見は負けたことを悔やみ続け病死したということです。 また宝積寺の寺歴の説明で僧:寂照が母の為法華八講を盛大に行い、500人の出家人の読経に、聴衆のすべてが涙したという逸話が大江匡房の「續本朝往生伝」に載っているのですが、何を隠そう、この匡房の歌が73番目の 高砂の尾上の桜咲きにけり とやまの霞たたずもあらなむで、宝塚歌劇女役:尾上さくらさんの芸名の根拠になった歌なのです。
2025.02.27
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〇まだ学校へ上る前だったろう、頭の片隅にあるのは鋳掛屋さん。鍋・薬缶の漏れを直すのが本業ですが、それだけに留まらず、傘の修繕、鋏・包丁の研ぎ、鋸の目立てまで、何でもござれ。鍋の穴は白目という特殊な金属で上手に塞いで下さいます。白目は白鑞とも書き、銅と亜鉛の合金で、シルクハットのような型をしていたような記憶があります。鋳掛屋のおじさんは風采はあがりませんが、表情に独特の味わいがあって、修繕の手際の良さは天下一品。いつまで見ていても、その段取りの良さ、手捌きの良さに感心していました。大正・昭和初期の日本人はものを大切に使っていたように思います。いろんな画像をインターネットから探し出すにつけ、思い通りの昔の生活風景画像を見つけ得ず、ふと鋳掛屋さんのことを思い出しました
2025.02.26
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〇某日刊新聞に掲載されたバーナード・リーチに関する特集(1980年4月5日、池田弘編集委員)を参考に一部書いてみます。 自らを<東洋と西洋の間の使者>と称して十三回も来日し、東洋と西洋文化の相互作用の中に人間の在り方を模索、機械文明の果てしなき発展の落胤として枯渇してゆく人間の精神の潤いへの果敢な闘いを陶芸から伝えた人でした。 香港で生まれ京都や彦根で幼年期を過した彼は、小泉八雲の著作に感化され再び来日し、英国で学んだエッチング(銅版画)の技術を教えている時、志賀直哉・武者小路実篤・柳宗悦・岸田劉生などの白樺派とねんごろになりました。そんな或る日、招かれた茶会で楽焼の絵付けを経験したことから焼き物への興味が湧き、日本人に溶け込んで日本人が本来欲している素朴な民芸の良さを彼の作品を通して伝えました。11年間日本に在住したリーチは大正9年、浜田庄司を伴って英国へ帰り、漁村セント・アイブスにヨーロッパ初めての登り窯を築きました。 「人間の魂の宿るやきもの」を鼓舞した彼の著書は世界中で愛読され、欧米随一の陶芸作家として敬愛されるに至りました。英国王室はサーの称号に類するC・Hを彼に贈り、またエリザベス女王は訪日に際して彼のエッチング「手賀沼」を皇后への土産ものに携えられたようです。92歳の生涯を民芸的立場で東西文化の融合に寄与した彼の功績を称え、死後の翌年に日本で大々的な展示会が催されました。現在、甥っ子が彼の作風を伝えています。 このように往時の日刊紙の特集は精度の高い記事が満載されていて、このHPやガイド時代に役立ったことが多いので有難いなと亡父に感謝しています。
2025.02.25
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〇16年程前、父の遺品を整理していたら桐の箱に納められた立派な色見本が見つかりました。A4サイズぐらいの大きさで、厚みは15センチ程度。俳句短冊帖と同じ仕組みで、頁の真中に5×8センチ程度の布製の色見本が嵌めこんであります。だからこの見本帖は、かなりの重さ。長姉が欲しがったので、姉に預けることにしました。和式の色見本での種類は全部で82種類もあって、色の呼び名が風流・雅です。(1)蘇芳suou (2)紅梅koubai (3)韓紅花(4)桃花momo (5)桜 (6)肉niku(7)赤蘇生akasoou (8)銀珠ginjyu(9)猩々緋syoujyouhi (10)紅緋benihi (11)黄丹outan (12)真緋mahi(13)ソヒsohi (14)柿 (15)深 支子kokikuchinasi (16)柑子(17)朽葉(くちは)(18)赤白橡akashiro turubari(19)小豆azuki (20)蒲萄茶ebicha(21)真朱 shinsyu(22)檜皮hihada (23)ベンガラ (24)代シャtaisyaかように、赤系統だけで24種類の分類、しかも読みにくい漢字を使っています。
2025.02.24
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〇鹿ヶ谷のノートルダム女学院中・高等学校の教鞭を執らせていただいていた父の句。 みんなみんな受験の肘を鋭角に すばる・・・一心不乱に問題・答案用紙に集中している受験生の様子が、端的に詠み込まれています。この句では肘、鋭角の語が効いているように思います。 受験生わがほほえみにほほえまず すばる 受験生が落とす消しゴム遠弾み 受験子に日除けを引けば皆が見る父の教師としてのスタンスが垣間見れる気が致します。 強霜や朝刊を噛む門構 すばる・・・ヨーロッパの有名な観光地の正邪を占う、あの洞穴に手を突っ込んで噛まれないかを占う鬼瓦の裂けた口を想像してしまいませんか。
2025.02.23
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〇食料不足や医療設備の整わない国に生まれて来られた人々は本当にお気の毒なことだと思います。それに較べりゃ、少々の貧富の差こそあれ、低迷する日本であっても、起伏のある自然と辛うじて守られる四つの季節、そして先人が残してくれた日本の文化の中で生きさせて貰える幸運を先ず、感謝したいものですね?落語の「茶漬け閻魔」という話の中でお釈迦さまが述べられた言葉。「喜びというものは、過去のそれと現在との”差”のことで、昨日よりも今日、今日よりも明日、明日よりも明後日と、より大きな喜びを求めて行くことになる。言わば際限の無い深みを追い求めること、これを無限地獄というのじゃ」・・・その意味をよく理解した上で、少しずつ進歩したいと思っています。人さまの役に立つよう心がけて居さえすれば、地獄という生々しい感覚から逃れられるかも知れませんね~?そんなことを踏まえた上で、もう一言付け加えさせて貰うなら、1日24時間は、生きている人間に共通した時間という宝物です。時間を如何に過ごすかという事で、その人の生涯は濃くも薄くもなることでしょうね♪
2025.02.22
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〇通常「悪貨は良貨を駆逐する」という諺は耳にしますが、或る病院で実際に起こった現象は、この諺の逆を行くものでした。 国内で生じた大きな事件の被害者を治したということで一躍有名になった病院では、その好調さが禍し、スポーツクラブやエステサロンなども併営していましたが、いつしか病院はがらがら状態になり、6千万円もの赤字を出していました。経営セミナーの某氏に相談したところ、1)院長の貴方が職員より30分早く病院で勤務しなさい、2)病院の便所を院長自らが掃除して下さい、3)誰から呼ばれても院長の貴方は「はい」と大きな声で返事して下さい。という3つの処方箋を貰ったのだそうです。すると、1)今まで評価していなかった職員の方が早くから出勤して下準備をしていたことや、2)手袋なしの素手でトイレを洗っているうちに当初の嫌気が去り、人に対して腹立つことが無くなり、3)「はい」と大きな声で返事すると相手がにこやかになり、環境も和むようになったと言う訳です。綺麗な水にはボウフラが湧かなくなり、清流には山女(ヤマメ)や岩魚(イワナ)がやって来る、つまり47人居た職員が32名と減り、好ましく無い職員が退職し、改心された院長を心から応援したい気持ちを共有する真面目な職員だけが残ったという話でした。(参考図書)『読むクスリ 30巻』上前淳一郎著
2025.02.21
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〇覚えておられますか?NHK大河ドラマ「功名が辻」山内和豊の妻。くるりんとした大きな目の仲間由紀恵さんが愛らしい新妻役を演じておられました。戦国時代の女性は男の犠牲になったと思われがちですが、信長の妹お市の方のように、たとえ政略結婚であろうと、嫁いだ先との均衡を保つ上で、極めて重要な立場を務めたのだから賢さも要求されたものと思われます。現に名を残していますね。某占い師は現在の風潮を警告し、古来のしきたりや古人の知恵の大切さを力説して居られます。現在の主婦は都会暮らしの延長のまま結婚し、里の母親の援護もなく乳飲み子を独り抱えて居られるケースが多く、大変苦労の多いことだと思っています。私は元より親子三世代同居を推奨する者ですが、嫁ぎ先で姑さんと仲良く、いろいろ教えて貰えるのなら、理想的なことでしょうね。
2025.02.20
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〇テレビや雑誌上で主役を演じ、売れっ子になっている俳優、全てが本当に名優なのでしょうか? 否、必ずしもそうではないと思われる俳優が多々おられます。 舞台の演技なら、少しオーバーに演じる必要が無いでもありませんが、 テレビや映画は大写しになる場面が多いことが予想されるのに、その場限りの演技に終始する人が多いのです。 役者冥利に尽きるのは、おそらく、対象の人物に心身ともに見事に乗り移れたときの演技を遣りきれたときではないでしょうか。 笑う、涙する、驚くなどいろんな心模様を演じなければなりませんが、深~~い精神・心境が無ければ、<それは原色のおもちゃ>に過ぎません。 掲題の森繁久彌氏や大物俳優と称された方々は、深い人生観を通じて役柄の人物と一体化に成功された訳なのです。
2025.02.19
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〇「ものを生む知恵」というジャンルでの1番目には、<困ったは金の卵>という題で、不便を感じた時の工夫が特許クラスのアイディアを生むと上前淳一郎さんは名著『読むクスリ』に述べておられます。 列車1台遅刻したのがきっかけで安全カミソリを発明したジレット、万年筆のペン先に割れ目を入れたウォーターマン、十字溝のネジを考案したフィリップ。 碁が大好きな人が黒・白を表裏にした結果思いついたオセロゲーム、これをゲーム業者が5千万円で買ったとか。 釣り好きが夜釣りの浮子に鈴を付け且つそれを洗濯バサミに付けて取り外しを楽にしたものが7百万の価値に。 この本が出版されたのが今から30数年前だから現状はどうだか存知ませんが、洗濯機で糸くずを除く袋状の網いわゆるクリーニング・ボールを考えた主婦には、当時、1個につき4円10銭つまり毎月およそ2百万づつの収入がずっと続いていると記述されています。 雇用問題がクローズアップされているご時世ですが、就職戦線で勝ち残るにも、或いは職場でかけがいの無い戦力と認められ雇用を護られるにも、 他の人に秀でる<何か>が必要とされますね。愛社精神を根底に秘め、創造力豊かな個性を持つ人物が有利なのではないでしょうか?
2025.02.18
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〇昨今、日本の女性は概して、自由を少し取り戻され、男性陣を脅かすほどの域まで来られつつあります。若い頃は、声質が似ていたので、美川氏の曲を好んで歌っていました。「釧路の夜」「新潟ブルース」などなど。カセットには掲題の曲がありました。「三面記事の女」 小谷夏作詞・米山正夫作曲1新聞で見たでしょう おととい私はあの部屋で あなたの心を見うしない 白い薬を飲みました あゝ 私は三面記事の女 近づくサイレン聞きながら あなたの名前を呼びました2新聞はいじわるね 女のまごころ知らないで 冷たい人への面当ての 狂言自殺といってます あゝ 私は三面記事の女 面会謝絶の病室で 白い涙を拭きました3新聞はみたくない 死にきれなかったあの日から くる日もくる日も 目に入る 不幸な女の ことばかり あゝ 私は三面記事の女 噂もやがては消えるから 忘れて下さい 忘れます感情を殺して、陰気に歌います。
2025.02.17
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〇恥ずかしながら、こんな詩も作っていました。 背中をごり押す 雪の風 風 風 瞼を襲う 雪の結晶 結晶 結晶 頬打つ 雪の礫 礫 礫 一瞬にして変わる 雪嵐 嵐 嵐 背を丸め 身を縮め 道行く人は 皆 無言・・・ 舗装路を転がり 舞い上がる 一陣の粉雪 遠景の山を閉ざす 灰色の緞帳 行く手を阻んでいた 白い 魔女 それも幻覚のように 消え失せて やがて 街は平静を取り戻す 不安を除いてくれたものは いつもの 穏やかな 日輪 そうだ あの柔和な 太陽に わたしも 安らぎの 太陽になろう
2025.02.16
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〇「大鏡」には村上天皇の中宮芳子が輿入れの日、その垂れ髪が床上を五メートルも引き摺っていたと記されていますが、直毛黒髪の日本女性には、命の次に大切なもの。奈良時代には鳥毛立美女屏風に見られるように、唐髷に束ねていまいたが、平安時代には垂れ髪の長い人が美の対象になっていたようです。女児が生まれると翌日産毛と言われる胎毛を剃り、四歳まで毎日剃って毛根を刺激していたようです。ヨードを含む海藻を食事に摂り、髪油の代わりにサネカヅラを煮出し液汁を髪に擦りこみ、また養毛作用のあるツゲの櫛を使うなど、科学的な方法を採り入れていたようです。男子の元服に匹敵する儀式、六月十六日、十四~六歳の成女式の折、両頬で一握りの髪を顎の下で切り落とします。所謂鬢除(ビンソギ)を済ませてからは残りの髪はずっと背中に伸ばし、二カ所で結わえます。これはね、顔の両側が髪に包まれ額縁の役目を果たし、顔の白さを惹き立て外界との隔離的効果を生む手法だったのだそうです。王朝時代の黒髪は、後ろ姿のたおやかさと、顔を浮き立たせる大きな役割があったといえましょう。 訳あって仏門に入る折には、先ず肩の部分で切り揃え、それを後ろに結わえる「茶筅髷」、一定の修行を経て漸く剃刀をあて「剃り尼」になったようです。 女性の髪の毛に寄せる気持ちを世の男は理解しておかないとねぇ~。
2025.02.15
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某年某月の京都新聞には、目を捉える記事が2つありました。<懐かしの京の映画(右京中央図書館)>「鞍馬天狗」「丹下左膳」阪東、ひばり・・・という見出し。 記事は<かつて「日本のハリウッド」と言われた京都の映画の歴史を振り返る展示「日本映画は京都から始まった」 が、京都市右京区の右京中央図書館で開かれている。・・・・(略)同館の特別企画「今よみがえる昭和の時代」の一環として企画した。・・・ (略)戦前戦後にかけての映画館のパンフレットには、人気を博した「鞍馬天狗」や「丹下左膳」がある・・・3月4日まで(火曜日休館)無料>などと掲載しています。 <宇治川の歴史を紹介>きょうから企画展・断碑拓本や絵図その記事は<宇治市源氏物語ミュージアムで22日から企画展「宇治川歴史散歩」が始まる。 ところで大山崎町そして淀川を挟んで真向かいの八幡市との間にある”背割り”の堤防は、今でこそ花見の名所となっていますが、大正・昭和時代の加賀正太郎は、 当時まで埋め立てられいなかった京の甕”巨椋池”を”天橋立”の阿蘇海に見立て、この長堤を彼の山荘から見下ろし、かの地の砂州松林になぞらえて楽しんでいました。 おそらく鞍馬天狗のロケはここで行われたのではないでしょうか?また宇治川、これも俳句を楽しむ人々には雅びをいざなう格好の吟行地。
2025.02.14
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〇昭和十二年(1937)の父の日記より。<二月二十四日 午前中散髪にゆく。午後、祖母と神麓居を訪ふ。届いた姫路羽子板の八重垣姫を拝見するためである。ここで私の注釈をいれますと、姫路羽子板二代目の貞次は「のぞきからくり」の押絵も残しています。八重垣姫は歌舞伎「本朝廿四孝」に登場する架空の人物で、武田勝頼の許嫁「鎌倉三代記」の時姫それに、祇園祭礼信仰記の雪姫と共に歌舞伎の三姫と呼ばれる難役です。勉強の事に触れていますが、この年の三月三十日に京都帝大の経済学部を卒業して四月以降住友に勤めたようです。わが家には幾つかの羽子板があり、一部は姉たちに持って帰って貰いました。それでも今尚、大きなケース入りの絢爛なものが二枚残っています。
2025.02.13
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〇俳句結社「京鹿子」では、いつも髙木夫人のご尽力のお蔭で毎月の俳誌の発刊や企画展その他の催事に参画させて戴いています。掲題の書はh23年に逝去された智氏がS45年4月号~同48年5月号に於いて30回連載を組まれた記事を智様ご逝去後、奥様が再度改修の上h26年に発刊されたもの。野風呂先師の序文集の紹介、叢書の紹介、創世期の記事や日野草城や水野白川らの紹介、野風呂句集、海道句集、年間行事の吟旅、その他多岐に渡って京鹿子の歴史と世情とを紹介しておられ、特に京都の俳諧歴史を知る上で便利な書物で、私も再々利用させて貰っています。 尚、髙木智氏はおりがみの先駆者とも言われた方で、18を数える著書も今も売れているようです。
2025.02.12
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〇「浦島太郎」は実に古い歴史を持っていて、室町時代の説話集『御伽草子』で漸く「浦島太郎」という名で固まったようです。一寸法師、花咲か爺、桃太郎、猿かに合戦などと同等に、大人になっても忘れ得ぬお噺です。 では、乙姫さまの土産の玉手箱を開けて老人になった浦島太郎は、その後、どうなったのでしょう?玉手箱の中にもう一つあった小箱を開けたら再び白い煙に包まれ、若者に戻った?もう海は懲り懲りとばかり富士山に住み、山頂から煙を出す仙人になった?人気者になった浦島のキャラを生かして別のお伽話の主人公、そう花咲か爺さんに横滑り? 実はね、浦島太郎はその後鶴になって蓬莱山に飛んでゆき、京都は丹後の浦島明神として現れ、竜宮城のあのお姫様(実は亀の化身)と一緒に暮し、夫婦の明神様になったという事です。
2025.02.11
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〇銀行員から第二の職場のリース会社では新分野の提携リースの責任者として赴任し、発足当初は七人のパートさんを指導していました。その際、彼女らに申し上げたことは本採用の人たちに負けないぐらい精進して下さいということでした。初めてパソコンに触れる程度の人も居れば、かなりのスピードで処理できる人も居られましたが、正社員とのけじめをしっかり守りながらも、負けないぞというほどのプライドを持って貰えるように、甘い辛い双方の懐柔策を施していたと自負しています。ミス率を減らし、お互いに智恵を出し合って効率化を目指して働く日々は楽しい思い出として残っています。メンバーのみんなが或る程度のレベルに達し、短時間で仕事を終えるようになると、順次、別の部署へと移って貰いました。重役陣も、この仕事の薄利性に気づき、提示レートを上方に持っていった事が奏功、新規契約も急減。やがて管理面では、パソコンのエクセルを巧く駆使し、膨大な仕事の量も一人で行うことができました。先方には支社が7か所あり、リース期間には3年~7年契約があり、その期間ごとの個別契約、多いものは70契約以上あるものを当社の1つの契約にまとめて管理。先方が数ある提携リース会社の中から当社を選べば、夥しい原契約数(多いものは100契約超)を当社の1つの契約にまとめた契約、つまり表面上は5期間×7支社=35契約ながら実態は千件を遥かに越える契約数(そこには恐ろしい数のリース資産物件含有)を管理(期間満了時には再リース、終了なら廃棄・売買等)してゆくことになっていました。膨大な仕事量からスタートした提携リースの複雑な業務を独自のソフトを開発することで省力化できたことを今も誇りに思っています。
2025.02.10
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〇或る時はかう考へる。何と云ふ情け無い生活だらう、小さな飾りも何もない家には二人の子供が汚れた洋服を着、寒さうな顔をした妻は勞(ツカ)れた體を足の動く籐椅子によりかけて考へに耽ってゐる。私は拾年前禮服としてこさへた洋袴を今もはいて泥にまみれて働いて居る。夜になると子供等は使ひ古して毛の無い毛布を着て暗い電燈の下で赤い顔を列べて寝てゐる。・・・(中略)・ ある時はかう考へる。未だ朝露が乾かない庭の芝生にうまく焼けた未だ暖い壺を列べて新鮮な空気を呼吸しながらそれに見入る。遠くの青い美しい山々、庭の隅の温床に咲くゼラニューム、ふたりの子供は喜び勇むで彼等の母親と共に直ぐやつて來て陶器を見る仲間にはいる。朝飯の卓では香のよいコーヒーを皆で飲みながら互に新作の批評をやる。私はしみじみ幸福を感じる。・・・(中略)・・・ 「東洋復興」と云ふ四字を半折に書いてリーチが英国へ歸る時贈った。文字だけでなしにこの可能が追々近づいて來ると思へるやうになった。> 民芸作品の巨匠富本憲吉が大正十四年に発行した「窯辺雑記」という随筆から引用しました。表紙の装丁は布地、文章は漉いた厚めの和紙に印刷されていて、自作品の写真やそれら作品に関する説明も附されている良書です。
2025.02.09
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〇わが家の垣根の巽の方角に遠慮がちに咲くの梅は、この地に越して来て、二,三年目の正月を迎えるとき、父が正月用の鉢植えを買いました。その松竹梅がそれぞれ大人になって来ているのです。 十年ひと昔、随分前に長岡天満宮の境内の一角、錦水亭の裏山にあたる場所を開拓して梅林が造られて以来、見応えのあるいろんな梅の樹が寒さに荒みがちな二月の私らのこころを癒してくれています。 それより半月以上遅れて漸く咲くのがこの家の垣根の梅です。父が没して寂しく暮らした母の食膳の箸置きに、紅梅の小枝を添えましたら、母の表情が明るくなっていました。 梅匂ふ山とこだまを分ち合ふ 星 子俳句を始めて、3年経った頃の拙句だと思います。
2025.02.08
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〇新潮社発刊、赤坂治績著「知らざあ言って聞かせやしょう」という手ごろサイズの台詞集には、近松門左衛門以降の劇作者の工夫などの解説がついています。解説は別の機会に譲るとして、まだ諳んじていない、好きなセリフをいくつか紹介しましょう。 *「助六由縁江戸桜」いわゆる助六の恋人・揚巻の台詞<今からこの揚巻が悪態の初音。意休さんと助六さんを並べてみたところが、こちらは立派な立派な男振り、又こちらは意地の悪そうな男つき、たとえて言おうなら雪と墨、硯の海も鳴門の海も、海という字は二つはなけれど、深いと浅いは客と間夫、間夫がなければ女郎は闇、 *暗がりで見ても、助六さんとお前と取り違えてよいものかいなぁ。(ここで、おほほほと笑う)> *或いは、「金門五三桐」での石川五右衛門の *<絶景かな、絶景かな。春の眺めは価千金とは、小せえ小せえ、この五右衛門の目から見れば、価萬々両。もはや日も西に傾き、夕暮れの花も一入、雲とたなびく桜花、あかね輝くこの風情、はて麗らかな眺めじゃなあ。>暫く長い台詞が続いたあと、巡礼姿の真柴久吉(羽柴秀吉)の<石川や、浜の真砂は尽きるとも> *五右衛門<何が何と?> *久吉<世に盗人の種は尽きまじ>と本来五右衛門の辞世の歌を言ったところ、秀吉に気づいた五右衛門が、<何と>言い返し<エイ>とばかりに手裏剣を投げます。 *それを柄杓で受け止めた秀吉の、<巡礼にご報謝~>で拍子木が入り幕が降ります。
2025.02.07
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〇契りおきしさせもが露を命にて あはれことしの秋もいぬめり「千載集」には、この歌の長い詞書があって、息子の僧都光覚から「維摩会」という法会の講師になりたいという申し出を受け入れて貰えないという不満を聞いた作者の基俊が主催者の藤原忠通にその事を訴えたところ、「しめじが原」だ、私に任せておけと請合ってくれたものの、結局その年も講師の選に漏れてしまったので、この歌を忠通に贈ったようです。では「しめじが原」とは何かと言えば、新古今集のただ頼めしめぢが原のさせも草 われ世の中にある限りはという清水観音の御詠歌に拠ったもので、「ひたすらに私を信頼しなさい、さしもありとも私が世にある限りは叶えさせてあげるから」と言った忠通の言葉を”恵みの露”と信じていたのに・・・。(参考・中根三枝子の論文「百人一首と植物」)
2025.02.06
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〇落語家がお囃子に乗って登場し挨拶を済ませ羽織を脱ぎながら語る部分、これを枕と称しますが、この枕部分で客の心をほぐし、自分が語りだす世界へ呼び込むわけです。むかし、連続テレビ小説「ちりとてちん」でも、貫地谷しほりさんが、上手く行かない新米落語家の演技を上手に演じておられました。 ボランティア・ガイド或いはテーブル・スピーチなども落語の世界とそれほど変わりません。先ずは最初の短い挨拶で当日のお客さんの心をぐぅっと引き寄せ、<今日は楽しい一日になりそう♪>という期待感を持っていただくようにしなければなりません。また実際のガイドに入っても詳し過ぎたり(これは知識の押し付け)、一本調子の語り口(大学の講座みたいな雰囲気)で続けてしまうとお客さんの心は離れてしまいます。文章の朗読のような名文調ガイドは、印象的でないため、右の耳から左耳へ通り抜けてしまうことになりかねません。 一つの事例をガイドする場合、いろんな道具だて、装飾に相当するニュースソースを混ぜ合わせることによって、退屈さへの防御を企ることがガイドのコツと言えましょう。幅広く集めた情報、小ネタ集、豆知識を上手く混ぜ合わせましょう。小学生をガイドする場合、10数人ほどのガイドが自己紹介するのですが、この自己紹介こそ、子供たちの心を鷲掴みするチャンスです。短くてもいいから、生とも先生もあはははと笑って貰える工夫で昭美しましょう。
2025.02.05
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〇最近よく見る番組の1つにやましたひでこさんの「断捨離」があり、父の時代の雑誌類、宝塚歌劇も対象にすることになりました。 昭和10年7月号「歌劇」(第184号)を繙けば、写真はミルフオード姫に扮した藤花ひさみ、次ページはルンバの男女、神代錦・月野花子の両名。初音麗子、汐見洋子、草笛美子、宇知川朝子など多くはこの時代のおっとりとした風情、三日月眉の所為?連作小説「青空への合唱」は三浦時子、轟夕起子、初音麗子、園井恵子、水乃也清美、葵八重子と続いてきて、第7回完結編は、千村克子作、挿絵小春凉子、カットが何と葦原邦子さん。宝塚の水辺山影と題して10名のお嬢さんたち、清く、正しく、美しく、小林一三翁の教訓通りでした。
2025.02.04
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〇関西落語の「矢橋船」。近江の乗合船で豪商の隠居がお付きの男に熱燗を所望しますが、 ついうっかりと熱燗の道具、銅製の酒燗器を忘れて来て居ました。 シビンところが折よく、乗客の中に真っ新の尿瓶を持つ人が居たので、それを借り、携帯用の炭火で温めます。 近江の煮鮒を肴に隠居は上機嫌。尿瓶を貸して貰った男や近くの乗合客にお裾分け。乗船代に熱燗酒もついていると勘違いする変人がおこぼれを強要しますが、 船には戸板に寝る病人が居て、彼の尿瓶と、この熱燗酒入りの尿瓶がごっちゃになった為、折あしく尿や尿入りの酒を飲みかける話があります。 本来はご隠居を中心に、即興のことば遊びなどをする風流な落語なのですが、この尿瓶部分だけはちょっと下世話なネタです。
2025.02.03
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〇小倉百人一首を選んだのが藤原定家、この系統を継いでおられるのが冷泉家。97番目の和歌来ぬ人をまつほの浦の夕なぎに 焼くや藻塩の身もこがれつつ当時の和歌の大先生・俊成卿の子で、母は、美福門院の女房・伯耆という人。<この卿若かりし時、文治元年、殿上にて源雅行と争論に及び、燭を以て雅行の頬を打たれ、勅勘を受けらる。>父俊成卿深く憂い、あしたづは雲居に迷ふ年暮れて 霞をさへや隔て果つべきと詠まれたのを帝が気の毒に思われ、あしたづは雲居をさして帰るなり 今日大空の晴るる気色にとご返歌遊ばれ、後日許されました。後鳥羽院は彼の才能を愛されましたが、やや高慢な性格もあって疎遠になられました。後鳥羽院が武家政治に嫌気さされ、謀反を起こされましたが、疎遠だったことが奏功。しかし矢張り後鳥羽院との蜜月を懐かしみ、彼の選んだ百人一首の配列には水無瀬から山崎辺りの景色が織込まれていると解する学者も・・・。
2025.02.02
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〇17歳で神田葭町の芸妓になった川上貞奴は伊藤博文をパトロンにし、のち24歳で川上音二郎と結婚。彼は壮士芝居で一世を風靡し、オッペケペー節を全国に知らしめた人物でしたが、音二郎が衆議院選挙に立候補し、落選。これを恥じたふたりはボートで南極を目指すも、着いたのが神戸。そこで知り合った国際興行主に唆され、アメリカでの成功を夢見るも、それも断念。女優として芸能界へ復帰しました。イギリスやフランスで公演の旅を重ね、日本に凱旋しましたが、失敗。再度海外へ。音二郎亡きあとは、昔の恋人・諭吉の娘婿・福沢(旧姓岩崎)桃介と同棲、川上児童劇団などで巡業。昭和21年12月肝臓がんの為、76歳で逝去。日本の女優のパイオニア的な人物でした。
2025.02.01
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