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何かを始めるとき、多くの人は、まず「成功しそうかどうか」を考える。分析を重ね、可能性を測り、慎重に慎重を重ねる。一方で、周囲にいる傍観者たちは、決まってこう尋ねる。「それって、成功するの?失敗しない?」けれど、僕たちは、そのどちらにもあまり興味がない。成功するか、失敗するか、そんな視点は、最初から持ち合わせていないのだ。僕たちが行動を起こす理由は、ただひとつ。「それが、社会にとって重要なことだから。」ただそれだけの、シンプルでまっすぐな動機だ。今、僕たちは、2つの大きなプロジェクトと、1つの巨大なプロジェクトを抱えている。どれもこれも、未来を想像するだけで心が弾むものばかりだ。ワクワクして、ドキドキして、そしてウキウキする。こんなにも「これから」が楽しみで仕方がない日々を過ごしている。よく言われる。知識を並べ、リスクを論じ、行動しない"天才"たちがいる、と。確かにそれも一つの在り方だろう。けれど、僕たちは、あえて別の道を選んだ。希望に賭ける。挑戦に身を投じる。分析よりも、情熱を信じる。たとえ世間から「バカだ」と笑われたって構わない。何もしないより、ずっといい。挑み続ける中でしか、生まれないものがあると信じているから。(追記)今日も、はるばる遠くから来塾された方々がいた。何かを生み出そうとする、その想いに満ちた時間の共有は、いつも心を震わせる。一緒に未来を描こうとする仲間が増えるたび、僕たちの挑戦はさらに色鮮やかになっていく。そして今日は、こんなうれしい言葉をいただいた。「職人であり、プロデューサーであり、経営者でもある。」その言葉に、心の奥がふわりと温かくなった。まだまだ未熟な僕たちかもしれない。けれど、だからこそ、期待を超えるために、さらにもう一ひねり加えてみたくなる。今日もまた、希望を胸に、前へ進んでいこう。未来は、行動する者の味方なのだから。
2014.10.30
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「人間はつねに、自分に理解できない事柄はなんでも否定したがるものである。」パスカルのこの言葉に、私は幾度となく思い当たる場面を見てきました。私たちは、わからないものに出会うと、どうしても恐れや不安を感じてしまいます。その不安を打ち消すために、無意識のうちに否定という選択をしてしまうのかもしれません。そして、それが当事者であればあるほど、なかなか一歩を踏み出す勇気を持つことができないものです。子育ての場面でも、そんな光景はよく見かけます。たとえば、自分の子どもが何か新しいことに挑戦しようとしたとき。とりわけ、自分自身が体験したことのない世界であればあるほど、「そんなのうまくいくはずがない」「危ないからやめたほうがいい」と、つい反対してしまう親も少なくありません。もちろん、子を思う親心に嘘はありません。でも、それと同時に、「わからない」ことへの恐れが、知らず知らずのうちに子どもの可能性に蓋をしてしまっていることもあるのです。挑戦には、問題がつきものです。それは、新しい商品が市場に出たあとに改良され、バージョンアップを繰り返しながら、よりよいものへと成長していくのと同じ。はじめから完璧なものなど、この世には存在しません。子どもの成長も、きっと同じです。転びながら、悩みながら、何度も何度も改良を重ねて、少しずつ自分だけの道をつくりあげていくのです。社会に出ると、失敗した経験が役に立つ場面は思いのほか多いものです。「あのときの失敗に比べれば、たいしたことないさ」そう思える心の余裕は、失敗と向き合った日々の中でしか育まれません。だからこそ、私たちは「わからなさ」を恐れず、自分にも、そして大切な人にも、もう少しだけ寛容でありたいと思います。未知の世界に向かって踏み出そうとする誰かを、そっと背中から支えられるような、そんな優しさを忘れずにいたいのです。
2014.10.30
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読書の秋。気温が少しずつ下がり、木々の葉が色づいてくると、どこか本を手に取りたくなる季節がやってきます。けれど、私が読書をすすめたい理由は、決して“秋だから”という風流な理由ではありません。むしろ、どんな季節であろうと、本を読むことそのものが、日々を豊かにしてくれる習慣だからです。「毎日1冊。」これは、私が長く続けている読書習慣です。一見、無茶に聞こえるかもしれませんが、慣れてくると、むしろ生活のリズムになっていきます。もちろん、最初から無理をする必要はありません。「1週間で1冊」でもいいし、「1日15分だけ読む」といった形でも、立派な読書です。大切なのは“量”ではなく、“続けること”。そして、本と向き合う時間の中で、自分と出会い直すことです。読書は、たくさんの発見をくれます。まだ見ぬ考え方、知らなかった世界、心を打つ言葉……。それらは、まるで旅先での一期一会のように、静かに、でも確かに、自分の中に何かを残していきます。これまで、読書は私に多くの“出会い”をもたらしてくれました。そして、これからもきっと、そうであり続けると思います。それは本の中の登場人物との出会いかもしれないし、あるいは、読みながらふと浮かんだ“自分自身の新しい面”との出会いかもしれません。私が毎日読書をするのには、もう一つ理由があります。それは、塾での「号令の時間」、つまり、毎日の冒頭に塾生たちへ贈る短い講話のためです。毎朝、私は1冊の本と向き合い、そこから「伝えたいこと」を選び抜き、資料を整えます。準備にかける時間はおよそ120分。けれど、それを講話として届けるのは、たったの120秒。わずか2分の中に、120分の思考と情熱を凝縮して伝えるのです。私はこの時間を、とても大切にしています。本で得た知見を、自分の言葉にして届ける――それはただの情報共有ではなく、塾生たちの“考えるスイッチ”を押すための、小さな種まきです。「120分が凝縮された120秒。」誰でもできることを、誰にもできないくらいに、丁寧に、真剣にやる。そんな信念を持って、私はこの仕事に向き合っています。だからこそ、私は思います。自分が誰よりも塾生たちのことを考え、日本の教育について真剣に悩み、行動しているという自負がある限りは、教育という現場に立ち続けたいと。そして、もしその情熱や覚悟が薄れてしまったときは――潔く、その場から身を引くときだとも思っています。でも、今の私はまだ、読書という日々の習慣とともに、塾生たちの未来のために120秒を紡ぎ続けたいと、心から願っているのです。本とともに生きること。それは誰かの未来に、小さな火を灯すことなのかもしれません。だから私は、今日もまた1冊の本を手に取り、そのページを静かにめくります。
2014.10.26
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修猷館高校・城南高校受験組は、今、ある程度完成された状態にあります。 それぞれが自分の学びのスタイルを確立し、日々努力を重ねている姿を見るのは、私にとって本当に嬉しく、幸せな瞬間です。 塾生一人ひとりが黙々とペンを走らせ、その集中した表情を見守ることができるのは、私の至福の時の一つです。 彼らが日本の未来を担う存在であり、その成長過程を共にすることができることに、私は誇りを感じています。これから受験までの間、私たちの役目は、その「さじ加減」にあります。 この時期に、多くの塾生が志望校を上げることがあります。 それは、これまでの努力がテストの結果を通じて自信に変わり、次のステップへ進む準備が整ったからです。彼らの努力が、確かな成果へと結びつく瞬間を目の当たりにすることができるのは、何よりも喜びを感じます。志望校を選ぶというのは、限られた学区内での選択肢の中からベストな選択をすることです。 その選択肢がどれであれ、私は塾生たちには、より良い選択をしてもらいたいと心から願っています。 そして、その選択肢を選ぶ基準は、学力や入試の結果だけではなく、どの学校で自分を成長させ、どのような体験を得たいかという視点が大切だと考えています。私たちの共通認識として、高校に行く理由はただ一つ。それは「自分の成長を感じること」です。 その成長を実感するために、どの高校でその経験を積むのかを考えることが重要です。 そのためには、実際に学校見学に足を運び、学校の雰囲気や教育方針を直接感じ取ることが何よりも大切だと思っています。 学校見学で触れたその「空気感」が、将来の選択をより良いものにしていくのです。塾生たちが自分の未来を切り開くために、今、どんな学びをしているのか。それを支えることができることに、私は深い感謝の気持ちを抱いています。そして、彼らが選んだ道を歩んでいく未来が、輝かしいものであることを信じています。
2014.10.22
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「起業のきっかけは何ですか?」「なぜ挑戦しようと思ったのですか?」ありがたいことに、そんなふうに尋ねられることがあります。でも、正直に言えば――僕には「これだ」というきっかけなんて、ありません。世の中は、わかりやすいストーリーを好みます。「あの日、あの出会いが人生を変えた」とか、「この言葉に背中を押されて…」とか。けれど、人の人生というものは、そんなに都合よく整理できるものではないように思うのです。人生は、もっと入り組んでいて、もっと曖昧で、気まぐれで、たくさんの偶然に満ちている。だから、僕はいつも後輩たちにこう言います。「“きっかけ”を探すのはやめておいたほうがいいよ」って。“やる気”や“きっかけ”は、誰かがくれるものではないし、道端に落ちていて拾えるようなものでもない。目の前にあること。少しでも心が動いたこと。やってみたいな、面白そうだなと思えたこと。そういう「小さなやってみたい」を、毎日、少しずつ丁寧に重ねていく。その先に、気づいたら立っていた場所。振り返れば続いていた道。それが、いま僕がいるところでした。夢を叶えた、というよりも、夢のほうが、僕を選んでくれた――そんな感覚のほうが、近いのです。だから僕は、これからも続けていきます。“選ばれる生き方”を。夢に好かれるような、夢がこっそり近づいてきてくれるような、そんな毎日を、静かに、でも情熱を持って生きていこうと思っています。あえて語れる「きっかけ」はないけれど、それでも、たしかに僕は、今ここにいます。
2014.10.19
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最近、ふと思ったことがあります。何かを「中途半端にやること」って、実はすごく疲れるんだな、と。「今日はこの辺でいいかな」と手を抜いた日ほど、なぜか心がざわついたり、どこか気持ちが重くなったりする。逆に、「今日はとことんやり切った!」という日は、どんなに体が疲れていても、どこか爽快感があるんです。これは、学生にも、社会人にも、そして子育てに奮闘する親御さんたちにも当てはまる気がします。むしろ、子どもたちに「もっと頑張れ」と声をかけている大人が、実は自分自身に対しては、手を抜いていたりする。——そういう場面を、少なからず見かけます。でも、目の前の人って、自分の鏡でもあると思うんです。子どもは大人を見て育つし、部下は上司を見て育つ。言葉よりも、行動の方が、ずっと雄弁に語ることがあります。だからこそ、自分自身が「やるべきこと」に正面から向き合っていくこと。それが結局、自分の周囲にある空気や人間関係を豊かにするのだと思います。高校生が見せてくれた“本気”の姿そんな想いをさらに強くさせてくれたのが、私たちの塾に通う高校1年生の生徒のエピソードでした。1学期の頃は、成績は中くらい。頑張ってはいたけれど、課題の量にも、授業のスピードにもついていくのがやっと。部活も両立しながら、彼女なりに一生懸命やっていました。でも、次第に疲れの色が見えるようになってきたんです。私たちがアドバイスしたのは、「本当にやるべきことを見極めて、やりやすい形に整える」こと。決して、量を増やすのではなく、“質”を変えていく。それが2学期に入り、彼女の姿がどんどん変わっていきました。たとえば、授業のノートをほとんど取らないという選択。これは多くの高校生にとって、とても勇気のいる決断です。ノートを丁寧に取ることが“ちゃんと勉強している証拠”だと思っている子も少なくないからです。でも彼女は、ノートを「まとめるため」ではなく、「補足するため」に使うようになった。「教科書にあることは、教科書に書き込めばいい」——その気づきが、学びのスタイルをガラッと変えたのです。結果として、彼女は数学のテストで学年1位を獲得。けれど、私たちが一番感動したのは、成績以上に“自分のスタイル”を確立していく過程でした。自分らしいやり方を見つけるということ勉強に限らず、仕事でも、趣味でも、何かに本気で向き合っていると、自然と「自分に合ったやり方」が見えてきます。最初は人の真似でいいんです。「あ、これいいな」と思ったら、ちょっと真似してみて、自分にフィットすれば取り入れる。合わなければ、また別のやり方を試す。その繰り返しの中で、徐々に“自分だけのスタイル”が形になっていく。そして、スタイルをつかんだら、次は「リズム」を整える。リズムができてくると、それがやがて“無意識のルーティン”へと進化していくのです。何も考えずに自然にできるようになったとき、人は本当の意味で、その分野のプロになっていくのかもしれません。本気の先にあるもの「本気でやる」と聞くと、ストイックで、厳しくて、余裕のない世界を想像する人もいるかもしれません。でも、本気でやるからこそ、楽しさがわかるし、工夫の余地が見える。そしてなにより、「成長する自分」を実感できるのです。だから私は、これからも「中途半端」に流されずに、その瞬間ごとに、本気を尽くしていきたいと思います。疲れたら、立ち止まってもいい。でも、やると決めたことには、正面から向き合っていきたい。目の前の子どもたちに、背中で伝えられるように。そして、自分自身の人生に、誇りを持てるように。今日もまた、そんな覚悟を胸に、教室のドアを開けます。
2014.10.15
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授業の内容やその進め方、時には「どう解く?」という号令のかけ方に関して、私は毎日、深く深く考えることを心掛けています。 その日、その時に塾生たちに伝えなければならないこと、そして長期的に彼らの人生に影響を与えるような視点をどれだけ提供できるかが、私にとって重要なテーマです。目の前の課題や壁を乗り越えるための方法だけでなく、一年間の今の時期だからこそ伝えておきたいこと、さらには十年後、二十年後のために今語るべき内容に関しても、私は常に真剣に考えています。そのために、私は福沢諭吉が教えた「複眼的視野」と「ゼロベース」の考え方を大切にしています。これは、目の前の問題に対して多角的にアプローチし、偏った考え方にとらわれずに、自由な発想を持つことの重要性を示しています。短期的な目標だけでなく、長期的に見た未来を考慮して、塾生たちが自分の人生をより良く切り開いていくための知恵を絞る日々です。私が教えている中・高生には、「自分の未来は明るそうだ」と思えるような気持ちを持ってほしい。そして、「その明るい未来は、自分の力で手に入れられる」と感じ、その未来を自分たちの手で作り出せるという自信を持つことができれば、自然と行動が生まれるのだと思います。 「将来の日本を担っているんだ」と思えること、これが次の世代にとって最も大切なメッセージです。大人の役割の一つは、未来に希望を持てる光を見せてあげることだと私は考えています。 自分の未来がどうなるかを考え、そこに向かって自分自身をどう成長させていくか。 それが、どんなに些細なことでも日々の学びの中に含まれていると、彼らは少しずつ自分を変えていく力を身につけていきます。開塾以来、そしてこれからも変わらない私たちの哲学です。最近、号令の「どう解く?」の時間に、塾生たちや先生たちが熱心にメモを取っている姿をよく見かけます。 その姿を見るたびに、私もまた新たなエネルギーを感じ、やりがいを感じます。 今日も「ありがとうございます」と声をかけてくれる塾生がいました。 その一言が、私にとってどれほど励みになることか、言葉では言い尽くせません。 スピーカー冥利に尽きる瞬間です。毎日、私はその辺のセミナーや講演会で聞くような話よりも価値のあるものを提供しようという覚悟を持って話しています(笑)。 塾生たちが未来に向けてどんな力を身につけ、どんな道を歩んでいくのかを見守りながら、その一歩一歩をサポートしていくことが、私にとっての最大の使命です。 少し外で話す機会を意識的に増やしていこうと思っています。
2014.10.14
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20代の頃、私は教育という営みに真剣に向き合いながら、その手綱をどう握るか、必死に模索していました。教授法、教材研究はもちろんのこと、行動心理学や帝王学といった分野にも手を伸ばし、“学級をどう運営するか”という問いに取り組んでいた日々です。今振り返ると、あの頃の私は、子どもたちの成績を効率よく上げることに、どうしても重きを置いていたように思います。「どうすればやる気を引き出せるか」「どのように働きかければ行動が変わるか」そうやって、子どもたちの“マインド”に触れ、短期的に成果が出る方法を追い求めていた気がします。難しい問題こそ、分かりやすく教える。できるだけ子どもが考え込まずとも、正解にたどり着けるように工夫する。それは一見、親切な教え方に見えるかもしれません。でも本当は、そのやり方では、「教える人がいなくなったとき」に、学びが止まってしまう危うさがあったのです。どんなに丁寧に教えても、自分の頭で考える力が育っていなければ、学びの曲線は途中で緩やかになり、やがて平らになってしまう。そんなことに、あるとき気がつきました。それからは、少しずつ、指導の在り方を変えていきました。「どう解くか?」という問いを子どもたちに返し、自らの手で考える時間を与える。結果が出るまでに少し時間はかかるけれど、そのプロセスにこそ、子どもたちの“学ぶ喜び”が宿ると信じて。あれから、学生時代を含め、気づけばもう17年。今の私は、再び原点に立ち戻り、教育とは何か、人間とは何かを、もっと広い視点で見つめなおしています。最近では、行動心理学や帝王学に加えて、科学哲学の中でも“人文哲学”に焦点を当てています。「教える」とは、「導く」とは、そもそもどういうことなのか。「自由な学び」とは、誰のために、何のためにあるのか。そんな根本的な問いを、もう一度問い直すようになりました。そして今、私は静かに、次の展開に向けて動き出しています。“知性”だけではなく、“感性”も育て直す。リベラルアーツを再構築し、深く、やわらかく、「人を育てるということ」をもう一度、自分の言葉で捉え直したいのです。教育とは、一方通行の技術ではなく、時に揺れ動き、迷いながらも、共に歩んでいくもの。だからこそ、教える者もまた、学び続けなければならない。その道の途中に、私はまだ立っているのだと、今、改めて感じています。未来の子どもたちが、自分自身の問いを持って、世界に向かって羽ばたいていけるように。その背中を、少しでも後押しできる存在でいられるように。私は今日も、問い、学び、歩み続けていきます。
2014.10.11
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「この学び舎の面接は、圧迫だよね。」今や、在籍してくれている多くの講師たちがそう口を揃える。けれど、僕自身はそうは思っていない。むしろ、それが“当たり前”になってしまっているからこそ、僕たちはあの空間を、安心して生徒に開ける場所にできているのではないかと思っている。もちろん、形式的には“厳しい”のかもしれない。面接の場で僕たちは、応募者が「教えられる」と主張する3つ以上の教科に対し、問いを重ねる。その根拠は何か、具体的な方法はどうか、その教科で生徒にどう向き合うのか…。丁寧に掘り下げていく。すると、中には「やっぱり1つも教えられないかもしれない」と、自ら辞退する人もいる。ここで浮かび上がってくるのは、「自分ができること」と「人に教えること」との間にある、意外に深い隔たりだ。そしてさらに、「私ができること」と「僕たちが求める“できる”の定義」との間にあるギャップ。そこを乗り越えてくれる人に、僕たちは来てほしい。清潔感に関しても同じだ。「自分は清潔です!」と断言する人ほど、僕たちの感覚する“清潔”とはズレていたりする。不思議なことに、「清潔に心がけているつもりです」と、控えめに語る人の方が、実際にその空気をまとっていたりする。おそらく、自己認識と他者の評価のズレを理解し、それに対して丁寧に自分を律している人には、自然と清潔感や落ち着きが宿るのだと思う。僕たちが大切にしているのは、スキルや肩書きだけじゃない。素直さ、謙虚さ、柔軟さ、責任感、誠実さ、共感力、そして空気を読む力。少なくとも七つの“軸”において、バランスよく自分を保てる人。そういう人こそが、生徒や保護者の信頼を得て、真にこの場で力を発揮できる。「そんなに細かく見ていたら、なかなか人が来ないよ」と、時に言われる。でも、僕たちは服選びと同じだと思っている。どんなに素敵なデザインでも、どんなに周りに薦められても、サイズが合わなければ、その服は結局、着こなせない。無理をして着たところで、どこかに負担がかかる。だったら、最初から慎重に選ぶ方がいい。長く気持ちよく、共に過ごせるように。面接は、試すための場ではない。僕たちと応募者が、お互いを丁寧に見つめ合うための場だ。その先に、「ここで働きたい」「この場所に貢献したい」と本気で思える人が残ってくれるのなら、たとえ“圧迫”と言われようと、僕たちはそのフィルターを通してしか出会えない人の存在を、大切にしたい。そんな人とともに、これからも心地よい学び舎をつくっていきたいと思っている。
2014.10.07
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「いつも言うことが変わるよね。」僕自身、何度も言われたことがある。そして、僕が役員を務めるもう一つの会社のCEOも、よくそう言われるそうだ。まるで悪いことを指摘するかのように、軽く苦笑いを添えて言われる。けれど、僕たちにとってそれは、むしろ嬉しいことだ。自分が変わっているという証だから。もっと言えば、成長の証でもある。確かに、変わらないことには価値がある。不変の信念や譲れない想い、そういったものがあるからこそ、人は自分を見失わずに生きていけるのかもしれない。でも、「変わること=悪いこと」とされがちなこの社会に、少し違う風を吹かせたいと、僕は思う。たとえば、勉強をすれば、知らなかったことを知る。そして、知ることが増えれば増えるほど、自然と考え方も変わっていく。それは当たり前のことだと思う。だって、新しい視点を得たのに、昔とまったく同じ考えをしている方が、むしろ不自然ではないだろうか?勉強は、わかるようになることだと、多くの人は考えている。でも僕は、逆だと思っている。学ぶことで、自分がどれだけ何も知らなかったかに気づく。それが、本当の意味での“わかる”ということなんじゃないかと。つまり、「知らなかったことを知る」ことで、ますます“知らない”が増えていく。不思議だけれど、これって、とても人間らしいことのような気がする。特に「常識」や「経営」に関しては、なおさらだ。世の中の価値観や環境は、日々変化していく。市場も、人々の考え方も、技術も、すべてが少しずつ、でも確実に変わっていく。その変化に応じて、僕たちも考え方をアップデートしていかなくてはならない。それが、社会で生きていくということだと思う。だから僕たちは、「昨日の考えを今日変える」ことを、まったく恥ずかしいとは思っていない。むしろ、自分の意見が変わらないまま何年も経ってしまった方が、不安にすらなる。変化を受け入れることは、柔らかく、しなやかに生きることだ。竹のように、風に逆らわず、しなることで強くなっていく。時に周りから「コロコロ変わっている」と言われたとしても、自分の変化に自信を持っていたい。変わることを恐れず、むしろその変化を楽しみたい。成長とは、昨日の自分を手放すこと。だから、今日の僕も、きっとまた明日には少し変わっている。それで、いい。それが、いい。変わり続けることができる自分を、僕は誇りに思いたい。
2014.10.03
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