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■今日(7月28日)は、決勝戦・浦和学院高対川越東高戦を観戦した。浦和学 026 002 060 =16川越東 000 010 000 = 1(浦)○小島、(川)●高橋尚‐山本‐高橋佑‐渡邊浦和学院は、スコア16-1で川越東に大勝して優勝を決めた。4季連続甲子園切符を手にし、埼玉県勢初の夏制覇、そして春夏連続優勝を目指す。 ■ある程度予想していたとはいえ、実力差は歴然だった。さらに川越東の2度におよぶ打者頭部への死球は、浦和学院の勝利への執念に火を点け、大量点につながった。試合を振り返る。まず1回表、試合開始早々の初球が1番・竹村春樹の頭部に直撃した。その場に倒れこみ動けない竹村。大会役員やドクターが駆けつけ、担架で運ばれた。異様な空気が球場を包む。(その後、竹村は試合に復帰)結局、この回は無得点だったものの、浦和学院は2回表に先制点を挙げる。この回先頭の5番・木暮騎士が中前安打で出塁すると、今度は、6番・斎藤良介が頭部に死球を受ける。無死一・二塁。そして次打者の送りバントでそれぞれ進塁後、8番・小島和哉(2年)が左前に安打を放って先制した。浦和学院の攻撃はさらに続く。9番・津田翔希(1年)が右前安打で出塁しチャンスを広げると、先ほど頭部に死球を受けた竹村が適時二塁打を放ち、2点目を挙げた。(写真)2回表、小島和哉が左前に適時打を放ち先制する(写真)2回表、竹村春樹が「お返し!」とばかりに適時二塁打を放つ■その後も浦和学院打線の猛打は止まらない。3回に打者10人、8回には打者11人を送り込み得点を重ねた。打ちも打ったり、結局、全員安打で計18本、16点を奪った。守ってはエース・小島和哉が完投、相手打線を失点1に抑えた。浦和学院の甲子園での健闘を祈る!(写真)今日も投げぬいた浦和学院・小島和哉 今日も1クリックお願いします
2013.07.28
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■今日(7月27日)、準決勝の第1試合・浦和学院高対聖望学園高戦を観戦した。(写真)スコア■「事実上の決勝戦」といわれたこの試合は、前評判どおりの熱戦が繰り広げられた。初回、浦和学院は1番・竹村春樹が右前に安打を放って出塁した。早々にチャンスをつかんだかに見えたが、2番・服部将光は送りバントを失敗。そしてカウントを追い込まれた後にヒットエンドランに作戦を変更するも、服部は空振り三振、さらに一塁走者の竹村までもが二塁で憤死してしまった。送りバントをできずにチャンスをつぶす・・・、初回の集中力が群を抜く浦和学院にとっては、「らしくない、チグハグな攻撃」だったといえる。続く3番・山根佑太が安打で出塁したため、よけいに浦和学院の攻撃がチグハグに見えた。そして、この初回のチャンスを逃したことが、浦和学院のその後の試合運びを窮屈なものにした。チャンスはそれなりにあったものの、またも送りバント失敗や併殺打などが続き、得点できない。 ■一方の聖望学園も初回、浦和学院のエース・小島和哉(2年)を攻めたてる。一死後、2番・笠原伸吾が右前安打で出塁し、3番・寺田和史が四球を選んで一死一・二塁のチャンスをつかんだが、小島に後続を断たれ、こちらもチャンスを活かせない。聖望学園は、その後もスコアリングポジションに走者を送るものの、持ち味の制球力を活かす小島に要所を締められ、無得点が続いた。(写真)浦和学院・小島和哉。9回を投げ、被安打5、奪三振6、与四死球3、自責点0。■どちらが勝ってもおかしくない - いや、もっと言えば、浦和学院が敗れてしまう可能性も十分にあった - この試合は、緊迫した空気の中、両チームともに0(ゼロ)行進のまま、9回まで進んだ。そして先に得点に成功したのは、やはり、浦和学院だった。9回表、この回先頭の3番・山根が左前安打で出塁する。そして、4番・高田涼太がきっちり送りバントを決め、次打者の凡退後、6番・斎藤良介が右中間越えの適時三塁打を放ち、山根が生還。浦和学院はやっと1点を挙げ、これが決勝点になった。斎藤は準々決勝(7月25日、対埼玉平成高戦)で最後の打者をライトゴロに仕留め、小島の完全試合を好アシストした選手。今日も決勝打を放ち、背番号「11」は浦和学院になくてはならないラッキーボーイとして、その存在感をさらに大きなものにした。(写真)浦和学院・斎藤良介。9回表、右中間越えの適時三塁打を放つ■一方の聖望学園。今日の試合を名勝負にした立役者は、エースの川畑諒太だろう。2回途中から登板し、強力な浦和学院打線を7回2/3、被安打3、奪三振2、与四死球4、自責点1に抑えた。最速は120km台半ばだったものの、巧みな投球術で相手打線を翻弄した。(写真)聖望学園・川畑諒太。 ■さて、明日の決勝戦は浦和学院と川越東が戦う。川越東は中軸を打ち、ショートを守る高梨公輔が中心のチーム。ボクは2回戦(7月12日、対武蔵越生高戦)しか見ていないので、詳しいことはわからない。ただ、その時の印象では、まさか川越東が決勝まで勝ち上がるチームとは思えなかった。きっと一戦ずつ戦ううちに力をつけてきたのだろう。ちなみに、昨年まで川越東の監督を務めた阿井英二郎氏は現在、日本ハムのヘッドコーチに就任している。また、現在早稲田大学で「二刀流」に挑戦し、春季リーグ戦で東京六大学史上3人目の完全試合(対東京大戦)を達成した高梨雄平も川越東の出身。高梨公輔は雄平の弟。決勝戦は明日(7月28日)10時~。(写真)川越東・高梨公輔。~対武蔵越生戦より~今日も1クリックお願いします
2013.07.27
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前回の続き。■ムーンライト・グラハムとは、映画『フィールド・オブ・ドリームス』に登場しメジャーでは1試合に出場したものの、一度も打席に立つことなく現役を終えた実在の選手(引退後は医者に転じた)。彼に関しては、wikipediaにこう記していた。「W・P・キンセラが、ベースボール・エンサイクロペディアの中から偶然グラハムの特異な経歴を見つけ出し、そのエピソードを著書『シューレス・ジョー』に掲載したことから、映画『フィールド・オブ・ドリームス』として劇場公開され、グラハムの経歴が広く知れ渡ることとなった」。■たまたまボクの手元に『近鉄バファローズ大全』(洋泉社)がある。このムック本は歴代1軍出場選手539人完全データが収録された優れもので、「1試合に出場したものの、一度も打席に立つことのなかった」いわゆるムーンライト・グラハムがいないものかと探してみた。すると該当する選手が、なんと11人も見つかった。これまで中田庄治郎さん(第1回)、丁銀隆さん(第2回)、江渡辰郎さん(第3回)を書いてきた。そして今日は第4回目、紹介する選手は東新昇(とうしん・のぼる)さん。近鉄に在籍したのは1968年(昭和43年)から69年の2年間。『近鉄バファローズ大全』によれば、通算成績は出場試合数「1」、打数は「0」(四死球、犠打はなし)。そしてwikipediaによると、ポジションは内野手だった。背番号74、岡山・琴浦高出身。1967年、ドラフト外で近鉄バファローズに入団し、69年に引退した。身長173cm、体重70kg。右投げ右打ち。1949年生まれ(現在63歳)。琴浦高時代に甲子園出場経験はない。わかったのはこれだけ。■それだけではあまりにつまらないので、周辺情報を調べてみた。東新さんが高校3年だった1967年夏、岡山代表校として甲子園に出場したのは、エース・小山稔を擁した倉敷工高。甲子園初戦は4-0で秋田・本荘高を下したが、2回戦で中京高に3×-2でサヨナラ負けを喫した。なお、この大会で優勝したのは習志野高。決勝戦で広陵高を7-1で破り全国制覇した。また、同じ頃の岡山高校球界を調べてみると、後にプロで名を馳せた有名投手が複数見つかった。3年先輩に星野仙一(倉敷商高)、そして2年先輩に松岡弘(倉敷商高)、平松政次(岡山東商高)。■最後に、東新さんが在籍していた1968年~69年の、近鉄バファローズのことを調べてみた。「お荷物球団」と揶揄されたのは遠い昔。近鉄に躍動感が漂う2年間だった。前出の『近鉄バファローズ大全』より、以下に引用。・1968年この年より、三原脩が監督に就任した。開幕から3連勝、4月は首位をキープ。次第にペースを落とすも、シーズンを終わってみれば57勝73敗5分の勝率.438で、5年ぶりに最下位を脱出し4位になった。安井智規が54盗塁で盗塁王に輝き、土井正博がベストナインに選出された。また、鈴木啓示が23勝(21敗)を挙げた。なお、鈴木は、8月8日、ノーヒットノーランを達成した。・1969年5月から6月にかけて12連勝、一気に2位に浮上した。そして7月6日には待望の首位に。その後首位を陥落したが、10月5日、再び首位に返り咲き、2厘差でリーグ優勝をかけた阪急4連戦で痛恨の3連敗を喫し、夢はついえた。シーズンの成績は73勝51敗6分、勝率0.589と大健闘の末、2位となった。鈴木啓示が最多勝利(24勝13敗)、清俊彦が勝率第1位(18勝7敗、.720)を獲得。さらに永淵洋三が、打率.333で首位打者を張本勲(東映)と分け合った。11月20日、「甲子園の星」と騒がれた太田幸司(三沢高)がドラフト1位指名。■近鉄バファローズにとっては、かつてないほどの躍進の2年間だった。そして極めつけは太田幸司さんの入団。当時のマスコミは大々的に取り上げ、「太田殿下」と呼んだ。東北出身、かつ近鉄ファンだったボクは、小躍りして太田さんの近鉄入団を喜んだものだった。同じ頃、太田フィーバーで近鉄が珍しくスポットライトを浴びる中、東新さんはと太田さんと入れ替わりに退団、短い現役生活に幕を閉じた。 <参考>・雑誌「高校野球 忘れじのヒーロー」(ベースボール・マガジン社)・書籍「甲子園全出場校大事典」(森岡浩著、東京堂出版)今日も1クリックお願いします
2013.07.26
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■今日(7月21日)は、埼玉県大会4回戦、埼玉平成高対春日部共栄戦を観戦した。(写真)スコア■埼玉平成・佐々木誠太、春日部共栄・西澤大の好投で、両チームともに6回表まで「0」行進が続いた。均衡を破ったのは埼玉平成だった。6回裏、一死後、1番・青木一也が右前安打で出塁すると、2番・西野洸人も右前に安打を放ち、埼玉平成は一死一・二塁のチャンスを作る。そして次打者が凡退後、4番・佐々木が内角に入った直球を中前に弾き返し、2人の走者を本塁に迎え入れた。(写真)埼玉平成の4番・佐々木誠太が中前に2点適時打を放つ■ただ佐々木の適時打が生まれる以前から、「流れ」は埼玉平成にあった。それは、2つのプレーが呼び込んだのだと思う。ひとつは5回表だった。無死一・二塁の場面で春日部共栄は送りバントを試みた。しかし埼玉平成のファースト・森田有圭が打者に猛チャージをかけてバントを失敗させ、春日部共栄のチャンスの芽を摘んだこと。そして2つめは6回裏。無死一塁の場面で2番・西野洸人が粘りに粘って、フルカウントから9球目を安打したこと。何としても次につなぐ! そして右に打つ!といった意識で、直球を追っつけて右前に打ち返し、チャンスの拡大に成功した。佐々木ばかりが目立った試合だったけれど、こうした他選手のプレーが、結果として佐々木の適時打を呼び込んだのだと思う。なお、8回裏も佐々木の適時打が飛び出し1点を追加。結局、埼玉平成がスコア3-0で春日部共栄に完勝した。(写真)6回表、埼玉平成・西野洸人が粘ってチャンスを拡大した■佐々木は投手としても活躍した。春日部共栄打線を相手に9回を投げ、被安打3、奪三振9、与四死球1、失点0。直球と落ちる変化球を使い相手に三塁を踏ませないピッチングで、チームを勝利に導いた。(写真)投手としても活躍した佐々木誠太■一方の春日部共栄。エース・西澤大は8回を投げ被安打5、奪三振11、与四死球3の好投を見せたが、打線の援護に恵まれなかった。強豪・春日部共栄が4回戦で消えてしまうのは、あまりに早い気がするが・・・。(写真)11三振を奪った春日部共栄のエース・西澤大 今日も1クリックお願いします
2013.07.21
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■今日(7月20日)は、埼玉県大会4回戦、本庄第一高対鷲宮高戦を観戦した。(写真)スコアエラーは本当に怖いものだ。先ほど見た浦和学院対春日部もそうだったけれど、この試合でもつくづくそう思った。それは2回裏だった。本庄一は二死三塁のチャンスをつかみ、8番・日賀野彰磨が打席に立った。そして日賀野が放った打球はゴロで二塁キャンバス付近に飛んだ。ふつうならセンターに抜けている当たりである。ところがセカンドの戸草内洋平が逆シングルでこれを好捕。振り向きざまに一塁へ送球した。アウト! そう思ったが、送球が低くなり一塁手が落球してしまった。嗚呼・・・! その間に三塁走者が悠々と生還し、本庄一が先制、そしてこれが決勝点になった。鷲宮にとっては悔やんでも悔やみきれないプレーになった。高校野球は「流れ」がコロコロと変わるのが常。特にエラーは「流れ」を変える最大の要因だ。この試合、小柄なエース・大塚敏行が本庄一打線を抑えていただけに悔いが残った。(写真)再三にわたり好プレーを見せた戸草内洋平 (写真)鷲宮・大塚敏行は本庄一打線を5安打に抑えた■一方の本庄一は、浦和学院、花咲徳栄などとともにベスト16に勝ち上がった。エースの平良チアゴ(ブラジル出身)は最少得点を守り抜いた。また、本庄一の選手を見ていて平良のほかに2人の選手に注目した。(写真)本庄一・平良チアゴ。鷲宮打線を3安打に抑えたひとりは4番を打つ町田椋(2年)。身長192cm、体重96kgの巨漢で、バットに当たればどこまで打球が飛んでいくかわからないほどのパワーを感じた。今日の試合は4タコ(1三振)だったけれど、今後の成長を期待したい選手だった。この町田を見ていて、ボクは流通経済大時代の神戸拓光(こうべたくみ、現・ロッテ)を思い出した。(写真)本庄一・町田椋。計り知れないパワーを感じる打者だそしてもう一人はショートを守る伊藤ヴィットル(ブラジル出身)。捕球から送球への一連の動きが格好いい。特に捕球後に全身のバネを使い、さらにスナップスローで一塁へ送球するプレーは日本人では真似できない。(写真)埼玉の「牛若丸」、本庄一の伊藤ヴィットル。今日も1クリックお願いします
2013.07.20
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■今日(7月20日)は、埼玉県大会4回戦、浦和学院高対春日部高戦を観戦した。(写真)スコア1回裏、浦和学院の切込み隊長・竹村春樹が右前安打を放ち出塁する。初回の得点率が異常に高い浦和学院(データを調べたわけではないけれど、ほぼ間違いない)にあって、出塁率の高い竹村の存在は大きい。そして二進後、3番・山根佑太の打球は平凡な三ゴロ。ところが春日部の三塁手は一塁へ悪送球し、竹村がホームイン。浦和学院は労せず1点を先制した。なんとしても先制点を譲りたくない春日部だったが、思わぬエラーが「流れ」を浦和学院に追いやった。その後は浦和学院・小島和哉、春日部・橋本龍之介の両投手が踏ん張り「0」行進が続いたが、6回裏、浦和学院は突き放しに成功する。この回先頭の2番・贄隼斗が死球で出塁。次打者の送りバントで二進後、4番・高田涼太の放った打球はグングン伸びて、懸命にバックするセンターの頭上を越えた。そしてセンターが打球処理を手間取っていると見るや、高田は三塁も蹴って一気に本塁に生還した(ランニング本塁打)。さらに浦和学院は7回裏、1番・竹村、2番・贄の連続適時打が飛び出しダメを押した。 (写真)浦和学院・高田涼太が中越えのランニング本塁打を放つ■実はこの試合、ノーヒットノーランの大記録を賭けて投球していた投手がいた。浦和学院のエース・小島和哉だ。特に制球が抜群で、8回終了時点まで被安打0、奪三振12、与四死球1。最終イニングを迎え、さぁ大記録達成か? と期待したが、小島はライトにまわり、代わって山口瑠偉が登板した。「えぇ~???」。どよめきが県営大宮公園球場のスタンドを包んだ。だが浦和学院ベンチからすれば、県大会4回戦レベルでの大記録など何の意味もない、下手に記録を達成したら、逆に小島の今後の調子を狂わせるとでも考えたのだろうか。これまでの野球観戦において、ボクは目の前でノーヒットノーランを見たことがない。だから9回表開始前は、達成した瞬間の小島の表情をぜひ撮りたいと、あれこれ考えていたから残念でしかたがなかった。※今日、同じ球場の第3試合で花咲徳栄高・関口明大がノーヒットノーランを達成した。ボクはこの試合を見ていたが、途中で帰宅してしまい、大記録達成の瞬間を見逃してしまった。浦和学院の小島とあわせ、いったい何という日なんだ、今日は!(写真)浦和学院・小島和哉。ノーヒットノーラン達成間近だったが、9回、非情の交代(写真)9回から登板した浦和学院・山口瑠偉。今日も不安定な投球で1点を失った■一方、春日部は橋本龍之介の投球も悪くなかった。浦和学院打線を相手に6回2/3を投げて被安打5、奪三振2、与四死球2。ただ先頭打者を出塁させたケースがことごとく失点に結びついたことが悔やまれる。(写真)浦和学院打線を相手に大健闘だった春日部・橋本龍之介 今日も1クリックお願いします
2013.07.20
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■神奈川の高校野球が毎度のことながら熱い。人気者の桐光学園高・松井裕樹がいるから今年は尚更だ。昨日、ボクは埼玉にいながらにしてTVK「桐光学園高vs相洋高」の録画予約し後で見たが、スタンドの盛り上がりは尋常でなかった。さすがに神奈川、だ。顧みてわが埼玉、熱中症で倒れた球児に苦言を呈する監督が現れて物議を醸しているが、肝心の試合の盛り上がりは今ひとつ。埼玉が提供する高校野球の話題は「熱さ」ではなく「暑さ」なのだ。そんな中、センバツで優勝した浦和学院高が今日(7月15日)の第1試合に登場した(3回戦、県営大宮公園球場)。客観的に見て、浦和学院の力が傑出していることが盛り上がりを欠く理由のひとつ。浦和学院を脅かすチームが現れてこそ、一層埼玉の高校野球が熱くなるのだ。いったいどのチームが浦和学院を苦しめるのか?<3回戦 浦和学院高vs川越初雁高>(写真)スタメン川越初雁 100 000 0 =1浦和学院 402 021 X =9■1回表、川後初雁が浦和学院の先発・山口瑠偉にいきなり襲いかかる。二死後、3番・横島和弥(2年)がセンター左を抜ける三塁打を放つと、続く4番・志儀天斗(1年)が右中間越えの二塁打を放ち先制した。ひょっとしたら何かが起きるか?少しだけ期待をもったが、浦和学院はまるで動じない。その裏、敵失と死球で一死一・二塁のチャンスをつかむと、4番・高田涼太が中前に弾き返して同点。さらに5番・木暮騎士がレフトスタンドに3点本塁打を放ち、あっさりと逆転に成功した。そして、その後も小刻みに加点して結局9-1で7回コールド勝ちした。(写真)木暮騎士。初回、3点本塁打を放つ ■いつも思うことだが、浦和学院の初回の集中力はすごい。何が何でも得点しようという気迫を強く感じる。そして試合を有利に進めて、レベルの鍛え抜かれた高い投手陣がきっちり抑える。これが浦和学院の強さの秘訣だ。これまで埼玉県内では圧倒的に強くても、甲子園に出た途端、借りてきた猫のようになってあっさり敗退することが多かった。ところがたしか一昨年秋(埼玉大会)、負け試合を引き分けに持ち込んだあたりから、強さに磨きがかかったように思う。「負けない強さ」とでもいのだろうか。(写真)全国連覇を目指すチームの投手にしては、少し心許ない投球だった山口瑠偉■一方の川越初雁。主将兼エースの横島和弥は2年生。ふつう3年生が主将をやるものだが、事情があって2年生の横島が主将をやっているらしい。ピッチングも頑張っていたし、バッティングもよかった。山口投手を相手に一番タイミングが合っていた。また、川越初雁・宮内誠弘監督は、今日の試合を最後に引退する。朝霞高などの監督を歴任、35年間の監督生活に終止符を打った。お疲れ様でした。(写真)川越初雁・横島和弥。身長167cmの小柄ながら、投打ともに活躍した 今日も1クリックお願いします
2013.07.15
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■今日(7月13日)、元巨人・柴田勲さんの講演会に行ってきた。演題は「あのV9戦士・柴田勲氏の『我が栄光の巨人軍』。ボクが子供の頃、巨人の選手で一番好きだったのは黒江透修さん。そして次に好きだったのが柴田さんだった(特に背番号「12」の頃)。1番打者というのが憧れだったし、足が速いこともよかった。また、柴田さんは「内また」も特徴の一つだった。ボクは柴田さんの歩き方を真似して、つま先を地面に擦って歩く「内また歩き」を練習したこともあった。(嗚呼、なんとバカなことを・・・)■ただボクが講演会に出席しようと思ったそもそもの理由は、巨人時代の話を聞くことではない。尾崎行雄さんとの高校時代の思い出話を聞くことだった。そして講演会後、尾崎さんの店に行き、柴田さんの話を肴にして尾崎さんの昔話を聞かせていただければ嬉しいな!と、そういう腹積もりでいた。ところが、この講演会があることを知った(6月7日)約一週間後、尾崎さんが急逝してしまったのだ(13日)。■そんなわけでボクの細やかな企ては一瞬にして崩れ、目的を失ったまま今日の講演会参加となった。案の定、柴田さんの話には尾崎さんの名前が出てきた。法政二高と浪商高の3度にわたる対戦について話し始めた時である。「尾崎君は真っ直ぐだけで勝負を挑んできた凄い投手だった。3度目の対戦(昭和36年夏)は延長戦になったが、延長になってから一層スピードが速くなったのには驚いた」と言い、また「彼の一番凄いところは、登板前はいつも27人の打者全員から三振を奪おうと考えていたこと。そしてそれが果たせなければ、次に完全試合を狙う。さらにそれも叶わなければ、次にノーヒットノーランを狙うなど、常に高い目標をもって相手打線に立ち向かう投手だった」と話していた。(写真)浪商高時代の尾崎行雄さん。~『高校野球 忘れじのヒーロー』(ベースボール・マガジン社刊)~≪アーカイブ≫「豪腕」浪商高・尾崎行雄と「怪腕」柴田の三度にわたる対戦最初の対決は1960年夏、甲子園2回戦だった。(1)1960年夏 2回戦(8月15日)法政二高 4-0 浪商高法政二 000 000 040 =4浪商高 000 000 000 =0(法)○柴田、(浪)●尾崎この時、尾崎は1年生、柴田は2年生だった。柴田「あの年、慶應高校に渡辺泰輔(慶應大‐南海)さんという剛速球投手がいてね。僕らはその渡辺さんを打てないと甲子園に行けないというんで、速いボールを打つ練習はかなり積んでいたんだよ。でも尾崎君の球は速かったよ。手元でピュッと伸びてたもの」尾崎「たしかに速かったかもしれないけど、僕の場合は速いだけ。その点、柴田さんのピッチングは、制球力といい配球といい、ほぼ完成されていましたものね」 (以上、前出の『忘れじのヒーロー』より引用)。補足のため、別の書籍から以下に引用。スコア0-0で迎えた8回、カーブを多投し疲れの見えた尾崎を攻略するため、法政二高の田丸仁監督は打者に外角のストレートとカーブに的を絞らせ、一挙4点を奪い勝利を決めた。その後も勝ち進んだ法政二高がこの大会を制した。 (『甲子園-名投手物語』 鈴木俊彦著、心交社刊)(2)1961年センバツ 準々決勝(4月3日)法政二高 3-1 浪商高 法政二 000 020 100 =3浪商高 010 000 000 =1(法)○柴田、(浪)●尾崎柴田「尾崎投手は前年の夏よりもさらに速球に磨きがかかっていた」尾崎「打倒・法政二高で燃えていましたからね(笑)。自分で言うのもなんですが、1回戦の日大二戦は17奪三振、2回戦の明星戦は14奪三振でともにシャットアウト。ほぼ完ぺきの状態で法政二戦を迎えたんですよ」柴田「うちとの試合でも最初から飛ばしていたんだよね」尾崎「たしか4回までノーヒットで毎回の7奪三振。味方も2回に1点取ってくれたんで、今度は行けると思ってたんですがね~」 (『忘れじのヒーロー』)事実上の決勝戦とも言われたが、イレギュラー打球の不運などもあり、浪商高は再び法政二高の軍門に降った。その後、法政二高はこの大会でも優勝した。 (『甲子園-名投手物語』)(3)1961年夏 準決勝(8月19日)浪商高 4-2 法政二高浪商高 000 000 002 02 =4法政二 100 100 000 00 =2(浪)○尾崎、(法)●柴田尾崎「8回を終えて0対2と2点ビハインド。でも不思議と負ける気はしなかった。それは柴田さんが肩か肘を故障しているという情報が入っていたから」柴田「あの時はもう腕が上がらない状態。なんとかだましだまし投げていたんだけれど、9回表に一死からデッドボールを与えてしまって・・・。その後連打を喰らって二死満塁。迎えたバッターは5番・ピッチャー尾崎」尾崎「たぶん、あの打席まで柴田さんから一本もヒットを打ってなかった。でもあの打席は不思議と落ち着いていた。そしてカウント2-2からの5球目、ションベンカーブが肩口からスーッと入ってきた。変化球は苦手でしたが、さすがにアレは打てました」 (『忘れじのヒーロー』)打倒・法政二、打倒・柴田が浪商ナインの合言葉だった。燃えに燃えて臨んだこの試合は延長11回の末、三度目の対決でやっと初勝利。そして浪商は決勝も勝利し、この大会の優勝を決めた。 (甲子園-名投手物語)延長11回表、無死一・二塁から、併殺を狙った二塁手のエラーで1点を勝ち越し、さらに尾崎の犠飛で2点を奪い、法政二を4-2で破った。決勝戦では、森川勝年(慶應大‐松下電器)がエースの桐蔭高を3安打で完封して優勝した。2年生の尾崎投手は5試合で54奪三振をマーク、翌年の活躍が期待されたが、11月に高校を中退してプロ入りした。 (『高校野球 甲子園全出場校大事典』、森岡浩編、東京堂出版刊)今日も1クリックお願いします
2013.07.13
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■昨日(7月11日)、日米大学野球第5戦を観戦した。2勝2敗で迎えたこの試合が最終戦。、思わぬ伏兵が日本代表チームを優勝に導いた。それは岡大海(明治大4年、倉敷商高)である。ただ岡は本塁打を打ったわけではない。貴重な適時打を放ったわけでもない。打撃成績は3タコと1つの死球である。 その死球こそがチームを救った。(写真)スコア■追いつ追われつの好ゲーム。そして4回裏、ドラマが起きた。一死後、7番・岡が打席に立った。初球、なぜか岡はセイフティバントの構えをみせ、身体が前方に傾いた。すると投球は岡の足に当たってしまった。倒れこみ、苦悶してのけぞる岡。そして立ち上がりかけた瞬間、被っていたヘルメットをはぎ取ると、思い切りグラウンドに投げつけた。 (写真)安打はなかったものの、この試合の真のMVPは岡大海である■グラウンドでは両軍ベンチから監督・コーチ・選手たちが飛出し、一触即発のムードに。審判団が必死に両軍をなだめて事なきを得たが、この岡の戦闘姿勢が日本代表ナインの心に火を点けた。その後、四球、盗塁、ワイルドピッチでチャンスを作ると、9番・嶺井博希(亜細亜大4年、沖縄尚学高)の適時打と1番・大城戸匠理(法政大4年、藤井学園寒川高)の内野ゴロで2点を追加した。さらに5回裏には4番・梅野隆太郎(福岡大4年、福岡工大城東高)、5番・中村奨吾(3年、天理高)が連続本塁打を放ち、勝利を決定づけた。(写真)梅野隆太郎。5回、レフトスタンドに本塁打を放つ(写真)中村将吾。梅野に続き2者連続本塁打を放つ■前回のブログで、ボクは岡を「脱力系」の選手と書いたが、それは完全な誤りだった。岡は熱い闘志を秘めた頼もしい選手だった。訂正するとともに深くお詫びする次第である。(写真)優勝を決め喜ぶ日本代表ナイン今日も1クリックお願いします
2013.07.12
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日米大学野球 第3回戦(広島・マツダスタジアム)米国 000 000 200 =2日本 410 000 00X =5(日)○関谷‐山崎康‐石田■9回表二死、勝利まであと一人になった場面で、スタンドから大きな歓声が上がった。地元広島出身の法政大・石田健大(3年、広島工高)が3番手の投手として登板したからだった。家族や知人たちが「石田健大」と大きな文字で書かれた横断幕を掲げ、そして高校の後輩たちが声を張り上げて石田に声援を送った。実況アナが「この試合一番の盛り上がりです1」という声援に応え、石田は最後の打者を148kmの速球で仕留め、日本代表の連勝を決めた。(写真)法政大・石田健大~対明治大1回戦より~■日本代表を連勝に導いたのは、明治勢の活躍による。昨日は山崎福也(3年、日大三高)、そして今日は関谷亮太(4年、日大三高)の好投があった。そして「打」では昨日今日と、岡大海(4年、倉敷商高)の活躍があった。岡はどちらかというと「脱力系?」の選手と思っていた。でもそれはボクの大きな勘違いで、やるときにはやる選手であることがわかった(笑)。ま、倉敷商‐明治大となれば、星野仙一さんの直系にあたる。「脱力系」なわけがないのだ。50秒を5.6秒で走る快足の持ち主であることも初めて知った。(写真)明治大・岡大海~日米大学野球候補選手セレクションより~■今日の試合で注目したのは上武大・三木亮(4年、遊学館高)。2回、左腕投手の変化球を右前に運んだバッティングは見事だった。打った瞬間、ボクは思わず「うまい!」と叫んでしまった。(写真)上武大・三木亮~日米大学野球候補選手セレクションより~今日も1クリックお願いします
2013.07.08
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■先日、故・尾崎行雄さんが経営していたお店をひさしぶりに訪ねた。6月13日に亡くなってからしばらく休業していたが、ボクが行ったのは、久々にお店を開けた数日後のことだった。テーブルの側には、大量の新聞記事の切り抜きが入ったビニール袋が置かれていた。お願いしてその記事を見せていただいた。上から順に手に取った。するとどの切り抜きも昭和47年6月26日のものだった。日刊、サンスポ、スポニチ、報知、ナイガイ・・・。不思議に思ったが、記事を読んでいくうちに理解した。それらはすべて、記事の前日(6月25日)、尾崎さんが近鉄を相手に5年ぶりに勝ち星を挙げたことを取り上げていた。浪商、そしてプロで華々しい活躍を見せた尾崎さんだったが、肩の酷使がたたり、昭和42年8月25日(対西鉄)を最後に勝ち星から遠ざかっていた。肉体的にも精神的にもきつい5年間を過ごし、やっとつかんだ尾崎さんの勝ち星を伝える記事だったのだ。そしてこの切り抜きは、家族にとっても忘れ難い大切な思い出だったに違いない。■以下、朝日新聞(昭和42年6月26日付)より引用。※写真は、今日図書館に行って朝日新聞DB「知恵蔵」から印刷したもの。(後楽園)近鉄 001 000 100 =2 東映 110 200 00X =4(近)●清‐芝池‐板東、(東)○尾崎‐山崎‐宮崎「勝ちたい」、神にも祈った。「口では言い表せない苦しみだった」。4-2とリードの8回から山崎にマウンドを譲り、久々に1勝を挙げた。37年の新人王、日本シリーズでの優勝。数々の実績をもつ尾崎は昨年暮れ田宮謙次郎監督に引退を申し出た。ところが田宮の返事は「もう1年頑張ってみろ」。今年2月、住み慣れた青山から浅草に引っ越した。気分を新たにし、加津子夫人に初勝利を味わせてやりたかったためだという。救援の宮崎が北川を一ゴロに打ち取り試合は終わった。「尾崎おめでとう」。ナインが尾崎をさがした。が、いない。ベンチ裏のトレーナー室にかくれていた。「こわくて見ていられなかった」そうだ。大杉からウイニングボールを受け取った尾崎は黒いナイロンバッグにしまった。5年ぶりに手にした105個目のウイニングボールだった。■新聞には、その試合のメンバーが記載されていた。スタメンのみメモしておきます。【近鉄】(中)小川(二)クオルス(右)永淵(左)土井(遊)一枝(一)北川(三)関根(捕)児玉(投)清【東映】(三)高橋博(左)三沢(一)大杉(中)張本(遊)阪本(捕)加藤(右)千藤(投)尾崎(二)大下(写真)尾崎行雄5年ぶりの勝利を伝える朝日新聞(昭和47年6月26日付)今日も1クリックお願いします
2013.07.07
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前回の続き。■前回、丁銀隆(ちょうぎん たかし)さんのことを書いた。昨夜のことである。今朝起きて読み直してみると、あまりに情報量の少ない記事だったため、丁銀さんが在籍した当時の近鉄パールスのことを最後に書き加えた。その時代の主力投手だった武智(旧姓田中)文雄さんのことを中心に。書き終えてブログをアップすると、その途端、武智さんの訃報を伝える、おたけさんのブログが目に飛び込んできた。今月1日、心不全で亡くなったそうだ(享年86歳)。ボクは武智さんのことを詳しく知っているわけではない。たまたまブログに書いただけである。なのに、その直後に訃報を聞いたのは、何故なんだろうか?これは、映画『フィールド・オブ・ドリームス』でレイ・キンセラが聞いた謎の声"If you build it, he will come."(それを作れば、彼が来る)と同様、何かのメッセージだろうかと思えてくる。極めて的外れなポジティブシンキングであろうことはわかっているが(笑)、これからも近鉄にこだわっていこうと意を強くした。こだわり続ければ誰かが来る、のだ。いったい誰かわからないけれど。<武智(旧姓田中)文雄さんのこと> wikipediaより以下に引用。岐阜商高を経て、戦時中は予科練に入隊。戦後、ノンプロチームの大日本土木でプレーした後、1950年に新設の近鉄パールスへ入団。初年度から一軍入りするものの、夏までに1勝も挙げることができず、藤田省三監督の反対を押し切って上手投げからアンダースローに転向。9月23日の大映スターズ戦では、スタルヒンと投げ合って初勝利を挙げている。下手からの切れのいいシュートを武器に、エースとして弱小チームを支えた。1954には26勝を挙げ、最多勝利を獲得。1955年6月19日、大阪球場で行われた大映戦では、プロ野球史上2人目の完全試合を達成している。なお、同年8月30日の大映戦でも9回1死までパーフェクトに抑えている。■近鉄の「ムーンライト。グラハム」を調べ始めて、今日が第3回目。今回は江渡辰郎(えと・たつお)さん。近鉄に在籍したのは1963年(昭和38年)の1年間のみ。『近鉄バファローズ大全』(洋泉社)によれば通算成績は出場試合数「1」、打数は「0」(四死球、犠打はなし)、ポジションは野手だった。しかしネット検索では、ポジションは投手、しかも近鉄在籍期間は1959年から65年までの7年間と出ていた。どちらが正しいかは不明だが、『近鉄バファローズ大全』を信じることにしよう。その他のことは以下のとおり。背番号48。ポジションは不明(野手)。県尼崎高出身。身長180cm、体重70kg。右投げ右打ち。1940年生まれ(現在73歳)。※前回の丁銀さん同様、県尼崎高出身。江渡さんは丁銀さんの6年後輩ということになる。甲子園出場経験はないが、江渡さんが高校3年だった1958年夏の甲子園を制したのは柳井高。準Vは、エース・坂東英二を擁した徳島商高だった。■江渡さんが在籍していた1958年の近鉄のこと。前出の『近鉄バファローズ大全』より以下に引用。・1958年この年より、芥田武夫に代わり、加藤久幸(旧名春雄)が監督を務めた。また、この年、日生球場で初めてナイターが行われた。同年、長嶋茂雄が巨人に入団したことで、プロ野球人気が一層盛り上がり始めた。近鉄も負けていない。巨人の監督争いで川上哲治さんに敗れた千葉茂さんを監督に招聘した。名称もパールスからバファローに変更して巻き返しを図ったが・・・。結局はうまくいかなかった。61年、千葉さんは失意のまま監督を辞任することになる。<参考>・webサイト「notama」・雑誌「高校野球 忘れじのヒーロー」(ベースボール・マガジン社)今日も1クリックお願いします
2013.07.06
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前回の続き。■近鉄の「ムーンライト。グラハム」を調べ始めて、今日が第2回目。今回は丁銀隆(ちょうぎん たかし)さん。近鉄に在籍したのは1953年(昭和28年)から56年(昭和31年)の3年間。『近鉄バファローズ大全』(洋泉社)によれば、通算成績は出場試合数「1」、打数は「0」(四死球、犠打はなし)。またネット検索の結果、次のことがわかった。背番号49。ポジションは不明。県尼崎高出身。身長173cm、体重70kg。右投げ右打ち。1934年生まれ(現在79歳)。丁銀さんの高校1年時、県尼崎高は1950年のセンバツに出場したが、丁銀さんはベンチ入りしていなかったはず。高校入学直後にセンバツに出場する可能性はない。ちなみに県尼崎はセンバツ1回戦で熊本工高と対戦し、9-15で敗退している。■丁銀さんの高校3年時(1952年)、兵庫県を代表して夏の甲子園に出場したのは芦屋高。芦屋高は甲子園でも順調に勝ち進み、結局初優勝を果たした。その芦屋高には、後に立教大‐阪急‐阪神に進む本屋敷錦吾さんがいた。本屋敷さんといえば、ボクは阪神時代を思い出す。村山実、小山正明、安藤統男、藤田平らと同じ世代だったと記憶する。また立教時代は長嶋茂雄、杉浦忠とともに「立教三羽烏」と呼ばれていた。■丁銀さんが在籍していた1953年~56年の近鉄のこと。前出の『近鉄バファローズ大全』より以下に引用。・1953年この年より、藤田省三に代わり芥田武夫が監督を務めた。そして、いきなり破竹の9連勝を飾り首位に。「春の珍事」と呼ばれた。・1954年山下登がノーヒットノーランを記録。74勝63敗3分、勝率.540で初の4位に。また田中文雄が26勝15敗で最多勝利投手となり、鈴木武が71盗塁で盗塁王のタイトルを獲得した。・1955年武智(旧姓田中)文雄が史上2人目の完全試合を達成した。・1956年4月に10連勝を記録した。そして丁銀さんが近鉄を退団した翌57年、7球団になったパ・リーグは1球団を減らし6球団にするプランが急浮上。近鉄は球団消滅の危機を迎えた。その時のことを思うと、よく2004年まで球団が継続したものだと思えてくる。<参考>・webサイト「notama」・雑誌「高校野球 忘れじのヒーロー」(ベースボール・マガジン社)・書籍「甲子園全出場校大事典」(森岡浩著、東京堂出版)今日も1クリックお願いします
2013.07.05
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■今日のタイトルは『伝説のプロ野球選手に会いに行く』(高橋安幸著、廣済堂出版)を真似させていただきました(申し訳ありません)。そしてムーンライト・グラハムとは、映画『フィールド・オブ・ドリームス』に登場した実在の選手。メジャーでは1試合に出場したものの一度も打席に立つことなく現役を終えた(その後、医者に転じた)。wikipediaによると「W・P・キンセラが、ベースボール・エンサイクロペディアの中から偶然グラハムの特異な経歴を見つけ出し、そのエピソードを著書『シューレス・ジョー』に掲載したことから、映画『フィールド・オブ・ドリームス』として劇場公開され、グラハムの経歴が広く知れ渡ることとなった」と記していた。■たまたまボクの手元に『近鉄バファローズ大全』(洋泉社)がある。このムック本は歴代1軍出場選手539人完全データが収録された優れもので、「1試合に出場したものの、一度も打席に立つことのなかった」いわゆるムーンライト・グラハムがいないものかと探してみた。すると該当する選手が、なんと11人も見つかった。その中で、在籍した時代が最も古かった選手は中田庄治郎という人。この名前を聞いてピーンと来る人は凄いが、ボクはまるでわからなかった。で、さっそく調べてみた。中田庄治郎さん。在籍したのは1952年(昭和27年)の1年間のみ。出場試合数は「1」、打数は「0」と書いてある(ちなみに四死球も犠打もない)。背番号は1。ポジションはショート。岡山東商高(現・岡山東高)出身。身長167cm、体重64kg。右投げ右打ち。1933年生まれ(現在80歳)。わかったのはこれだけ。せめてもと、周辺情報を調べてみた。まず高校時代を調べてみると、なんと秋山登さんや土井淳さんとチームメイトだったことがわかった。そして51年夏は甲子園に出場し、初戦で高松一高にスコア3-12で敗退したが、その高松一に中西太さんがいたことがわかり、ボクは嬉しくなった。そして中田さんが在籍した当時、近鉄の名称はパールス。他球団や東京六大学から選手をかき集めた「寄せ集め集団」で他球団との力の差は歴然。球団創設(1950年)以来、中田さんが在籍した52年もずっとパ・リーグ最下位をひた走っていた。当時のチームメイトには関根潤三さんらがいた。■さて、『近鉄バファローズ大全』のリストは五十音順に記載されている。中田さんの名前の側には中村紀洋の名前があった。中村の数字と比較すれば中田さんの数字がとても寂しく見えるが、別の視点から見れば、プロの世界に入って試合に出場しただけでも凄いことである。中田さんは、唯一出場した試合にどんな思い出が詰まっているのだろうか? そして引退後はどんな半生を送られているのだろうか。聞いてみたい気がする。<参考>・webサイト「Data館」・webサイト「notama」・webサイト「激闘の記憶と栄光の記録」・webサイト「猛牛島」・雑誌「高校野球 忘れじのヒーロー」(ベースボール・マガジン社)今日も1クリックお願いします
2013.07.02
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■NHK「ヒーローたちの名勝負 江川攻略、銚子商執念の9か月」を見た。昭和48年夏の甲子園、銚子商高対作新学院高戦を、当時ボクはテレビで見ていた。そして延長12回裏、江川は雨で手が滑り、満塁の場面で押し出し四球を出したシーンを憶えている。生来「天の邪鬼」なものだから、大スター・江川卓を好きになれず、銚子商を応援して勝利の瞬間には小躍りして喜んだものだった。最後の一球は、雨が江川の手を滑らせた、雨が銚子商を勝たせてくれたとボクは信じていた。しかし番組を見て、江川のこの一球に至るまでの(いや、至らせた)プロセスを初めて知ることができた。スポーツにはすべて「流れ」がある。野球も同様で、銚子商が「流れ」を呼び込んだ理由は、凄まじい執念があったからだった。(昭和48年、夏の甲子園2回戦)作新 000 000 000 000 =0銚子 000 000 000 001X =1(作)●江川、(銚)○土屋■全国制覇を目指す銚子商にとって、江川攻略は絶対条件だった。江川から点を奪わない限り、その先はない。なにせ「ストライクと思ってバットを振りだすと、急にホップして高めのボールになる」速球。「こめかみにぶつかりそうなってのけ反ると、アウトローに大きく曲がる」カーブを自在に操る江川である。高校時代は公式戦だけでも完全試合2、ノーヒットノーランを10試合も達成したほど。ひとは江川を「怪物」と呼んだ。斉藤一之監督はじめ銚子商ナインは江川対策に知恵を絞った。甲子園で対戦する9か月前からである。再三にわたり作新学院に練習試合を申込み、江川の球を選手の目に焼き付けた。そして得た結論は「バットをコンパクトに振る」「高めの球に手を出さない」。また江川の一球一球に目を凝らし、投球の癖も発見した。そして江川から最少得点の1点を奪うイメージを掴むため、5点差で負けている試合でもスクイズを敢行した。■そして昭和48年、夏の甲子園2回戦で、ついに対戦が実現した。銚子商のエース・土屋正勝は江川に負けじとばかり「生涯最高のピッチング」(本人)を披露。試合は0-0のまま延長12回裏を迎えた。すると、この場面で雨が一層強く降り出した。ふつう集中力が途切れがちになるが、銚子商ナインは逆に気持ちを強くした。なぜなら「江川は、晴れの日はバテやすい。曇りの日は絶好調でノーヒットノーランが生まれやすい。雨の日は苦手」というデータを持っていたから。「この試合は勝てるぞ!」その自信が影響したのか、1本の安打と2つの四球で一死満塁のチャンスをつかむ。ここで打席に入ったのが長谷川泰之。カウントは2-3のフルカウントになると、斉藤監督からのサインは、これまでの「打て!」から一転、「スクイズ」に変わった。一死満塁、フルカウントの場面でスクイズは常識的に考えにくい。いかにチームで一番バントのうまい長谷川であってもだ。まるでこの瞬間のために、練習試合でスクイズを敢行したと思えるほど。そして江川が投じた球は大きく高めに外れ、長谷川はしっかりと見逃して押し出しの四球となった。そしてそれは江川の高校最後の一球になった。■最後にスクイズのサインが出ていたことを、ボクはまるで知らなかった。あらためて画像を見ると、江川が振りかぶった瞬間、長谷川の両手が少し離れているように見えた。銚子商勝利のウラ側には、こうした江川攻略に賭けた執念があったのだ。高校野球はめまぐるしく「流れ」が変わるのが常。それは技術の未熟さや相手チームの研究不足、そして強行日程などが微妙に絡む。しかし攻略すべき対象が明確な場合は別だ。事前に手を打ち「流れ」を呼び込むことが可能になる。同じ年のセンバツでは、やはり江川攻略に向けて「(江川を)打たなくても得点する野球」を目指した広島商が、機動力を使って作新学院に勝利したこともあった。弱者が強者を倒す。それを見るのがボクの野球を見る楽しみである。※あ、そうそう、現・国際武道大の岩井美樹監督が当時の銚子商の選手だったことを、ボクは知りませんでした・・・。■最後に、youtubeで見つけた江川の高校時代の投球。対銚子商戦は見つからなかったので、対広島商戦をアップしておきました。 今日も1クリックお願いします
2013.07.02
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