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昨日(10月30日)、川上哲治氏が老衰のため逝去された。93歳だった。「打撃の神様」「哲(鉄)のカーテン」など川上氏にまつわる言葉は数多い。「弾丸ライナー」も、そのひとつである。現在では普通に使われているこの言葉も、元々は川上氏の鋭い打球に付けられたネーミングだった。命名者は大和球士。いま、ボクの手許に大和球士が著した『野球百年』(時事通信社)がある。調べてみると、川上氏の打球を「弾丸ライナー」と書いた記事が312頁、昭和15年(1940年)の項にあった。かなり長くなるが、以下にそのまま引用する。見出しは、「壮絶な弾丸ライナー」。4月1日後楽園球場でおこなわれた巨人対名古屋の激突は、名勝負に残しておきたい白熱戦であった。巨人は前年度最高殊勲選手であり猛速球プロ隋一のスタルヒンを立て、名古屋は左腕剛速球の松尾。六尺三寸のスタルヒンと五尺八寸余、二〇貫の松尾がわたりあうさまは壮観であった。名古屋は巨人を押しに押し、何回となく好機を得たが、スタルヒンの力投に得点できず、巨人は9回裏一死後、3番打者中島安打のあと、4番打者川上が2‐3後の剛速球を痛打すると左翼手吉田の守備位置前に弾丸ライナーとなってとび、あまりに当たりが強かったために、ワンバウンドした球が構えた吉田のスパイクに当たって左翼邪飛線外に高くとび去る二塁打になり、中島生還して巨人が勝った。川上の壮絶な弾丸ライナーは、いまだに筆者の眼底に焼きついて離れない。打球が強すぎて野手がボールを一瞬見失い、スパイクに当てて高くハジクなどは稀有の出来事に属し、筆者の知る限りにおいては二回あるのみ。他の一回は阪急で強打をほしいままにした宮武三郎の慶応時代、新田球場における対明大戦にはなった快絶の一撃であった。猛葡は砂を噛んで遊撃手の二塁寄りに走ったが、六大学随一の名遊撃手林好雄をもってしても、この猛葡を正確に捕球できず、左足のスパイクに当て、打球は高くはねあがって左翼邪飛線の方向へ転々としたのであった。■さらに川上氏について、大和球士は「不世出の大打者」「戦前プロの華」とも評している。以下に306頁から引用する。ここでも最後に「弾丸ライナー」と書いていた。プロ野球における戦前と戦後の打力を比較する場合に、戦前の打撃と戦後の打率を上っつらから比較して、戦後のほうがはるかにすぐれているごとき結論を出す者のあるのは、愚かしい限りといわざるを得ない。まっ芯に当たっても飛行力の乏しい粗悪球は、途中から急落下してしまうのが常であった。この事実を頭に入れて比較検討してこそ、はじめて正しい比較ができる。終身打率も、同じハンディを頭において熟視しないと、打者の真価を比較することは不可能である。戦後、よく飛ぶボールを使用するようになってから登場した打者なら、終身打率三割を保持することは一流打者であるかぎりは、それほど至難ではない。しかし(昭和)十四年以後の粗悪球時代を経てきた打者でしかも三割以上の打率を保持している者は、稀有の大打者というべきであろう。その意味では、ジャイアンツの川上哲治のごときは不世出の大打者と称して、けっしてほめすぎではあるまい。川上は用球粗悪化した十四年度に三割三分八厘を打ってリーディング打者になり、翌十五年も三割一分一厘で十傑の二位、十六年度には再び首位打者に返り咲き三割一分を打った。飛ばぬボールを打って右中間を弾丸のように突破する弾丸ライナーを連打した川上の打力のすさまじさは戦前プロの華であった。‐‐‐合掌。
2013.10.31
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前回の続き。昭和47年度のシーズンが幕を閉じると間もなく、阪神タイガースの監督兼投手村山実が引退を声明して、あの見慣れた、-背番号11はファンの前から姿を消して、永久欠番になった。関西球界隋一の人気男村山は、14年間の阪神生活に別れを告げた。(そして)引退試合は、翌48年3月21日、甲子園球場でおこなわれた。晴れた日、4万8千人の大観衆がスタンドを埋めつくした。三たび野球のドラマの舞台になった阪神対巨人戦が引退試合に選ばれた。 (『野球百年』より)■大和球士さんは、阪神・村山実の引退試合について「三たび野球のドラマ」と書いた。一度目は、1959年(昭和34年)6月25日の天覧試合に、村山が巨人の長嶋茂雄にサヨナラ本塁打を浴びたこと。二度目は1966年6月8日に、今度は村山が長嶋から記念すべき1500個目の三振を奪ったこと。そして三度目は、1969年8月1日、村山が同じ相手、長嶋から2000個目の三振を奪ったこと、である。大和球士さんは、「大スターは、自分で作ろうとしなくても、劇的なストーリーの主役になれるものだ」「ドラマチックなストーリーは、これだけで終わっても一篇の佳作として推すだけの価値があった」と村山を褒めちぎり、さらに、「天覧試合という忘れえぬ試合に、無念一代のサヨナラホームランを打たれた相手から、自分の1500個目の三振を奪い、さらに2000個目の三振を記録する・・・野球ドラマの秀作でなくてなんであろうか」と書き、締め括っていた。■村山と長島のライバル対決を、ボクは何度もテレビで見たと思う(さすがに天覧試合の頃は生まれていないが)。しかし、どんな対決だったか、その詳細はまるで覚えていない。わずかに覚えているのは、村山の小さい体を目一杯使って投げる投球フォーム(ザトペック投法)である。村山が長嶋に対して敵対心をもったのは、天覧試合だけが理由ではない。高校時代に立教大進学を目指すも、身長が低いという理由だけで落とされたことが、立教大のスター・長嶋へのライバル心に火を点けた。そして、その気持ちが力感溢れた投球フォームに反映したように見えるし、スター選手にのし上がる一助となった・・・、ボクにはそう思える。ちなみに、村山は関西大に進み、全日本大学野球選手権で優勝した。全試合完投のおまけ付きである。女房役は、後に阪急監督になった上田利治だった。■大和球士さんは、この項の最後に過去に引退試合をした選手たちの名前を、以下のとおり書いていた(~1968年)。どれも凄い選手たちゆえ納得するが、近年頻繁に行われている引退試合の多さには、少し違和感を感じてしまうのだ。千葉茂、藤村富美男、西沢道夫、大下弘、服部受弘、川崎徳治、別所毅彦、飯田徳治、金田正一、杉浦忠。
2013.10.29
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■統一球問題に関する第三者調査・検証委員会の報告書がNPBのホームページに掲載されていたことを知り、読んでみた。興味のある方はこちらへ。http://www.npb.or.jp/news/20131025.html■ボクは、もともとこの問題に興味はなかった。そもそも最近のプロ野球への興味を失っていたし、iいまのNPBにはどんな問題が起きたとしてもまったく不思議ではない、そう思っていたことによる。ただ、この報告書を読んで、ボクの中にぼんやりあったひとつの疑問が、ますます深くなった。それは、世の中、好き好んで全責任を自分で背負おうとする人間などいるわけがないのに、それに果敢にチャレンジした人物がいたことだ。NPB事務局の下田邦夫事務局長がその人である。さらに言えば、下田事務局長の部下であるG部長も同様である。この2人の行動がまるで理解できない。■報告書の66頁にこんな記述がある。本仕様変更は、アグリーメントの規定する範囲に収まる規格の統一球に変更することで、旧統一球に対する批判を鎮静化させ、併せて違反ボール使用の常態化を是正するという、それ自体は正当な目的を持ちながら、他方で非開示・非公表を貫くことで、旧統一球導入に伴う問題点の露見を回避し、NPBおよびその関係者の体面を保ちながら軟着陸をはかるというやや微妙で、見方によっては隠ぺいとも受け取られかねない意図を込めた多面的で複雑な目論みをもったものであった。この一文の主語は、おもに事務局の下田邦夫事務局長とG部長である。この問題は、この一文に集約されていると思う。報告書では、機構の体制、コミッショナー、ガバナンス等の問題に触れており、それは至極もっともなことであるが、この2人がなぜ「正当な目的を持ちながら、隠ぺいと受け取られかねない動きをした」のか。報告書によると、下田事務局長は自分のミスと繰り返すばかりで、真実は別のところに隠されている疑いがあると書いているものの、その真実については不明なままである。この件は、(たかだか)適切に修正手続きを行い、ミズノとの契約書を修正してあらためて締結すれば済むだけの問題だった。敢えてそれをせず、隠ぺいしようとした点が疑問である。後になって、自分たちだけに責任追及が及ぶことは明々白々、そんなことは最初から分かっていたはず。それなのになぜ?疑問はますます深まった。背後に何があったのか? そう行動せざるを得ない何か理由があったと考えるのが自然である。そうでなければ、この2人は、他人の責任を進んで被ってあげる(お人よしの)「責任フェチ」としか言いようがない。■この点に関し、過日、巨人など4球団が反発力係数の改善を見直しをはかる要望を出していたことから、これらの事実が背景にあったのでは? と見るムキもあるが、それは早計だろう。報告書からは、巨人等の要望と事務局の動きの直接の関連は読み取れない。
2013.10.26
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前回の続き。 ■1974年のプロ野球界は、長嶋茂雄の引退で他のすべてのことが消し去られた。金田正一率いるロッテが日本一になったことも、ウォーリー与那嶺が川上哲治に14年越しのリベンジを果たしたことも。そして王貞治が二年連続三冠王を獲ったことも。また、この年は「セーブ記録」が初めて採用された年でもある。初代セーブ王は、セが現・楽天監督の星野仙一(中日)。このたび、楽天を日本シリーズ初出場に導いた。パは南海の佐藤道郎。この佐藤は好人物だったらしく、この後1977年、野村克也監督が江夏豊に抑え転向を承諾させた際、江夏が真っ先に野村に聞いたのは、それまで抑えだった佐藤の処遇だったという。ドラフトでは、夏の甲子園の優勝投手、銚子商・土屋正勝、鹿児島実・定岡正二、横浜高・永川英植、土浦日大高・工藤一彦の4投手が「高校ビッグ4」と呼ばれ注目を浴びた。そして、それ以上に話題を集めたのは松下電器・山口高志の去就だった。■なぜか一番クジだった近鉄は山口を指名せず、二番クジの阪急に奪われた。この山口が1年目から快投を見せつけ、翌75年に阪急を初優勝に導いたのだから皮肉なものである。しかし、それでも近鉄にはドラフトの成果があった。まず2位で村田辰美(三菱自動車川崎)を獲得したこと。「江夏の21球」も「10・19」も主戦で経験する息の長いサウスポーだった。4位に吹石徳一(日本新薬)。「10・19」第2試合で本塁打を放った。以前、吹石がスカウトしている頃、神宮(東京六大学リーグ)のネット裏でよく見かけた。そして5位で谷宏明(熊本一工高)を指名した。同年の近鉄は、阪急を5度リーグ優勝に導いた西本幸雄を監督に迎えて1年目だったが、残念ながら前期5位、後期4位でシーズンを終えた。体質の甘さを痛感した西本は、そのオフ、不動の4番・土井正博を放出し、選手たちに危機感を芽生えさせた。なおこの年、羽田耕一が4打席連続本塁打、鈴木啓示が150勝を記録。そして土井が300本塁打をマークするも、このシーズンを最後に近鉄を去った。■東京六大学リーグは、法政大に大きな動きがあった。有力な高校球児がこぞって入学したのである。いわゆる「花の昭和49年組」である。江川卓(作新学院高)、中林千年(松江商高)、佃正樹(広島商高)、袴田英利(静岡自動車工高)、金光興二(広島商高)、島本啓次郎(箕島高)、植松精一(静岡高)等。秋季リーグ戦では、江川が6勝、中林が4勝して、法政があっさりと優勝した。最後の明治大2回戦は出場12選手中、1年生がなんと6名も出場していた。江川の女房役・袴田は大学卒業後、ロッテに入団した。先日放送されたTVでは、村田兆治の剛速球と鋭く落ちるフォークを「ノーサインで捕球した捕手」として紹介されていた。また、この当時の江川のことが『東京六大学野球80年史』(ベースボール・マガジン社)に、こう記されている。慶大を熱望したが不合格でやむなく法大へ。このコースをたどった選手が何人かいて当時の法大には微妙な空気が流れていた。しかし、江川はその右腕で強い法大を作り上げ、その空気を吹き飛ばした。※ちなみに同年春季リーグ戦でベストナイン<外野手部門>には、後に「10・19」で活躍した近鉄・新井宏昌がいる。■甲子園は、センバツを制したのは報徳学園高。池田高を3-1で破った。夏はエース・土屋正勝を擁する銚子商高が、防府商高を7-0で零封して優勝した。夏の大会で忘れられないのは、定岡正二のいた鹿児島実業高。準々決勝で原辰徳のいる東海大相模高と対戦、延長15回の激闘の末に勝利。定岡は18三振を奪った。そして迎えた準決勝(防府商高戦)も定岡が先発したが、3回に負傷し降板。9回裏に外野手のエラーでサヨナラ負けを喫し、泣きじゃくるその外野手の肩に腕をまわして懸命に慰めていた。■同年の社会・世相。田中角栄首相が退陣を表明し、三木武夫内閣が誕生した。月刊文藝春秋の「田中角栄研究--その金脈と人脈」(立花隆)によって金権実像を暴露されたことが田中首相退陣のきっかけになった。また、小野田寛郎がフィリピン・ルパング島で30年ぶりに救出されたのも、この年。『カモメのジョナサン』『ノストラダムスの大予言』がベストセラーになり、『GORO』が創刊された。昨日、セブンイレブンでは『週刊プレイボーイ』が成人誌の棚に置かれていると聞いて驚いたが、今も『GORO』があったなら、間違いなく成人誌扱いなんだろうなぁ。芸能界では、ドリフターズの荒井注が脱退し、代わりに志村けんがメンバー入りした。歌謡曲・フォークは、『赤ちょうちん』『精霊流し』『結婚するって本当ですか』等が流行った。同年、生まれた野球選手には松井秀喜がいる。長嶋茂雄が現役引退した年に松井が生まれたのは、別趣の興味をそそる。今年、2人揃って国民栄誉賞を受賞した。写真は5月5日、東京ドームの風景。打者は長嶋、捕手は原辰徳、主審は安倍晋三。この写真に写っていないが、投手は松井。~『長嶋茂雄・松井秀喜の絆』展にて撮影~
2013.10.23
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前回の続き。パ・リーグでは、ロッテが後期に優勝して、前期優勝の阪急とプレーオフをやり、三戦ストレート勝ちして、49年度の選手権に駒を進めた。監督金田の試合ごとに見せた”激情”は、選手たちの闘志をかきたてずにはおかなかった。4月27日、川崎球場で行われたロッテ対太平洋三回戦で、大乱闘の主役を金田正一があいつとめました。(以上、『野球百年』より)■このロッテと太平洋の遺恨試合は、前年の昭和48年(1973年)から続いていた。そもそも、この遺恨関係になったきっかけは、太平洋とロッテが1973年の開幕前、ロサンジェルス・ドジャースでプレーしていたジム・ラフィーバーの獲得を巡り熾烈な争いを繰り広げたことにある。最終的にラフィーバーはロッテに入団し、獲得に失敗した太平洋はドン・ビュフォードを獲得したが、これがいわば「しこり」となり、この2年間の遺恨試合騒動の端緒となった。平和台球場の観客は、ヤジだけならともかく、石やごみ、さらに小便の入ったビール瓶までグラウンドに投げ込む事件が相次いだ。これに黙っていなかったのが金田正一である。観客のヤジに言い返したり、砂を投げたり、時にはバットで金網を殴ったりした。事態は次第にエスカレートし、4月27日を迎えた。再び、『野球百年』から引用する。四回裏、ロッテの走者弘田澄男が走り込んだ時、太平洋の捕手宮寺勝利が、左足をあげたかたちでホームをブロックしたため、軽量の弘田は足を引っかけられて、三メートルも吹っとんだ。これを見た監督金田が宮寺に猛進して体当たり一番、ついで長い左足で蹴りわざに移った時、太平洋三塁手ビュフォードが、金田の背後からとびかかって首締めのわざにでた。両軍総動員で、おり重なっている金田、ビュフォードに突進したから主役二人はスクラムの底辺にあって踏まれ、かつ蹴られた・・・。金田とビュフォードは退場処分にされ、宮寺は走塁妨害のペナルティ-を科された。『週刊プロ野球セ・パ誕生60年』によれば、太平洋のフロントが遺恨を利用し、伸び悩んでいた観客増を図ろうとして乱闘シーンの写真をすかさず宣伝ポスターに利用していたそうだ。だが、乱闘騒ぎのたびに平和台に呼び出されていた福岡県警が大激怒。太平洋に「警備に自信が持てない。平和台での試合を中止するよう」申し入れ、太平洋は慌ててポスターを自主撤去した。 (写真)4月27日、ロッテ・金田正一監督が太平洋・宮寺勝利捕手に蹴りを入れたシーン。~『週刊プロ野球セ・パ誕生60年』(ベースボール・マガジン社)より~■ちなみに、当時の太平洋のオーナーは、2年前までロッテのオーナーだった中村長芳。監督は稲尾和久。ここで中村長芳について少し触れておく。(wikipediaより)71年、岸信介の秘書をつとめていた中村は、岸の盟友永田雅一(大映社長)の後を受けてロッテオリオンズのオーナーに就任した。翌72年、西鉄ライオンズの買収を発表。野球協約の定める1人または1団体による複数球団の保有禁止条項に抵触するため、ロッテオリオンズ球団のオーナーを辞任し、中村の保有株を正式にロッテに譲渡した上で、ライオンズの運営会社西鉄野球を西日本鉄道から買い取り、西鉄野球改め福岡野球のオーナーに就任して経営にあたった。 資金力を高めるため太平洋クラブとの提携を取り付けて73年から「太平洋クラブライオンズ」を、77年からはクラウンガスライターをスポンサーとして「クラウンライターライオンズ」を運営。78年、堤義明率いる西武鉄道グループ・国土計画(のちコクド、現プリンスホテル)への売却まで経営を続けた。なぜロッテのオーナーだった中村が西鉄ライオンズを買収するにいたったか。その理由は、中村がライオンズを買収する前、ライオンズの新しい親会社に、ペプシコーラの日本での販売会社であるペプシコ日本法人との仲介役を買って出たが、その直後に東映フライヤーズの身売り話が明らかになった(翌73年2月に日拓ホームへ売却)ことから、ペプシ側が安定経営が見込めないとしてこれを撤回し、やむを得ず仲介役の中村が球団を買収したとされる。■乱闘を利用して試合のPRをするのはあまりにせこいが、穿った見方をすれば、中村がその直前までロッテのオーナーだった縁で、あらかじめ仕組まれた出来レースだったのかもしれない。そのシナリオに金田が一枚かんだ。そして、平和台の観客が踊らされた・・・。「黒い霧事件」以来、西鉄は衰退の一途をたどり、かつての西鉄ファンの不満は爆発寸前だった。そして「黒い霧事件」は、パ・リーグ全体を暗い空気で覆っていた。そんな状態だったから客が集まるはずもない。だから、起死回生の策として集客できるならどんな方法でも、と中村が考えてもまったく不思議ではない。巨人を中心としたセ・リーグの人気に比べ、この時代のパ・リーグはその程度のもの、悲惨なものだった。■ここまで書いてアップしようと思い、あらためてwikipediaを読んだら、「舞台裏」という欄にまさしく、そのことが書いていた。以下に引用します。この遺恨試合は黒い霧事件以降、観客動員や財政面で苦戦を強いられていた太平洋が話題作りに仕組んだことが発端だった。太平洋クラブライオンズの球団社長だった青木一三は「球場に足を向けさせるには客を興奮させるような仕掛けが必要」と太平洋、ロッテ両球団の「対立」を演出することを着想。これには当時の太平洋のフロントの主要メンバーがロッテ出身者だったことも役立った。青木が金田に「スタンドのファンを刺激してほしい」と持ちかけ、金田も応諾。金田は観客に罵声を浴びせたりバットを振り上げたりはしたものの決して手は出さなかった。青木はこの企てに関しては金田以外には知らせなかったというが、金田は仲のよい稲尾と「2人で舌戦を繰り広げて盛り上げる」ことで合意し、出来レースの罵倒合戦が始まった。稲尾は生前「金田さんも適当にあしらえばいいのに、人が善いから真剣に怒ってしまっていた」と述懐していた。また、前述した「乱闘」ポスターが世に出た際には「乱闘まで営業材料にする必要はあるまい」と球団の経営方針に相容れないものを感じるようになっていたと著書に記している。フロント同士にも暗黙の了解はあったものの、ファンには何も知らされておらず、結果としてファンが球団の思惑に振り回される格好となってしまった。1973年5月の朝日新聞の署名コラムでは「両球団関係者の応酬は客集めに効果があるかもしれない半面、悪質なファンをあおるだけにすぎまい」とすでにその意図と「副作用」を推測、懸念する指摘がされていたが、それが的中した格好になった。この遺恨カードの演出を主導した青木は後に自著でこの事実を明かし、「今から思うとムチャなことをやったものだ」と記した。青木は「遺恨試合」を仕組んだ理由として「稲尾監督では人気が出ない」と考えたからだとも述べている。もうひとりの主導者である坂井は自著で事実について一部触れてはいるが、当時の裏話に関する談話を直接求められても「そのことは話したくない」とコメントを拒否し続けている。
2013.10.23
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■今日(10月19日)、「10・19」25周年トーク&ライブ(第1部)に行ってきた。あれから25年経った。早いようでもあり、長かったようでもあり。ただ、この25年の間に、あの時の記憶が薄れてきたことだけは間違いない。たくさんのシーンがボクの頭の中に残っているものの、それがダブルヘッダーの第1試合だったか、第2試合だったか記憶が危うくなってきた。また、第2試合は延長10回まであったことを忘れてしまい、先日のブログでは、近鉄ナインの最後の守備を「9回裏」と書いてしまった。嗚呼、恥ずかしい・・・。そんなものだから、今日のイベントはとても有難かった。お蔭さまで、薄れかかっていた記憶を少しだけ取り戻すことができた。■ゲストには、当時近鉄のコーチだった中西太さん、そして第2試合で同点本塁打を放った憎きロッテの高沢秀昭さん(笑)。中西さんは、いま齢80歳と自ら話していた。足腰が多少弱っているようにお見受けしたけれど、メリハリのある語り口は、ボクの知っている以前の中西さんとまるで変わらなかった。面白かったのは、第1試合の9回表、梨田昌孝の適時打で生還した故・鈴木貴久と抱き合いながらグラウンドを転げまわっていた理由。(写真)中西太さん、齢80歳。それは、ボクにとって最も記憶に残るシーンだ。中西さんも鈴木も感極まって抱き合いながら転げまわったものと思っていた。でも、実は違った。当時、中西さんは気管支を患い、呼吸することがつらいほど体調が悪かった。そんな最悪の体調の時、鈴木が本塁まで駆けてきた勢いで中西さんにしがみついたものだから、ただ押し倒されただけなのだ、と。一瞬会場が静まり、直後にどっと笑いが起きた。なんだよ・・・、25年も大事に温めてきた記憶は、ただそれだけのことだったのか!(笑) たぶん会場にいた多くの人がボクと同じ気持ちだったと思う。ただ、その後に「でもね、あの足の遅い鈴木がね、よくセーフになったよね」としんみりと話した下りには、いまこの世にいない鈴木のかつての雄姿を思い出し、ボクは目頭が熱くなった。 (写真)生還した鈴木貴久と抱き合う寸前の中西太さん。このあとに2人でグラウンドの上を転げまわった。右端は安達俊也。~『近鉄バファローズ大全』(洋泉社)より~■ロッテ・高沢さんもステージに登場した。拍手で迎えられた高沢さん、冒頭にこう言った。「第2試合で余計なホームランを打ってしまった私が、近鉄ファンが集まるこのイベントに出席していいのだろうかと迷いました。でも皆さんに温かく迎えてもらって嬉しく思います」この一言で、会場を埋めた近鉄ファンの心をつかみ会場がどっと沸いた。高沢さん、つかみはOK! (写真)高沢秀昭さん。続けて第2試合の8回裏、自ら打った同点本塁打について話し始めた。「打った瞬間はフェンスに当たると思い、全速力で一塁に走りました。そして打球の方向を見て、本塁打になったことを知り、『あ、入ってしまった・・・』と思いました。二塁ベースを回るとき、個人的にも親交のある大石大二朗には、心の中で『申し訳ない・・・』と語りかけました」。「やった、入ったぞ」ではない、「あ、入ってしまった」である。この時、首位打者がかかっていた高沢さんは、必死だったはずである。なのに、わずかでも後悔したような話を聞くことで、高沢さんの人柄を知ることができた。そして「首位打者争いだから、別に本塁打でなくてもよかったんです。本当はヒットでよかったんですけどね」と続け、会場の爆笑を誘った。(写真)同点の本塁打を放ち二塁ベースに向かう高沢秀昭さん。うなだれる近鉄・阿波野秀幸。ボクはこの瞬間、何が起きたかよくわからなかった。たぶん口をあんぐりと開けて打球の飛び込んだスタンドを見ていたと思う。そしてしばらく間をおいて、同点に追いつかれたことを知った。~『大阪近鉄バファローズ 伝説の野武士軍団BOOK』より~■さらに高沢さんは、お互いのベンチの状況を話してくれた。近鉄ベンチからの野次はロッテベンチに筒抜けで、その野次が逆にロッテ選手の心に火を点けたのだと。第1試合に勝利した近鉄は、その時点で圧倒的に有利だったはずである。「流れ」から言えば、第2試合はほぼ間違いなく勝てるはずだった。なのに勝ちきれなかった。それは、勝つこと、優勝することに慣れていなかった球団の、悲しいかな「性」だったのかもしれない。野次を飛ばして、相手を必要以上に刺激する必要はなかったのだ。高沢さんの話を聞き、そう思うに至った。ここまで書いて、第2試合で主審を務めた前川芳男さんが語った回想記(雑誌『近鉄バファローズ大全』(洋泉社)を思い出した。前川さん曰く、近鉄ベンチの焦りが、ロッテの闘争心に火をつけてアドバンテージを消してしまったんですよ。近鉄ベンチの焦りは嫌でも伝わってきます。6回表、ロッテの園川がカーブを投げました。ストライクです。私は自信をもって三振であることをコールしました。でも、あの試合は抗議権のない中西太コーチが喰ってかかってきましたからね。焦りは、仰木監督からも感じられました。9回の有藤監督の抗議の際に、仰木監督も出てきて「大事な試合なんだ、(時間がないから)もう、いい加減にやめてくれ」みたいなことを言ったんですよ。その時、有藤監督が言ったことをよく憶えています。「絶対に負けない!」近鉄ベンチの焦りが、モチベーションは高くなかったはずのロッテの闘争心に火をつけたように感じましたね」■今日のイベントに、ボクはzappaloesさんと行ってきた。1988年10月19日、ボクたちは川崎球場にいた。ただ、その頃は知り合いではなく、まったく別の場所にいた。彼はネット裏、ボクは三塁ベンチの真後ろ。それから25年の時を経て、また近鉄応援団のトランペットが鳴り響く同じ空間にいる。近鉄が結びつけた不思議な縁だと思う。お互いに当時は独身だったけれど、今はどちらも子供が成長して20歳前後に達している。この25年は早かったのか、長かったのか・・・。何度考えても答えは出てこないが、この間に様々な人生経験があって、そして25年後に出会う機会を作った近鉄バファローズ、そして10・19の吸引力は計り知れないほど強いものだと改めて思う。■イベントの最後にプレゼントの抽選会が行われ、ボクはこのイベントの主催者である佐野正幸さんの著書『1988年10・19の真実』(主婦の友社)が当たり、有難いことに、ご本人から直接いただくことができた。zappaloesさんは旅行宿泊券だと!最後に、佐野さんはじめ、素晴らしいイベントを企画していただいた主催者の皆様、本当にありがとうございました。感謝いたします。 (写真)前述のとおり。
2013.10.19
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前回の続き。(長嶋茂雄の引退から)明けて、昭和50年3月23日、後楽園球場において川上の、-引退試合がおこなわれた。(中略)お別れの挨拶、「37年間の巨人の生活は先輩、同輩に恵まれて大変幸せでした。しかし二度とユニフォームを着ることはありません。皆さんほんとうにありがとうございました」なんの未練も残さない淡々とした言葉であった。 (『野球百年』時事通信社より) ■この前年(昭和49年、1974年)、セ・リーグを制した中日の監督は、ウォーリー与那嶺だった。冒頭の川上哲治の挨拶に「同僚に恵まれて幸せだった」という発言があったが、与那嶺も巨人の選手時代は川上の同僚であり、よきライバルでもあった。与那嶺が来日3年目の1953年から56年までの4年間、川上、与那嶺の順で交互に首位打者のタイトルを獲得した。しかし60年オフ、与那嶺さんは志半ばで巨人からトレードで中日に放出された。力が衰えつつあったものの、巨人での現役続行を希望した与那嶺に対し、球団の対応は冷酷だった。この時、すでに球団内部では水原茂監督の更迭が決まり、次期監督選びが始まっていた。次期の監督候補筆頭だった千葉茂は近鉄に追われ、川上が就任することが既定路線だった。ならば、せめて巨人のコーチに・・・。与那嶺が願うも、結局それさえ叶わなかった。■与那嶺vs川上。現役時代から引退まで続いた2人の戦いの結末は、このように川上の勝利で終止符を打った。実は、与那嶺のコーチ就任人事を裏で潰したのは川上だったとの噂もあり、与那嶺の川上嫌いは一層増幅した。川上が人事権を握っていた証となる文章が、与那嶺の自著『野球を変えた男』にあった。川上が当時を回顧したコメントが記されている。「ウォーリーは私のことを恨んどったらしい。そのころは足が遅かったし、肩は衰え、レギュラーとして無理だった。当然、コーチにしてくれると思っていたろうが、そうはいかない。ウォーリーは日本語がうまくできんかった。今でもあまりうまくないでしょう。言葉がしっかりしていないとコーチはつとまらん。バッティングの微妙なコツを教えるのは、日本人の私だってうまくできないんです。まして、ウォーリーの日本語はさっぱりだった。だから、私はコーチとしてはまったく考えとらんかったねぇ」これに対し、与那嶺の川上嫌いの逸話がwikipediaに紹介されている。中日の選手が川上さんと呼ぶと、川上じゃない、哲と呼べと訂正させたや、川上率いる巨人との試合で劣勢になると「哲のヤロー!! チックショー!!」と叫んだり、試合前のミーティングでも「哲に負けるな!!」と片言の日本語で吠えまくっていた等々。■そして74年、巨人を去ってから14年後、与那嶺が監督就任して3年目、中日が川上監督率いる巨人の10連覇を阻止してリーグ優勝した。与那嶺は「ようやく哲に勝ったよ」とはしゃいでいたという。10月14日、長嶋茂雄の引退試合。巨人のスタメンはほぼ不動のメンバーで固めたのに対し、中日は一軍半、二軍の若手中心だった。「中日は、なんて失礼なことをするのか」と当時思ったものだが、それは同日、中日の優勝パレードが予定されていたこと、また、長嶋の引退試合の予定が直前まで箝口令が敷かれ中日サイドはそれを知らなかったこと等の事情があったことを、だいぶ後になって知った。当時は、中日が若手中心のスタメンを組んだ理由は親会社の代理戦争であると批評するムキもあったが、果たしてそれも影響したのか。また、与那嶺の川上嫌いが背景にあったのか? などと勘ぐってみたが、それは関係ないか・・・。■中日がリーグ優勝を決めたのは、同年10月12日の対大洋戦(於:中日球場)。胴上げ投手は星野仙一だった(YouTube)。そして与那嶺死去から3ヶ月後の2011年5月27日、六本木教会にて『お別れの会』が催され、楽天監督の星野も参列した。「ウォーリーは生きています。私が『ウォーリーイズム』を楽天で作っています。必ずいい地盤を築き、ウォーリーに報告したい」と挨拶し、盛大な拍手と大歓声に包まれた。いま、星野率いる楽天はロッテとパ・リーグのクライマックスシリーズのファイナルステージをロッテと戦っている。天国の与那嶺は、この楽天の戦いぶりを温かく見守っている、かもしれない。
2013.10.17
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前回の続き。昭和49年10月14日、秋晴れの後楽園球場は、-感動の嵐に包まれた。この日の巨人対中日二試合を最後に現役を去る巨人の大スター長島茂雄を一目見ておこうと押しかけた五万の大観衆がことごとく感動した。 (『野球百年』時事通信社より)■長嶋茂雄が引退した。「昭和33年、栄光の巨人軍に入団以来、今日まで17年間・・・いまここに体力の限界を知るにいたり、引退を決意いたしました。・・・私は今日ここに引退いたしますが、わが巨人軍は永久に不滅です。・・・」ボクは、その後しばらくの間、この長台詞をソラで言うことができた。なぜなら、VTRもない時代だったけれど、長嶋の引退試合をまとめた2枚組のLPレコードを買い、何度も何度も聞いているうち、自然に覚えることができた。そのLPのジャケット写真が下の写真と同じだった。ついでに言うと、(不謹慎ながら)この台詞を覚えたおかげで、歴史嫌いのボクであっても、後に赤線廃止の年をスッと記憶することができた。もちろん何の役にも立っていないけれど。 ■書籍『昭和20年11月23日のプレーボール』(鈴木明著、光人社刊)に、ボクの大好きな、こんな一文がある。 終戦直後、プロ野球復興のために小西得郎さんらの下で東奔西走した川村俊作という人がいた。日本中が空腹と飢餓に覆われていた時代、寝食を忘れてプロ野球復興に東奔西走した男だった。そして復興から30数年が経ち、プロ野球が国民的スポーツに定着した頃のある日、川村は著者(鈴木)に突然、ポツンと聞いた。「長嶋は好きですか?」僕(鈴木)はとっさに「ええ・・・」と答えた。すると川村が話し始めた。「私ね、時々夢みたいに思うことがあるんですよ、昭和20年の敗戦のときに、わたしたちが夢中でプロ野球なんて、人が気狂い扱いするようなものをやっていたときに、この日本のどこかに、まだボールを握ったこともない長嶋茂雄という少年が、たしかに存在していた。そして、その男が運命的な糸にあやつられて、いまテレビの前にいるということなんですね。神様だけがすべてをその時から知っていて、じっとそれを見てきた。それなのに、あとの人は誰も知らない。そんな妙な幻想に捕らわれることがあるんですよ。そして、長嶋という、この一人の男の夢を育てるために、何千、何万という同じようにプロ野球を目指した若者の夢が消えてゆくんです。ふしぎですね。年をとると、妙なことを考えるんですよ・・・」(以上、『・・・のプレイボール』)■長嶋茂雄は昭和11年生まれ。小西得郎や川村俊作らが終戦直後、プロ野球復興にかけずり回っていた頃、長嶋はまだ9歳だった。それがその後、野球の神様に導かれるように、野球の花形選手に成長した。いや、そもそも長島が野球というスポーツを牽引したと言うべきかもしれない。ボクはこの文章を読むたび、野球の神様は本当にいるのかもしれないと思ってしまう。 野球発展のため、それを牽引すべき最強の球団(=巨人)を創り、そして長嶋という男をこの世に産み落とし、強引に(南海でなく)巨人と長島を結びつけた。その結果、神様の思惑どおり、日本の国技と呼ばれるほどに発展したのだ。(写真)『週刊プロ野球セ・パ誕生60年』(ベースボール・マガジン社)
2013.10.15
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前回の続き。広島は阪急と戦うことになったが、広島の古葉竹識監督も、阪急の上田利治監督も同じカープ育ちであることが、別趣の興味をそそる。古葉は日鉄二瀬から33年入団して名内野手としてならし、38年盗塁王になる。カープのコーチになり、のち南海に招かれ、49年カープに戻る。上田は関大から34年に入団し、投手リードの上手な捕手として定評あり、カープのコーチになり、のち、阪急のコーチ、49年監督になる。(『野球百年』時事通信社より) ■日本シリーズは古葉竹識監督率いる広島と、上田利治監督の阪急が対戦し、4勝2分で阪急が初の日本一を決めた。この戦いは、まさに赤ヘル軍団対阪急のルーキー・山口高志の体で、広島は6試合中5試合に登板した山口の快投の前に敗れ去った。古葉と上田がかつて広島の同僚だったことは面白い。そして、ノンプロ時代に古葉と江藤愼一がチームメイトだったことも興味をそそるが、あまり知られてはいない。wikipediaによると、そもそも古葉はプロ球界から注目された選手ではなかった。1957年12月、古葉の日鉄二瀬時代、同僚の江藤愼一の入団交渉に来ていた広島カープの白石勝巳監督に対し、日鉄二瀬の濃人渉監督が古葉を売り込み、古葉は広島へ入団する運びとなった。江藤愼一は、言わずと知れた「ON全盛時代」に2年連続で三冠王を獲った凄い打者だったし、巨人や中日で活躍した江藤省三(現・慶応義塾大監督)の実兄でもある。そしてその後、どういう縁なのか、古葉は大学野球界に転身後、愼一の弟・江藤省三と「監督対決」をすることになる。■それは2011年の全日本大学野球選手権・準決勝だった。古葉は東京国際大監督、江藤は慶應義塾大監督として対戦した。結果、古葉は江藤の弟・省三に勝利を譲る格好になった。(6月11日、準決勝)慶應義塾 020 002 002 =6東京国際 103 000 000 =4(慶)竹内-山形-福谷、(東)伊藤-鈴木-岩崎-藤井以下、この試合の模様をスポーツ報知より。プロ出身監督同士の対決は、巨人などでコーチを歴任した江藤監督の慶大(東京六大学)が、広島を日本一に3度導いた古葉監督率いる初出場の東京国際大(東京新大学)に6-4で競り勝った。古葉監督が指揮する初出場の東京国際大、快進撃は決勝目前で止まったが一塁側の応援席から「古葉さーん、ありがとう」の声が飛んだ。3点を入れた3回は2人のバント安打、ヒットエンドランを成功させた。勝ち越しを狙った8回の無死一塁では二盗だ。プロ野球で日本一3度の名将は「バント安打は人工芝の特徴を生かしたし、二盗は慶大守備陣を見ての判断」と全てサイン通りに選手が動いたことを明かした。2番手の鈴木は今大会初登板とは思えない投球だった。それでも古葉監督は「でもね、勝ってなんぼです。珍しい内野の失策、ミスが出て足を引っ張った。勝ちたい、いいプレーをしようという気持ちが強すぎた。いつものプレーをしないといけないんですよ」と振り返った。就任4年目で全国4強、「秋にもう一度、神宮に来たい」届かなかった日本一へ課題が残った。 ■ちなみに、東京国際大コーチの息子・古葉隆明は慶應OBで、江藤省三の後輩でもある。広島城北高卒業後、二浪して慶應大に進学して野球部に入部した。当時はほかの2人の選手とあわせ「二浪三羽烏」の異名を取り、92年秋季リーグ戦は、外野手として東京6大学リーグのベスト9に選ばれた。その当時、ライバルの早稲田大には仁志敏久がいた。 (YouTube)古葉・広島カープのセ・リーグ初優勝
2013.10.14
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■一昨日(10月12日)、早稲田大対立教大1回戦を観戦した。今季、勢いに乗る立教に対し、早稲田がどう挑むか? それがボクの注目点だった。先に結論を言うと、早稲田は先発・有原航平(3年、広陵高)を立ててまずまずの好投をみせ、救援した横山貴明(4年、聖光学院高)が好投し立教打線を封じた。特に横山が出来がよく終始「流れ」を放すことなく、運も味方につけて勝利を掴んだ。立教は肝心な場面で凡ミスが出て、試合の主導権を握ることができなかった。 ■有原の序盤の投球は素晴らしかった。テンポよく投げ込む速球は大半が150km台前半。立教打線を軽くひねって、3回までに6三振を奪った。でもその後は若干フラフラ。4回は2連打で無死一・二塁のピンチを迎え、牽制で二塁走者を刺してピンチを脱するも、6回、二死二塁の場面で5番・我如古盛次(3年、興南高)に適時打を浴びて失点。直後に横山にマウンドを譲った。(我如古の打球はショートの緩慢なプレーに見えたから、マウンドを降りるとき、有原は少し不満げな表情だった・・・)先日、テレビで小宮山悟さんが「これまでの有原の成績はまだまだ。この程度で終わる投手じゃない」と叱咤激励していたが、小宮山さんに、一昨日の有原の投球はどう見えたか? (写真)早稲田の先発、有原航平。■早稲田の最大の勝因は、気迫溢れる横山の好投にあった。140km台の速球にh変化球(主にチェンジアップ、そしてスライダーだったらしい)を絡ませ、立教打線を封じた。3回1/3、打者12、被安打2、奪三振2、与四死球2、失点0。横山はプロ志望届を提出済。 (写真)好救援した早稲田・横山貴明。■早稲田は2投手のリレーにより最少失点で凌ぎ、打撃陣は初回から立教・澤田圭佑(1年、大阪桐蔭高)を攻めたてた。1番・中澤彰太(1年、静岡高)が右前安打で出塁すると、送りバント等で二死二塁のチャンスをつかむ。ここで4番・小野田俊介(4年、早稲田実)はライトに飛球を打ち上げた。イージーフライと思ったが、打球と日差しが重なったのだろう、ライトが目測を誤り、手前にポトリと落ちる適時打になった。そして5番・武藤風行(3年、金沢泉丘高)が中前に適時打を放ち、早稲田は2点目を挙げた。この打球も詰まった当たりで、澤田圭にとっては不運というしかないが、3回、中澤の一打は澤田圭の球を完璧にとらえた。決してパワーがあると思えない中澤だが、ライトスタンドに飛び込む本塁打を放ち、3点目を奪った。さらに5回、早く立教の息の根を止めたい早稲田は、安打と敵失で得た一死一・三塁の場面でスクイズを敢行した。だが、これを立教バッテリーに外され(ファール)、結局、打者の土屋遼太(3年、早稲田実)が内野フライに倒れ、追加点を奪えなかった。 (写真)スクイズを外されファールに逃れる土屋遼太。捕手は平本龍太郎。【翌10月13日、立教大対早稲田大2回戦のこと】早稲田が先勝後の2回戦は、立教がスコア4-2で勝利した。8回、早稲田を突き放す佐藤拓也(1年、浦和学院高)のソロ本塁打が大きかった。 (写真)対早稲田2回戦で本塁打を放った佐藤拓也。~対早稲田1回戦より~
2013.10.13
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先ほど書いたとおり、昨日は月島で開催された東京野球ブックフェアに行ってきた。昭和20年代野球倶楽部のメンバーの皆さんも多数お見えになっていたけれど、全員の方にきちんと挨拶できなかったのが残念。さて、昨日のボクの戦果はこの3冊。(1)『週刊プロ野球セ・パ誕生60年 1974年長嶋茂雄、引退』(ベースボール・マガジン社)これを250円で購入。同シリーズは何冊か持っているけれど、この創刊号が手元になかった。 (2)『プロ野球ドラフト史1999年度版』(ベースボール・マガジン社)これは500円。ネットでいちいち検索するのが面倒になっていたので、一覧で見られる雑誌が手元にあるとありがたい。1974年、近鉄は1位で山口高志を指名できたはずなのに、なぜか素通りして阪急が山口を奪った。その記事を読み、当時の出来事を思い出した。なぜ、近鉄は山口を指名しなかったんだっけ? よく憶えていない・・・今度、調べてみよう。(3)『鈴木龍二回顧録』(ベースボール・マガジン社)鈴木龍二さんについては特に説明の必要はないだろう。ボクはこれまで、この書籍を図書館で何度か借りて、必要なところだけ読んで返却を繰り返していた。この書籍が家にあればいいなぁ、と思っていた矢先、ブックフェアで見つけることができた。戦前・戦後、そして2リーグ制移行にまつわるエピソードをゆっくり読んでみたい。定価が3,500円(昭和55年発刊)のものを1,500円で購入した。安い! 古本の値付けは本当にわからない。買った後だから言うけど、ボクは倍の値段でも買ったぞ(笑)今日の一番の戦利品は、間違いなくこれだ。
2013.10.13
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本日、『東京野球ブックフェア』に行ったところ、『「10・19」25周年トーク&ライブ~近鉄バファローズの一番長かった日~』の開催を告知したチラシが配布されていました(写真)。このブログに何度も書きましたが、あの伝説の試合「10・19」をボクは川崎球場で見ていました。そして近鉄は負けなかったけれど、優勝できませんでした。羽田が併殺打に倒れた直後、あまりに悔しくて、第2試合の10回裏を見ずにボクは川崎球場を後にしました。優勝がなくなっても守備につかなければならいナインの姿を見ることができませんでした。あれから、25年が経ちました。まさか、こんなイベントが開かれるなんて夢にも思っていませんでした。主催は元近鉄バファローズ東京応援団の方、そして佐野正幸さんが協力されているそうです。次第にあの時の記憶が薄れ始めている今、とても嬉しい企画です。すでにご存じの方もいらっしゃると思いますが、念のため、このイベントを『あま野球日記』でもご紹介します。開催日が迫っていますので、リンクでもなんでも結構です。お知り合いに近鉄ファンの方がいらしたら、ぜひ教えてあげてください。第1部は、中西太さんや高澤秀昭さんがゲスト出演されるそうです。<申し込み方法> 第1部、第2部の2部構成。■第1部の申し込み方法は、3種類あります。予約フォームからの申し込み:https://form.os7.biz/f/47a9f4d5Facebook:https://www.facebook.com/1019KAWASAKIe-mail:kintetsu1019_25@yahoo.co.jp※名前、年齢、性別の記入、必須。※問い合わせもこのアドレスへ。■第2部の申し込みは、ローソンチケット(Lコード:36696)ほかに、ネイキッドロフト<概要>日時:2013年10月19日(土) 第1部:13:30~15:30、第2部:18:30~場所:第1部 パセラリゾーツ新宿本店6階 GRACE BALI (新宿区歌舞伎町1‐3‐16) 第2部:ネイキッドロフト (新宿区百人町1-5-1 百人町ビル1階) 料金:第1部 6,000円 第2部 (前売)2,000円 (当日)2,300円【詳細はこちらをご参照ください】
2013.10.13
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前回の続き。シーズン終わり近く、「落ちた偶像」長嶋に代わって、マスコミの人気を一手にさらったのが、広島東洋カープすなわち、監督古葉竹識ひきいる、赤ヘル軍団であった。(『野球百年』時事通信社より) ■今回も1975年のこと。広島がセ・リーグ初優勝を決めたのは10月15日、対巨人戦だった。5回、長嶋清幸と大下剛史の二塁打で1点を先制。その後、外木場義郎と金城基泰のリレーで最少得点を守り抜き、9回、ホプキンスの3点本塁打で巨人を突き放した。この優勝を決めた10月15日の試合、サイト『スタメンアーカイブ』によると、広島のスタメンは以下のとおり。1(4)大下剛史2(6)三村敏之3(3)ホプキンス4(8)山本浩二5(5)衣笠祥雄6(9)シェーン7(7)水谷実雄 8(2)道原博幸9(1)外木場義郎監督はもちろん古葉竹識だった。■現在、古葉は東京新大学リーグに所属する東京国際大の監督である。数年前、ボクは東京新大学リーグをよく観戦した。当時、リーグの実力No1は創価大、それに続くのは流通経済大で、古葉が監督に就任以前の東京国際大はさほど強くなかった。今でこそ東京国際大を陰ながら応援しているものの、当時、ボクが注目していた選手は流通経済大の神戸拓光(現・ロッテ)だった。ある野球評論家の方から「パワーは日本人離れしていて、守備もうまい」と聞いていたので、ぜひ神戸を見たいと思い足繁く球場に通った。確かに打力は非凡だった。あっけなく凡退を繰り返しても、ツボにはまれば150m弾(ボクの推定)をかっ飛ばした。NPBにバリバリのメジャーリーガーが現れた・・・東京新大学リーグにおける神戸は、まさにそのような存在だった(でも、守備はうまくなかった)。■いま、神戸のツイッターが物議を醸している。神戸が書いた内容は批判されて当然である。ただ当時、スタンドからは神戸という大学生選手が好青年に見えた。東京新大学リーグは試合前、試合中、試合後のトンボ掛けは必ず選手たちが行う。主将だった神戸も例外でなく、率先してトンボ掛けをしていた。ある日、試合終了後に、いつものように神戸はマウンド付近でトンボ掛けをしていた。まばらな人数の観客たちが球場を後にする姿を見つけると、彼はネット裏に向かって深々と頭を下げていた。頭を下げた先には、知り合いがいただけなのかもしれないが、この時、ボクは神戸に好感をもった。以来、神戸拓光の名を聞くたび、ボクはあの時の彼の姿と、日暮れ間近の夕陽を思い出す。
2013.10.11
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■ムーンライト・グラハムとは、映画『フィールド・オブ・ドリームス』に登場しメジャーでは1試合に出場したものの、一度も打席に立つことなく現役を終えた実在の選手のこと(引退後は医者に転じた)。彼について、wikipediaはこう記していた。「W・P・キンセラが、ベースボール・エンサイクロペディアの中から偶然グラハムの特異な経歴を見つけ出し、そのエピソードを著書『シューレス・ジョー』に掲載したことから、映画『フィールド・オブ・ドリームス』として劇場公開され、グラハムの経歴が広く知れ渡ることとなった」。■ボクは歴代1軍出場選手539人のデータが収録された『近鉄バファローズ大全』(洋泉社)を見ながら「1試合に出場したものの、一度も打席に立つことのなかった」いわゆるムーンライト・グラハムを調べ始めた。すると該当する選手が11人見つかった。その人たちはどんな選手だったか、そして彼らが近鉄バファローズに在籍した当時、近鉄はどんなチームだったかを、このブログにまとめている。そして今回は吉田好太さん。北村さんが近鉄に在籍したのは、1999年(平成11年)から2001年の3年間。通算成績は出場試合数「1」、打数は「0」(四死球、犠打はなし)。ポジションは二塁手・遊撃手、背番号91。神奈川・桐蔭学園高出身。高校卒業後、米国にわたりアスレチックスのアリゾナリーグ・アスレチックスでプレーし、98年のドラフトで近鉄から8位指名を受け入団した。身長175cm、体重73kg。右投げ両打ち。1977年生まれ(現在35歳)。桐蔭学園高時代、94年、95年のセンバツに三塁手として出場したが、いずれも初戦敗退した。■吉田さんがドラフトで近鉄から指名を受けた98年は、横浜高・松坂大輔を何球団が重複指名するか、そして松坂をどの球団が引き当てるかが大いに話題になった年だった。そして西武、日本ハム、横浜が競合し、結局、松坂を引き当てたのは西武だった。松坂の横浜高時代の同期で、先ごろ現役引退を発表した小池正晃もこの時、横浜から6位指名を受け入団した。同じ時、近鉄は1位が宇高伸次、2位が藤井彰人と、近畿大バッテリーをセットで指名した。佐々木恭介監督が近畿大OBだったため、その縁故入団だとか、近鉄は宇高だけ欲しかったが近大から注文がつき藤井もセットで指名したと噂を聞くこともあった。もちろん真相はわからないが、未だ現役を続ける「近鉄(らしい)顔」の藤井を見るたび、ボクは嬉しくなる。さて、近鉄にドラフト8位で入団した吉田さんは俊足好打の二塁手、遊撃手として期待されたと推察する。しかし、この頃、近鉄の二遊間には水口栄二、武藤孝司、前田忠節、吉田剛らがおり、吉田さんの前に立ちはだかった。悲しいかな、結局、唯一出場した試合は、2000年8月19日の対オリックス戦だった。8回表に鷹野史寿の代走として初めてグラウンドに立った。吉田さんが代走で出たのは一塁だったろうか。ならば、この時、オリックスのファーストは藤井康雄だった。二塁に代走として出ていたなら、セカンドは小川博文、ショートは塩崎真。吉田さんの足を警戒して頻繁に牽制する小川や塩崎を見て、もし守備に自信があったなら「ちくしょう、俺もそれがやりたいな・・・」と思ったかもしれない。■吉田さんが在籍した3年間において、近鉄の最大のニュースは2001年9月26日の北川博敏が放った逆転サヨナラ満塁本塁打だろう。この一発で、近鉄は4度目のパ・リーグ優勝を決めた。この瞬間をボクは自宅のテレビで観ていた。もちろん嬉しかったし、それなりに興奮した。でも中村紀洋やタフィ・ローズがどんどん「お山の大将」になっていくように見えて、彼らが活躍する頻度が増すたび、それに反比例してボクの近鉄熱は次第に下降し始めていった。吉田さんはこの瞬間を見届けたはずだが、シーズン終了後に近鉄を去った。そして新天地を横浜ベイスターズに求めたが、その1年後に現役を引退した。
2013.10.09
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■今日(10月6日)は秋季埼玉県大会・準決勝を観戦した。第一試合は花咲徳栄高vs本庄第一高。この試合で勝利したチームには関東大会出場権が与えられ、来春のセンバツへと夢がつながる。負けたら、その瞬間にセンバツ出場の夢が泡と消える。だから選手も必死である。東都大学リーグの入替戦ほどではないにしても一定の緊張感を味わえる。秋季大会は決勝よりも準決勝が面白い。観る価値があるのだ。 ■試合は、花咲徳栄・井上祐太が本庄一打線から12三振を奪う好投を見せて完封勝利した。被安打6、四死球0、失点0。ピンチは5回と9回にあった。特に9回は3連打を浴びて一死満塁のピンチを作ったが、後続の打者を三振と内野ゴロに抑え、見事にチームを関東大会へ導いた。(写真)花咲徳栄・井上祐太。■「打」は、3回に相手投手のワイルドピッチで1点を先制すると、3回に一死満塁から押し出し死球を得て2点目。さらに4番・田中がセンター左に犠飛を打ち上げて3点目を挙げた。(写真)5回、一死満塁で4番・田中がセンターに犠飛を放つ ■一方の本庄一。打たれた安打数はたった5本である。肝心な場面でミスが出て無駄な得点を献上したことが最後まで響いた。残念ながら、ボクが注目する4番・町田椋に快音はなかった。夏の大会の発表データは192cm、96kgだったが、それよりもさらに大きくなっているように見えた。バットの芯でとらえれば、球がどこまでも飛びそうな身体である。一度でいいから、果てしなく飛ぶ町田の飛球を見てみたいものだ。※なお、続く第2試合は市立川越高が春日部共栄高を1-0で破り、関東大会出場を決めた。 (写真)本庄一・町田椋。今日は一本安打を放ったものの会心の当たりではなかった
2013.10.06
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昭和49年10月14日の感動の場面以来、長島はマスコミ界に旋風を巻き起こしつつ新監督の道を歩いた。スポーツ紙、週刊誌、単行本のすべてが「長島もの」なしでは夜も昼も明けぬ狂乱時代に突入した。しかし、それとは、うらはらに背番号90の行く手は苦難に満ちたものであった。 (『野球百年』時事通信社より)■1974年(昭和49年)10月14日、長嶋茂雄が中日戦を最後に現役を引退した(38歳)。ボクは祖母と一緒に引退試合を自宅のテレビで見ていた。元々巨人ファンだったものの、いつの頃からか徐々に巨人への興味がフェイドアウトした。常勝軍団とかいう言葉が、実はたんに「やりたい放題」球団と同義語ではなかろうか、そんな考えが頭の中にもたげ始めたからだ。そんなわけで、この頃には完璧なアンチ巨人に変貌を遂げていたボクは、長嶋茂雄の引退に涙を流しつつも、翌75年の巨人の惨状(球団史上初の最下位)には心躍らせたものだった。特に「ジョン損」ことデーブ・ジョンソンの不振は痛快だった。しかも、ボクが好きだった黒江透修の背番号「5」をつけていたから、ジョンソンに対しての憎悪は一層強いものだった(苦笑)そのため、当時、ボクのプロ野球・セリーグの見方は、長嶋は好きだけれど、巨人は負けろ! の一念だった。■同75年の近鉄バファローズは、前年から西本幸雄監督が指揮を執り、上昇気流に乗り始めていた。後期には念願の初優勝を飾り、プレーオフで阪急に敗れるも(1勝3敗)、その後の「江夏の21球」「10・19」につながる、近鉄の、ある意味で黎明期だったと思う。大和球士さんは「どうも近鉄の監督西本は一本勝負に弱い。大毎監督時代に1回、阪急監督時代に5回、長期リーグ戦には優勝したものの、一本勝負的な日本選手権には勝ったことがなく、いままた・・・」と書いている。その指摘どおり、実際に最後まで西本さんが勝つことはなかった・・・。個人成績では鈴木啓示が勝率第1位、またベストナインには鈴木啓示と佐々木恭介、ダイヤモンドグラブ賞に有田修三が選出された。■同年の東京六大学野球は、春秋ともに明治大が優勝した。法政は「花の昭和49年組」の二年目で戦力に勝っていたもののチームワークを欠き、エース・江川卓をもってしても優勝できなかった。『東京六大学野球80年野球史』(ベースボール・マガジン社)によると、法明戦3試合はそれぞれ3万5000人、4万8000人、4万人の大観衆を集めたという。今の閑散とした神宮からは想像できない観客数である。また11月18日、東京六大学野球連盟50周年記念試合として、プロ野球在籍の六大学OBによる紅白戦が行われ、荒川博監督(早稲田OB)率いる白軍が西本幸雄監督(立教OB)率いる紅軍に5対4でサヨナラ勝ちした。■同年の甲子園は、高知高が原辰徳を擁した東海大相模高を破り優勝。この試合は、ボクが初めてスコアブックをつけながらテレビ観戦した試合だった。そして夏を制したのは習志野高、決勝で新居浜商高にサヨナラ勝ちした。この時、習志野高のエースは小川淳司。現・ヤクルト監督である。■同年、世界ではベトナム戦争が終結し、南ベトナムが崩壊した。また国内では沖縄海洋万博に沸き、ボクが学生時代にバイトした日刊ゲンダイが創刊されたのもこの年。「JJ」(光文社)や、愛読した「ビックリハウス」もこの年に創刊された。「アンタ、あの娘のなんなのさ」が流行語になり、歌謡界では「さらばハイセイコー」「年下の男の子」「わがよき友よ」がヒットした。同年生まれのプロ野球選手には、松井稼頭央、 上原浩治、高橋由伸らがいる。■「近鉄のムーンライト・グラハムに会いに行きたい」などといったものを書きながら、じっくり野球史の書物を読みたいと思うようになり、『野球百年』(大和球士著、時事通信社)を読みつつ、頭に浮かんだ事柄を年表にまとめる如く、このブログに書くことにしました。この書物は資料を含め全700頁余に及ぶ大作で、日本に野球が伝えられた頃から1975年まで、事細かに記されたものです。当然、明治時代から順番に書く方法もありますが、たぶんそれでは早く飽きがくる懸念があり、最後の1975年から逆に時代を遡って書くことにしました。そのほうが面白そうだ、と。いつになったらホーレス・ウィルソンに辿り着か分かりませんが、よろしければ、お時間のある時にお付き合いください。テーマは「プロ野球」「近鉄」「大学野球(東京六大学)」「高校野球」「社会・世相」に区分してまとめていきます。
2013.10.05
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前回の続き。■ムーンライト・グラハムとは、映画『フィールド・オブ・ドリームス』に登場しメジャーでは1試合に出場したものの、一度も打席に立つことなく現役を終えた実在の選手のこと(引退後は医者に転じた)。彼について、wikipediaはこう記していた。「W・P・キンセラが、ベースボール・エンサイクロペディアの中から偶然グラハムの特異な経歴を見つけ出し、そのエピソードを著書『シューレス・ジョー』に掲載したことから、映画『フィールド・オブ・ドリームス』として劇場公開され、グラハムの経歴が広く知れ渡ることとなった」。■ボクは歴代1軍出場選手539人のデータが収録された『近鉄バファローズ大全』(洋泉社)を見ながら「1試合に出場したものの、一度も打席に立つことのなかった」いわゆるムーンライト・グラハムを調べ始めた。すると該当する選手が11人見つかった。その人たちはどんな選手だったか、そして彼らが近鉄バファローズに在籍した当時、近鉄はどんなチームだったかを、このブログにまとめている。そして今回は北村俊介さん。北村さんが近鉄に在籍したのは、1996年(平成8年)から97年の2年間。通算成績は出場試合数「1」、打数は「0」(四死球、犠打はなし)。ポジションは内野手、背番号35。京都・大谷高出身。1996年3月、トレードで中日から近鉄に移籍した。身長174cm、体重70kg。右投げ左打ち。1967年生まれ(現在46歳)。大谷高時代、甲子園出場経験はない。ただ、北村さんはこれまで取り上げた8名の方とは少々事情が異なる。調べてみると1986年に中日にテスト入団し、中日在籍時は50試合に出場、計21安打を放っている。だから、ボクがムーンライト・グラハムと呼ぶのは、近鉄に在籍した2年間においてのみ、とあらかじめお断りしておく。■1985年、北村さんの高校最後の夏、京都を制したのは花園高。その花園高は甲子園の初戦で、小倉全由監督(現・日大三高)率いる関東一高と対戦し、スコア1-12で敗退した。ちなみにこの大会の優勝は、桑田真澄、清原和博を擁したPL学園高。北村さんは高校卒業後、1987年に中日にテスト入団した。初出場は89年9月10日のヤクルト戦(ナゴヤ球場)。大宮龍男の代走として初めて一軍のグラウンドに立った。そして初打席は、その3日後の9月13日、鈴木康友の代打で出場した(2打数0安打)。その後、95年には50試合に出場し79回打席に立った。安打数は16。おもなポジションはセカンドとサードだった。当時、セカンドには立浪和義、サードには仁村徹、そして近鉄から移籍した金村義明らスター選手が立ちはだかるも、その間隙をぬって出場を果たし、このシーズンを最後に96年3月、近鉄に移籍した。■96年3月に移籍と書いたが、3月のトレードというのは微妙だ。すでにキャンプを終えてオープン戦の真っ最中。そろそろ開幕という時期である。どんな事情があったか不明だが、北村さんが近鉄に在籍した96~97年前後は、近鉄にさまざまな動きがあった。まず95年1月、野茂英雄が任意引退選手となり、米国に渡った。同年8月、鈴木啓示監督が休養し、水谷実雄ヘッド兼打撃コーチが監督代行として指揮を執る。そして2か月後の10月、佐々木恭介が新監督に就任した。97年3月、大阪ドームが完成し、観客動員数は球団新記録となる186万6000人達した。チ―ムも3年ぶりにAクラスに返り咲く。また小池秀郎が最多勝利(15勝)、赤堀元之が最優秀救援投手賞(33SP)を獲得、ベストナインにはクラーク、ローズの両外国人選手が選ばれた。■また忘れられないのは95年秋のドラフト。就任直後に佐々木監督がPL学園の福留孝介を引き当て「よっしゃ―」と叫びニュースになった(結局、福留は入団拒否。日本生命へ)。ちなみにこの時、近鉄は福留(1位)のほか、関西大の岡本晃(2位)、創価大・武藤孝司(3位)、日南学園高・平下晃司(5位)を指名した。北村さん獲得の目的は、福留を逃したその補充要員としてか? そう思わないと、武藤と北村さんは同じタイプの選手であるため、武藤を獲得後に北村さんをわざわざ中日から獲得した説明がつかないように思うが。 ■さて、北村さんは近鉄在籍時、1試合だけ出場した。それは1996年であることはわかったが、WEBサイト『スタメンデータベース』をもってしても、出場した試合を特定することはできなかった。残念だけど、同年開幕戦のスタメンを記載して、この項を終わることにする。1 大村直之(8)2 大石大二郎(4)3 C・D(DH)4 石井浩郎(3)5 ローズ(7)6 鈴木貴久(9)7 中村紀洋(5)8 古久保健二(2)9 吉田剛(6)P 高村祐■ブログをアップした直後、たばともさんから連絡をいただき、北村さんが近鉄で唯一出場した試合が1996年3月31日の開幕第2戦であることがわかりました。CDの代走で出場したそうです。なお、その時のスタメンは「P アキーノ」以外、上記と変わりなしです。たばともさん、ありがとうございました! (写真)近鉄時代の野茂英雄。~『近鉄バファローズ大全』(洋泉社)より~
2013.10.05
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