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五木寛之さんは、弟さんが亡くなられてからしばらくの間、文章が書けなくなってしまった。そこで新しいノートを買って来て、どんなちっぽけなことでもいいから、その日嬉しいと感じたことを書き留めるようにしたところ、毎日の些細なことに喜びを感じるようになり、気力を取り戻したそうです。このエピソードを拙著『いい話のおすそわけ』(三笠書房)で紹介したところ、長野県のご婦人からお手紙を戴きました。息子のことで悩んでいましたが、私も正月から『喜びノート』を作って、身近に感じた楽しいこと、嬉しいことを書き始めました。一週間を過ぎた頃、不思議な力を発揮しだしました。毎日、楽しいこと、嬉しいことを書いていると、自然に「ありがとう」の言葉を書きたくなるのです。楽しいこと、嬉しいことが有り難く思えて、感謝の気持ちに変わるのが不思議でした。神々しい日の出、家の前を流れる清らかな千曲川の流れ、四方の山々の雄大さ、青く高く静けさに満ちている空、夜空には無数の星の輝き、電話の孫の声、今までは当たり前と思っていたことが、有り難いと思えるようになりました。「私の小さな悩みなんて大したことはない。な~んだこれしきのことで悩んだりして」と、大きな気持ちになることができました。(こういう事を書いても、実行されない方が99.9%ですが)
2014.02.28
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何気ない日々の生活の中に小恍惚を見出せる人は、幸せな人であり、どんな状況の中でも生き甲斐のある楽しい人生を送れます。「よく見れば なずな花咲く 垣根かな」と芭蕉は詠み、江戸末期の歌人、橘曙覧は「楽しみは 朝起きいでて 昨日まで なかりし花の 咲ける見るとき」と詠んでいます。好奇心もなく漫然と生きていては、そんなものはつい見逃してしまいます。小さな何気ないものに心を向け、楽しみたいものです。本当に心豊かな幸せとは、日常のささやかな生活の中の小さな喜びを拾い集め、育んでいくところにあるような気がします。青空があり、風が吹き、雲が流れ、花が咲き、川がサラサラと流れ、海が光る。難しいパズルやゲームをクリアする。小説や趣味に没頭して時間を忘れる・・・。そういう喜びを当たり前のこととして見過ごしてしまい、何も感じられなくなったらおしまいです。幸せは、決してある朝突然に大きな足音を立てて近づいてくるものではありません。幸せの青い鳥は、あなたの心の中に棲んでいます。ふだん何気なく見過ごしている小さな幸せを見逃さないで、自らの努力で大きく育てていくことです。それが、幸せをより大きなものへと育んでいくコツです。
2014.02.27
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感動するとき、命のリズムがよみがえり、命がイキイキとしてきます。感動する素直な心が、人や生き物、自然に対して優しく振る舞う心を支えるもとであり、そうした優しい心を持つことが人から愛される根本です。感動を伝播させて人を感動させることができれば、人はあなたのために喜んで手を貸してくれます。部下は喜んで一生懸命に働き、成長していき、あなたを助けてくれます。子供は自分の才能を自然と開花させ、イキイキとしてきます。感動というと、私たちはとかく何か特別なことがないと無理だと思いがちだが、そもそもこの世の中に、大きな喜びに浸れるような機会など滅多にありません。大きな喜びばかりを求めていると、絶えず不満ばかり抱いて生きることになりがちです。特別な何かを求めるのではなく、普段何気なく見過ごしているものの中に感動の種を見つけることです。いつもフレッシュな気持ちで、何事にも好奇心を忘れずに関心を持って見ることです。すると、人生のいたるところで、小さなことにうっとりとする小恍惚を見出せます。美しい花や星、風景や絵、音楽、心のこもった料理、こうしたものも、関心を向ければ、「美しい」「素晴らしい」「美味しい」と素直に感動することができます。
2014.02.26
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どんな小さなことでも、心の持ち方一つで生き甲斐や楽しみが生まれます。目の前のことに明るい心の光を投げかけ、温かい心の潤いを注ぎかけることです。考え込んだり後ろ向きになったりして、縮こまりがちな心を解放してあげることです。できるだけ明るい面、良い面だけを見て、日々を明るく生きていくことが大切です。光の当たらない掌は暗く見えるが、掌を返せば明るく見えるようになります。元々暗いのではなく、光が当たらないだけのことです。明るく暮らすには、身の回りに小さな喜びの種を見つけて、それを大きく育てることです。揺り籠を揺すってやると、赤ちゃんはうれしそうにニコッと笑います。それと同じで、あなたが少しでも何か楽しい気分になれることを見つけたら、揺り籠を揺するように、優しく揺すってやることです。するとその喜びがだんだんと大きくなってきて、とても楽しい気分になってきます。私たちに必要なのは、目の前にある障害を乗り越えることです。心配症の人は、失敗例を集めるのと同じ熱心さで成功例を集めてみることです。この世には、暗い話や失敗例と同じくらい明るい話や成功例があり、きっと明るい未来が開けてくるはずです。
2014.02.25
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「人の大いに恐れることは、必ずついに襲い来る」と哲学者ベーコンは言ったが、私たちは自分の心が創り出した感情のるつぼの中で、不安になり、悶え、喘ぎ、怒っています。でも、心配すれば物事がうまく運んで良い結果が出るわけではなく、むしろ逆に心配した通りになりがちです。心配症の人は、実によく失敗例を知っていて、すぐに「できない理由」や「失敗した例」を数え上げます。そして、及び腰になって現実から逃避し、どうしたら巧くいくかを考えようとはしません。何事もネガティブに見る人は、不平不満という角度からしか物事が見えないのだと思います。でも、恨み、妬み、愚痴、後ろ向きの言葉からは何も生まれず、何事も解決しないと思います。一方、どんな逆境の時でも、楽しそうに明るく振る舞い、乗り切っていく人もいます。そういう人は、心が明るく、どんなことの中にも光の当たる面を見ることができる人です。探せば、失敗例に負けないほどの成功例もあるはず、そこに目を向けることです。明るさは、人間を前向きにします。楽しい状態の時は、「よしやってやるぞ」というやる気が生まれます。その「気」が伝播して周りを明るくし、人も集まってきて物事もうまく回りだします。
2014.02.24
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人生の一大事と感じられることも、もし自分が明日死んだら何ほどのことがあるかを想像してみてください。生きていること、それだけで十分と思えてくるはずです。ふだん空気のように当たり前に感じていること、例えば健康でいられること、家族が毎日食卓を囲めること、月末にはきちんとお金が入ってくること、これらが当たり前でなくなったときは大変です。肩こりや腰の痛みだけでも大変な苦痛だし、家族が病気や怪我をしたら心配でたまりません。仕事がなく、毎月のお金をどうしようと思い始めたら寝てもいられなくなります。毎日をイライラ、クヨクヨせずに過ごすには、当たり前に生活できる素晴らしさに気付き、当たり前の「今」に感謝する生き方を貫くことです。そう思うところからスタートすると、大抵のものに感謝することができるはずです。そんな感謝の気持ちが心の中にあれば、どんな不如意も乗り切れるはずです。お辞儀婆さんと呼ばれていたご婦人は、「どんなものにも存在する理由があり、路傍の小石にも、夜空に輝く星にだって、私たちがその理由を知らないだけで何かの役に立っているはず。だから自然と頭が下がってしまうんです」と言って、何にでもお辞儀をして過ごし、90歳で大往生を遂げました。
2014.02.23
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人生を明るく楽しく生きていくには、どんなにひどい状況の中でも、何かしら良いこと楽しいことを見つけ出し、希望を見いだしていくポジティブな思考が大切です。雨や雪が降っていると、つい、「いやだな」という思いがわいてきて、「うっとうしいな、早く上がらないかな」と考えてしまいます。でも、いくら考えたところで、雨や雪が降っているという現実は変わりません。旦那が多額の借金を残して蒸発し、借金を返済しながら三人の子供を女手一つで育てるために、鹿児島から京都に出てきて昼間も夜も年中無休で働き詰めの女性は、「雨が降って嬉しいな」、「素敵、雪見酒をやりましょうよ」といつも現実を肯定して受け入れ、どんな状況のときも明るく前向きです。そうやって現実を肯定的に受け入れてみると、雨に洗われて艶々とした木々の葉っぱや、生き返ったように元気な草花たち、ふだんとは趣の違う素晴らしい雪景色が見えてきます。ときには、から傘をさしてパラパラという雨の音を楽しんでみると浮き浮きしてきます。私たちは、晴れた日がよくて、雨や雪の日が悪いと考えがちだが、雨の日には晴れた日とはまた違った良さだってあります。そこに目をやることです。
2014.02.22
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私たちは、自分の心の中に赤鬼(貪欲)青鬼(嫉妬)、黄鬼(愚痴)という三匹の鬼を飼っていて、これが楽しく生きることを邪魔します。この鬼を追い出すには、不如意(思うようにならないこと)を楽しむ心を持つことです。日本の伝統的な思想に、千利休や松尾芭蕉に代表される「わび・さび」があります。これは、不如意な時に、そのことを苦痛と感じないで、「あるがまま」を「そのまま」に肯定して、焦らず、イライラせず、乗り越えていく心だそうです。私たちは、何事においても、いつも一番いい状態でいたいと願います。でも現実は、一生ずっといい状態でいけることはなく、突然、不如意なことが起きます。そういう時に、どういうふうに心を整理して強く生きていけるかです。過去の栄光や良い時と比べたり、他人を基準にして考えたりすると苦しくなります。そんな時、生きているだけで楽しいという知足の精神というか、「月も雲間のなきは嫌にて候」の精神で生きていけば、人生はいつも楽しいはずです。そうは言っても、歳を取り、身体も無理が利かなくなり、病気になれば焦るのが人間です。しかし、一寸先は闇でいつ死ぬかもしれない儚い命と諦め、そろそろ三匹の鬼を心の中から追い出して、のんびりと人生を楽しみませんか?
2014.02.21
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『西行花伝』(辻邦生著)の一節に、源重実が佐藤義清(後の西行)に「何かをしようとする人は、その目的を達しようとする。大事なのは目的を達することだ。その目的を達したとき、人は初めてほっとし、自分や自分の周囲を見渡す余裕ができる。もはやがつがつしないで済む。おしゃれもしたくなる。おいしい物も食べる気になる。花見にも行ってみようと思う。だが、がつがつしていたら、こうはならない。余裕があったとき初めて、この世を楽しもうという気になる。この楽しもうという心が雅なのだ。だが、目的を達して満足した人が、必ずしも花を楽しみ、雅であるわけにもいかない。目的を達しても、またすぐに次の目的ができる。こうして常に目的に向かって息せき切って走っていて、決して満足することがない。満足するとは留まることだ。自分の居場所に気付くことだ。この世を楽しむには、まず留まることが必要なのだ。矢を射るとき、的に当てることだけを考える人は、目的を追う人だ。だが、矢を射ることそのことが好きな人、当たれば嬉しいが、当たらなくても嬉しい人、そういう人こそが、留まる人、つまり雅である人だ」と諭す行があります。そろそろ、私たちも結果主義から脱して雅な心を味わいたいものです。
2014.02.20
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やっていることは大同小異なのに、世の中には何かと悩み多き人と、とにかく鼻歌まじりで極楽とんぼのように呑気に生きている人とがいます。その違いは、どこから生まれるのでしょうか?悩まない人の特徴は、何事もプロセスそのものを楽しみ、成果は二の次のようなところがあります。だから、同じ求めるにしても、成果があれば申し分ないが、最終的に求めているものが得られなかったとしても、「求めることを通じて、そのプロセス(過程)で十分にエンジョイしたから」と、それほど不満を感じないようです。ところが、悩み多き人は、何らかの見返りがなければ損得勘定が合わないと、その期待が外れると強い不満や落胆がおきます。私たちはとかく事の成就に一喜一憂しがちだが、そんな気持ちを捨てたとき、緑の山川、花鳥風月のすべてがたまらなく愛おしく、この世の花を楽しむ空間が広がってくるはずです。それは、浮世のしがらみから切り離された老年者の特権でもあります。今を楽しむ心、それこそが人生の達人になれる道だと思います。残り少ない人生、「今、ここ」しかないと心に決め、事が成るか成らぬかに一喜一憂することなく、そのプロセスを心から楽しんでいきたいものです。
2014.02.19
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40代の婦人は「“余命半年”と宣告されて、半年単位で物事を考えるようになった。取り敢えず秋まで頑張って、秋になったらまた状況を見ながら次の半年を考えよう。余命半年は忘れようとしても忘れられない現実だが、死ぬときのことはそのとき考えればいい。ここにいる時間を大切にしたい。これまでなら明日やろうと考えたことを、今日やろうということなんです」と言う。こんな思いを抱かさせたのは、夫の「僕だって、明日、事故にあって死んでしまうかもしれない。もしかしたら、あなたより僕が先かもしれない。明日のことは分からないという点では、誰も同じなんだよ」という言葉だった。そして、「日々を大切に生きていかなければいけないという条件は、本当は皆、同じなんですね。その瞬間、余命1日という言葉が心に浮かびました。余命1日の思いで、毎日、毎日を精一杯生きよう、そう思いました」とも言う。あれこれと後ろ向きに考えず、また「明日にしよう」と面倒がらず、目の前のことに集中し、この一瞬に自分の心の総てを注ぎ込んで楽しみつくすことです。そんな生き方から、明日も開けてくると思います。迷うというのは、過去や未来のことを考えるだけで、今日只今に集中していないからだと思います。
2014.02.18
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ある勤続25年目のサラリーマンが、会社から10万円の旅行券をもらって夫婦二人で2泊3日の旅行に出かけたときの話です。奥さんは、結婚以来の我が家の大きな出来事を思い出すためにとアルバムを持って行きました。食後アルバムを繰っていた奥さんが突然、「気がついてみると、夫婦二人の写真がない。毎年、郷里に帰る以外はどこにも旅行もせず、何も美味しいものを食べることもなしに今日に至った」と言って泣き出したそうです。家を建てるため、子供の教育のため、子供の結婚資金のため、それが済んだころには老後のためにと、いつも何かに追われ、楽しみは先に延ばして働き、始末し続けてきました。そんな思いのサラリーマンの方は多いはずです。先憂後楽の思想は、貧しかったころからの日本の伝統的な思想でした。子供たちにしてもそうです。良い大学にはいるためにと、幼稚園に入る前から勉強、勉強に追われ、子供らしい遊びをすることもなく過ごしています。「今、したいこと」を我慢し、いつの間にか人生の黄昏に臨んでいるのが私たちの年代です。老年期になっても先のことばかり心配しがちだが、「今、ここ」を楽しまないで、いつ楽しむことができるのでしょうか?
2014.02.17
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念仏の『念』という字は『今』と『心』からできています。これは、今という瞬間の心が念であるという心がけです。清水寺の森清範さんは、「今、仏さんの心を冷ましてはあかん、今、仏さんの心を忘れてはあかん。今という時間は再びやってくることはないのだから、今を無駄にしてはいけませんよ、一瞬たりともおろそかにしてはいけませんよということが、念仏の念なのです。今という時間は、一つひとつ貴重なもので、今していることに打ち込むこと、今の自分の行いに全力を尽くすこと、その積み重ねがあなたの永久の命につながります」と言われました。今という時間は常に過ぎていくものであり、今という生命は再び現れることがありません。“今”というものは、時間であり、命そのものではないかと思えてきます。そんな貴重な今この時を、無為なものにするもしないも自分の心ひとつです。今に打ち込めないのは、色々と先のことまで取り越し苦労をしすぎるからです。思うようにならないことを、思うままにしようとするから苦になります。ですから、思うようにならないことを、思うようにしようと思わなければ苦は芽生えません。それが、明るく楽しく生きるコツと言えます。
2014.02.16
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「人は、薄氷の上を渡りながら、自分の踏んでいる氷がそのように薄いものであることを感じないだけである。いつ崩れ始めるかわからない安心感の上に胡座をかいて、頼りにならないものを頼りにして生きているのである」と言った人がいるが、今回の震災で改めてそのことを思い知らされました。だからこそ、過去にこだわらず、未来ばかりを見ないで、目の前のことに全力挑戦し、今というこの瞬間を精一杯に生き、楽しみ尽くしたいものです。【「いま」の「ま」と言うとき「い」はなし】というように、「いま」は一瞬ですぐに過去になってしまいます。その一瞬に生じた自分の気持ちや行動こそ、人間の生の総てです。そして、この「いま」の積み重ねがあなたの人生そのものなのだから、「いま」楽しく幸せなら、あなたの一生は楽しく幸せなはずです。こう考えると、人生の幸福なんて実に単純で簡単なことです。美味しいものや美しいもの、楽しいものに浸っているとき、生命エネルギーがどんどん体内に注ぎ込まれてきます。自分の気持ちに正直に、今を楽しめばいいのです。大きな幸せを求めると大変だが、普段の何気ない生活の中に小さな幸せの種を見つけて、それを揺さぶり続ければ、何時もイキイキと暮らせるはずです。
2014.02.15
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「一日一生日々元旦」というが、一日、一日に区切りをつけて生きることです。今日が人生最初の日と希望を持ち、今日を人生最後の日と思って努力する。そうやって、降っても照っても、今日を最高の一日としたいものです。心を明るく楽しく保つための、朝、昼、夜、それぞれの簡単なコツを伝授します。朝、起きたら、ヒゲを剃ったり化粧をしたりする前に、鏡に向かってニッコリ笑って、「今日一日、この笑顔を崩すまいぞ」と自分に誓いましょう。笑顔になると、内面からイキイキとした活力が湧いてきて、顔に艶も出てきます。若さを保つ秘訣は、外面の化粧ではなく、心の化粧です。こうして笑顔を絶やさない努力をしていれば、良いことが向こうからすり寄ってくるはずです。日中は、後先のことは考えずに、目の前のことに集中することです。食事をするときは食事だけに、薬を飲むときは飲むことだけを考える。そして、どんなことがあっても良い面だけを見て、ニコニコと笑って過ごすことです。どんなに悪く思えることにも、見方を変えれば、プラスになる面がきっとあるはずです。また、人から何かを指摘されたら、まずは「すみません」と心から謝り、悪いところを直す。すると、相手にも信用されるようになります。一日の終わりをいかに楽しく終わるかは、とても大切なことです。ベッドにまでストレスや暗い気持ちを持ち込んでは、よく眠れるはずがなく、従って良い朝を迎えることはできません。イライラしたり、怒ったままに疲れ果てて眠るようでは疲れも残るが、一日の最後を笑って終われば疲れも残りません。心の中で、キチンと意識してピリオドを打つようにすることです。それには、その日出会った楽しかったこと、嬉しかったことなどを思い出して日記に書きとめ、それを心の中で膨らませてから休むようにするとよい。ある経営者の方は、毎日良いことだけを「光明日記」と名づけた日記に書いています。楽しかったことがどうしてもなければ、「だからよくなる」と一言つけ加えるということでした。これを何年も続けていると、自分の人生はいいことだけで満たされている気分になり、自然と心が明るくなり、手相や顔までが変わってくるそうです。ある方は、寝る前に、その日の楽しかったことだけを思い出して寝るそうです。すると、ぐっすり眠ることができます。ぐっすり眠れれば、翌日の朝は爽やかに目覚めることができ、そこに善の循環が生まれると言います。
2014.02.14
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「悟りとは平気で死ぬことではなく、どんな境遇でも平気で生きていくことだ」と正岡子規は言いました。平気で生きていくには、今あることをあるがままに受け入れ、今という時をできるだけ愉快に生きることです。それには、白隠禅師の師、正受老師の『一日暮らし』を実践することです。「一日暮らしという工夫をしてから、精神は健やかで、健康増進のコツを得た。一日は千年万歳の初めだから、一日を良く暮らすように努力すれば、その日がうまく過ぎていく。それを、翌日はどうしてこうしてとか、あてもないことを苦にして、しかも翌日のことに呑まれて、その日のことを怠りがちである。(中略)どんなに苦しいことでも、一日と思えばこらえやすい。楽しみもまた、一日と思えば溺れることもない。愚かな者が親を孝行しないのは、先は長いと思うからである。一日一日のことだけを思っていたら、退屈なこともない。一日一日つとめたら百年、千年もつとめやすい。何とぞ一生、と思うから大層である」と、老師は諭されました。どうしようもない過去や未来にこだわらず、あなたが「いま、ここ」に精一杯生きていれば、きっと幸せな気持ちがその日まで続くはずです。
2014.02.13
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何かと暗い話題の多いこの頃だが、それだからこそ生き甲斐を持ち、毎日を『心豊かに、明るく、元気に、逞しく、命輝いて』生きていきたいものです。それには、取り返すことのできない過去にとらわれたり、まだ来もしない明日を思いわずらって暗い気持ちで生きるのではなく、今ここにある状況に満足して、今日という日に感謝し、明るく、元気に生きることです。人生は今日という日の連続だから、「今日」という日を楽しく生きることができれば、明日という日の「今日」もまた楽しく生きられるはずです。そうすれば、過去は総て楽しい思い出で埋まり、たとえ何時死のうとも、「ああ、楽しかった」と人生を終わることができます。老齢期には、とくに大切な生き方だと思います。苦も幸せも実態があるのでなく、自分自身の心の中にあります。自分の生まれ持った運命を嘆くことなく、明日を悲観することもなく、今日一日を充実した日とするために精一杯の努力をして、結果が良くても悪くても、そのことに満足して生きることができれば、充実した幸福せ日を永遠に過ごせるはずです。そうやって、毎日「明るく、楽しく、逞しく、心豊か」に過ごすことができれば、たとえ短い人生であったとしても、素晴らしい人生にすることができます。
2014.02.12
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『少女ポリアンナ』(エレノア・ポーター著)という小説をご存じですか?ポリアンナは、「嬉しくなるゲーム」の天才で、どんなことの中にも嬉しくなる要素を探し出します。嬉しいことが一杯ある時なら、このゲームは簡単です。でも、悲しい時にこそ、どんな薬にも勝る大効果を発揮します。彼女は、どんなに辛いことや悲しいことに囲まれても、どこまでも食い下がって、必ず嬉しいことを見いだすのでした。そして嬉しいことを見つけたとき、自分一人が喜ぶのではなく、周りの人にも喜びを分けてあげる名人なのです。この童話は、何事も悪い面ばかりを見るのではなく、その裏に潜んでいる良い面を見ることが、前向きに明るく生きる秘訣だということを教えてくれます。事業を営んでいると、取引先が倒産したり不渡り手形をつかまされたりすることがあります。そんなとき、「こん畜生」とその人を恨んだり、あれこれと悩むのが普通です。京セラの稲盛和夫さんも、昔はそうだったそうです。しかし、あるときから、過ぎ去ったことに拘泥せずに前向きに考えるようになり、「火傷程度で済んでよかった。命までは取られなかった」と思えるようになるにつれて、運のほうも開けてきたといいます。
2014.02.11
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状況は同じでも、自分の心の持ち方を少し変えるだけで、気持ちは180度違ってきます。良いことばかりも、悪いことばかりも続かないのがこの世の中です。笑って生きても、しかめ面で生きても、一生は一生です。いつもニコニコと楽しそうにしている人に、その秘訣を聞いたところ、「涙を一杯こぼしたからですよ」という答が返ってきました。あの涙をこぼした経験に比べれば、今の状況などは何ともないというわけです。辛いことがあっても、「ああ嬉しい、今日もこうして元気に生きていられる」と思えるようになれば、どんな時もニコニコ暮らしていけるはずです。病気にかかったとき、「痛い」と言えば治るわけではなく、「熱がある」と言って熱が下がるわけでもありません。また、「明日はどうなるだろう」と心配したからといって、明日が良くなるわけでもありません。心配は、周りの人まで知らず知らずのうちに暗くしてしまいます。それが自分に跳ね返ってきて、一層みじめで暗い気持ちになるだけです。この世は、辛いことを探せば辛いことばかり、嫌なことを探せば嫌なことばかりです。だが、嬉しいことを探せば嬉しいことばかり、楽しいことを探せば楽しいことばかりのはずです。
2014.02.10
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同じものでも、気分が違うと見え方も違ってきます。どう見えるかは、その人独自の、自分勝手な、その時の気分に左右された物差し次第です。大西良慶応和尚は、物事には二つの対処の仕方があると言われました。一つは、何事も悪く考えたり悪い面ばかりを見るのではなく、善く考えたり善い面を見るように見方を変えれば、同じ状態でも180度違ってきます。草履屋と傘屋に嫁がせた娘を持っている母親は、雨が降ったら草履屋に嫁がせた娘のことを思って「雨で草履屋の商売はあがったりやなあ」と嘆き、天気になったら傘屋さんに嫁がせた娘のことを思って「こんなに天気が続いては傘屋の商売はあかんなあ」と悲しんでいました。そんなときは、晴れたら草履屋さんの商売を、雨になったら傘屋さんの商売を喜んであげればいいのです。もう一つは、人間には無数の煩悩があり、みんな煩悩で苦しんでいます。ところが死んだと思ったら、一切のものに解決がつくはずです。自分のものを誰かが持っていけば、「私のものを黙って持っていった」と煩悩に触って怒りがこみ上げ「あいつけしからん」と思うが、自分が死んだと思ったら惜しいというものがないようになり、腹も立たなくなるという訳です。
2014.02.09
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人は自ら自分の世界をつくり、その中でもがき苦しんでいる。愚かな人が、自分で描いた夜叉の絵に自ら脅えているようなものである。心の清らかなときは極楽、心の汚れたときは地獄。近くのお寺にこんな偈があったが、この世を地獄にするのも極楽にするのも自分の心次第です。阪神大震災の時に、こんな光景に出会いました。夜の11時をとうに過ぎたころ、避難所にやっと一人一個にも満たないおにぎりが届けられた。まだ火災が続いている中を、市役所の方が必死で届けてくれたのです。一人のお婆さんが、「おじいさん、おにぎりをいただきました。一つですから半分ずついただきましょう。ありがたいことです。すみませんね」と押しいただいています。ところが、その隣のおじいさんは、「いま何時だと思うとるんや。夜中の11時過ぎやぞ。わしら朝から何も食べとらんし、水も飲んどらんのや。それなのに、こんな冷たい握り飯一個か。お前ら、わしに死ねというのか」と、もの凄い剣幕で噛みついています。おにぎり一個という現実は同じでも、その人の心の持ち方一つで、ほのぼのとした暖かさを感じさせる人もいれば、怒りをぶちまける心寒い人もいます。
2014.02.08
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人間には、「ありのままの自分」と人に「見てもらいたい自分」の二人の自分がいます。「ありのままの自分」には、長所もあれば短所もあり、機嫌の良いときも悪いときも、絶好調の時も絶不調のときもあります。その上、病気もすれば歳も取ります。ところが、他人には悪い面は見せたくなくて、「見て欲しい自分」を演技しがちです。その結果、上辺を取り繕い、ときには整形手術までしたり、歳を隠したりもします。その二人の自分のギャップが大きければ大きいほど、隠すモノが多くて疲れてしまいストレスが溜まります。そんなにまでして、どうして有りもしない自分を保とうとするのかといえば、人間には他人に認めて欲しいという強い願望があるからです。絶えず他人と比べて、負けたといって敵愾心を抱いたり意気消沈したり、勝ったといって誇ったり傲慢になったりするのも、自分を認めて欲しいという心理に他なりません。他人と比べてばかりいて、自分を見つめることもせず、「自分に自信が持てない」と言っていても始まりません。自分の良さがわからなければ、自分が好きになれないし、自信が生まれてくるはずもありません。自分は自分なのです。精神的な背骨として大切なのは、“自分が自分をどう思うか”ということです。
2014.02.07
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私たちは、「いま」という瞬間を生きていながらも、過去の記憶と後悔、未来への希望と不安に日夜さいなまれています。人との関係が悪くなるのも、「あの時、あんな事をした、あんなことを言った」などという過去の記憶のせいです。あなたは、思い通りにいかなかった過去を悔やみ(持ち越し苦労)、どうなるか分からない未来を思い患って(取り越し苦労)いませんか。それでは、苦しくて惨めで不幸なだけです。どうしようもない過去や未来にこだわらず、あなたが「いま、ここ」に精一杯生きていれば、きっと幸せが永遠に続くはずです。ある年齢になると同窓会が盛んになるが、過去のことを振り返って自慢したり、あの時ああしとけば良かった、こうしておけば良かったという話に花が咲き、出来ることならやり直しをしたいという思いが切々と伝わってきます。もう終わったことには区切りをつければいいのに、どうしても持ち越し苦労をして愚痴を言いがちです。それは、「今」を生きていない証拠です。 私たちは、「今、ここ」に集中することがなかなかできなくて、過去や未来を行ったり来たりしがちです。そして、「気づいてみれば、あっという間に50年が過ぎたわ」、「もう60年が過ぎたわ」などと嘆いています。
2014.02.06
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日々の生活には、面白くないこと、納得のできないこと、辛いこと、悲しいこと、怒れてくること、理不尽なことなどが一杯あります。しかし、それらと心の折り合いをつけて意味付けをし、それを心の中で消化し納得させることができれば、きっと明るく幸せに生きていけるはずです。12歳の子供を肺ガンで亡くしたお母さんは、「心残りはありますが、仕方がありません。あの子と12年間も一緒に暮らせたのを、何よりの幸せだと思うようにしました」と言う。どんな場合でも、それが自分たちにとってどういう意味があるのかを考えて、自分なりに納得する答を見いだすことが大切です。大切なことは、過去の良い状態の時と比べたり、後悔を引きずったりしないことです。もう一つは、他人の良い状況と比べたり、他人によく見られようなどしないことです。「よかった時や他人と比べるから苦しくなる。“いま、ある状態”をそのまま受け入れれば苦はなくなる。すると、なんのてらいもなくなり、素敵な笑顔でいられるようになる」と、戦争の後遺症で両足を切断し、右肩も動かない僧侶は言います。目の前の現実を素直に受け入れたとき、不満の心は消え失せ、生きていることの本当の喜びを味わうことができるはずです。
2014.02.04
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今日から四苦八苦のもと「生老病死」のうち「生」を苦とせず、林住期を日々楽しく心安らかに生きるための智慧について書いていきます。◆あらゆるものは自分の心の影にすぎないその昔、中国留学の夢を抱いて旅に出た新羅の学僧元暁は、行き暮れて山中の洞窟で野宿をしました。夜中に喉が渇いて目を覚ますと、入口に月を映した美しい清水があるのが目に入り、これ幸いと一気に飲み干しました。まさに、甘露の水でした。ところが、翌朝になって清水を探すと、それはサレコウベにたまった汚水でした。その時、元暁は、「あらゆるものは己の心の影に過ぎぬ」と悟り、故郷へと帰っていったということです。この話のように、この世に初めから美しいものや楽しいことがあるのではなく、その時々の自分の心が美しいと感じ、楽しいと感じるだけのことです。同様に、初めから辛いことや悲しいこと、苦しいことがあるのではありません。すべて、その時々の自分の心の表れです。もし、この世が愚劣にしか見えなかったり、辛いことばかりに思えたりするなら、それは自分の心が愚劣だったり、マイナス思考ばかりしている結果だと思います。自分の心が新鮮で豊かで、前途に希望の光が赤々と輝いていれば、過去にどのようなことがあろうと、現在がどんなに苦しいものであろうと、「総てはこれからだ」という期待と意気込みが湧き、張りをもって生きていけるはずです。
2014.02.04
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ある奥さんは、定年後、寂しそうに独りで晩酌をしている夫の姿が嫌で、嫌でしようがなかった。たまたま倫理の話を聞く機会があり、楽しい飲み相手になってやろうと決心して、「少々くたびれた居眠り芸者でございますが、ハートでサービスさせて戴きます」と相手をし始めると、後片付けは俺に任せておけとなり、酒飲みの父親を嫌っていた娘も「結婚相手は、お父さんとお酒を飲んでいてくれる人がいいな」と嬉しいことを言ってくれるようになったそうです。定年離婚とかリストラ離婚、家庭内別居という話をよく聞くが、お互いに自分のことばかり考えて、相手を不満に思い、相手の良い面や気持ちを思いやることに欠けていたのではないでしょうか。角度を変えて同じ我が家、我が身を見直してみれば、幸せの青い鳥は、山の彼方にではなく、平凡な我が家の中に、つまり現状に感謝する自分自身の心の中にいるはずです。赤ちゃんはお乳さえ飲めば幸せ一杯の顔をしているが、何時しか、あれも、これも欲しい、ああも、こうもしたいと、欲望ばかりが次々と湧いてきます。そして、それが叶えられないといって不満で一杯になっています。いい加減に、そんな荷物など手放してしまうことです。きっと、楽になりますよ。「お金や欲望は、酒とよく似ている」と斉藤茂太さんは言う。お酒もうまく付き合えば薬になるが、酒に飲まれるようになれば毒にもなります。お金や欲望も成長への引き金となっている間はいいが、金や欲望の亡者となって手段を選ばくなくなると大変です。酒好きな私にすれば、どの段階で酒を切り上げるかは極めて難しい。ほろ酔い加減のうちに止められればいいが、話が弾んでつい深酒をしてしまい後で後悔することも多い。そして、50年間の深酒がたたって今では成人病も多少気になります。お金や欲望との付き合い方も、まったく同じだと思います。若い間は適度な欲望を持つことも大切だが、歳をとっても執着しているのは見苦しいものです。天国には何も持っていけないのだし、遺産がどうなるかと未練を残していくのもつまらない。結局、最後はみんな捨てて、生まれたままの裸になって旅立つのですから。人を羨ましいと思う気持ち、憎らしいという気持ち、悔しいと思う気持ちの三つは、若いうちは生きるためのバネになるが、いざ人生を楽しもうと思うと邪魔になります。これをまず捨てると、気持ちはスーッと楽になります。
2014.02.03
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マレー半島の原住民たちは、ヤシの実の殻に穴をあけ、その中に米粒を少し入れて木にぶら下げておく。するとメガネザルがやってきて、片手をヤシの実の穴に突っ込み、中の米粒を握る。拳が抜けなくなって、メガネザルは簡単に捕らえられてしまいます。でも、私たちもこのサルを笑えるでしょうか?日本金地金流通協会の調査で、1.宝石を6個以上持っている人のほうが、それ以下の人よりも再度の購入意欲が強い2.過去1年間に宝石を購入した人のほうが、購入しなかった人よりも購入意欲が強い、という結果が出ました。つまり、持てば持つほど欲しくなり、買えば買うほど欲しくなるのが人間です。私たちは常に、財貨や地位、権力など魅力的に映る物を追い求めて止みません。そして、運良くそれを手に入れることができると、その当座は幸せ感を感じても、それで満足して留まることを知らず、直ぐにまた次のものが欲しくなり、さらに次々と別のものが欲しくなってきます。つまり、私たちには何かを手に入れた途端に、すでに二つの不幸が芽生えていることには誰もなかなか気がつきません。一つは、もっと欲しいという欲求です。もう一つは、手に入れたものを失うかも知れないという恐怖です。インドの仏典に、この世には「無財餓鬼、少財餓鬼、多財餓鬼」の三種有りとあるように、財貨の有無にかかわらず現状に満足せず、「もっと、もっと」と欲望を膨らませていき、永遠に心が満ち足りることがありません。それが、経済を発展させてきたのだが、それでは有限な地球ももたなくなります。また、富にしろ、地位や権力にしろ、あるいは最愛の家族にしろ、いずれは死やその他の様々な要因で手放さなければならないときが必ずやってきます。そういうときが何時来るかと恐れ、そうあって欲しくないと願い、これが私たちの心に葛藤と恐怖をもたらし、いつまでも心の平安がやってきません。キリスト教では、「天国に入るためには狭き門より入れ」と教えるが、狭い門より入るにはすべての持ち物を捨てる必要があります。身分という持ち物も、財産という持ち物も、傲慢という持ち物も、美形や学問という持ち物も、天国には持って入れません。それらのものは、天国では何の役にも立たないばかりか、かえって邪魔にさえなります。人間は無一物で生まれてきて、無一物であの世に帰ります。少欲知足の教えを悟ったとき、あなたはストレスから解放され、気楽に楽しく生きていけるはずです。
2014.02.01
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いまの自分の幸せが、見えないというのは不幸なことです。ところが、世の中には案外そういう人が多いように思います。そういう人は、今の状態に満足することなく「もっと、もっと」と求めたり、人のことばかりがよく見えて自分は不幸だと思いこんでいる傾向があります。だが、そういう人に限って、はたから見ると結構な身分であることが多く、愚かにも自分で自分を無理に不幸にしてしまっています。せっかく幸せを享受できる立場にありながら、それを評価する目がないために、あたら幸せを無駄にしてしまっているのです。狭い視野からしかものを見ない心の貧しさというか、満ち足りることを知らない貧しい心しか持っていないからだと思います。いくら人から見れば客観的に幸せな条件が備わっていても、当人がそれを幸せだと思わなければ、それはやっぱり不幸です。幸せの青い鳥は手の届かない山の彼方の空遠くにいるのではなく、あなたの心の中に棲んでいます。ようは、幸せも不幸せも自分の心の持ち方の問題です。この世の中に50%の不幸はあっても、100%の不幸などありません。裏返せば、世の中には100%の幸せというものも存在しないということです。それに、早く気づくことです。◆幸せ感=充足/欲求 欲求を「もっともっと」と高めていけば、充足も「もっともっと」と高めていかなければならないが、今に満足していれば充足を高めることもなく幸せ感を感じることが出来る。少欲知足の精神があれば、今より充足が低くても幸せ感は高い。私たちは、コマーシャルを通して絶えずマインドコントロールされ、「もっともっと」と求める心を煽られ不幸な気持ちにさせられています。
2014.02.01
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