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対立する東日本と西日本が分裂し、巨大な壁で隔てられているという設定。 発行されたときから、ずっと気になっていた一冊だが、 今年になって文庫化され、ようやく手にすることになった。 お話しについては、全く予備知識なしで、読書開始。 読み進めると、私がイメージしていたものとは、随分様子が違っていた。 もっと、風刺を効かせたコメディータッチのお話しを予想していたのだが、 決してコメディーではなく、『一九八四年』ぽいお話し。 書く方がそのつもりなら、読む方もそのつもりで読まねば。しかし、諸外国との関係も含め、今の日本の現状を見ると、たとえ、日本が何かの拍子に東西に分裂したとしても、軍事政権や徴兵制、奴隷制、情報統制等々、この状況はありえないだろう。つまり、あくまでもフィクション、しかも現状度外視の突飛な設定である。そして、お話しは、展開と言うほどの展開をしないまま、どんどん残りページが少なくなり、「このお話し、どうやってケリがつくのか?」と、結末が予測できないまま読み進めると、最後は、本当に予想外の結末で終了してしまった。読後感、ホントに良くないなぁ。
2013.04.21
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とびっきり甘ぁ~くて、心がホッコリ。 有川さんの作品の中でも、最上級の劇甘ラブラブ、ラブ・コメディ。 二人で自然の中に出かけては、そこで採集した野草を、調理して味わう。 そこには、『図書館戦争』シリーズのような緊張感漂う状況は、全く見られない。 ただし、主人公・さやかには、ある日突然、目の前に現れた彼・イツキが、 また、いつかいなくなってしまうのでは……という心配が常に心の奥に潜む。 そして、お約束通り、それは現実のものになってしまう。 そのイツキの行動には、「カーテンコール 午後三時」を読んだ後も、私は不満。 ***この作品では、色んな野草が登場し、それが自生している場所や採集方法と共にその様々な調理法が紹介されているが、要は次のイツキの一言に尽きる。 「要するに、毒さえなけりゃ大抵のものは食おうと思えば食えるんだよ。 料理法も似たり寄ったり。 天ぷらか油炒め、おひたし・煮びたし・和え物系。 アクが強けりゃアクを抜いてから料るだけ。」 でもどれもおんなじようにおいしいとは限らない、とイツキは言った。(p.142)その中で、さやかはハカマ取りの大変さもあってか、ツクシに対しては、あまり良いイメージを持っていないのだが、私は大好き。そこには、下準備の大変さを吹っ飛ばす、他では味わえない独特の風味が存在する。佃煮や天ぷらも良いが、私は手軽に、柳川風に「卵とじ」。とても美味です。
2013.04.21
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私にとって馴染み深い場所が舞台となっていると知って購入。 車窓からの風景や、駅周辺の街並み、主人公たちが通う高校への通学路など、 どれもこれも、かなり詳細かつリアル(店舗や施設も実名)に描かれているため、 その景色を、日常のものとしてクッキリと思い浮かべることが出来ました。 しかし、そこで展開する物語は、非日常。 そして、その主役は、自称「魔女」の千里。 その千里と「ともだち同盟」を結んでいるのが、同じ高校に通う朝日と弥刀。 朝日は、千里と小学校から一緒の女ともだち、弥刀は高校からの男ともだち。物語は、そのうち、弥刀の視点で描かれています。読者は、弥刀の行動を通して、千里や朝日の行動を知り、最後に、かつて千里と朝日の間に起こった出来事を知ることに。エンディングは……、私的には少々不満かな。さて、著者の森田さんは、かなりの鉄オタの様子。本作も、だからこそ生まれた作品と言えそうです。なお、本作の舞台に関しては、色んな方がブログで紹介されているので、「ともだち同盟 聖地」で検索してみてください。
2013.04.14
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小さかった子供も、年月を経れば大人になる。 リュウとアンも、今や20歳を過ぎて、立派に成人。 リュウは、建築測量士見習いとして、ダーリン(父)の仕事を手伝ってる。 さらに、コンピュータの何とかという仕事に就きたいと、勉強もしている様子。 一方、アンは通信制高校を卒業後、ダンススクールのインストラクターをしながら ステージダンサーを目指すが、オーディションで不合格連発。 その後、女優を目指したり、彼氏を頼ってインドを放浪したりと、紆余曲折の末、 22歳にして大学受験を決意、予備校通いの日々になっている。本著で特に印象深かったのは、「板橋マダムス大調査」で、成人した子供の同居や、その生活費について描いたもの。成人すれば、親元を離れ、自立するのが当たり前だった時代から、ずっと同じ家に住み続ける時代に逆戻りした観がある(家業を継ぐわけではないのに)。あと、「息子の助手席に乗って」や「父子が酒を交わした夜」「息子はつれないBF」、さらに「成人した兄妹の距離感」等、リュウを巡るエピソードに印象深いものが多かった。それにしても、現代には、子離れしきれない親が、溢れかえっている。まぁ、何歳にになっても、親にとって子供は子供だけれど。
2013.04.14
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職場の歓送迎会(二次会付き)を終えて帰宅すると、 ネットで予約注文していた本著が、ちゃんと発売日に届いていた。 さすがに酔いも回っていたので、その日はそのまま就寝。 翌朝、何冊かの読みかけの本の読書を一時中断し、本著のページを捲る。 読み始めて、まず感じたのは「あれっ、いつもとちょっと違う……」ということ。 ここで言う「いつも」というのは、本作以前に村上さんが書いた長編小説 『1Q84』や、『海辺のカフカ』、『ねじまき鳥クロニクル』等と比べて。 本作は、これらのメルヘン作品群とは、明らかに性質を異にする。それらに比べると、『アフターダーク』や、『スプートニクの恋人』には、かなり近いものがある。それでも、いつもの「村上ワールド」とは、少々違うテイストのお話しで、灰田文紹や、その父と緑川を巡るエピソードを除けば、最後まで現実的な展開が続く。私は本作を読みながら、『往復書簡』を想起してしまった。 ***それでは、本作の中で印象に残った言葉をいくつか。 「限定された目的は人生を簡潔にする」(p.29)これは、明確な目的を持って大学を選択・進学したつくるに対して、沙羅が言った言葉。こういう明確な目標を掲げ、人生を歩んでいける人を、私も本当に羨ましく思う。 「記憶をどこかにうまく隠せたとしても、深いところにしっかり沈めたとしても、 それがもたらした歴史を消すことはできない」 「それだけは覚えておいた方がいいわ。歴史は消すことも、作りかえることもできないの。 それはあなたという存在を殺すのと同じだから」(p.40)これも、沙羅がつくるに対して言った言葉。この言葉は、この後も色々な場面で登場し、本作のキーワードにもなっている。 「独創力とは思慮深い模倣以外のなにものでもない。 現実主義者のヴォルテールはそう言っていますが」(p.67)これは、灰田がつくるに言った言葉。「なるほどな」と、大いに唸らされた。 ***さて、『1Q84』における、ヤナーチェクの『シンフォニエッタ』同様、本作に登場したリストの『ル・マル・デュ・ペイ(郷愁)』も、一躍脚光を浴びることになり、既に、ラザール・ベルマンの演奏する『巡礼の年』のCD発売が決定したとのこと。(ちなみに、エリが聴いていたブレンデルの演奏CDの方は、4/26の再出荷が決定)さらに、ベルマンの演奏は、音楽配信なら今すぐ購入可能だし、CDも輸入盤なら今すぐ入手できる。(追記:輸入盤は、現在入荷待ちの状況)村上作品の経済効果、どれ程のものになるのだろうか。
2013.04.14
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この手の書籍というのは、ライナーノーツと同じで、 読めば、曲や作曲家についての知識は色々と手に入るものの、 読み進めるためには、結構労力を要するものが多い。 と言うか、読んでいて、あまり面白いものではないことが常である。 ところが、本著は、それらの巷にあふれた文書とは、確実に一線を画す内容。 マーラーや各交響曲について、あれこれ蘊蓄を入手できるのは勿論だが、 何と言っても、読んでいてとても楽しく、ページを捲る手が止まらない。 CDを聞いているときのように、マーラーの世界にドップリ浸ってしまった。これはもう、本著の著者の筆力が、とびっきり素晴らしいとしか言いようがない。そして、この本の著者は、大阪生まれの指揮者・金聖響さんである。ご自身が、若き頃よりマーラーの大ファンで、彼についての様々な音源・文献に接すると共に、実際にオケを指揮するに際して、スコアを丹念に読み込んで来た経験の蓄積は半端でない。それだけでも、他の評論家の先生方が書かれる文章とは、全く次元の違うものを作り出すことは可能だろう。しかし、本著は、そこに留まらない、さらにワンランクもツーランクも上の完成度。金さんの文章家としての能力に、大いに感心させられた次第である。ただし、私も結構マーラー好きで、所有しているCDもマーラーのものが最も多い。メータやインバル等々の指揮する実演にも、足を運んだ経験がある。中でも、最も印象に残っているのは、大フィルを振った朝比奈隆氏の2番。それ故、マーラーを全く聴いたことがない方が、本著を読んだ時、同じ感想を持つかは?とりあえず、本著を読んで、久しぶりにマーラーを聞きたくなった。金さんの指揮する演奏会にも、機会があればぜひ出かけたい。
2013.04.06
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『TPP亡国論』の中野剛志氏による一冊。 国民から喝采を浴びる「改革派官僚」たちの様々な言動に対し、 オルテガの大衆社会論やマックス・ウェーバーの官僚論の見地から疑問を呈し、 彼らの行動が、更なる官僚制支配と政治の弱体化に結びつくと警鐘を鳴らす。 「効率性」「計算可能性」「予測可能性」「支配」の特徴を持つ経営スタイルで、 市場におけるグローバル化を進め、大成功をおさめたのがマクドナルド。 だれかれの区別をせず、主観的な判断を入れず、事務を迅速・精確に処理する 「自動化されたマシーンのようなもの」であることを求められるのが官僚。この両者に見られる共通の特徴は、IMFなどの国際機関においても見られるようになり、大学における経済学や、各国の経済政策でも官僚化が進んだ。しかし、各国の政治経済システムが、アメリカ型のものへと収斂することは、リーマンショックを始めとする、世界的危機を引き起こすことに繋がってしまったのである。そして、日本では、90年代初頭以降の構造改革から2009年の政権交代に至るまでの約20年、「官主導から政治主導へ」が、改革運動の共通目標であり続けたのだが、逆に、この時期に官界、政界、財界、学会の隅々にまで「官僚制的支配」が完成した。この官僚制化によって犠牲になったのは、自由民主政治だった。さて、本著で私が最も印象に残ったところを、最後に記しておく。 成果主義の最大の虚妄は、人間の能力を客観的指標によって 的確に測定することが出来るという誤った信念にある。 その虚妄がもたらす弊害は、企業経営以上に、行政組織においてひどくなるだろう。 なぜなら、企業の目的が営利にある以上、企業人の業績は、 生産性、売上、あるいは利潤率などで、 正確ではないにせよ一定程度は表現しうるかも知れないが、 営利目的ではない公務員の業績はそれすら不可能だからである。(中略) にもかかわらず、行政管理に成果主義を適用したら、どういうことになるか。 公務員は、自分の評価につながるような仕事、すなわち短期的に成果が表れやすく、 しかも数値で表現しやすいような仕事しかしなくなる。 成果が出るまでに時間のかかる難しい事業や、成果を定量化できない複雑な仕事からは、 たとえそれが必要であっても逃げるようになるのだ。(p.53)
2013.04.06
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2008年、運慶作の仏像をオークションで15億円で落札した真如苑は、 2002年には、日産自動車の村山工場跡地を739億円で購入している。 また、創価学会は、1965年に日蓮正宗の総本山・大石寺の正本堂建立に際し、 4日間で50億円を目標に寄付を募集して、実際には355億円を集めたという。 本書は、このような新宗教の教団の経済的基盤、集金の仕組みを明らかにし、 社会とどのような接点を持っているかを明らかにしようとするもの。 著者は「はじめに」で、宗教と経済との関係についての研究は進んでおらず、 本書は、宗教に対する新たな視野を提供することになるだろうと述べている。 *** 宗教法人が行う宗教活動において、金を出すのは信者である。 宗教法人は、信者が出した金を、信者のために使う。 儀式や儀礼を行うなり、そうしたことを行うための場を建設したりするなど、 信者の金が信者のために使われる。 そうである以上、課税する余地はない。 企業が課税されるのは、自分たちが出した金ではなく、客などが支払った金を、 給与など自分たちのために使うからである。 つまり、他人の金を自分たちのために使えば課税され、 自分たちの金を自分たちのために使っても課税されない。 それは、社会福祉法人の場合も、学校法人の場合も同じである。 支払う側と使う側が一致していれば、課税の余地はない。(p.58)これが、宗教法人が課税されない理由。もちろん、宗教法人も、その組織を維持するために、宗教活動には含まれない「収益事業」を行うが、その場合は課税される。それでも、その事業は収入を得ることが主目的でないため、一般事業の税率に比べ低くなっている。そして、本書では各新宗教のビジネスモデルを示しながら、分類している。創価学会や生長の家は「商材ビジネス型」、立正佼成会や天理教、金光教、大本は「献金型」、阿含宗は「スーパー・コンビニ型」、真如苑は「家元制度型」という具合である。 しかし、歴史を重ね、組織として安定していくことで、活力を失うようになると、 ビジネスモデルは必ずしも機能しなくなっていく。 信者が増えるどころか、減少の局面に入ってしまえば、十分な金は入ってこなくなる。 教団の伸びが止まり、活力が失われることは、その教団に魅力がなくなり、 人を救う力を失ったことを意味する。 それは、教団にとって危機的な事態である。(p.194)
2013.04.06
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