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きょうのお天気は、風のない穏やかな日です。少しづつ、久しぶりに洋裁の火曜日です。庭にひよどりが今日も元気にりんごを食べては、羽を休めてうつらうつらしているのを見ていて和まされております。娘の国家試験も無事完了しました。父親はいつも喜んでベッドで成績が上がるのを楽しみにしていました。学校の先生が、高校選びの時、全く公立を選択肢に考えてくれていなかったことを笑って思い出すことがあります。「やる時が来たなら爆発ダッシュだぞぉーだもんね。」とくやしくて私の方が応援、オッセ、オッセでした。娘は勉強よりも好きな世界、場所によって中学生活を終えました。学校の図書館とその仲間たちによって支えられていたようです。のんびりと好きな世界にどっぷりでした。担任の先生の心配をよそに、公立も受けました。障害年金暮らしの家庭に似合った選択に叶えて備えられてベッドサイドで夫と大喜びしたのも昨日のようです。夫は「けつぺたで受かるかもな」と言い私は「真ん中ぐらいで合格だといいな」と言い娘にプレッシャーをかけなかったのは夫の言葉に楽な気持ちで受験出来たと後で話してくれました。まだ、人前で父親のことを話題にしたくない、お涙頂戴しているようでおかずにしたくないと言う娘です。父親の為に頑張ってきた娘に私から「ありがとう」です。卒業式に「親が参加してもいいかな」と笑って聞いたなら「いいよ」。お父さんの写真を持っていたならまるでテレビドラマの見世物みたいでしょうか。「いつも、そばにいるからな」と言ってくれた夫にも感謝です。今、作っている服が出来たならそれを着て学校関係者の方達に感謝の気持ち現そうかな、いいやでしゃばりすぎかな。なんて・・・最後に親にとっても卒業は嬉しいことです。新しい出会いの扉が娘に待っています。その娘がしきりに、私に外に出るのよと言うようになりました。今さらながらですが息子は悲しむ時間もなく慌しく就職、結婚とこの世界的不況の中で仕事しています。大学も卒業式には参加など眼中にありませんでした。その時間も気持ちもありませんでした。お葬式の次の日に彼女の元へ走って行った息子に驚き、また、あわれにも思いまた、彼女がいることが幸せなのかもと思ったり。進行中の現実をただ、待っているだけでした。やっと、就職の出発前の10日前に我が家に戻りました。就職先に旅たつ日、バスから手を振った時娘と私とで家族であると感じた瞬間でした。家族が欠けて、まだまだ残り香がありますが息子達が無事に結婚出来ました。新しい家族と欠けた家族がなじむまで歴史が始まりました。お父さん、たまにはこの家族を温かく見守っていて下さいね。ひよどり、お父さんでないよね。去年はつがいだったのに、一羽で来てライラックの枝でもっこりして休んでいます。あれれ・・・娘が自分用のおにぎりがテーブルに。私が食べましょう。誰に似たのでしょうか。
2009.02.24
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今夜は夜更かしです。お風呂に入ったので、少しだけ書いて寝ようかなと。特別な日でもなかったけれど、何もないことも良い日です。きょうはさっき終わって21日の土曜日になりました。こんなに遅く起きていられるのもあと少し・・・。贅沢な時間です。多分、明日は昼ごろまで身体がぼんやりでしょう。外は予報どうりに雪です。窓を打つ風も聞こえています。換気扇がときどき揺れる音がします。若い頃はこのような夜は好きではありませんでした。でも、年齢的なものなのかそれともひとりではないからか、少し違うような気がします。武田鉄也さんの歌にある「思えば遠くに来たもんだ」が理解できるような感じです。締め切り近くになってきた書道を書き始めて午前中が終わり、あと2日ぐらいで書いて送ろうと思っています。本の扉のタイトル通り「書の研究」です。調子が乗れば、1週間ぐらいは練習出来ますが今は4,5日がいいところです。良く見ていると不思議にお手本のクセや何となく人格まで見えてきそうです。自分だけでお手本をじっくり見ながら書いていく。慣れるというのがまず一歩です。次に先ずは、提出です。それだけのハードルを越えたならOKということで書いています。集中するのが判ります。観察にも一役あるみたいです。楽しみごとがある御蔭で完成の楽しみがあります。書道もやっと準初段になりました。遅咲きの花です。5年間のブランクがありましたが、自分の字で好きに書けたなら嬉しいです。師範ではなく書くだけで満足なのです。父の書に近づきたいだけです。勿論、小筆でスラスラも夢ですが。結婚式でまた外国に行く事になりましたが、手作りでアンサンブルのスーツを製作始めました。上手くできるといいなぁです。流行に追われないデザイン、作りやすいデザインです。これもあれも全て、父親の遺伝でしょうか。私の中に亡き父のものを創る楽しみをプレゼントされていたのかなとしみじみ思う夜です。高専出身のN・S・Pの歌「冬の花火は思い出花火」を聞いていたなら書道の手も優しくなるようでした。「夕暮れ時は寂しそう」が好きでしたが、この歌は初めて聞く歌でした。このグループのひとりが50代で亡くなったことを偶然知りました。仕事から離れる時が必ず来ます。この年齢になって、同志は共にいませんが「人生、楽しめよ」の言葉は宝のようです。もっと、元気になれたなら分かち合う場があとひとつ出来たなら違った世界が広がって行く気がします。
2009.02.20
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医療費の還付のために行った日以来の税の申告に午後から行きました。出かける前に雪掻きをして、お隣さんとちょっと立ち話をして。昨日から税の申告が始まりました。気になっていたものでしたが、少し雪が止んできたので、税務署まで直接出かけました。お隣さんは区役所でしたらしく、凄く混んでいたと聞いていたので、覚悟して行きました。何と見事に外れて、今、テレビでながしているパソコンで申告でした。解ってはいましたが、自分が体験できるとは思ってもいませんでした。仕訳さえ正確にできれば、出来そうでした。自分の仕訳区分がわかれば、あとは決心だけですね。でも、あの人混みの中で申告する方が何かいいですね。安心っていうか、納得っていうか。半半の気持ちですね。実は気になっていた申告に行く気分にさせたのは今朝の夢のお蔭なのです。夕べ、眠る前に「夢で会いたいな」と思って寝たなら朝起きて嬉しかったのです。夫の夢を久しぶりに見たのです。以前住んでいたマンションに、夫は一人で暮らしていました。訪ねて行った私が「もう身体痛くないの?」と聞いたなら「痛くないよ。足がしびれているかな」と答えてくれました。一緒にソファーに座って、夫も身体が自由に動くことが出来ていました。或る時、夫の痛みに疲れてつい看護士さんから「死んでもその痛みは残るのよ」とか「明日の朝、痛みを感じなくなる薬ありますよ」と言わせたしまったほどの酷い痛みが全く消えていました。夫が私の肩に頭を寄りかけてホッとしているようでした。夫に「一緒に住んでもいい?」と聞きたいのを何故か遠慮していた私でした。そういわれたなら、何故か困るのではと感じたからです。夫は今の関係がいいようでした。自分の年老いた両親にも時どき会いに行っているようでした。親思いの夫らしいなと。この関係がベストなんだろうなと思いました。その話を娘に話したなら、「一緒に住んでもいいよと言われたならあの世に行っていたんじゃない?」「良かったんじゃない」と笑われました。(寂しいけれど、そうかもね。まだ、残された仕事あるしね・・・)夢にたまには出て来てね。と言っていたことがたまにあれば、それが一歩前進になることもあるもののです。娘は試験の追い込みで怖い夢のようです。試験が終わったなら、若い頃に一人で亡くなった人のお墓まいりに報告しに行こうと思っています。その人の夢も見ましたが、今は全く見なくなりました。夫の命から、様々なことが優しく伝わってくるようになりました。
2009.02.17
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1週間の早いこと、時間に流されるままに今日も行過ぎていこうとしています。30年ぶりに始めて木彫りが少しづつ勘が戻ってきて,気がつけば半日が過ぎています。若い頃と違う彫り方になっていて、自然なままの彫り方なので植物や花に対しても関心が行きます。教室では、先輩の方々と料理談義や、姑の気持ちなど、また気力、体力の共感などもあり慰められています。今、5年一昔といいますが、10歳も違うと体力的にも気力も違い、きょう出来る事が少しであっても感謝です。なぜなら、もし、趣味がなかったなら夫の喪失をどのようにして過ごしていたのかと思うからです。心配したことも楽しかったことも過ぎてしまえば思い出です。あくまでも、思い出の枠の中です。悲しみはひとを強くすると言われていますが、歳月を経て振り返れば、さすがに30年後の自分が違っています。「哀しみに有難う」と心から感謝しています。哀しい時は逃げないで向き合うことが一番大切な道のりですね。20代の時の死別の体験があったから、夫の送りのとき、お互いに納得いくように支えられたので無念の気持ちも温かなものに整えられました。やっと2年目の世帯主ですが、筆頭者の代理人として振り返りながらも前を向いて、ひとあし、ひとあしの歩みです。「あれ、それ」だけで話が通じたあなた、おやすみなさい。あなたに今も守られてる気がして感謝です。
2009.02.16
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きょうは、聖バレンタインデーです。カナダでは、男性が女性にバラの花を上げるとか。若い頃、仕事が残業続きでその時に開いていた店でお酒の入ったチョコレートを本命の方に上げたことも懐かしいですね。もう、お孫さんもいるかも知れません。友人みたいな人でした。寒い中喫茶店で飲んだコーヒーが美味しかったです。夫のときは結婚が決まっていたので、記憶にないのが残念です。もう、いない人のためにどうかなと思いながら何となく気にかかる日です。その頃は義理チョコなんてありませんでした。2,3日前に野鳥のために油肉、その行く途中にチョコレートのパレードみたいなところを通りがかり、つられて美味しそうものを1箱だけかいました。油肉を取りに行ったのについ買ってしまいました。店の中はもうお雛様の曲が流れていました。外の気温もラジオでは8度と。実感はあまりありません。雪があるからでしょう。また、風が強くなっています。久しぶりに息子にメールです。離れていると元気しているだろうとつい思っています。踊りの先生が是非に衣装を着て欲しいと電話がありました。私が向こうの衣装を着ないことをを笑っていました。着ることに決めたのに、「ああ・・もう」。でも心配してくれ感謝です。言葉が通じないんだから、ニコニコよ。と笑ってアドバイスをくれました。向こうへ着いたなら、そのときはその時ですよ。取敢えず、こちらから衣装を持っていくこと伝えました。様々な意見、考えがあるものですが、自分らしさも守りたいだけなのです。先生は笑って古いふるい、硬い、硬いと。「そうですよ」と私も笑って応えました。息子とは随分はなれた気分です。お嫁さんと仲良くしてくれたならもうそれで充分です。高校生の時、甘えていて大丈夫かなと心配したのも懐かしいばかりです。家ではトロトロ甘ちゃんでした。選んだのか、選ばれたのかどっちでもいいのですが国際化を連呼している二人ですが少しは、日本人も意識して欲しいかなと。娘と賛美歌を歌いこころを癒して、曲数を増やしています。私らしくも大切にしたいなと。夫も最後まで自分の手で食べられる間が生きている実感があるんだと。何気ないことですが、本人にとっては大切な支えだったと思い出しています。
2009.02.14
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きょうは、建国記念の日です。もう直ぐきょうと言う日が終わろうとしています。札幌雪祭りも夜の10時で終わりました。明日は、大きなブルト―ザでガツン、ガツンと壊されて行きます。たまたま、見ていた時があって「ああ、もったいない・・・春が来るんだなぁ」と何だかウキウキしていた思いも交錯していました。昨日、ソマリアの問題を娘と話し合って見ると面白い提案が出ました。「海賊と話し合って、税金みたいに払って船がスエズ運河を渡ったならいいんでない?」海上自衛隊の武器使用の範囲、他国の護衛など戦わずに紳士的に解決できる名案があるといいですね。また、娘は大陸に水路を作って、関所みたいに境界線で税金払えばいいのでは。など。面白い発想があるものです。笑い合いました。キング牧師のことばから非暴力で自由と平等を白人の良心に訴えた勇気に霊的な命の光を感じました。久しぶりの雪が止んで舗道に大きな雪山を作りました。何も考えず黙々・・雪を積む単純作業です。楽しみは大きなトラックが来て除雪してくれた後の広い道が何とも爽快なのです。ガソリンが会員価格で97円もちょっと嬉しい変化でした。キング牧師の蒔いた種は、始めての黒人大統領を輩出させました。この世界不況も、バランスを欠いたものです。牧師の言っていた正義が勝つ夢を見たいものです.
2009.02.11
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予報の天気で大雪でした。細かい雪で15メートル先が見えにくく怖い運転でした。中央分離帯や路側帯の淵と前方のテールランプと車間が頼りです。去年お葬式出した知人のご家族のお父さまが亡くなられ、午後5時にミニカーで時速45~60キロで向かいました。 久しぶりの積雪の道路でした。アイスバーンありの緊張する道路でしたが、みんな紳士的な走り方でした。小さな車は無理が出来ません。お葬式会場を後にして、あとは娘のため、自分の為に安全運転です。誰かのために生きている。そのうち、娘も自立です。それでも、小さくとも誰かに必要とされているって生きる支えです。まして、「私が選んだ」と言われたなら嬉しいです。生きてきた人生で2度も言われたならそれだけでも生きてきて良かったとしみじみと感謝です。悪天候の中、みんな家路につくまでは家族や待つ人の為に慎重運転しているのが解りました。快晴だったなら解らないことでした。そして、今日のお葬式も現代風でひとつの儀式のような感が否めませんでした。ご家族に挨拶をして帰路に無事着きました。お導師さまの愛別離苦が説法でした。お通夜は悪天候でしたが、明日の天気はどうなのでしょうか。
2009.02.08
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命日と違い月命日はその日に「ああ、今日がその日かぁ・・」と気づきまた、ゆるりと時間がいつのまにか気付けば夜です。7は完全数とか。調べてみたい気になる数字です。浅田真央ちゃんのスケートが気になり、午後テレビを見たならキム・ヨナの演技が完璧なほどの慎重な演技につい見とれてしまいました。昨日は真央ちゃんのSP6位で今夜のフリー大丈夫かな?娘と頑張って3位? かなと話していたなら、今夜のテレビの放送前に娘の携帯フラッシュに何と3位と。フリーでの演技が1位。凄い。元気もらいますね。少しづつですが若い人の頑張りからも、一歩前進ってスイッチが入る感じです。今夜のテレビ、安心して見られれそうです。我が家の猫もプラズマテレビの前で観戦でしょうか。明日の大荒れ予報も気になりますが、今夜はバンク―バー冬季五輪テスト大会を兼ねた四大陸選手権のフリーが楽しみです。キム・ヨナ選手のショートプログラム1位発進の演技からでたいへんだったことでしょう。フリー3位なのですから、選手の僅差には想像できない練習量や精神力を家の中で見られるんですから楽しみです。外は深々雪景色。たまに、高速の交通情報に逆走の為通行止めがラジオから流れるのが気になります。そんなことがあっても家でテレビ観戦できる小さな幸せに感謝です。
2009.02.07
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ラジオビタミンの句から ・ 春近し 娘の机に チョコレート(父の句) ・ むくむくと 恋の虫たち 春近し ・ あのときと 同じ風の音 春近し この間、外から帰宅したならテーブルにあったメモです。「母さんならどれ好き?」と聞いてきた3首です。元気を誘われるのは2首めでしょうか。お互いに3首目は何か、切ないねとまとまりました。ツルツル道路の生活道路から、幹線道路は全く積雪ゼロです。夕方からはアイスバーンになる道路です。夕方5時近くでも少し明るく、春が来ている感じがします。その前に雪祭りがあります。季節はずれの雨で気がかりでしたが、凍れてきているので関係者の方々は安堵しているでしょう。5日より60回目が開催されます。今年の目玉は韓国の南大門です。外国の参加の方々の雪像コンクールもあるようです。夕方ちかくに、用事を済ませ帰宅途中になると南西に、キラキラ光る星を眺めて不思議な安らぎの世界にしばし浸っていました。誰でも無償に見上げられる星。流れ星に願いをかけるられるほど、星が見えません。故に、一番、目だって見えるのです。星の観察は地方のほうが綺麗でしょう。ラジオから流氷も接岸する日が近いという声が聞こえてきました。2週間近くも遅れてきているそうです。1日中、国会中継を聞きながら木彫りをサクサクし、立春の日も終わりそうです。自分で思うことが出来る時間に感謝です。どんなにのろまであっても。少しづつの歩みにも感謝です。普通のことが一番感謝です。当たり前に出来ることのなんと大いなる御恵みかと。自立で歩けることの幸せ。どんな小さなことでも、今の自分に感謝できる人は幸せです。またモヤモヤの世界で自分を見失いそうになっても、寝たきりを余儀なくされて痛みの淵を見ていたあの日も時に振り返れば、そこで夫が語りかけてくる感じです。「疲れたなら休め。彼らも遠くへは行くまい」と。私が書道をしていた時、自分にも筆を貸してくれと言い娘に差し出した半紙。それを裏張りして色紙にして時に声と顔を思い出しています。病院できょうも、自由の制限を余儀なくされている人とご家族を想像しても、過ぎてしまえば育児時代に似たようなあっというまの日々でした。星を見上げながら、天国で永遠の命をもって夫がどんなことしているかなとメルヘンの世界に信号待ちの間だけ想像していました。「ホントありがとう」と。お嫁さんからのメール27日にきていたもの夕べ見ました。 今夜返しましょうか。長い長いメールでした。スーツでも良いけれど出来れば、民族衣装でと。式次第の在り方のあらましが書かれてありました。未亡人になると、ていうか、何でしょう。何か乗り気になれない気分を理解してもらうには難しいものがあります。譲歩してくれて、スーツでもいいという文字にかなりほっとさせられました。何でこだわったのか。先に決められたことが嫌だったのか。日本人を意識したこともかなりあったのですが、深く考えなかったとい文字も気に入りました。何でしょうね。この心境の変化は・・・・。わかりません。ここは、一旦委ねて・・・それで結果よければいいこと願うのみです。
2009.02.04
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とうとう2月です。夫はこの月を、「2月逃げる」が口癖でした。もう聞くこともできません。あれから、3年目の2月2日も終わろうとしています。明日は節分ですね。茨城の落花生を買って食べ様としたなら、娘の手で阻止されました。明日「鬼は外・・・」をしてからという娘に譲りました。当たり前のように、過ぎていく日々です。ややもすれば、今までのことは全て幻かしらと錯覚すらあります。しかし、時が過ぎて行く事に自分の時間も限りあるものとして夫が「人生を楽しめよ」という言葉が身に迫ってきます。当たり前でない生活をしている人が現実におられることも知っているのに、頭だけで理解している今の私です。子供達は子供の人生があります。子供を亡くした義母は88歳の高齢ですが、年齢的にも私とは違う感慨があるだろうと思っています。子供の幸せをどこまでも考える義母、少しだけ義父のほうが年齢が一つ上なせいか自分のことで精一杯になってきています。子供達はメタボや成人病、障害を抱えて二人のサポートを出来る範囲でしています。長男の義兄の身体も成人病で、時どき入退院です。このようなお話は全国どこにでもあるお話だと思います。今、夫の遺族年金で暮らしていますが予想していたより、減額でしたから義父に聞かれた時答えた自分に今恥じています。聞いていた義父の気持ちを考えると軽率な自分が恥ずかしくなります。無いものばかりが浮き上がって見えて来ていました。夫が生きていれば、定年の朝に最後の弁当を上げられたとか。スーツの背中のほこりを確認していたとか。子供の結婚式には父親として挨拶してもらえたのにとか。娘の結婚式でのエスコートでの顔を見たかったなぁとか。定年の夜にドアを開けてきた時、家族でサプライズしたかったとか。退職金もしんみりと眺めて「良く頑張ってきたね」とか。ふざけて「お疲れさん、貴殿は良くこの荒波を耐えてこられました」とか。退職したなら、お遍路さんに行きたいなと言っていたから「行っていらっしゃい」と言っていたかもしれない。たまには、家族で、それぞれの子供たちと飲みに行ったり仕事の聞き役になっていたと思います。それを脇で聞いている私は木彫りをサクサク彫っていたかも知れません。詩や短歌などや書道の講評役になってもらって、二人で楽しんでいたでしょう。花が芽を出したなら、庭に呼んで一緒に眺めていたでしょう。娘を自分のバーに連れて行き「愛人だよ」とふざけて見たかったなと静かに叶わない夢を語っていた夫でした。数え思えばきりがありません。亡き夫を困らせるだけです。年老いて、老老介護をさせたくなくて先に格好よく逝ったのかしら? と自分で苦笑することも。もっと、づうづうしくても良かったのにねと。夫が出来なかった代わりに生きている側としてもっと生きている実感に感謝したいと思って過ごして来ています。中々思う様には気持ちが変化出来ない焦りも少しづつ和らいできている感じです。日曜礼拝では感謝の言葉、賛美の言葉を捧げますが少しづつ生かされている感じが伝わって来ています。このまま、年老いて行くのかとブルーな気分になることもあります。この時だからこそ出来ることをしたいなぁという思いも少しづつ、誰からか後を押されているような感じです。社会保険庁に用事があり、ミニカーで出かけましたがそこでは60歳前後から70歳代の方の受給者が座って順番を待っていました。夫婦連れ、親子連れ、一人と様々でした。自分の置かれた立場を理解させられる一つの空間でした。記憶を忘れない為にメモです。そして、遺族年金が夫の命の代償のような心持ちにさせられた日でした。命の額に代償のような意味合いのものにとやかく言ってきた私に反省の機会が与えられました。2月2日に反省といっぱい感謝の気持ちを込めて。
2009.02.02
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