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27日、構想日本の「科学技術政策を根本から問い直す~激戦の宇宙技術から考える」を聞きに行った。パネリスト中須賀真一、松井考典、司会が加藤秀樹の諸氏。結論は日本の宇宙科学や政策は世界で負けている。3000億円の予算を使いながら大した成果を上げていない、というものであった。話を聞いて、この分野でも国民は相当だまされているなと唖然とした。宇宙は壮大な宇宙は夢とロマンの世界である。とこういうふうに国民はイメージしているようだが、科学研究、学問研究の対称ははるか遠い何万光年という宇宙のことで、一方、地球の表面に近い部分の宇宙は近宇宙としておくとして、ここには約3000の衛星(この中で日本の衛星は279)が飛び交っている。こういう分野はもはや実用、インフラの世界で、夢とかロマンとかいう世界ではなくなっている。だがあいかわらず国民は遠い宇宙と近宇宙をごっちゃにして夢と希望の宇宙、子供たちに夢を与える宇宙というふうな幻想をもっている。宇宙飛行士は英雄といったイメージ記事が氾濫している。アメリカのGPSを補完するものとして日本の上空に固定する準天頂という衛星が1コ挙げられた。かなり大きいものである。しかし、少なくとも3コ(理想は5コ)上げないと効果が上がらないらしいが、あとの2コ打ち上げが続かなくなっている。この衛星システムを計画した通信、放送業界は、3コも上げるにはコストがかかりすぎて事業採算がとれないと言って下りた。したがっていまでは位置測定のためだけに使われている。 したがって日本の宇宙事業は科学技術政策のビジョンが明確でないまま、一部の官僚や学者集団によって行われていて、3000億円の予算を使いながら大した成果も上げていないのに批判にもさらされていないという状態である。宇宙に関する産業界や国民のニーズがはっきりしないこともある。外国ではニーズがかなりはっきりしてこういう衛星をつくってくれ上げてくれと言うことで動いているらしい。つまり日本では開発研究ばかり先行して、利用という観点がまったく欠如している。中須賀さんは今手に持って運べる位の小さな衛星を秋葉原から部品を買ってきて開発実験をしていると言われた。一つの例としてあるところから北極海を安全に航行をナビゲートする衛星を打ち上げてほしいといわれたそうである。なぜかというとベーリング海峡を越えて北極海を航行すると日本からヨーロッパやアメリカの東海岸にそうとう近まわりできて運送料が格段に安くなるからでる。しかし心配なのは氷山に衝突する事故で、そのためどこに氷山があるかを探知する衛星があればいいというわけである。こういうニーズにもとづいた衛星の打ち上げが行われておらず開発側と利用側がまったく乖離しているのが実情らしい。菅総理が東北復興のビジョンがないとか、国の進路を示さないとかさんざんたたかれるが、このビジョンがないというのはどこも共通した性格である。ビジョンの端くれでも示したらたちまち唐突だとか整合性がないとか議論不足だとか叩かれる。宇宙に関しては文科省、経産省、環境庁、国土交通省、外国との交渉では外務省というふうにこれまた縦割りで一元性などない。まったくため息が出る話であった。
2011/07/31
ノーテレビになってあらためて思ったことはなくても構わないということだった。テレビは映るからなんとなく見ていたということを改めて知った。テレビの番組表を見てみるとその傾向は日常性である。人々が日常していることをテレビの番組でもういちど日常性を確認しているようなものだ。もうひとつの性格は娯楽性である。どれもこれもエンターテイメントだ。テレビ局は風俗習慣に反するようなものや、政治や経済の体制を批判するような刺激的なものは最初から排除している。しかしいくらなんでもそればかりでは支持を失うからときどき、刺激的な発言をするコメンテーターの発言なども入れている。そういうさじ加減が行われている。テレビから人々が読書にもどればいいと思う。読書は自分でこれはと思う本を買ってきてよめばいいから、自己選択が可能だ。本を読んだだけでものすごくいろいろなことを知り、刺激があり、楽しみが大きい。テレビも原発とおなじで社会に定着すると、ものすごいインフラになり、それによって利益を得る産業やCMによる効果、芸能人などのテレビに依存して生きる人たちが発生する。しかし、それによって失った大きなものがある。人々の読書習慣、出版産業、映画産業、なによりもいい映画がなくなった。そして映画館が林立していた頃は盛り場に人々がたくさん集まって街が栄えた。しかし、映画館がなくなると街が寂れた。地デジ、節電になると人びとはテレビのつけっぱなしをやめるからテレビ番組の視聴率はどれもヒトケタ程度になり、CM効果が減ると、安CMや偽装CMが増えてしらじらしくなり、テレビ離れが一層進むだろう。
2011/07/29
我が家では地デジ化を遅らせてノーテレビ生活を3日間経験した。無くても何ともないという感想である。テレビづけだった妻も「ニュースだけは聞きたいね。でもラジオで十分」と言っている。ということはテレビは積極的に番組を選んで見ていたわけでなく目の前にうつるから流されて観ていたというのが実情だった。改めてテレビとは何なのということを考えさせられた。わかったのはテレビとは映像で知らせる道具だということだ。その証拠に、テレビ番組でたくさんあるのは、料理番組、動物、観光、国内の旅、外国の旅、スポーツ番組などで、まさにこれらは映像がないとわからない。政治番組や経済番組には映像がないから菅首相などが国会内の廊下をしかめっつらして歩いている姿とか与野党のメンバーが集まって会議している場面とか、閣議が始まる前に大臣たちが椅子に座っている場面とかの絵がうつる。中小企業の現場風景や自動車の港で貨物に積み込むシーンなどがうつる。これは映像というより挿絵だろう。被災地の瓦礫などは映像だからこそよくわかる。つまり現在あるものをそのままカメラに撮って伝えるのだ。ところが創作番組になると、時代考証などして過去にあったものを仮装して作り出さねばならないから大変である。これはものすごくコストがかかるだろう。だから今ではめっきり新作はすくなくなって過去に作ったものの再放送である。水戸黄門がその典型。最近は高齢者相手の懐かしの番組だから再放送でも文句を言う人はいない。テレビがない時代はラジオだった。野球の実況放送などは、アナウンサーがさもありなんと思わせる場面を言葉を尽くして、臨場感を尽くして伝えていた。「打ちました。捕りました」なんて・・。テレビでは映像が映るから言わないでもいいのに、それでも「打ちました。捕りました。アウト」なんて言っている。これは映像だけではやはり不足ということを物語っている。つまり絵だけ出してもよくわからないから解説を入れる。ラジオもない時代は何だったかというと、人々は小説を読んでいた。ピ-ナッツかなんか脇に置きながら寝ころんでよむ大衆小説。字だけだが、それでも熱中して読んだ。場面は頭のなかで想像する。映画で見た場面なんかを連想しながら読む。ところがテレビになってからは人々は明らかに小説をよまなくなった。しんどいから。画像を見ているほうが楽だから。観るだけだから。ここで何が起こるかというと文化の置き換えである。小説はやはり好きな作者を選んでお金を出して小説を買ってくる。これは積極的な行動である。昔小学生が国語力があったのは小説のおかげである。漢字などはこれで覚えた。知らない漢字もルビがふってあったから先取りで覚えた。テレビという発明が起こると、便利なので普及する。世の中のインフラ化する。こうして文化の異変が置き、伝達方式の置き換えが大規模に起こる。
2011/07/27
21日の藻谷浩介氏の講演はすばらしかった。圧倒的な刺激を受けた。どの人も同じような感想を言っていた。何十年に1度かはこういう天才的な物事の本質を見破る人が現れる。これからテープを起こすのがたのしみである。「デフレの正体」はもう1年以上前に出た本だから読んだ人は多かろう。今回の講演は震災後の日本の進路という話もつけ加えた。藻谷さんの結論はこうである。いまデフレなのは消費する人間がたりなくなったからだ。消費額もすくなくなったからだ。生産力は十分ある。国際競争力もある。何が足りないかは消費である。消費をふやすには若い人たちの給料を40%上げてあげればよい。女性の給与を上げればいい。それも総人件費の中の配分をかえるだけで、たくさんとっている中高年者の分をへらして回すだけでよい。それも毎年総人件費を1%上げるだけですむ。国際競争力が落ちるから人件費は上げられない、日本では生産できないから企業は人件費の安い外国に行ってしまうから、給料は上げられない。というのはうそだ。今の中高年の割高な人件費を今の経営者が修正する勇気がないだけのことだ。藻谷さんは確定的な証拠とか自分が経験したことから類推して判断するべきで、単に新聞やテレビがそういったから、専門家がそう言ったからということを根拠にしてはいけないと何度も言った。そうでないと30年前と同じ意識で言う人が多いのでいつまでも真実が伝わらないという。テレビの影響が一番悪く、専門家みたいな人がいうのを信じてしまい、なんとなくそれが常識みたいになってしまう。ひとつの例として岩手県にある釜石製鉄所の生産はダメになっていますか、まあまあですか、最盛期と同じ生産量を上げていますか、という3つのクイズに答えた人で3つ目の答えの人はほとんどいなかった。しかし答えは最盛期と同じ生産量を上げている、だった。しかし釜石周辺の商店街も飲み屋街もひっそり閑である。むかし大勢の労働者がわいわいと集まって呑んでいた飲み屋も歓楽街もシャッターが下りている。どうしてか。ごく少数の優秀な工業高校出の作業員がすべてコンピュータとモニターで全工程を自動管理しているだけだからものすごくすくない人間で大工場が動かせるようになった。日本中で起きていることはこのようなことである。私は何回も円が100円割ったら、90円割ったらもう日本の工業はだめだといわれつづけてきたが、いま79円でやっていけるのはたぶんこういうことがあるからだろう。藻谷氏の論点は人口変動、勤労者人口変動というところにあり、それがデフレの正体である。
2011/07/23
おめでたいかぎり。アメリカには無理だろうとおもっていたら、予想を覆された。しかも最優秀選手にえらばれた沢穂希選手は府中の生まれだ。うれしいかぎりである。ところで、最近の女性の活躍ぶりは舌をまく。スポーツ界のみならず、最近は言論界での司会者にするどい女性キャスターが登場している。 府中でもママチャリに子供2人をのせて買い物などに行くお母さんを観察しているととても頼もしいという感じがする。Gパンをはいて颯爽としている。男の子2人をのせていたお母さんは子供にきびきびと叱っていた。昔のように子供に甘い、めろめろになるお母さんはすくないようだ。たいていのお母さんは働いている。専業主婦は36%くらいでまだ世界では高いようだが、働いているお母さんは当然子供の育て方も変わってくる。少子化、高齢化で働く人がすくなくなってくると当然誰が補充しなければならないかというと、女性である。もう男性も女性も区別がなくなりつつある。夕方調布で久恒啓一氏に会って話す。この人は最近、日経キャリア誌がえらんだ社会人が学びたい大学院教授20名の中に名を連ねた。20名のうち13人はビジネスマンあがりだそうだ。知研からこういう人が育ったことが嬉しい。日本の大学教授はだいたい専門家でかためているが、専門家というのは、それを知らない人の前で専門を出されるとだいたいそれで通ってしまう。人が知らない世界をもっていればいいのだ。だが最近のように政府もマスコミも役所も学者も専門家も信用できなくなった時代に、国民は自分で考えなければならないが、その知恵をどこで得るか。だれからその知恵を得るか。久恒さんが広めた図解は有力なそのツールである。「日本中枢の崩壊」(古賀茂明、講談社)を購入する。まだ全部よんでいないが、官僚の事が実によくわかる。自身が官僚でありながら、勇気をふるって発言する。こんなすばらしい人が役所の中にいたというだけでうれしい。この人は絶対知研で講演におよびしたいと思う。
2011/07/19
我が家は年に新聞代5万円ほど払っている。テレビには3万円。合計すれば8万円。もしこの金を本やCDなどに使えばかなりのものが買える。もっと精神的に豊になれる。新聞は毎日毎日来る。毎日東北の被災地の話と原発の話だ。これで明け暮れている。メディアは取材しやすいものだけに偏りすぎる。しかも毎日毎日、政府が悪い、菅さんが悪い、と悪口の言いっぱなしである。毎日こういう記事ばかり読んでいると何となく精神がおかしくなる。最近は菅さんだけの悪口でなく東電への悪口も増えた。しかし官僚への悪口は少ない。菅さんが変わればどういういいことが起こるのだろうか。だれがどういう政策をすぐやるのだろうか。それがわからない。なぜ新聞はそれを探って報道しないのか。消費税を2015年までに10%に段階的に上げるという案が、「2010年代中頃」になり、それも「経済が好転してから」という但し書きが着いた。経済は滅多なことでは好転しないだろう。となると菅さんの後は骨抜きオンパレードになるだろう。これから注意していかねばならないのは再生エネルギー法案である。原発推進派というよりそれで食べている業界や官界、政界の人たちはあれやこれやの理屈を挙げて再生エネルギー法案を骨抜きにするだろう。電力は東電などの電力会社が電気を起こして売る。電気が商品である。ここに風力や太陽光、地熱などの電力供給者が増え、企業などの自家発電も増えると自然、電力会社の商品シェアは減ることになる。困る人たちがでてくる。それで新しい理屈をつくるだろう。民主党のことを悪く言い過ぎる新聞、コメンテーターが多い。6月にNPO法優遇税制が決まった。NPO法人が3万もあるというのに優遇税制が認められた認定NPO法人は400くらいしかなかった。それがトントンと進んだのは、やはり民主党になってからだ。これでほとんど認定NPO法人になれる。自民党の頃は何十年たっても進まなかった。このわけをメディアはよく考えてほしい。あと何日で、地デジしめきりですよ、と毎日テレビの画面に出る。不愉快なことおびただしい。我が家はもうテレビなしにしようと思っている。
2011/07/14
就任9日目の松本復興相がクビになった。あるいはいやけがさして投げ出したのかもしれない。宮城県知事に就任の挨拶と打ち合わせに行ったときに、知事が応接室で迎えなかったのが気にいらんかった、「知恵のないやつは助けない」と言ったのが上からの目線、説教するような態度、国と県に対して主従関係的な感覚、などと叩かれて、野党は菅総理の任命責任を追求する構えになって、政権運営に支障が出るということになってクビ。 しかし私はなんとなく心寒い気分になった。「知恵のない奴は助けない」という言葉は、現場は知恵を出してください、そうしたら一生懸命助けますよ、という意味で言ったのだと思う。こういうことを言う人はかなり本気だったのだと思う。それがネガティブにとられた。松本復興相という人は平民運動で有名な松本治一郎の孫でしかも九州人ということになれば直情径行、何らかのクセがあるが、やらせれば仕事をする人のように思ったからだ。いばった感じの人、大言壮語する人、俺にまかせろ式の人は一般企業などでもどこでもいるが、見かけ倒しの人が多い反面、中にはけっこうやる人がいる。昔の国士ふうの官僚にはそういうタイプが多く、よく仕事をした。これはやらせてみないとわからない。 しかし今回のケースはやらせてみるもみないもなく、マスコミの前でそういう口のきき方をしたというだけでチョンになった。新聞は例の如く被災地の人の反応を大見出しで「被災地の気持ちが全然わかっていない」。 私が中学生の頃、昭和19年末頃になると、なんとなく日本は負けるのではないかという気分が漂い、すこしでも弱音を吐くと、「前線の兵隊さんの労苦を思え」としかりとばされた。ちゃんと理性のあった先生がおかしくなったのである。今はなんか言うと「被災地の方々のことを思え」というのがメディアの常套手段になった。日本人はいつのまにか器量がちいさくなり、面白みがなくなってしまったことに私は心寒い気がしたのである。
2011/07/05
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