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にほんブログ村 次の様な洋食器をご覧になったことはおありでしょうか?「アウガルテン マリアテレジア」(出典: ル・ノーブルH.P.)ハンドル(持ち手)のないカップ。これをボウルと呼びます。そして、深さのある丸みを帯びたソーサ。これをラウンドディッシュと呼びます。当初は、これは特殊な紅茶の飲み方から生まれた洋食器でした。オランダから始まった特殊な紅茶の飲み方の流行。それは、ボウルからラウンドディッシュに紅茶を移し、ラウンドディッシュから紅茶を飲む作法でした。なぜその流行が始まったかはわかりませんが、当時はお洒落とされました。現代では、ラウンドディッシュ&ティーボウルは日本茶用に使われることが多いかと思います。何が流行になるか、わからないものですね。【 アウガルテン マリアテレジア ラウンドディッシュ&ティーボウル 】 < ↓ ランキングクリックはこちらから > にほんブログ村
2023.02.27
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にほんブログ村 紅茶を飲むティーカップ。その形は様々です。ティーカップの形で、紅茶の味が変わる。そのことを考慮して、みなさんはカップを使い分けられているでしょうか?飲み口が広く、背が低いティーカップがあります。「エインズレイ オーチャードゴールド」(出典: エインズレイ公式H.P.)このカップで紅茶を飲むと、カップを大きくは傾けられません。そのため舌の上を、ゆっくり紅茶が流れます。「広口低高のカップ」 ・舌の上に紅茶が長く留まり、紅茶の味わいが増す ・紅茶の香も堪能できる ・紅茶の透明感も増し、紅茶の色の違いも楽しめる ・一方で、紅茶の”苦味”も強く感じる ・苦味の苦手な人には適さないそれに対して、飲み口が狭く、背が高いティーカップもあります。「エインズレイ エリザベスローズ」(出典: エインズレイ公式H.P.)このカップで紅茶を飲む時は、カップを大きく傾けなくてはなりません。そのため紅茶は、口に早く注がれます。「狭口背高のカップ」 ・紅茶が舌の上を早く流れ、紅茶が水っぽく感じる ・紅茶の色の違いが分かり難くなる ・紅茶の”苦味”も感じ難い ・紅茶のすっきりとした切れ味を楽しめる2種類のティーカップ、みなさんはどちらがお好みでしょうか?【 ロイヤルアルバート オールドカントリーローズ 】 < ↓ ランキングクリックはこちらから > にほんブログ村
2023.02.25
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にほんブログ村 18世紀、フランス革命前夜の激動の時代。その時代のフランスを彼女は生きました。彼女の名は、マドモワゼル・リア・ド・ボーモン。彼女は外交官であり、フランスの女スパイでもありました。当時、フランスとロシアは敵対関係にありました。フランスはロシアとの関係改善を望みますが難攻。そこでロシアの女帝エリザヴェータを個人的に味方に付けることでした。【マドモワゼル・リア・ド・ボーモン】(画像出典: Wikipedia)美しさで知られたエリザヴェータは、フランス貴族の社交界に強い憧れを持っていました。そこでロシアに、スパイとしてボーモンが送り込まれました。ボーモンの一流の貴族夫人の身のこなしに、たちまちエリザヴェータは魅了されました。彼女はエリザヴェータのフランス語教師にまで任命されました。そしてボーモンはエリザヴェータをとりこにし、両国の友好関係を回復しました。実際、ボーモンの貴婦人としての素養は卓越していました。マリーアントワネットも彼女を気に入り、ドレスをプレゼントしたほどです。そればかりか彼女は武芸にも長け、フェンシングも一流でした。【右: マドモワゼル・リア・ド・ボーモン】(画像出典: Wikipedia)しかし、彼女には大きな秘密がありました。マドモワゼル・リア・ド・ボーモンは偽名でした。本名は、デオン・ド・ボーモン。実は男性だったのです。ボーモンは「ベルサイユのばら」のオスカルのモデルです。(オスカルは男装の女性)【 フランス リモージュ 】 < ↓ ランキングクリックはこちらから > にほんブログ村
2023.02.22
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にほんブログ村 愛知県常滑市大野町の東龍寺で代替梵鐘に出会いました。コンクリート製の代替梵鐘です。側面には銘板を外した様な凹みが2か所あります。しかし、肝心の鐘楼が見当たりません。後日、google mapの写真を見ると、鐘楼は代替梵鐘を吊り下げた状態で掲載されていました。たしかに、鐘楼を撤去した作業らしき痕跡はありました。代替梵鐘の傍には、石造物が並べられていました。石仏前にはゴムロープが置かれ、現在も作業中にも思えました。鐘楼が載っていたかもしれない基台には、まだ新しい釈迦如来像が建てられていました。戦時中、梵鐘の金属供出に、人々は涙しました。そして代替梵鐘の重さでバランスを保ち、鐘楼の崩壊を防ぎました。人々は戦争を恨み、平和を願い、代替梵鐘を残しました。戦時中、あれほど存続を願い、守り続けた鐘楼。それが鐘の音がうるさいと、今では自由に打つこともできません。今では鐘楼がない寺院も珍しくはありません。戦争でもなく、災害でもなく、人々の心が離れることによって、今、鐘楼が消えてゆこうとしています。私達はなにか大切なものを、忘れてしまってはいないでしょうか。・・・・・・・・・・・・・・・◆代替梵鐘◆●【陶器製の梵鐘】 「愛知県瀬戸市 法雲寺」●【コンクリートおよび石製の梵鐘】 「愛知県安城市 石川山 蓮泉寺 ・ 松誉山 本楽寺」●【コンクリート製の梵鐘】 「愛知県安城市 泉流山 本龍寺 ・ 明専寺」●【コンクリート製の梵鐘】 「愛知県西尾市 養寿寺」●【コンクリート製の梵鐘】 「愛知県みよし市 大覚寺」●【石製の梵鐘】 「名古屋市東区 松嶋山 圓明寺」●【石製の梵鐘】 「愛知県刈谷市 泉正寺」【 常滑焼 】 < ↓ ランキングクリックはこちらから > にほんブログ村
2023.02.20
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にほんブログ村 名古屋市内の公園で、しばしば見かけるものがあります。シロクマ形公園名称板。名古屋市内の公園で、私達を出迎えてくれます。写真の名称板は、正木南公園。よく見かける名勝板ですが、写真撮影は初めて。皆さんもご近所の公園に出かけてみませんか?楽しい出会いがあるかもしれませんよ。【 名古屋 小倉トーストチーズケーキ 】 < ↓ ランキングクリックはこちらから > にほんブログ村
2023.02.18
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にほんブログ村 「水子弘法の謎を追って」、最終回です。なぜ多くの場合、立像の作家は、その名を作品に残さないのでしょうか。一方で、寄進者の名は作品に刻まれます。寄進者はなんらかの想いを持って、立像を発注します。そして、その想いが具現化されたのが立像です。寄進者の想いを残すことが重要ですから、寄進者の名は作品に刻まれます。一方で、作家は想いを立像に変える「通訳者」にすぎません。通訳者が目立てば、立像が持つ本来の想いがぼやけます。だから、通訳者である作家は、作品に名を刻まないのでしょう。*豊明市の神社散策中に、毛受善市氏の名を寄進者の中にみかけました。阿野八剱神社でのことです。善市氏がどの様な想いで、各地で寄進したかはわかりません。残すべき想いさえも、こうして消えてゆきます。水子弘法像も、私有地にある性格上、長期の保存は難しいでしょう。作家名は忘れられ、作品も失われ、想いさえも消えてゆく。すべて人の営みは、儚いものなのです。全9回に渡り続いた「豊明市 水子弘法の謎を追って 最終章」、これで終わります。長くお付き合い頂き、ありがとうございました。(最新記事)【 記事 1】 「豊明市 水子弘法の謎を追って (最終章 1) 」【 記事 2】 「豊明市 水子弘法の謎を追って (最終章 2) 」【 記事 3】 「豊明市 水子弘法の謎を追って (最終章 3) 」【 記事 4】 「豊明市 水子弘法の謎を追って (最終章 4) 」【 記事 5】 「豊明市 水子弘法の謎を追って (最終章 5) 」【 記事 6】 「豊明市 水子弘法の謎を追って (最終章 6) 」【 記事 7】 「豊明市 水子弘法の謎を追って (最終章 7) 」【 記事 8】 「豊明市 水子弘法の謎を追って (最終章 8) 」(過去分)【 以前の記事 1 】 「毛受兄弟記念の謎のコンクリート像」【 以前の記事 2 】 「毛受兄弟記念の謎のコンクリート像 2」【 以前の記事 3 】 「謎のコンクリート像の情報収集をしました 1」【 以前の記事 4 】 「謎のコンクリート像の情報収集をしました 2 」【 サクラビスク 】 < ↓ ランキングクリックはこちらから > にほんブログ村
2023.02.16
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にほんブログ村 瀬戸の原型師 稲垣勝美氏。その存在は、哀しい報せとともに知ることになりました。稲垣勝美氏のアトリエは、家族の皆さんにより保存されていました。しかし、2021年12月の公開を最後に、アトリエは解体されてしまったとのことでした。詳細は下記にあります。【瀬戸ノベルティ文化保存研究会】 「瀬戸ノベルティの名原型師・稲垣勝美アトリエ、最後の見納め見学会」アトリエは、資料館として保存されても良いレベルかと思います。研究会の皆さんの努力があっても、保存されませんでした。原型師が、その名を遺すのは難しいことでしょう。それでも知名度を得た稲垣勝美氏は、如何に優れた技能を有していたか、推し量ることができます。それでもなしえなかった、アトリエの保存。文化財を守ることの難しさを再確認した、哀しい出来事でした。次回、ついに最終回です。【次の記事へ】 「最終章 9 最終回」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(最新記事)【 記事 1】 「豊明市 水子弘法の謎を追って (最終章 1) 」【 記事 2】 「豊明市 水子弘法の謎を追って (最終章 2) 」【 記事 3】 「豊明市 水子弘法の謎を追って (最終章 3) 」【 記事 4】 「豊明市 水子弘法の謎を追って (最終章 4) 」【 記事 5】 「豊明市 水子弘法の謎を追って (最終章 5) 」【 記事 6】 「豊明市 水子弘法の謎を追って (最終章 6) 」【 記事 7】 「豊明市 水子弘法の謎を追って (最終章 7) 」(過去分)【 以前の記事 1 】 「毛受兄弟記念の謎のコンクリート像」【 以前の記事 2 】 「毛受兄弟記念の謎のコンクリート像 2」【 以前の記事 3 】 「謎のコンクリート像の情報収集をしました 1」【 以前の記事 4 】 「謎のコンクリート像の情報収集をしました 2 」【 雛人形 有田焼 】 < ↓ ランキングクリックはこちらから > にほんブログ村
2023.02.14
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にほんブログ村 豊明市 水子弘法像の謎を追い、手掛かりを得た毛受家照像。善市氏も寄付をしたという、その銅像の作家は「稲垣勝美」氏でした。稲垣勝美氏は、瀬戸ノベルティの有名な原型師です。1913年に生まれ、1995年に他界されています。あの彫刻家・北村西望に師事し、名古屋製陶所や大倉陶園で勤め、その後は、丸岡陶器など、多くの原型作りを手掛けられました。瀬戸ノベルティとは、瀬戸で作られた陶磁器製の置物や装飾品。輸出用を中心に人気を博し、瀬戸の産業の振興に大きく貢献しました。豊明市の水子弘法像の作家が、稲垣勝美氏という記録はありません。ただ、水子弘法などの顔立ちは、陶磁器の人形の顔立ちにも似ています。私が毎回、ビスクドールをリンクしていたのは、そのためでもあります。謎を追い、たどり着いた稲垣勝美氏。ただその調査では、哀しい出来事を知ることになります。【次の記事へ】 「最終章 8」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(最新記事)【 記事 1】 「豊明市 水子弘法の謎を追って (最終章 1) 」【 記事 2】 「豊明市 水子弘法の謎を追って (最終章 2) 」【 記事 3】 「豊明市 水子弘法の謎を追って (最終章 3) 」【 記事 4】 「豊明市 水子弘法の謎を追って (最終章 4) 」【 記事 5】 「豊明市 水子弘法の謎を追って (最終章 5) 」【 記事 6】 「豊明市 水子弘法の謎を追って (最終章 6) 」(過去分)【 以前の記事 1 】 「毛受兄弟記念の謎のコンクリート像」【 以前の記事 2 】 「毛受兄弟記念の謎のコンクリート像 2」【 以前の記事 3 】 「謎のコンクリート像の情報収集をしました 1」【 以前の記事 4 】 「謎のコンクリート像の情報収集をしました 2 」【 サクラビスクドール 】 < ↓ ランキングクリックはこちらから > にほんブログ村
2023.02.11
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にほんブログ村 豊明市 水子弘法像の謎を追い、たどり着いた別の立像。それは愛知県尾張旭市の文化会館前にあります。毛受家照の銅像です。(画像出典:https://www.asuka-tobira.com/dozo/album/index.html)毛受善市氏はこの像を建てる際に寄付されたそうです。毛受家の子孫としての立場から。この像は、昭和63年に建てられています。豊明市の水子弘法が建てられた昭和57年の6年後。時期も近く、関連性がありそうです。(画像出典:https://www.asuka-tobira.com/dozo/album/index.html)次回、この像の作家のお話をしましょう。【次の記事へ】 「最終章 7」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(最新記事)【 記事 1】 「豊明市 水子弘法の謎を追って (最終章 1) 」【 記事 2】 「豊明市 水子弘法の謎を追って (最終章 2) 」【 記事 3】 「豊明市 水子弘法の謎を追って (最終章 3) 」【 記事 4】 「豊明市 水子弘法の謎を追って (最終章 4) 」【 記事 5】 「豊明市 水子弘法の謎を追って (最終章 5) 」(過去分)【 以前の記事 1 】 「毛受兄弟記念の謎のコンクリート像」【 以前の記事 2 】 「毛受兄弟記念の謎のコンクリート像 2」【 以前の記事 3 】 「謎のコンクリート像の情報収集をしました 1」【 以前の記事 4 】 「謎のコンクリート像の情報収集をしました 2 」【 ノリタケ 】 < ↓ ランキングクリックはこちらから > にほんブログ村
2023.02.08
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にほんブログ村 豊明市 水子弘法像の謎を追い、毛受組を探しました、毛受組は当初予想した国道1号線沿いではありませんでした。毛受組は豊明幹部交番の近くにありました。しかしコンビニの壁の陰になり、県道239号線からは見えません。毛受組の場所は、少しわかり難くなっています。毛受組で聴き込みし、下記の情報が得られました。●水子弘法を建てた毛受善市氏は、ご夫婦ともに他界されている。●善市氏にはご子息がおられるが、話を聴ける健康状態ではない。つまり、水子弘法の作家は、まだ解明できませんでした。しかし新情報が得られました。善市氏が関わった別の立像があるというのです。その立像から、一人の作家につながります。【次の記事へ】 「最終章 6」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(最新記事)【 記事 1】 「豊明市 水子弘法の謎を追って (最終章 1) 」【 記事 2】 「豊明市 水子弘法の謎を追って (最終章 2) 」【 記事 3】 「豊明市 水子弘法の謎を追って (最終章 3) 」【 記事 4】 「豊明市 水子弘法の謎を追って (最終章 4) 」(過去分)【 以前の記事 1 】 「毛受兄弟記念の謎のコンクリート像」【 以前の記事 2 】 「毛受兄弟記念の謎のコンクリート像 2」【 以前の記事 3 】 「謎のコンクリート像の情報収集をしました 1」【 以前の記事 4 】 「謎のコンクリート像の情報収集をしました 2 」【 Made in Japan 】 < ↓ ランキングクリックはこちらから > にほんブログ村
2023.02.06
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にほんブログ村 謎の水子弘法像、その後、日を改めて再調査しました。調査方法は、弘法像近所での聴き込み。その結果、下記がわかりました。水子弘法の横には祠があり、内部に千体弘法(身替り弘法)があります。●祠の中の千体弘法はもともと山中の別の場所にあり、 初代毛受組(毛受善市氏)がこの地に移設した。●千体弘法は「江戸時代後期の瀬戸の名陶工 弘法善治」が製作。まず千体弘法の由来はわかりました。次に水子弘法です。●水子弘法は昭和57年に、初代毛受組 毛受善市氏により建てられた。●毛受善市氏は他界。 水子弘法の経緯を知る人はいないだろうとのこと。まだ水子弘法の調査は続きます。次回からは、未公開の新情報です。【次の記事へ】 「最終章 5」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(最新記事)【 記事 1】 「豊明市 水子弘法の謎を追って (最終章 1) 」【 記事 2】 「豊明市 水子弘法の謎を追って (最終章 2) 」【 記事 3】 「豊明市 水子弘法の謎を追って (最終章 3) 」(過去分)【 以前の記事 1 】 「毛受兄弟記念の謎のコンクリート像」【 以前の記事 2 】 「毛受兄弟記念の謎のコンクリート像 2」【 以前の記事 3 】 「謎のコンクリート像の情報収集をしました 1」【 以前の記事 4 】 「謎のコンクリート像の情報収集をしました 2 」【 ビスクドール 】 < ↓ ランキングクリックはこちらから > にほんブログ村
2023.02.04
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にほんブログ村 謎の水子弘法像、調査の経緯を振り返ります。まず現地では、石碑に書かれた説明書きが参考になりました。「毛受兄弟四百年祭に當 昭和五十七年四月 十五代毛受善市建也」「昭和五十七年癸亥年正月 初代毛受組建之」この説明から、下記が分かりました。 ・水子弘法は「毛受(めんじょう)兄弟400年記念」で建てられた。 ・建てられたのは、昭和57年4月である。 ・建てたのは、初代毛受組の毛受善市氏 (毛受家15代目)。ネットでは、有名なコンクリート像作家の作品とも噂されていました。しかし、像は昭和57年(1982年)製。作家は、後藤鍬五郎(1976年没)や浅野祥雲(1978年没}ではあり得ません。また作風から、高見彰七でもないでしょう。まず、この時点では作家の謎は深まった形となりました。【次の記事へ】 「最終章 4」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(最新記事)【 記事 1】 「豊明市 水子弘法の謎を追って (最終章 1) 」【 記事 2】 「豊明市 水子弘法の謎を追って (最終章 2) 」(過去分)【 以前の記事 1 】 「毛受兄弟記念の謎のコンクリート像」【 以前の記事 2 】 「毛受兄弟記念の謎のコンクリート像 2」【 以前の記事 3 】 「謎のコンクリート像の情報収集をしました 1」【 以前の記事 4 】 「謎のコンクリート像の情報収集をしました 2 」【 ビスクドール 】 < ↓ ランキングクリックはこちらから > にほんブログ村
2023.02.01
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