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久しくブログを放置しておりました。引っ越しやら、その後の過労でぶっ倒れるやらで。さて。ちょっと今日は長くなります。3月中旬のこと。通勤電車に揺られてうつらうつらとしておりました。そのとき、ふと目に入ったのが、電車の中吊り広告。いろいろな雑誌や新刊が宣伝されております。その中に、幸せになる覚悟はあるかというような自己啓発的な著書が見えました。”ふーん、幸せねえ・・・。”と、なんとなくつぶやいておりました。幸せとは、自分の意識が感じ取るものであり、そのことに気が付けばどんな瞬間においても最大限の幸福を享受することができます。つまり、私は不幸だ、不幸だと思えば不幸ですよね。私は幸せだ、幸せだと思えば幸せなんです。これじゃあ分かりにくいでしょう。では具体的に。ある女性に恋い焦がれている人がいるとします。その人が意を決して女性に告白しました。女性がその申し出を受け入れたら、その人物は幸福だと言えるでしょうか。もうちょっと俗な言い方をしましょう。宝くじで一等賞が当たりました。幸福でしょうか。必死で練習してるスポーツで見事な結果を出しました。幸せでしょうか。つらい一日の仕事を終えて、楽しみの酒を飲んだ瞬間と言うのは幸せでしょうか。一体、人にとって普遍的な幸せとは何を言うのでしょうか。ハーバード大学が長年研究を重ねた結果、人にとっての最大の幸福とは、円満な人間関係だということが発表されました。収入や物品ではなく、どれだけ周囲との良好な人間関係を築けるのかと言うことらしいです。人は心と欲望が満たされたとき幸福を感じるのですが、それらが奪われるときに苦痛を感じます。と言うことは、人の幸福は永続しないものと言えますね。しかも、時間の経過によって幸福度が下がることもあります。相思相愛のカップルが永遠の愛を誓っても、それが続く可能性は決して高いとは言えません。人は心変わりをするものです。それを努力で乗り越えてこそ、夫婦としてのきずなができるのだと言う人もいますが、そうならない人も多く存在するので、これも普遍的とは言えないですよね。では、人間の存在をもっと丸裸にしてみましょう。人の持つ金銭やモノや人間関係をすべて取り去ってみます。何が残るでしょうか。肉体だけしか残りません。この段階で人が得られる幸福とは、五感によって得られるものだけです。では、この肉体はその人物を表すものでしょうか。これは仏教の開祖、仏陀の問答にある話ですが。私とは肉体によるものではないと言っています。例えば、Aと言う人がいます。その人の腕を切り落としたら、残ったからだと腕と、どちらがAさんだと思いますか?当然、残ったAさんの体ですね。では、Aさんを頭から左右に切り分けたとしたらどうでしょうか。どちらもAさんだと思われます。では、Aさんの体を一寸刻みにしたらどうでしょう。その肉片の塊はAさんだと言えるでしょうか。そもそもAさんは、その肉体を指して言うのが正しいのでしょうか。結局、肉体を細切れにしても、Aさんの本質は出てこないのです。なぜならAさんとは、”私がAである”と思ってる意識なのですから。と言うことは、肉体すらも人のものではないと言うことになります。では人から肉体を取り去ると何が残るでしょう。意識しか残りません。フナで言う、ミドルセルフです。ここまで来て、ようやく一つの事実が見えてきます。意識における幸福とはなんでしょうか。それは物理的な物事によらず、肉体に依存せず、意識によってのみ感じられる感覚のことです。これは奪われることがありません。自分だと思っている意識がある限り消え去らないのです。では、ミドルセルフにおける幸福とは何でしょうか。それは、ロウセルフ、ハイセルフが常に存在しているという人間関係のことです。この関係は一生続きますし、彼らは決して自分を裏切りません。肉親以上の存在なのです。そんな存在が常に自分のそばにいるのです。これ以上の幸福があるでしょうか。私たちは、たとえこの地球上でどんなに最悪な状況に置かれていても、常に見守ってくれている二つの意識がいることを知っています。財産や肉親が失われても、三つの意識の関係は絶対に失われないのです。だからこそ、私たち人間は最初から最大限の幸福の中にいます。私たちは自分が幸福を感じているとき、それがとてつもなく大きなものであるとき、他人に対して優しくなれます。自分の心に余裕がない時に他人に優しくするのは難しいものです。ですが、すでに自分が最大限の幸福の中にいると気が付くと、自然とすべてに対して優しく親切になれます。これがフナにおける幸福と言うものです。このとき、私たちは自然とハイセルフと接続することが出来るようになります。最大限の幸せを感じられると、ハイセルフとのアカコードが自然に接続され、その中にマナが流れ込むのです。幸福を感じることでこれらの行動はロウセルフが自動的に行うようになります。
2016.03.29
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ロング博士の著書には、マナを生命力としてある。それは間違いないと思う。だけど、それだけの説明だと問題も多い。もし生命力だとして、じゃあハイセルフはマナを持っていないのか?ロウセルフ、ミドルセルフ、ハイセルフはひとつの生命体であり、ロウセルフが作り出すエネルギーを仲良く分けあっていると言う解釈になっているのだけど。ロウセルフが、他の二つの意識と違っているのは肉体を持っていること。肉体とは、要するに物理的な存在って意味です。死後の世界や、ハイセルフの住む世界にはマナを直接持っていくことはできません。この世にいる肉の身体が発生させるマナにすべてを依存してるわけです。人の生命力については、他の神秘行でも気がついていたし、それを利用としてきましたね。仙道の気、ヨガのプラナです。これらはすべて同じものを指しています。ヨガでは感覚をそれほど重視しないため、具体的にどれがプラナなのかはあまりはっきりしない。逆に仙道では感覚を重視するために、気について詳細な説明がなされている。でも、仙道の気は目に見えないため、”はい、これですよ”と見せられるものではない。たとえて言うなら、初めて見た色のようなものだ。誰も見たことの無い色を説明する場合、既存の色を使って説明するしかない。熱や圧力のような感覚があって、ふわふわすべすべしてる。もしくはねばーっとする場合もある。これじゃあ、分かりませんよね。ただ、すべての生命エネルギーに共通するものがある。発生には呼吸が伴うと言うこと。強い呼吸を行うとマナが発生しやすいと言う。仙道では武息と言う強い呼吸を行うことで内蔵を動かし陽気を発生させる。ヨガでも内蔵を絞ってプラナを作り出してる。この、”内蔵を動かす”と言う部分が重要なのです。まず、昔の人が感じていた生命力、これをできるだけ分かりやすいイメージで伝えるとするなら、”じんわりと感じる内蔵の熱”と言うべきではないかと思う。体力的に限界まで身体を酷使したり、ひどい二日酔いや下痢、病気をした後で、体力の回復を待っているとしましょう。へとへとでなにも考えられないくらいに臥せっていたのが、徐々に身体を動かそうと言う気力が回復してきますよね。”風呂に入ってさっぱりしよう”ゆったりと風呂に入って、身体の内部に熱が伝わってきます。身体の芯まで暖まってくると、熱がじわじわと頭の方にまで昇ってきます。風呂から上がり、座ってゆっくりと身体の内部を観察してみましょう。内部に残った熱がどんどん上がってきます。これが生命力の過剰に発生した状態とほぼ同じです。風呂はお湯の熱を利用していますが、生命力は内蔵で発生したエネルギーが元になります。それを作り出すには筋肉の力が必要です。その筋肉は、横隔膜ですね。呼吸を行うための筋肉です。この筋肉が収縮すると、内蔵が強く押し込まれ圧縮されます。横隔膜が緩むと内蔵も緩み、血流が回復します。内蔵を押し込み、緩める事で消化器官の血流が増大します。それに伴い、リンパ液の還流も促されます。胃の下あたり、おへその奥、骨盤の中央辺りに意識をおいて、その真上にある横隔膜が上下してるとイメージします。私はゴム風船やバランスボールに使われてる丈夫なゴムの幕をイメージしていますが、それが呼吸によってぐうっと押し込まれたり、緩んだりすると感じています。非常にゆっくりとした呼吸を行いつつ、おなかを横隔膜の動きにあわせて膨らましたりへこませたりします。だいたい、この動きだけでも十分な気やマナが発生するのですが、これにロウセルフの意識を合わせます。”呼吸にあわせて過剰にマナを発生させろ”と命じます。おなかの底に熱い湯が発生したように感じられるのですが、それが呼吸を緩めるときに体内を昇ってきます。首筋や背中が熱くなれば正しく動作が行えていると言えます。ロング博士の著書には、ロウセルフに催眠術を行い、大量のマナを発生さて見ると言う実験を行った人がいたと書かれています。ですがそれは結局上手くいかなかったようですね。理由は簡単です。マナを強く発生させられるような呼吸はミドルセルフが関わらなくてはいけないからです。ロウセルフが勝手に大量のマナを作り出すと言うことはありません。あくまでミドルセルフが関与してるときだけです。呼吸は自律神経支配ですので、ロウセルフが勝手に動かしてくれますが、マナを作り出すために内蔵を絞り上げるような呼吸はミドルセルフからの命令がなくてはできません。呼吸によって内蔵の内部に熱が発生すれば、それが生命力だと思ってください。圧力感、しびれるような感じ、すべすべしたりねばねばした感覚と言うのは、その熱の動きに伴って生じる感覚に過ぎません。基本的には熱を感じるようになれば良いと思います。ではマナが発生したらどうなるのか。意識がクリアになります。やる気が出ます。手足の隅々まで感覚が鋭敏になります。筋肉の痛みや凝りは軽いものであればすぐに治ります。血流とリンパの流れが整うので、体調はとても良くなります。内臓脂肪が燃焼してダイエットにもなりますし、肌の調子も良くなります。便秘も治ります。肉体の不調が改善されると言えますね。常に呼吸に意識を置き、おなかの底にある淀んだリンパや老廃物が呼吸によって押し出されるとイメージしましょう。
2016.03.07
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フナでは、カーラのことを、”光の浄化”と呼んでいる。身も心も綺麗にして、余計なひっかかりを消してしまう技術のことだ。完璧な浄化を行えば、今抱えている様々な問題を解決できると言う。これだけ聞くと、”すごい技術だ”と思ってしまいますね。では本当にそんな技術なんでしょうか。私はこれをムダ毛処理と思っています。何のことだと思うでしょう。人のからだからは、影物質の糸が無数に延びています。これが縁の正体なのですが。良くも悪くも、この縁が繋がることで人との関わりができてしまいます。カーラは、一時的にこの糸を切断します。あくまで暫定的な切断であり、永久に切れるわけではありません。ですが、縁が一時的にしろ切れるわけですから、他人への影響も、また他人から受ける影響も減じられます。それによってこじれた問題が軽減されると言うのは理論的にも分かりやすいですね。髪の毛や髭は時間と共に延びてきます。邪魔な長さになれば、当然切りますよね。アカコードも同じです。あまりに長すぎる(複雑に絡みすぎてる)場合は切るのが一番です。しかし、アカコードは体内から自然と延びてるので、一時的に切断できてもまた延びてきます。過去の記憶や関わり、それらによってアカコードハ無限に生成されるため、どんなに浄化を行ったとしても、永久に切ることはできないのです。根本的な関係を変化させない限り、他人との関わりは変わることなく続いていきます。浄化を行うのは難しくありませんし、むしろ自分がなれてる方法で行う方が良い場合もあります。ただ、それによって悪因縁が断たれる事はありませんし、良い縁が消えることもありません。複雑に絡んだ縁を整え、構築しなおすと考えれば良いでしょう。伸びて絡まった髭は切ることですっきりします。
2016.03.04
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引っ越しをすることになりまして。知り合いに方位を見てもらったら最悪でしたw今年は私は南東以外動けないのです。でも物件は南西。仕方ないので、方位を変えることに。いったん、新宿方位に抜け出し、そのあとに南東に戻ることにしました。これは方位の問題なのですが、一応エネルギーと言うか波動の関係で他人から剋されることがあると言うらしいのです。そこで逆方向に動いて、私が誰かを剋する方位に動くということです。誰かにやられるよりも、こっちがやる方がマシだと言う理屈。それはそれで問題がありそうですが、引っ越しが既定である以上仕方ありません。それはそれとして。神社でも方除のお祓いを受けることにしました。うちの近くでやってるところは日枝神社。早速、本日行ってきました。厳かにお祓いを受けている最中、この意味を考えていてはたと気が付きました。これはアカコードを切断してるのだと。太鼓や神楽の鈴の音は、物理的な刺激として五感に届いています。それによってロウセルフに刺激を与えて、アカコードを切断するよう促しているのだと分かりました。お祓いを受けたからと言って、何でも良いというわけではありませんが、少なくともその理由を知ってると少し安心です。長年住み続けた場所や、そこから移動するところ、その道筋には自分の身体から伸びた影物質がびっちりとこびりついてるのです。それとのつながりをいったん切り、新しい接続を作り直すのがお祓いなのでしょう。
2016.03.03
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