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裸にはまだ衣更着の嵐かな 芭蕉
芭蕉 の弟子、 支考 が師の句文を収集した 『笈の小文』 という書には、掲出句についての 芭蕉 の 「増賀の信をかなしむ」 という言葉が記録されている。平安時代の高僧 増賀 の信仰心を愛おしむという意味である。 増賀 という僧を知らないと、掲出句は理解できない。 芭蕉 も愛読していた、鎌倉時代の仏教説話 「撰集抄」 冒頭にエピソードが載っている。(P208) ここを読んで、ボクはなにを始めたかというと、 「撰集抄」 を探し始めてしまったわけですね。
増賀上人って?、撰集抄って? というふうにウロウロして、書きかけの 案内 のことを忘れてしまったというわけで、3ヵ月後の今日にになって、ようやく、
ああ、そうだ! ということなので、悪しからずというわけです(笑)。
目次 九十数句の句 が表題になっていますが、まあ、それだけの場所を訪ねる旅の 紀行文 でもあるわけですし、参考句を入れれば 二百句近い芭蕉の句 、加えて、彼の 周辺の俳人たち句 の鑑賞にもなります。かなり、重厚な 「蕉門俳諧」 の教科書という趣でもあるわけです。
第1章 伊賀上野から江戸へ
京は九万九千の花見哉
うち山や外様しらずの花盛
山は猫ねぶりていくや雪のひま ほか
第2章 野ざらし紀行
霧しぐれ富士を見ぬ日ぞ面白き
猿を聞人捨子に秋の風いかに
道のべの木槿は馬にくはれけり ほか
第3章 笈の小文
星崎の闇を見よとや啼千鳥
寒けれど二人寝る夜ぞ頼もしき
冬の日や馬上に氷る影法師 ほか
第4章 更科紀行
木曾のとち浮世の人のみやげ哉
俤や姨ひとりなく月の友
吹きとばす石はあさまの野分哉 ほか
西行の庵もあらん花の庭 芭蕉 訪ねて、江戸の 内藤露沾(ろせん) 邸跡地の訪問が、 上巻 最後の旅なのですが、そこで詠まれている 小澤實 の句はこんなふうです。
閻魔坂くだりゆきたる椿かなと、まあ、そういう本なのですが、最初に引用した 増賀上人 にかかわる句の話の続きが気に掛かっていらっしゃると思うので引用します。
墓地の端椿ももいろひとつ咲く
増賀上人 は比叡山延暦寺の根本中堂に千夜籠もるという修業をした僧である。さらなる悟りを求めて、神宮に参詣する。神に祈って眠ったところ、夢に神が現れ 「道心をおこそうと思ったら、自分の身を自分のものと思うな」 というお告げを受ける。目覚めてから 上人 は 「これは名利を捨てよということに違いない」 と思って、来ていた衣を脱いで乞食にみな与えてしまった。下着も着けず、まったくの裸で、伊勢から帰り、修行していた比叡山に登る。 で、付け加えられるのが 伊勢神宮の解説 です。
「名利を捨てる」 ということと着衣を捨てるということを直接に結び付け、実際に実行してしまう 上人 には魅力がある。比叡山では悟りを得るのに千夜かかっているが伊勢では一夜にして得られている。伊勢の神のありがたさをものがたるエピソードでもある。僧と神とが伊勢という場で出合っている。 神仏習合 の一事件でもある。
芭蕉 は伊勢を去るにあたって、 増賀 のことを思い出していた。 「上人のように着衣を捨て去りたいが、二月は裸になるにはまだまだ寒い、いまだ重ね着がふさわしい季節。嵐も吹きすさんで、つらすぎる。」 という句意になる。 増賀 の精神の気高さに打たれつつも、生身の世俗の人間としてはついていけないところをはっきりと示しているところがおもしろい。
「衣更着」 が 季語 。旧暦二月の名称 「きさらぎ」 の語源説の一つとして、 「まだまだ寒いので、着物をさらに着る」 からというものがある。そこから 「衣更着」 という字が当てられているのだ。(P209)
明治の初めまで、 僧 は、 宇治橋 を渡り 正殿 の前で参拝することは許されなかった。 僧 が死の穢れに触れることが多いためであるという。 芭蕉 の 「野ざらし紀行」 には 伊勢参宮 の際、 僧体 であったため、神宮に入ることを拒まれたとことが明記されている。 増賀 も、 西行 も、 五十鈴川 を隔てて、 正殿 を拝することのできる高みにあった 僧尼拝所 から拝したらしい。その場所の存在を 矢野憲一著「伊勢神宮」(角川書店) によって、帰宅後知った。同著によれば、現在、 僧尼拝所 のあった場所にはなにも残されていないというが、その位置から 正殿 を遠く拝してみたかった。 芭蕉を訪ねる旅 としても、 神仏習合を考える旅 としても必要だった。 で、最後にあるのが 小澤實の二句 です。
ン中略
『笈の小文』 の旅においては、神前に入ることを拒まれたのか、許されたのか、 芭蕉 ははっきりと書いていない。しかし、掲出句の存在は、拒まれたことを意味しているのではないか。 増賀と自分とを重ねる立場 は、姿は同じ 僧体 であることをはっきりと意識している。 伊勢 に来て、神社、神道的なものばかり詠むのではなく、あえて 僧を詠む姿勢 がおもしろい。 芭蕉 は神前に入ることを拒まれたことによって、自分が 伊勢 という土地にとって、 僧体の異物 であることを意識している。その意識を積極的に楽しみつつ、神道と仏教との出合という奇蹟に目を瞠っている。
さざんかや増賀上人立ち走り 實 長くなりましたが、まあ、こういう本です。毎日、一句か二句、3ページか、4ページ、楽しみで読んできましたが、いよいよ、新たな予約者の出現で、市民図書館から返却せよとの連絡が来てしまいました(笑)。で、大慌て、大急ぎで 案内 しました。
神域をむささび飛べる月夜かな
昔、増賀聖人といふ人いまそかりけり。
いとけなかりけるより、道心深くて、天台山の根本中堂に千夜こもりて、これを祈り給ひけれども、なほ、まことの心やつきかねて侍りけん、ある時、ただ一人、伊勢大神宮に詣でて、祈請し給ひけるに、夢に見給ふやう、「道心を発(おこ)さんと思はば、この身を身とな思ひそ」と示現を蒙り給ひけり。
うちおどろきて思すやう、「『名利を捨てよ』とにこそ、侍るなれ。さらば捨よ」とて、着給へりける小袖・衣、みな乞食どもに脱ぎくれて、一重なるものをだにも身にかけ給はず、赤裸にて下向し給ひけり。
見る人、不思議の思ひをなして、「物に狂ふにこそ」、みめさまなんどのいみじさに、「うたてや」なんど言ひつつ、うち囲み見侍れども、つゆ心もはたらき侍らざりけり。
道々物乞ひつつ、四日といふに山へのぼり、もと住み給ひける慈恵大師の御室に入り給ひければ、「宰相公の物に狂ふ」とて見る同法もあり。また、「かはゆし」とて、見ぬ人も侍りけるとかや。
師匠の、ひそかに招き入れて、「名利を捨て給ふとは知り侍りぬ。ただし、かくまで振舞ふは侍らじ。はや、ただ威儀を正して、心に名利を離れ給へかし」といさめ給ひけれども、「名利を長く捨て果てなんのちは、さにこそ侍るべけれ」とて、「あら、たのしの身や。おうおう」とて、立ち走り給ひければ、大師も門の外に出で給ひて、はるばる見送り侍りて、すぞろに涙を流し給へりけり。
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