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洗面鏡の前のコギト 四元康祐 現代詩 なんて、長いこと読んだことがなかったのですが、だから、 四元康祐 なんて言う詩人の名前も知りませんでした。知ったのは 池澤夏樹「いつだって読むのは目の前の一冊なのだ」(作品社) に載せられている 2011年11月15日 の 読書日記「デカメロン、きだみのる、陰部(ほと)の紐」(池澤本 P395) によってです。
眼を開けて
鏡のなかの自分を見る
眼を閉じてその自分を闇に流そう
(マバタキは 慌しくも無言の舞台の暗転
息殺す黒子らの汗の臭いよ)
眼を開けると 自分はまだそこにいて
だがその自分がさっき見たあの自分だという保証はあるのかしらん
(あれはあれ これはこれただひたすらに
流れるだけの3Dハイヴィジョン)
どれだけ覗きこんでも睨みつけても笑いかけても
眼は口どころか手ほどにも物を言わんね
まるで塀の節穴の向うから
きょろきょろとこっちを見ている赤の他人の目玉のよう
沐浴するスザンナ もう何世紀にもわたって
物陰に屈みこんでその裸身を視姦している二人組の老人たち
お尻ふりふり逃げだす対象を視線はしつこく追いかけて
景色はめくるめくメリーゴーラウンド意識は続くよどこまでも
君はどっちだ 見る人それとも見られる人?
目の前に我が手をかざして振ってみる
(仰向けのザムザの視野の辺境で これが俺かよコガネムシ
風にたなびく脚脚脚脚脚脚・・・・・)
可哀相なグレゴール 部屋には鏡ひとつなかったのかね
カフカが Die Verwandlung(変身)を書いていたちょうどそのころ
リルケはWendung(転向)という詩を書いた
おなじプラハ生まれのふたりは題名同士の語根も同じ
「もはや眼の仕事はなされた/いまや 心の仕事をするがいい
・・・・・・内部の男よ 見るがいい お前の内部の少女を」ってリルケは言うけど
どんなに眼を閉じたって内部なんか見えるもんか
瞼の裏でも目玉親爺は直立不動 律儀に寝ずの番をしているからね
夢現を問わず形なし色めくものを片っ端から指差しては
あの甲高い声でものの名前を喚き続ける
おかげで鬼太郎の大きすぎる頭のなかには名辞の卒塔婆がぎっしりだ
虚空に浮かぶ閉鎖系としてのソラマメひと粒
からだは殻だ からだは空だ
(闇に薔薇 籠に虫の音 胸にひと・・・・・・
我は悲しき卓上ビーマー)
眼の穴 鼻の穴 耳の穴 そして皮膚のぽつぽつ
そこから奔流する感覚のことごとくをデカルトは虚空として退けたすえに
「そう考えているこのわたし」がそこに存在することだけは
揺るがしがたい真理として認めるに至ったが
その瞬間の〈わたし〉に自画像を描かせたとしたら一体どんな姿が現れただろう
彼は幾何学が好きだったそうだから
単純明快な三角形でも描いてみせただろうか
だが光学を研究し光の屈折や虹の論文まで書いている人に
その頂点近くに丸い孔を描きこむ誘惑に抗うことができたかどうか?
丸窓に額押し付けたままなすすべもなく冷たい炎に包まれてゆくアストロボーイ
ラグビーボールひとつ小脇に抱えて
いろは坂駆け下りる首なし男の気楽な足取り
操る者と操られる者の凭れ合い癒着の構造もの言わざれば
腹膨るるというその腹をば切り裂いて
覗いてみたいな未だ発せられざる言語なるものあえいうえあお
「浮かべる脂の如くして水母なる漂へる」粥状なりしややゆぇいゆゆぇやよ
どこから湧いてくるのかわうぇうぃううぇうぁうぉ
文字は干からびきった言葉の吐瀉物
そこに己の唾を垂らしてオートミールのごとく素手で掻き混ぜ
舌の先ぴんと尖らせて「こをろこをろに掻き鳴ら」す
物書く人の姿こそおぞましけれ反吐が出そう
「我思う」とは「我言語する」、いやもっと正確に訳すなら
「我推敲す、故に我あり
空高く我が脳髄を蹴り上げたまえこちら、カモメ」
やまとうたは、人のこころをたねとして、よろずのことのはとぞなれりける
って貫之くんは言ったんだ、ならば言葉の蔓をザイルに縒って
意識の深層へ降りてゆこうか か、 か、 かるた、
たいよう、 うみ、 みる、 る、 る、 るーびっくきゅーぶ、 ぶんしこうぞううぞうむぞう、
うくれれれもんみかんぽんかんちかんはあかん?
歯ブラシ片手に鏡の前で
ぽっかり口を開ければ地獄岳
暖簾くぐって喉ちんこ ちぎれて揺れる蜘蛛の糸
その先どろりと澱む生あったかい闇の奥から立ち昇るのは
匂えど無色響けど透明 あれぞ言霊?
いいえ、あれはポエムのシャボン玉 星影に誑かされて宇宙を目指し
脳天に当たって砕けて消えた
×月×日 いかがでしょうか、 池澤本 に引用されているのは 「旅物語 日本語の娘」 という詩の一節です。下に詩集の 目次 を写しました。参考にしていただければと思いますが、後ろの数字は所収ページです。一つ、一つの作品が、結構、長くて読みでがあります。若いのかと思っていたら、ボクが知らなかっただけで詩人は 1959 年生まれで、まあ、もう、お若いというお歳ではありません。長くミュンヘンに暮らした人のようです。詩は日本語で発表されているらしく、 思潮社 の 現代詩文庫 179 に 「四元康祐詩集」 があります。いずれ読むことになりそうです。
まいったな、と詩集を手に座り込む。いや、 四元康祐 の 「日本語の虜囚」(思潮社) のことだ。テーマは日本語の歴史、主人公は日本語そのもの、比喩はすべて性交がらみ、
やったわな、やったわな、
大陸渡来の帰化人と 稲作欲しさにやったわな
仏像抱えた鑑真と 漢字貰ってやったわな
って、この卑俗きわまる七五調が効き過ぎて痛いほど。
やったわな、やったわな
どんな客とも寝てしまう 軽業並みの膠着語
融通無碍のてにをはは アメノウズメの陰部(ほと)の紐
なでしこジャパンの処女性は
万世一系不滅です」
これだけのところに注を付ければ何十行になるだろう。こういう圧倒的表現の技術を詩というのだ。
目次
日本語の虜囚 009
洗面鏡の前のコギト 017
多言語話者のカント 025
歌物語 他人の言葉 035
旅物語 日本語の娘 045
島への道順 063
マダガスカル紀行 069
新伊呂波歌 079
ことばうた 109
こえのぬけがら 113
うたのなか 117
われはあわ 121
うみへのららばい 125
みずのれくいえむ 129
虚無の歌 133
日本語の虜囚―あとがきに代えて140
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