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新国立劇場 14:00~ 3階右手 リゴレット:ラード・アタネッリ ジルダ:アニック・マッシス マントヴァ公爵:シャルヴァ・ムケリア スパラフチレ:長谷川顕 マッダレーナ:森山京子 モンテローネ伯爵:小林由樹 ジョヴァンナ:山下牧子 東京フィルハーモニー交響楽団 新国立劇場合唱団 指揮:ダニエレ・カッレガーリ 演出:アルベルト・ファッシーニ (再演演出:田口道子) なんというか、タイトロープ・リゴレット......... 初日を観るのは久しぶりです。概ね、練れていないケースが多いので、普段は公演の前半を避けて後半を選んでいるのですが、今回は休日公演が2回しかないので、止む無く初日を選択。 歌唱陣ですが、結構いい出来だったと思います。むしろ、最近には珍しく粒が揃っている。歌手の出来で言えば、今月初めのトゥーランドットよりよほど上等。 但し、安定感は、ない。いや、面白いことに、主役級3人が3人とも三者三様ながら安定感がないのです。が、安定感がないところをうまいこと高いレベルで維持し続けているという......珍しいよな、こういうの(苦笑)結果オーライではあるんですが、こういうケースで、大きく破綻せずに最後まで行けてしまうのは珍しいと思います。 外題役はラード・アタネッリ。6月に椿姫でも来ていたようですが、その時の印象はあまりない。いまいち、という感じだったようですが、今回は、一応声は出ている。ただ、最近割と耳にする、速い歌い方が散見される。これは後述しますが、あまり感心しません。それと、所々、高音に上げる所を上げずに流してしまう。これは、ちょっと妙だった。それなりに声はあって、質も悪くないのだけど、なんだか安心して黙って聞ける、というのでもなかったような。 マントヴァ公爵のシャルヴァ・ムケリアは、敢えて言えばかつてのフランシスコ・アライザを思わせるようなタイプの声。軽めで甘めのリリックな声。これは確かに魅力的。ただ、アライザは決して不安定な声ではなかったけれど、ムケリアはちょっと........アリアでは頑張るのだけど、気を抜くと声がすっと落ちてしまう。まぁ、そういうタイプなのかも知れませんが、歌い回しもちょっと変わっているし、これまた安心して聞いていられる類いではなかったな。 一番安心して聞けたのは、ジルダのアニック・マッシス。多分聞くのは初めてですが、なかなかいい声です。第1幕の「慕わしい御名」は高音がお見事。思わず姿勢を正してしまいました。本当に、予定を切って最終日も行こうかと思ってしまったくらい。たあ、こちらも、時々「あれ?」という感じになってしまう。 結局、3人とも、ムラがあるんですね。今日は、そのムラが悪さをしなかった。だから、大事なアリアや重唱では、ちゃんとした歌を聞かせてくれたのだけど、そうでないところで、時々「あれ?」となってしまう。それがアリアで出てしまうと、ちょっとまずいと思います。今日「は」よかった。でも、次の公演でいいかどうかは、それ次第。最終日、S席はあったのだけど、思い止まったのは、これが理由。まぁ、所詮オペラは(オペラに限らずだけど)博打なので、それはそれでいいとは思うんですけどね。 スパラフチーレはよく頑張っていたと言っていいでしょう。同情票でなく、このムラもあるけどイケれば凄い3人組に力負けはしていませんでした。一方、マッダレーナはもう一つ。あと、モンテローネはもうちょっと頑張って頂きたい。登場時間はごく短いけれど、結構鍵となる役ですからね。 オーケストラは、カッレガーリ指揮の東フィル。良くも悪くも東フィル、の最近の典型。取り敢えずプレゼンスは強い。かつ、デュナミークやテンポ設定をかなり大胆に振った演奏。よく言えばメリハリがある演奏。これはこれで面白いけれど、ちょっと安定感がない。それと、ある意味、様式感が感じられなくなってしまっている。 ヴェルディのオペラに様式なんてあるのか?と言われると少々苦しいのですが、例えば、第2幕のリゴレットのアリア「悪魔め鬼め」。このアリアは、最初、激情に駆られたリゴレットが廷臣達をなじり、それが効を為さないとみるや、泣き落とし、それも効かぬと知って嘆く、というアリア。感情の起伏が激しいだけに、最初は速いテンポで勢いに乗せて進めて行って(その方がある面歌手には楽ですし)、後の嘆きで思いっきりテンポを落として、感情表現を表す、とやりたくなるのはまぁ分からないでも無い。レオ・ヌッチあたりからこれをやり始めてますが、確かに効果的ではある。 でも、このアリアは、あくまで一つのアリア、なのです。その中で、確かに感情の起伏はあるけれど、それをどの程度反映させるかは、単に音楽上、表現上の問題だけではなく、オペラをどのようなものと捉えるか、リゴレットのこのアリアをどのようなものと捉えるか、にも関わると思います。 私は、その点で、ここで勢いに任せてオーバーアクションを採るのは感心しません。アリアという一つの歌の中でのバランスを取りながら、如何に表現を詰めて行くか。起伏は勿論あっていい。けれど、歌としての統制を取りながらでなければいけない。或いは、レオンカヴァッロやマスカーニ、或いはプッチーニであれば、こういう行き方もあるかも知れないけれど、これはヴェルディじゃない、そう思います。(だから、私は声はともかく歌手としてヌッチは好きじゃない) 難しいけどね。 演出は2000年の再演。まぁ、オーソドックスです。そこそこよく出来てます。個人的には、絵面としては悪くないし、動きやすく出来てはいるんだけど、モンテローネの扱い方とか、決して上手いとは言えないな、という感じです。多少は仕方無いんですけどね。ただ、そうしたところはあまり改善されてない。まぁ、原演出家はもう故人だし、仕方ない面はあるのだけど。やはりちと退屈かな。 オーソドックスは悪くないけど、袋小路だな、という気がします。まぁ、全ての演目で更新して行くべき、というものでもないので、向こうもう10年くらいは、リゴレットやる時はこれでいいんじゃないかな?その分歌手を厳選してもらえばいいし。リゴレット、毎年やってくれ、ってもんでもないだろうし。 オペラは所詮博打、と割り切ってる人にはお勧めです。絶対いいものを聞きたい、なんて言ってる(修行の足りない)人にはお奨めしません。
2008年10月25日
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オーチャードホール 15:00~ 3階左手 ドヴォルザーク:スラヴ舞曲集 第1集第4曲、第2集第2曲、第1集第8曲 チェロ協奏曲 <独奏+チェロ合奏 アンコール> 赤とんぼ ショスタコーヴィチ:交響曲第9番 チェロ:ルイジ・ピオヴァーノ 指揮:ミハイル・プレトニョフ 東フィルの定期演奏会。こないだ会員継続の案内が来て、まぁ演目からして一応いいだろうということで継続するつもりではいるんですが。 プログラムは見ての通り。冒頭、いきなりスラヴ舞曲集から。これが、なんというか...... 私、個人的には、スラヴ舞曲集ってあまり好きではありません。まぁ、確かに魅力的な小品集ではあります。音楽的に魅力が無い訳ではないけれど、ただ、このオーケストラ編曲版の場合、オーケストレーションが決していい出来とは思えないのです。もう少し言うと、曲としては出来はいいのかも知れないけれど、オーケストラを聞く、ということとしては、ちょっとつまらないんですよね。リズムはあって旋律も魅力的かも知れないけれど、ずっと同じ音楽を聞いてる感じがなくもない。 だから、聞かない訳ではないけれど、あまり好んで聞いている訳ではないつもりです。生演奏であれば、アンコールピースとして聞くくらいが丁度いい。そこそこのプログラムを聞いた後に、アンコールとしてちょっとやる、くらいで、いわばクールダウン用に、というようなものではないかと。 これを、のっけから聞かせられるわけです。いや、よほど、聞かせる工夫と言うか、テンションが高い演奏であればいいんですが、率直に言って、とてもつまらなかった。なんでこの曲を演奏するのか、さっぱり分からない演奏。目的とか、思いとか、狙いとか、こう、普通は某か感じるものですが、そういうのが全然ない。東フィルの演奏も、一本調子で正直つまらない。 プログラムを組むのは音楽家の自由ですが、プログラミング次第で演奏会自体も決まってしまうもの。同じドヴォルザークでも、例えば交響詩にだっていろいろいい曲があるのに、何でわざわざスラヴ舞曲?しかも、目的も狙いもはっきりしない..... 御陰様でテンション下がりまくりです。 それを救ったのは、チェロ協奏曲のピオヴァーノの独奏。いや、決して東フィルの演奏がだめだった訳ではないけれど、敢えて言えば、やはりピオヴァーノの演奏が締まっていてよかったと思います。適度に歌いつつ、流されない醒めた面も持ち合わせている、そんな演奏です。ドヴォルザークのチェロ協奏曲は結構好きなので、点も甘いと言えば甘いのですが、これは楽しめた。 ただ、アンコールの「赤とんぼ」は、まぁ確かにいいにはいいのだけど........悪くはないんだけど......... チェロの演奏自体は良かったです。いい腕ですね。華やかな感じではないけれど、落ち着きがあるのがいい感じ、でしょうか。 休憩後、ショスタコーヴィチの交響曲9番。諧謔趣味に溢れた曲です。こういう曲になると、俄然日本のオケは得意ですね。あまり繊細さを要求されないし、曲の性格がはっきりしているから、曲作りもやりやすいのかも。最後の2楽章でのファゴットの活躍はお見事でした。まぁ、額面通りに受け取って帰る曲ではないですね。これはこれで興味深い。 ただ、全体としては正直、ちょっと考えてしまいました。 これは偏見かも知れないけれど、なんというか、スノビッシュな選曲に感じるのです。ドヴォルザークのチェロ協奏曲とショスタコーヴィチ。まぁ、そういう組み方はあるでしょう。でも、その前に、順序を考えず、必然性のあまり感じられないスラヴ舞曲を聞かされる。これは.......一体どういう狙いが? 前日の新日フィルのことを考えてしまうのです。ベートーヴェンの交響曲二曲だけというシンプルな構成だけど、コンセプトは感じるし、演奏も緊張感のあるものだった。東フィルのこのプログラムからは、演奏が悪いとは言わないけれど、なんだか中途半端な選択で、コンセプトが感じられない。ショスタコーヴィチをやりたかったのかも知れないけれど、それにしてはなんだか前半がアンバランス。 良し悪しの問題ではないかも知れませんが、新日のプログラムには練られたものを感じるのですが、東フィルのそれは、敢えて言えば「お客のニーズに合わせた」お子様ランチのようなもの。子供騙しとは言いませんが、あまり練られたものを感じないのです。東フィルのオーチャード定期はそういうもの、なのかも知れませんが、何やらあざとさを感じてしまうのです。
2008年10月19日
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すみだトリフォニーホール 15:00~ 3階中央 ベートーヴェン:交響曲第1番 交響曲第7番 指揮:ヴォルフ=ディーター・ハウシルト 新日フィルの定期公演、今月はヴォルフ=ディーター・ハウシルト。曲目はベートーヴェンの1番と7番。アンコールすら無し。今更ベートーヴェンだけ、しかもこの二曲で、秋の定期演奏会を埋めてしまうのはどうなのか?いえいえ、それなりに収穫はあった、と思います。 後半の第7番が面白かった。 ベートーヴェンの第7番といえば、のだめでも一躍有名?になった1曲。ベートーヴェンの交響曲はどれもそれなりに人気があるから、ダントツとはいかないにせよ、やはり人気曲なのは確かでしょう。 この第7番を「舞踏の聖化」と呼んだのは誰だったか、ともあれ、この曲、リズムで聞かせる曲、ベートーヴェンがリズムという要素を存分に料理した曲、と思われていると思います。いや、少なくとも私はそう思って聞いていました。だから、CDなどで聞くことがあっても、つい「そのように」聞いてしまうんですよね。 ハウシルトの指揮も、確かにそういう期待を決して裏切る訳ではない。ただ、よく聞いてみると、微妙にリズムに揺らぎがあるのです。強いて言えば、リズムよりも旋律を歌うことを優先させる瞬間がある。 勿論、その結果リズムの統一感は乱れます。けれど、確かにこの曲はリズムを重視した曲だけれど、果たしてリズムを聞く為だけの曲なのか、といえば、必ずしもそうではないでしょう。確かにインテンポで演奏される方がリズム感としてはすっきりするとは思います。でも、幾ら「舞踏の聖化」なんて言ってみても、やっぱりこれは主題をちゃんと持った、古典派(ロマン派?)の交響曲。否、むしろ、舞踏音楽であると言うなら尚のこときちんと歌えて然るべき、なのかも知れません。 他にも、低弦をリズムだけでなく旋律面でも強調することで、実はこの曲が持っていたであろう歌う音楽としての面、普段あまり感じていなかった面を見せてくれました。 まぁ、どっちがいいと断定は出来ないけれど、改めてこうやって聞くと、自分が一面的な聞き方をしていたのかな、と思わされます。CDでうっかり聞き続けていたのでは、なかなかこういう風に感じる機会は得られないと思います。それが、生演奏で聞き続けている理由の一つではあります。 演奏会全体としては、まぁまぁ、ですね。新日フィルは悪くなかったけれど、例によってやや元気よ過ぎたか。ハウシルトはよく抑えていたと思いますが。ただ、第1番の冒頭、アインザッツが合わないのはかなり痛い。決して大きい編成ではないだけに、あそこは揃えて欲しかったですね。結構後まで尾を引いてましたから。
2008年10月18日
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東フィルのオーチャード定期会員なのですが、来年度の更新案内がやって来ました。 正直、最近の東フィルはあんまり魅力無いし、チョン・ミュンフンもいまいちだし、行かないことも多いし、来年度はどうしようかな......と思っていたのですが。 来年度は、チョン・ミュンフンが椿姫。ゼッダが再来年3月に、ハイライトとはいえウィリアム・テル。 うーーーーーん。その二つは、確かに魅力的。これをS席でしか買えないとしたら、もう一公演行けば、会員継続の方が席は悪いけど元は取れるか..... えらく消極的(笑) やはり継続かなぁ。
2008年10月15日
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紀尾井ホール 14:00~ 2階 ドヴォルザーク:ピアノ五重奏曲 op.81 シューベルト:ピアノソナタ第4番 D.537 即興曲 D.899-4 ピアノ五重奏曲 D.667 「ます」 <アンコール> ドビュッシー:弦楽四重奏曲 第3楽章 ショパン:ピアノ協奏曲第1番 第2楽章 ジャン=マルク・ルイサダ(ピアノ) モディリアーニ四重奏団 クリストフ・ディノ(コントラバス) 今日は朝から予定があって、夜も予定があって、さて午後はどうするか.....と思っていたのだけれど、安いチケットが出て来たので、先週になって急遽出撃決定。ルイサダ、前から名前は知っていたけれど、聞いたことなかったんですよね。 何やら不思議なプログラムらしいな....と思って出掛けると、曲順・曲目変更のお知らせ。即興曲4曲やる筈が、第4曲のみだと。えええ、ルイサダを聞きに来たのに......と思いつつ、終演予定時刻を見ると、16:20。よくよくプログラムを見ると、単純に即興曲を3曲減らしただけ。ドヴォルザークもシューベルトも、どちらの五重奏も40分くらいは掛かる曲。それに即興曲4曲やったら30分、その上D.537...そりゃー長過ぎるよ、そもそも。 ちなみに、上記のようなアンコールをやったので、終演は16:45頃。普通のコンサートにしちゃ長いですよ、これは。 前半はドヴォルザーク。冒頭、ルイサダのピアノを聞いて、「ああ、そういやこの人"ピアノの詩人"とか呼ばれてたんだっけ?」と思ってしまいました。 いや、実際そう呼ばれてたかどうだかはうろ覚えなんですけど、この人、本当にそんな感じのピアノですね。リリカルっちゅーのかなんちゅーのか.....なるほど「ショパン弾き」のイメージだけのことはあります。実際に演奏しているのは、決してそれだけではないみたいなんですけどね。今日のプログラムだって全然ショパンがないし。 ドヴォルザークを聞いていて思ったのは、モディリアーニ四重奏団との相性。いや、相性はいいと思います。ただ、合ってる方向性が、リリカルな方に向かってなんですよね。それはいいんだけど、ドヴォルザークにしては「歌」が足りないというか、綺麗過ぎるというか。 決して悪い演奏ではないと思います。ただ、ドヴォルザークにしては物足りない。充実した演奏ではあるし、響きはいいけれど、軽いんですよね。ドヴォルザークへのアプローチには、概ね二方向あると思います。一つは土俗的というか、独特の旋律を活かして前面に押し出すような行き方。もう一つは、より古典的な、構成面を押し出す行き方。今日の演奏は、言うなれば、そのどちらでもなく、ドヴォルザークが書いた音楽を、彼等独自の世界の美で表現しよう、というようなアプローチ。それはそれで面白いけれど、ちょっと..... というのは、このモディリアーニ四重奏団の面々、フレージングが短いんですね。ぶつ切り、とは言わないけれど、旋律を弾いている時に、その先まで見通せている演奏になっているかというと、あまりそうは感じなかった。その代わりでは無いだろうけれど、彼等には綺麗な音がある。それはルイサダとも合っていると思いますが、このドヴォルザークはちょっと風変わりですね。 後半はルイサダの独奏から。シューベルトのソナタ。ルイサダの演奏スタイルは、ルバートを多用して、独特の歌わせ方で彩るというもの。これは、正直、シューベルトには、特にピアノソナタにはちょっと合わないように感じます。シューベルトのソナタは、構成的には問題は指摘されるけれど、基本はあくまで古典派の延長線上にいる。 けれど、シューベルトのソナタは、いつもいいメロディで埋まっている。そして、特にこのD.537あたりは、そうは言ってもまだ各楽章の構成感を云々するよりも、それぞれの楽章の美しさで勝負する事が可能な音楽でもある。それは即興曲でも同じで、結局はルイサダの選曲の妙、と言う事が出来るのでは。 良くも悪くも、この独奏が終わった時点で、D.899の前3曲を省いた判断に納得。時間の問題もあるけれど、例えばD.899の1曲目をこの調子で弾かれると、なかなか聞く方には重たいですからね。 でも、この演奏、ルイサダ自身はどんな風に思ってやっているのかな。ちょっと興味があります。 プログラムの最後は、シューベルトの五重奏「ます」。まぁ、概ね前述した通りですが、ドヴォルザークよりこちらの方が弦部隊の演奏は熱が入っていたかな。ただ、基本、綺麗である事が身上、という演奏なのは変わらず。やはり、ちょっとフレージングの見通しが利かないのは、気になるかな。むしろ、時にルイサダの演奏が白熱していて、そちらが面白かったかな。事前の印象、最初の印象では、果敢なげな、優しく綺麗な演奏スタイル、と思っていたので。まぁ、それなりのピアニストなら、シューベルトのフォルティッシモくらいきちんとこなしますよね。失礼しました。 演奏中、譜めくり役との息が合ってないというか、譜めくり役がよく分かってないのか、ちょっとストレスの溜まってそうな様子でしたが、なんとか乗り切ったのは流石。 アンコールは、まず、モディリアーニ四重奏団のドビュッシー。ああ、水を得た魚とはこのことか、と思ってしまうような演奏。この人達にとっては、多分これがホームグラウンドなんだろうな、と思わせる演奏でした。 もう一つが、なんと弦五部を四重奏+コントラバスにやらせてのショパンの協奏曲。これは面白かった。決してこの曲よく聞いてる訳ではないけれど、こんな風にして聞くと、独奏部の良さが尚の事際立って、意外にいい曲じゃないか、と改めて思います。 全体的には、まぁ良かったかな?コストパフォーマンスは悪くなかったと思います。
2008年10月12日
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東京文化会館 14:00~ 1階左翼 リッカルド:エミール・イヴァノフ レナート:キリル・マノロフ アメーリア:佐藤しのぶ ウルリカ:エレーナ・チャヴダロヴァ=イサ オスカル:テオドラ・チュクルスカ ソフィア国立歌劇場管弦楽団 ソフィア国立歌劇場合唱団 指揮:クーン・ケッセル 演出:ブラーメン・カルターロフ 珍しく成り行きで1階なんぞで観ておりました。 こないだのトゥーランドットとは聞いてる場所も随分違うので何とも言えないのですが、全体の出来としては今回の方が良くなっていたような気がします。 オーケストラですが、まぁ、良くも悪くもヴェルディとプッチーニの差というのはあると思います。音を重ねることの連続で音楽を作っていくプッチーニと、旋律があって伴奏があって、という作り方のヴェルディとの違い、と言うと乱暴に過ぎるでしょうか。少なくとも、今のソフィア国立に合っているのは、どうやらこちらの方だったようです。それと、東京公演5回目、仮面舞踏会だけで3回目ということで、音が多少は練れて来ているのかも知れません。 合唱共々、良くも悪くも東欧の田舎劇団(幾ら首都だと言ってもねぇ)の実力を如何なく発揮、というところでしょうが、今日は概ねいい方に出ていたのではないかな。強いて言えば、合唱の野暮ったさが感じられたかな、というくらいで。 劇的によくなった、というわけではないけれど、まとまりは良くなっているのではないかと思います。 歌唱陣は、ヴェルディ御得意の男声の魅力爆発。まぁ、仮面舞踏会は、どちらかというと女性濃度が高いオペラではありますが、レナートのキリル・マノロフが好演。若手だそうで、決して洗練された歌い手、というわけでは無いんですけどね。でも、声量はあって、安定した歌いっぷり。いい感じでした。やはりヴェルディの低声は重量感が身上ですから。 一方、リッカルドのエミール・イヴァノフ(御指摘を頂いて直させて頂きました。リッカルドとレナートを一人二役ってのは無理だわな....)は、声量もそれなりにあるし、ややロブストで暗めのいい声で、決して悪くはないけれど、若干弱し。相応のヴェテランの筈だし、ちょっと息切れしたのか?上の方に行くとやや声が細る感じで、嫌いじゃないけど、手放しとはいかないか。とはいえ、このくらい歌えていれば十分です。 アメーリアの佐藤しのぶ。まぁ、公平に言って歌えてはいるし、格別悪くはないんですが........ヴィヴラートがどうしてもかかるんですよね。あれ、好きじゃないなぁ。日本の歌手というか流派の作法なのかも知れないけど、決して聞いていて気持ちいいとは思いません。まぁ、それでも佐藤しのぶのはまだ軽めなので耐えられますが........ 何年か前に新国立劇場の「ルル」を歌ったのを覚えていて、あの時は凄演と言ってもいいくらいだったのに比べると、ちょっとあれですかね、弱りましたかね、佐藤さん。 オスカルとウルリカもそれぞれにいい歌唱。オスカルは軽めの声が良く効いていて、なかなか楽しく聞けました。 演出は、まぁこんなもの、でしょう。人の動きは相変わらず上手くないし、1幕2場の舞台装置の処理とかちょっと苦しい場面もあり、最終場の舞踏会会場のエジプトのファラオ像みたいな柱はなんじゃ、とか、謎な部分も少なからずありましたが、まぁ言ってもきりがないから.... 総じて、図抜けて良かった、という感じではなかったけれど、要所要所が押さえられていて、気の抜けた箇所が感じられなかった、といったところでしょうか。先日のトゥーランドットより隙が少なかったかな。まぁ、宜しいんじゃないかと。
2008年10月11日
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東京文化会館 14:00~ 5階左翼 トゥーランドット:エレーナ・バラモヴァ カラフ:コスタディン・アンドレエフ リュー:ラドスティーナ・ニコラエヴァ ティムール:ディミター・スタンツェフ 皇帝:ミロスラフ・アンドレエフ ピン:アレクサンドル・クルーネフ パン:オルリン・ゴラノフ ポン:モミチル・カライヴァノフ ソフィア国立歌劇場合唱団 ソフィア国立歌劇場管弦楽団 指揮:エミール・タバコフ 演出:プラーメン・カルターロフ 結局二日続けてトゥーランドットでありました。 観ながら思い出したのだけど、以前観た時はゲーナ・ディミトローヴァだったのじゃないかと。どーだったっけなぁ....... 正直、前日の新国立劇場より良かったんじゃないかと。 まず、会場。これを言うのもなんですが、やはりホールの質の差が出ます。座席は新国の方がいいかも知れないけど、音の響きはやはり空間に余裕のある東京文化会館に軍配が上がると思います。 オーケストラは、東フィルほど合ってはいないけれど(悲惨なアインザッツ!)、ここぞというところでの歌わせ方はお見事。東欧系の職業オーケストラの本領発揮。第3幕、リューとトゥーランドットとの対話のあたりなど、フルートソロの部分まで含めて、非常に情感豊かな表現で、よかったです。粗っぽい所もあるけど、いい表現を出せている所もある。指揮は決して誉められたもんじゃないと思いますが、格別すごいわけじゃない、ということですから、まぁ宜しいかと。 ちゃんと数えた訳じゃないですが、結構厚めのオーケストラで結構鳴らしていました。その分、どうしてもアインザッツが「ここぞ」という時に揃わなかったりするんですけどね。まぁ、そういうところも含めてトータルで見てくれ、って感じなんでしょうかね。 歌唱陣はこの歌劇場なりに充実。ここの身上はパワフルな歌唱陣ですが、その点では十分。「細かいことはいいじゃないですか、それよりこの見事な声量を生かして歌い回す実力を見て下さいよ!」ってとこでしょうか。そういう意味では概ねOK。 基本的にソフィア国立の座付歌手による公演、と言っていいと思います。勿論中にはウィーンで歌ってます、みたいな人も居ますが、まぁ基本的にはローカル色が強い。だから、イタリア語の発音を聞いていても「ん?」と思う事もある。間違ってないけどなんか変、みたいな。でも、そうしたことも含めて「それよりこの.....!」というところなんでしょう。 敢えて言えば...... トゥーランドットはディミトローヴァのようにはいかないけれどそこそこ歌えてる。 カラフは声量はあってよく歌えてるけれど、高音部が弱いのでちと苦しい。 リューはまずまず、強いて言えばもう少し可憐さ、というか柔らかさが欲しい。 ティムールは流石に重厚で迫力十分。これがまた実は合唱団の一人が歌ってるのでありまして、プログラムにはプロフィールすら載ってないという......(笑) ピン・パン・ポンも声量があってちゃんと歌えてました。でないとやっぱり2幕は退屈。 合唱は、悪くないんですけど、ちょっと期待通りではなかったかな。声量はあるんだけど、ちょっと合ってないというか、ちぐはぐというか.......... このへんは、そう言っちゃなんですが、田舎劇団の実力が悪い方で出てしまったかな、という気がします。 こうして見ると、声量の事ばっかり書いてますね。でも、特に、ソフィア国立の場合は、やはり東欧系の中でも特に声量が勝負所、という気がするので、仕方無いかな、と。それと、よくある「声量はあるんだけどね」というのとは違って、声量が歌唱全体に余裕を与えている、というように上手く活かされているので、決して単に声量があってよし!というのとは違うんですよね。 演出は、まぁこんなもの、というところでしょうか。 こちらも決して広くはない筈の舞台に、単純ながら結構大掛かりな装置を持ち込んで、やや窮屈そう。それと、こちらも群衆の扱いがあまり上手とは言えない。人数が決して多くないのは分かるけれど、それなりにもう少し上手い使い方をするべき。基本、オーソドックスな演出なのだから、そういうところは気を使わなきゃ。お金掛からないんだし。 それと、全般的に「舞台上の見える所に人を置きたがらない」演出。それもまぁ一つのあり方ではありますが、第3幕、やたらとカラフが出たり入ったりを繰り返すのはちょっとね。 加えて、舞台装置が動く時、結構な軋みが聞こえてしまうのは残念。お金無いのは分かるけど...... ただ、一つだけ、リューが死んだ後、ティムールが一人「じきにお前の所に行くだろうから、また旅を続けよう」と嘆く場面、舞台上の照明をほぼ全部暗転させて、ティムール一人にスポットを当てるというのは、なかなか印象的な方法でした。その後に続ける都合とか色々あってのことだろうけど。
2008年10月06日
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さて、新国トゥーランドット、演出の話です。ちなみに、ネタばれ上等天下御免状態でありますので、もし、これから観るから事前には知りたくない!という方でしたら、以下は御覧になりませんように。責任持てませんので、よろしくお願いします。 * * * * * * * * * * * * * * * * まず、大雑把に評価を言えば、私としてはいまいち。視点というか、目の付けどころの出発点はいいんだけど、その後の構築と詰めがもう一つ。 事前にTVでコンセプトの一端を聞いてしまったのと、プログラムでのインタビューから、ある程度分かってしまっているというのはありますが、これは「なんでこうなるの?」という点からは、知らない人には分かりにくいと思います。ただ、プログラムを読んで事前に構造を知らない人、或いはプッチーニの恋愛沙汰の話などを知らなくても、構造的には一応分かる展開になってはいます。その点で、ぎりぎりこの演出プランは「許せる」範囲にあると思います。 演出家のヘニング・ブロックハウスの視点は、「何故プッチーニは "リューの死" から先を書かなかった - 書けなくなった、ではなく - か?」という疑問から発しています。その理由を、ブロックハウスは、「プッチーニは "リューの死" によって、将に "詩" だったリューを失ってしまい、それ以上ドラマを紡いで行くことが出来なくなってしまったからだ」と結論付けます。だから、その後、作曲の筆は止まってしまったのだ、と。(ブロックハウスによると、プッチーニは、死の間接的理由となる喉頭がんが発見される前、死の1年前には "リューの死" まで辿り着いていた、としています) この視点は、トゥーランドットを知っている人にとっては、一度は感じることがあるのではないかと思われる疑問、或いは不満に通じているのではないでしょうか。つまり、「リューが死んだ後の不自然さ」です。音楽的には、気の毒に、それは補筆したアルファーノのせいにされたりしますが、確かにドラマ的にはこれは重要なポイントです。そういえば、昔々、ある女の子がこのオペラの映像を観て「この話は嫌いだ」と言っていたのを思い出します。自分の為に身を犠牲にしたリューを放っておいて、愛もへったくれもあるんかい、何じゃお前はカラフ!と、言われてみればそうですよね。 ブロックハウスは、プッチーニはリューを中心にドラマを紡いでおり(「リューは詩だった!」に端的に顕われている、と言ってました<TV)、それ故にリューの死以降、行き詰まってしまった。端的に言えば敵役のトゥーランドットを、どうやって愛の物語の中心に持ってくればいいか困ってしまったのだ、としています。更にこれを、かつてプッチーニが想いを寄せていた、そしてそれ故にプッチーニの妻に最終的には自殺に追い込まれてしまった小間使いへの想いに重ねているのではないか、と解釈しています。つまり、氷のような姫君・トゥーランドットには彼の妻への心情が投影されている、と。 また大胆な(笑) とはいえ、大胆な想定であるとはいえ、必ずしも無理がある視点とも言えないと思います。 問題はその先ですね。 ブロックハウスは、このオペラに先立って、プロローグを設定し、一方、「リューの死」以後の部分をエピローグと位置付けました。 時はプッチーニが作曲していた頃、1920年代のイタリア。 無言で演じられるプロローグでは、街の広場に屋台が連なり、中央には野外劇の移動舞台(コメディア・デラルテのイメージ?)が停まっている。行き交う人々。プッチーニと思しき、妻を連れた紳士。が、実に不用意にも、妻が挨拶を交わしている隙に、ウェイトレスと恋に落ちる?というか、見つめ合い手を握る。当然介入する妻。といったやり取りの後、一座が上演を開始するかのように動き始める。仮面を持ち出す一座。と、プッチーニと思しき紳士に仮面を付けさせる。妻には王冠を、ウェイトレスやその店の主人にも仮面を....そして、周りのその他大勢も、「昔の北京の市民」風の衣装を着け始めて、オペラが始まる。 そこから先は、基本的には普通にトゥーランドットをやっています。そして3幕、リューの死で、人々はあたかも我に返ったかのように、衣装を脱ぎ捨て始め、元の1920年代イタリアを取り戻します。リューの遺体を担ぐのは、もはや北京の市民ではなくウェイター達。リューの死を嘆くティムールは、歌いながら徐々に衣装を脱ぎ捨て、店の主人へと戻ります。カラフもトゥーランドットも、同様に元々着ていた服に戻ります。カラフは新聞なぞ広げて読んでいる。そして、アルファーノが補筆した、カラフが死の姫君よ!と糾弾する場面は、舞台の端と端に座った両者のやり合いで始まります。 以下、物語は粗筋通り。最後、リューの死を以て舞台を閉じた移動舞台の前で、市民に囲まれて、カラフとトゥーランドットは愛を確かめ合い、皆に祝福されます。 よく分からん(笑) ただまぁ、演出家本人も言う通り、元々ドラマ展開に無理を感じるこのストーリーを腑に落ちるものにする為、本編を劇中劇としてしまう、という発想は、一つの解決策ではあるかも知れません。その点は結構工夫しています。例えば、この公演、大道具が舞台前に来ていることもあって、幕は閉まりません。なので、1幕や2幕が終わると、照明が暗転して終わるのですが、その後ひとしきり拍手があって場内が明るくなって、それでも全ての人物が即座に居なくなる訳ではないのです。休憩25分の内、最初の5分から10分くらいは、合唱やエキストラの面々が、そのまま舞台に座って、語らったりしている。芝居は一応終わって幕間だけれど、だからといってこの幕間にパッと人が一斉に居なくなる訳ではない。劇中劇の幕間だから、まだ劇は続いている、と言いたいのではないかと。これはやはり意図的でしょう。 でも、このやり方は、非常に危うい。 まず、この劇中劇という構造を上手く理解されるか、というリスクがある上に、その構造を以て何を言いたいのかがある程度明確でないと厳しいのだけれど、正直、そこまで行けていたかというと....... 実は、この劇中劇は、劇中劇で終わっていません。というのは、3幕後半、ティムールは普通はリューと一緒に退場してそれまでなのですが、この公演では先述の通り、店の主人に戻ってしまいます。ところが、リューは、帰って来ないのです。トゥーランドットのかんざしを取って自害したリューは、そのまま、移動舞台の中に担がれて、戻りません。元ティムールの店の主人は、その後、舞台前面の自分の店の椅子に座って、以後、街の広場で繰り広げられる物語には一切目を向けません。彼の前には、リューが自害したあのかんざしがある。 この解釈だと、恐らくリューは、つまり彼の店のウェイトレスは死んでいます。つまり、劇中劇が「現実の世界」に侵蝕してしまっている。 恐らく、ブロックハウスは、これは意図的にやっています。しかし、そうすると、無事妻と和解したプッチーニの立場は?もっとも、それが事実ではあるのでしょうから、それ自体はおかしくない。すると、この舞台、「死せるリュー」を悼む店の主人を通して、少々消極的にせよ作曲者プッチーニ自体への糾弾をも孕んでいるということなのか? そのように解釈すれば、つまりは、このオペラ、プッチーニ自身の物語として演出されたということになるのでしょう。 それはそれで確かにコンセプトとしては刺激的です。が、正直、オペラとしては、ややストーリーが発散してしまったきらいがあり、しかも少なからずアクロバティックである、という意味でわかりにくい。着眼点は悪くないけれど、オペラとしてこれは面白いと言えるのかなぁ?だって、言ってしまえばかなり無理した挙げ句に、そこらへん何処にでもあるただの夫婦喧嘩に落とし込んでる訳ですよ?夫婦喧嘩は犬も食わない、という偉大なる日本の箴言をブロックハウスは知らないのだろうか。その割にウェイトレス一人死なせてる訳だし。 まぁ、そんなわけで、いまいち。 面白くない、とは言いませんが......... ブロックハウスに限らず、最近のオペラの「現代演出」には、議論を巻き起こす事を主たる目的としている演出が少なくありません。いや、むしろ、それが主流と言うべきでしょうか。それを即座に断ずる気はありませんが、それによって物語を上手く落ち着かせる事が出来なくては、やはりオペラの演出としては問題があります。 その点で、今回のブロックハウスの演出は、一応落ち着き所は示している訳だと思います。その点では悪くないにせよ、その結果があまり面白くないような気がするのですが、どうでしょう? 技術的に気になったのは、舞台装置が多過ぎて舞台が一杯になってしまっていたことと、それもあってか人の動かし方がもう一つスムーズでなかったこと。特に群衆の扱いは難しいのは分かるんだけど...... まぁ、制約条件もあるから、ある程度は仕方無いんですけどね。
2008年10月05日
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新国立劇場 14:00~ 3階左端 トゥーランドット:イレーネ・テオリン カラフ:ヴァルテル・フラッカーロ リュー:浜田理恵 ティムール:妻屋秀和 皇帝:五郎部俊朗 ピン:萩原潤 パン:経種廉彦 ポン:小貫岩夫 新国立劇場合唱団 NHK東京児童合唱団 東京フィルハーモニー交響楽団 指揮:アントネッロ・アッレマンディ 演出:ヘニング・ブロックハウス 新国の開幕公演はトゥーランドット。プッチーニ生誕150年だし、トゥーランドットはトリノオリンピックで人気が出たし、まぁそんな理由でしょうか。それにしてもこの秋は来日でもトゥーランドットが重なっていて、これがまたお手頃で、結構行く予定だったりして。そんなにトゥーランドットばっかり観てもしょうがないだろ、という話もありますが.... トゥーランドット観るのはいつ振りだろう?多分、ソフィア国立か何かの引っ越しで、エヴァ・マルトンが歌うのを観て以来じゃないかな? この公演については、この間、TVで演出コンセプトをざっくり見てしまっていたので、一応何が来るか知っていました。だから、精神的にシートベルトしながら見ていたので、演出に対しての違和感はそれほどではないんですが、これは結構「?」な人も居たのでは。特にあの終幕の処理はなぁ..... この演出の話は、書き出すと相当の長さになりそうなので、改めて書くことにします。まぁ、普通ではなかったのは確かです。問題点も多いし。技術的にも、人の動かし方が、意図的なのかも知れないけど、ちょっとね。 全体的には、正直、ちょっとね、という印象の上演でした。 1幕はオケが、というより指揮が良くなかった。ナンバーオペラのように(まぁ実際そう見えるのだけど)はっきり音楽の変わり目が見えてしまって、混沌としつつ一気に流れていくような感じではなかった。個人的にはこのオペラの1幕目は、流れだけでなく勢いも大事と思っているので、少々不満が。 2幕以降はまずまずの出来でした。ただ、どちらかというと勢い主体の演奏なので、もう少し詩情を感じさせる面があっても良かったのではないかなぁ、と思うのですが。 歌手はもう一つ。 カラフのヴァルテル・フラッカーロがかなりがっかり。多分相応に声量はあって、だから一応聞こえてるんだけど、喉で詰まってるような歌い方で、正直聞き苦しかった。にもかかわらず、何故か盛大な拍手喝采。なんで?と思うけど、そうでした、日本は「引退した」ジャコミーニに拍手喝采する国でした。でも、こういうタイプの歌い方は、やっぱり良くないんですよ。きちんと伸びていかなければ、歌というものは。それとも、調子悪かったのかも。 勿論、「誰も寝てはならぬ」も歌いましたが、正直、ちょっとねぇ。「歌える」のは分かったけど......まぁ、確かに、こっちもこのアリアは散々聞いているので、点が辛くなってるとは思うけど。2003年にアイーダで出てるそうなんだけど....多分聞いてないなぁ。 トゥーランドットのイレーネ・テオリンは、それに比べればまだいいかなと。ただ、まぁ、こちらも大変な役ですから、点を甘くすればという訳でして、決して万全ではない。2幕冒頭のアリアなど、もっと歌として聞かせて欲しいのですが、どうしても絶叫になってしまうんですよね。と言っているこちらのイメージは、やはりエヴァ・マルトンなので、仕方無いと言えば仕方無いのですが....声量が無い訳ではないけれど、やはい「歌える」と「歌いこなす」の差を感じてしまいます。 まぁ、この二人に限らずなのだけど、どうも声量的に、或いは声量の限界から歌い切れていない/表現力不足、という面が多かったのが今日の公演。特にピン・パン・ポンなんかは、脇役ではあるにせよ、もうちょっと歌って欲しいよなぁ、としみじみ思うのです。2幕の前半なんてこの3人しか出ないんだから。 敢えてプラス評価をしてよかろうというのは、リュー役の浜田理恵。正直、この人の歌唱、特に声は、あまり好きではありません。が、公平に言って、リューとして求められる歌唱レベルだろうと言っていいと思います。1幕も3幕もよく出来てました。特に、3幕、トゥーランドットとのやり取りは良かった。......声が、ねぇ、ちょっと好きじゃないんだけど、潤いが足りないっていうか......それさえなければなぁ.... ティムールの妻屋秀和は、取り敢えず留保無しでよく出来ていた、と言っていいでしょうか。欲を言えばもっと迫力があってもいいかなと思いますが、言い出したらキリが無いし、決して「歌える」レベルには止まりませんでした。 合唱は健闘していたと思います。力不足、と感じる所は、取り敢えずなかったかな。1幕の大騒ぎのところなど、もう少しダイナミズムが欲しい....というのは、むしろ指揮者の問題もあるかと思うし。児童合唱が結構良かったですね。 ということで、全体としては「もう一つ」。 ちょっと先週の「薔薇の騎士」(新日フィル)を思い出してしまいました。あれは70点としたけど、そこから行くと今日は60点かなぁ。舞台付き上演でこれだから、正直、パフォーマンスは先週の方がかなり高かったんじゃないかと思います。 パフォーマンスと言えば、今回の公演は、プー・ティン・パオ(首切り役人)が女性ダンサーが演じていたり、ピン・パン・ポンがダブルキャスト(歌手とマイム+軽業担当と、同時に2人が出て演じる)だったり、なかなか視覚的にも楽しめた公演ではありました。そのへんは良かったかな。でも、「新国立劇場」の開幕公演でそんなとこ褒められちゃってもねぇ..... 演出は前述の通り、別途。 明日、行ければ、別の「トゥーランドット」を観に行くのだけど、さて、どうなりますか....
2008年10月04日
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