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Blue Note 東京 20:30~ 木幡光邦、エリック宮城、奥村晶、岡崎(名前忘れた) (trumpets) 片岡雄三、中川英二郎、山城純子 (trombones) 三木俊雄、岡崎正典、近藤和彦、池田篤、岩持芳宏 (Saxes) 中村健吾 (bass)、高橋信之介 (drums)、小曽根真 (piano) 1:(忘れた....) 2:Stepping Stone 3:Portrait of Duke 4:You Always Come Late 5:Reconnection アンコール:ラプソディー・イン・ブルー No Strings Attached ブルーノートに行ったのは、ひょっとすると1年振りくらいか? 小曽根誠をライブで聞くのも久々。正直、今回は見送ろうかとも思っていたのだけど、どうせなら纏めて予約します?というお声掛かりがあって、お願いしていた。 いやぁ、来て良かった~。密度の高い演奏でした、本当に。 こうやってみると7曲しかやってないんですが、本来のセットだけでも5曲で1時間を越える内容。しかも、No Name Hosesの演奏は、「ビッグバンド」と聞いて思い浮かぶような、ある種アバウトな要素はなし。前回は、もう少しラフな余裕みたいなものも見え隠れしていて、それはそれでよかったんだけど、今回はかなりタイトな音楽でした。 決してスクエアなんじゃないんですよ。3曲目、エリントンの作品を下敷きにしたところから書いたというPortrait of Duke とかはちゃんとビッグバンドの香りがするし、その次のYou Always Come Late なんかはとてもユーモラスで、楽しい。 でも、そういうこととは別に、ユーモラスだったりはするんだけど、集中力が高いというのか.... 5曲目のReconnection など、箇所によっては、ビッグバンドなんだけど、サックスやトランペットがソロを取ってるところが、まるでワンホーン・カルテットのような演奏を聞かせたりして、聞いてる方も思わず引き込まれてしまう。やっぱり上手い人達の演奏ってのはいいもんですねぇ。 何と言っても本日のスペシャルはアンコールの「ラプソディー・イン・ブルー」。 凄いですよ~ 何せ、あの曲、ストリング抜きでやっちゃうんですからね。 内容的には、原曲をなぞりながら、あっち行ったりこっち行ったり。何せ原曲が15分程度の曲が、何故か25分掛かってますから、バリエーションも多いし、面白い。弦五部が無い中で、よく出来た編曲です。ピアノも随分頑張っていて、原曲の雰囲気は崩れませんでした。 ビッグバンドをバックにラプソディー・イン・ブルーというのは、以前山下洋輔もやってましたが、こちらは何と言ってもビッグバンドの集中力、密度がかなり高い。ちょっとこんな凄いのはなかなか聞けないんじゃないかな。 以前、小曽根さんにサイン貰った際、「ラプソディー・イン・ブルー録音しないんですか?」とお尋ねしたことがあって、「うーん、その内」なんて話をされてましたが、これはやはり、次のNo Name Hoses のアルバムで録音するんではないかいな? 奏者一人一人もいいんですが、中で言えば、やはりエリック宮城。トランペットの音が一人半歩先に居る感じですね。音が違います。 まぁ、やはりわざわざ来た甲斐がありました。次はGWで、即興演奏が待ってます。楽しみだ...
2008年03月31日
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新国立劇場 14:00~ 3階左手 アイーダ:ノルマ・ファンティーニ ラダメス:マルコ・ベルティ アムネリス:マリアンナ・タラソワ アモナズロ:堀内康雄 東京交響楽団 新国立劇場合唱団 指揮:リッカルド・フリッツァ 演出:フランコ・ゼッフィレッリ(再演演出:粟国淳) 一言で言うと、普通にいい公演、というところでしたか。 人気の「新国立劇場のアイーダ」の千秋楽。今回が再々演となります。自分が観るのは、多分2回目。最初の時は観てないんじゃないかな? しかし、観に行っておいて何ですが、やっぱり私はアイーダはあまり好きではありません。音楽の密度がもう一つ.........凱旋の場面が劇の中心に据えられてしまっているのも弱みかも。 今回、非常に評判のいいアイーダ役とラダメス役ですが、正直、1幕はかなりよろしくなかったですね。特にベルティは、声量は確かにあるんだけどぶら下がり気味で音程が安定してないし、一本調子なので声に深みが無かった。その後、徐々にエンジンが掛かって行って、調子は上がったけれど、基本的に「声量の人」ですね。確かにかなり余裕はあるから、聞いていてそれなりに楽しいけれど、大味でもある。声が出るのは当然アドバンテージではあるけれど、それを活かして音楽的にも聞かせて欲しい訳でして。特にラダメスは、ヴェルディのスペクタクル・オペラとは言いながら、結構リリカルな面のある役でもあるのだし、ねぇ。リサイタルで聞いてみたいと思うタイプではないなぁ。 ファンティーニは、まだしも良かったのでは。ただ、やはり1幕では安定感を欠いていたのは事実。後半に進むに従い、こちらも良くなってはいきましたが。加えて、声量はあるけれど、決して声の懐が深いタイプではない。まぁ、この辺は好みの問題なので、なんともですが。ただ、「声量のあるカップル」ではあるけれど、それ以上のこと、例えば音楽的に聞かせる、ということではないなぁ、というのが感想。これはオケの問題もありますけど、正直、私、第3幕の後半のアイーダとラダメスのやり取り、眠気を抑えられませんでした。春眠暁を覚えず?まぁ、そういうことにしておきましょう。でも、本当に、そこだけ寝てました。 3幕前半寝なかったのは、堀内康雄のアモナズロが良かったから。本当に、今日の堀内康雄は良かった。主役2人に足りない、声の深みがありました。今日の面々の中では、一番安定していたかも知れません。アモナズロ如きに存在感が感じられてしまうってのはどうなんだ、という気はしますけどね。もう一人、アムネリスのマリアンナ・タラソワも良かったと思います。主役2人の声量十分・音楽不十分という状況を支えたのは、堀内康雄と、やはり出ずっぱりのアムネリス役・タラソワだったのでは。確かに声量では負けるけれど、十分声は出ていたし(3幕の低声のパッセージはちと厳しかったが)、決して役に合っているとは言えないけれど、それを補う声の深みがある。3幕での嘆き、怒り、呪いの折り重なった歌唱は、厳しい面もあったけれど、主役級2人の歌唱以上にオペラとしての楽しみを聞かせてくれたと思います。 全体に、いいと言っていいと思うんですけどね。 フリッツァ指揮の東響。固い。固過ぎる。ソリッドな音楽。アイーダは結構イケイケ大音量でやれてしまう音楽だし、2幕2場をがっつりやれば取り敢えず「良かった」となるのではありますが、それでは躱し切れないのでして。2幕1場然り、3幕然り。特に、3幕後半のラダメスとアイーダのやりとりで爆睡したのは、全然リリカルさを感じさせなかったから。これは指揮の問題なのか、オケの問題なのか。今日は千秋楽なので、練れてないということは無いと思いますしね。2幕2場とかは大爆発で聞かせていたし、そういう面ではいいんでしょうが........ まぁ、アイーダだから、難しいこと言わない方がいいのか。 ゼッフィレッリの演出は、正直、もう一回観たいかと言われると、観てもいいけど......というところでしょうか。元々ゼッフィレッリの演出は「そういう演出」なので、各幕毎にちゃんと休憩が入ります。そういうのはいいことだけど...... ゼッフィレッリで印象深いのは、ウィーンで長年出していた「ボエーム」の演出ですが、あれは人の動かし方が秀逸だった。2幕の「カルチェ・ラタン」の場面、二段重ねの街に人が途切れること無く流れ続けている。単にぐるぐる回しているだけの筈なのだけど、それを徹底させることで、賑わいを感じさせる。そういう感覚が勝れている。豪華さに目が向きがちのゼッフィレッリですが、実は、彼の演出の肝は舞台そのもの以上に「人の使い方」なのだと思います。 そういう意味では、今回、あまり人の動かし方が良くなかった。2幕など、結局のところ、カルメンなんかでお馴染みの「群衆」で終わってしまった。本来は、もっといろいろいじっていたんじゃないかと思うんですけどね。1幕での「その他大勢」の動かし方など、ちょっと片鱗が感じられただけに、勿体無いなと思うのです。 演出の本来のポテンシャルを活かし切れず、話題も舞台装置の豪華さに行ってしまうのなら、まぁ、もう自分はいいかなと。元々それほど好きな演目じゃないし.....
2008年03月29日
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割と近いんですよ、車で行くとね。で、先月からやってたので、こっち方面に用事もあったし、で、ちょっと行ってみました。 世界に誇る少女マンガ家23人の展覧会!だそうです。 やー、少女マンガ、これだけまとめて見たのは久し振りです。 とはいえ、やはり中心に来るのは「少女マンガらしい少女マンガ」なんですね。それと、どちらかというと「少女マンガの源流を探る」的なところがあって、その最初は手塚治虫(リボンの騎士)に始まってます。以下、わたなべまさこ(この人は知らない)、松本零士、石ノ森章太郎、ちばてつや(この3人も描いてたんですね、最初の頃)、水野英子あたりを経て、やっと里中満智子あたりから「知ってる少女マンガ」になるのでした。後は、一条ゆかり、池田理代子、美内すずえ、竹宮恵子、この辺は「あー、はいはい」ってところですね。懐かしい。でも、その後は、自分の見知っているのは出て来なかったなぁ。 自分なんかにとっては、姉が読んでた少女マンガが「ベルサイユのばら」とか「キャンディ・キャンディ」になるわけで、そのへんが「ああ、"少女マンガ"ね」となるわけです。 自分で読んだことがあるのは、それより後になる訳で、それも限られて来る訳ですが、確かに摩耶峰男とか川原泉とか、はたまた河惣益巳とか、要はちょっと本流とは違うものしか読んでないですからね。少女マンガのそういう目線で見ると、結構いろんな風景があるものだなと思うのです。 てか、「少女」やったことない奴に語られても困るか(苦笑)でも、割と来場者は男性多かったですよ。あまり恥ずかしくなかった、という.... その後、近場の園地で梅・桃・桜の三者共演を眺めて帰ってきました。もうすっかり春なんですねぇ。
2008年03月23日
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神奈川県民ホール 14:00~ 3階右手 元帥夫人:佐々木典子 オックス男爵:佐藤泰弘 オクタヴィアン:林美智子 ゾフィー:澤畑恵美 ファーニナル:加賀清孝 マリアンネ:渡辺美佐子 ヴァルツァッキ:高橋淳 歌手:上原政敏 びわ湖ホール声楽アンサンブル、二期会合唱団、赤い靴ジュニアコーラス 神奈川フィルハーモニー管弦楽団 指揮:沼尻竜典 演出:アンドレアス・ホモキ 微妙な出来映えでした。 改めて見ると、まるっきり二期会公演状態なのに行きの電車の中で気付いて(遅いよ)、少々後悔。危惧した通りお弟子さん&関係者が沢山沢山。これがいやなんだって。ただ、今日はこいつら比較的大人しくて助かりました。ま、神奈川県民じゃ広すぎて声届かないか...... 公演そのものは、まずもって「日本人としては」いい出来でしょう。ただ、二幕直前に高音でハウリングのような音が。PA入れてたのかな?効果音でPA入れていたのは確かですが、それにしても。聞いた感じ、三幕で急にオクタヴィアンの声が大きく聞こえたりとかしたけど、全体としてはそう不自然ではなかったので、まぁ入れてないと見るのが自然でしょうけど。 ただ、それはそれとして、やっぱり「日本人としては」いい出来、なんだよなぁ。 端的に言うと「歌える」と「歌う」との差が出てしまったというか。一幕から三幕まで、結構聞こえないところがありました。オケに埋もれるだけでなく、弱音でも聞こえなかったり。 アンサンブルも決してしっかり出来ているわけではない。この程度「歌える」なら、文句は言わないけど、決して極上ではない。ならば、互いに合わせるようなところはその分しっかりやって欲しいのだけど。三幕の三重唱から二重唱、もっと合わせて、各々が綺麗に溶け合って、それで初めて得も言われぬ美しさが出てくるのだけど、こういうところの詰めがね。と言うより、それなりにいいんだけど、もう一杯一杯という感じ。 正直、神奈川県民だと広すぎるんでしょう。本当は、ここも、ちゃんとやればそう遜色なく聞こえる筈なんだけどね。 オーケストラは神奈川フィル。まぁ、弱音で弦の音がびびってしまう、という程度なので..........そりゃあそこの弱音は苦しいけどさ、頑張ろうよ、これくらい。まぁ、多くは期待してませんが。なので、音はちゃんと出てたけどディテールはいまいち平版、という、大体予想の内の出来映え。いいんでないかい? これで指揮者を云々するのは可哀想なので割愛。 演出。 今度のホモキ君は箱じゃない!まず、この点は評価しましょう(笑) ただ、相変わらず分からないんだよなぁ、この人の演出って....... 幕切れなどを除けば、基本的には話の筋は変えていない。その意味ではオーソドックスな演出。ただ、所々、引っ掛かるんですよね。例えば、二幕や三幕で、雷を轟かせて(わざわざPAで!)稲光を光らせて(ストロボライト)、人々を驚かせ、逃げ惑わせる。舞台まで傾かせる。それが、冷静に考えると脈絡なく出て来る。事は起きるが、それが何か新しい物語や意味の導入になっているわけではない。 幕切れもそう。3重唱から、退場して行くのは元帥夫人ではなくオクタヴィアンとゾフィー。ファーニナルはやって来るが、元帥夫人と退場する事を遠慮して、というか、やんわりと拒絶して、一人取り残される元帥夫人は泣き崩れる。泣き崩れて、コルセットを脱ぎ捨てる。と、部屋の隅に行くと、隠されていたあの「銀の薔薇」を取り出す。そこへ、現代風の格好をした元小性(モハメッドだっけ)が現れ、「銀の薔薇」を持ち去って逃げてしまう。残された元帥夫人はどうしたものかと戸惑うように、皆の去って行った下手側を見、上手側を見返したところで幕。 だからなんなの? 全体を見ても、例えば最初18・19世紀風の衣装を着けていた登場人物の内、その他大勢達は最後には20世紀前半風のモダンな服を着て出るようになる。或いは、この舞台、二幕途中から舞台そのものが傾き、三幕では最初から舞台がひっくり返っている。 だから、だからなんなの? 言えば、きっとホモキ君やお節介な代弁者達は「これは社会の変化、不安定化を象徴しているんだ」とかなんとかもっともな説明を付けてくれるんでしょう。でもさぁ、説明がされる時点で、音楽とか舞台って、もうアウトだと思うよ。だって、説明出来るなら、言葉で伝えれば済む事じゃない。オペラ、要らないっすよ。 決して、悪い演出ではないとは思うんですけどね.... 本当にこの人の欠点は「落とし前を付けない事」。なんとなく、雰囲気で舞台を作ってしまう事が多過ぎるんじゃないかと思うのです。 結局、音楽も舞台も、雑味が多過ぎる、というところでしょうか。 そう悪くはないんですけど、如何せん「薔薇の騎士」は昨年は目白押し、私だって新国立劇場とチューリッヒ歌劇場の引っ越しで聞いてます。そのへんと比べるとどうしても詰めの甘さとか、そんなものを感じてしまいます。ダブルスタンダードで見るべきとも言えるし、それは甘いとも言えるけど。
2008年03月22日
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滋賀県のびわ湖ホールの運営を巡って紛糾しているようです。 要は、福祉を削らなければならない中、税金を投入して運営を続ける必要があるのか、と。幾つか記事のリンクを載せますが、「びわ湖ホール」でニュースでググればいろいろ出てきます。http://www.asahi.com/kansai/news/OSK200803170065.htmlhttp://www.asahi.com/national/update/0318/TKY200803170398.htmlhttp://osaka.yomiuri.co.jp/news/20080315p302.htm 署名活動を行ったサイトがこちらhttp://biwako.e-message.jp/index.html 率直に言えば、私は「運営を無理に続けなくていいんじゃないですか?」というのが本音です。 てなことを言うと、「お前は何を言うんだ!」って言われるでしょうね。お前だって税金を投入された公演をさんざ観てるじゃないか、と。 でも、公平に言って、社会に支持されないような "文化" など文化ではない、と思います。天に唾するのと同じ、と言われれば甘んじてその誹りは受けますが、でも、やはり、社会が支持してくれない文化に先行きは無いと思うのです。 「文化的な人」の多くは、例えば「音楽」や「舞台芸術」を「文化」だとTypicalに考えますが、文化というのは本来そういうものではありません。それは言ってみれば文化のしっぽ、よく言って文化の果実に過ぎない。 文化というのは、言わばものの考え方、ものの見方の総体であります。それも、ある社会・共同体の基盤の上に存立して初めて文化というに足る。そうした社会・共同体の基盤抜きに、文化とはいえない。基盤を持たないものは、言葉通りの意味でのサブカルチャーに過ぎないのです。 ヨーロッパで未だに血税を投入してまで歌劇場が維持されているのは、それが社会を基盤にして存在しているからに他なりません。それ故の色々な問題もあるわけだけれど、それは確かに社会と地続きの文化の一部になっている。この間、受難曲の話で、「生きている音楽」「死んでいる音楽」ということを書いたけれど、それらは少なくとも前提にそうした関係がある。日本で言えば、生きるの死ぬのと言う前に、根無し草の音楽、ってところなのかも知れません。 上に掲げた記事の中で、例によって「質の高い文化」とか「世界に誇れるオペラハウス」(オケも何もないタダのハコは断じてオペラハウスなどでは有り得ないのですが?)とかいう言葉が並ぶ中、ある大学の先生が日本では珍しく真っ当なコメントを寄せています。曰く「オペラに関心のない県民にも費用を負担してもらう理由を "くどいほど" 説明するべきだ。」 全くその通り。署名を寄せた人とかは、決して悪気はないのでしょうが、事実としてそうしたものが誰かに支えられていて、その誰かが「もういやだ」と言い出したなら、まず何よりもくどいほど説明するべきなのです。「文化だから」は何の説明にもならない。説明ではなく説得と言い換えてもいい。そうすることで、如何に自分達が「根無し草」の存在であるかを噛み締め、根を張ることを考えるべきなのです。乳幼児の医療費を無料にするよりも大事な意味があると説得しなければならない。それが錯覚であっても何でもいいから、「だって文化だから」的な論法を脱するべきなのです。 それで廃止されたら?仕方無いんじゃない?そういう社会なんだから。私もその一員であるこの社会がそうなんだから。 一応言っておきますが、なくなってしまえ、やめてしまえ、と言いたいのではないのです。ただ、「文化」「文化」と連呼しよう、的な思考停止路線は脱却するべきだと思うのです。それでは結局いつまでたっても根無し草でしか有り得ない。もっと、自分達が基盤とすべき社会と正面切って向き合うべきなのです。 クラシック音楽は決して社会に基盤を持てない訳ではないと思います。でなければ、公称とはいえ、幾ら連休だからとはいえ、5日間で百万人単位の人を動員出来るクラシック音楽のイベントなんて成立する訳ないじゃないですか。ただ、それとこれとが繋がらないとすれば、じゃぁどうやって繋げて行くかを考えるべきなのです。少なくとも、今ここで答えが出せないとしても、真摯に向き合って行くことを止めてはいけないのです。命懸けでそういうことを考えることが最初に来なくてはいけないし、このような議論が出てしまうことを送り手も受け手も慚愧の念を以て受け止めるべきです。
2008年03月18日
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既に先週連絡はあったんですけどね。 以前ちょろっと書いたのですが、ラ・フォル・ジュルネのボランティアに申し込んでいたところ、採用というのか、参加することになりました。全く、年甲斐も無く、ねぇ(笑) 果たしてどのくらいの数の応募があったんでしょうね?一人最低二駒で、割り当てられたのが二駒ですから、一杯になったのかな? ボランティアなんて普段やらないし、どちらかというとこういうの嫌いなんですが、ラ・フォル・ジュルネには少なからぬ思い入れがあります。 前にも書いたことがありますが、ラ・フォル・ジュルネは、都市型の音楽祭の中では今までに無い特質があります。それは、「クラシックファンでない人を積極的にターゲットにした」ということ。初回の2005年の時、結構大袈裟でなく、私、驚いたんですよ。感動と言ってもいいんだけど。「普通の人がわんさかクラシックのコンサートに来てる!」 それまで、クラシックのコンサートは敷居もチケット代も高いし、どうやって行けばいいのか分からない、なんて話が冗談抜きであったんですよね。TVで報道されたこともあってのことではあるんだけど、普通の、普段クラシックなんか聞いてませんという人が、チケットブースに並んで、「室内楽って聞いてみたいんだけど、ありますか?」なんて言ってる光景を目の当たりにしようとは思わなかった。 それ以来、年を重ねる毎に、そのへんの「素人っぽさ」は段々薄れてきたけれど、それでもまだまだ他には無い感じはあるんですよね。でも、運営の方は結構厳しい状況もあるようだから、こういう機会があれば是非参加して支えたい、とは思ってたんですけどね。 まぁ、そういう小難しい話を別にすれば、この「大人の文化祭」ラ・フォル・ジュルネ、運営側に回るのも面白そう、という判断なのであります。 ボランティアは会場のお客様のご案内などが主な任務だそうで.........会場で見掛けてもいぢめないでね(・・、
2008年03月17日
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すみだトリフォニーホール 15:00~ 3階中央 シベリウス:ヴァイオリン協奏曲 <独奏アンコール> バッハ:ヴァイオリンの為のパルティータ第二番より サラバンド マーラー:交響曲第四番 ヴァイオリン:ジュリアン・ラクリン ソプラノ:シルヴィア・シュヴァルツ 指揮:クリスティアン・アルミンク 例によって新日フィルの定期公演。アルミンクと新日の組み合わせは期待出来るので、出掛けましたが、期待に違わぬ出来でした。 何と言ってもやはりこの組み合わせ、まとまりがあります。先週、ゼッダ指揮の東フィルによるロッシーニも密度が高かったけれど、この組み合わせは、密度というよりもより柔軟性のあるまとまりがあります。 本当は古典が好きなのだけれど、ロマン派後期の演目も決して悪くありません。 シベリウスは、正直、あまり聞いてないんですよね。この曲も、よく覚えているのは第3楽章。けれど、全般に、まとまりの良さが感じられる好演でした。独奏のラクリンも良好。アンコールのバッハも良かった。いつも思うのだけど、最近、ヴァイオリニストが独奏で出ると、アンコールはバッハというケースが多いのはなんででしょう。しかも、何故か、そのバッハの方が本編よりいいと感じてしまうのは.........それって、私だけ? 今日の白眉はマーラー。 4番は、比較的演奏される機会も多いと思いますが、その割にあまり聞いた覚えがないのは、「これはいい」と思う演奏に出会う率も低いのではないかと。まぁ、マーラーって、緩徐楽章で勝負に出たり、終楽章で勝負に出ることで「いい演奏」になる率が高いような気がするので、その点、4番は少々不利かも知れません。終楽章が実はオーケストラ歌曲である、というのも、なかなかいいソプラノでないと不利に働くし。 で、今日のソプラノはシルヴィア・シュヴァルツ。昨年、ベルリンの引っ越し公演で一緒に来ていたソプラノですが、私は聞くのは初めて。流石に、現役で主要な歌劇場で歌える歌手は、いいですね。歌手に関しては何も言うこと無し。まぁ、元々この歌にそれほど期待は抱いてはいないのですが、気持ちよく聞けました。 オーケストラは、ここでも好演。集中力が途切れず、耳に残り易い旋律が繰り返し現れる第1楽章と第3楽章でも、決して飽きさせること無く微妙な描き分けを聞かせてくれました。 特に弦が良かったのだけど、管とのバランスも絶妙。特に木管系の演奏はとても良かった(ホルンはもうちょっと頑張れ.....)。16-14-12-10-8の弦五部は、やや厚めにも思えますが、実際には比較的空間のあるホールなのでそれほど気にならない。むしろ、管といいバランスで鳴り合うことで、普段聞いているマーラーとは少し違った、弦の厚い演奏が聞けました。今日良かった原因の一つはそこかも知れません。 実際、マーラーのオーケストレーションは、やたらと管や打楽器が多くて厚いので、どうしてもそちらに目が向きますが、今日くらいに弦が厚くてしっかりしている方がいいのではないかな、という気もしてきます。今日の編成は、マーラーの4番としては弦が厚い方だと思いますし、4番は比較的管・打楽器が薄いと思いますが、このくらいの方が実際には楽しいのではないかと。特に、日本のオケの弦五部は、比較的薄いので、管が活躍する曲だと尚のこと目立たなくなりがちなのでは。聞く方も、録音で慣れていて、そうすると大概は弦の厚みを感じてなかったりしますから... アルミンク、やっぱり来シーズン限りなのかな......
2008年03月16日
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って、イープラス、発売開始後2分で自由席公演完売ってなんですか(苦笑) 忙しくしている内に一般発売日になってしまいました。 なんのかんの言っても会員先行や先着先行で確保しておいて正解でした。買い漏らし1枚だけでしたが、ぴあで押さえて、終了~ まぁ、今日は店頭に行けば買えたんですけどね。でも、発売最初は、店頭では通常1枚ずつしか受けてくれないから、争奪戦の状況は実は大して変わらないだろうし。午前中出掛けられないのが幸いしました、と言っていいのかな。 結局、あれやこれやで結構買ってしまったなぁ.......
2008年03月15日
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某所にも書いたのですが........ 先週の(先々週?)、エイジ・オブ・エンライトメント管のヨハネ受難曲。個人的にはこれは売り切れるだろう、日曜の公演だし、と思っていたのが、1階席の後方はガラガラ状態。実はちょっとショックでした。 エイジ・オブ・エンライトメント管、そんなにマイナーとは思ってなかったんですけどね。確かに、演奏内容は、一部では随分不評の向きもあったようだけど(自分のはそれほどではないぞ、きっと)、そもそも不評かどうかは聞いてみなければわからないのが音楽でありコンサート。なのに、この入りなの? で、この週末の藤原歌劇団の「どろぼうかささぎ」も、土曜日は日本人キャストということもあってか、7割程度の入り。日曜は流石に満席に近かったけど、それにしても、これしか入らないの?という感じ。 オーケストラの定期演奏会なんかだとそうでもないのですが、結構コンサートが満席にならないという状況が一般的になってきているようです。昔からそうではあったけど、「売り切れ札止め」というのがあまりない。そういえば、ドイツ歌曲のリサイタルなんかだと、王子ホールや紀尾井ホール、浜離宮朝日ホール、第一生命ホールのような小ホールでの公演が増えていると思います。それは決して悪いことではないけれど、大きいホールでの集客がし切れないから、ということだとすれば、ちょっと考えてしまいます。 って、安い席ばっかり買って、興行主の収益にさっぱり貢献しない私ですので、文句の言える筋合いではないのではありますが、ちょっと大丈夫かな、という気はするのです。 前に「生きている音楽」だの「死んだ音楽」だのという話を書きましたが、それ以前に、そもそも聞き手が居なければ音楽なんて成立しないのであります。演奏会、という形態に限るにせよ、聞き手が減っているのであれば、やはり淘汰は避けられないだろうし、それ以前に音楽として成立しなくなる可能性だって無いとは言えない。少なくとも演奏会が維持出来なくなるという事態は有り得ますよね。 だからって、俄に「こうすればいいんだ!」なんて話が出る訳もないのですが..... 何でもいいから人を集めよう、というものでもないとは思うし。でも、本当は、そういう人がある程度いる状況を作らなければ、コアな聞き手、熱心な聞き手、それなり程度に興味のある聞き手も増えないんですけどね。裾野というのは大事。ラ・フォル・ジュルネみたいなのも、結局はその「裾野量産マシーン」だったりするわけですが.....
2008年03月10日
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東京文化会館 15:00~ 4階左側 ニネッタ:チンツィア・フォルテ ジャンネット:アントニーノ・シラグーザ 代官ゴッタルド:妻屋秀和 フェルナンド:三浦克次 ルチーア:森山京子 ピッポ:松浦麗 藤原歌劇団合唱部 東京フィルハーモニー管弦楽団 指揮:アルベルト・ゼッダ 演出:ダヴィデ・リヴァーモア 昨日に続いて、藤原の「泥棒かささぎ」。今日は全3公演の最終日3日目で、いわゆる表キャスト、つまりは来日組。チンツィア・フォルテとアントニーノ・シラグーザが出ました。 流石に昨日、今日と続けて聞くと、差を感じずにはいられないですね。 まず、昨日の日記の訂正から。今日、改めて真面目に数えたら、どうやら編成は10-10-6-5-4だった模様。昨日と今日とで違う可能性は勿論ありますが、そこまで芸細かくやらないだろうし、多分一緒なのでしょう。すると、低弦が厚く聞こえたのが、重たく聞こえたのかな? ただ、今日聞いた感じでは、昨日ほど重たくは感じませんでした。こちらが慣れたのか、やはり昨日とは某かの違いはあったのか。 それに、昨日ほど歌唱陣をかき消す、というような場面はありませんでした。最終場の後、処刑直前のとこくらいかと。ただ、これは、やはり歌唱陣の、特に声量差に帰すべきでしょう。 ニネッタ役のチンツィア・フォルテ、第1幕歌い出しで、流石に違うなと感じずにいられません。正直言って、私が好きなのは、昨日の高橋薫子のような清澄感のある声。フォルテのは確かにいい声だし、声量もある。ただ、清澄感と言う意味ではちょっと違うんですね。でも、それを補って余りある良さもあるし(よく言えば深みがある)、これはこれで聞いていて楽しめる。で、何度も言うようだけど、やはり声量があるので、各所の表現に余裕が出ます。まぁ流石にワールドクラス、と言うべきか。このオペラでのニネッタの役としては、言わば高橋薫子とは違うタイプに見えて来る訳で、これはこれで確かにこの「重い」オペラには合います。 とはいえ、やはり今日の1番はシラグーザでしょう。大体がウィーンやミュンヘンの常連になってるバリバリの第一線ですからね。新国立劇場にも出てるけど、それにしてもよく呼んだもんです、藤原も。一頭抜きん出るとはこのこと。もう、聞いていて明らかに声が違う。声量も、昨日の五郎部俊朗とは違うけど、それ以上に声の質が。線が太いのに繊細感があって、適度に甘い。なんのかんの言っても私はやはりこの人好きです。あっちこっちで歌いまくってるので聞く機会も少なくなくて、だからなんとなく有り難みが薄いのだけど、実は勿体無い話でして。それと、やはり経験も豊富なだけに、舞台での所作が上手いのですね。単に自然というのでなく、どうやれば不自然でなくそれでいてはっきり観客に伝わるか、意識されている。本当にいい歌手だと思います。 他のキャストも、特に声量を含め安定感では昨日を上回る出来映え。安心して聞いていられるという奴ですね。 こうなると、ゼッダ率いる東フィルの演奏も映えるというものです。確かに昨日よりは柔らかみが増したように感じるのだけど、多分、それほどの大きな差では無いのでしょう、実際は。ただ、歌唱を含めた全体で、今日の方がまとまっていた、ということだと思います。 演出は、やっぱりよく分からない。観ていて落ち着かないのは確かです。そこは変わらない。 確かに、件の壁の使い方は、一つのアイディアとしては悪く無いのだけど、上手く使えてないと言うか.........例えば、第2幕の裁判所の場面で気付いたのだけど、裁判所をイメージさせるのに壁を3方を立てさせて、群衆はその中には入れない。これは、一つの見せ方としては、その趣旨の良し悪しは別にして、非常に分かり易い。ところが、その周りにいる群衆の処理の仕方が良くない。まず、完全に分断されて、舞台の両端に、言わば「話の本筋」から切り離されているので、疎外感は満点なんだけどそれにしても窮屈過ぎる。しかも、その狭い場所での演技が紋切り型というか、なんだかなぁという感じのもので...... 詰めが甘いんでしょうね。 あ、取って付けたようですが、合唱はまぁ良かったと思いますよ。 全体としては楽しめたんですけどね。ちょっと、舞台は、暫くすると忘れちゃいそうだな。
2008年03月09日
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東京文化会館 15:00~ 4階右側 ロッシーニ:歌劇「泥棒かささぎ」 ニネッタ:高橋薫子 ジャンネット:五郎部俊朗 代官ゴッタルド:久保田真澄 フェルナンド:田島達也 ルチーア:山崎知子 ピッポ:但馬由香 藤原歌劇団合唱部 東京フィルハーモニー管弦楽団 指揮:アルベルト・ゼッダ 演出:ダヴィデ・リヴァーモア 久々の藤原の公演は、最近藤原が定番にしているロッシーニ。但し、「泥棒かささぎ」は、実は日本での舞台公演は初めてなのだとか。言われてみれば、このオペラ、序曲は結構聞きますが、全曲録音は少ないし、自分も生で聞くのは初めてです。 うわっ、重たっ!というのが正直な第一印象。だってロッシーニで、一応喜劇じゃないの?でも重いんですよね。こちらの先入観のせいではあるのだけど、この違和感はちょっと後を引きました。 気になったのは、しかし、やはり単に重たいことにとどまらず、そのせいか、何処かちぐはぐな印象を拭えなかったこと。特に舞台の上とピットの中との間。 指揮のアルベルト・ゼッダはロッシーニの専門家と言うべき存在だし、過去の「チェネレントラ」や「ランスへの旅」では決して違和感などは感じなかった。それだけに、今日のこの演奏は不思議な感じなのです。 今日の東フィルの編成はコントラバス4本、チェロが6本。真剣にチェックしてないけど、見た感じからも全体は12-10-8-6-4といったところでしょう。これは、今時のロッシーニ演奏からすると厚めの方でしょうが、東京文化会館であることを考えれば、それほどおかしくはない。 ただ、今日の東フィルは、音が厚かった。管がスベるとかいうことは、まぁ起きるものとして織り込み済み(?)。弦が厚いのです。いわゆる大音量、ということではなく、密度が濃い。それは一般的にはいい演奏ということで、悪くない話です。ただ、今日の編成でロッシーニで、となると、もうちょっと軽い音楽をイメージして来てしまった私のようなうっかり者には違和感があったのです。ロッシーニに詳しい知人に言わせると、「いや、泥棒かささぎって実は重いんだ」ということだそうなのですが。 そうすると、今度は舞台上とのバランスが問題で、つまり密度の高いオケの音に圧される箇所があったのですが、これは歌唱陣の課題となってしまうのかな? 歌唱陣は、出来具合から言うと、やはり本日のお目当て、高橋薫子。今では日本でのベル・カント・オペラのソプラノの第一人者と言っていいかな?という存在ですが、今日もいい歌聞かせて頂きました。ええまぁ、率直に言って、私15年来のファンですし、点が甘いですが、それを差し引いても十分いい歌唱でした。流石に最近はややビブラート気味になってはきたものの、日本では珍しい、可憐さがあるのに中声域に実質があり、割合に素直に伸びる声はやはり得難い。但し、今日はオケがフルパワーで演奏すると掻き消されてしまっていたのは、まぁ止むを得ないとは思うんですが.... 相手役の五郎部俊朗も、ロッシーニを得意とするだけに、いい歌唱でした。声量面ではこちらの方がより厳しかったかな?それと、個人的には、あまりロッシーニ・テノールは好きではない - 嫌いって意味じゃなくて、よほどいいのでない限り、あまりそういうタイプの声を珍重しない - ので、やや熱が冷め気味です。今日は、この2人で5割・3割の計8割を持ってったかな、と。 ただ、全体に、アンサンブルがあまり宜しくなかった。残りの個々の歌手は、もう一つ安定感がなくて、外れたり、聞こえなかったり。それ以上に、重唱が良くないのです。特に1幕フィナーレの6重唱はどうも。明らかにずれてるのです。音程も何処か合わないのだけど、どうもタイミングが合ってないらしい。誰が、というのは咄嗟に判断付かないのですが、歌手の中でもだけど、歌手とオーケストラもどうも合ってない。確かに歌手の問題はあるのだけど、ここまで来るとやはり指揮者にも責任あり、ですね。実際、皆独唱ではそんなに極端なことはないのだし。 もっとも、これが特に目立ったのは主に前半。後半はかなりこなれてきて、第二幕冒頭の牢獄でのニネッタとジャンネットの二重唱は結構良かったし、その後のニネッタとピッポの二重唱はかなり良かった。特に後者は若手の但馬由香がよく頑張ってました。今回結構いい役を貰って張り切ったのかしら。 とはいえ、結局オーケストラが全奏で強奏を掛けると、さっぱり聞こえなくなってしまう箇所もあり、なのです。でも、この歌唱陣、ロッシーニとしてはまぁ悪くないキャスティングだろうし、やはりこの辺はちゃんと指揮者が調整してあげてよ、という気はするのです。 それと、確かにこういう密度の高い演奏はいいのだけど、その分堅さも感じられたので、決してこの演奏がベストとは思えないのですね。或いはもう一方のキャスト - フォルテとシラグーザ他 - だったら上手く行くというのかな?まぁ、明日も行く予定なので、そっちを聞いてみましょうか。 演出は、どうだったんでしょう。 正直、このオペラ、観るのは初めてだし、あまり詳しくないので、具体的にここが問題、というのは分からない部分はあるのだけど。 ただ、細かい所でどうもピンと来ない部分が多かった。例えば前述の第2幕冒頭でのニネッタとジャンネットの二重唱、2人が牢獄で不運を嘆いている所に葉っぱが落ちて来る。これが、どうにも気になって...... というのは、この落ち葉、結構でかいのです。それが、数分ある二重唱の間中、間断なく結構な数ひらひらひらひら落ちて来る。これが結構目に入って、しかもそれなりに威勢良く落ちて来るので、落ち着かないのです。意味が分からなくは無いけれど...... そう、なんとなく全体に落ち着きがない部分が多かった。舞台上はかなりシンプルで、メインの舞台装置は、舞台の三方に入り口を切った壁を立てていて、この壁を倒したりすることで場面を変える一助にしているのだけれど、これを結構細かく動かすものだから、意味があるのか無いのか段々分からなくなって来る。 一方で、この壁がなまじあるものだから、人の動かし方、特に合唱の動かし方に制約が出てしまう。そのトレードオフが成立しているかと言うと疑問だし、そもそもその制約下にしても、人の動かし方が正直下手。 オペラを観るというのは結構しんどい作業で、実は演出の細かい所は、よほどよくストーリーを分かっていなければ受け取られない可能性が高いし、だからこそ分かり易く、というのはこの場合受け取り易く、という意味も含むのだけど、そういう風に作るべきだと思います。でないと作る側の独りよがりで終わってしまう。 ちょっとキレ味のよろしくない感じでしたなぁ.......薫子ちゃん良かったからいいけど(笑)
2008年03月08日
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というわけで、外出先から携帯で参戦。 結果は、特に競争率の高そうだった公演を除いて、概ね確保。これで予定の見えない日を除いてチケット確保は完了です。 今回は割と繋がり易かったかな?まだ買えると思います。イープラス会員なら買えるので敷居も低いし。
2008年03月08日
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昨日書いた、「ラ・フォル・ジュルネの、ロッシーニの小荘厳ミサの時間が1時間に延長」という話ですが、よくよく見たら80分に延長、でした。うん、そりゃそーだろー。失礼しました。 今日は珍しく都心で仕事、割合に早く仕事は終わったので、何か聞きに行こうと思えば行けたのだけれど.........結局、ちょっと気疲れがして、帰って来てしまいました。本当は、オペラシティで、聖トーマスのマタイ受難曲をやっていたので、聞こうと思えば後半から聞けたのだけど、止めときました。帰りが遅くなるし、疲れてるし...... それに、確かにもう一度聞きたい気もあるし、聞くだけの価値はありそうだけど、何となくそう何度も聞くものでもないかな、という気がして。 別に何度聞いたって構わないのではあるけれど、我ながらクリスチャンでもないくせに、キリストの受難を何度も追体験するのは、ちょっと躊躇いを感じてしまうのです。信仰心の問題ではないのだけど、やはりその重さを「引き受ける」ように感じてしまう部分があるので。 純粋に音楽として受け取る限りに於いては、いいんでしょうけど、「マタイ」の時にも書いたように、やはり「生きた音楽」と付き合うのは、結構体力の要ることだと思うので。 ちと弱気?
2008年03月05日
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ってタイトルで用が終わっているという.....(笑) 3月8日(土)10:00から、eplusで先行発売が始まります。いよいよ一般の方も買える......と言っても、フレンズだって事実上登録するだけで制約無いし、eplusだって会員登録は必要なんだし......あまり変わらないような気が(苦笑) http://eplus.jp/sys/main.jsp とはいえ、8日は朝から用事があって忙しいので、こちらの先行発売は参戦不可かなぁ。どうしよ。 そういえば、一部公演の時間が変更になったようです。 コルボ指揮の、ロッシーニの小荘厳ミサ、当初は公演時間45分の予定だったのが1時間に延長です。まぁ、そりゃそうでしょう.......正直1時間でも厳しいのではないかと思いますが。 それにより、関連公演の開始時刻が繰り下がったりしたようです。詳しくはサイト等でご確認を! http://www.t-i-forum.co.jp/lfj_2008/
2008年03月04日
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オペラシティコンサートホール 15:00~ 3階左側 J.S.バッハ:ヨハネ受難曲 J.ハンドル:モテット"見よ、義しき人が死にゆく様を" テノール(福音史家)、リーダー:マーク・パドモア バリトン(イエス):ピーター・ハーヴェイ ソプラノ:リディア・トイシャー カウンターテナー (アルト役):マイケル・チャンス テノール:トーマス・ウォーカー バス:マシュー・ブルック エンライトメント合唱団 エイジ・オブ・エンライトメント管弦楽団 それなりにいい演奏ではありました。悪くはない。ただ、昨日のマタイを聞いてしまった後では、やはり....... 合唱団、と言っても、独唱者も含めて10人少々が歌うだけ、オーケストラも20人くらいなのです。昨日のゲヴァントハウス管は、控え目と言ってもオーケストラだけでこれ以上は居たと思うので(その上に合唱団が数十人)、やはり少人数編成ですね。勿論エイジ・オブ・エンライトメント管は古楽演奏者の団体なので、ピリオド演奏。当然それは分かってて聞きに行っているので、それはいいんですが...... 冒頭の合唱で、差が出てしまいました。美しくないんです、合唱が。 きちんと聞こえて来ないんです。ドイツ語が聞き取れない。昨日の聖トーマス教会合唱団は、人数は多かったけれど、ドイツ語の発音などとてもクリアで、複数声部がカノンのように重なっていっても、聞き取れないということが殆ど無かった。発音まで含めてよく揃っているし、一人一人がクリアなので、とても綺麗なのです。だから、音楽としてもとても綺麗。 でも、今日のエンライトメント合唱団は、正直、ドイツ語の発音がクリアではないのです。ネイティヴでもなんでもない私が言うのは確かに変ですが、でも、聞き取れないものはしょうがない。 個々の独唱者のパフォーマンスは、曲が違うとは言え、今日の方が高いと思うのです。テノールで福音史家のマーク・パドモア、ソプラノのリディア・トイシャー、カウンターテナーでアルトのパートを歌ったマイケル・チャンス、この3人は特に良かった。で、この3人が多く歌うので、全般に音楽的にはとても良かった。 正直、今日のこれだけを聞いていれば、「いやぁ、良かった」で終わると思うのです。 でも、昨日のマタイを知っている身には、やはり、物足りないのです。いや、足りないというより、違いがある。 端的に言えば、今日の演奏は、結局は「死んだ音楽」なのです。ピリオド演奏だからそう言うんだろう、と言われれば、否定するのは難しいのですが、でも、正直言えばそういう面もあるかも知れない。それを入れても、やはり、このヨハネは、演奏者にとっての「私の音楽」である感じが無いのです。勿論、ヨハネ受難曲はマタイ受難曲に比べると、ドラマ性も比較的控え目だし、そういう点で訴えかけるものが違うということはあると思うのだけど、やはり、昨日感じたような切迫感が無かった。それが、ある意味では、探求的に音楽を作って行くという、ピリオド演奏のあり方が持つ特質の一つではないかという気がするのです。 それを判断基準にするのは危険だし、それだけが音楽のあり方ではないとは思うのですが、今日の所はどうしてもそこを感じずにはいられないのです。 その意味では、最後に特に付け足しで演奏された、ハンドル(1550-1591)のモテットは、パフォーマンスの高い歌手達により、恐らくは良く慣れているラテン語の歌詞で、綺麗にハーモニーを作り上げられていて、非常に感銘を受けました。これが一番良かったんじゃないの、と思うくらい。
2008年03月02日
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みなとみらいホール 14:00~ 3階左奥 ソプラノ:ウテ・ゼルビッヒ アルト:エリザベート・ヴィルケ テノール(福音史家):マルティン・ペッツォルト テノール:アンドレアス・ヴェラー バス:マティアス・ヴァイヒェルト、ゴットホルト・シュヴァルツ 聖トーマス教会合唱団 ゲヴァントハウス管弦楽団 指揮:ゲオルク・クリストフ・ビラー 先日、シャイーの急病を理由に来日キャンセルとなったゲヴァントハウス管が、改めて来日して、バッハ所縁の聖トーマス教会の合唱団と、マタイ受難曲及びロ短調ミサを演奏するツアー。今日はその初日。首都圏で休みの日に行われるのはこの日だけ。 で、どうだったか?結論から言うと、久々にいい演奏会でした。 結局の所、クラシック音楽というのは、とても「我々と同時代のもの」にはなり得ていないのが実情です。オペラについては、演出等を通して、現代に繋がる道を模索しているけれど、そもそもそのフォーマット自体が「我々と同時代のもの」と言うには無理がある。その中で唯一「現代に生きている音楽」でありうるのが、実は、宗教曲だと思います。 というのは、なんだかんだ言っても、やはりまだ西欧諸国の文化社会の基礎には、キリスト教というものがある。各個人が強い信仰を持ち得ているかどうかとは関係なく、存在する。その上で、教会というものがあり、そこで演奏される音楽がある。その音楽で表象される信仰を実際に持っている人が居る、という関係に於いて、宗教曲というのは、過去の作品であると同時に、現代に於いても生きている音楽でもありうる、と思うのです。 今回の演奏でやはり特筆すべきは、聖トーマス教会合唱団の歌唱だと思います。まず、合唱として大変素晴らしいのは言うまでもない。今回は、少年合唱団が40人ほど、それに男声合唱団が30人ほどの構成です。これだと、最近の古楽演奏系の編成に比べると大掛かりです。実際、今日の演奏は、古楽奏法も取り入れてはいるし、ヴィオラ・ダ・ガンバも入ったりしているけれど、基本的には「古楽」ではない。オーケストラは、ヴィヴラートこそ抑え気味だけれど、基本的には現代オケのスタイルとそう変わらない。何より、「バッハの往時に戻って演奏する」というやり方ではないのです。結果、大きめの現代のコンサートホールを満たすだけの音が出て来る。 けれど、合唱で言えば、それは、数に任せての力技ではないのです。これだけの大曲をやると、下手な合唱団なら歌うだけで精一杯でしょう。けれど、この合唱団は、それを表現に回すことが出来ている。例えば、ペテロの否認の後、アルトによるえも言われぬアリアの後の合唱(私はこの曲をどう表現したらいいのか、言葉が見つかりません。ただ単に悲しみだとか後悔だとかそういった言葉では説明し切れないのは確かなのだけれど)、その後でキリストを十字架に付けろ!と要求する群集としての怒りの声、或いは最終曲に於ける、悲しみに満ちた、けれどとても力強い合唱。勿論、それぞれの音楽としては楽譜に書かれていることではあるのだけれど、それをきちんと歌唱として表現してみせることが出来る、ということ。言ってしまえば、本来はそうあるべきなのですが、それが実際に出来る合唱というのはそうは多くない。いや、聞ける機会は多くない、と言うべきでしょうか。 この歌唱は、今のバッハ演奏の標準からすると、やや「遅れた」ものであると思います。が、ここに聞かれる表現の裏付けに、キリストの受難、という、キリスト教というものに多少なりとも関係を持って生きている人であれば恐らくは知らぬ振りを出来ない「出来事」に対する個々人の態度、というものがあると思うのです。 今日の演奏では、一部の独唱について、独唱者ではなく合唱団の一部により歌われた部分があります。例えば、ペテロの否認の場面で、ペテロに向かって「お前はキリストと一緒に居たろう」と指摘する女中を、合唱団のボーイソプラノによって歌わせています。それを聞いた瞬間、「ああ、これは受難劇なのだな」というのを改めて思い知ったのです。オーバーアマガウの受難劇は有名だけれど、結局、バッハのマタイ受難曲だって、それらと大きく変わる所は本来はないのだと思います。その種の受難劇は、確かに観光化しているとは言え、「今、ここで、"我々"の為に、"我々"によって行われる」ということに意義があるのですから。 勿論、聖トーマス教会合唱団が、それほどに牧歌的である訳ではありません。わざわざ飛行機に乗ってやって来て、少なからぬチケット代で演奏会を開く行為が「牧歌的」とは言えないけれど、やはり何処かにそうしたことに通じるものがあると思うのです。そう考えるのは、こちらの幻想なのかも知れませんが。 まぁ、そうした思い入れを抜きにしても、この演奏での合唱のパフォーマンスは、滅多に聞けないレベルの高さであったのは間違いありません。 独唱陣は、個々人の出来不出来というより、一つの演奏者群としてのパフォーマンスが高かった、と見るべきでしょう。福音史家は出ずっぱりで、存在感もあっていい歌唱だったけれど、レチタティーヴォで時々音程がつらかった、とか、言えばきりは無いのです。そういうこととは違う次元での良し悪しを感じました。とはいえ、第二部でのアルトのアリア(39曲、ペテロの否認の後)やソプラノのアリア(49曲、ピラトと群衆のやり取りの間)は思わず背筋を伸ばさずに居られないものではありました。 いや、本当に今日はいい演奏会でした。
2008年03月01日
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