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って、上手いこと言ってどうなるとゆーのだ(苦笑) 夏枯れと言うか、オペラ座を振ったせいもあるのだけど、気が付いたら8月下旬までコンサートの予定無し。ううむ、珍しい。お盆にしか休めないので、夏は海外に出るのを諦めたのも大きいです。(ザルツ初め各地共もう一つ飛ぶだけの勢いがつかない....) 国内の夏の音楽祭は、日本人らしくお盆にはやらないんですよね。当然、盆休みの前後は忙しい。というわけで、当面、コンサートの予定が珍しく無いというわけです。まぁ、世の中にコンサートの類いが絶えて久しいというわけではないのだけど..... 大人しく家で溜まってるDVDでも観るか、ちょっと国内旅行にでも出掛けましょうか.......そういや、広島市民球場、今年一杯なんだよな。試合、あるかな?ちと遠いけど。
2008年07月30日
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ミューザ川崎 15:00~ 3階中央 ムソルグスキー:組曲「展覧会の絵」 ムソルグスキー/ラヴェル編:組曲「展覧会の絵」 <アンコール> ラヴェル:亡き王女の為のパヴァーヌ ピアノ、指揮:迫昭嘉 東京都交響楽団 うわぁ、どっかで見たようなプログラム(笑) 我ながらどーなってんだろうねぇ、と思ってしまうようなこのところのコンサート通いであります。 フェスタサマーミューザは、実はあんまり入れ込んではいないのです。プログラム的にもう一つパンチが弱いというか引きが弱いというか、土日公演がいまいちだったりで、思い入れは無いのです。でも、割合行きやすいので、行けて買える公演があれば行くには行く、と、そんな感じでしょうか。 で、今年は特に予定していなかったのだけど、朝用事があって都心に出て、ふらふら帰り掛け、なんかあるかな~と思って、これがあったのを思い出したのでした。勢いです。ハイ。とはいえ、こりないねぇ、我ながら...... 迫昭嘉は、多分初めて聞きましたが、外連味の無い演奏でした。好感が持てる、と言ってもいいでしょうか。いや、凄い訳ではないですけどね。でも、正直言えば、先週のそれに比べれば、いい演奏だと思いますよ。音楽としてより真っ当というか..... オーケストラの方も、東フィルと比べて遜色無し。こちらは、東フィルに比べるとやや地味目と言ってもいいでしょうか。これまた先日同様「随分よくなったな」という印象は変わらず。まぁ、敢えて言えば、やはり弦の鳴りではやや負けますでしょうか。 まぁ、面白かったですよ。本当は、どうせなら、前日のアルミンク指揮の新日フィルを聞きたかったのだけど、ま、それは無理なので.... 結局週末はもう一つ調子が悪くて仕事も進まず......やれやれ。
2008年07月28日
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すみだトリフォニーホール 15:00~ 3階中央 (ショスタコーヴィチ:ヴァイオリン協奏曲第2番) <アンコール> J.S.バッハ:無伴奏ヴァイオリンソナタ第1番 フーガ ウィリ:永劫 ~ホルンとオーケストラの為の協奏曲 ベートーヴェン:交響曲第2番 ヴァイオリン:崔文洙 ホルン:シュテファン・ドール 指揮:クリスティアン・アルミンク 新日本フィルの今シーズン最終定期公演は、そんなわけで、遅れて途中から出掛けたのでした。到着してみると、ショスタコーヴィチの協奏曲が終盤に入った所。たまたま休憩がショスタコーヴィチの後に変更されていたので、幸いにも聞けないつもりだったウィリの新曲も聴けることに。 というわけで、この日の演奏は、聞き逃したショスタコーヴィチの協奏曲の独奏者、崔文洙のアンコールから。個人的に、コンサートマスターの独奏技量には興味は無いのですが、というか、独奏が上手であることとコンサートマスターとしての役割には関係が無いと思ってはいますが、上手だから困る訳じゃない。 で、その独奏によるアンコール、バッハのフーガですが、うん、まぁ、宜しかったんじゃないでしょうか。前半ちょっと厳しいかな、とも思いましたが、後半は割としっかり出来ていたし。 さて、後半。 最初はオーストリアの作曲家、ウィリの新曲。日本初演だそうです。 第1楽章はモダンジャズベースの音楽、第2楽章は「アルプスの大自然を思わせる牧歌的」な音楽だそうですが、まぁ、どちらかというと、牧歌的というより自然の厳しさ、妖しさも内包した音楽、でしょうか。第3楽章はアレグロ気味の現代音楽的ロンド、というところでしょうか。 ホルン協奏曲なんですが、確かにいい演奏ではあるけれど、ちょっとホルンの影が薄い曲だったかなー、と。曲としての良し悪しはどうだったか。悪くないと思いますが.... そして、本日のお目当て、ベートーヴェンの第2番。やはりアルミンクで聞きたいのは古典派です。 やはり、面白い。ベートーヴェンの2番、生演奏で聞く機会はそう多くはないですが、改めて聞くと、古典派と言いながら、やはり「あれっ」と思わせる所もある。今回の演奏は、そうした面を浮き彫りにした演奏と言えると思います。タイトできびきびとした演奏。特に第4楽章はとても新鮮な演奏。 オーケストラは、例によって「元気のいい」演奏ではあるけれど、アルミンクの手綱捌きでよくコントロールされています。ポイントは、やはり弦五部のアンサンブル。よく仕上がっています。単に合うだけではなく、弦全体の音色が溶け合うようになっている。これが、今の新日フィルを聞く楽しみです。その上で、どのように演奏するか、どのような音楽に仕上げるか、というレベルに至っている。 今聞きたいコンビNo.1と言っていいでしょう。 次は9月です。今から楽しみです。
2008年07月21日
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サントリーホール 16:00~ 2階サイド トスカ:並河寿美 カヴァラドッシ:ヴィンツェンツォ・ラ・スコーラ スカルピア:直野資 東京オペラシンガーズ 東京少年少女合唱団 東京都交響楽団 指揮:マルコ・ボエーミ 演出:菊池裕美子 ラ・スコーラは先週のリサイタルも聞くつもりだったのだけど、調子が悪くて結局パスしてしまいました。なので、今回は今日が初めて。 司会の朝岡聡が出て来て粗筋を御紹介。今は、こういうスタイルがいいんですかねぇ。確かに筋を知らない人にはいいアイディアかも知れないけれど、個人的には賛否の分かれる所だと思ってます。数分の説明で分かるくらいなら予めプログラムに書いてあるんだし、それ以上のことをそれほど説明出来るとも思えないし。むしろ緊張が削がれるので好きではないのです。 1回休憩で2・3幕を連続上演。但し、かなりの刈り込みがあって、第1幕、トスカ退場後のアンジェロッティとカヴァラドッシのやり取り、第2幕の前半もトスカが白状してカヴァラドッシが拷問から解放される所までをバッサリ。第3幕も、羊飼いの歌はカット。 第2幕のカットはあまりにも大幅過ぎるのではないかな?機材の不調とかで、開幕が準備が整ってから随分掛かったのだけど、そのせいで、ということならともかく、あのスカルピアとカヴァラドッシのやり取りが全面カットというのは如何なものか。これでは殆ど抜粋版に近いです。 演奏としては、正直、サイドの席だったので(本命は先週のリサイタルだったんだよなぁ)、不明の点もありますが...... お目当てのラ・スコーラ。やっちゃいました。第二幕のVittoria!、すべっちゃいました。あーあー。でも、本人の希望なのかどうかはともかく、あの一声をいきなり出て来て歌うのは、そりゃテンション上げるのしんどいでしょう。元々あそこは失敗率は高いのだから、ああいうこともあるさ、と。 それと、やはりラ・スコーラはリリックなテノール。幾ら重い方に振りつつあると言っても、コンディションの関係もあろうけれど、やや物足りなさが、特に声量の面ではあったのではないでしょうか。もっとも、トスカとしては十分許容範囲だったと思いますけどね。この公演、サントリーホールの舞台上、前面にオケを置いて、その後ろとピット席を使って一段高く舞台を設えた格好。この状態で、きっちり声を飛ばすのは、都響が結構重い演奏を聞かせる部分もあったので、厳しい面もあったと思います。 でも、それがラ・スコーラ、というものでしょう。終演後、一部でブーが聞こえたのだけど、あれはVittoria!に対するものなのか、ラ・スコーラの歌唱全体に対するものなのか、いずれにせよ、ちょっとそれはどうかな。ブラヴォーにも値しないけど..... トスカの並河寿美。少なくとも主役級で聞いたのは初めての筈です。 そうねぇ........ 声は結構あるんだと思います。で、声が大きい割に破綻も来してはいない。喝采を浴びてました。まぁ、気持ちは分かる。 でも、この人、好みではありません。理由は、大味と言うか、もっとはっきり言うと音楽性が低い。歌が下手、というのが一番いいのかな。上手く言えないんで、どうしても比較になってしまうんですが、歌唱の立派さを言えば、ラ・スコーラよりも声がよく飛んでて、多分良く聞こえていたんだと思うんです。でも、ラ・スコーラには歌としての歌い回しの上手さがきちんとあるのだけれど、それがない。平版なのです。第3幕の2重唱などはその典型例。第2幕の Vissi d'arte も、立派に歌ってはいたけれど、立派なだけ。「だけ」というのは酷かも知れないけれど....でも、カヴァラドッシが連れて行かれてからの "Quando?" の一声は、もうなんちゅうか緊張感のかけらも無い、「そこでそう言えって書いてあるから言ってみました」みたいな歌い方(あれは歌です!歌唱です!オペラなんだから!)で、がっかり。それでアリアで「精魂込めました」って言ってみても、もう遅いよ。大体、あのアリア、それほど面白い訳じゃないんだし。 スカルピアの直野資がむしろ良かった。テ・デウムでも存在感のある歌唱で、フルヴォリュームの合唱&オケに負けずに聞かせていましたし、第2幕でも、歌唱もしっかりしていたけれど、それと同時にステージでの立ち居振る舞いがきちんとオペラしていました。ホールオペラとは言え、衣装を着けて芝居をするのだから、きちんと細部にまで緊張感を持って欲しいのです。件のVissi d'arteでの直野の芝居は、ありきたりではあるけれどちゃんと「スカルピア」していました。そういう緊張感の持続の有る無しが、実は舞台の良し悪しを決めるのですけどね。 都響。まぁ、デプリースト退任後初めて聞きましたが、着任当時と比べると本当に良くなりましたね。それにボエーミの指揮が上手くマッチして、いい演奏になってました。パート毎にも揃っていたけれど、各パートの音楽的な意味での結合が結構上手く出来ていたのと、ボエーミが盛んに抑えようとするのになんとか付いて行こうとする意識が感じられて、好感が持てました。トータル的に決して極上ではなかったと思うけれど、以前に比べればレベルがはっきり違った演奏になった。 でも、今後は、船頭がいないからなぁ...... 公演としては「よく頑張りました」ってところでしょうか。
2008年07月20日
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サントリーホール 13:00~ 2階後方 第1部:ピアノ ラヴェル:亡き王女の為のパヴァーヌ ムソルグスキー:組曲「展覧会の絵」 <アンコール> シューマン:トロイメライ 第2部:オーケストラ ラヴェル:亡き王女の為のパヴァーヌ ムソルグスキー/ラヴェル編:組曲「展覧会の絵」 ピアノ:清水和音 東京フィルハーモニー交響楽団 指揮:金 洪才 元々今日は新日フィルの定期演奏会最終日!と前から気合いを入れていたのだけれど、急遽この公演のチケットを頂戴してしまったのです。時間的には切れ目無しなので移動が必要だからかぶってるんだけど、でも、これ、聞きたいし.....と悶々とした挙げ句、結局行くことにしたのでした。 清水和音。最近、いい思いをしたことがありません。音はでかいけど繊細さが無いっていうか......それでも、こういう曲だし、と思って多少期待して行ってみました。 結果は、最初の「亡き王女の為のパヴァーヌ」からして敢えなく玉砕。いや、演奏はしてますよ。でも、繊細さの感じられない、やたらとでかい音は変わりません。 その傾向は、「展覧会の絵」でも変わらず。確かにまだこちらの方が演奏スタイルが曲の傾向上救われてる面はあります。でも、それだけのことで、やはり繊細感は無い。妙なアーティキュレーション、変にヴィルトゥオジックな弾き方、なのに何故かミスタッチ。 例えば、リヒテルだって、大きな音は出してました。でも、それは、より繊細な音もあった上でのデュナミークの幅の広さの中で出て来ているもの。「音がでかい」ということとは違うのです。その音の大きさには、ちゃんとした音楽的必然性があった。ステレオのヴォリュームを上げるようなこととは違うのだから。誰かこの人に、きちんとそういうことを言ってあげないんでしょうか。ピアノは打楽器かも知れないけど、親の敵じゃないんだし。 後半の東フィルの方が、安心して楽しめたという点では良かったですね。演奏がとても優れていたとかは言わないし、例によって音が落ちてたりもしたけど、概ね安全運転。それに、展覧会の絵は、何よりも派手なオーケストレーションが身上ですから、そういう点ではちゃんと楽しめましたです。 いや実際、展覧会の絵のオーケストラ版、生で聞いたのは久々でしたが、あの派手っぽさは生で聞くとやはり面白いですね。普段はCDだとあまり面白くなくて、なのでそれほど聞いてないんですが。今日みたいな組み合わせだと、オーケストラ版の方がいいなぁ。基本はピアノ版の方が好きなんですが。 オケの方のアンコールはあったかも知れないけれど、早々に後にしてしまいました。次があったもんで.....
2008年07月19日
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http://www.bunkamura.co.jp/museum/lineup/shosai_08_moscow.html Bunkamura ザ・ミュージアム この間のN響のついでに観てきました。モスクワ市近代美術館からの借出し展覧会なんだそうです。 アヴァンギャルドっすよ、アヴァンギャルド。日本語で前衛。なんかもう半分死語と化しているのではないでしょうか。とっても20世紀な香りがします。 実際、ここに集められているのは、20世紀前半の作品。シャガール以降、キューヴィズムあり、フォーヴィズムあり、抽象画あり、新古典主義あり、と百花繚乱。でも知ってる画家はあまりいない(笑) 今回の目玉の一人、ニコ・ピロスマニ。グルジアの田舎の看板描き、とでも言うべき人が晩年「中央」に見出されたのだとか。なんだか何処にもありそうな話ですが、なかなか面白い絵です。 絵そのものはよく言えば素朴、意地悪く言えばちょっと単純過ぎて芸が無い。でも、面白い。何より、眼が印象的なのです。目力、とでも言いましょうか、そういう素朴な力強さがあるのです。そのへんが面白いかな。 全体的にも、近代絵画展として面白かったです。でも、休みの日の割には人出が少なかったかな?その内チケットショップで安く出回ったら、もう一回くらい行ってみてもいいかな。
2008年07月16日
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オーチャードホール 15:30~ 1階前方 コープランド:ビリー・ザ・キッド ガーシュイン:ラプソディー・イン・ブルー <アンコール> ショパンのマズルカを主題にしたインプロヴィゼーション ショスタコーヴィチ:交響曲第9番 <アンコール> ショスタコーヴィチ:ジャズ組曲第二番 第二ワルツ ピアノ:小曽根真 指揮:井上道義 ええまぁ要するに小曽根さんのガーシュインを聞きに行ったという訳です。 なので、そこの話からすると、うん、面白かったです。 即興はいつも通り。ただ、今日は緊張していたのか、ちょっと硬かったような。弾け方がもう一つ?まぁ、N響のオーチャード定期は、定期会員で聞きに来ている人も少なくないので、客層的には「小曽根を聞きに来た」というお客は、プログラムの割に比較的少なめだったのでは。それもあって、でしょうか?私の周りも「小曽根真ってジャズの人なんでしょ?」的な人が少なくなかったし。 いつもだったらもうちょっとシンコペーションを入れて、ブルーノートを入れて、という感じだったかも知れません。3月の、Blue Note東京最終日のアンコールでの、それこそ弾けるような演奏とは流石にちょっと違ったかと。 一方のN響が、これがまた重厚でシンフォニックな演奏をすること!これはもうクラシックのオーケストラとしての意地ですかね。バランス的にはどうしようもない所で聞いていたのでなんともですが、音は非常に良かったです。妙に気合いの入った演奏で、いやぁ、君ら今日はどうしちゃったの?という感じ。 そんな演奏ですから、基本的にはラグタイム風に軽妙を旨としたい筈の小曽根さんとは合わなさそうなんだけど、合ってる、みたいな演奏。ここは、井上道義が上手く纏めたということでしょうか。 本編の後、数度の呼び戻しの後に、アンコール。「何も考えてない」と言う割に、披露したのはショパンのマズルカを主題にした即興演奏。「嵐だったので静かな曲を....」と言いながら、やはりそれでは終わらないのが小曽根さん、でしょうか。ちょっと甘過ぎるかな、というくらいのリリカルな演奏から、なかなかに重みのある即興を引き出してくれました。 あとは、なぁ......... ビリー・ザ・キッドは、ええと、そのぉ.......どう言えっていうんだろ(苦笑)はぁ、そういう曲でしたか.....なるほど.....くらいしか言い様が無いぞ。 後半のショスタコーヴィチも、これまた。この曲自体が大体が問題作じゃないですか。個人的には、ショスタコーヴィチは11番以降に限ると思っているので、それ以前は正直非常に微妙な存在だと思っています。その中でも9番は更に問題作。いわゆる「"9番"らしくない」と批判された"9番"交響曲なのはよく知られていますが、正直、これが9番でなくても、ちょっと交響曲なりなんなりとして、これは、評価が難しい。何より聞いていてもう一つ楽しくない。曲調が楽しかったりするのと、音楽として聞いて楽しいか・面白いか・某か考える所、感じる所があるか、と言うのはまた別問題なのでして。一種の反抗、批判としての作品、という評価も理屈は分かるんだけど..... そういう意味で、私、この曲とはもう一つ折り合いが悪いんですよね。(なんだ折り合いって) 今日も聞いてはみたけれど、正直どうかと問われれば......うむー。 演奏はね、よかったんだと思いますけどね。 まぁ、小曽根さんはやっぱり面白かったね、ということで.....
2008年07月12日
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新国立劇場を巡っては、次期芸術監督がらみで何やらあれこれ迷走しているようです。 公式発表に対し、一部報道で「聞いてねえよ!」という話が出ている模様。 まぁ、この話、あちこちでいろんな話が出ていますが、追跡報道も出ていないし、ちょっと様子見を決め込みつつ、今回の話で思ったことを。 実は、「新国立劇場」というものの実態、もう一つはっきりしないと思うのです。もうちょっと言えば、あれはそもそもオペラハウスとはちょっと言えない。 端的な言い方をしましょう。我々は、「観劇に行く」と言う意味合いで「東京宝塚劇場に行く」とか「四季劇場に行く」という言い方は、あまりしません。しなくはないけれど、より一般的な言い方としては「宝塚少女歌劇団の公演を観に行く」とか「劇団四季の公演を観に行く」となるでしょう。 劇団=公演=箱、という関係があります。ところが、新国立劇場の場合、「劇団」が、まぁ有り体に言えば無いのです。よく言ってもはっきりしない。どうも、オーケストラが....とか言う言い方をするよりこの方がはっきりするみたいなので、こう言ってみました。何も無い訳ではないんです。一応合唱団はあるし、舞台を作る機能はある。でも、音楽を作る方はやはり脆弱。 それでね。 一体、「劇団」が中途半端なのに、何を監督するんですかね。「公演」や「箱」を監督するんでしょうか。せいぜい企画部長みたいなもんなんでしょうか。 このへんが、実は今の新国立劇場の関係者は、まだ骨身に沁みてないんだろうなと思うのです。今回の話が、今後どのように動いていくのかははっきり分かりませんが、結局この話を動かした当人達は、「芸術監督」というのがどのような仕事であるべきで、達成目標が何で、その為に何をして欲しいか、の具体像が全然持てていないんじゃないでしょうか。 そもそも、上記のような状況を是とするなら、「芸術監督」なんてお飾りでいいわけですしね。そういうことなのかも知れません。 一体、「新国立劇場」というのは、ことオペラに関する限り、何の為にあるのでしょう。折に触れ言及して来たことでもあるけれど、何の為に、何をやるのか、ということと向き合っていくべきだと思います。10周年だと馬齢を重ねたことをばか騒ぎして喜んでる場合じゃない筈です。 ちなみに、新国立劇場は、現在、独立行政法人の持つ建物であって、その運営を別の財団法人に委託するという方式で運営されています。だから、よく、「国立である」ということに拘られる方もおられますが、何、いいとこ「国が立てた」だけの話なのです。 このへんの中途半端さ加減も問題の一端なのかも知れません。
2008年07月10日
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いや、「反」ってわけではないんですけどね........ 某所のコメントで、「ヴェルディをドイツ人に歌わせる」云々って批判的に書いてる人がいましてね。いや、それほど引っ掛かるわけじゃないんだけど、最初、本当にピンと来なくって。何が問題なのか。 で、暫く経ってから「ああ、ドイツ人に歌わせるなんておかしい、とかそういうことか」と、やっと腑に落ちたと言う....... 別にいいやん、上手けりゃ(笑) いや、真面目に、歌手の場合にせよ何にせよ、「本場」ってのに拘る人っていますが、どうもピンと来ないんですよね。まぁ、そういうものを全否定する気はないんです。私だって「チェコ」ってのに弱くてですね...... ただ、例えば「ウィンナ・ワルツはやはりウィーン・フィルに限る」とか、「やはりチャイコフスキーはロシアのオーケストラでなければ」とか、「やはりドイツ人キャストで揃えたワーグナーでなければ」とか、なーんか違うような気がするんですよね。そういうアドバンテージが決して無い訳ではないのだけれど....... 大体が私自身「本場物」にあまり拘る気が無いのだと思います。 実は、私がオペラ本格的に「面白いものだ!」と認識してどっぷり浸かり始めたのは、もう20年くらい前なのですが、イタリアで、アメリカ人が歌う、ロシア・オペラを観たのが本格的なきっかけなのです。もう全然本場じゃない(笑) そういや、長いこと最大の愛聴盤だったのは、カラヤン指揮のボエームとアバド指揮のセビリヤ。前者は、歌手こそイタリアだけどベルリン・フィルでオーストリア人の指揮。後者は、何と言ってもやはりプライのフィガロ!全然本場じゃないじゃん(笑) いや、「本場」だっていいんですよ。ただ、所詮それはブランドみたいなもんですからね。勿論、ボストリッジのドイツ語の発音は、知人に言わせると「やっぱりおかしい」となるのだそうでして、ただ、それが故にボストリッジは聞かない、となるかというと、私はそうではない。2流のドイツ人がリートを歌うのを聞くくらいなら、やっぱりボストリッジの方がいい。 大体、日本で公演する場合、そもそも日本でやってる時点で全然本場じゃないのに、歌手の出自を拘ってどうするか、と。新国立劇場の合唱だって、時々何語だかわかんなくなるし。 落語に「目黒のさんま」という噺があります。筋は今更説明しませんが、あれは落ちが「やはりさんまは目黒に限る」と殿様が言う所のおかしさであります。 あれがね、「目黒のさんまはもっと旨かった」とかだったら、大しておかしくはないんですよね。たまたまさんまなるものを目黒で食して、それがあまりに旨いと思った。そこまではかわいい話だけれど、さんまが何処で獲れてどう流通するかも知らないで、通ぶって「さんまは目黒に限る」と勿体ぶって言ってみせる、その滑稽さ。 ということかなぁ。
2008年07月08日
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サントリーホール 15:00~ 2階右手 マーラー:「子供の不思議な角笛」より 死んだ鼓手 / ラインの伝説 / 高き知性への讃歌 交響曲第5番 第4楽章 「さすらう若人の歌」 交響曲「大地の歌」より 第6楽章 告別 <アンコール> マーラー:リュッケルトの詩による歌曲集 より 私はこの世に忘れられ バリトン:河野克典 NHK交響楽団 指揮:沼尻竜典 「新・歌物語」なるタイトルのシリーズの最終回とのことでしたが、実は聞きに来たのは初めてでした。まぁ、元々ノーマークだったし。今回は、丁度予定が重ならなかった上、直前に安いチケットが出てきたので、行ってみたのでした。 まぁ悪くはないんですけどね... 正直、河野克典、それなりにいい声ではあるのですが、なんと言うか.... 声量に問題があると言えば言えないこともないんですが、「声量が無い」訳ではないのです。ただ、いかにも聞こえない。存在感が無いのか、なんなのか。 今日のN響は第一ヴァイオリンが14本。コントラバスは6本とセオリー通りの編成で、サントリーホールでマーラーやるのには多すぎるということはないでしょう。演奏自体も決して荒っぽいなんてことはない。マーラーだけに元々とっちらかってるきらいはありますが、抑えるべきはきちんと抑えた演奏。 で、そうしたオーケストラに対し、問題は、河野克典が負けてるんですよ。いや、一応ちゃんと聞こえてますよ。で、箇所によっては声量もあって、オーケストラを越えて聞こえて来る。 ただ、なんというか、プレゼンスが弱いんです。存在感と言ってもいい。なんかこう上手い表現が見つからないんですが..... 例えば、これでもっとこうスコーンと声が飛んで来る、というのであれば、それはそれでありでしょう。まぁ、そうじゃない。で、そうじゃない時に、最近多いのは、とにかく多少無理をして、フォルムを崩したり声自体を濁らせてでも歌ってしまう、というやり方。これは感心しません。でも、河野はそのようにはしない。それはいい。でも、結果的に、物足りないんです.....声量じゃない。この程度聞こえていれば一応はOKとする。でも、その一歩先にあるものが欲しい。 声自体の存在感、かなぁ。 なんか難しいのですが。 決して悪い演奏ではなかったと思います、どちらかと言えば楽しんだ。でも、物足りない、のかな。「ああ、今日は歌を聴いたな」という感じがもう一つしないのです。N響の伴奏が、決しておかしなものではなかっただけに、尚更。 プログラミング的にも、前半はまだしも、後半が「大地の歌」の告別というのは....... ちょっと退屈しました。正直。 河野の声からしても、むしろリュッケルト歌曲集とかやればいいのに、と思ったら、アンコールが「私はこの世に忘れられ」。これは、確かによかった。同じようにやや「足りない」のだけど、「大地の歌」よりは楽しめました。
2008年07月06日
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もう既に先月の話なのではありますが、新日本フィルの音楽監督、クリスティアン・アルミンクの、2010/11年シーズンまでの契約延長が決定したとの発表がありました。2003/4年シーズンから、3シーズン毎の更新をして、今回はいよいよ2シーズンの更新。ということは、流石にこの契約を以て完了となるのでしょう。と、いきなり「更新の発表」をベースに「辞める時」を話すのも妙ではありますが。 いずれにせよ、これでアルミンクは8年間の長期に渉って新日フィルを率いる事になります。これは、近年の在京プロオーケストラでは珍しい事態と言っていいと思います。しかし、音楽監督とか常任指揮者というものの意味を考えれば、本来なら、こういう事例はもっとあって然るべきだと思うのです。 近年のパターンでは、新日フィルは、年8回の定期演奏会をサントリーホールとすみだトリフォニーホールでそれぞれ行います。それと同様、「名曲シリーズ クラシックへの扉」も8回。この内4公演ずつをアルミンクが指揮する。つまり、年間公演の大体半分を音楽監督であるアルミンクが振る勘定になります。勿論、それ以外の公演も沢山あるのですが。日程的には、アルミンクは、シーズンの最初と最後、それに途中の一回、来日してオケと付き合う事になります。 実は、音楽監督なり常任指揮者なりが、これだけまとまって指揮するケースは他ではあまりありません。日本人をトップに頂くオーケストラでも、定期演奏会の半分がそのトップの指揮、というのは無いでしょう。しかし、冷静に考えてみると、それでは音楽監督といったポストにいる指揮者は、オケとの関係が稀薄な中で、何を監督するのでしょう。 日本のオーケストラで、常任指揮者や音楽監督があまり指揮をしなくても済んでいるのは、やはり聴衆の側にニーズがないからです。極論すれば日本で求められるのは「看板」であって、看板が立派であればそれでよく、その時々で名のある指揮者が振ってくれさえすればそれでいい、というのが実態ではないかと思います。 この点、もっとも顕著なのがN響でしょう。デュトワにせよアシュケナージにせよ、年9回程度の定期演奏会で2回ほど振っておしまい。それで成果が出たも出ないもないというものです。にも拘らず、「レパートリーが増えた」「アンサンブルが弱くなった」などとしてその「功罪」を語るというのは、むしろ滑稽というものです。 日本のオーケストラの演奏評などを見ると分かるのですが、音、例えばオーケストラの音色や響きに関する言及が少ないのです。まぁ、自分も最近人のことは言えないのですが。でも、これが妙な話であることに変わりはありません。 曲の解釈にせよ音楽の表現にせよ、それらが音を通じてもたらされる以上、縦の線が、とかいった「演奏の上手い/下手」というようなこととは別に、音の良し悪しというようなことはごく基本的なことなのではないかと思うのです。 でも、実際には、オーケストラの音についてはあまり議論されません。理由ははっきりしませんが、結果として音色や響きについて、端的に言えば無視されているのは否めません。しかし、あるオーケストラがどのような音を持っているか、というのは、そのオーケストラを考える上でごく基本的な事です。 オーケストラ固有の音、というと、そんなものあるのか、と思われるかも知れません。しかし、「特別な音」ではない、固有の音というのはやはりあるものです。オーケストラが一つの有機体として演奏するのなら、基礎となる音があって然るべきなのです。その時々で、指揮者により、曲によって音が変わるというのは違いますし、勿論上手い下手というのとも違う。 いや、ある意味では上手い下手ということにもなりますが、つまり、そのオーケストラがどのような音を自分達の標準とするのか、ということが、「固有の音」ということです。もうちょっと言えば、自分達のオーケストラが基本的にはどんな音を出すか?ということについての団員達のイメージがあって、それが如何に同じ方向に向いていて、しかも実際に出来ているか、ということです。 これを仕上げるには、どうしても二つの役割が必要です。自分達がオーケストラとしてどんな音を出しているかを聞かせる、つまりは団員達が聞くように仕向ける役回り。そして、もう一つが、オーケストラに対し「固有の音」のイメージを与える役回り。 これが、オーケストラを作り上げる、ということの本質だと思います。 団員達の意識と総合的な技倆が非常に高ければ、お互いに聞き合い、どのようなオーケストラの音になっているか、常に意識する、ということも可能になるでしょう。しかし、「固有の音」のイメージは、通常、明確な指導者が居なければ、殆ど得る事は難しいと思います。 これがオーケストラだけで文句無しに出来ているのは、世界でも唯一ウィーン・フィルだけでしょう。しかし、彼等にして、「固有の音」は自分達が作ったものというよりは、長年受け継がれているもの、と解するべきでしょう。自然に変遷する事はあり得ても、意図的に変える事、作る事はほぼ不可能でしょう。お互いに聞き合う事は、まぁ、彼等は本来が世界一のオペラハウスの楽員ですから、そのくらいの仕事は当たり前にしているでしょうが。もう一つ言えば、オルフェウス室内管もそうですが、彼等の評価は微妙な所なのでは?私は嫌いじゃないですが。 で、そう言っちゃなんですが、こんなハイレベルな事を出来ている日本のオケなんてありません。N響だって無理です。 ついでに言えば、コンサートマスターにこんな仕事出来ません。これは「トレーニング」であり、「指導」なのです。しかも、「固有の音」という方向性まで打ち出す事など到底無理。必要なのは強烈な指導力。それを、あくまで「同じオケの一員」に務まるものではありません。なので、正直、コンサートマスターが誰それ、という話、私は殆ど興味がありません。まして、コンサートマスターの演奏技倆など割とどうでもよろしい。どうせそれなりの技倆はあるんだろうし、そもそもそんなのコンサートマスターの仕事じゃない。コンサートマスターの仕事は、音楽監督や常任指揮者によって与えられる「戦略」、或いはその時々の指揮者によって指示される「作戦」を、まぁ小隊長か中隊長レベルで如何に上手く持って行くかを考える「戦術指揮官」なのです。 あくまで個人的見解ですが、この20年くらいの日本のオーケストラで、この「固有の音」を持てていたオーケストラは、恐らく、一時期の東フィルくらいだと思います。この数年は駄目。もう、固有の音と言うべきほどのものは半ば失われてしまった。チョン・ミュンフンを音楽監督的に冠に置く限り、本格的な再建は難しいと思います。チョン・ミュンフンはそういう指揮者ではないですから。東フィルの良さと言うのは、独特の、歌うように合奏が出来る弦だったのです。多少合わなくっても、ちゃんと歌として同じ方を向いている。そんな演奏が出来ていたのです。管が外すとか縦線があってないとか、つまらないことを言っていた人は大変多かったけれど。 もう一つ、このオーケストラビルディングの過程を歩み始めていたのが、デプリースト指揮下の都響。でも、愚かにも都響はデプリーストを早々と捨ててしまった。後にインバルを持って来ても、インバルがそんなに振ってくれる訳でなし。これでまた都響は後退して行くと読みます、私は。日フィルがラザレフを呼んだ?年二回で一体何させるんでしょうね。東響......頑張ってないとは言わないし、指揮者陣も安定してるけど........船頭多くして何とやら、じゃないかなぁ。 長くなりましたが、この、オーケストラビルディングを果たしつつあるのが、新日フィルとアルミンクのコンビなのです。勿論、レジデンツホールであるすみだトリフォニーホールの存在も大きいですが。 正直、2000年頃の新日フィルは荒っぽいオーケストラでした。雑だし。それが、アルミンクを音楽監督に戴いてから、随分と変わったのです。相変わらず音の大きいオーケストラで、ずっと私は嫌いだったのだけれど、いつのまにか、その音の大きさ、派手さはそのままに、すみだトリフォニーの鳴り過ぎのホールトーンのお化粧の下で、然しながら、デュナミークの付け方を覚え、弦の響きの質を合わせるようにし、歌うように、と、年々オーケストラとしての質を上げていったのです。 それは音楽監督の成果か?私はそう思います。年実質3期、恐らくは4ヶ月ほどこのオーケストラと付き合っているという事もありますが、アルミンクのプログラミングを見ると明らかです。それは、アルミンクが古典派を執拗に取り上げて来ている事。 今シーズンは違いますが、前シーズンまではアルミンクは古典派中心のプログラムを組んできました。彼自身が好きだということかも知れませんが、古典派というのは各声部がはっきり分かるような書かれ方をしているので、演奏する側は誤摩化しが効きません。同じパートの音を揃えること、同じ声部を弾く他のパートとどう溶け合わせるかを考えること、それぞれの声部がどのように対立しつつどのように噛み合って行くか。どんな音楽でもあることですが、見えやすいだけに誤摩化しが効かない。しかも、御丁寧に、一昨年はブリュッヘンまで呼んで、ハイドンなんかやってます。そりゃ、オーケストラにしてみりゃしんどかったかも知れませんが、明らかにオーケストラの音は纏まって行きました。 何より、アルミンクの指揮で聞く古典派の音楽の何と面白いことか! 後3年で辞めちゃうんだ、次はどうするんだろう......という気持ちが半分、残り半分は「やった!もう2年延びた!」という気持ち。こっちの方が大きいかな。 このアルミンクの遺産で(井上某とか某有名日本人指揮者が今更引っ掻き回したりしなければ)新日フィルは放っておいても5年はこの音が維持出来るレベルに至ると思います。その次が難しいだろうとは思うんですけどね。まぁ、次は、本当に難しいけれど、その先へ進める指導力のある指揮者を上手く得られて、アルミンク並に仕事をして貰えれば、本当の意味で世界クラスの日本のオーケストラが出来るかも知れないな、などと思うのであります。 でもなぁ、有名な人は金掛かるしなぁ..... まぁ、まずは3年、楽しませて貰いましょう。会員券は継続決定のようです。
2008年07月01日
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