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フランス革命(20)では、国王の逃亡失敗が齎したもう一つの重大な事実とは何か。実はこちらの事実こそが、フランス革命をフランス革命足らしめる上で、決定的に重要な事柄なのです。それは、国王自身が逃亡を準備する過程で、亡命先に選んだ妻の実家のオーストリアを始め、いくつかの王家に自らの逃亡の予定を伝え、反フランス革命の戦いを始めるに際しての助力を申し出ていた事実に由来します。こうしてルイ16世一家の逃亡記は、ヨーロッパの諸君主の注目の中で行なわれたのです。そして、ヨーロッパの諸君主は、イギリスとオランダ(ここでは、立憲君主政が定着していました)を除けば、皆絶対君主です。君主の言う事に、領主も民衆も従うものという感覚が染みついている君主達なのです。今、ルイ16世は馬車の行方を農民達に阻まれ、意志に反してパリに連れ戻されたのです。しかも議員の監視の下に置かれて…。注目していただけに、このニュースは旬日を経ずして君主達に伝えられます。その時彼等の脳裡に何が浮かんだのでしょうか。革命というものはとんでもないものである。天地がひっくり返るよりももっとショッキングである。都市や農村の民衆の発言権が強まるような事態は、何としても避けなければならない。自国にフランス革命の余波が及ぶ事態は絶対に避けなければならない。そのための最も確実な方法は、フランス革命を潰し、ルイ16世の権力を取り戻すことである。こう考えるのは、ごく自然の成行きでした。こうして犬猿の仲だったオーストリア皇帝とプロイセン国王は、ザクセン選挙侯に仲立ちを頼んで、対フランス革命政府の連合を組みます。既に指摘しましたが、両国は18世紀中期以降シレジェンの領有を巡って戦闘を繰り返してきた間柄だったのです。その両国の君主、オーストリアのレオポルド2世(マリー・アントワネットの2番目の兄です)とプロイセンのフリードリッヒ・ウィルヘルム2世は、両国の対立抗争を一時的に棚上げしてでも、今は打倒フランス革命のために手を組む必要があるとの判断で一致したのです。6月下旬以降、何度かの使節の往来を経て、2人の君主はザクセン選挙侯を交えてピルニッツで顔を合わせます。こうして発表されたのが、8月27日のピルニッツ宣言です。宣言の中には「……フランスにおける秩序再建のため、必要とあれば、軍事行動をとることも厭わない。……」と書かれていました。この文書は、当時の外交に通じた者の目には、まず第1弾のジャブであって、言葉の恫喝で相手がどういう反応を示すかを見ることに主眼があり、ただちに軍を派遣しようとするものではないことが、すぐに読み取れるものでした。しかし外交面では何の訓練も受けていない革命政府は、文字通り戦争の危機が迫っていると受けとめました。そしてパリ市民や各地の民衆もまた、革命政府と同じように、戦争の危機が迫っていると考えたのです。開戦は翌年の4月20日、こうしてフランス革命は、ナポレオンのワーテルローでの敗戦まで続く、長い戦争の時代へと入っていくのです。そして、この事実こそが、兵士となって革命防衛戦争を支えることになる都市及び農村民衆の発言権を、強く大きなものとしていったのです。 続く
2007.07.31
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フランス革命(19)王家の国外脱出はこうして失敗しました。計画そのものに、どれほどの覚悟があったのかが、疑わしいことは、今までの記述でお気づきと思います。しかし、最大の困難は、封建制廃止の決議を封建地代(年貢)の無償廃止と捉えた農民が、有償と知って再び領主層との間に激しい敵対関係を生じていたことでした。緊張し、警戒態勢にあたからこそ、非常召集や行動への立ち上がりはスムーズだったのです。国民議会は、王家の連れ戻しを素早く決定すると、自由主義貴族から1名、ジャコバン穏健派と同じく急進派から各1名の3名の代表を派遣して、王家の護送にあてました。ジャコバン派の2名は、後フィーヤン派のリーダーとなるバルナーヴと、後にダントンと行動を共にすることになるペシヨンでした。3名の議員は、23日夕刻王家の馬車と合流します。護送された馬車はゆっくりと行進し、25日夕刻にパリの市門を通過します。国王に裏切られたと感じているパリ市民は、沈黙をもって国王を迎えます。市門を警備する国民衛兵は、まるで葬列を送るかのように、銃をさかさにもって王家を迎え、抗議の意志をあらわしたと記録されています。議会では、何とか事を穏便に済ませたいと考える層が多数派を形成、議会の調査委員会は、王家の脱出はブイエ将軍の陰謀であり、彼が渋る国王を強引に連れ出した事実上の誘拐であるとの結論を纏め、議会に報告しました。事実を誘拐にすり替え、穏便に事を済まそうとしたのです。憲法を制定し、法の前の平等を実現することで、早期に革命を収束させたい、これが彼等の狙いでした。国王誘拐説は、ルイ16世の王位の保全に役立ちますから、王党派にも文句はありません。こうして流れは決まって行きますが、国王に裏切られたと感じているパリ民衆はそうはいきません。民衆の1部は、始めて共和政の主張を打ち出します。またルイ16世の王位を認めず、幼い王太子をルイ17世として即位させ、オルレアン公を摂政とする案を出すグループもありました。民主派が分裂する中、共和派のグループは、7月17日にシャン・ドゥ・マルスの広場で、国王の退位と共和政の樹立を求める請願大会を開きます。約5万人が共和政の請願署名に参加するために、この集まりに参加しました。市長の許可もある合法的な大会でした。しかし、人が集まるとトラブルも起きます。ちょっとしたゴタゴタが、介入の口実になり、ラ・ファイエットは1万人の国民衛兵を動員して、集まっていた民衆に発砲を命じます。50名の死者、200名以上の逮捕者を出したシャン・ドゥ・マルスの虐殺です。共和政を激しく主張していたダントンは、この事件後危険を感じてイギリスへ亡命し、約1年亡命生活を送ることになります。しかし、この事件はまた、民衆に発砲を命じたラ・ファイエットにとっても命取りになりました。パリ市民に人気があったことが彼の政治生命を支えていたからです。民衆は仲間に発砲した彼が、自分たちとは相容れない異質な存在であることに気づいたのです。そしてまた、国王の逃亡は、もう一つの重大な問題を派生させました。そのことは次回に記します。 続く
2007.07.31
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クロニクル 公務員のスト権、団交権を禁止1948(昭和23)年7月31日この日、政府は政令第201号を公布、直ちに施行し、国家公務員及び地方公務員の争議権、団交権を否認しました。この月23日に、マッカーサーは芦田首相に書簡を送り届け、(1)公務員の団体交渉権・争議権の否認 (2) 逓信関係官庁の郵政と電信電話への分割 (3)鉄道及び専売公社の公共企業体化 (4)国家公務員法の全面的な改正 などを求めました。政府がこのマッカーサー書簡に対応して、実施したのが政令第201号でした。それは、この時期において日毎に勢いを増しつつある、労働運動を抑え込むことを狙ってのものでした。
2007.07.31
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フランス革命さて、国王一行です。道中を護衛するブイエ将軍は、若いショワズール公を連絡係に任命し、パリの国王の下に派遣していました。そのショワズール公は当日王妃の宝石類を持った王妃付きの美容師(当時は調髪師と呼ばれていました)と共に先発します。午後2時頃にシャロンに近くの街道で待ち合わせる約束でした。律儀者ですが、あまり機転の利くタイプではなかったショワズール公は、部下を率いて、シャロン近くのポン・ドゥ・ソム・ヴェールで、国王一行の馬車を待ちました。しかし、2時頃到着予定の馬車は、いっこうに姿を見せませんでした。40名の美装した軽騎兵の集団が、村人の注意と関心を惹かないはずがありません。村人の好奇心はやがて疑心に変わります。午後5時まで待ったショワズール公は、パリの方向へ偵察隊を出すこともせずに、予定が変わったものと一人画点して、次ぎの地点に待つ分隊にまで、王家が来ないと連絡を出し、人目を避けるために森の中の迂回路を通って引きあげてしまいます。何故、王家の到着は遅れたのか。これは国王一行の情勢判断の甘さ、パリさえ抜ければ何とかなると思い込んでいた油断が原因だったと指摘せざるをえません。さすがに百戦練磨のブイエ将軍は、スピードの出る軽い馬車と練達した御者の同行を勧告していたのですが、荷物を満載した大型馬車が使われ、さらに王妃の要望で、御者の変わりに侍女が2人も乗り込むことになったのです。その上、フェルセンもまた途中までしか、同行しなかったのです。専門の御者のいない道中ですから、宿駅での馬の交換にも手間取ります。時間がかかるわけなのです。その上、パリを離れると、狩猟好きの国王は別人のように元気になります。彼は逃避行であることを忘れたように、度々子ども達を馬車から降ろして、シャンパーニュの野で遊ばせます。約束のポン・ドゥ・ソム・ヴェールに着いたのは、午後6時半。ショワズール公の部隊が立ち去った1時間半後でした。当然部隊は見当たりません。にわかに不安を覚えた一行は、次ぎの分隊が待つサント・ムヌーに向います。そこの部隊も解散した後でしたが、大尉が1名残っていました。来ないと連絡を受けて部隊が解散した後ですから、事態に呆然となった大尉は、「出発なさってください。急いでです。すぐに出発なさらないと…」と話したといいます。急いで馬車を替えて出発する一行の慌しい姿に村人が疑念を持ち、村役場に知らせます。役場は一行の後を追わせると同時に、村人を非常召集しました。89年8月の封建制廃棄の宣言から2年近くが経過し、封建地代も無償で廃棄されたと思っていたのに、そうではなかったことを知った地方の農民達は、あらためて領主達の狡猾さに憤りを感じ、各地で騒然たる空気が広がっていたのです。当然貴族の陰謀への警戒感も強く、外国へ亡命しようとする貴族達にも厳しい目を向けていたのです。ですから、非常召集への反応も大変素早いものでした。サント・ムヌーの次ぎの宿駅クレルモンを、王家の馬車は無事に通過します。この地点の分隊も解散していました。村人の中には馬車を取り押さえようという声もあったのですが、誰も自分からは動かなかったのです。次ぎの宿駅が運命のヴァレンヌです。ヴァレンヌを出ると、ブイエ軍の集結地まで宿駅はありません。王家の安全地帯まであと僅かだったのです。ベルリン馬車は10時半頃ヴァレンヌに着きます。替え馬を準備した分隊は、町の出口の宿屋に待機していました。王家の一行は町の入口で馬車を留め、護衛の2人は暗闇の中を約30分近くも替え馬を探して、むなしく時間を浪費します。この間、ヴァレンヌについたサント・ムヌーの村民は、王家の一行を尻目に町に入り、まだ開いていた橋のたもとの居酒屋に飛び込み、事情を説明しました。たちまち酒樽や荷車でバリケードが作られ、橋は通行止めになります。警鐘が打たれて、国民衛兵が召集されます。やがて、替え馬を諦めたベルリン馬車がやってきます。村総代ソースは、「夜も更けているから」との口実で、一行を自宅に案内します。かつてヴェルサイユにいたことがある、判事が呼ばれ、国王を見かけると、「これはこれは、国王陛下」と恭しく跪きます。その様子に国王は、ついに隠しきれずに身分を明かしてしまったのです。森の中の迂回路に入って道に迷ったショワズール公の分隊が、ヴァレンヌに到着したのは、こんな時でした。馬で脱出することを進められた国王は、王妃や子ども達を慮って、この申し出を断ります。ブイエ将軍が救援にくることを信じていたのかもしれません。ヴァレンヌからは、国王発見の至急報が、パリへ届けられます。国外脱出を覚悟していた国民議会は、吉報にどよめきます。朝6時、「王家を連れ戻せ」という指令が届きます。6月22日朝7時半、ベルリン馬車は村人達に囲まれて、パリへ向けて出発します。ブイエ将軍が到着したのは、その2時間後のことでした。 続く
2007.07.30
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クロニクル 自衛隊機と全日空機衝突1971(昭和46)年7月30日この日、午後2時3分頃、岩手県の雫石町上空で、千歳発羽田行きの全日空機に、航空自衛隊松島派遣隊所属のF86Fジェット戦闘機が衝突、全日空機は空中分解して乗員・乗客162名が全員死亡する事故が起こりました。全日空機は指定された高度と空路を守っており、自衛隊機が民間機の使用空路に紛れ込んだために生じた100%航空自衛隊に責任のある事故でしたが、原因を作った自衛隊機の2人の乗員はパラシュートを使って脱出、命を取りとめただけに、遺族や世論の怒りは、凄まじいものがありました。当然のことながら、自衛隊の軍事優先、安全軽視の体質が問題視され、自衛隊への批判が集中、責任をとって防衛庁長官以下、統合参謀本部議長ら自衛隊幹部が辞任することとなり、航空管制法も抜本的に改正される騒ぎになりました。
2007.07.30
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クロニクル 沖縄の米軍機、南ヴェトナムを爆撃1965(昭和40)年7月29日この日、沖縄の嘉手納米軍基地を飛び立ったB52爆撃機30機が、南ヴェトナムを爆撃しました。このB52爆撃機の根拠地は、米国のグァム基地でしたが、同地がハリケーンに襲われたため、前日に沖縄に避難していたものでした。ハリケーンを避けて飛来していたとはいえ、沖縄からヴェトナム戦争の前線に、直接出撃したのは、始めてのことでした。未明に発信したB52は、お昼過ぎには嘉手納基地に再び姿を現しましたが、沖縄米軍は行き先を公表しませんでした。日本国民が事実を知ったのは、サイゴン(現ホーチミン市)からの外電によってでした。国務省は、「沖縄基地の米軍機のこのような使用は、日本政府との事前協議の対象にならない」との談話を発表しました。日本政府も翌日、「日米安全保障条約上は問題がない」との談話を発表しますが、一方で「しかし日本国民の感情を無視したものだ」と不快感を表明、米側に善処を要望しました。当時沖縄は米国の占領下にありましたから、沖縄の米軍機が直接南ヴェトナムでの戦闘に加わったということは、沖縄が報復攻撃を受けることもありうるということに繋がります。このため、野党は一斉に抗議の声をあげ、琉球立法院もまた超党派で抗議の決議を行いました。ヴェトナム反戦運動と、沖縄返還運動が多いに盛り上がるきっかけとなった出来事でした。現在に比べると、平和主義と反戦運動が広く国民の共感を集めていた時代のことでした。
2007.07.29
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フランス革命(17)ところで、国王一行は、警備の厳しいチュイルリー宮殿をどうやって抜け出したのか。ここが問題です。89年の7月15日にパリ市長の椅子についたバイイの下に、どこからともなく、国王の逃亡計画が進行中だという話が届けられ、彼がラ・ファイエットに、一層警備を厳重にするよう申し入れたのが、おりしも6月20日の日中だったのです。これを受けて、ラ・ファイエットは自ら王宮に趣き警備状況を確かめているのです。王家の一行は、王室の居間の下にあたる、この時は使用されていなかったヴィルキエ卿の個室(当時、国王の寵臣は、王宮内に部屋を頂戴出きるか否かを競っていました。ヴィルキエ卿は寵臣の1人でした)から、中庭にでたことが分かっています。この部屋の鍵を王妃が持っていたことも。そして、その夜、ラ・ファイエットが警備状況をチェックしていたのに、何故かこの部屋の戸口には国民衛兵の歩哨が立っていなかったことも……。ラ・ファイエトは、フェルセンが自由に王妃の部屋に出入りできるようにと、彼に便宜を払ったのでしょうか。それとも単なる手落ちだったのでしょうか。彼も共謀者だったのでしょうか。もし共謀だったとすると、彼の目標は何だったのでしょうか。この点は今もって分かっておりません。タイムマシーンを持たない我々には、確かめようがありません。さて、国民議会は翌朝21日の7時頃に王家の逃亡をキャッチします。前夜にまんまと逃亡されたことがわかると、もはや追いつかないと茫然自失の状態に陥ります。しかし、やがて気を取り直すと、早馬でまず国境地域へ、それから戻る形で、街道沿いの村々へ、国王の逃亡を触れまわります。王家の一行は、まだ国境を越えていませんでした。信じられないスローペースで、進んでいたことになりますが、この晩10時過ぎにヴァレンヌで逮捕されるに至ります。 この間、どこで何をやっていたのか。次回はその点を記したいと思います。 続く
2007.07.29
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フランス革命(16)「人民の友」という不定期刊の新聞(最も当時の新聞は皆そうでした)を発行していたマラーという人物については、ご存知の方も多いと思います。このマラーがパリ市民の間で名声を高めたのが、国王逃亡の危険性を声高に訴え続けたことでした。実際の逃亡は、1791年6月21日の朝7時頃に明らかになるのですが、この国王の逃亡計画に対し、警告を発していたのは、マラー1人だったのです。しかし、彼の警告に耳を傾ける民衆は、ほとんどいなかったのです。国王の弟たちは、89年の10月事件の後に国外に逃亡しています.チャンスのある時に逃亡せず、何故この時期に逃亡することを選んだのか?実は89年段階から国王の逃亡計画は、何度か計画されていますが、いずれも日の目を見ることなく、時が経ちました。90年10月から、国王は独自に逃亡計画を立て始めます。今日では、良く知られている事柄になるのですが、国王の革命に対する同調姿勢は、全く表面的な偽装でした。国王は、ウィーンやマドリードの宮廷に何度も使者を送り、列強の干渉を要請し続けます。しかし、直接干渉軍を派遣する気のない、各国の宮廷は、国王が表面的にせよ、国民議会への協力を宣誓している以上、干渉の口実がないこと、武力干渉は国王一家に危険を招きかねないため、王家のパリ脱出が先決でるとの態度を崩しませんでした。こうした返答に対し、国王と王妃は、軍を派遣したくない逃げ口上と判断し、実際に逃亡することで、逃げ口上を封じ、否応無く軍を提供せざるをえない状況にすることを狙ったのでした。そして様々な準備の都合から、予定日は2度変更され、6月20日深夜の決行がきまりました。ブイエ将軍が途中からの護衛にあたり、国外へ無事お送りする任務を受け持ち、王妃の愛人スウェーデン貴族のフェルセンが宮殿脱出の手はずを整える役割を受け持ちました。フェルセンは顔の広さを生かして準備を進め、ロシア貴族のコルフという男爵夫人が帰国するために注文した大型馬車(6人乗り)を譲り受けることに成功します。同時にパスポートも譲り受けました。しかし、この大型馬車を宮殿まで持ち込むことは出来ませんし、パリ市内で発見されては何もなりません。馬車はサン・マルタン市門の外で待機し、そこまで徒歩で目立たぬように三三五合集まることにしました。午後10時過ぎに、別々に宮殿を抜け出し、21日午前2時半頃にパリを後にしたことがわかっています。大型馬車には、国王、王妃、2人の子ども、王妹、それにコルフ男爵夫人に成りすました王太子の保母の6人が乗り、車の後に2人の従者が立っています。荷物を積んだ別の小型馬車に2人の侍女が乗っています。騎馬の先導も2人です。こんな大掛りな一行が深夜はともかく、人目を引かずに日中の街道を走りきることがいかに難しいかは、想像に固くありません。91年6月という時期に、国境に近いヴァレンヌまで、良くぞ行きつけたものだと、私は感じます。革命史の王道からすると、横道にそれますが、ヴァレンヌで農村住民に「発見」されるまでのいきさつを、もうしばらくゆっくりと見て行きたいと思います。 続く
2007.07.29
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国王と議会のパリ移転後、しばらくすると民衆運動は鎮まります。89年の秋の豊作が、食糧危機を解消したからです。こうした落ち着いた状態の中で、憲法の制定作業と、そのために必要な絶対王政の諸法令の改廃の作業が続けられていきます。この時期の変化で重要なのは、89年秋のジャコバンクラブの誕生です。ヴェルサイユ時代は、ブルターニュ州選出議員を中心としたブルトンクラブが議会の議論をリードしていたのですが、5月以降半年に及ぶ政治経験を議員達が積む中で、ブルトンクラブは次第に輝きを失って、乗り越えられて行きます。パリ移転はその流れを決定付けました。パリに移った第3身分の議員達は、新たな革命派の集会場を必要としました。開明派の貴族たちは、自分たちのサロンという恰好の場所を持っているからです。幸い議会に近い、サン・トノレ街のジャコバン派修道院の食堂を集会場に貸してもらえることになりました。ジャコバンクラブの名は、この修道院の名からとったものです。11月初旬の設立当初、約200人の議員が会員になりましたが、やがて議員以外の会員も加わり、翌90年の夏には、会員数は1000人を越えるほどに、急成長してゆきます。しかし、91年春頃までの議会の議論を主導したのは、何といっても、ラ・ファイエットやミラボーらを中心とする自由主義貴族のグループでした。彼等は一定の範囲で国王大権を認める、王権の強い立憲君主政の実現を目指し、国王大権を否定しようというジャコバンクラブを抑えこむことを目指したのです。ジャコバンクラブでは、後にフィーヤン派と呼ばれるようになる急進的な立憲君主政を目指すグループが主導権を握り、自由主義貴族と対立していました。こうした対立を含みながら、そしていくつかの地方的な騒乱を持ちながらも、比較的平穏に法律革命が進行していったのが、91年6月の国王一家の逃亡までの状況でした。 続く
2007.07.28
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クロニクル 第一次世界大戦始まる1914(大正3)年7月28日この日、オーストリアはセルビアに宣戦布告し、対セルビア戦争に踏み切りました。丁度1ヶ月前、ボスニアの首都サライェヴォで、皇位継承者夫妻がセルビア人の民族主義者の手で暗殺されたオーストリアは、開戦の10日前から突然強硬路線に舵を切り、7月24日には、最後通牒を突き付けておりました。しかも回答期限は2日後の26日という途方もない要求でした。セルビア側は何とか期限までに回答をまとめたのですが。オーストリアは直ちに回答を拒否、註セルビア大使にベオグラードからの退去を命じ、国交を断絶、この日28日の宣戦布告と開戦となったのでした。セルビアを後見するロシアは、直ちに軍に総動員令を発し、独・墺国境に兵を集め始めます。これを受けてドイツは8月1日にロシアに宣戦を布告、独・露も交戦状態に入りました。ドイツは翌2日には、フランスに侵入、独・仏間にも戦端が開かれました。これを受けてイギリスも直ちに対独開戦を決定、28日の開戦から僅か1周間で、戦争は列強の参加する国際戦争となったのです。このため、オーストリアがセルビアに宣戦を布告したこの日をもって、第一次世界大戦が始まったと説明されます。このブログでは、現在フランス革命の連載中のため、しばらくのちに機会を見て、第一次世界大戦についての記事も書きたいと思っています。
2007.07.28
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フランス革命(14)明けて、10月6日の早暁のことです。宮殿の内外は、近衛兵と国民衛兵が警備していました。パリからやってきた女達や遅れて駆けつけた男達は、王宮の周辺に屯して夜を明かしました。明け方の6時ごろ、1部の民衆が警備の薄かった扉口から、王宮の内部に侵入すると、驚いた警備の近衛兵が奥へ行かせまいとして、発砲し、民衆側と撃ち合いになりました。王宮内での銃声にすっかり興奮した外の民衆も扉口に殺到します。民衆側にも死者が出ましたが、近衛兵にも数名の死者が出ました。殺気だった男女の民衆の1部が王妃や子ども達の寝室近くにまで出没します。侍女に起こされた王妃は寝着のまま避難するのやむなきに至ります。軍人のラ・ファイエットはさすがに落ち着いていました。国民衛兵司令官として国王の近くに侍していた彼は、反面国王の逃亡をこの時点では防いでいた(彼の態度については、2年後の国王一家の逃亡の顛末記のところで、しっかり検証することにします)ことにもなります。この時期なおパリ市民に絶大な人気を持っていた彼は、宮殿中庭に面したバルコニーに出ると、興奮して死亡した近衛兵の首を槍先に吊るして騒いでいる民衆に向って、合図を送り、国王と王妃にもバルコニーに出ることを勧めます。そうすることが、事態を鎮める最良の方法である事を、彼は知っていたのです。2人はラ・ファイエットと共にバルコニーに出ると、民衆に向って手を振ります。不人気だったとはいえ、王妃は王妃です。「国王万歳、王妃万歳」の歓呼の声が、2人に対する答えでした。しかし、民衆の中には国民議会の議員達や、その意を受けた人達も紛れ込んでいます。そうした策士の声が、素直に民衆の共感を呼び覚まします。アチコチから「国王パリへ、王妃もパリへ」の声が上がり、やがて中庭中に響き渡ります。国王は遂に意を決死、パリ帰還に同意します。午後1時、まだ雨の降る道をパリに戻る行列が動き出します。銃剣の先にパンを突き刺した国民衛兵を先頭に、小麦を満載した馬車、軍隊、王家の馬車、議員達の馬車、最後に国民衛兵と男女の民衆が続きます。民衆は国王一家をパン屋のオヤジ、パン屋のカミサン、パン屋の小僧と呼んではしゃぎながらの行進でした。いったん市庁舎に立ち寄った国王一家がチュイルリー宮殿に入ったのは、午後10時を回った頃でした。この宮殿はヴェルサイユを嫌ったルイ15世が居住した宮殿ですが、その後荒れるにまかせてあり、当時は陰気な宮殿だったのですが、ここに住まう事になったのです。国王のパリ移転に伴い、19日に議会もパリに移ります。こうして王家と議会は、鋭い政治感覚を持つパリ市民達の監視の下に置かれたことに成りました。また、国民議会の議長だったムーニエを始め、約200名の保守派議員が、議会を放棄して、地方や外国に亡命しました。子孫が米国で大化学会社デュポンを創設する、デュポン・ド・ヌムールもその1人でした。 続く
2007.07.27
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クロニクル 田中角栄前首相逮捕1976(昭和51)年7月27日この日、東京地検は、ロッキード事件に絡んで田中角栄前首相を逮捕しました。取調べの結果、8月16日に受託収賄罪と外為法違反の2つの容疑が固まったとして、起訴しました。この事件は、2月に米国でロッキード社の幹部の証言から、問題が暴露され、米国発で日本のマスコミの注目を浴び、それから検察が動くという、珍しい手順で暴かれた事件でした。その特異性から、対中関係の改善を米国の意向を無視して積極的かつ素早く進めるなど、戦後米国の意向を無視した初めての首相の行動に危機感を持った米国が、今後の首相となる人達への警告の意味も込めて、積極的に暴露したのではないかという、うがった見方をする人達もかなりの数に上りました。
2007.07.27
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クロニクル ポツダム宣言発表 26日の日記1945(昭和20)年7月26日ベルリン郊外のポツダムで、この月17日から会談中だった米・英・ソ3国のうち、米・英2国は、中国の蒋介石にhは電信で知らせて了解を採り、なお交戦中の日本に対する降伏勧告と、降伏条件を米・英・中3国の名で発表しました。一緒に会談中のソ連の名がないのは、日ソ間には交戦状態がなかったからです。中国の蒋介石は、会談の席に中国代表を招かず、電信での通告で同意を求める米・英のやり方に不快感を表明しましたが、宣言の内容そのものには同意を表明したのです。さて、このポツダム宣言の内容ですが、前文で日本の軍国主義者のこれ以上の抗戦の無益を説き、日本は破滅か理性的な降伏で国土の全面的な焦土化を防ぐかの二者択一に迫られていることを指摘した上で、以下の条件を提示しています。(1)日本の軍国主義除去、(2)平和で安全な新秩序が構築されるまで、連合軍による占領を受け入れること、(3)カイロ宣言による領土制限の受諾(明治以降の戦争で獲得した領土のうち、交戦状態にないソ連(旧ロシア)から獲得した南部樺太を除く全領土の返還と朝鮮の独立承認を求めた宣言)、(4)日本軍の武装解除と兵士の復員、(5)戦争犯罪人の処罰、(6)民主化の徹底と基本的人権の確立、(7)再軍備の禁止そして、占領中も占領軍に依る直接統治を行なわず、日本人に依る政府を認める間接統治方式をとることも匂わせていました。日本固有の領土の割譲が要求されていないこと、賠償請求のないことなど、降伏条件としては、当時の戦況からして極めて緩やかな内容であることが、良く伝わってきます。これは、2月のヤルタ会談における、ドイツ降伏後3ヶ月以内に日ソ中立条約を破棄して参戦するという、米ソの密約の期限が迫り、ソ連の参戦が目前に迫っているという状況を踏まえ、米国が戦後の対ソ関係を考慮して、日本を自陣営に留めることを目指していたからです。しかし、戦局の不振にいらだち追い詰められていた当時の軍首脳部は、ポツダム宣言に込められていた米国のサインを冷静に受けとめる能力がありませんでした。軍部は、戦犯の処罰という項目に拘り、この戦犯に天皇が含まれるのか否かという点に拘り、天皇の処罰なしの確約が得られない限り、ポツダム宣言を受諾出来ないとする姿勢を貫き、国民に対しては、宣言の内容を発表すると共に、「政府はこれを黙殺する」との談話を発表しました。連合国はこれを拒否と受けとめ、対日攻撃を続けました。ソ連参戦を出来れば避けたかった米国も、日本の頑なな態度から、日本降伏の決定打がソ連の参戦であったという印象が広まるのを怖れ、完成したばかりの原始爆弾の投下を決定しました。そしてソ連も参戦し、長崎に2発目の原爆が投下されました。ソ連軍は怒涛の勢いで満州に展開した関東軍を蹴散らし、朝鮮半島の北部にまで達します。日本がようやくポツダム宣言を受諾して降伏したのは、こうした事態が進んだ後でした。軍首脳の自己保身と、冷静に彼我の力関係を分析する能力の欠如(つまり無能!)、そして天皇に近い政治家の軍部と対決しても事態を打開しようという強い政治的意志と責任感の欠如が、ポツダム宣言発表後の事態の推移の中に見てとれます。こうした無能な軍人や政治家の誤った判断の結果、日本は原爆の被害とソ連に抑留された人々の苦難を産み、そして朝鮮半島の人々は今日なお南北分断の悲劇の中に置かれ、そして子どもを拉致されて苦悩する親たちもいる状況が残っているのです。私は、大都会を中心とする米軍の空襲や原爆の投下に対し、今でも強い憤りを覚えますし、米国政府に対し、例え対米関係を一時的にこじらせたとしても、こうした住民虐殺に対し強く抗議に、日本国民に対する謝罪を要求すべきだと考えます。そして同時に、当時の軍人や政治家の戦争責任をしっかり判断して、そうした戦争犯罪者を靖国神社に祀ることを拒否すべきだと考えています。
2007.07.26
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フランス革命(13-2)先ほど記した女たちのうち、ルイズ・シャプリーは、仕事場の前で、サン・タントワーヌ通りを市役所方面に向う女達に声をかけられ、何か楽しそうにも思える呼びかけに応じないわけにいかないように感じて、群に加わりました。また花売り娘のフランソワーズ・ロランは花売りに出ようとして、「一緒にいらっしゃい。ヴェルサイユへ行くのよ」と声をかけられ、一緒に行く事にし、それからは会う女性、会う女性に皆と一緒に声をかけて誘っています。女達の集団が6時に集まり始め、各区をオルグすることで大集団に成長し、最初の集合からおよそ5時間後にヴェルサイユへ向ったことが、ここから確認できます。さて、国民議会議長のムーニエは、10人の女達と共に宮殿に入り、控えの間に到着します。そこから先ず議員達だけが国王の下に案内され、女達は控えの間で待たされます。広くゆったりした部屋は、ふかふかした素適な絨毯や調度品、そして絵画や鏡などで、庶民階級の女達を圧倒します。女達の1人ヴィクトワール・サクルーは、あまりの興奮と空腹から貧血を起こして気を失います。彼女が運び出された後、国王の使者が現れ、国王が残り9人の女達の内、4名のみに会われる旨が告げられます。戸口近くにいた、ルイゾン・シャプリー、フランソワーズ・ロラン、ローズ・バレの3人と他の1人が選ばれました。このもう1人はついに名前が確認できないので、その日の夜と翌朝の混乱の中で命を落していたのかも知れません。存命であれば調書が残り、氏名や行進に加わった事情などは、明らかになっただろうと思えるからです。さて、4人の女達は極度の緊張と、その場の雰囲気に圧倒されながら、ようやくにして控えの間を通り抜け、儀式の間を通って、国王の待つ大広間へ向います。フランソワーズ・ロランは緊張のあまり躓いてしまい、3人より遅れます。国王から、訪ねてきた理由を問われたルイズ・シャプリーは、答えようとして、極度の緊張から気を失ってしまいます。正気に返ったルイズは、国王から「王妃と共に、パリに行く」と告げられ、さらに食糧放出の約束も獲得します。感激した彼女は、仲間と共に中庭に戻ります。彼女等代表団員達が、「明日には、パンが貰える。国王がそう約束してくれた。」と、いくら説明しても、皆は信じてくれません。興奮した女達は、この説明に満足せず、彼女等を裏切り者として、処刑しようとさえ、言い出します。さすがにこれは、すぐに別のグループのとりなしで、実行には移されなかったのでが、パリからやってきた民衆は宮殿の周辺で、篝り火を焚いて野宿します。こうした女達や国民衛兵と共にやってきた男達は、翌朝早い時間に宮殿に乱入し、そこで事件が起こることになります。 続く
2007.07.25
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フランス革命(13)さて、それでは国王に面会した女たちは、どんな女達だったのか。横道にそれますが、女性史にお付き合い下さい。国民議会はパリの女達の証言を受け、小麦を買い占め、パンにせず売り惜しんでいる悪徳商人や、彼等と結託しているパリの有力者について、国王に実態を知らせることにします。当然女達の代表を同行させることになります。議場に入りきれず、宮殿の門前に屯して中に入る方法を模索していた女たちも、代表派遣を思いつき、10名を選んでいました。国民議会議長(月毎の交代制でした)のムーニエは議会から宮殿に行く途中で、この10名の女性達に会い、彼女等を同行することにしました。この10名の内、4名の氏名などが分かっています。事が済んだ後での警察の友好的な調書作成が行なわれたからです。何故4名かは後でお話します。中央市場近くのラ・ポトゥリ街に住む20才の花売り娘フランソワーズ・ロラン、サン・タントワーヌ市門近くで彫刻品を作っている17才のルイズ・シャプリー、レース女工のローズ・バレ、染物女工のヴィクトワール・サクルーの4名です。国王に会う女達ですし、議員達が選抜に関わっていましたから、若くて目鼻立ちの整った女達が選ばれたことは、言うまでもありませんが、選ばれなかった女達の嫉妬もまた半端ではなかったようです。 続く
2007.07.25
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クロニクル 毒入りカレー事件1998(平成10)年7月25日この日は町内会のボランティアをしている者には、忘れられない事件の起きた日です。和歌山県園部でおきた、夏祭りの振るまいに用意されたカレー鍋に青酸化合物が混入され、この毒入りカレーを食べた4人の方が亡くなった、いいえ殺された事件です。会場近くの民家のガレージを借りてご近所総出でカレーを作り、会場へ運ぶまで交替で番をする、一種の炊出し訓練にもなりそうな、共同体慣行の名残でもあるような行事に、水を指す悪質な行為でした。見張り番の人達は、悪意を持って毒物を混入しようとする人を見張るのではなく、匂いに惹かれてちょっとお先にお毒見をと、考えるいたずら好きな子ども達対策だったに違いありません。まさかそこに毒を入れるなんて…この事件の影響で、この年の秋祭りでは、飲食物の提供を見あわせる町会も多く、各地に多大な迷惑を及ぼしました。犯人は年末に逮捕されましたが、この事件は子どもどころか、親世代の人達の幼児化が進み、精神発達が未熟なままで、身体だけが大人並みになってしまった、未熟児的大人が多くなっているのですが、そうした善悪の判断、公共空間と私的空間の区別、行為の社会的影響などについての判断が出来ない「人間」のおこした象徴的な事件の一つでした。しかし、安倍流の教育改悪プランや「愛国心」の教え込み等では、解決しえない問題ではありますが、日本社会が失ってしまった社会の規範力の再構築なくして、解決しえない問題であることは確かです。
2007.07.25
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フランス革命(12)9月に入ると、貴族の外国亡命が始まり、パリの奢侈品製造業者は注文が減ってなかば失業状態に陥る者も出てきます。一方で食糧不足も厳しさを増します。9月17日、女性達は市長に対し、パン屋の不正を厳しく取り締まるように訴えます。その女性達は、市長にこう訴えたと記録されています。「男達はこの問題については、何一つ分かっていない。だから私達が口出しするしかないのです」と。女性達の関心は食糧問題の解決にありました。この経済的要求が政治運動に拡大する契機となったのは、宮廷での軽はずみな事件でした。10月1日のことです。ヴェルサイユ宮殿で、フランドル連隊の歓迎宴が開かれた際に、音楽と酒ですっかり上機嫌になった宮廷派の出席者達が、日頃の鬱憤晴らしにと、革命派の象徴になりつつあった3色の記章を踏みにじり、ブルボンの白やハプスブルグの黒の記章をつけて座興としたのです。こういう事実は必ず反対派のシンパによって外部に漏れます。事件は3日のパリの新聞によって大きく報じられ、怒った民衆の間から「ヴェルサイユへ行進しよう」という声があがったのです。このフランドル連隊ですが、国王が9月中旬に王宮の防衛強化の名目で、ヴェルサイユに呼び寄せた約千人の部隊でした。バスチーユの事件後、国王は国民議会を承認しましたが、封建制廃棄に関する諸法令と人権宣言は、なお裁可しようとせず、じっと反撃の機会を待っていたのです。議会では宮廷と妥協しようとするグループがなお優勢でしたが、彼等もまたフランドル連隊のヴェルサイユ配備を知ってからは、国王一家と議会のパリ移転を模索するようになっていたのです。こうした情勢で10月5日を迎えます。早朝、警鐘の音と共に東部のサン・タントワーヌ場末町と中央市場附近(いずれも貧民の多い地区です)から続々と現れた女達が、市庁舎前の広場(別名クレーヴ広場)に集まり、パンの不足を訴えて、「ヴェルサイユへ行こう」と叫び出します。バスチーユ攻撃の勇士の1人マイヤールが女達の行進の先頭に立つことを求められて、騎士道精神から応諾、何やら時代かかってきますが、ともかく、パンの円滑な供給を国王と議会に請願するため、ヴェルサイユへの行進が始まりました。時に午前11時頃、その数7千人前後に達しました。早朝、クレーヴ広場に集まった女達の群を誰がどのように組織したのかは、今日なお明らかになっていません。前日4日の日曜日にパレ・ロワイヤルでは、「ヴェルサイユへ」という演説が盛んに行なわれていたこと、「明日は行くわ」と話す女達がかなりいたらしいことなどから、何らかの計画があり、巧妙な組織者がいたことは疑問の余地がないのですが、そこから先は謎のままとなっています。さて、女達の出発後になるのですが、クレーヴ広場には話しを聞いた国民衛兵が、何も命令を受けないまま、これまた自然発生的に集まってきます。彼等もヴェルサイユへ向おうというのです。司令官のラ・ファイエットは、夕方5時近くなって、ようやくヴェルサイユへ向う決心を固めます。一般市民を合わせて2万人に達する大行進が続きました。女達の行進を知った国王は午後1時頃、狩猟から戻って対策を練りますが、ともかく代表の話しを聞こうという判断を下します。4時過ぎ、午後から降り出した雨に打たれ、泥まみれになって歩いてきた女たちは、疲労と空腹を抱えてヴェルサイユへ到着します。拍手をもって国民議会に迎えられた女達を代表して、男性のマイヤールが食糧危機とフランドル連隊に対するパリ市民の不満を議員に訴えます。ともかく、議長の斡旋で女達の代表が国王に会って、直接不満を訴えることになります。午後6時過ぎ、パリの国民衛兵等2万人が、完全武装のスタイルで、ヴェルサイユへ向って行進中との報が入ります。この報に接しても国王は、地方への退避を選択せず、残って、女達の代表を引見し、小麦の放出の確約を与えます。感激した代表は外へ出て事情を説明します。8時過ぎ、国王は封建制廃棄の諸法令と人権宣言を裁可します。ラ・ファイエット等国民衛兵の一行が到着したのは、午後11時を回った頃でした。女達が無事ヴェルサイユへ到着したことを知って、途中でゆっくりと休息をとったからでした。先を急ぐ必要もありませんので、明日は国王に会った5人の女性達の横顔を、分かる範囲で紹介することに致します。 続く
2007.07.24
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クロニクル 東京教育大学、筑波への移転を決定1969(昭和44)年7月24日この日、東京教育大学の評議会は、政府が推進を決定していた筑波研究学園都市への移転を決定しました。この構想については、移転を承諾すれば、旧式の設備を一新でき、しかも大型の研究用機材を大量に新規購入できることに魅力を感じた理工学系の教員が概ね移転推進派となり、たいして人文、社会科学系の教員の多くは、人事等で国家管理色が強まることを嫌って、移転反対を強く主張するなど、学生をも巻き込んで学内を二分する大問題になりました。このブログでも紹介しましたが、この年1月には東大安田講堂を占拠した全共闘派の学生を、機動隊が排除するなど、全国的に学生の反乱状態が続いており、東大闘争以後も、各地の大学でのストライキや授業ボイコットが続いていた時期でしたから、移転反対派の学生たちは、移転を決定した評議会の議事録の公開や移転賛成の根拠の公開を求めて、ストライキや全学封鎖を繰り返し、一時は騒然たる空気に包まれましたが、70年代に入って全共闘運動の退潮と共に、移転へ向けてのスケジュールが進むことになりました。しかし、移転反対派の教授陣の多くは、民主的手続きを踏んでの移転決定手続きが採られないことに抗議して、辞職の道を選び、文系の名物教授の多くが、他大学に転籍する事態を招きました。こうした事情から、移転後約10年間くらいは、筑波大学は文系スタッフの確保に四苦八苦する状況が続きました。
2007.07.24
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フランス革命(11)大恐怖の脅威を何とか切り抜けた国民議会は、いよいよ本論の憲法制定作業に入りました。その最初の成果が8月26日に発表された「人権宣言」です。正確には、人間と市民の権利宣言。より正確には人間と男性市民の権利宣言です。市民は男性形のcitoyenと書かれ、女性形のcitoyenneとは書かれていないのです。というわけで、フランス革命は、人間の半分を占める女性の権利には関心を払わなかったという問題点が、1980年代から意識されるようになってきているのですが、その事は後日に論じることにして、今日は人権宣言について書かせていただきます。この宣言は、議会が考える憲法の骨子、枠組を早い時期に広くフランス国民に周知し、後戻りはしない決意を伝えようという、議会の強い意志で、発表されたものでした。内容はというと、第1条 人は生まれながらにして自由であり、権利において平等 である……第2条 あらゆる政治的結合の目的は、人間の自然的諸権利の保全にある。これらの諸権利とは自由、所有、安全そして圧政への抵抗である。第3条 あらゆる主権の根本は本質的に国民にある。………第5条 法律は社会に有害な行為しか禁止する権利を持たない。第6条 すべての市民は法の前に平等である。第11条 思想及び意見の自由な伝達は、人の最も貴重な権利の一つである。第17条 財産権は神聖かつ不可侵の権利であり、公の必要が求める場合で、正当かつ事前の補償の条件の下でなければ、それを奪われる事はない。およそ以上のような内容でした。今日的視点で見れば、所有権を無条件で認める替わりに、財産を持たない国民への配慮は全くなにもない点など、種々問題にすべき点はあったのですが、市民社会の根本原理を明確な形で表明した意義は、高く評価できます。人権宣言発表の後、憲法本文の審議が始まるのですが、9月に入ると、またぞろ議会を取り巻く情勢には、不穏な空気が漂うようになってきます。国民議会の議員達の間に、考え方の相違が目立ってきたからです。国王はそれを利用して、巻き返しを図ろうと盛んに策謀をめぐらせます。そうした動きを粉砕したのが、10月5日の女性達の行進でした。 続く
2007.07.23
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クロニクル 自衛隊潜水艦釣り舟と衝突1988(昭和63)年7月23日この日午後3時半過ぎ、三浦半島の横須賀港の沖合いで、海上自衛隊の潜水艦「なだしお」(2200t)と、大型の釣り漁船「第1富士丸」(154t)が衝突しました。第1富士丸は僅か1分足らずで沈没し、通りかかったタンカーとなだしおが救助にあたり、乗員・乗客48名の救助にあたり、うち19名を救助しましたが、うち1名は同夜死亡、29名は行方不明となりました。4日後の27日、第1富士丸は海底から引き上げられ、行方不明者全員の遺体が収容されました。夏休みに入った直後の事故でしたから、親子連れの乗客も多く、船室に留まっていた乗客のほとんどが、急の沈没に脱出の間もなく、船内に閉じ込められて水死した様子が、次々に明らかになりました。死者30名という大事故でした。事故の原因は双方の衝突回避行動の遅れによる、初歩的ミスとされましたが、救助にあたったタンカーの証言から、衝突直後になだしおが機敏に救助にあたらなかった事実や、回避行動の遅れを隠蔽するために、航海日誌を改竄していた事実が明らかにされ、自衛隊に対する風当たりは強くなりました。そのため、1ヶ月後の8月24日、当時の瓦防衛庁長官が事故の責任をとって、辞職することになりました。また、東京湾の船舶航行が超過密状態で、危険がいっぱいの状態であることも明かになりました。
2007.07.23
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フランス革命(10)荒れ狂う農村の「大恐怖」の報に接して、国民議会は困り果てました。何しろ国民議会は農民の代表など、1人としていなかったからです。ただこのまま手をこまねいているわけには行きません。そこで考えられた作戦が8月4日夜の宣言だったのです第三身分の活動分子と、開明派貴族が筋書きを書き、その筋書きの通りに、事を運びました。先ず反対派の抵抗を封じるために、議長は長い休憩を挟んで、夜8時という遅い時刻に会議の再開を宣言しました。そして、特権身分である貴族自身が、封建制及び封建的諸権利の廃棄を提案するという、予想外の行動に出たのです。特権身分が自らの封建的特権の廃棄を提案し、それに同類の特権身分出身者が賛成討論をぶつのです。興奮と感激のうちに、提案は可決されました。翌日から決議の成文化が行なわれます。決議の1条は「国民議会は、封建制を完全に廃止する」と書いています。しかし、以下の条文で、無償・無条件で廃止されるのは、身分的な領主特権のみで、肝腎の年貢=封建地代は有償でしか廃棄されないことが明記されるのです。領主の年貢=封建地代徴収権は正当な所有権の一つとする考えを、ブルジョワたちが持っていたからです、そのため、年貢のうち貨幣地代(金納)は20年分、生産物地代(物納)は25年分を1度に納めた場合にのみ廃止されることにしかならなかったのです。こうして初めて農民は土地所有農民になれるというのです。日々の生活に汲々としている貧農が、20年分や25年分の年貢を1度に納めるほどの蓄えを持っているはずがありませんから、これは一部の富農を除けば、意味をなさない規定でした。ですから、封建制の廃止、封建的諸権利の廃棄は口先だけのものに過ぎず、特権身分にとって最も需要な年貢徴収権を守り抜くための、良く考えられたトリックだったのです。そしてこのトリックは見事に成功しました。封建制の廃止を字義通りに受け取った農民達は、年貢の支払いも無償で廃止されたものと受けとめ、勝利に酔いしれて平穏に戻ったからです。やがて実態を知った農民は、再び領主特権に対して攻撃的になりますが、それは翌年以降のことになります。というわけで、国民議会はこの時点では、国王の軍隊の力を借りることなく、「大恐怖」と呼ばれた農民運動を沈静化することに成功したのです。こうして、8月4日の宣言は、言葉の魔術が大きな成功を招いた画期的な例の一つとして、世界史に記録されることになりました。 続く
2007.07.23
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クロニクル 日本基督教連盟軍国主義に協力を表明1937(昭和12)年7月22日この日、日本基督教連盟は「時局に関する宣言」を発表、軍国主義の国策に協力することを表明しました。この日の約2週間前に当たる、7月7日に盧溝橋で日中両軍が衝突し、日中戦争が始まっていました。日本の軍部は戦争の拡大によって、華北から華中一帯を占領する計画を立て、統帥権の独立を楯に、政府のいうことを無視して戦争拡大路線をひた走るのですが、そうした目論みの下、信者数がそこそこある宗教団体に対し、国策に協力するよう圧力をかけてきたのです。基督教連盟もまた他の宗教団体と同じように、その圧力に屈し、国策への協力を表明したのでした。
2007.07.22
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フランス革命(9)パリ民衆によるバスチーユ襲撃と占領は、結果として国民議会の危機を救い、パリ市の市政革命を実現し、革命の第1段階の勝利を決定づけました。パリ市長やバスチーユの司令官らの虐殺もありましが、それは、この2人が宮廷(宮廷=国王ではありませんので、ご留意下さい)と結んで国民を裏切ったという「貴族の陰謀」の嫌疑をかけられたからでした。この「貴族の陰謀」という観念は、民衆クラスのみでなく上層ブルジョワにも浸透していたため、一部に行き過ぎはあったのですが、14日の行動は第三身分全体に支持されたのでした。そしてこのパリの出来事は、近いところから順に地方へと伝わっていったのです。地方の都市では、16日から19日にかけて、パリにならって続々と市政革命が行なわれます。中央の国王の政府から派遣された各地の知事や市長から、地方諸都市が自治権を回復していったのです。やがては地域的な都市連盟が作られるようになります。地方諸都市を中心に、フランス革命は全国化したのです。しかし、運動は都市に留まりませんでした。人口の多数が農民である時代では、農村の動向が大きな意味を持ちます。都市にやや遅れて、農村も動き出したのです。「貴族の陰謀」の観念は、農村にも広く流布していました。領主に封建地代を払わされているのですから、当然といえば当然ですが… 当時の農民層は全人口のおよそ8割近くだったようです。その農村が動き出したのです。農民の多くは貧農です。彼等の保有地は自給規模には遠く達しないため、不足分は小作農として地主の土地を高い小作料を払って借りたり、日雇い仕事をして生活していました。当然そうした現状への不満は高まっています。三部会の議員を選ぶ各地の初級選挙集会での、陳情書の作成を通じて、議会への貧農の期待は大きく膨らみました。しかしその議会の動きは鈍く、農民の苦境はいっこうに改善されませんでした。ですから、14日の情報が農村にも伝わるようになると、いくつかの地域では、評判の悪い領主の館が襲撃され、焼討ちされました。この行動が今度は農村のネットワークを通じて広まってゆきます。「森から見なれない人影が出てくるのを見た」とか、「浮浪者が何人も領主館に入っていくのを見た」といった、極めて不確かな情報で、農民達は領主の館を襲撃し、羊皮紙に書かれた古文書類を焼いたり、領主館そのものを全焼させたりしたのです。こうした動きは20日過ぎから見られるようになりますが、ここから8月上旬にかけて、まるで野火のように各地へ伝染していったのです。そうです。農村もまたバスチーユ襲撃の影響を受けて革命的行動に立ち上がったのです。「貴族の陰謀」に怯えた結果の行動だったことから、この運動は「大恐怖」と呼ばれています。こうしてフランス革命は、早くも全国化したのです。しかし、都市の大ブルジョワの中には、農村に土地を所有し、地主として収益をあげているケースも多く、大貴族たちと同じく、「大恐怖」の動きには神経質にならざるをえません。かといって、鎮圧に国王の軍隊の力を借りることも出来ません、そこで考えられたのが、「8月4日夜の宣言」として知られる「封建的諸権利の廃棄の宣言」です。続きは明晩 続く
2007.07.22
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フランス革命(8)7月14日の動きは、5月以降のヴェルサイユでの議会の動きの延長戦上にありました。ですからバスチーユ襲撃でフランス革命が始まったわけではありません。しかし、この事件が初期のフランス革命の方向を定める上で、決定的な影響を及ぼしたことも確かです。バスチーユでの戦闘と陥落の報は、夕闇迫る時刻にはヴェルサイユの国民議会に伝えられ、議会は直ちに代表を送って国王にも事実を伝えました。この時点での国王は、軍の反撃ですぐに王国の秩序を回復出来ると、まだ事態を楽観していました。国王が事態の深刻さに気づくのは、パリ防衛軍司令官から、部隊の兵士が民衆に同調して出動を強制すれば、反乱が起きそうだとの報告を受けた時でした。翌15日パリでは、国王の政府が任命した市政府が解体され、三部会議員を選出した選挙管理委員会が中心となって、市政革命が宣言され、テニスコートの誓いを議長として読み上げたバイイが市長に就任、市民軍は国民衛兵と改名して、その司令官には貴族身分ながら、革命支持派のラ・ファイエットが就任しました。パリ市に革命派の政府が出来あがったのです。兵士が革命を心情的に支持しているのですから、軍事的反撃は不可能です。では地方または国外へ逃亡し、軍事力の再建を図るのはどうか。この案も道中の安全が保障できないからとした将軍達の反対で消えました。反撃も逃亡も出来ない国王に残された道は、革命との共存しかありません。こうして国王は、いままで拒否し続けてきた立憲君主制を受け入れるしかなくなったのです。17日、国王はパリ市庁舎に出向き、市政革命を承認します。国民衛兵の3色の記章を帽子につけ、バルコニーから民衆に手をふる姿は、革命の第1段階での革命派の勝利を物語るものでした。バスチーユ襲撃は、事件の中身よりも、それが及ぼした影響の点で、フランス革命史に大きな意味を持っているのです。そして、ここまでに記したことは、革命に与えた影響のまだ1部分に過ぎないのです。パリの事件は全国に伝わり、各地に連鎖反応を起こしていくのです。その部分は今夜にでも記そうと思います。 続く
2007.07.21
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クロニクル ワールドコム粉飾決算発覚2002(平成14)年7月21日この日。全米第2位の通信会社ワールドコムが、粉飾決算が発覚して、破産しました。負債総額は410億ドルと全米史上最大級の破産でした。粉飾決算に伴う破産は、前年12月のエネルギー大手エンロンに続いて2例目でした。そして手口は同じような粉飾でした。利益を過大に見せて株価を吊り上げ、高株価を利用して株式交換で買収を行ない、規模の利益を追求する。そのためには粉飾も辞さないという手口は、どこかの誰かさんにも共通していた気がしますが、この手口の発覚が株式市場と経済界に与えた衝撃は大きく、監査方式の見直しも進められていくことになりました。日本でもそうでしたが、この時期は米国でもITバブルが弾けた後だったために、経済不振で大きく傷ついた企業業績を覆い隠すために粉飾という禁じ手に、手を染めたということなのでしょうか。企業の社会的責任を自覚しない、或いは自覚できない経営者を見抜くというのは、実は大変ですね。そんなことを考えさせられた事件でした。
2007.07.21
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フランス革命 閑話休題昨晩、バスチーユは専制の象徴として攻撃されたのではない、あくまでもそこにある武器の調達が目的だったのだと書きました。これが真実です。ところが日本では、現在でも7月14日に民衆は、専制の象徴であるバスチーユ監獄を襲撃したと、間違った説明をする受験参考書などが後を絶ちません。困ったことなのですが、何故このような誤った理解が幅を利かすようになったのかを、お話しておこうと思います。昨晩書きましたが、1789年のバスチーユにはこそ泥クラスの犯罪者などが7名収容されていただけでした。政治犯は1人も収容されていません。蜂起民衆が政治犯を奪い返しに来たとする俗説は、実を言うと、革命に反感を持つ王党派の歴史家たちがしきりに言いふらしたデマなのです。革命派の民衆は、こそ泥しか収容されていないバスチーユに多くの政治犯が収容されていると考えるような、オマヌケな連中だったのだと、言いふらすために…日本では、これを政治犯の収容所=専制の象徴と捉え、武器の調達よりも専制の象徴を民衆蜂起が打倒したと解釈した方が、いかにも革命らしいと考えたのでしょうか、革命史の史実があまり伝わってきていない明治・大正期に、この説がすっかり定着してしまったのです。そのためか、いまだにバスチーユ襲撃は専制の象徴を破壊し、政治犯を救出するためだったとする解釈が、時々顔を出します。どうぞ、この手の俗説をお信じにならなようにお願いします。
2007.07.20
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クロニクル マクドナルド日本上陸1971(昭和46)年7月20日この日、日本マクドナルドのハンバーガーレストラン第1号店が、東京の三越銀座店内で産声をあげました。手頃な価格と、調理に時間のかからず、すぐに口に出きるお手軽さが受け、瞬く間に若者の間に支持を広げたことはご存知の通りです。ファーストフードの隆盛はマクドナルドによって準備されたと言っても、言い過ぎではなさそうですね。それから僅か30数年、同業態の店を含めると、いったい何店の店が日本にあるかも、分からなくなりますね、
2007.07.20
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フランス革命(7)こうして13日の夜には、廃兵院とバスチーユという国王側の2つの兵器貯蔵所に、パリ中の目が注がれる状況になりました。廃兵院はパリ市のやや西より、セーヌ左岸(エッフェル搭側)にあります。現在はナポレオンの遺体安置所として有名な場所です。ここには3万2千丁の小銃が保管されていました。パリ防衛軍司令官は、夜の間に銃の打金を抜いて、全ての銃を使用不能にするよう命令を出しました。翌日に略奪される可能性があることを、司令官も察知していたことは、ここから明かでした。しかし、心情的に民衆の行動に同調していた廃兵達は、手にした銃の打金を抜いたり、留めたりして、少しも作業を進めようとせず、サボタージュ戦術をとって、使用可能な銃の提供を後押ししたのです。一晩かかってなお、使用不能に陥った銃は100丁足らずと、ほとんど全ての小銃がすぐに実戦で使える状態を保っていたのです。14日は南西の風、曇。正午の気温22℃と記録されています。この日、午前6時。廃兵院前には、早くも7千人を越える民衆が、集まっていました。8時過ぎ、銃を渡せ、渡せないの押し問答に飽き足らない積極行動派が中庭に入り込み、廃兵院の銃の全てが押収されました。しかし、そのうちの半分以上は、この行動に参加した民衆の手で勝手に分配されてしまいます。ですから市民軍(国民衛兵)用の銃はまだ不足状態のままでした。しかも大事な火薬と薬莢はバスチーユに移管されていたのです。こうして西よりの廃兵院から、東のバスチーユへと舞台が移ります。時に午前10時は大きく回った頃でした。この間パリ防衛軍は動きませんでした。兵士に不服従の気配が色濃く見えたために、防衛軍司令官は、出動命令を出せなかったのです。バスチーユは高さ30mの八つの搭を持ち、周囲は幅25mの空堀を備えた堅固な要塞でした。かつては政治犯を収容する監獄でしたが、この時代には僅かなこそ泥を収容するだけの、とるに足らない監獄になっていました。武器を手に武装する意志を持った民は、武器と弾薬を要求してこの場に集まったのであり、決してバスチーユを専制の象徴と考えたり、政治犯を釈放する意志を持って、この場を襲ったわけではありません。さて、廃兵院に出向いた民衆が、バスチーユに向けてゆっくりと動き始めた10時半頃、バスチーユにも別の民衆の一団が集まっていました。3名の代表が中に入り、司令官に武器の引渡しと、搭屋の大砲の撤去を要求しました。司令官はパリ防衛軍に問い合わせるからと、武器引渡しについては、時間的猶予を取りつけ、大砲の撤去だけを認めました。代表団は、返事がくるまで中で待つ事にしたのですが、外で待つ数千の民衆は、帰りの遅い代表を案じて、不安を募らせていたのです。そこへ搭屋の大砲を撤去するために、兵士たちが搭屋での作業を始めたのです。不安を募らせる民衆にとって、それが大砲の発射準備と映っても不思議はありません。興奮してパニック状態に陥った民衆は、身の軽い数人が塀をよじ登って中庭に下り、跳ね橋を降ろして中庭になだれ込んだのです。今度は兵士が驚きからパニック状態に陥ります。こうして守備隊の発砲から、激しい肉弾戦になったのです。時に午後1時半頃のことでした。廃兵院からバスチーユに向った民衆は、途中1度家に戻って食事をしましたから、押収した武器を手に手にバスチーユへ到着したのは、3時を回った頃でした。これも押収した5門の大砲を中庭に運び込み、主門に砲口を向けた時点で、状況は決しました。バスチーユの司令官は、ここで降伏を決意します。こうしてバスチーユは占領されました。民衆側の死者98名。負傷者73名。守備隊側死者9名(戦闘後にリンチで殺された者を含めて)。負傷者3名でした。 続く
2007.07.19
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クロニクル 禁門の変起こる1864(文久4)年7月19日前年8月18日の政変で、京都を追われた長州藩の尊皇攘夷派の中の過激分派は、1千数百人の部隊を率いて京都を攻撃、御所の警備を奪還しようと試みました。伏見方面での行動開始は前日18日でしたが、京都での戦端が開かれたのは、19日でした。蛤御門での戦いは19日午前2時頃から行なわれ、警備の会津藩兵と激戦を展開しましたが、薩摩や桑名の応援が駆けつけると、敗退しました。これは、どう考えても勝算のない無謀な戦いでした。その上、自ら放った砲弾により、御所周辺の民家から市街全体に火災が広がり、2万8千戸が焼失、多数の流浪の民を生じたのです。孝明天皇の怒りは凄まじく、2日後の21日には、早くも長州藩に対する征討令が出されます。第1次征長が開始されるのは、それから間もなくのことでした。揺れ動く幕末政治史の一幕でした。
2007.07.19
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フランス革命(6)こうして、7月12日を迎えました。国王は前日11日に財政総監のネッケルを罷免しました。このネッケル罷免の報は、12日午前9時頃にはヴェルサイユからパリにも伝えられました。民衆はネッケルが買い占めを厳しく取締り、春からの物価高を解消してくれるものと期待していましたし。大ブルジョワは彼の財政再建策に期待を寄せていました。それだけにネッケル罷免は、パリ中に不安感を広める役割を果しました。当時のパリは東西に8,5km、南北に6km程度の市域に約60万人の人々が暮らす大都市でした。その中心部にあるのが、当時パリ最大の盛り場として賑わっていたパレ-ロワイヤルでした。ここはオルレアン公の住まいでしたが、彼が中庭に回廊を設けて商店を誘致し、パリで最も活気のある商店街に仕立て上げたのです。そこには当時流行のカフェもありました。そこでは様々な政治談義も戦わされます。不安感を募らせたブルジョワや民衆が午後のパレ-ロワイヤルに集まってきます。当時若手の弁護士だったデムーランは、この日「やつらはなんでもやろうとしている。虐殺に気をつけよう。やられる前にやってやろうじゃないか。諸君、!武器を取れ」と激烈な演説で、聴衆をひきつけました。「貴族たちが、我々庶民を脅かすために、食糧を買い占めて物価を吊り上げている。」経済不安によって生活を脅かされていた民衆は、そこから出発して政治情勢に関心を寄せ、このような考えを共有するようになっていました。その上、全国の浮浪者を貴族が雇って、暴力で庶民を抑え込もうとしているという考えも、広く流布していました。こうして「貴族の陰謀」という観念が広く形成されていたところへ、ようやく活動を開始した国民議会を軍の力で圧殺しようという目に見える脅威がやってきたのです。議会の次ぎのターゲットはパリの我々だとの思いは、こうして確信に替わっていったのです。デムーランの演説に共鳴した一群の民衆は、デモ隊を組織してパリの街を練り歩きます。その数は行く先々で加わる者もあって、チュイルリー宮につく頃には、6千人もの大部隊になっていました。当時の人口は多くみても60万人ですから、自然発生的なハプニングデモでも参加者はパリ人口の1%に達したというわけです。宮殿の庭で、警備のドイツ人傭兵隊と遭遇、睨み合いの続く中、夜8時頃パリ司令官の排除命令を受けた部隊は、民衆に発砲します。死傷者の血に興奮した群衆の圧力で、軍は近くのルイ15世広場に退去して、第一幕は終わりました。12日夜には、武力衝突の雰囲気は出来あがっていたと言えるでしょう。ドイツ人傭兵隊が市民を虐殺したという報は、風のように素早く市内を1周します。その夜遅くには、革命に好意的なパリ市の衛兵を含めると、チュイルリー宮に集まった民衆は1万5千人近くに達しました。13日早暁、午前時頃から、市壁に近い市内各所の入市税取立所の焼討ちが始まります。当時パリ市に運び込まれる商品には、入試関税がかけられていたのです。当然その分は消費者に転化されますから、パリの物価高に繋がるものとして、この税は市民の評判がすこぶる悪く、入市税取立所は市民によって目の仇にされていたのです。市内全54ヶ所の取立所のうち、40ヶ所が襲撃に合い、多くが放火されたのです。近くに隣家があり、類焼の危険のあるところは破壊だけで火はかけられていないため、明かに組織的、計画的な行動なのですが、実際どのような組織があったのかは、今日なお謎のまま残されています。さて、こうして夜が明けると13日の月曜日。この日1日を費やして、市内の武器の探索が行なわれました。小競り合いとはいえ、前日軍隊との衝突があったのです。この日軍はシャン・ド・マルスの広場(この広場の最もセーヌ川沿いに、現在はエッフェル搭が立っています)に集結し、いつでも出動出来る体制にありました。絶対王政の暴力装置に対して、民衆は自ら武装することで自衛し、同時にヴェルサイユの議会をも守ろうとしたのです。この日、市内の武器商の店舗には、市民が乱入し、勝手に武器を持ち去りました。市内のブルジョワも有産市民による市民軍を編成し、武器調達に乗出します。こうして、13日夜には、国王側の2つの大きな武器貯蔵所が廃兵院とバスチーユであることがはっきりしてきます。堅固な要塞バスチーユと老兵や傷病兵の収容所とでは、どちらが攻めやすいかは、おのずと明かです。こうして14日の行動は、先ず廃兵院に向けられるのですが、14日の顛末は明日記すことに致します。 続く
2007.07.18
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フランス革命(5)特権身分に「国民議会」への合流を進めたのは、勿論国王の本音ではなく、軍に依る弾圧をカムフラージュし、軍の動員にかかる時間を計算しての時間稼ぎでした。というのは、首都近辺にある首都防衛軍の兵士には、第三身分に同調する空気が強く、国民議会の圧殺命令を出した場合、命令に従わずに反抗する可能性が否定できなかったからなのです。国王は、国民議会への合流を特権身分に呼びかけたその日、東部ならびに北部国境地帯に派遣していた、スイス人傭兵部隊とドイツ人傭兵部隊に、首都への帰還命令を出しています。彼等全てが、首都近辺に集結するのは、7月13日となる予定でした。兵士たちの集合は1度にではなく、準備の出来た部隊から順次移動します。それゆえ、7月5日頃から、パリやヴェルサイユ周辺に傭兵部隊が目立ちはじめ、その数は日を追って増えて行きます。国王が何を考えているかは、おのずから明かでした。議会の議員達も危機感を募らせ、特に異常な事態に興奮した民衆が、激情にかられて暴発することも心配します。同時に身の不安も感じます。ここにミラボー、ラファイエットらは、国王に自制を促し、責任は国王側近の強硬派にあるとの主張を展開しました。11日には、首都周辺の兵士の数は、第三身分に同調的な防衛軍約8千人を加えると、3万人を越えるにいたります。軍はいつ実力行使に走ってもおかしくない状況になりました。深夜の逮捕を恐れた革命派の議員達は、この夜から14日まで自宅で寝るのを避けたほどでした。いつ何かがおこってもおかしくない事態は、こうして12日の日曜日には、整っていたのです。14日まであと3日、14日に先立つ2日間には、何がどのように行なわれていたのか、次回に記したいと思います。深夜に時間があれば書き込みます。 続く
2007.07.18
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クロニクル 光化学スモッグの発生1970(昭和45)年7月18日この日、午後1時頃、東京杉並区堀の内の立正高校で、40数人の生徒が突然吐き気などを訴えて倒れ、近くの病院に運ばれました。都公害研究所は、新種の公害の可能性が考えられるとして、調査に乗り出し、光化学スモッグの発するオキシダントと、高湿度の中で発生した硫酸の微粒子による、世界初の複合汚染が原因と発表しました。発生地附近は、(1)急に気温が上がった(2)天気が良く紫外線が強かった(3)風が弱く空気が澱みやすかったと、被害の出やすい条件が揃っていたことも指摘されました。この発表を受け、東京都を中心に全国の大都市では、観測態勢を強化し、オキシダント濃度が一定量を越えた場合に、住民に対して屋外に出ないように呼びかけるなどの対策を進め、学校に対しては屋外での体育や部活動などを、一時的に休止するように求めるなどの対策を講じました。自動車の排ガス規制が強化されるようになるのも、これ以降のことです。今ではお馴染みの光化学スモッグ注意報や光化学スモッグ警報の発生、37年前のことだったのですね。
2007.07.18
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フランス革命(4)こうして三部会が始まりました。第三身分代表が600名に増えましたから、およそ1200名の大部隊です。第三身分の代表には、シェイエスやミラボーといった特権身分に属する改革派もいましたが、多くは弁が立ち、学識に優れるとの理由で選ばれた弁護士や公証人といった司法関係者でした。後の恐怖政治期のリーダー、ロベスピエールもアラスの弁護士から三部会議員に選ばれています。問題は聖職者や貴族の議員にあります。実は高位聖職者は、民衆の暮らしからは隔絶した事実上の大領主です。しかも宗教界の権威を保つ事が自身の身分を守るために必要ですから、あらゆる改革に反対する頑迷固陋な保守強硬派でした。革命の本格化後、ローマ教皇は革命を否定し、為にフランスの革命派とローマカトリック教会は完全に敵対関係に入ったことは良く知られる事実です。ところが、全フランスの高位聖職者を全員三部会の議員にしても、とても100人に達しません。それゆえ第一身分の200人以上は、下級の司祭なのです。このうち何10人かは、管区の司教や大司教の命令に忠実に従いましたが、全体の6割に近い170~180名は、庶民に密着した生活をしており、貧民の生活改善に心痛める隠れ改革派と呼んで良いような立場にあり、ブルジョワの叫ぶ憲法の制定、改革の必要性に心情的に共感を示していました。そして貴族の中には、イギリス的な工業システムや農業のシステムの改革の必要を説く、自由主義貴族がおりました。アメリカ独立戦争に私費で参加したラ・ファイエットやミラボーがそうですし、王族のオルレアン公もまたその1人でした。貴族身分の代表のうち、40~50名がこの立場でした。しかし、当初は改革は進みませんでした。投票方式が決まっていないからなのすが、全国から集まった第三身分の代表は、ほとんどが互いに初対面ですから、互いに知り合い、打ち解けるのに時間がかかったからなのです。これが大貴族や高位聖職者であれば、王の宮殿などで、既にして互いに知り合っているのですが…こうして1ヶ月が空しく空費されたのですが、それは無駄な時間ではありませんでした。ブルジョワたちは、第1次の選挙集会の熱気、託された請願書の束と、その背後に息づく民衆の呼吸を背負っているのです。何も出来ずに空しく帰るわけにはいかないという思いを、共通に持つのは当然のことでした。この思いが彼等をつなげ、次第に固い団結を育み、6月に入ると数を力に実力行動にでようという空気が、急速に広まり始めたのです。詳しくは記しませんが、第三身分は自分達の会議に、他のニ身分が合流するよう呼びかけを発したのです。6月10日のことでした。賭けは成功しました。聖職者の中の改革派から、少しづつ同調者が出始めたのです。16日までに19人の聖職者代表が合流しました。勢いを得た第三身分は6月17日に第2の手を打ちました。彼等は三部会を否定し、自分たちの会議を「国民議会」と命名したのです。貴族部会では、国民議会への合流提案は、賛成80票で否決されましたが、予想を超えて80票もの賛成が得られたことは衝撃でした。こうなると聖職者部会はどうかが注目されました。議長は採決を延期しようとしたのですが、合流派は強引に採決に持ち込み、12票差という僅差でしたが、合流派が勝利したのです。情勢は急変したのです。驚いた保守派は、いかに聖職者の国民議会への合流を阻むかに苦慮し、6月20日の朝、第三身分の使用していた会議場を、改装を口実に緊急閉鎖して、立ち入りを阻止したのです。会場を閉鎖された第三身分の議員達は大いに悲憤慷慨し、小雨の中を会場になりそうな場所を探して歩き、テニスコートの建物に入り、ここを臨時の会議場にしたのです。高窓から僅かに光が入るだけの殺風景なホールが、あの「テニスコート(球戯場)の誓い」の場となったのです。「我々は憲法が制定され、その基礎が確立されるまでは、決して解散しない。事情によって、いついかなるところにおいても、必ず集合し、会議を開く…」翌日、一部の貴族と、約半数の聖職者が、国民議会に合流しました。国民議会賛同者は800名に近く、議員の3分の2を確保したのです。票決問題の決着はこうしてつきました。多勢に無勢です。27日国王は、なお残る保守派議員に、国民議会への合流を勧告しました。7月7日、国民議会に憲法委員会が設けられ、9日には、憲法制定国民議会という正式名称も定められました。第1段階の革命はここに完了したように見えました。しかし、第2幕があったのです。そうでなければ、バスティーユ襲撃がなくなってしまいますよね。 続きは明日に
2007.07.17
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クロニクル 「もはや戦後ではない」1956(昭和31)年7月17日この日発表された経済企画庁の『経済白書』は、副題を「日本経済の成長と近代化」として、日本経済の回復に対する自信をそれとなく示していたのですが、本文では、前年昭和30年中盤からの景気回復と物価の安定、そして金融緩和を綜合して「数量景気」と名づけ、日本経済は昭和20年代後半の特需依存型の景気回復を脱し、正常で安定的な成長軌道を歩み出しているとの判断を示し、「もはや戦後ではない。......回復を通じての成長は終った。今後の成長は近代化によって、支えられる」として、今後の経済成長への自信を背景に、バラ色の展望を示しました。「もはや戦後ではない」は、年度後半の大流行語となり、流行語大賞がこの時期に存在していたとしたら、間違いなくダントツで授賞しただろうと思われる勢いで、国内各層に浸透していきました。朝鮮戦争の休戦後、特需を失った日本経済は、深刻な不景気に見舞われ、一時的に元気をなくしていたのですが、前年(昭和30年)秋から、アメリカの景気回復による輸出の好調に支えられて、景気は回復傾向を示し始め、この30年の貿易収支は5億ドルの黒字となり、それに加えて空前の米の大豊作が重なり、好景気にも関わらず、物価は非常に安定した状態にあったのです。この見通しの発表と、バラ色の空気は国民の気分を明るくし、翌32年にかけての、「神武景気」と呼ばれた好景気に繋がったのでした。神武景気後の後退期を経て、池田内閣の所得倍増政策を起点とする、高度経済成長期に連なって行くのです。
2007.07.17
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こうして、三部会の議員選びが始まりました。第三身分の議員選びはどうだったかというと、都市では、まずギルド毎に、親方の集会を開き、そこでギルドの代表を選び、2次集会(都市の選挙集会)に送ります。ギルドの規模や親方数によって、派遣出きる代表数が決まります。職人は職人組合として代表を送りますが、都市の集会での発言権は、ほとんどありませんでした。1次集会の特徴は、そこで、政府や議会への要望があれば、陳情書を作成して提出せよとの但し書きがあったことでした。これらの陳情書のかなりの部分が、発掘され今日では刊行史料として出版され、手にとって見ることも出来ます。ただ、2次集会へ赴く代表達は、いずれもギルドの有力者であり、ここでの雰囲気は1次集会のそれとは、大きく異なってきます。上層ブルジョワの意向が強く働く場に変貌しているからです。農村でも事情は同じです。1次集会は小教区(教会単位、多くは村単位になりました)毎に開かれ、共同体農民の主張を満載した陳情書を作成します。しかし2次集会が開かれる村村を集合した納税区単位(日本の郡にあたるでしょうか)になると、地主や富農といった農村ブルジョワの声が強く反映した人選になるのでした。そして議会への代表は、選挙運動を行なうことも出来ました。パンフレットを出版して、自分の主張を広くアピールする人物も現れます。『第三身分とは何か』という有名な冊子を書いたシェイエスは、シャルトルの司教です。当然第一身分から選出されうる有資格者ですが、彼は第三身分と共に行動することを望み、第三身分の議員となるべく立候補し、選挙運動として、あの有名なパンフを発表したのです。ミラボー伯爵は貴族身分の嫌われ者だったため、第二身分から選出されることはありえないと、第三身分の代表となることを、目指したのです。さて、こんな具合なのですが、三部会の召集が決まるまで、ダンマリを決め込んでいたブルジョワは、召集が決まると、途端に動き出します。いよいよ牙を剥きはじめたとでも言えましょうか。1614年のブロワ方式では、三身分の議員数は同数であり、投票方式は身分で1票です。これを改めて、(1)第三身分の議員数を2倍とすること。(2)投票方式を一人1票に改めること。の2点を要求したのです。この要求に対し、財政総監のネッケルは、三部会が保守的貴族の牙城となることを恐れていたため、ただちに第1の要求を認め、第三身分の議員枠を600名に拡大しました。しかし、保守派貴族との決定的に激突することも避けたいと考え、第2の要求は受け入れず、さりとて否定もせず、審議方式は未決定のまま、三部会の審議の中で決めれば良いという態度を貫いたのでした。こうして、5月5日に開幕した三部会は、最初から波瀾含みだったのです。投票方式を巡って、特権身分と第三身分の対立が抜き差しならない状況にあり、早番どこかで、激突することが避けられない情勢にあったのです。 続く
2007.07.16
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クロニクル 米国原爆実験に成功1945(昭和20)年7月16日この日、米国はニューメキシコでの大気圏内核実験で閃光がきらめき、史上初めて原爆の製造に成功したのでした。この17日後には広島に、20日後には長崎と、製造から20日後には、既に2発の原爆が投下されていたのです。最初に投下あり気だったことは、疑う余地がありませんね。
2007.07.16
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フランス革命(2)では、三部会とは、どのような議会だったのか。三部会はフランス的な呼称で、一般的には身分制議会と呼ばれます。聖職者、貴族、第三身分を代表するブルジョワの三つの身分の代表で構成されますから、身分制議会であり、三身分会議即ち三部会なのです。イギリスでは1285年のモデルパーリャメント(模範議会)を嚆矢とし、フランスでは1302年の三部会が最初。英・仏でほぼ時を同じくして始められました。この三部会、実はヨーロッパの初期封建社会においては、王権は非常に弱く、「王とは諸侯の代表者」程度にしか思われていなかったのですが、封建社会の成熟、なかんずく中世都市の発達などによって、この時期から王権は次第に強い物になってくるのです。強い力を持った王は、次第に聖職者や貴族の持つ領主権に介入し、領主の領民に対しても、王税(国王課税)を課そうとするようになります。当然領主は団結して抵抗します。すると、個々の領主との戦いなら勝つ自信のある国王も、領主連合相手ではまだ歩が悪く、領主軍の団結にヒビを生じさせて戦いを長引かせます。そうこうするうちに両者に妥協の機運が芽生えます。この国王と領主連合の妥協の産物が三部会、身分制議会だったのです。国王は新たな課税を必要とする場合は、三部会を召集して議事にかける。独断での課税は行なわない。その代わり国王提出の議案に関して、議会はにべもなくゼロ回答は行なわない。これが妥協の内容でした。この三部会に、第三身分の代表=ブルジョワが加わっているのがミソなのです。彼等は王と領主の対立に無縁の第三者です。国王はブルジョワをうまく利用して聖職者や貴族を説得しようとしますし、領主層(聖職者+貴族)は金持ちのブルジョワジーに課税のかなりの部分を押し付けようと目論むのです。ですから、三部会は今日的な議会とは異なり、王権に対して領主の特権を守るためのものという性格を持った議会だったのです。そして、王権が強化されつつあるといっても、まだ絶対権力を獲得することが出来ないでいる時期、つまり王権強化過程の中間過程に現れる過渡期的性格のものだったのです。従って、後の絶対王政の時代に入り、王権が絶対的な段階に入れば、三部会は開かれなくなります。フランスにおいては、ルイ13世時代の1614年にブロワで開かれた三部会を最後に、1789年まで、実に175年間も開かれずに来たのでした。その三部会を開こうというのです。ルイ16世の権力というか、聖職者や貴族に関する睨み、抑えが利かなくなってきていることが、ここから読み取れるのです。王権は衰えつつあるとでもいうのでしょうか。先を急がず、もう少し三部会の説明にお付き合い下さい。人数はどのくらいだったのか。選出方法は。人数は時期によって違うのですが、時代が下るに連れて多数になって行きます。最後の三部会では、各身分およそ300人の代表ということになっています。人数がアバウトなのは、議決は身分別に行なわれ、最終的には各身分が多数を占めた意向を、自分たちの意見として表明するからです。表決というか投票方式は身分で1票で行なわれるのです。これが革命の初期に問題になるのです。そして選出方法は各身分に一任されています。聖職者はフランス管区の大司教以下、高位聖職者が方式を定め、それなりの選挙を行ない、貴族もまた地域ごとに選挙を行います。ブルジョワもまたパリの大ブルジョワ中心に諸都市の代表で方式を定めていたようです。さて、では何故三部会なのか。ルイ16世政府の財政難が原因です。世評でマリ・アントワネットの贅沢が原因などと俗説が囁かれますが、それは瑣末です。問題は別です。王権が強力であれば、ルイ14世のヴェルサイユ宮殿のような巨大な贅沢でも赤字はすぐに消えるのです。王権に近づきたいブルジョワたちが、先を争って高額の寄付を申し出るからです。今流に言えばワイロでしょうか。これで赤字はすぐに消えます。しかし、ルイ16世には赤字を消す力が既になかった。ここがポイントです。こうして財政難に苦しむルイ16世の政府に、ブルジョワたちは、協力してほしければ、特権身分の非課税特権を廃止し、特権身分への課税を実施せよと、迫ったのです。これがうまく成功していれば、フランス革命は起きなかったかもしれません。国王はブルジョワを味方に、ブルジョワ寄りの政策を実施したでしょうから。散々困り抜いた末に、国王は特権身分への課税を承認し、その旨を発表しました。さぁ、怒ったのは特権身分の領主達です。彼等は課税に反対し、どうしてもというなら、三部会を開き、三部会の承認を得るべきだと、古い証文を持ち出したのです。あまりの勢いに国王は、この申し出を受諾しました。こうして、「1789年5月に三部会を開くので、各身分で4月までに代表を選出せよ」という事になったのです。5月の三部会は、こうしたいきさつで開かれることになりました。時に88年秋10月のことでした。 続く
2007.07.15
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クロニクル ニクソン訪中発表1971(昭和46)年7月15日この日、米国のニクソン大統領が翌年5月までに中国を訪問、朝鮮戦争以来険悪な関係のままだった米中関係を改善するため、毛沢東主席と会談する旨が、米中両国ではぼ同時に発表されました。仕掛け人はキッシンジャー大統領補佐官でした。ニクソン大統領は就任と同時に、ハーバード大の国際政治学者キッシンジャーを大統領補佐官(2期目は国務長官)に任命、ヴェトナム戦争の集結に向けての国際関係の再構築を委ねたのでした。キッシンジャーは、ヴェトナム戦争の集結には隣国中国の協力が不可欠と判断、中ソ対立の現状から米中関係改善にの脈ありと考え、1949年以来親密な関係にあった台湾政府(自らは現在も中華民国を名乗っています)との関係を、微妙に調整してシグナルを送り、遂に中国首相周恩来から、隠密裏の中国訪問を歓迎する旨の連絡を受けたのでした。当時米中関係の改善は、国際政治上の大事件でしたから、なおどうなるか分からない交渉の行方を考えれば、隠密行動は米中両国にとって、必要なことだったのです。こうして彼は公式にはヴェトナムを訪問、戦地を視察するとして、軍用機で香港へ飛び、車で広州入りし、そこから北京へ飛んだのです。時に7月9日のことでした。周恩来首相との数日に及ぶ会談の結果、中ソ対立に悩み、ソ連の攻撃を警戒する中国もまた、米中関係の改善に異論はなく、まさに「敵の敵は味方」を地で行くように、冒頭で記した翌年5月までのニクソン大統領の訪中が、決定したのです。慌てたのは、就任以来中国敵視政策を取り続け、中国の国連復帰を妨害し続けてきた佐藤内閣でした。あせり狂った佐藤首相は、あらゆるチャンネルを通じて中国へ接近しようとしたのですが、「佐藤内閣相手にせず」といなされ、目的は達成できず、沖縄返還を見届けて、翌72年の6月に退陣するに至るのでした。当時の美濃部亮吉東京都知事が71年8月の訪中時に、周恩来首相に宛てた佐藤首相の親書を託され、周首相との会談時に手渡そうとして、「これはなかったことにしましょう」とやんわりと受け取りを拒否されたのも、佐藤首相の焦りを示す一幕でした。当時美濃部知事も二期目の任期中で、選挙戦ではストップサトウと佐藤内閣との全面対決を掲げて圧勝していただけに、後日明かになったこのエピソードは意外感を持って受け取られたのですが、その点について美濃部氏は、日中関係の改善は急務であり、人を選り好みすべきではなく、判断は周首相にお任せすれば良いと考えたと、答えていたのが印象的でした。
2007.07.15
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フランス革命(1)バスティーユ襲撃でフランス革命が始まったのではないとすると、いったいフランス革命はいつ始まったのか。それには、フランス革命とナポレオンを描いた画家ダヴィットの名画の一つ『球戯場(テニスコート)の誓い』を思い出していただくと理解が早いでしょう。この絵は、大抵の世界史教科書に掲載されていますから、ご記憶の方も多いと思います。「我々は、いかなる妨害、いかなる弾圧に合おうとも、憲法を創るまでは絶対に解散しない。そしていついかなる場所であろうとも集会を開き続けるであろう」と、絵の中央の狭い台の上に立って、議長のバイイがおごそかに宣言して、宣誓し、並み居る議員達も共に誓ったり、同意を示したりしている、あの絵です。両手を胸にあてて、感動しているロベスピエールや、片手で拳を突き出して何事かを絶叫しているミラボーなども描かれていました。この絵のシーンとなっている実際の出来事は、7月14日の24日前にあたる6月20日の出来事です。そうなのです。フランス革命史の中の感動的な場面の一つである球戯場の誓いは、バスティーユ襲撃の24日も前にあるのです。ここではもうフランス革命は、まだ弱弱しい歩みながら、既に現在進行形となっているのです。実は、革命運動開始の最初の舞台となるのは、三部会(三身分会議の略)の召集でした。第1身分の聖職者、第2身分の貴族、第3身分に属する大ブルジョワジーの代表者を集める三部会は5月5日にヴェルサイユで始まりました。ここが初期の革命の舞台となったのです。では三部会とは何か。その三部会は何故、革命の幕をあげることになるのか、次回はまずその辺から始めたいと思います。 この項続く
2007.07.14
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クロニクル バスティーユ襲撃1789(寛政元)年7月14日この日、フランスはパリの民衆が、バスティーユ監獄を襲撃する有名な事件が起きました。良くここからフランス革命が始まったとされることもありますが、革命初期のハイライトだったと理解する方が正確のように思います。今日から何回かに分けてフランス革命のあれこれを記してみようと思いますが、四つの搭に大砲を備え、堀に囲まれた堅牢な要塞だったバスティーユが、民衆の襲撃であえなく陥落したことが、革命の第1段階における革命派の勝利を決定づけたことは間違いありません。だからこそ、革命派は翌1790年のこの日に大々的に連盟祭(これがパリ祭の原型です)を行ない、この日を革命の記念日としたのでした。しかし、パリの民衆はこの日朝からバスティーユに集結したわけではありませんでした。民衆は先ずアンヴァリッド(廃兵院と訳されます。現在はここにナポレオンの遺骸が安置されています)を襲い、目的が半分しか達成できなかったために、襲撃し難いバスティーユに向かう事になったのです。そのため、バスティーユに到着するのは、昼近かったと記されています。なぜか。少し順を追ってこの7月14日に至る革命のいきさつをのんびりと記していきたいと思います。時間のある日に、2ないし3回くらいの割合で記していきたいと思いますので、気長にお付き合いいただけると幸いです。
2007.07.14
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クロニクル 母子手帳の使用始まる1942(昭和17)年7月13日この日、厚生省(現厚生労働省)は妊産婦手帳規定を実施に移しました。これが現在の母子健康手帳の原型dすから。母子健康手帳の利用開始は、戦時中のこの日に始まったことになります。私の生まれる3ヶ月前のことです。この政策は、まさに「生めよ増やせよ」政策の一環として、人口の増加を図るために、妊産婦に栄養食を優先的に配布するため、そして出産用品を確実に配給することを狙いとして、立案されたそうです。まだ、物不足が目立つ時期ではないのですが、将来における物不足を、厚生省が読んでいたとすると、そう読んだ人物は、端倪すべからざる慧眼の持ち主ですね。
2007.07.13
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クロニクル そごう倒産2000(平成12)年7月12日この日。1兆円を大きく超える借入金を抱えたそごうグループが民事再生法の適用を申請して、事実上倒産しました。借入金総額は、何と1兆8700億円ということでした。97年11月の拓銀や山一等の破綻、98年の長銀・日債銀の破綻を経て、日本の金融危機は頂点に達した感がありましたが、なお多額の不良債権を抱えた問題企業は山済みになっていました。そうした一群の問題企業の中に、そごうやダイエーが含まれておりました。当時そごうの会長は、「借金が1千億円を超えると、貸主の銀行より、借主である企業の方が強くなる。銀行が倒産による回収不能を怖れて、追加貸しや利息の減免に応じるようになるからだ」とマスコミに堂々と語っています。そして借りも借りたり1,87兆円も借り続けたのです。しかし、長引く金融不安に、膨らむ一方の公的資金という名の税金の投入に、もう借り得を許容する雰囲気はどこにもなく、金融機関も不良債権の処理を進めることを迫られ、無謀な拡大路線を取り続けたそごうを見放すしかなくなっていったのでした。こうして、この日、遅きに失したのですが、ようやくにしてそごうの倒産が日の目をみたのでした。日本的先送り体質が損失を大きく拡大し、事態を大きく、複雑にした倒産劇でした。
2007.07.12
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クロニクル 原爆ドーム永久保存へ1966(昭和41)年7月11日もう41年にもなるのですね。この日広島市議会は、爆心地に残る原爆ドームの永久保存を決議しました。劣化が進み倒壊の危機が迫っていたのですが、補修と補強によって、保存し続けようと決めたのです。第1次の補修はただちに始められ、翌67年の8月8日に完工式が行なわれました。この事は、広島で被爆し、次世代に被爆体験を残したいと願う被爆者たちが、重い口を開いて被爆体験を語り出した行動と機を一(いつ)にしていました。原爆の被害とその体験を風化させてはならないという強い決意が、重い口を開きだした被爆者たちと原爆ドームの永久保存を決断した市議会とで、共有されていたように思われます。名著、大江健三郎の『広島ノート』(岩波新書)が出版された時期も、同じ頃だったような気がします。
2007.07.11
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10日の日記の補足朝鮮戦争は1953(昭和28)年7月に休戦協定が締結し、以後今日まで、この休戦状態が続いています。38度線を境に休戦ラインが設けられ、その休戦ラインを挟んで、北朝鮮軍と韓国軍がずっと対峙した状態が今日も続いているのです。そうなのです。休戦ですから、戦争は終ったわけではなく、ずっと続いているわけです。ただ休んでいるだけ。いつ再発してもおかしくない……。といっても、54年間ずっと休戦が続いているのですから、いまさら戦闘再開しなくてもという空気は、強まってきています。今月再開予定の六者協議で、朝鮮休戦協定を終戦条約に切替える決議が出来るかどうかが、現在問われていますね。うまく行くと良いのですが…。
2007.07.10
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クロニクル 朝鮮休戦会談始まる1951(昭和26)年7月10日6月に記した朝鮮戦争は、1951年1月に入ると、次第に北緯38度線を挟んで一進一退を繰り返すようになり、春には膠着状態に入りました。こうした中、この日朝鮮休戦会談が始まりました。しかし、互いに相手の非を鳴らし、一方的な主張をぶつけ合うだけに終り、はじめのうちは実りある成果を生む気配は見えませんでした。休戦協定の締結に至るには、なお2年の歳月と夥しい犠牲者が必要とされたかのようでした。これも米ソの代理戦争故の悲劇でした。
2007.07.09
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先日記した「従軍慰安婦」問題もそうですが、日本政府と与党特に自民党主流派は、疑わしきは証拠がないと否定し、くさいものに蓋をすることで、戦前・戦中の軍部の行為を美化しようとしています。新装版の皇国史観復活を意図しているように見えます。この点に私は強い危機感を抱いています。本日沖縄タイムスの7月6日号に次ぎの記事があるのを見つけましたので、ブログに転載します。集団自決への軍関与を巡っては、軍が記した文書が出てこない限り、いくつ証言を集めても、それは伝聞に過ぎず証拠と認めないという,言い逃れで文部科学省は、教科書への記述を全て訂正させています。軍の口頭司令が絶対命令だった当時の事情を、ほぼ完璧に無視するこうした無法が罷り通っているのが、現在の日本の現実である事を、皆さんにお伝えしておきます。「軍命受けた」助役明言/妹2人が初めて証言 座間味「集団自決」45年3月25日夜 沖縄戦時下、座間味村で起きた「集団自決(強制集団死)」で、当時の助役が「軍からの命令で、敵が上陸してきたら玉砕するように言われている」と話していたことが、助役の妹二人の証言で六日までに分かった。当事者が初めて証言した。「集団自決」の軍関与が教科書検定で削除され、軍命の有無をめぐる裁判が進む中、日本軍の軍命を示す新証言として注目される。(編集委員・謝花直美) 証言したのは「集団自決」で亡くなった当時の座間味村助役の宮里盛秀さんの妹・宮平春子さん(80)=座間味村=と宮村トキ子さん(75)=沖縄市。 座間味島への米軍上陸が目前となった一九四五年三月二十五日夜。春子さんら家族と親族計三十人が避難する座間味集落内の家族壕に、盛秀さんが来た。父・盛永さんに対し「軍からの命令で、敵が上陸してきたら玉砕するよう言われている。間違いなく上陸になる。国の命令だから、潔く一緒に自決しましょう」というのを春子さんが聞いた。午後十一時半に忠魂碑前に集合することになったことも伝えた。 集合時間が近づき、壕から出る際、トキ子さんの目前で、盛永さんは盛秀さんを引き留めようとした。盛秀さんは「お父さん、軍から命令が来ているんです。もう、いよいよですよ」と答えた。 その後、盛秀さんは産業組合壕へ移動。同壕の「集団自決」で盛秀さんら家族を含め六十七人が亡くなった。 当時、盛秀さんは防衛隊長も兼ね、軍の命令が村や住民に出されるときには、盛秀さんを通した。 春子さんもトキ子さんも、沖縄県史や座間味村史の編集作業が行われた七〇-八〇年代に同島におらず、証言の機会がなかった。 座間味島の「集団自決」の軍命を巡り、岩波書店と大江健三郎さんが名誉棄損で訴えられた「集団自決」訴訟では、元戦隊長が、助役が軍命を出したと主張。さらに訴訟資料を参考に文科省の教科書検定で、「集団自決」記述に修正意見がつき、日本軍関与が削除されている。
2007.07.09
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クロニクル ジェットコースター初登場 1955(昭和30)年7月9日この日、東京の後楽園遊園地が開業しました。呼び物は、本邦で初お目見えのジェット・コースターでした。今では,珍しくも何ともないジェットコースターですが、当時は、ゆっくりと斜面を上り、猛スピードで下りてくるスピード感に、初物に弱い日本人心理が加わり、連日ジェットコースターは長蛇の列を続けました。
2007.07.09
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浅間山大噴火 続8日の日記1783(天明3)年7月8日三宅島の噴火の記事を書きましたが、224年前の同日に、浅間山の大噴火が起きています。有名な鬼押出しを作り出した、あの大噴火です。この年浅間山は4月8日から断続的に噴火を繰り返していましたが、2日前の6日から様相は激しさを加え、この日午前10時、大音響をあげて爆発、幅50m、高さ100mに及ぶ(当時の記録から)火炎を噴き上げました。火口から噴出した溶岩は、北側斜面の土砂を巻き込み、巨大な火砕流となって5分後には、約15km離れた標高900m地点にある鎌原村(現在の群馬県嬬恋村)を襲い。さらに下って吾妻川に達しました。鎌原村の93軒の民家は全て押し流され、同村の高台にあった観音堂の50段の石段も15段を残して埋め尽くされ、村人597人中、466人が死亡しました。生き残った人達は、他村に出かけて難を逃れたか、観音堂の石段を駆け上がって助かったかのどちらかだったそうです。被害は火砕流によるだけではありませんでした。吾妻川に流れ込んだ火砕流は、各地で川を堰きとめ、鉄砲水となって川下の村村を押し流したのです。被害は55カ村に及び、水に流された人馬の死体が利根川や江戸川の下流に流れ着いたそうです。中には赤子をしっかり抱いた死体もあって、行き交う人々の涙を誘ったとも記されています。徳川幕府は、この時の死者を約2万人と公式記録(『徳川実記』)に記しています。また降灰の被害は関東平野を中心に10余ヶ国に及び、江戸の町も3cmの降灰を記録しました。それだけではありません。この大噴火は北半球に異常気象を齎し、天明の大飢饉との関連も指摘されています。浅間山の観光スポット、鬼押出しは、鎌原村を襲った火砕流に続いて流れ出した、粘性の高い溶岩が凝結して出来たものだそうです。
2007.07.08
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クロニクル 三宅島の噴火 2000(平成12)年7月8日この日、三宅島の火山、雄山が大きな噴煙をあげて、噴火しました。噴火の規模も大きく、火山性の地震も続き、さらなる大噴火が心配される事態が続きました。有毒ガスの発生,噴出も続き、次第に島内に安全な場所を確保することが難しくなって行き、ついに三宅島の人々は、全島避難を受け入れざるをえないところにまで、状況は悪化します。長年暮してきた生活の場を離れ、見知らぬ町での生活に適応しなければならないのですから、大変な決断だったろうと思います。それでも、生き長らえるためには、受け入れざるをえない結論でした。こうして、噴火発生から55日目にあたる9月1日、全島避難が決定したのでした。三宅高校の生徒は、親戚等の家に寄宿した一部生徒を除いて、全員が寮設備のある都立秋川高校に受け入れられるなど、受け入れ側の東京都も大変でしたが、住み慣れた島へ、いつ戻れるのか、避難生活がどのくらい続くのかも分からない、三宅島の皆さんのご苦労は、この後も長く続いたのでした。今でもご不自由なのでしょうが、島に戻れて本当に良かったですね。
2007.07.08
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クロニクル 田中内閣成立 7日の日記1972(昭和47)年7月7日この日、第1次田中角栄内閣が成立しました。64年11月、池田勇人首相の病気退陣を受けて成立した佐藤栄作内閣は、7年8ヶ月の長期政権となりましたが、沖縄返還を花道に引退、自民党の総裁選で、福田赳夫氏を大差で破った田中氏が、自民党第6代の総裁に就任、この日の首班指名選挙を経て、首相に就任したのでした。田中首相は、小学校卒の学歴から、今様の立身出世ともてはやされ、今太閤と親しまれました。また、総裁公選で田中氏を支持した三木武夫氏は、「私は日中国交回復を目指す人物に、三木派の票をいれようと考え、2人にあったところ、田中君の方が国交回復に熱心だと判断できたので、投票することにした」と語り、田中内閣が佐藤亜流ではなく、日中関係改善のエースとして登場したことを示したのでした。田中首相はまた、列島改造を計画したのですが、この壮大な計画も氏の人気を後押しする結果になりました。
2007.07.07
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