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クロニクル START調印1991(平成3)年7月31日23年前のこの日、米ソの戦略兵器削減条約(START)がまとまり、調印式が行なわれました。89年12月のマルタ会談(ブッシュ・ゴルバチョフ会談)での米ソ冷戦の解消など、雪解けが進んだ両国関係を背景に、ここに戦略兵器の相互削減が合意に至ったのです。この合意の背景には、財政難に悩む両国にとって、軍事費を大きく削減できるというメリットが考えられます。この結果、米国の財政収支は、次ぎのクリントン政権の時に大きく改善したのですが、ソ連では、核軍縮に反対の軍部と保守派による反ゴルバチョフクーデタが起きるなど、混乱は長引いてゆきました。食えなくなったソ連の技術者や学者の1部が、高給を積んでの北朝鮮の誘いに乗ったことが、北朝鮮の核開発と言う残念なオマケを招くなど、その負の連鎖も、忘れるわけには行かないのですが……
2014.07.31
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クロニクル 「モスラ」公開1961(昭和36)年7月30日53年前になります。この日東宝映画「モスラ」が公開されました。ゴジラ、ラドンに続く、東宝の3代怪獣がここに揃ったことになります。制作費2億円をかけ、アメリカのコロンビア映画との日米合作として企画、実行された映画です。円谷プロの特撮技術が、アメリカで如何に高く評価されていたかが、伝わってきます。「モスラや モスラ……」というザ・ピーナッツの歌声、覚えていらっしゃる方も多いのではないでしょうか。そういえば、今年は「ゴジラ」が誕生してちょうど60年、ハリウッド映画の「gojira」が公開されていますが、どんなものでしょうね……。
2014.07.30
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クロニクル 沖縄の米軍機、南ヴェトナムを爆撃1965(昭和40)年7月29日49年前のこの日、沖縄の嘉手納米軍基地を飛び立ったB52爆撃機30機が、南ヴェトナムを爆撃しました。このB52爆撃機の根拠地は、米国のグァム基地でしたが、同地がハリケーンに襲われたため、前日に沖縄に避難していたものでした。ハリケーンを避けて飛来していたとはいえ、沖縄からヴェトナム戦争の前線に、直接出撃したのは、始めてのことでした。未明に発進したB52は、お昼過ぎには嘉手納基地に再び姿を現しましたが、沖縄米軍は行き先を公表しませんでした。日本国民が事実を知ったのは、サイゴン(現ホーチミン市)からの外電によってでした。国務省は、「沖縄基地の米軍機のこのような使用は、日本政府との事前協議の対象にならない」との談話を発表しました。日本政府も翌日、「日米安全保障条約上は問題がない」との談話を発表しますが、一方で「しかし日本国民の感情を無視したものだ」と不快感を表明、米側に善処を要望しました。当時沖縄は米国の占領下にありましたから、沖縄の米軍機が直接南ヴェトナムでの戦闘に加わったということは、沖縄が報復攻撃を受けることもありうるということに繋がります。このため、野党は一斉に抗議の声をあげ、琉球立法院もまた超党派で抗議の決議を行いました。ヴェトナム反戦運動と、沖縄返還運動が繋がり、多いに盛り上がるきっかけとなった出来事でした。当時は現在に比べると、平和主義と反戦運動が広く国民の共感を集めていた時代でした。集団的自衛権を巡る政府の強引さは、こうした平和運動の退潮見越してのものと、分かるだけに辛いものがありますね。
2014.07.29
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クロニクル 劇団『民芸」の誕生1947(昭和22)年7月28日67年前です。この日、滝沢修、宇野重吉らによって、民衆芸術劇場(略称民芸)が結成されました。第1回公演は翌48年1月に、有楽座で上演した島崎藤村の「破壊」でした。この第一次民芸は、2年後の1949年7月に解散、翌1950年に第二次民芸に編成替えされました。奈良岡朋子、森雅之らが加わった、この第二期民芸が長く続き、親しまれてきました。現在は私の地元、川崎市麻生区に拠点を定めて、活動しています。本日は、ちょうど100年前に、オーストリアがセルビアに宣戦を布告した日、第一次世界大戦がはじまった日に当たります。誰も世界大戦になること、4年以上に及ぶ長く苦しい戦争になることなど、想像もせずに始めた戦争でした。
2014.07.28
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クロニクル 田中角栄前首相逮捕1976(昭和51)年7月27日38年前のことです。この日、東京地検は、ロッキード事件に絡んで田中角栄前首相を逮捕しました。取調べの結果、8月16日に受託収賄罪と外為法違反の2つの容疑が固まったとして、起訴しました。この事件は、2月に米国でロッキード社の幹部、コーチャン副首相の証言によって、問題が暴露され、米国発で日本のマスコミの注目を浴び、それから検察が動くという、珍しい手順で暴かれた事件でした。事件の特異性から、対中関係の改善を米国の意向を無視して積極的かつ素早く進めるなど、戦後米国の意向を無視した初めての首相の登場に危機感を持った米国が、今後の首相となる人達への警告の意味も込めて、積極的に暴露したのではないかという、うがった見方をする人達もかなりの数に上りました。私もその1人です。
2014.07.27
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クロニクル ポツダム宣言発表 1945(昭和20)年7月26日ベルリン郊外のポツダムで、この月17日から会談中だった米・英・ソ3国のうち、米・英2国は、中国の蒋介石には電信で知らせて了解を採り、なお交戦中の日本に対する降伏勧告と、降伏条件を米・英・中3国の名で、この日発表しました。69年前のことです。一緒に会談中のソ連の名がないのは、日ソ間には交戦状態がなかったからでした。中国の蒋介石は、会談の席に中国代表を招かず、電信での通告で同意を求める米・英のやり方に不快感を表明しましたが、宣言の内容そのものには同意を表明しました。さて、このポツダム宣言の内容ですが、前文で日本の軍国主義者のこれ以上の抗戦の無益を説き、日本は破滅か理性的な降伏で国土の全面的な焦土化を防ぐか、二者択一に迫られていることを指摘し、以下の条件を提示しています。(1)日本の軍国主義の除去、(2)平和で安全な新秩序が構築されるまで、連合軍による占領を受け入れること、(3)カイロ宣言による領土制限の受諾(明治以降の戦争で獲得した領土のうち、交戦状態にないソ連(旧ロシア)から獲得した南部樺太を除く全領土の返還と朝鮮の独立承認を求めた宣言)、(4)日本軍の武装解除と兵士の復員、(5)戦争犯罪人の処罰、(6)民主化の徹底と基本的人権の確立、(7)再軍備の禁止そして、占領中も占領軍に依る直接統治を行なわず、日本人に依る政府を認める間接統治方式をとることも匂わせていました。日本固有の領土の割譲が要求されていないこと、賠償請求のないことなど、降伏条件としては、当時の戦況からして極めて緩やかな内容であることが、良く伝わってきます。これは、2月のヤルタ会談における、ドイツ降伏後3ヶ月以内に日ソ中立条約を破棄して参戦するという、米ソの密約の期限が迫り、ソ連の参戦が目前に迫っているという状況を踏まえ、米国が戦後の対ソ関係を考慮して、日本を自陣営に留めることを目指していたからです。しかし、戦局の不振にいらだち追い詰められていた当時の軍首脳部は、ポツダム宣言に込められていた米国のサインを冷静に受けとめる能力を失っていました。軍部は、戦犯の処罰という項目に拘り、この戦犯に天皇が含まれるのか否かという点に拘り、天皇の処罰なしの確約が得られない限り、ポツダム宣言を受諾出来ないとする姿勢を貫き、国民に対しては、宣言の内容を発表すると共に、「政府はこれを黙殺する」との談話を発表しました。連合国はこれを拒否と受けとめ、対日攻撃を続けました。ソ連参戦を出来れば避けたかった米国も、日本の頑なな態度から、日本降伏の決定打がソ連の参戦であったという印象が広まるのを怖れ、完成したばかりの原子爆弾の投下を決定しました。広島を廃墟とされ、ソ連も参戦し、さらに長崎に2発目の原爆が投下されました。ソ連軍は怒涛の勢いで満州に展開した関東軍を蹴散らし、朝鮮半島の北部にまで達します。日本がようやくポツダム宣言を受諾して降伏したのは、こうした事態が進んだ後でした。軍首脳の自己保身と、冷静に彼我の力関係を分析する能力の欠如(つまり無能!)、そして天皇に近い政治家の軍部と対決しても事態を打開しようという強い政治的意志と責任感の欠如が、ポツダム宣言発表後の事態の推移の中に見てとれます。こうした無能な軍人や政治家の誤った判断の結果、日本は原爆の被害とソ連に抑留された人々の苦難を産み、そして朝鮮半島の人々は今日なお南北分断の悲劇の中に置かれ、そして子どもを拉致されて苦悩する親たちもいる状況が残っているのです。私は、大都会を中心とする米軍の空襲や原爆の投下に対し、今でも強い憤りを覚えますし、米国政府に対し、例え対米関係を一時的にこじらせたとしても、こうした住民虐殺に対し強く抗議し米国大統領の広島・長崎への訪問と、日本国民に対する謝罪を要求すべきだと考えています。そして同時に、当時の軍人や政治家の戦争責任をしっかり追究して、彼らの自己正当化発言の不当性を厳しく追及すべきだと、考えています。
2014.07.26
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クロニクル 毒入りカレー事件1998(平成10)年7月25日あれから16年ですか。この日は町内会のボランティアをしている者には、忘れられない事件が起きた日です。和歌山県園部で起きた、夏祭りの振るまいに用意されたカレー鍋に青酸化合物が混入され、毒入りカレーを食べた4人の方が亡くなった、いいえ殺された事件です。会場近くの民家のガレージを借りてご近所総出でカレーを作り、会場へ運ぶまで交替で番をする、一種の炊出し訓練にもなりそうな、共同体慣行の名残でもあるような行事に、水を指す悪質な行為でした。見張り番の人達は、悪意を持って毒物を混入しようとする人を見張るのではなく、匂いに惹かれてちょっとお先にお毒見をと、考えるいたずら好きな子ども達対策だったに違いありません。まさかそこに毒を入れるなんて…この事件の影響で、この年の秋祭りでは、飲食物の提供を見あわせる町会も多く、各地に多大な迷惑を及ぼしました。犯人は年末に逮捕されましたが、この事件は子どもどころか、親世代の人達の幼児化が進み、精神発達が未熟なままで、身体だけが大人になってしまった、未熟児的大人が多くなっていることを、改めて印象付けました。この事件は、そうした善悪、公的空間と私的空間の区別、行為の社会的影響などについての判断が出来ない「人間」の起こした象徴的な事件でした。この種の事件は、日本社会が失ってしまった社会の規範力の再構築なくして、解決しえない問題であるだけに、解決の難しい問題でもあります。
2014.07.25
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クロニクル 国定公園の誕生1950(昭和25)年7月24日64年前になります。この日、日本で始めての国定公園として、琵琶湖国定公園が指定されました。3日後の27日に佐渡弥彦国定公園が指定を受け、さらに2日後の29日には、耶馬日田英彦山国定公園が指定されました。国定公園とは、国立公園に準じる景勝地として、自然公園法に基づいて環境大臣が指定した公園を指します。国立公園が国の直接管理なのに対し、国定公園は都道府県が管理する点が違っています。国定公園の中で、最も最近に指定された景勝地は、2007年8月3日指定の京都府の丹後天橋立大江山国定公園です。現在までに指定された国定公園は、全部で62箇所ですが、その後に国立公園に昇格した地域もあるため、現在は国定公園は56箇所となっています。ただ、北アルプスと南アルプスは、夫々国立公園に指定されているのですが、中央アルプスは国立公園にも国定公園にも指定されていませんし、日本三景と称される安芸の宮島は国立公園の一部をなし、天の橋立は国定公園に指定されていますが、東北の松島はどちらにも指定されていません。どうしてなのでしょうね?
2014.07.24
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クロニクル 自衛隊潜水艦、釣り舟と衝突1988(昭和63)年7月23日26年前になります。この日午後3時半過ぎ、三浦半島の横須賀港の沖合いで、海上自衛隊の潜水艦「なだしお」(2200トン)と、大型の釣り漁船「第1富士丸」(154トン)が衝突しました。第1富士丸は僅か1分足らずで沈没し、通りかかったタンカーとなだしおが乗員・乗客48名の救助にあたり、19名を救助しましたが、うち1名は同夜死亡、29名は行方不明となりました。4日後の27日、第1富士丸は海底から引き上げられ、行方不明者全員の遺体が収容されました。夏休みに入った直後の事故でしたから、親子連れの乗客も多く、船室に留まっていた乗客のほとんどが、急の沈没に脱出の間もなく、船内に閉じ込められて水死した様子が、次々に明らかになりました。死者30名という大事故でした。事故の原因は双方の衝突回避行動の遅れによる、初歩的ミスとされましたが、救助にあたったタンカーの証言から、衝突直後になだしおが機敏に救助にあたらなかった事実や、回避行動の遅れを隠蔽するために、航海日誌を改竄していた事実が明らかにされ、自衛隊に対する風当たりは強くなりました。そのため、1ヶ月後の8月24日、当時の瓦防衛庁長官が事故の責任をとって、辞職することになりました。また、東京湾の船舶航行が超過密状態で、危険がいっぱいの状態であることも明かになりました。
2014.07.23
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クロニクル 宮沢首相退陣を表明1993(平成5)年7月22日あれから21年ですか。21年前のこの日、宮沢首相は、「自民党分裂と総選挙敗北の責任を取る」として、首相退陣を表明しました。細川連立政権が誕生するのは、この20日程度後のこととなります。黒子だったはずの官僚が、やたらと表舞台に登場する悪習は、このとき以後に目立つようになりましたね。
2014.07.22
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クロニクル 『指輪物語』刊行始まる1954(昭和29)年7月21日60年前になります。トゥールキンの代表作、『指輪物語』の第1部、「旅の仲間」が、この日イギリスで発売されました。日本語版の出版は、1972年~75年にかけて、評論社から出されました。お読みになられた方も多いのでは…
2014.07.21
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クロニクル 祝日法公布1948(昭和23)年7月20日成立して66年ですか。この日「国民の祝日に関する法律(略称祝日法)」が公布・施行され、年間9日の祝日が定められました。当初の祝日は、全体で9日のみ、2月、6月、7月、8月、10月、12月は祝日なしでした。その由緒ある9日は、以下の通りです。1月 1日 元旦 15日 成人の日(全国一斉徴兵検査の日)3月 21日前後 春分の日 太陽が赤道上空にある日 うるう年は日が変わります。4月 29日 天皇誕生日5月 3日 憲法記念日 5日 子どもの日 端午の節句でした9月 23日前後 秋分の日 3月と同じ事情で変化があります11月 3日 文化の日 明治天皇の誕生日、天長節でした。 23日 勤労感謝の日 近代日本は養蚕・生糸産業を中心に資本主義の発達を進めました。蚕は年に2度、繭を作ります、春蚕と秋蚕です。そして、そのピークは水田稲作中心の日本の農業のリズムに無理なく溶け込んでいました。春蚕を終えると、田起こしの時期、稲の借り入れを終えると秋蚕の時期でした。ですから明治の昔から、23日は1年の収穫を祝う日だったのです。ここで一つの問題は、5月5日の端午の節句は、こどもの日として祝日となったのに、3月3日のひな祭りは、祝日とならなかったことです。憲法が男女平等をうたっても、なお当時の日本社会が、男尊女卑の女性差別意識を払拭できないでいたことが、良く理解できる一齣でした。
2014.07.20
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クロニクル 二千円札発行2000(平成12)年7月19日14年前です。当時の小渕首相が西暦2000年に因んでと、発行を予告していた二千円札が、この日発行されました。表面には、沖縄サミットに因んでと、デザインされた守礼門が印刷されていましたが、そのサミットの開幕を2日後の21日に控えてのことでした。その小渕首相は4月に脳梗塞に倒れ、帰らぬ人となっていました。二千円札見かけなくなって久しいですね。沖縄では比較的流通していると聞いた時期もありましたが、今でも流通しているのでしょうか。二千円札どこへ消えたのでしょうね。日銀が回収してしまったのでしょうか?
2014.07.19
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クロニクル 古代蓮開花1952(昭和27)年7月18日62年前のことです。この日の朝、前年1951年の3月に、千葉市検見川町の泥炭地の地下6メートル地点の、弥生時代の遺跡から見つかった、2000年前の蓮の実が、見事な薄紅色の花を咲かせました。この蓮の実は遺跡の丸木舟の中から3個見つけられたものでした。鑑定した大賀一郎博士は、発見された場所や蓮の実の生存年限からして、この古代蓮の実は生きていると推定、栽培をはじめました。博士の推定通り、植え付けられた蓮の実は、前年5月に3個揃って発芽したのですが、1本は枯れ、もう1本も成長しませんでした。頼みの綱の残された1本は、千葉県農業試験場で育てられ、この年(1952年)4月に、3つに根分けされて、大事に育てられたのです。開花したのは、その内の1本で、千葉市畑町の伊原茂さんが、植えたものでした。この2000年前の古代蓮は、この実が生きていると見抜き、生育を強く主張した育ての親にして、命の恩人の名を取って「大賀ハス」と命名されました。現在では、各地に分根されています。
2014.07.18
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クロニクル 「もはや戦後ではない」1956(昭和31)年7月17日敗戦から11年、58年前のことです。この日発表された経済企画庁の『経済白書』は、副題を「日本経済の成長と近代化」として、日本経済の回復に対する自信をそれとなく示していたのですが、本文では、前年昭和30年中盤からの景気回復と物価の安定、そして金融緩和を綜合して「数量景気」と名づけ、日本経済は昭和20年代後半の特需依存型の景気回復を脱し、正常で安定的な成長軌道を歩み出しているとの判断を示し、「もはや戦後ではない。......回復を通じての成長は終った。今後の成長は近代化によって、支えられる」として、今後の経済成長への自信を背景に、バラ色の展望を示しました。「もはや戦後ではない」は、年度後半の大流行語となり、流行語大賞がこの時期に存在していたとしたら、間違いなくダントツで授賞しただろうと思われる勢いで、国内各層に浸透していきました。朝鮮戦争の休戦後、戦争特需を失った日本経済は、深刻な不景気に見舞われ、一時的に元気をなくしていたのですが、前年(昭和30年)秋から、アメリカの景気回復による輸出の好調に支えられて、景気は回復傾向を示し始め、30年の貿易収支は5億ドルの黒字となり、それに加えて空前の米の大豊作が重なり、好景気にも関わらず、物価は非常に安定した状態にあったのです。この見通しの発表と、バラ色の空気は国民の気分を明るくし、翌32年にかけての、「神武景気」と呼ばれた好景気に繋がりました。神武景気後の後退期を経て、池田内閣の所得倍増政策を起点とする、高度経済成長期に連なって行きました。あれから58年、国会議員の大部分が戦争を知らない世代となりました。平成の世の現在は、確かに「もはや戦後ではない」のですが、戦争を知らない世代の政権運営を見ていると、戦争の悲惨をしらない危うさが随所に感じられて、この連中に外交を任せておいて大丈夫なのかと、危なっかしさを感じています。心配ですね。
2014.07.17
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クロニクル 『ライ麦畑でつかまえて』発売1951(昭和26)年7月16日ちょうど今年で初版の発売から63年になるのですね。そうなんです。日本でも未だに売れているA.Dサリンジャーの小説『ライ麦畑でつかまえて』が、63年前の今日、アメリカで発売されました。まだ読まれていない方のために、作品の紹介は慎みますが、最後のクライマックスシーンを導くために、主人公の少年の3日間の彷徨の物語が積み重ねられていくことだけ、紹介しておきます。この小説は、2003年現在での累計発行部数は全世界で6000万部、アメリカ合衆国で1500万部を超え、最近でも全世界で毎年25万部が売れると言われています。日本でも、最もポピュラーな野崎孝訳の白水社本が、300万部を売り上げています。
2014.07.16
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ブロ友の皆様へのお願いです。私の若い友人。増田健一氏から、頼まれたことです。増田氏は昨年、山川出版社から『懐かしくて新しい 昭和レトロ家電 ~増田健一コレクションの世界』を出版し、現在は、大阪市立住まいのミュージアム特別研究員として、昭和家電を中心とした収集活動を続けている、大変愉快な人物です。幸い第一作が好評だったことから、現在同じ山川出版社に乞われて、2作目を執筆中なのですが、この2作目に昭和38年から40年にかけての短い期間なのですが、当時は国内線しか運航できなかった全日空が、世界で初めて機内でのテレビサービスを実施した時の話を載せたいだそうです。そのために、当時全日空で客室乗務員をされていた方と、乗客としてテレビサービスを受けた人から、直接お話をお聞きしたいのだがと、相談を受けたのです。彼からの依頼文は、以下の通りです。> 昔(できれば昭和38年~40年くらい)全日空でスチュアーデスをされていた人をご存じではないでしょう か。そこまで昔でなくても、一世代先輩かその辺りという方でも結構です。 また当時、乗客として東京-大阪便、東京-札幌便に乗客として、テレビサービスを体験された人も、探し ています。 といいますのも、拙著の第2作目を執筆中ですが、そこでコラム的な内容で、全日空の「世界初のテレビサー ビス」のことを書きたいと思っているのです。今のテレビサービスとは全く違う方式でした。飛行機がジェッ ト化されてすぐになくなってしまったサービスです。 当時の資料は少し集まりましたが、できれば実際に乗務されていた人、乗客だった人の話もお聞きしてみた いのです。残念 ながら全日空の広報には協力してもらえませんでした。再度、出版社側から働きかけてもら ってはいますが… たぶん期待薄です。 もしお心当たりがありましたら、お知らせ下さい。どうぞよろしくお願いいたします。 <皆さんのお知り合いの中に、もしいらっしゃるようでしたら、お教えいただけると幸いです。昭和39年が東京オリンピックの年ですから、オリンピックを挟んだ2年半くらいの期間だったのですね。CAをなさっていた方たちは、現在でいえば、皆さん70代でいらっしゃいますね。 どなたか心当たりの方がいらっしゃるといいのですが…増田氏の人物については、不足かも知れんませんが、信頼すべき人物であることを、私が保証します。
2014.07.15
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クロニクル 日本 東京オリンピックの開催を返上1938(昭和13)年7月15日驚かせて申し訳ありません。2020年の東京オリンピックのことではありません。74年前、1940年の東京五輪の話です。それでもこれは本当にあった話です。76年前のことです。1940(昭和15)年のオリンピックは、東京で開かれることになっていました・。しかし、1937(昭和12)年の7月に始めた日中戦争は、上海から南京、さらには武漢へと拡大の一途を辿っていました。同じくヨーロッパの戦雲も益々色濃くなってきており、遂にこの日、日本政府は東京五輪の開催を遠慮する旨、国際オリンピック委員会(IOC)に通知しました。第二次世界大戦が始まる1年と少し前のことでした。結局1940年の五輪は、世界戦争のために中止となりました。
2014.07.15
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クロニクル バスティーユ襲撃1789(寛政元)年7月14日今日はパリ祭ですね。225年前の今日、フランスはパリの民衆が、バスティーユ監獄を襲撃した有名な事件が起きました。良くここからフランス革命が始まったとされることもありますが、革命初期のハイライトだったと理解する方が正確のように思います。四つの搭に大砲を備え、堀に囲まれた堅牢な要塞だったバスティーユが、民衆の襲撃であえなく陥落したことが、革命の第1段階における革命派の勝利を決定づけたことは間違いありません。だからこそ、革命派は翌1790年のこの日に大々的に連盟祭(これがパリ祭の原型です)を行ない、この日を革命の記念日としたのです。しかし、パリの民衆はこの日朝からバスティーユに集結したわけではありませんでした。民衆は先ずアンヴァリッド(廃兵院と訳されます。現在はここにナポレオンの遺骸が安置されています)を襲い、目的が半分しか達成できなかったために、襲撃し難いバスティーユに向かう事になったのです。そのため、バスティーユに到着するのは、昼近かったと記されています。民衆の目的は、自ら武装することで、国王に反旗を翻した議員たちが結集する「国民議会」を守ることでした。そのために、この日アンヴァリッドを襲ったのです。ここには確かに大量の小銃や何門化の大砲がありました。しかし、弾丸は、ごく少量しかなかったのです。弾丸はバスティーユにある。そう聞いた民衆は、時の勢いでバスティーユに向かったのです。その結果は、皆さんご存じの通りです。
2014.07.14
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クロニクル 母子手帳使用始まる1942(昭和17)年7月13日72年前のこの日、厚生省(現厚生労働省)は妊産婦手帳規定を実施に移しました。これが現在の母子健康手帳の原型ですから、母子健康手帳の利用開始は、戦時中のこの日だったことになります。私の生まれる3ヶ月少し前のことです。この政策は、まさに「生めよ増やせよ」政策の一環として、人口の増加を図るために、妊産婦に栄養食を優先的に配布するため、そして出産用品を確実に配給することを狙いとして、立案されたそうです。まだ、物不足が目立つ時期ではないのですが、将来における物不足を、厚生省が読んでいたとすると、そう読んだ人物は、端倪すべからざる慧眼の持ち主だったと言えますね。
2014.07.13
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クロニクル ハイセイコーデビュー1972(昭和47)年7月12日騎手の増沢末夫さんが歌った「さらば~ ハイセイコー」の歌声。覚えていらっしゃいますか。結構歌われましたね。あの歌の主、競走馬のハイセイコーは、地方競馬から頭角を現し、中央競馬に進出して、歌にまでなる人気を博した馬でした。そのハイセイコー、42年前の今日、大井競馬にデビューしました。3歳馬でした。この大井競馬で6戦6勝。それも後続馬を6馬身以上引き離す圧勝続きで注目を集め、翌年中央競馬に引き抜かれ、全国区の人気を得たのでした。74年の有馬記念を最後に引退。「さらば~ ハイセイコー」の歌は、翌年1月の引退式直後に発売され、45万枚を売り上げたと言われます。
2014.07.12
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クロニクル 原爆ドーム永久保存へ1966(昭和41)年7月11日48年前になるのですね。この日広島市議会は、爆心地に残る原爆ドームの永久保存を決議しました。劣化が進み倒壊の危機が迫っていたのですが、補修と補強によって、保存し続けようと決めたのです。第1次の補修はただちに始められ、翌67年の8月8日に完工式が行なわれました。この事は、広島で被爆し、次世代に被爆体験を残したいと願う被爆者たちが、重い口を開いて被爆体験を語り出した行動と機を一(いつ)にしていました。原爆の被害とその体験を風化させてはならないという強い決意が、重い口を開きだした被爆者たちと原爆ドームの永久保存を決断した市議会とで、共有されていたように思われます。大江健三郎の『広島ノート』(岩波新書)が出版された時期も、同じ頃だったような…。その後、原爆ドームは、1996年12月にメキシコで開かれた世界遺産委員会において、米国の強い反対を押し切って、圧倒的多数の支持を得て、世界文化遺産に登録されました。
2014.07.11
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クロニクル 「おサイフケータイ」登場2004(平成16)年7月10日ちょうど10年になるのですね。10年前のこの日、NTTドコモが「おサイフケータイ」のサービスを開始しました。ドコモは、携帯電話による決済インフラの普及を優先させるために、他社にもシステムや商標権をライセンスしたため、このシステムは極めて短期間に普及することになりました。皆さんもお使いになっていらっしゃいますか?
2014.07.10
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クロニクル ウィンブルドン選手権始まる1877(明治10)年7月9日今年のウィンブルドンも終りましたね。137年前の今日、男子シングルスのみの大会として開幕したのが最初でした。場所はご承知の通り、ロンドン南西部のウィンブルドン。テレビ中継などでお馴染みのセンターコートは、実はこの大会のためにしか使われない、日常的には閉じられたコートです。さて、1877年、記念すべき第1回大会の優勝者はスペンサー・ゴア選手。2年後の79年から男子ダブルスが加わりました。女子は、1884年にシングルスが行なわれ、99年からダブルスも行なわれるようになりました。翌1900年に混合ダブルスが登場し、現在の形になりました。女子シングルスの最初の優勝者はモード・ワトソン選手でした。試合数が増えた関係で、いつの間にか6月の第4月曜日(最終月曜日であることが多い)を開幕日とするようになったそうです。
2014.07.09
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クロニクル 世界最高気温を記録1921(大正10)年7月8日93年前ですから、随分と古い記録です。世界気象機関が発表する気温のなかで、今日まで破られることなく続いている世界最高気温が、この日イラクのバスラで記録されました。その気温が、何と58,8℃です。昨今、地球温暖化が叫ばれますが、世界各地域の歴代最高気温を見ると、北米大陸 カリフォルニア州デスヴァレー 56,7℃ 1913/7/10アフリカ リビアのアラジィージャ 57,7℃ 1922/9/13ヨーロッパ スペインセビリア 50,0℃ 1881/8/4オセアニア オーストラリアクィーンズランド 53,1℃ 1889/1/13南米大陸 アルゼンチンのリバダビア 48,9℃ 1905/12/11 となっています。温暖化、温暖化と言いますが、19世紀末から20世紀初頭にかけての時期の方が、現在よりかなり気温が高かったことは、否定できないようです。
2014.07.08
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クロニクル サイパンで守備隊全滅 1944(昭和19)年7月7日1942年6月のミッドウェーの海戦に敗れ、制海権を失った日本にとって、マリアナ諸島とりわけサイパン島の防衛は、重大な意味を持っていました。それは米軍が新型爆撃機B29を完成させたからです。サイパンを失えば、東京や大阪への爆撃が、米軍の自由自在に行なえるようになるからです。そう考えた軍部は、急遽サイパンに増援部隊を送り込みましたが、制海権を失っていた悲しさで、増援部隊の7割は海のモズクと消えたのです。ようやく、6月下旬に1万人強の増援部隊が上陸に成功しましたが、兵器は陸揚げできず、総員3万人強の日本軍が、6万人の米軍と対峙したのです。そして70年前のこの日、もはやこれまでと悟った日本軍は、玉砕覚悟の総攻撃を敢行したのです。こうして、米軍の死者3,500人、日本軍の自決5千人、戦死2万5千人という、理に合わない戦闘が、終了したのです。そして、軍部の恐れたとおり、その後、日本本土への空爆が次第に激しくなっていったのです。
2014.07.07
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クロニクル 大相撲年6場所に1958(昭和33)年7月6日56年前の今日、初の大相撲名古屋場所が初日を迎えました。名古屋場所の導入によって、年5場所だった大相撲は、初めて年6場所制になりました。会場は愛知県体育館、開催は日本相撲協会と中日新聞社の共催という形でした。相撲協会以外の団体が本場所の主催元になっているのは名古屋場所だけです。夏で体調管理が難しいのか、名古屋場所は荒れるとされ、平幕力士の優勝が最も多いのも、名古屋場所です。高見山関が、外国人力士の初めての幕内優勝を飾ったのも、1972年の名古屋場所でした。2010年の名古屋場所は、野球賭博問題にゆれ、NHKの実況中継が見送られました。その後は八百長問題も明るみに出ましたが、どうも追及は手ぬるかった印象がありました。さて、不祥事の続出に揺れた大相撲、改革はどこへ行ったのでしょうね。すっかり既得権護持の守旧派が執行部に返り咲き、まるで何事もなかったかのような雰囲気になっていますね。このままでは、先行きじり貧になりそうですね。今後どうなってゆくのか、個人的にはすっかり興味をなくしています
2014.07.06
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クロニクル 沢松選手ウィンブルドン女子ダブルスで優勝1975(昭和50)年7月5日39年前の今日は、全英オープンテニス、通称ウィンブルドン選手権の女子ダブルスの決勝が行なわれ、日本の沢松和子選手が、日本選手として初めて、ウィンブルドン選手権の優勝者に名を連ねました。沢松選手とダブルスのコンビを組んだのは、日系2世の米国選手アン・清村選手でした。この試合は、NHKの衛星中継が始まった直後で、衛生生中継されていたため、ビデオ録画も行なわれ、沢松選手組の優勝の瞬間は、歴史的快挙として繰り返し放送されました。その後、2003年に杉山愛選手が、ベルギーのクライシュテルス選手と組んで、全仏とウィンブルドンの女子ダブルスで、連続優勝を達成しています。
2014.07.05
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クロニクル 東海興業更正法申請1997(平成9)年7月4日17年前のこの日,東証一部上場の中堅ゼネコン、東海興業が東京地裁に会社更正法の適用を申請し、実質的に倒産しました。一部上場のゼネコンとしては、初めての倒産でした。この後、青木建設、国土開発、佐藤工業など中堅ゼネコンが次々に倒産に追い込まれますが、企業の過剰状態は変わらず、生き残ったゼネコンもまた、受注競争から採算割れ寸前の工事が多く,金融機関から利息の減免や、一部債権の放棄を受けて、辛うじて倒産を免れている、綱渡り状態が続いたのでした。間組や熊谷組などの準大手も、多額の債権放棄を受けて辛うじて命脈を保っているのですが、いまだに株価はパッとせず、今後に大きな課題を残しています。東日本大震災後の復興需要と、安倍内閣の懲りない公共事業のばら撒き。そして6年後の東京五輪関連の特需まどで、ゼネコン業界は特需に沸いておりますが、長期に財政による特需が続くわけもなく、この機会に整理淘汰を進めないと、またぞろ同じ過ちを繰り返すことになりそうですね。
2014.07.04
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クロニクル 数寄屋橋ショッピングセンター開業1957(昭和32)年7月3日あれから57年経つのですね。数寄屋橋は失われましたが、ショッピングセンターは、だいぶ古ぼけてきましたが現在も健在です。この年5月25日には、有楽町そごうも開店しており、有楽町、数寄屋橋周辺は、益々賑わっていました。年末には、魅惑の低音フランク永井が「あなたを待てば 雨が降る 濡れて来ぬかと 気にかかる…」と甘く囁くように歌った「有楽町で会いましょう」が大ヒットしました。日本が高度経済成長を迎える助走期。みんなが上を向き始めた頃でした。
2014.07.03
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クロニクル 飛行船初飛行1900(明治33)年7月2日114年前のこの日、ツェッペリン伯爵は、自ら開発した硬式飛行船ツェッペリン号に乗って、ドイツのフリードリッヒシャフェンで、初飛行に成功しました。ツェッペリン号は、大変な人気を博し、大きな成功を齎しました。そのため、ツェッペリンは、その後硬式飛行船を指す言葉になりました。硬式飛行船は、船内に金属の枠組みがあり、形が崩れないようになっている飛行船で、宮崎アニメの『魔女の宅急便』に出てくる飛行船が、このタイプです。トンボ君を助けようと必死になったことで、キキちゃんの魔女力が回復し、魔女っ子のキキちゃんが保守的な町の人たちに受け入れられるストーリー、なんとなく思い出しました。
2014.07.02
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クロニクル 東海道本線全線開通1889(明治22)年7月1日明治も中頃に差し掛かった時期ですね。今から125年前になります。この日、東海道本線が、東京新橋から神戸駅まで全線開通いたしました。新橋~横浜間で、日本の鉄道が産声をあげてから、ちょうど17年後のことでした。
2014.07.01
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