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クロニクル 日米行政協定(現地位協定)締結1952(昭和27)年2月28日62年前のこの日,東京の外務大臣室で、日米安全保障条約に基づく米軍駐留の条件を定めるものとして、表記の日米行政協定が調印されました。 政府は行政協定であるからとして、国会承認を求めずに政府間の調印だけで発効としました。この協定で日本は、安保条約の目的遂行に必要な基地の使用を米軍に認め、軍人・軍属とその家族の出入国の自由。一部の私有物を含む物資搬入の自由。検疫や関税の免除などが定められました。 軍人・軍属とその家族には治外法権が認められ、犯罪行為を犯しても、日本の法律で裁けないため、不良軍人の犯罪に悩む基地周辺地域では、一方で基地関連の仕事に着く人も多く、非常に複雑な形で基地反対闘争が展開することになってゆきました。 それは、多少形を変えながらも、62年後の現在でも、ほぼそのままの形で残されており、基地周辺での反対闘争が、いまなお続けられる原因となっています。 今なお解決をみない沖縄の苦難を生み出した根源は、この協定にありました。
2014.02.28
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1985(昭和60)年2月27日あれから間もなく30年、29年前の今日、田中角栄元首相が脳梗塞で倒れました。一命は取り留めたものの、言語障害が残り、表舞台に立つことは不可能となり、この日をもって、事実上政界から退く形になりました。形式的には、なお、翌86年の衆院選で、新潟3区からトップ当選を果たしますが、主なき選挙と言われた通り、参謀達の努力での当選であり、この日以降議会に登院することは出来ませんでした。
2014.02.27
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クロニクル 「ドラゴン・ボール」放送開始1986(昭和61)年2月26日ドラゴン・ボールは、名古屋出身の鳥山明氏の漫画です。28年前の今日から1989年4月19日までフジテレビ系列で放送されましたた。全153話で1度終了しましたが、ストーリーはそのまま続編の『ドラゴンボールZ』や『ドラゴンボールGT』に続きました。
2014.02.26
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クロニクル 箱根用水完成1670(寛文10)年2月25日江戸時代前期のことです。厳密には344年前のことです。芦ノ湖と小田原藩の駿東郡の村々を結ぶ水路トンネル、箱根用水(深良用水)が、4年の難工事を経て、この日ようやく完成しました。駿東郡の村々は、慢性的な水不足に悩んでいました。そこで、この日の7年前に、深良村の名主、大庭源之丞が中心となって、芦ノ湖から灌漑用水を引く計画を立て、幕府の勘定所と小田原藩に工事計画書を提出して、許可を願い出たのです。許可は3年後におり、すぐに工事が開始されました。芦ノ湖側と深良村側から、山をくりぬくこの工事は、犠牲者を多数出す難工事となりましたが、関係者の熱意もあって、ほぼ4年の歳月を経て、遂に完成したのです。こうして芦ノ湖の水は、深良村から三島の西まで達し、小田原藩領で7千石、沼津の天領で1千石の新田の開発に繋がりました。トンネルは芦ノ湖側と深良村側の両方から掘り進められ、前者が高く後者が低い位置に掘られました。そのため、出会ったところでは段差があったのですが、水は深良村二向け流れればよいので、これで見事完成となりました。こうして芦ノ湖の水門が開かれ、全長1300mの山底を抜けた水が、深良村の用水路に流れ込んだのです。村の人たちは、感無量だったでしょうね。
2014.02.25
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クロニクル どこの誰かは知らないけれど…1958(昭和33)年2月24日>どこの誰かは 知らないけれど 誰もがみいんな 知っている 月光仮面のおじさんは 正義の味方だ 良い人だ…<この歌ご存知でしょうか。そうです「月光仮面」の主題歌です。現在のTBS(当時は東京放送)系で放映されたのですが、その記念すべき第1作が、56年前の今日放映されました。川内康範原作、大瀬康一主演の「月光仮面」は、子ども達に熱狂的に支持され、平均視聴率は40%、最高視聴率は67.8%(東京地区)を記録する人気番組となりました。しかし、、月光仮面の真似をして子供が高い所から飛び降りて怪我(または死亡)をする事故が続発し、新聞や週刊誌から有害番組だと批判を受けるようになりました。そのため残念ながら、1959年7月5日をもって放送は打ち切られることになりました。、最終回の視聴率は42.2%(東京地区)と記録されています。
2014.02.24
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クロニクル プロ野球にコミッショナー1949(昭和24)年2月23日今年で65年になるのですね。65年前のこの日、プロ野球の初代コミッショナーに、読売新聞社主の正力松太郎氏が就任しました。正力氏は日本プロ野球の父と慕われ、翌年の2リーグ制への分裂や、球団数の整理統合など、プロ野球機構の整備に奔走し、巨人軍だけでなく、プロ野球全体の発展を図ったことで知られています。彼が存命なら、江川事件やその後の巨人軍のやりたい放題など、現在のプロ野球をつまらなくしてしまった、様々な出来事のうち、少なくとも半分以上はなかったのではないでしょうか。 それにしても、最近のコミッショナーは、正力氏と違って、頼りなくていけませんね。
2014.02.22
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クロニクル 西郷軍熊本城を包囲1877(明治10)年2月22日15日に鹿児島を出発した西郷軍は、1万3千人の兵で熊本へ向いましたが、途中不平士族等が加わり、3万を超える陣容となり、この日熊本城を包囲しました。この熊本城攻囲戦では、西郷軍はこの日22日を皮きりに、何度も総攻撃をかけたのですが、熊本鎮台谷干城の死力を尽した防戦にあって、遂にこれを抜くことができませんでした。3月3日には、政府軍増援部隊が到着、有名な田原坂の死闘が18日間にわたって、繰り広げられます。「雨は降る降る 人馬は煙る 越すに越されぬ 田原坂…」
2014.02.22
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クロニクル スーパーマリオブラザーズ発売1986(昭和61)年2月21日ファミコンを社会に定着させた最大の功労者といえば、やはりマリオとルイジの兄弟の冒険物語、クッパ率いるカメ一族からピーチ姫を助け出すこの作品になるのでしょうね。皆さんいかがですか。この作品「スーパーマリオブラザーズ」のファミコンディスク版が売り出されたのが、28年前の今日でした。息子が友達連中と夢中になって、誰が何処まで進むかを、しきりに競っていたのを、休みの日などに良く見かけました。任天堂のファミリー・コンピューター(ファミコン)の名を世に定着させ、家庭用ゲーム機市場という、新たな市場を切り開いた功績は、高く評価して良いようにおもいます。この「スーパーマリオブラザーズ」は1作で、日本国内で681万本強を売り上げ、世界全体ではその6倍に近い4,024万本を売り上げたことが、ギネスブックにも登録されています。 そのゲーム機とゲームソフトの世界、その後の変遷の早いこと。今や主流がスマホに移ったとかで、このところ任天堂の業績も、振るわなくなっていますね。果たして巻き返せるのか。ここが正念場のようにも思えます。
2014.02.21
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クロニクル 金嬉老ライフル乱射1968(昭和43)年2月20日46年前のこの日、清水市内のクラブでライフル銃を乱射、2人を射殺した金嬉老が、寸又峡温泉の旅館「ふじみ屋」に、経営者の家族や宿泊客20人を人質にして、立て篭もる事件が起きました。金嬉老は、スコープ付きライフルと銃弾1200発、ダイナマイト130本を所持していたため、防弾チョッキに身を固めた警察官も、遠巻きにするして手が出せない状態になりました。金は時折空に向けてライフルを乱射したり、ダイナマイトを爆発させるなどしたため、山間の鄙びた温泉街は、緊張した空気に包まれました。金嬉老の篭城は、変装した警官が彼を逮捕、人質全員の解放に成功する24日午後まで、88時間に及びました。この間彼は、モーニングショーへの電話出演、旅館内での記者会見など、マスコミを通じて、在日朝鮮人に対する警察の差別を糾弾、公判でも日本人の在日朝鮮人に対する民族的偏見を訴えました。静岡地裁は、4年後の1972年6月、金に無期懲役の判決を下しました。この事件で、山間の温泉寸又峡の名は、一躍全国区となりました。
2014.02.20
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クロニクル 浅間山荘籠城事件1972(昭和47)年2月19日あれからもう42年が経っているのですね。42年前のこの日、連合赤軍の5名が、軽井沢の浅間山荘に、管理人夫妻を人質に籠城を開始、警官隊との間で10日間にわたる銃撃戦にはいりました。連合赤軍は、イデオロギーの僅かな違いで、分裂を繰り返してきた左翼過激派グループの一翼を構成していた、共産主義者同盟(共産同)赤軍派と京浜安保共闘の2派が、前年7月に連合した組織でした。武力革命を夢想する過激派の一掃作戦を展開していた警視庁は、妙義山麓でこの日までに幹部の永田洋子・森恒夫ら8人を逮捕、さらに山狩りを行ったところ、逃亡した5人が、河合楽器製作所の保養所「浅間山荘」に逃げ込み、管理人夫妻を人質にして、同所に立て籠り、人質を盾に籠城を続けました。警視庁は機動隊員等警察官340人で山荘を包囲、人質の安全を優先して無理な突入作戦を行わず、持久戦を選択しました。その結果、山荘での睨み合いは、28日までの10日間に及びました。人質の体力・気力が限界に近づいているとの判断から、警視庁は28日早暁から、クレーン車に鉄球をつけて、山荘の一部壁面を破壊、強制救出に動きました。連合赤軍もライフル銃で応戦、銃撃戦は暗くなるまで続けられましたが、午後6時過ぎ、5名全員を逮捕、人質夫妻の無事救出に成功しましたが、銃撃戦で2名の機動隊員が死亡するなど、痛ましい犠牲もありました。この模様は、当時TV各局によって、連日攻防の模様が中継され、この日はクレーン車による壁面破壊の開始から始まって、ほぼ1日中実況が続けられました。日清食品の故安藤百福社長(当時)が、開発間もなくまだ知名度の低かった「カップヌードル」を食べ易く、暖かく、しかもあまり時間をかけずに立ち食いも出来るからと、包囲部隊に大量に差入れたところ、深夜の包囲に立つ機動隊員が暖かそうに食べている場面がTV放映され、あれはなんだという問い合わせが各TV局に殺到、「カップ・ヌードル」の名は一躍全国区になるというおまけもありました。1972年は、いわばカップ麺元年でもあったのです。ところで、逮捕された5名とすでに逮捕済みの8名の取調べの過程で、追い詰められつつあった連合赤軍内部で、仲間の一部に「総括」という名の凄惨なリンチが加えられ、12名もの殺人が行われていたことが5月にかけて明かとなって行きます。連合赤軍と浅間山荘の事件は、日本の左翼運動の晩鐘を告げた事件でもありました。
2014.02.19
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クロニクル ザ・ピーナッツ引退表明1975(昭和50)年2月18日もう引退から39年も経つのですね。双子の姉妹デュオ、ザ・ピーナッツが、この日所属する「渡辺プロダクション」で記者会見を開き、16年間の歌手生活から引退することを表明しました。伊藤エミ・ユミの姉妹デュオ、ザ・ピーナッツは1959(昭和34)年の2月11日、第2回日劇コーラスパレードでデビューしましたから、丁度歌手生活16年ということになります。2人といえば、「ヒッッ、パレー。ヒッッ、パレー。みんなのヒッツパレーッ!」でお馴染みのフジTV系「ザ・ヒットパレード」と、「ホリデー、ホリデー、シャボンダマ、シャボンダマ ホリデー」で始まった、日曜夜の日テレ系の「シャボン玉ホリデー」が、思い浮かびます。抜群のハーモニーに歌唱力が伴い、ナベプロへの貢献度も大きかったですね。4月までサヨナラ公演を続け、4月25日に正式に引退。以後は公式の場に一度も出ていません。引き際はきれいでした。 双子の姉のエミさんは、1昨年6月に71歳で亡くなられています。
2014.02.18
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クロニクル ロシア宮殿爆破事件1880(明治13)年2月17日134年前のことです。当時のロシア帝国の首都ペテルスブルグで、今で言う過激派による宮殿の爆破事件が起きました。それも皇帝一家が食事をされる、宮殿内の食事の間が爆破されたのですから、大変センセーショナルな事件として、世界的な話題となり、日本でも大きく取り上げられました。当時のロシアは、ツアーリ(皇帝)による独裁体制の下で、欧米諸国に追いつき追い越せとばかりに、工業化=資本主義化が進められていたのですが、その結果貧富の差が広がり、貧困層の不満が高まっていた頃です。この頃のロシアの反体制派の主力は、農民を主力とした社会主義を掲げるナロードニキと呼ばれるグループでしたが、この派は権力による徹底的な弾圧を受けて、組織的には崩壊寸前に追い込まれていました。このグループの一部が過激化し、皇帝を暗殺して、そのどさくさに乗じて、革命を成し遂げようと考えたのです。「人民の意志」党を名乗ったこのグループは、「皇帝アレクサンドル2世の死刑宣言」を発表して、ツアーリ暗殺を宣言、厳しい弾圧を受けたのですが、仲間の1人で、腕の良い指物師だったハルトゥーリンが、偽名で宮廷の指物師として採用されたのです。腕が良くしかも実直なハルトゥーリンは、宮廷の担当者に信用され、冬宮(殿)の地下室に住み込むことを許されます。こうして宮殿にもぐりこんだ彼は、調査を続け、皇帝が来客と共に食卓につく、食堂の位置を特定します。こうして彼は、外出のたびに、道具箱にダイナマイトを潜ませては、地下室に持ち帰りました。こうした準備の据えに、彼は134年前の今日、ツァーリが来客と昼食を共にするという情報を掴んだのです。食堂の下部にダイナマイトを仕掛け、長い導火線に火をつけてから、ハルトゥーリンは悠々と冬宮から脱出します。食堂は過たず爆破されました。5人の死者と58人もの負傷者も出ました。しかし、皇帝は難を逃れました。一緒に食事をする来客の到着が遅れたため、まだ食堂に姿を見せていなかったのです。こうして暗殺は未遂に終りました。しかし、世界は「人民の意志」党の名を、記憶することになりました。
2014.02.17
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クロニクル 薬害エイズ問題で厚相謝罪1996(平成8)年2月16日18年前のこの日、橋本内閣の菅直人厚相は、薬害エイズ問題で、HIV訴訟の原告団と会い、国と厚生省の法的責任を認め、謝罪しました。血友病患者に投与した血液製剤にHIV感染者の血液が混じっていることが判明後、米国では加熱製剤以外の使用が禁止されたにも関わらず、日本では廃棄されるべき非加熱製剤が大量に輸入され、それを厚生省が黙認したがために、HIVに感染した血友病患者が、大量に発生するという薬害の実際が、裁判の席で明らかにされ、抵抗する厚生省を政治家が抑えて漕ぎつけた謝罪でした。こうした官僚の横暴は最近の薬害肝炎の問題でも繰り返されています。日本の官僚機構は、あちこちで制度疲労を起こしていますから、どこかで大鉈を振るう必要があるのですが、なかなか進みませんね。困ったものですが…
2014.02.16
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クロニクル 西郷挙兵1877(明治10)年2月15日137年前のこの日、征韓論に破れて下野し、郷里に戻っていた西郷隆盛が、「政府に問うところあり」として、兵を率いて鹿児島を出発しました。西郷は東京へ向かって、政府側との会談に臨むつもりである事、各地の鎮台が、東京への道程を妨げるならば、実力で押し通ると、戦を覚悟しての出陣でした。ここに明治政府の施策に対する最大の士族反乱である、西南戦争の幕があがったのです。
2014.02.15
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クロニクル 箱根駅伝始まる1920(大正9)年2月14日今日はバレンタインデー。そして94年前の今日、第1回の箱根駅伝が行われました。今ではすっかりお正月の風物詩になった箱根駅伝、第1回は2月に行われていたのです。この大会は、アメリカ大陸を継走で横断するための代表選考会として実施されました。なぜそんなことを考えたのかというと、この8年前のストックホルムオリンピックに出場した、日本人のオリンピック選手第1号の金栗四三さんが、「五輪で日本を強くするには、長距離、マラソンの選手を育成すること」が大切と発案したのがきっかけでした。箱根駅伝は、第二次世界大戦中に一時中断されましたが、戦後1947年には復活しています。そして第32回(1956年)大会から、現在の1月2・3日の開催となりました。また、第1回大会では学生のための大会ということで、午前中は授業を行い午後から行われました。そのため、ゴールは夜遅くになりました。第1回の出場校は、明治大学、早稲田大学、慶應義塾大学、東京高等師範学校(現・筑波大学)の4校でした。 開催に当たって東京帝国大学や中央大学、法政大学、立教大学、日本大学、東京農業大学、東洋大学、専修大学など多くの大学・旧制専門学校・師範学校などに参加を呼びかけたのですが、4校以外は10人の選手を揃える事ができず、上記の4校のみの出場となったのだそうです。
2014.02.14
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クロニクル 平民にも苗字が1875(明治8)年2月13日、明治は遠くなりにけりですね。もう139年前ですね。「沖のプリンター」の宣伝で、○○のという所属科の下に苗字を呼ばれ、「好きです」とか「支えたいです」とか囁かれていた姓、全国的に苗字のベストテンに入るのだそうですが、中村さんとか、鈴木さんとか、斎藤さんといった姓が大量に登場したのが、この日のことでした。そうなんです。139年前の今日まで、支配階級を除く平民には、名はありましたが姓はなかったのですね。「○○村の太助」などと呼ばれるのはこのためです。この日、明治政府は、「平民苗字必称義務令」を布告、国内全戸に苗字をつけ、姓を名乗ることを命じたのです。許可したのではないことがミソですね。許可では全員が名乗るとは限りませんので…
2014.02.13
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クロニクル バレンタインフェアの誕生1958(昭和33)年2月12日明後日14日がバレンタインデー。今やどこもかしこもバレンタイン商戦で賑やかですね。記憶が定かではありませんが、日本でバレンタインデーが賑うようになったのは、1980年代ではなかったでしょうか。当時から「チョコレートメーカーの陰謀ではないか」という説が、唱えられたりもしていましたが、それはどうやら事実だったようです。しかし、仕掛けの起源は、バレンタインデーがメジャーな存在になるはるか前でした。何しろ56年前ですから…。仕掛け人は、当時創業6年目の小さなチョコレート会社だった、メリーチョコレートの原堅太郎社長の次男、原邦生氏です。邦生氏は、入社を控えた大学4年生でしたが、パリ在住の先輩から、「バレンタインデーには、チョコレートに花を添えてカードを交換する」習慣があると聞き、当時出店が認められていた伊勢丹新宿店のコーナーに、この日2月12日から14日までの3日間、バレンタインフェアの看板を掲げたのです。しかし、当時の日本では、バレンタインデーを知る人もなく、初年度の試みは、見事な空振りに終ります。3日間の売り上げは、僅かに板チョコ3枚にカード1枚だったというのですから…。ここで邦生氏が挫折していたら、日本のバレンタインデーの今日の隆盛は、ありえなかったのでしょうね。成功する実業家というのは、失敗を糧に成長するというのは、本当ですね。邦生氏は、この失敗を糧に、翌年2月、今度は愛のイヴェントに相応しいハート型のチョコレートを考案し、表面にto~from~の文字を入れ、注文を受けたらその場で名前を入れて包装する作戦に出たのです。今では珍しくないハート型のチョコレートですが、初めて見る女性の足を止めるには十分すぎる効果がありました。まして名前まで彫ってくれるというのです。この試みは当りました。義理チョコという発想はなかったのですが、バレンタインデーとチョコレートというイベントは、新宿伊勢丹の地下売り場から、メリーチョコレートによって小さな灯を灯されたのでした。欧米では、男女に関係なくカードに花を添えて相互にプレゼントしあう習慣だと聞きますから、バレンタインデーにチョコレートというのは、どうやら日本流らしいですね。
2014.02.12
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クロニクル 文化勲章制定1937(昭和12)年2月11日77年前のこの日、広田弘毅首相の発案で、文化勲章の授与制度が定められました。文化勲章は、科学技術や芸術など、文化の発展や向上に大きく貢献した人に授与されることになっており、毎年11月3日の文化の日に授与されます。最近は、毎年5人に授与されることになっていますが、初年度は、下記9氏に授与されました。長岡半太郎、 本多光太郎、 木村栄、佐佐木信綱、 幸田露伴、 岡田三郎助、竹内栖鳳、 藤島武二、 横山大観
2014.02.11
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クロニクル 北九州市発足1963(昭和38)年2月10日51年前になるのですね。この日、福岡県の北九州5市(門司市・小倉市・戸畑市・八幡市・若松市)が合併し、北九州市が誕生しました。合併により政令指定都市となる、最初のケースでした。最近はさいたま市とか、相模原市とか、こういうケースが増えてますね。
2014.02.10
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クロニクル NTT株上場1987(昭和62)年2月9日27年前のことです前年の10月29日に、1株1,197,400円で一般に売り出されたNTT(日本電信電話)の株式が、この日東京・大阪・名古屋などの証券取引所に上場されました。市場の買い意欲は強く、この日は買い気配のまま値がつかず、翌日の10日に160万円で寄り付きました。NTT株の売り出しは、希望する国民が応募し、抽選で買い手が決められたのですが、抽選にあたり、株式を購入した人は、短期間に、大きな利益を得ることが出来たことになります。 このときから、89年の大納会まで、平均株価はこれでもかとばかりに上がり続け、株価と地価を両輪とした資産バブルに、市井の庶民も巻き込まれ、一幕のユーフォーリアを演じたのですね。NTT株は、庶民を巻き込むことに、大きな功績を残したことも事実です。ところで、こちらは小降りになりましたがまだ雪が降っています。関東は昭和44年以来といいますから45年ぶりの大雪となっています。明日の雪かきが憂鬱です。
2014.02.09
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クロニクル 日露開戦1904(明治37)年2月8日110年前になります。この日、2日前に佐世保港を出航した連合艦隊の1部が朝鮮半島の仁川に到着、ロシアの軍船2艘を排除して、漢城(現ソウル)占領の任務を帯びた陸軍部隊を上陸させました。他方、連合艦隊の主力は、旅順港外でロシア艦隊を攻撃、旅順防衛のロシアの主力艦3艘を撃沈しました。日本政府は4日前に開戦を決定していましたが、ロシア側には何の通告もせずに、秘密裏にこの日の攻撃を実行しました。ロシア側への正式通告は、この2日後の2月10日でした。宣戦布告前に攻撃する日本軍の悪癖は、この時に原型があるのですね。
2014.02.08
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クロニクル 創政会発足1985(昭和60)年2月7日29年前になります。金脈事件によって、田中角栄首相が辞任したのが74年、ロッキード事件で田中前首相が逮捕起訴されたのが76年でしたから、その後約10年自民党内の最大派閥でありながら、田中派は首相候補を持たない形となっていました。それは、キングメーカーとなった田中元首相にとっては都合の良い状態でしたが、派内の若手には不満がたまり、折から84年における鈴木、福田両派などによる二階堂擁立劇から、派閥の継承に危機感を抱いた竹下登支持派が、勉強会という名目で派内の実権奪取に動き、田中元首相の反対を押し切って発足させたのが、この創政会でした。竹下の盟友金丸信が号令をかけ、後に竹下派7奉行と言われた、小渕、橋本、梶山、渡部、奥田、羽田、小沢が奔走した結果でした。この事件後酒量の増えた田中元首相は、20日後の2月27日に脳梗塞で倒れました。この7奉行も過去の人になりました。
2014.02.07
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クロニクル コーチャン証言日本に激震1976(昭和51)年2月6日2日前の2月4日に、米国で問題化したロッキード社の工作資金問題で、この日同社のコーチャン副会長が議会証言に立ち、国際興業の小佐野賢治社主や右翼の児玉誉士夫らを介添え役として、丸紅を通じて政府高官に200万ドル(当時のレートで、約5億円)を渡したと証言、政界に激震が走りました。事件は次第に複雑化し、多くの逮捕者を出しましたが、7月27日には、田中角栄元首相が逮捕されるという、大政界スキャンダルに発展したことは、ご存知の方も多いと存じます。
2014.02.06
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クロニクル インターポール設立1923(大正12)年2月5日1923年は9月1日に関東大震災が発生した年ですね。91年前のこの日、国際刑事警察機構(ICPO)の前身である、国際刑事警察委員会(ICPC)が発足しました。この組織が1956(昭和31)年に改組されて国際刑事警察機構(ICPO インターポール)になりました。1946年以降事務総局はフランスのパリにありましたが、フランス革命200年にあたる1989年以降は、リヨンに置かれています。日本は1952年に加盟し、75年からは事務総局に警察庁職員を派遣しています。1996年~2000年までの4年間、兼元俊徳(警察庁国際部長。退任後は内閣情報官)氏が、ICPOの総裁を務めています。現実のICPOは、各国警察の協議体であり、国際指名手配などは行ないますが、捜査主権は各国警察に委ねられており、ICPO自体は捜査は行ないますが、逮捕権はありません。銭形警部のような恰好の良い捜査官は、残念ながらいないようです。
2014.02.05
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昨日の節分祭昨日3日のことになります。毎年紹介している琴平神社の節分祭に参加してきました。大変暖かな日和で、3時半、4時半の2回の豆撒き、待つ人たちも寒さに震えることもなく、汗を拭きつつ、必死に投げられた豆や餅、お菓子などを掴もうと頑張っていました。本日は3時過ぎから雨が雪に変るなど、悪天候の上にこの冬一番の寒さ、つくづく昨日でよかったと思える節分祭でした。この行事では、赤鬼さんをやったり、福の神になったりと、毎年楽しんできたのですが、今年は6回目の年男ということで、裃を身につけての撒き手を勤めてきました。一番初めは、その撒き手の写真ですが、私は写真を撮るため遅れてあがりましたので、この写真には写っておりません。あしからず…。2枚目は、スタンバイした子どもたち、下校した子どもたちが、一端家に帰ってランドセルを置いてから、参加でみるようにと、2回目の豆まきは4時半からなので、近くの子は早めについて、いまや遅しと待ち兼ねているところです。3枚目~5枚目は、投げられた縁起物を何とかゲットしようと必死になっている皆さんを写したものです。4時半の会は圧倒的に小学生が多いですね。時間と共に必死さが増し、エキサイトしてくる様子をご覧ください。最後は豆まきが終わって、引き上げる皆さんです。撒いた縁起物をひとつも手に出来なかった皆さんにと、最後に撒かずにとっておいた縁起物を、手ぶらの方にひとつづつお手渡し、神社の心遣いが嬉しいひと時でした。
2014.02.04
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クロニクル カレン・カーペンター急死1983(昭和58)年2月4日カーペンターズご記憶でしょうか。米国の兄妹デュオです。70年代を中心に、カレンの死までの14年間の音楽活動で、11枚のアルバムと32枚のシングルを世に出し、CDの総売り上げ枚数は1億枚を超えたといわれる、伝説的な音楽デュオです。兄のリチャードが楽器を、妹のカレンがヴォーカルを担当し、日本でもカーペンターズファンが多かったのですが、この時32歳だったカレンが、この日急性心不全によって急死したことで、活動を終えました。あれから31年も経ったのですね。カレンは、拒食症(神経性無食欲症)を患っており、合併症によって心停止を起こしたと診断されました。彼女の死によって摂食障害の危険性が、世界的に広く認識されるようになったという副産物も生まれましたが、音楽ファンには残念な死でした。
2014.02.04
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黒船に関する瓦版から下の写真をご覧ください。これは、幕府の禁制が高札等で知らされてから、10日後に出された瓦版です。「黒船見物無用」と記された高札を前に、見物にやってきた客人に対し、「ここではまずいから、あっちで見物なさい」と指差す、船宿の亭主夫妻が書かれています。亭主の指差す方向には、黒山の見物人が書かれています。幕府の禁制が無視されるほど、庶民にとって黒船の襲来は、大事件だったことが良く分かる1枚です。
2014.02.03
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クロニクル 徳川幕府,米国軍艦の見物を禁止1854(嘉永7)年2月3日 160年前のことです。この日、徳川幕府は、羽田沖に停泊中の米国軍艦の見物を禁止する旨のお触れを出しました。米国のペリー提督が4艘の黒船と共に浦賀に停泊して、幕府に開国を迫った有名な黒船襲来は、前年1853年6月のことでした。その後翌年の来航を予告して、帰国したのですが、約束通り、翌1854年の1月に3艘の軍艦(蒸気船=黒船)と4艘の帆船からなる7艘の艦隊を指揮して、羽田沖に現れ、江戸に近い神奈川(現横浜)を交渉地として、羽田沖に至る一帯に艦隊を停泊させたのです。緊張する幕府とは別に、怖い者見たさの庶民に混じって、頑迷な攘夷思想に凝り固まって、国際的現実を顧みない国粋主義者が、実力行使に出ることを警戒しなければなりません。そんな幕府の困惑が,この日の見物禁止のお触れとなったのです。 「こちとら江戸っ子でぃ」とでもいえそうな、庶民のバイタリティを示すエピソードですね。
2014.02.03
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娘さんが語る「日本兵 武藤秋一氏の従軍日記」の真実 以下は、蓼科に居住する私の友人が日々発信する「白樺通信」の記事から、許可を得ての転 載です。安倍首相や戦前を美化し、戦前回帰を願う人たちの発言が、如何に欺瞞に満ちてい るかを、読み取っていただけるものと思います。 少し長いですが、お読みいただけると幸いです。>私の父、武藤秋一は第2次大戦中、日本の第6師団の兵士でした。父の従軍日記は現在、韓国 の戦争と女性の人権博物館にあります。私は高校時代から次第に父の従軍経験への疑問を募 らせ、あの戦争の本質が一体何だったのかを、はっきりと知るようになりました。あの戦争 は、誰が見ても侵略戦争だったのです 私は戦争の真相が知りたいし、歴史の事実を知る責 任もあります。 私は手紙のやりとりを通して、父に自分の決意を伝えました。長いやりとりを通じて、父は 私に心の扉を開きました。農家に生れた父は徴兵され、「天皇陛下の赤子」となりました。 1990年代、父は長年秘蔵していた従軍日記を私に渡してくれました。1938年から1946年ま でに父が受け取った300通余りの手紙もありました。 日本軍は南京占領後、この世のものと は思われないほど残酷な大虐殺を始め、日本兵は現地の女性を公然と辱めました。これは 国際世論を騒然とさせ、強い反感を買いました。日本軍当局は軍内の性病蔓延を恐れて慰安 所の大規模な設立を始め、慰安婦の招集を急ぎました。1938年、最初の日本軍慰安所が上 海に完成しました。 私は日記に、次のような記述を見つけました。 「1938年2月21日、今日は愉快な外出日だった。私と石川はまず『朝鮮』を征伐した。慶 尚南道から来た富子で、私は贔屓にしており4回目だ。次に『中国』を初めて征伐した。最 後に昔の恋人八重を思い出し、彼女と似た智恵子を竹7号室に訪ねたが、不愉快なことが起 きて先に帰った」 「1938年3月13日、また愉快な外出だった。大田黒、石川と三人で慰安所へ行った。 『日本』『中国』『朝鮮』を相次いで征伐した。その後関東煮店へ行き、うどんを食べて酒 を少し飲み、いささか酔った」 父の日記には、中国人慰安婦が強制連行された記述もありました。例えば日本軍が人身売買 業者を通じて女性を強奪、連行したなどです。 日記を読みながら、父の心境の変化に次第に気づきました。 「9月2日、中国の便衣兵を捕えに行った……池田少尉が刀で突き刺し、わが隊の一人一人が 一刺しずつした」。 父にとって人を殺すのは初めてでした。その後1週間、父は気持ちが落ち着かず、食べ物が 喉を通らず、日記もしばらく中断しました。その後、また中国便衣隊を捕えに行った後、普 段通り日記を書いています。便衣隊が本当の意味での中国兵なのかどうかは、すでに考証で きません。日本軍は中国人殺害を「完璧な皇軍兵」に成長するために必須の「度胸の訓練」 と見なしていたのです。こうして私の父は次第に、人殺しに慣れた「皇軍兵」となっていき ました。 父との対話、父の戦時中の日記や書簡の中から、私は当時日本が犯した戦争犯罪行為を知 りました。日記は父たちの侵略行為が中国や韓国などアジアの人々に与えた傷を、私たちに はっきりと示しています。侵略に対する安倍首相ら戦前回帰派の「弁解」を粉砕するもの で、歴史の真相を復元する力となります。父はすでに亡くなりましたが、日記と手紙は父が 私に託した、まだ終わらぬ責任です。 慰安婦被害者が生きている間に、日本政府は公に謝 罪し、法律に則って賠償を行うべきです。戦争を経験した父の世代はみな「二度と戦争が起 きてはならない」との揺るぎない信念を持っていたのです。 <
2014.02.02
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クロニクル 女性車掌の登場1920(大正9)年2月2日94年前のことです。この日、東京の路線バスで、初めて女性車掌が乗務に就きました。女性の仕事の場が一つ広がったのです。いつの間にか、バスはワンマン運転となり、乗務員は運転士1人となりましたが、ワンマンバス以前は、運転士と女性車掌の組み合わせの時期が長く続きました。私が東京大空襲以降、疎開していた群馬県桐生市出身の歌手、初代コロンビア・ローズのヒット曲に「東京のバスガール」があります。2番でしたか「昨日心に留めた方 今日はきれいな人連れて 夢は儚く破れても 私は東京のバス・ガール 発車オーライ 明るく明るく 走るのよ」と歌われました。自宅近くのお仲間に、夫人はかつて、地元を走るバスの車掌さんだったという方が3人ほどおります。美人のバスガールを見初めて、見事そのハートを射止めたケースばかりです。やはりハッピーエンドの方が良いですね。 しかし、時代は変りました。私の地元は小田急バスと東急バスの相互乗り入れ区域なのですが、2年ほど前から両社に、女性のワンマンバスの運転士が登場しています。タクシーの女性運転士は、さらに多いですね。
2014.02.02
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クロニクル 「赤旗」創刊1928(昭和3)年2月1日今日で創刊86年になるのですね。この間戦時中など弾圧によって休刊を余儀なくされていた期間を除いて、日刊スタイルを守ってきたのですから、政党の機関誌としては、並でない苦労に耐えてきたのでしょう。日本共産党の中央委員会幹部会の決定を伝える、毎度お馴染みの記事も目立ちますが、丹念な資料追求や現地調査に基ずくスクープもあって、真相を追究しようという記者魂は、記者クラブでのお仕着せの発表を、まとめることでお茶を濁している大新聞の記事に比べ、優れている面も持っているように思います。
2014.02.01
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