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そろそろ夏も終わり、秋の光を感じるとき、ふとセンチメンタルになってしまう。「オウタム・リーヴス(枯葉)」は、そんな情景を歌った歌。マーロン・ブランド主演の映画『ラスト・タンゴ・イン・パリ』も、哀愁が漂う映画だ。ケニー・ドリュー・トリオのアルバム『パリ北駅着、印象』は、そんなフランスのパリの哀愁感のただようセンシティヴな味わいを感じさせてくれる。そしてパリといえば、ロベール・ドアノーの写真『市役所前のキス』が頭に浮かびます。この写真を初めて目にした時、素敵な写真だと感じたのと同時に、勝手にパリの駅前で別れのキスをしている恋人の写真だと思い込んでしまったが、実はパリ市役所前だったことを、だいぶあとになってから知ったものだった。この『市役所前のキス』の故ロベール・ドアノー氏の署名入りオリジナル写真が、去年2005年の4月25日、パリの競売会社アールキュリアルで競売に掛けられ、予想価格の約10倍の15万5000ユーロ(約2100万円)で落札されたということがニュースで報道され話題になった。この写真は、1950年にパリの街角で撮影した米写真誌ライフから、「パリの恋人たちのルポ」の依頼を受けた写真家ロベール・ドアノーが、街角でキスするカップルを撮影。日常風景を絶妙にとらえたスナップとして話題を呼んだ。写真は、その後30年以上写真代理店の倉庫に眠っていたところ、 1986年にポスターとして売り出され、世界中で40万枚以上売れ有名になった。ドアノーは後に、若いカップルがキスをしているのを見つけて、2人にあらためてポーズを頼んで撮影したことを証言した。オリジナル写真を出品したのは、「市役所前のキス」で写っている元女優のフランソワーズ・ボルネさんで、ボルネさんは1950年、共に演劇を学んでいた当時の恋人と学校近くのカフェで抱き合っていたところ、ライフ誌にパリの恋人たちの写真を連載していたドアノー氏に声をかけられたという。 数日後、ドアノー氏は市役所前でキスをしている2人を撮影し、写真は米ライフ誌に掲載された。ボルネさんには、ドアノー氏の署名と印が入った、オリジナルプリントが届けられた。ボルネさんは、一緒に写った恋人とは別れて別の男性と結婚したという。夫婦で映画制作会社を始める資金作りのため、オリジナルプリントを競売にかけたと話していた。
August 31, 2006
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パリ北駅着、印象 / ケニー・ドリュー・トリオ Impressions / Kenny Drew 録音日:1988年8月1日~3日録音場所:デンマーク、コペンハーゲンレーベル:エム アンド アイ カンパニー [personnel]ケニー・ドリュー(p)ニールス・ペデルセン(b)アルヴィン・クイーン(ds) [収録曲] 1.パリ北駅着、印象 Impressions2.イブニング・イン・ザ・パーク Evening In The Park3.カフェ・フローラ Cafe Flore4.枯葉 Autumn Leaves5.ノー・グレイター・ラブ No Greater Love6.マイ・シップ My Ship7.ルージュ・ブルース Rouge Blues8.モーニング・ミスト Morning Mist9.ラスト・タンゴ・イン・パリ Last Tango In Paris10.追憶 The Way We Were ----------このアルバムは、日本のレコード会社が提案した企画によって1988年に制作されたもので、ロマンチックなタイトルや選曲、きれいな絵を使ったジャケットは、今までのジャズのアルバムのイメージとは違う、おしゃれなものになっている。この企画は、このあと『欧州紀行』、『ヨーロッパの午後』、『旅の終わりに』、『ザ・ララバイ』、『ファンタジア』、『エレジー』など、ロマンチックなタイトルが続く。そのおかげで、日本の女性の間に、ちょっとしたジャズ・ブームを巻き起こす発端になったもので、このヒットによって女性の間では「ジャズ・ピアノといえば、ケニー・ドリュー」というくらいに、女性に圧倒的に支持されるようになったものです。なにしろ、レコード会社に、こんな電話がかかってきたという逸話があるという。「いま新宿駅なんですが、パリ北駅はどこですか?」この電話は女性からのもので、この女性が何を言いたかったのかというと、「いま新宿駅にいますが、『パリ北駅着、印象』というレコード(当時CDはまだなかった)は、どこに売っていますか?」ということだった。つまりこの『パリ北駅着、印象』というレコードは、ケニー・ドリューの名前も、ジャズのことも、新宿のどこのレコード店にあるのかも知らない女性層にまで浸透するほど話題を呼び、売れたという。もっとも、そのような女性が、はたして発売元のレコード会社の電話番号を知っていたのだろうか?という疑問はあるが、まあ、逸話とはそんなものでしょう。したがって、このアルバムはジャズのアルバムとしては異例のセールスを記録した。しかし、ジャズ・ファンやマニアの間においては、ほとんど無視されていたものだ。というのも、当時マニアの間では、このレコードに代表されるような日本のレコード会社の企画ものとしてのジャズ盤を、「フン」と鼻であしらうことが暗黙の了解事項としてあり、そのため、一般的には売れているのにもかかわらず、ジャズ通といわれるマニアの間では聴かれる気配さえないというおもしろい現象が起きた。まあ、要するに、この種のアルバムはジャズのレコードとして認知されていないといったものだったといえる。とはいえ、鼻であしらいながらも、そこはケニー・ドリュー、演奏が悪いはずがない。聴けば感動を覚えることは間違いなく、タイトルやジャケットから受けるイメージのようなイージー・リスニングではない。意外にコア層の中にも、ジャズ仲間には良いと言えずに、これらのアルバムの「隠れファン」がいて、コレクションの中にそっとしのばせている可能性はあるに違いない。私はマニアではないから、周りの目を気にすることはなく、このアルバムを「大好きだ!」と大声で言える。むしろ、アメリカではあまりにも過小評価され、ほとんど忘れ去られた存在になっていたケニー・ドリューの、実にリリカルで繊細な素晴らしさが日本のプロデュースによって見事に発揮された良い作品だと思う。彼の細やかな感性は日本人の感性と合うところがあり、彼のピアノを一番理解したのは日本人だったのではないだろうか。ちなみに、レコード会社が提案したこの企画をドリュー自身は、「新たな挑戦」と受け止め、意欲的に取り組んでいたという。
August 30, 2006
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今日は、ジャズ・アルト・サックス奏者のチャーリー・パーカーの誕生日。チャーリー・パーカーは、1920年8月29日、アメリカのカンザス州カンザスシティで生まれた。●チャーリー・パーカー
August 29, 2006
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ダーク・ビューティ / ケニー・ドリュー Dark Beauty / Kenny Drew 録音日:1974年5月21日、22日録音場所:デンマーク、コペンハーゲンレーベル:Steeple Chase[personnel]ケニー・ドリュー(p)ニールス・ペデルセン(b)アルバート・ヒース(ds) [収録曲] 1.ラン・アウェイ Run Away2.ダーク・ビューティ Dark Beauty3.サマー・ナイト Summer Nights4.オール・ブルース All Blues5.イット・クッド・ハプン・トゥ・ユー It Could Happen To You6.ラヴ・レターズ Love Letters7.シルク・ボッサ Silk Bossa8.ブルース・イン Blues Inn ----------このアルバムは、1974年、デンマーク、コペンハーゲンでの録音。ケニー・ドリューは1960年代初めにアメリカを離れ、フランスに渡り、1964年からデンマークに住み、この地を活動の拠点にしていた。1972年にデンマークに誕生したスティープル・チェイス・レコードが、ドリューを専属的に迎え入れた。このときすでにドリューはベーシストのニールス・ペデルセンとコンビを組んで活動していたので、スティープル・チェイスにおける1枚目のアルバムは、そのペデルセンと2人だけで1973年に録音された『デュオ』。そして、ペデルセンとの関係は、ドリューが他界する1993年まで続くことになる。すなわち、コペンハーゲンに移住後のドリューの音楽は、ペデルセンとのコラボレーションといえる。ピアノ・トリオで演奏する場合は、ドラマーは常にゲスト的な立場になることが多いのだが、このアルバムのドラマーのアルバート・ヒースは、1967年から1968年の一年間にわたってペデルセンと共にトリオを組み、コペンハーゲンのジャズ・クラブ『モンマルトル・ジャズハウス』に出演していた関係で、ドリュー自身は、「最高のトリオ」と自負していたという。しかし、その後ヒースはアメリカに帰国し、ドラマーはメンバー・チェンジを余儀なくされる。したがって、このアルバムは、そのヒースとの再開セッションということになり、ドリューの演奏は、まさにはじけるようなものになっている。ケニー・ドリューは、1950年代にはリヴァーサイドなどから名盤を何枚か出したり、多くのジャズ・アーティストのレコーディングに参加するものの、アメリカのジャズシーンでは、あまり目だった評価をされない存在だった。要するに、ビル・エヴァンスやオスカー・ピーターソンのような際だった個性がないということらしい。しかし、このアルバムを聴けばわかるが、革新的でなかったからアメリカのジャズシーンに受け入れられなかっただけで、彼のリリカルで繊細なピアノは、ほんとうに華麗で美しい。このアルバムのケニー・ドリュー・トリオは、ビル・エヴァンス・トリオのインタープレイ的な、三位一体となった演奏で、ジャズ・ピアノ・トリオの醍醐味を堪能することができる名盤といえるものだ。しかし、こんな名盤が廃盤になっているとは、なんとも悲しい。
August 29, 2006
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【DVD】ケニー・ドリュー・トリオ・アット・ザ・ブリューハウスKenny Drew Trio At The Brewhouse1.マイ・シャイニング・アワー My Shining Hour2.ユー・ドント・ノウ・ホワット・ラヴ・イズ(あなたは恋を知らない) You Don't Know What Love Is3.オレオ Oleo4.ブルーソロジー Bluesology5.イン・ユア・オウン・スウィート・ウェイ In Your Own Sweet Way 6.オール・ブルース All Blues7.ブルース・イン・ザ・クローゼット Blues In The Closet----------今日はジャズ・ピアニストのケニー・ドリューの誕生日ですね。ケニー・ドリューは、1928年8月28日、アメリカのニューヨークに生まれ、1993年8月4日、64歳で亡くなりましたが、この人の華麗な演奏は、晩年には特に日本の女性から絶大な支持を得ました。それは、日本でのCD制作の仕方が、今までのジャズのレコード・ジャケットのように、黒人であるケニー・ドリューの顔を出さないようにし、きれいな絵のジャケットにして、おしゃれに売り出したことが成功したようで、女性の間でもちょっとしたジャズ・ブームを作った人だったのです。このDVDはドリューがこの世を去る1年前の1992年7月22日、イギリスのブリューハウスでのケニー・ドリュー・トリオのライヴを収録したライヴ映像。メンバーはケニー・ドリュー・トリオとして、生涯活動を共にした、ニールス・ペデルセンのベースにアルヴィン・クイーンのドラムス。●ケニー・ドリュー5歳の時にクラシック・ピアノを始め、8歳でリサイタルを開いた天才少年。1950年代はチャーリー・パーカーやジョン・コルトレーンなど、数多くの巨人たちと共演。ハード・バップの代表格のピアニストのひとり。多くのジャズ・アーティストのアルバムにドリューの名前を見ることができる。1961年以降はヨーロッパに活動の場を移し、1964年にデンマークのコペンハーゲンを活動の拠点と定め、生涯演奏を共にするニールス・ペデルセンと出会った。彼とスタンダード・ナンバーを集めたアルバムを数多く制作した。
August 28, 2006
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きのうは、「第3回 グリーングラスフェスティバル in 日本平」というイベントが、静岡市の日本平ホテル野外庭園で行われたが、どうだったのだろうか?午後1時から8時までは、アマチュア・バンドの演奏で、夜6:30からはスペシャルライヴとして、ジャズライヴが行われるという。スペシャルライヴは、プロが来ると言っていたので誰が出演するのかと思っていたら、結局ヴォーカリスト&フリューゲルホーンプレイヤー「TOKU(トク)」と、TOKUのアルバムのレコーディングメンバーのでピアニスト小島良喜(こじまよしき)に、ヴォーカルとギターで桑名晴子(くわなはるこ)が出演するということだった。こういうアマチュアバンドが演奏できる場があるのは大変に良いことだと思う。バンドを組んでいれば演奏する場がほしいものだから。しかも入場無料で、TOKUさんたちの演奏も聴けるなんて、すごいなあ。本当に、どこからお金がでているのかな。まったく不思議でしかたがない。普通にジャズをやっていては金にならんな。きのうは洗車をしたので、気分が良い。今日は、昼からかおりんのお仕事のお手伝いで、夜はそのまま「ジョージ・オーシャンビュー」と、夜中まで忙しい。
August 27, 2006
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ロックが大ブームになっていった1960年代後半には、数多くの巨大な野外ロック・フェスティバルが行われた。有名なものは1968年のアメリカで行われた「ウッドストック・フェスティバル」で、3日間で50万人を動員した。これは「ラブ&ピース」を合い言葉とする若者たちのメッセージとしてのロックが、その頂点を刻んだ瞬間ということで、伝説化している。しかし、大失敗だったロック・フェスが、イギリス海峡沖の小さな島、ワイト島で1970年の今日、行われたものだった。1970年で第3回を迎えるワイト島ロック・フェスティバルは、過去最大の60万人を動員するべく、出演者にはザ・フー、ドアーズ、ELP、ムーディー・ブルース、テン・イヤーズ・アフター、フリー、ボブ・ディラン、ジェスロ・タル、マイルス・デイヴィス、ジミ・ヘンドリックスら、豪華絢爛なアーティストたちが名を連ねた。そして主催者側も、ウッドストックのように愛と平和の一大イベントとするべく、「採算が取れた時点で無料コンサートとする」と宣言し、期待は大いに高まった。ところがフタを開けてみると、やってきた観客たちは金を払わず次々とフェンスを乗り越え、思ったほど費用が回収できない状態になってしまった。そうこうしているうちに、無料コンサートだと思ってやってきた観客たちは、有料と知ったとたん頭にきて暴徒化し、フェンスをなぎ倒し、警備員と小競り合いを繰り返した。さらには、きちんとギャラがもらえるか疑わしい、そんな空気を察知したアーティストが「今すぐギャラを払わなければ演奏せずに帰る」とゴネはじめ、しかもその楽屋裏の事情をステージで暴露するアーティストも出るといった始末。また、ライブの目玉だったドアーズのジム・モリソンとジミ・ヘンドリックスは、まさに死の直前でドラッグでボロボロの状態。もちろんザ・フーやフリー、これがお披露目となったEL&Pのパフォーマンスなど、個々での名演や見どころはあったのに、全体としては完全なる失敗というものになった。結局、根負けした主催者は無料コンサートにすることを宣言。最後にステージに立って挨拶をした主催者は、憔悴(しょうすい)しきった表情で、「みんな、ありがとう。おれはこれで破産だ」。そうつぶやいて大きく両手を広げてピース・サインをしたという。結局、このフェスティバルは、共同幻想としてのロックの終焉と、来るべき商業主義を予感させる、実に苦い後味を残すことになったということです。----------●グリーングラスフェスティバル in 日本平ところで、地元の話題。今日、『第3回 グリーングラスフェスティバル in 日本平』というイベントが、静岡市の日本平ホテル野外庭園(雨天時:館内)で行われるということだ。主催は「グリーングラス実行委員会」。テレビ、ラジオで盛んに告知しているので、テレビを見ていれば必ず目にしていたはずだ。それは、「カントリーからポップス、フォーク、ジャズまで幅広い音楽を、一般アマチュアバンドの演奏でお楽しみください。」というもの。午後1時から8時までは、アマチュア・バンドの演奏で、夜6:30からはスペシャルライヴとして、ジャズライヴが行われるという。スペシャルライヴは、プロが来ると言っていたので誰が出演するのかと思っていたら、結局ヴォーカリスト&フリューゲルホーンプレイヤー「TOKU(トク)」と、TOKUのアルバムのレコーディングメンバーのピアニスト小島良喜(こじまよしき)に、ヴォーカルとギターで桑名晴子(くわなはるこ)が出演するということだ。1カ月ほど前までは出演アマチュアバンドを募集していたり、その告知も、テレビ、ラジオで毎日必ず見聞きするほどのもの。広告料だけでも普通ならものすごい金額になるはずなのに、「入場は無料なので、ご家族そろっておいでください」という。これだけの企画が無料だとは、どこから金がでているんだろうか?今回は第3回で、これからも秋、冬と、季節ごとにやることが決まっているというが、実に不思議でしかたがない。
August 26, 2006
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●冥(めい)王星を惑星から除外、太陽系は8惑星になった。ついに決着がついた。プラハで開かた国際天文学連合(IAU)の総会は24日、従来の太陽系惑星9個より、太陽から一番遠い冥王星を除外し、水星から海王星までの8個とする新しい定義の決議案を出席者の賛成多数で可決した。冥王星は他の8惑星より格段に小さい上、軌道が傾いていることや、似たような大きさの天体が1990年代以降、次々に見つかっていることが決め手になった。1930年に発見されてから76年、なじみ深い“第9惑星”が格下げされる歴史的決定で、教科書の書き換えなど教育、文化の多方面に影響が及びそうだ。【採択で承認された太陽系惑星の定義】(1)太陽の周りを回る(2)自己の重力で球形となった天体(3)軌道上で他の天体(衛星を除く)がないことこの条件をすべて満たすのは、太陽に近い方から、水星、金星、地球、火星、木星、土星、天王星、海王星の8個だけということになる。冥王星は(3)を満たしていないため惑星から除外され、小さな惑星を意味する天体として新たに定義された「矮(わい)惑星(ドワーフ・プラネット)」の1つとなる。冥王星は、細長い軌道の一部が海王星と重なり、他の8惑星の公転面に対して大きく傾いている。このため、多くの研究者が科学的な知見から「惑星とするには無理がある」としていたが、IAUは1999年に「惑星としての地位に変更はない」と発表した。しかし、海王星や冥王星より外側のカイパーベルトと呼ばれる太陽系外縁部で、次々と新しい天体が発見され、その1つの「2003UB313」は、冥王星よりも大きいことが判明。米航空宇宙局(NASA)が昨年夏に「第10惑星」と発表したことがきっかけで、惑星の定義がIAUで改めて議論されることになった。総会では当初、今月16日には、従来知られている水星から冥王星までの9惑星に、火星と木星の間で見つかり小惑星とされてきた「セレス」、冥王星の衛星とされていた「カロン」、米国が昨年発見し“第10惑星”と主張した「2003UB313」を新たに加え、12個とする「太陽系12惑星案」が提示されたが、研究者の反対が続出。24日、冥王星を惑星にとどめたうえで3つの天体を新たな惑星とすると言っていたIAUは一転して、冥王星を外す「8惑星案」での決着をした。最終的な決議案には、8惑星を「古典的惑星」として冥王星などを「古典的ではない惑星」と解釈する道も盛り込まれたが、研究者による投票の結果、科学的にも明解で惑星の定義がシンプルな「8惑星案」が多数の賛同を得たと。【冥(めい)王星】 1930年に米国人天文学者が発見し、太陽系の第9惑星と認定された。直径約2400キロで、軌道はほかの惑星と違い、約17度も傾いた非常に細長い楕円(だえん)。公転周期は約248年。発見時は海王星級の大きさと推測されたが、実際はその約20分の1で月よりも小さいことが判明。1992年以降に似た軌道を回る直径数百キロの天体が次々に発見され、専門家から「惑星ではない」との意見が噴出した。太陽系の従来の惑星の中で唯一、未探査で、今年1月に米航空宇宙局(NASA)が2015年の最接近を目指し無人探査機を打ち上げた。ちなみに、冥王星という名前は日本人科学者が付けたもので、あまりにも遠い星のため「冥土(めいど)」という言葉から名付けたと言います。【国際天文学連合(IAU)】天文学を保護、発展させることを目的に1919年に世界の天文学者が設立した国際組織。本部はパリ。天体の命名などを認定するほか、3年ごとの総会で天文学に関する事項を決議する。現在、85カ国の天文学者が参加し、日本の会員は約500人。
August 25, 2006
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『アンダーカレント / ビル・エヴァンス&ジム・ホール』Undercurrent / Bill Evans & Jim Hall 録音日:1962年4月24日、5月14日 Blue Note [personnel]ビル・エヴァンス(p)ジム・ホール(g)[収録曲]1.マイ・ファニー・ヴァレンタイン My Funny Valentine 2.アイ・ヒア・ア・ラプソディ I Hear A Rhapsody 3.ドリーム・ジプシー Dream Gypsy 4.ロメイン Romain 5.スケーティング・イン・セントラル・パーク Skating In Central Park 6.ダーン・ザット・ドリーム Darn That Dream ----------ビル・エヴァンスのピアノとジム・ホールのギターとのデュエットの作品です。1950年代、ビル・エヴァンスは自己のトリオで、「インタープレイ」という新しい概念の演奏を実践してきました。しかし、ベースのスコット・ラファロを事故で亡くしたため、トリオは解散し、このアルバムは、そんな失意のどん底にいたときに作られたものでした。ビル・エヴァンスとジム・ホールの2人で作られたこのアルバムはどちらが主役というわけではなく、2人の紡ぎだす音は完全に融合しています。 そして、2人の絶妙に交錯する演奏は、その後のジャズ界に「インタープレイ」という言葉を生み出したきっかけになったものです。繊細な表現力をもった2人の世界が絡みあう、まさに名盤中の名盤です。また、水面下で女性が漂うジャケットの美しさも評判になりました。このアルバムのジャケットは、最も美しいジャズのレコード・ジャケットの一枚と言われました。湖の水面下をただよう女性を撮影した写真で、カメラマンはトニ・フリュセルという人です。タイトルの「アンダーカレント」は直訳すると「底流」ということで、このジャケットは、そのイメージをあらわしているということです。そして、この「アンダーカレント」という言葉には「暗流」という意味もあります。つまり、表面にあらわれない流れや傾向、動き、成り行きといったことで、それは、まさに「インタープレイ」を意味した言葉でもあります。おもしろいのは、このアルバム「アンダーカレント」の登場によって、「インタープレイ」という言葉が流行したということです。その後「ビル・エヴァンスといえばインタープレイ」と言われるようになりますが、それが言われだしたのは、このころからだったようです。
August 24, 2006
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あ~あ、ただ今、またDynaBookがこわれた。またまた修理代、いくらかかるのかな?車のタイヤもスリ減っているから取り替えなくてはならないし・・・、おまけに首は痛いし・・・・。そんなのばっかりで、いやになっちゃうね。
August 23, 2006
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『チェット / チェット・ベイカー・ウィズ・ビル・エヴァンス』Chet / Chet Baker 録音日:1958年12月30日、1959年1月19日 Riverside[personnel]チェット・ベイカー(tp)ペッパー・アダムス(bs)ハービー・マン(fl)ケニー・バレル(g)ビル・エヴァンス(p)ポール・チェンバース(b)コニー・ケイ(ds) フィリー・ジョー・ジョーンズ(ds)[収録曲] 1.アローン・トゥゲザー Alone Together2.ハウ・ハイ・ザ・ムーン How High The Moon3.イット・ネヴァー・エンタード・マイ・マインド It Never Entered My Mind4.ティス・オータム 'Tis Autumn5.イフ・ユー・クッド・シー・ミー・ナウ If You Could See Me Now6.セプテンバー・ソング September Song7.ユード・ビー・ソー・ナイス・トゥ・カム・ホーム・トゥ You'd Be So Nice To Come Home To8.タイム・オン・マイ・ハンズ Time On My Hands (You In My Arms)9.あなたと夜と音楽と You And The Night And The Music10.アーリー・モーニング・ムード Early Morning Mood---------- トランペッター兼シンガーとして知られるチェット・ベイカーのリーダー・アルバムですが、このアルバムではチェットは一曲も歌っていません。ここでは全編トランペットで歌っています。このアルバムは、ピアノにビル・エヴァンスが参加しています。ビル・エヴァンスはこう言っています。「ピアノに生命を吹き込むこと、ピアノを通じてヴォーカルのニュアンスを出すこと、これは挑戦だよ。あの素晴らしい歌うという感覚は、絶対になくてはならないんだ。」ビル・エヴァンスとチェット・ベイカーは同い年だということです。●チェット・ベイカー(Chet Baker)
August 22, 2006
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『アフィニティ / ビル・エヴァンス』Affinity / Bill Evans録音日:1978年10月30、31日、11月1、2日 Warner Bros.[personnel]ビル・エヴァンス(アコースティック&エレクトリック・ピアノ)トゥーツ・シールマンス(ハーモニカ)マーク・ジョンソン(ベース)エリオット・ジグモンド(ドラムス)ラリー・シュナイダー(テナー&ソプラノ・サックス 、フルート)[収録曲] 1.きみの愛のために I Do It For Your Love 2.スノ・ピーズ Sno' Peas 3.願いのすべて This Is All I Ask 4.酒とバラの日々 Days Of Wine And Roses 5.ジーザス・ラスト・バラード Jesus' Last Ballad 6.トマト・キッス Tomato Kiss 7.真夜中の向こう側(メイン・テーマ) Other Side Of Midnight (Noelle's Theme) 8.ブルー・イン・グリーン Blue In Green 9.身も心も Body And Soul ----------ビル・エヴァンスが、この世を去る約2年前の1978年の作品で、エヴァンスとハーモニカのトゥーツ・シールマンスの共演盤です。エヴァンスのアコースティック・ピアノ、またはエレクトリック・ピアノとハーモニカ、ピアノ・トリオとハーモニカ、曲によってはサックス、フルートも加わります。数あるエヴァンスのアルバムの中でも、最も異色なものの一枚と言えるでしょう。ピアノ・トリオでのエヴァンスしか評価しないジャズ批評家には、こんなのはエヴァンスらしくないと決め付けてしまい、問題にされないアルバムです。CDショップにも、エヴァンスのアルバムは数多くあるのに、このアルバムにはお目にかかることがありません。エヴァンスは人気があるはずなのに、どうも、このアルバムの国内盤は廃盤になっているようです。ピアノ・トリオのものに人気が集中して、こういうものは売れないアルバムということなのでしょう。トリオでの張り詰めた緊張とは違うリズムのなかで、メロディーがゆったりと響く、雄大でロマンティックなエヴァンスの世界が描かれていて、私の大好きなアルバムです。まったくもって、トゥーツ・シールマンスのハーモニカとエヴァンスのピアノがよくマッチしていて、本当に美と美の相乗効果から生まれた、まさに限りなく美しい音楽としか言いようがありません。私は、これはエヴァンスの数ある作品の中でも、最高の部類に入るアルバムだと思います。●トゥーツ・シールマンス(Toots Thielemans)
August 21, 2006
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『Waltz For Debby』(ワルツ・フォー・デビイ)この曲は、1954年にジャズ・ピアニストのビル・エヴァンスが作曲したもので、ビルの実の兄ハリーの娘、当時3歳のデビイのために書いた曲だといいます。エヴァンス自身の演奏は、1961年に、ニューヨークのジャズクラブ「ヴィレッジ・ヴァンガード」でライヴ録音されたアルバム、『ワルツ・フォー・デビイ』の中に収められているものが有名ですが、1956年のビル・エバンスの初リーダー・アルバム『ニュー・ジャズ・コンセプションズ』で、ピアノ・ソロとしてすでに演奏されています。そこではテーマ演奏だけの小品ですが、その後生涯にわたって数多く演奏され、エヴァンスの代表曲になりました。エレクトリック・ピアノで弾いた1971年録音の『ザ・ビル・エヴァンス・アルバム』というのもあります。 テーマは題名のとおり3拍子ですが、アドリブに入る時から、あるいは途中から4拍子になるのがエヴァンス定番の展開です。ビル・エヴァンスが作曲した曲で有名なものは数少ないものですが、この曲は、彼の代表作というでだけではなく、モダン・ジャズの名曲として、多くの人が演奏していて、ジャズのスタンダードナンバーになっています。もともとは、インストゥルメンタルの曲でしたが、スウェーデン語の歌詞がベッペ・ウォルゲルス(Beppe Wolgers)によってつけられ、スウェーデンの歌手、モニカ・ゼタールンド(Monica Zetterlund ) が、曲名を「モニカのワルツ(Monicas Vals)」として歌いました。これは、1964年8月29日にスウェーデンのストックホルムで録音されたアルバム、『ワルツ・フォー・デビイ / モニカ・ゼタールンド・ウィズ・ビル・エヴァンス』 の中に収められていて、このアルバムは、ビル・エヴァンス・トリオとの共演ということで有名になりました。ヴォーカル・ヴァージョンは、他に1975年のトニー・ベネットのものがよく知られていて、これもエヴァンス本人がピアノを弾いています。最近のものでは、2004年にマンハッタン・トランスファーのシェリル・ベンティーンの歌ったものと、同じく2004年のアル・ジャロウの歌ったものがあります。英語版の歌詞は、ジーン・リーズによってつけられています。この曲の著作権登録は1964年になっていますが、それは歌詞が付けられたときに登録が行われためでしょう。エヴァンス自身はそういうことにはまるで関心がなかったため、それまで著作権登録がされなかったのでしょう。ベッペ・ウォルゲルス(Beppe Wolgers)は、1928年11月10日、スウェーデンのストックホルム生まれで、作家、作詞家だったようです。1986年8月6日に、潰瘍による急性出血で亡くなりました。ジーン・リーズ(Gene Lees)は、1928年2月8日生まれで、アメリカでジャーナリスト、作詞家、歌手、作曲家、ブロードキャスターとして仕事をし、 ジャズ雑誌のダウンビートの編集者も務め、ジャズに関する本の著書としても知られています。ジーン・リーズが歌詞をつけたもので有名なものは、この曲のほかに、アントニオ・カルロス・ジョビンが作曲した「ディサフィナード」や「コルコヴァード」などの、英語版の作詞があります。モニカ・ゼタールンド(Monica Zetterlund )は、以前はモニカ・セッテルンドと表記されていました。1937年9月20日、スウェーデンのハーグフォルス生まれで、スウェーデンを代表する歌手兼女優です。両親も音楽家で、彼女もすでに10代から歌手として歌っていて、1965年には女優として、映画のプロモーションのため来日したこともあるそうです。モニカは、母国ではそれなりに知られていたようですが、彼女の名前が世界的に、しかもジャズ・ファンの間で有名になったのは、なんといっても1964年に録音されたアルバム、『ワルツ・フォー・デビイ / モニカ・ゼタールンド・ウィズ・ビル・エヴァンス』 がきっかけでした。北欧の当時無名に近い歌手がビル・エヴァンス・トリオをバックに歌っているというので評判になったということです。彼女は、この後も「ワルツ・フォー・デビイ」を録音しています。ちなみに、この曲名の日本語表記には「ワルツ・フォー・デビイ」というものと、「ワルツ・フォー・デビー」というものがあります。*****●ワルツ・フォー・デビイ Waltz For Debby作曲:ビル・エヴァンス(Bill Evans)スウェーデン語版作詞:ベッペ・ウォルゲルス(Beppe Wolgers)英語版作詞:ジーン・リーズ(Gene Lees)1964年、および1965年【英語版歌詞の訳】少女の夢の世界には人形とピエロと王子さまと大きな紫色のクマがいる私の大好きな少女は疲れきった すべての大人たちの心配げな顔など知らずに暮らす陽だまりの中 少女は踊る静かな音楽や そのあどけない心のどこかで輝きをつむいだ 歌にあわせてある日 あっけなく少女は大人になり 人形や王子さまや古びたクマから 離れていくそのとき 彼らは“バイバイ”ってささやきながら泣くだろうみんな彼女を恋しがるだろう私も きっと さみしくなるだろう
August 20, 2006
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『ワルツ・フォー・デビイ / ビル・エヴァンス』Waltz For Debby / Bill Evans録音日:1961年6月25日アメリカ、ニューヨークの「ヴィレッジ・ヴァンガード」にてライヴ録音Riverside[personnel]ビル・エヴァンス(p)スコット・ラファロ(b)ポール・モチアン(ds) [収録曲] 1.マイ・フーリッシ・ハート My Foolish Heart 2.ワルツ・フォー・デビイ Waltz For Debby [Take 2] 3.ワルツ・フォー・デビイ Waltz For Debby [Take 1](CD追加トラック) 4.デトゥアー・アヘッド Detour Ahead [Take 2] 5.デトゥアー・アヘッド Detour Ahead [Take 1] (CD追加トラック) 6.マイ・ロマンス My Romance [Take 1] 7.マイ・ロマンス My Romance [Take 2](CD追加トラック) 8.サム・アザー・タイム Some Other Time 9.マイルストーンズ Milestones 10.ポーギー(アイ・ラヴ・ユー、ポーギー)Porgy (I Loves You, Porgy) ----------これはもう、名盤として語りつくされてきた「超」がつく名盤です。ある有名なジャズ評論家の話ですが、かなり前に、日本で一番売れたジャズのレコードを調べようとしたところ、レコード会社には信頼に足る過去の資料がないため、結局は「たぶんこれが当社のセールス累計で一番売れたでしょう」という、数字的な裏づけのない調査結果に終ったらしいのですが、そのときの予測上の1位になったのがビル・エヴァンスの、この『ワルツ・フォー・デビイ』だったといいます。それは、マイルスやコルトレーンのような超巨人級の場合、人気盤は多く、1枚のアルバムに集中することは少ないのですが、日本人は特に「ピアノ・ジャズが好き」といわれるように、ジャズの中でも誰もが聴きやすく、とっつきやすいところから、「とりあえずなにか一枚」といったときに、『ワルツ・フォー・デビイ』を手にとる人が圧倒的に多いからだということのようです。ビル・エヴァンスには数多くの名盤があるにもかかわらず、この『ワルツ・フォー・デビイ』が圧倒的に指示されるという事実から、ジャズ・アルバムの最高にして究極の一枚と言えるでしょう。それもそのはず、このアルバムはジャケットがすばらしいこと、「ワルツ・フォー・デビイ」という人気曲が入っているということだけではなく、なによりも演奏内容がすばらしく、それらが全て形になった人間が創った芸術作品で、奇跡的と言ってもいいくらいのものです。冒頭の「マイ・フーリッシュ・ハート」を聴けば、もう、触れてしまうと壊れてしまうのではないかと思われるほどデリケート(繊細)で、メジャー・キー(長調)の曲なのに、どことなく暗く陰のある美の世界が広がり、その音につつまれ、心に響いてきます。リリカル(叙情的)で、デリケート(繊細)な音が、ファンタジック(幻想的)で、ロマンティックな世界に導いてくれます。そして、彼の音楽は、まさしく聴いている人の心を豊かにしてくれます。ピアノのビル・エヴァンス、ベースのスコット・ラファロと、ドラムスのポール・モチアンというビル・エヴァンス・トリオは、結成後1年半たった1961年6月25日に、ニューヨークの名門ジャズクラブ「ヴィレッジ・ヴァンガード」に出演し、この歴史的ライヴ録音が生まれました。このライヴから11日後の7月6日、天才ジャズ・ベーシストとして注目されていたスコット・ラファロは、自動車事故により、なんと25歳という若さで他界してしまいました。ニューポート・ジャズ・フェスティバルで、サックス奏者のスタン・ゲッツのグループに参加したあと、実家に戻り、友人と共に自動車でニューヨークへ戻る途中での事故だったといいます。ビルは、彼の死を電話で聞き、ショックで何も考えられなくなったと、後に語っていますが、このメンバーにめぐり合ったことによって、ようやく自分の音楽を作ることができたと確信していたときだけに、その落胆は尋常なものではなく、彼は長い間(おそらく一生)、この悲しみから立ち直ることができなくなるのです。・・・このアルバムは、まさに奇跡的なアルバムと言えることでしょう。
August 19, 2006
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『ポートレート・イン・ジャズ / ビル・エヴァンス』Portrait In Jazz / Bill Evans録音日:1959年12月28日Riverside[personnel]ビル・エヴァンス(p)スコット・ラファロ(b)ポール・モチアン(ds) [収録曲] 1.降っても晴れても Come Rain Or Come Shine 2.枯葉 Autumn Leaves [Take 1] 3.枯葉 Autumn Leaves [Take 2](Mono Version)4.ウィッチクラフト Witchcraft 5.ホエン・アイ・フォール・イン・ラヴ When I Fall In Love 6.ペリズ・スコープ Peri's Scope 7.恋とは何でしょう? What Is This Thing Called Love? 8.スプリング・イズ・ヒア Spring Is Here 9.いつか王子様が Someday My Prince Will Come 10.ブルー・イン・グリーン Blue In Green [Take 3] 11.ブルー・イン・グリーン Blue In Green [Take 2]](Mono Version) ----------マイルス・デイヴィスは1959年のアルバム『カインド・オブ・ブルー』で、新しいジャズのスタイルである「モード・ジャズ」を完成させた。そのレコーディングに参加したビル・エヴァンスの貢献度は絶大だったが、エヴァンス自身もそれによってヒントをつかむことになる。同年末、ベースのスコット・ラファロとドラムスのポール・モチアンというメンバーで結成されたビル・エヴァンス・トリオが、この方法を自らのトリオで実践したものが、このアルバム。曲目は以前より演奏するスタンダードナンバーだが、アプローチにモードを応用してみたもの。簡単に言うと、メロディーのバックのコード進行というものを大きくとらえ、アドリブの可能性を広げるということ。ベースとドラムスは、これまでのピアノの伴奏というスタイルではなく、ピアノとともにからみ合う演奏で、アクロバット・サーカスのごとく、三者が一体となって絶妙なタイミングで演奏していくことで、スリリングなジャズが誕生した名盤。 私が個人的に、最も好きな曲がブルー・イン・グリーンだ。この世の音楽とは思えないほど美しい曲。アルバム『カインド・オブ・ブルー』にも収録され、それでは作曲者がマイルス・デイヴィスになっているが、本当はビル・エヴァンスが書いた曲だと言う。エヴァンスは、生前「なぜ、この曲をマイルスが“自分が作曲した”と言い張るのかわからない」と言っていた。ブルー・イン・グリーンは、私の葬式のときに流してもらいたいと思う。
August 18, 2006
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『カインド・オブ・ブルー / マイルス・デイヴィス』 Kind 0f Blue / Miles Davis 録音日:1959年3月2日(1~3)1959年4月22日(4、5)Columbia[personnel]マイルス・デイヴィス(tp)ジョン・コルトレーン(ts)キャノンボール・アダレイ(as)ビル・エヴァンス(p)ウイントン・ケリー(p)ポール・チェンバース(b)ジミー・コブ(ds) [収録曲] 1.ソー・ホワット (So What) 2.フレディ・フリーローダー (Freddie Freeloader) 3.ブルー・イン・グリーン (Blue In Green) 4.オール・ブルース (All Blues) 5.フラメンコ・スケッチ (Flamenco Sketches) ----------1950年代末、それまでジャズの中心的な演奏スタイルだったハードバップから、マイルス・デイヴィスが、「モード奏法」と呼ばれる新しいジャズの演奏スタイルを確立したと言われた、歴史的アルバム。
August 17, 2006
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ビル・エヴァンス(Bill Evans)アメリカの代表的なジャズ・ピアニスト。本名:William John Evans(ウィリアム・ジョン・エヴァンス)1929年8月16日、アメリカ、ニュージャージー州プレインフィールド生まれ。1980年9月15日午後5時ごろ、アメリカ、ニューヨーク・マンハッタン「マウント・サイナイ病院」にて死去。死因は肝硬変、気管支肺炎、出血性潰瘍によるもの。51歳。----------ビル・エヴァンスは、もっともよく知られているジャズ・ピアニストと言えるでしょう。彼のピアノの音は、リリカルで繊細な美しいガラス細工のような、美を最も価値のあるものと考え、美を追求した、「耽美(たんび)的」といわれるもので、独自のエヴァンス・ピアノ・スタイルを作り出し、そのあまりの美しさは、この世の音ではない、まるで天国から聴こえて来るのではないかと思えるほどのものです。また、ジャズの真髄であるアドリブでも、ベースのスコット・ラファロとの静かなのに熱気あふれるインタープレイは、まさにアクロバットサーカスでも見ているようなもので、絶妙としか言いようがありません。彼の計算されたハーモニーや、スタンダードなジャズの代表曲における独特の解釈、シンコペーションやポリリズムを利用したメロディーラインなどは、ハービー・ハンコック、チック・コリア、キース・ジャレットなどのピアニストにも影響を与えている他、多くの若い世代のピアニストに支持され、ジョン・マクラフリンなどのギタリストにも影響を与えています。天才ジャズマンにはいろいろな奇行のエピソードが多いのですが、エヴァンスの場合は、髪をキチンと横分けにし、あまり感情を表に出さないもの静かで、ストイックな人だったようです。静かに頭を下げてをピアノを弾くスタイルも、独特のものです。彼は一貫して「アコースティック・ピアノ・ジャズの美学」を徹底的に追求し、特に、ピアノ・トリオによるベースとドラムとのインタープレイに新しい演奏スタイルを確立しました。ジャズがロックと融合していった1970年代にあっても、その姿勢は最後まで変わりませんでしたが、相次ぐ身の回りの不幸などもあって、麻薬への依存度も高くなってしまい、そのため身体はむしばまれ、ついには演奏中に倒れて、51歳という若さで他界してしまいました。----------【ビル・エヴァンスの言葉】「ぼくは苦労して形をなしたものを信用するんだ。」「とくにぼくは自分のやることでも、できればトリオ編成でやることでも歌わせたいあの素晴らしい歌うという感覚は絶対になくてはならないんだ。」「自分の、この耳で聴きたいと思うものを弾きたい。」「修練と自由は、とても繊細に混じり合わなくてはならない。音楽はすべてロマンティックだとぼくは信じるけれど、感傷的になりすぎてはロマンチシズムもわずらわしい。でも、修練によって処理されたロマンテチシズムは、最も美しい部類の美なんだ。」「アート(芸術)一般についてのぼくの信念は、それが心を豊かにするものでなければならないということだ。それは、一人の人間に、それがなければ発見できない、彼自身のある部分を見せることによって、スピリチュアルに教示できるものであるべきだということだ。自分自身のある部分を発見することは簡単だ。しかし、アートによって人は自分ですら知らなかった自分指針の一部を知らされるんだ。それこそが、アートの使命なんだ。アーティストとは、自分の中に多くの人に通じる何ものかを見出さなくてはならなし、それを自分以外の人たちにわかってもらえる言葉に置き換えることができる人のことだ。そして、不思議にも、アートはこのことを人に、その人が気がつかないうちに伝えられる。そして豊かにする。それこそが、音楽の役割だ。」
August 16, 2006
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【昭和歌謡の名曲】『夜と朝のあいだに』昭和44年(1969年)10月1日作詞:なかにし 礼(なかにし れい)作曲:村井 邦彦(むらい くにひこ)歌:ピーター(ぴーたー)●歌詞----------この曲は、まさに衝撃としか表現できないもので、「ピーター」が歌手として、初めてお茶の間に登場した曲でした。この曲は、「夜と朝のあいだに ひとりの私 天使の歌をきいている 死人のように」 と始まり、最後は、 「鎖につながれた むく犬よおまえも静かに眠れ」という、なかにし礼の、このスゴミのある歌詞に、歌のバックにコロコロと流れるジャージーなピアノのサウンド、ピーターの女の子のようなルックスからはとても想像がつかない独特の甘い低音。これらは、それまでの歌謡曲とは一味違うセンスの曲として、強烈な印象を与えました。ちなみに“夜と朝”は、ギリシア語で“女と男”という意味を兼ねるそうです。とすると、このタイトル「夜と朝のあいだに」というのは、ピーターという存在を考えると、なんとも深い意味がある曲と言えそうです。この曲は、のちに郷ひろみや山口百恵などをプロデュースする酒井政利(さかいまさとし)が、 1998年に設立されてまもないCBSソニーのディレクターとして活動し始めた時のもので、作曲は、のちに赤い鳥、ユーミン、イエローマジックオーケストラなどを世に送り出す村井邦彦が、作詞は、売れっ子作詞家の、なかにし礼が受け持ち、この3人の天才クリエイターが、ピーターというユニークなキャラクターのために作り出し、見事に成功した作品だったというわけです。ピーターは、昭和44年(1969年)、ホモセクシュアルの世界を撮った映画、「薔薇の葬列」の主役の美少年役で衝撃的なデビューをし、その妖艶な魅力で注目されました。これがきっかけで、同年10月1日に、この曲「夜と朝のあいだに」で、新興レコード会社のCBSソニーから歌手としてもデビューし、11月3日にオリコンチャートのトップ20にランクインし、最高9位まで昇るヒットになりました。昭和44年、第11回日本レコード大賞最優秀新人賞と、ゴールデンアロー賞を受賞しました。ピーターが、この曲で初めてテレビに登場したとき、見た目は女の子のようにかわいらしいのに、歌う声はものすごく男っぽい低音というギャップが、当時とても鮮烈なものでした。CBSソニーが歌謡界に新旋風を巻き起こす「アイドル・ポップス」の先駆けとなる、元祖ビジュアル系と言える人でしょう。「ピーター」という芸名は、オカッパ頭に白いタイツ姿でゴーゴークラブに出入りしていたころ、「ピーターパン」と呼ばれていことから「ピーター」になったということです。----------●ピーター(ぴーたー)本名:池畑 慎之介(いけはた しんのすけ)愛称:ピー昭和27年(1952年)8月8日、大阪府生まれ。父は日舞の家元。3歳から舞踊の舞台に立つ。中学で家出をし、最初の家出はすぐ呼び戻されたが、高1の時に再び単身上京。六本木のゴーゴークラブでゴーゴーボーイをする。作家の水上勉(みなかみつとむ)のパーティー会場でスカウトされる。昭和44年(1969年)に映画デビューし、同年「夜と朝のあいだに」で歌手デビュー。アイドル歌手として売れっ子になったピーターも5、6年たつと「やらされている」意識が強まって、「このままでいいのか」と行き詰まりを感じたと言う。そして、事務所をやめて独りアメリカへ渡る。「自分のやりたいこと、やれることが何かあるはずだと…。逃避という感じでしたね」と彼は当時のことを言う。帰国後、舞台中心の俳優になったが、演技に開眼したのは故 黒沢明監督の映画『乱』の道化役に起用されたことから。「ゼロからシゴかれたけれど、それまで着ていた縫いぐるみを脱がしてもらったという感じがした。そのころ、役者名を池畑慎之介にしようと思っていたので先生に言ったら『ピーターがいいよね』ってあっさり否定された」と言う。池畑とピーターを使い分けるようになったのはこの映画『乱』の後からで、役者としてドラマ、舞台、映画に出るときは池畑、レビューや歌を歌うときはピーターを名乗っている。現在まで、ピーターと本名の池畑慎之介と二つの名前を使い分けて映画やテレビで活動。吉村流名取の吉村雄秀(よしむらゆうひで)の名も持っていたが、父の死後返上した。女装姿でバイセクシャルを公言するなど、ユニセックスの先駆者としても知られている。
August 15, 2006
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【昭和歌謡の名曲】『時には母のない子のように』昭和44年(1969年)2月21日作詞:寺山 修司(てらやま しゅうじ)作曲:田中 未知(たなか みち)歌:カルメン・マキ(かるめん まき)●歌詞----------CBSソニー(現在ソニー・ミュージックエンタテインメント)は、1968年に設立されたばかりの新興レコード会社でした。1969年から邦楽アーティストを発掘し、邦楽レコード部門の制作を開始します。そして、その後、山口百恵などの「アイドル・ポップス」というものを作り出し、それまでの歌謡曲の流れを大きく変えることになります。その中心的人物の一人となるCBSソニーのディレクター酒井政利(さかいまさとし)は、寺山修司が率いる劇団「天井桟敷(てんじょうさじき)」の劇団員の中の一人の少女に注目しました。その少女は、日本名を伊藤牧(いとうまき)、本名はMaki Annette Lovelace(マキ・アネット・ラヴレース)と言いました。彼女は、アイルランドとユダヤの血を引くアメリカ人の父と、日本人の母との間に、神奈川県鎌倉市に生まれました。 1968年、都内ミッションスクールを高校2年で中退してまもないころ、たまたま友人に連れられて行った寺山修司の演劇実験室「天井桟敷」の演劇『青ひげ』公演にいたく感銘し、すぐに入団。8月に、新宿厚生年金会館にて、『書を捨てよ、町へ出よう』で初舞台を踏んだところを、当時CBSソニーのディレクターであった酒井政利に認められたということです。 そして、1969年2月21日に、CBSソニーより、カルメン・マキの名前で「時には母のない子のように」で歌手デビューしました。芸名の「カルメン・マキ」は、「天井桟敷」の舞台の練習中にたまたま思いついたものだといいます。この曲は、作詞が寺山修司、作曲は田中未知によるものです。「地下」を意味するアンダー・グラウンドを略して「アングラ」と言いますが、これは、1960年代末から70年代に流行した言葉で、反体制、反商業主義、前衛芸術を意味していました。ベトナム反戦、安保反対、学生運動という激動のこの時代に支持された、詩人で劇作家の寺山修司。寺山修司はアングラ劇団の「天井桟敷」を率いていて、アングラの中心的人物と言えます。田中未知なる女性は、作曲を専門にしているのではなく、実は「天井桟敷」のメンバーであり、寺山修司の秘書兼マネージャーをしていた人です。カルメン・マキは、この歌を裸足(はだし)で歌い、17歳とは思えない妖艶な雰囲気と歌唱力、その投げやりな歌いっぷりや、衝撃的な歌詞が話題を呼び、「本当に親のいない子供にとっては残酷な歌」と言う批判の声があがったものの、1969年3月31日から7月14日まで、16週間オリコンチャートのトップ20にランクインし、最高2位まで昇る大ヒットになり、CBSソニー会社設立以来、初めてのミリオンセラーを記録しました。当時トレードマークだったストレートのロングヘアは、実はヘア・ピースで、本当はカーリー・ヘアだったと言います。同年のNHK紅白歌合戦への出場を果たしますが、カルメン・マキは、紅白歌合戦で、裸足でジーンズを履いて歌った初めての歌手となりました。「時には母の ない子のようにだまって海を みつめていたい時には母の ない子のようにひとりで旅に 出てみたいだけど心は すぐかわる母のない子に なったならだれにも愛を 話せない」この曲がヒットした当時、「この歌は放送しないでくれ」という声がテレビ・ラジオ局に寄せられたと言います。本当に親をなくした子供や、子供をなくした親にとっては、つらく聞こえたようです。この歌詞は、普通に解釈すると「自分は何不自由のない境遇にいるけれども、時には幸薄い人間であるかのような気分に浸ってみたい」という歌だと思えるものですが、本当は、母親からの息苦しい束縛から逃れたいのに逃れられない自分が現実に体験した、「母(はは)地獄」の歌だということです。寺山修司の母親は、ほとんど近親相姦のように寺山が好きだったと言います。結婚した寺山が、妻の女性とアパートで接触しているだろうということに耐えられず、嫉妬のあまり、毎晩のようにアパートの近くに行き、時にはドアに石をぶつけたりしていたそうです。彼の母親は寺山を、何が何でも自分が所有していたいという欲望の対象にしていたのだそうです。そのことから、この歌は寺山の母親に対するメッセージのようなもので、「僕はお母さんが好きだ。しかし時には母のない子のように一人で、だまって海を見つめていたい。ひとりで旅に出てみたい。」「お母さんとだけ語るのではなく、誰かに自分の思いをぶつける 長い手紙を書いてみたい。静かな良い子でいることから抜け出して、大きな声で叫んでみたい。」男の子というものは、お母さんが大好きでも、時にはお母さんから独立したくなるのだと言いたかったのかも知れません。しかし最後に「だけど心は すぐかわる。母のない子になったなら だれにも愛を話せない」と、結局は母の下に戻るのです。この歌の主人公は、時々母親から逃げたくなるけれども、結局、僕はお母さんのものだよと、息子が好きで狂いそうな母親のお守りをしている歌といった感じがします。それから、気になるのが、この曲名は有名な黒人霊歌の 「Sometimes I Feel Like a Motherless Child 」(時には母のない子のように)と同じ曲名だということです。この歌の内容は、「自分は母親のいる故郷からあまりにも遠く離れていて、ときどき母のない子になったような気持ちになる」というものです。----------これ以降も個性派歌手として活動し、「山羊に引かれて」や、「私が死んでも」、「戦争は知らない」などの曲がヒットしました。しかし、「時には母のない子のように」のヒットで、CBSソニーの社長から「ごほうび」としてレコードプレイヤーとLPレコード数枚をプレゼントされた時、そのLPレコードの中にジャニス・ジョップリンのものがあり、それを聴いたマキは大きな衝撃を受け、1970年に、突然のロック転向を表明することになります。1972年に、ロックバンド「カルメン・マキ&OZ(オズ)」を結成します。1974年にポリドールからシングル「午前一時のスケッチ」でデビューし、翌1975年1月にはファーストアルバム「カルメン・マキ&OZ」をリリースします。高い音楽性と完成度、そしてマキの歌唱力は高い評価を得、「ロックは売れない」と言われていたこの時代に、このアルバムは10万枚を超える大ヒットを記録し、日本のロック・シーンに大きな影響を与えることになります。(私事ですが、ちなみに私は「カルメンマキ&OZ」の大ファンでした。)当時の日本のロックは、日本の音楽業界ではほとんど相手にされていなかったので、これは快挙とも言えるものです。また、同年リリースされたサディスティック・ミカ・バンドの「黒船」とともに、当時の日本のロックの最高峰とする評価もあります。特にこのアルバムに収録されている約12分にも及ぶ曲「私は風」は、のちにさまざまな歌手、ミュージシャンにカバーされ、その中では中森明菜のものが有名です。----------●カルメン・マキ(かるめん まき)本名:Maki Annet Loverace(マキ・アネット・ラヴレース)日本名:伊藤 牧(いとう まき)昭和26年(1951年)5月18日、神奈川県鎌倉市生まれ。アイルランド人とユダヤ人の血を引くアメリカ人の父と、日本人の母との間に生まれる。 1969年2月21日、CBSソニーより、カルメン・マキの名前で「時には母のない子のように」で歌手デビュー。大ヒットし、CBSソニー初のミリオンセラーとなる。同年のNHK紅白歌合戦に、最初で最後の出場を果たす。これ以降も個性派歌手として活動。「山羊に引かれて」や、「私が死んでも」、「戦争は知らない」などのヒット曲が出た。1970年に、突然のロック転向を表明する。ブルース・クリエイションとの活動を経て、ロックバンド「カルメン・マキ&OZ(オズ)」を結成。1975年にリリースされたファーストアルバム「カルメン・マキ&OZ」は10万枚を超える大ヒットになり、日本のロック・シーンに大きな影響を与えることになった。その後は、ロックのライブ活動を中心に行ってきたが、最近はアコースティックな演奏スタイルも取り入れ、音楽の幅を広げている。
August 14, 2006
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昭和50年代始めの夏、私は新宿のビヤガーデンの専属バンドマンだった。今はなくなってしまったのだろうが、このころは、多くのデパートの屋上にはビヤガーデンがあり、生バンドが演奏をしていた時代だった。あちこちから、バンドの演奏の音が聴こえてきた。そして、必ずゴーゴーガールのグループがいて、バンドの演奏にあわせて踊っていた時代だった。そのころ私は、神奈川県の、小田急線沿いに住んでいた。ビヤガーデンは10時くらいには終り、そのまま帰ってきてしまうので、新宿の本当の夜は知らなかった。ある日、新しいプロダクションのマネージャーに合うため、夜中の1時すぎごろに、新宿で待ち合わせをした。夜中の12時を過ぎれば、東京でも道路はすいているだろうと思い、軽い気持ちで車で新宿へ行った。すると、思っていたのとは大違い、午前0時を過ぎているというのに、3車線ある道路は大渋滞。とても信じられなかった。午前4時を過ぎた頃、やっと一息つく感じだったと思うが、それもつかの間、7時になれば今度は朝のラッシュが始まる。そのときの驚きは大きかった。「新宿は眠らない街」だということをまざまざと感じたものだった。その後、私は新宿に住むことになり、新宿の街とともに過ごす日々を送った。今ではなつかしい街、新宿。
August 14, 2006
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【昭和歌謡の名曲】『圭子の夢は夜ひらく』昭和45年(1970年)4月25日作詞:石坂 まさを(いしざか まさお)作曲:曾根 幸明(そね こうめい)歌:藤 圭子(ふじ けいこ)●歌詞----------この曲の原曲は、練馬少年鑑別所で歌われていた曲を、曾根幸明が採譜・補作したものなので、本当の作者は不明です。また、歌詞は異なる様々なバージョンがあり、2006年2月現在、JASRAC(ジャスラック)には20人を超える作詞者による、異なるバージョンが登録されています。レコードでは昭和41年(1966年)に、園まりがポリドールから、緑川アコがクラウンレコードから、藤田功と愛まち子がテイチクから、バーブ佐竹がキングレコードからという4つのレコード会社の競作で『夢は夜ひらく』という曲名で発売されたのを始めとして、その後、多くの歌手にカバーされています。藤圭子が歌った『圭子の夢は夜ひらく』は、その『夢は夜ひらく』をカバーしたもので、石坂まさをにより新しい歌詞がつけられ、昭和45年(1970年)4月25日にリリースされました。チャートで、40週連続1位、76万枚以上を売上げる大ヒットになりました。その同じ年、昭和45年の日本レコード大賞大衆賞を受賞しました。また、この年から新しく設立された日本歌謡大賞の第1回日本歌謡大賞を受賞しました。1999年に、この藤圭子版の作詞者、石坂まさをの作詞・作曲家生活30周年を記念し、藤圭子版のこの『圭子の夢は夜ひらく』の歌碑が、東京都新宿区の花園神社に建てられました。また、1967年には、この曲をモチーフとした映画も公開されています。----------「親なんて、殺してしまいたい。」これは、作詞・作曲家でありプロデューサーの石坂まさをに天性の才能を見出された藤圭子のデビュー前の時の、阿部純子(あべじゅんこ)が、呟いた言葉だそうです。藤圭子は、今は「宇多田ヒカル」の母として有名ですが、昭和44年(1969年)、17歳のとき「新宿の女」で“演歌の星を背負った宿命の少女”というキャッチコピーで、センセーショナルなデビューをして注目され、大ヒットしました。そして、藤圭子の名前を一躍全国的に知らしめた曲が、デビュー翌年、昭和45年(1970年)に歌われたこの『圭子の夢は夜ひらく』でした。「十五、十六、十七と、私の人生 暗かった」この曲は、弱冠18歳の少女が歌ったものとは信じられないほどの「スゴミ」が漂うものです。人形のようにきれいな顔立ちなのに、無機質で突き放したような醒めた表情、涙も枯れ果てたかのような渇き切った歌声に、聴いているものの身も心も凍り付いてしまうような気持ちになってしまいます。淡々と自分の身の上の不幸を歌うかのような藤圭子の姿を見て、「この少女にしあわせな日が訪れることがあるのだろうか?」という思いで、当時の彼女を見ていた人々も少なくなかったのではないでしょうか。また、不幸の生い立ちをそのまま投影させたかのような彼女の歌に、自分の境遇を重ねて涙しながら聴いた人も多かったことでしょう。そんな時代の共感を呼ぶ力が、この曲を大ヒットに結びつけたように思います。ときは1969年から70年にかけて、ベトナム戦争、全共闘の学園紛争など国内外で激動の時代でもありました。こうして、藤圭子は「薄幸の若手演歌歌手」として一世を風靡しました。「演歌」という言葉が世の中に定着したのも、この曲の社会現象によるものだと言います。1994年10月に、毎日新聞夕刊に連載された記事「うたものがたり 新宿の女」の中で紹介されたという、藤圭子の言葉は、「人生って苦しいことの方が多いけど、歌があったからまあいいっか、と言えるような死に方をしたい」というものだったそうです。----------【参考】『夢は夜ひらく』を発売した歌手園まり(1966年、作詞:中村泰士、富田清吾) 緑川アコ(1966年、作詞:水島哲) 藤田功、愛まち子(1966年、藤田功は作曲者の曾根幸明)(作詞:大高ひさを) バーブ佐竹(1966年、作詞:藤間哲郎) 藤圭子(1970年、曲名は『圭子の夢は夜ひらく』、作詞:石坂まさを) 三上寛(1971年、作詞:三上寛。ちなみに三上は園まりが歌った歌詞でも歌っている。 三上版は放送禁止歌だったが、ラジオ番組「伊集院光 深夜の馬鹿力」で放送されたことがある) 根津甚八(1976年、曲名は『甚八の夢は夜ひらく』、作詞:かぜ耕士) あさみちゆき(2004年、曲名は『ちゆきの夢は夜ひらく』、作詞:吉田旺) 三波伸介とてんぷくトリオ(曲名は『わしらの夢は夜ひらく』、作詞は長谷邦夫) 梶芽衣子(曲名は『芽衣子の夢は夜ひらく』、作詞:吉田旺) 香西かおり(曲名は『かおりの夢は夜ひらく』、作詞:市川睦月) 八代亜紀(曲名は『亜紀の夢は夜ひらく』、作詞:高月ことば) 門倉有希 梅宮辰夫 水原弘(曲名は『おミズの夢は夜ひらく』、作詞:浅井英雄) クロード・チアリ 翔(作詞:翔) ちあきなおみ(曲名は『ちあきの夢は夜ひらく』、作詞:西沢爽) 田端義夫(曲名は『バタヤンの夢は夜ひらく』、作詞:山野あきら) 五木ひろし(曲名は『ひろしの夢は夜ひらく』、作詞:岡田冨美子) 牧村三枝子(曲名は『ミーコの夢は夜ひらく』、作詞:山崎ハコ) 真木ひでと(曲名は『ひでとの夢は夜ひらく』、作詞:山口洋子) 浜村美智子(曲名は『美智子の夢は夜ひらく』、作詞:野村耕三) JOJO広重(曲名は『生きてる価値などあるじゃなし~JOJO広重の夢は夜ひらく~』、作詞:三上寛、JOJO広重) 加賀城みゆき(曲名は『みゆきの夢は夜ひらく』、作詞:杉たくみ) 青江三奈(曲名は『三奈の夢は夜ひらく』) 前川清(作詞:山口あかり) 藤竜也(作詞:小谷夏(久世光彦)) 犬神サーカス団(2001年、曲名は『凶子の夢は夜ひらく』) 美空ひばり(園まりが歌った歌詞でカバー) 大月みやこ(バーブ佐竹が歌った歌詞でカバー) 美川憲一(緑川アコが歌った歌詞でカバー) 天童よしみ(藤圭子が歌った歌詞でカバー) 荒尾正伸とオールスターズ(藤圭子が歌った歌詞でカバー) 電車(大槻ケンヂ)(藤圭子が歌った歌詞でカバー) 愛川欽也(曲名は『キンキンの夢は夜ひらく』、作詞:石坂まさを) 橘麻紀(曲名は『麻紀の夢は夜ひらく』、作詞:石坂まさを) 神崎舞(曲名は『舞の夢は夜ひらく』、作詞:石坂まさを) 山谷初男(曲名は『山谷の夢は夜ひらく』、三上寛が歌った歌詞でカバー) G3 Factor(曲名は『G3の夢は夜ひらく』) etc.----------●藤 圭子(ふじ けいこ)本名:安部 純子(あべ じゅんこ)、宇多田 純子(うただ じゅんこ)昭和26年(1951年)7月5日、岩手県一関(いちのせき)市生まれ、北海道旭川市育ち。藤圭子は、現在では宇多田ヒカルの母親としての知名度の方が高くなってしまった感もある。浪曲師の父母を持ち、一家は主として北海道、東北地方を巡業してまわっており、兄ものちに歌手になっている。本人も歌唱の才能を開花させ10歳の時、三原純子(みはらじゅんこ)の名前で舞台に立った。中学3年生の時に北海道岩見沢(いわみざわ)市の娯楽センターの専属歌手となる。1966年(昭和41年)中学校の卒業式を間近に控えた2月、岩見沢の「雪祭ショー」に予定していた歌手が辞退し、代役で出演した。この時に居合せた北海道出身の作曲家、八洲秀章(やしまひであき)に見出されて上京。1968年の春、島純子(しまじゅんこ)の名前で初めてレコードを出す。その年の秋に作詞・作曲家の石坂まさをと出会い、翌1969年にRCAビクターと専属契約。同年9月に藤圭子(ふじけいこ)の名前で「新宿の女」を制作してメジャーデビューし、これが37万枚も売れる大ヒットになった。翌1970年には「女のブルース」、そして彼女の代表作ともいうべき「圭子の夢は夜ひらく」を発表。この第二作、第三作ともに75万枚を超える特大ヒットになる。その後も彼女は「命預けます(レコード大賞大衆賞受賞)」、「みちのく小唄」、「京都から博多まで」などのヒット曲を次々に出していった。私生活では1971年にクールファイブのボーカル前川清と結婚。しかし、わずか1年で離婚することになった。クリスチャンのため離婚の許可を取るためにバチカンを訪れている。その後も地道な活動を続けたが、1979年10月に引退を発表。日本を離れハワイ、そしてニューヨークと移り住んだ。1981年には、いったん日本に戻り、「藤圭似子」の名前で歌謡界に復帰したが、すぐまた日本を離れ、アメリカに戻ってる。そして1982年に、アメリカで宇多田照實(うただてるざね)と結婚。翌年の1983年に、長女、光(ひかる)(宇多田ヒカル)を出産。1984年に、名前をまた藤圭子に戻している。1990年頃から、小学生の光と夫・照實の3人で「U3」の名前で現地で活動を始める。1995年に、インディーズで「U3」のレコードを制作。その頃から光の日本デビューの計画も動き始めていたようだが、仲介役の人が、あるレコード会社に話を持ち込んだところ、「藤圭子の娘?そんなの売れるわけないでしょ」と言われてテープも聴いてもらえなかったとのこと。(この担当者はバカなやつだ。)←私情1998年、宇多田ヒカル、日本デビュー。同年、藤圭子はレコード会社との専属契約も解除して完全引退し、今は娘の活動を見守る良き母に徹していると言う。
August 13, 2006
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●藤圭子のデビューの当時の話。■「新宿の女」 レコード・デビュー石坂まさをは、安部純子(藤圭子)のための曲を作った。出来上ったばかりの「新宿の女」は、まさに純子の生き様そのものが歌になったようなものだった。端正な顔立ちの17歳の少女はギターを抱え、思いも寄らぬハスキーで凄味のある声で歌った。「これはスゴイ!」まさに新宿の街の呻きが迫ってくるような「情念」がある。それに「美少女の流し」というキャラクターも新鮮だ。RCAビクターからのレコード・デビューが決まった。となると早急に芸名を決めなければならない。石坂は純子を本格的にプロモートするために「日本音楽放送(有線)」などの資金協力を得て、自ら「藤プロダクション」を設立した。社長は日本音楽放送の工藤宏。そこで工藤の「藤」と、工藤の妹である桂子にちなんで芸名は「藤圭子」に決まった。そして、「これからはテレビを始めとするマスメディア的なイメージ戦略が必要だ。」と考え、石坂とRCAレコードのディレクター榎本は協議を重ねた末、藤圭子の端正な顔立ちのわりに、痩せすぎの体型と大人の歌を歌うには色気が足りないことを補う為に、黒のベルベットのパンタロンスーツと対照的なコントラストの真っ白なギターを持たせて売り出すことにした。キャッチ・フレーズは「演歌の星を背負った宿命の少女」とした。こうして、藤圭子のデビュー曲「新宿の女」の発売日は9月25日に決まった。それは昭和44年の夏のこと。■伝説の「新宿25時間キャンペーン」藤圭子が「新宿の女」でレコード・デビューしたのは昭和44年(1969年)の9月25日だった。しかし、発売当初は思うように売れなかった。「RCA」は新興のレーベルなので思うような宣伝予算が確保できない。「それなら自分でやるだけさ」ということで伝説の「新宿25時間キャンペーン」が行われた。藤圭子は元々、この曲の作者である石坂まさおが、自ら発掘してその素質に惚れ込み、プロデュースはもちろん、マネージャー役までかって出て育て上げた歌手。その為に「日本音楽放送(有線)」などの資金協力を得て自前の「藤プロダクション」を設立した。大手のプロダクションでさえも、実績のない、それも無名の新人を売り出すのは至難の業、毎年300人~500人がデビューする中で、世間に名前が知られ、活躍が出来るのは5%に満たない世界だ。ましてや藤圭子一人だけの為の新興プロダクション。いくら作詞家として人脈のあった石坂まさおといえど、大きな賭けであったことは間違いない。そこで考えついた売出し作戦が、藤圭子が「流し」をしていた経験を生かしての「新宿25時間キャンペーン」。つまり、25時間ぶっ通しで流して歩くという驚くべきキャンペーン計画だった。昭和44年(1969年)11月8日(土)朝9時「新宿25時間キャンペーン」は西向天神からスタートした。石坂は事前に各雑誌社、新聞社、テレビ・ラジオ各局に周到に根回しをしていた。ただ流して歩くだけではインパクトは弱いので、メディアを巻き込んでの大々的なキャンペーンにしたかったのだ。スタート地点となった西向天神には、かねてより懇意にしている故林家三平とその一門が駆けつけ、出陣式を行った。(この中に林家ペー・パー子もいた)かくして藤圭子と石坂まさお、それにRCAレコードの担当ディレクター榎本襄と、蒲田の「スター楽器」の従業員、斉藤信之の一行は新宿の雑踏の中に繰り出して行った。新聞20紙、週刊誌16誌、ラジオ13番組、テレビ7番組が後に続く。レコード店から歌声喫茶、美容院にまで飛び込んで歌いまくる。途中、フジテレビ「歌のスターパレード」に出演。夜になると、バー、スナック、酒場などをまわり、午前0時を過ぎる頃にはほとんどネオンも消えていった。さらに深夜になると新宿コマ劇場前の噴水広場で歌った。やがて夜明けが近くなり、人通りも少なくなると、オールナイトの映画館に入り、幕間に歌わせてもらう。夜が明けると24時間営業の食堂に入って歌う。それにしてもさすがに流しで鍛えたノド、すでに疲労は限界にきていたはずだがまだ声は出ている。石坂まさおは、その凄味さえ感じさせる少女の根性に、今さらながらおどろいたという。翌9日午前10時、ようやく長かった「新宿25時間キャンペーン」は終った。密着取材をしたスポニチは、このドキュメントを月曜日の芸能面にぶち抜きで掲載した。タイトルは「流し、25時間!スターへの一念、このモーレツ少女、新宿族に訴える」というものだった。70年安保をひかえ、騒然としていた「眠らない街、新宿」の「眠らない美少女、藤圭子」。GSや反戦フォーク全盛の中、演歌の藤圭子は「新宿」の街に溶け込み、彼女がスターへと駆上がる土台となった。
August 13, 2006
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シャラポアの、発言が問題になったと言う。シャラポアが、アメリカの大会に優勝したあとの記者会見で、記者の、「あなたはテニスをスポンサーまたはCMのためか、それともテニスのためにやっているか?」という質問に対して、「お金のためだ」と答えたということで、「私はお金のためにプレーする」という記事が、イタリアの新聞、ガゼッタ・デッロ・スポルト紙に掲載された。アメリカのメディアはシャラポアの、この発言に対して良くないことだと批判をした。ヨーロッパでは、本当に思っていることを勇気を持って言ったということを評価しているという。「お金はだいじだよ~♪」これは「愛か、お金か、どちらをとるか?」というのと同じようなことで、単純にそんなことを比べること自体、ナンセンスなことじゃないのかなあ。
August 12, 2006
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このようなニュースは、報道されていることがすべて本当のことだとは思えない。どうしても、このニュースのウラには何があるのかを考えてしまう。本当のことは何なのか?われわれ一般庶民にはわからないことだ。
August 11, 2006
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「ジャポニカロゴス」を読んで初めて間違いだと知った言葉がある。この本の中にある、漢字の読みや成り立ち、方言などの話は、「ほうほう」と、おもしろく読んでいられるが、「会話の中の間違い日本語」については笑ってはいられないものが多くて、普段なにげなく使ってしまっている言葉に間違いがあることを知って、はずかしい気持ちになる。よく、言葉を丁寧に言おうとしたり、敬語を使おうと思ったときに間違った日本語になってしまうことがある。ファミレス・コンビニ言葉を聞くたびに、「おかしな言い方だな」と笑っていたが、これも言葉を丁寧に言おうとしたことで生まれてしまったことになるだろう。しかし、他人のことを笑っていられない。私自身、よく使っていた言葉に、「申し訳ありませんが、よろしくお願いします。」というものがある。しかし、この「申し訳ありません」とか「申し訳ございません」という日本語は、実は存在しないというのだ。相手にあやまるとき、礼を言うとき、依頼するときに使う言葉に、「すまない(済まない)」がある。それを丁寧に言うと「すみません(済みません)」となるが、それよりも、もっと丁寧に言うものに「申し訳ない」という言葉がある。そして、それをさらに丁寧に言おうとして「申し訳ありません」とか「申し訳ございません」と言ってしまう。「申し訳ない」という語を「もうしわけ(申し訳)+ない」に分けて考えてしまうのでこうなってしまうのだが、それは間違いで、正しくは「もうしわけない」で一つの語になる形容詞なので、切り離して使うことはできない。これは「あぶない(危ない)」という語と同じことで、これを考えてみるとわかるが、「あぶありません」とか「あぶございません」などとは言わない。結局、「もうしわけない」を丁寧に言う場合は、「申し訳ないことです」とか「申し訳なく存じます」、「申し訳なく存じ上げます」または、「申し訳のうございます」と言うのが正しい日本語だということだ。これと同じようなものに「とんでもない」という言葉がある。これも「とんでもない」で一つの語になるものなので、「とんでもありません」とか「とんでもございません」などという言葉は存在しない。正しくは「とんでもないことです」、「とんでもないことでございます」ということになる。日本人なのに日本語を知らないというのは、はずかしいことだということを感じる。
August 11, 2006
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「ロゴス」とは、ギリシア語で、「言語」、「言葉」、「倫理」、「心理」そして、万物の出発点である『神のことば』を意味するという。フジテレビで放送している「ジャポニカロゴス」の本が発売になった。これは「現代日本人必携の新しい辞書だ!!」として、表紙には「ジャポニカロゴス」とともに「国語辞典【第一版】」と書かれている。中でも、「会話の中の間違い日本語」というところがおもしろい。問題になったファミレス言葉、コンビニ言葉(ファミコン言葉)としてよく使われた、「○○円“から”、お預かりします」とか、「ご注文の品は、こちら“のほう”で“よろしかった”でしょうか?」などもヘンな日本語だが、普段正しいと思って使っている会話の中にも、意外な間違いが潜んでいる。日本語は難しい。
August 10, 2006
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昨日、テレビで日本の童謡の歌詞についてやっていました。童謡の歌詞には奥深いものがあります。「赤とんぼ」は、日本の代表的な童謡の一つで、夕方の赤とんぼからの追憶を歌っているものです。子供の頃はなにげなく歌っていましたが、歌詞をよく見てみると意味がわからないところがあります。*****『赤とんぼ』作詞:三木 露風(みき ろふう)作曲:山田 耕筰(やまだ こうさく)1927年(昭和2年) 1.夕焼け 小焼けの 赤とんぼ おわれて見たのは いつの日か2.山の畑の 桑の実を 小籠(こかご)に摘んだは まぼろしか3.十五で姐(ねえ)やは 嫁に行きお里のたよりも 絶えはてた4.夕焼け 小焼けの 赤とんぼとまっているよ 竿(さお)の先*****1番の歌詞の冒頭部分の、「夕焼け 小焼けの」の「小焼け」とは何でしょう?これは「大波 小波」や「大寒(おおさむ) 小寒(こさむ)」などと同じ表現の、「大焼け 小焼け」からきているもので、太陽に照らされ空が赤く染まる様子が、焼けているように見えることから生まれました。その後、夕方の焼けている状態から「夕焼け」という言葉ができたと言います。そして「小焼け」とは、夕焼けのときの太陽が隠れた後の瞬間、残ったわずかな光で空が赤く染まっている情景のことをだと言います。1番の歌詞の「おわれて」はどういう意味でしょうか?これは「負われて」で、「背負われて」すなわち「おんぶされて」ということだと言います。それでは、赤とんぼを「負われて見た」子供は誰の背に負われていたのでしょうか。普通に考えれば母親の背だという見方が、かつては強かったようですが、4番まである歌詞のどこにも「毋」は登場しません。露風が5歳の時、両親は離婚しましたが、物心ついたころ母親はまだいたはずです。3番の歌詞に十五歳で嫁に行った「姐(ねえ)や」がでてきます。「姐や」とは「血のつながっている本当のお姉さん」ではなく、女中や子守りをする娘などを親しんで呼んだ言葉です。答えは、作詞者、三木露風が自ら語っています。露風は大人になって北海道で洗礼を受けるのですが、その時、函館のトラピスト修道院で窓の外に赤とんぼを見、幼い自分を背負ってくれていた子守娘のことを思い出して、この詩を作ったと言います。三木露風32歳(大正8年)の作品で、昭和2年に山田耕筰により曲がつけられました。時代の流れの中、昭和22年文部省教科書に載っていたものは、3番の歌詞が抜かれて載せられていたというエピソードもあります。 曲の情感に加えて、歌詞の中には「とまっているよ 竿の先」など、寂しい思いが潜んでいます。この曲は、なつかしさとともに寂しさが入り混じった曲だと言えるでしょう。
August 9, 2006
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今日は、立秋だ。立秋は二十四節気の一つで、初めて秋の気配が現われて来る頃ということだ。天文学的には、太陽が黄経135度の点を通過する日のことを言う。この日から暦の上では秋になるが、実際にはまだ一年で最も暑い時期だ。しかし、今日からは「暑中見舞い」ではなく「残暑見舞い」ということになる。
August 8, 2006
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イオニアのミレトスは、ひじょうに繁栄した町で、紀元前6世紀ごろ、この町に最初に哲学した人々が出たと言われている。彼らが問題にしたのは、すべてのものの原因や原理についてだった。「私たちが見るすべてのものは、いろいろな形をしている。しかし、私たちに見えるものは単に形だけである」と、彼らは考えた。そして、そのものを作っている原理について考え始めた。その原理のことを、哲学では根拠と言う。このようなことを考え始めた思想家の最初の人は、ミレトスのタレス(紀元前624年~546年ごろ)という人で、タレスは、「万物の原理は水である」とした。すべてのものは水から生じて、水へ戻っていくのだと考えた。このタレスに学んだミレトスのアナクシマンドロス(紀元前610年~564年ごろ)という人は、原理を「無限なもの(アペイロン)」と考えた。そしてアペイロンを「不死なるもの、不滅なるもの、神的なるもの、すべてを包括し、すべてを整えるもの」とした。つまり、アペイロンは自分自身では決して絶えることはなく、そこからあらゆるものを生み出すものだと考えた。アナクシマンドロスの言葉は少ししか残っていないが、それについて、多くの哲学者たちが、現在に至るまで考えてきた。このようにミレトスの哲学者たちは、水やアペイロンなどを万物の究極的な原理とした。これは一見、幼稚なことのように思われることだが、存在するものの究極的な原理を考え始めたことは、その後2000年あまりの哲学の歴史の先駆者として、意義の大きいものだった。そのころはまだ、「哲学(フィロソフィア)」という言葉はなく、彼らは「自然について語る人々」という意味で、「自然学者」と呼ばれていた。
August 7, 2006
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【イデア】(idea) とは、ギリシア語で、観念、理念のこと。----------【観念】 (かんねん)とは、一般的には、物事について抱く考えや意識のこと。 例:「彼とは義務の観念が違っている」「経済観念に欠ける」「時間の観念がない」「固定観念」【理念】(りねん)とは、一般的には、物事のあるべき状態についての基本的な考えのこと。例:「教育の理念」「会社運営の理念」----------イデアの哲学的な意味は、見られたもの、知られたもの、姿、形といったものの、もとになるもののことを指す。 プラトン哲学の中心概念。個々の事物をそのものたらしめている根拠である真の実在。例えば、個々の人間は人間のイデアに与(あずか)ることによって人間であるとされる。イデアとは、中世においては創造者である神のうちにある万物の原型として捉えられ、近世では人間の意識内容としての観念(アイデア)、また理念などの意義をもつに至る。
August 6, 2006
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「イデオロギー」の語源はギリシア語の「イデア」+「ロゴス」 イデオロギーとは、「観念形態」「意識体系」といった、ものの考え方のことで、「社会集団や社会的立場(国家・階級・党派・性別など)において、思想、行動や生活の仕方を根底的に制約している観念、信条の体系。歴史的・社会的立場を反映した思想、意識の体系」を意味する。または、「政治的・社会的な一定の考え方、思想傾向」を指すこともある。「イデオロギー」(ideologie)という言葉はドイツ語から来ている。日本ではドイツ語から移入されたので「イデオロギー」というカタカナ語になったが、英語では「アイデオロジー」(ideorogy)、フランス語では「イデオロジー」(idéologie)となる。おもしろいのは、これらの語源を追っていくと、ギリシア語で「観念」を意味する「イデア」(idea)と「言語」を意味する「ロゴス」(logos)に由来するという。---------マルクスとエンゲルスが著した『ドイツ・イデオロギー』の中で、階級社会におけるイデオロギーを分析することによって概念規定された語として、マルクス主義思想とともに、「イデオロギー」という言葉は日本に入ってきた。そのため一般的には、階級闘争や資本主義と社会主義の対立を表す「政治的思想」という意味にとらえられることが多い。その後、マルクス主義に対する批判から、今日では比喩的に「空論」という意味にも使われるようになった。また、時代の経過や学術領域での研究が進み、マルクスの語彙(ごい)を離れた、いわば語源的な本来の意味でも、「イデオロギー」という言葉が使われることも増えてきた。「イデオロギー」を日本語で表現するには、専門用語なのか、一般的用法なのか、比喩なのかを、文脈から判断することが必要。一般的には「観念形態」「意識体系」などのようになり、「価値体系」「思考形態」なども考えらる。また、通例として「政治的意見」「思想傾向」「主義」など。比喩的に「神話」「象徴」「机上の空論」などがあてはまる場合もある。初めて「イデオロギー」を専門用語として定義したのはマルクスとエンゲルスではなく、彼らに先駆け、フランスの哲学者トラシーが、自らが探究する、観念(idea)の起源や本質を研究する学問領域を「イデオロジー」(idélogie)と呼んだのが最初とされている。これは日本では「観念学」と訳される。また、この学派は「イデオローグ」(idéologue)と呼ばれ、後にフランスのリベラル主義の源流となった。
August 5, 2006
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「人間の生活、たとえば平和に関してだとか・・・そういうものに何らかの良い影響を与えられる。・・・それがジャズなんだ。」【ケニー・ドリューの言葉】●ケニー・ドリュー(Kenny Drew)アメリカ出身のジャズ・ピアニスト1928年8月28日、アメリカ、ニューヨーク生まれ。1993年8月4日、死去。64歳。メロディアスで、華麗なタッチで、ヨーロッパ及び日本で人気を集めた。 1961年にフランスに渡りパリですごし、1964年からデンマークのコペンハーゲンに活動の拠点を移し、デンマーク人ベーシスト、ニールス・ペデルセンを生涯の演奏のパートナーとして活動した。----------ケニー・ドリューは5歳からクラシック・ピアノのレッスンを受け、8歳で、早くもリサイタルを開くという正統派天才クラシック・ピアニストの道を歩いてきたが、途中からジャズの魅力に惹かれてジャズ・ピアニストに転向した。小さい頃からクラシック・ピアニストとして活動してきたケニー・ドリューは、クラシックにはない、ジャズの魅力について、次のように語っている。「やはりテクニックが必要ってことは、クラシックもジャズも同じだ。でも、そのあとインプロヴィゼーションが始まる時に、すべてが変わってくる。つまり、こういうことさ・・・、たとえば、バッハのフーガを弾く時でも、人によってそれぞれの違いはあるけれど、でも、結局は、やはり、あくまでもバッハでしかない。でも、ジャズというのは本当に広い自由な世界がそこにあると思う。想像力やイマジネーションが、すべて広い世界になっていくんだ。それは素晴らしく広い世界だと思う。でも、要するに、その個人個人の違いが、ジャズがジャズであることの生命力になっていくんだ。テクニックや理論はソウルでもなければ、ファンクでもない。インプロヴェゼーションの場合、同じハーモニーの中で違う流れと形を作っていくのだから、原曲の構成が頭に入っていなくてはダメなんだが、それを理詰めで構成しなおすんじゃなくて、その場で*スポンティニアスな展開ができるかどうかが重要なんだ。」*スポンティニアス(spontaneous):自発的な、率直な、自然発生的な。*****・・・私が敬愛するジャズ・ピアニストの一人。
August 4, 2006
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「穴」と「孔」昔は、どちらも「あな」と読んだ。しかし、今では「孔」という字は当用漢字音訓表では「あな」という読み方をなくし、「あな」は「穴」の一種類の字にしてしまった。したがって、学校では「孔」を「あな」と読むことは教えない。しかし、もともとは「穴」と「孔」には明確な意味の違いがあった。「穴」は、突き抜けないくぼんだところ。例:「穴を掘る」、「穴だらけの道路」など。「孔」は、反対側まで突き抜けている空所。例:「針の孔」、「孔を通す」など。こういうことは学校では教えないし、試験には必要ないムダな知識ということだ。
August 3, 2006
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テレビを見ていると、いろいろなトリビアがある。昨日、「へえ~」と思ったものに「銀ブラ」の由来がある。「銀ブラ」という言葉は、「東京の銀座通りをぶらぶら散歩すること」という意味で、誰もが知っているであろうが、この言葉の本当の意味は全く違っていた。今まで「銀ブラ」というのは、「銀座をブラブラ歩く」ということからできた言葉だと思っていたが、実はそうではないということだ。喫茶店は大正時代に開店して人気が出たが、当時コーヒーは一杯15銭が相場だった。それを銀座の、とある喫茶店で「ブラジルコーヒー」という名前で一杯5銭で売り出した。すると、そのうわさをいち早く聞き付け、おとずれたのが、芥川龍之介(あくたがわりゅうのすけ)や菊地寛(きくちかん)、与謝野晶子(よさのあきこ)といった著名人だった。そして常連となった彼らの間で、この喫茶店に行くことを「銀ブラする?」と言うようになったのが、そもそものきっかけだそうだ。それが、やがて、銀座で「ブラジルコーヒー」なるものを飲むことが、「銀ブラ」という言葉とともに、昭和初期の人々の間で大流行したということだ。「銀ブラ」は、「銀座でブラジルコーヒー」という「銀」と「ブラ」だということだった。
August 2, 2006
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今日から8月になった。そういえば、今日からガソリンの卸値が大幅に上がるので、ガソリンが値上がりすると言っていた。昨日1リットル当たり132円だったのが、今日から8円上がって140円になるらしい。聞いていたけれど、すっかり忘れていた。偶然、昨日ガソリンがなくなったので、ちょうど満タンにしたところだった。65リットル入ったから今日入れたら520円高くなっていたところだ。ふう~。でも、半月はもたないんだろうな。
August 1, 2006
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