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今日は、モダン・ジャズ・ピアノを確立した天才ジャズ・ピアニスト、バド・パウエルの命日です。●バド・パウエル(Bud Powell)本名:Earl Rudolph “Bud” Powell(アール・パウエル)1924年9月27日、アメリカ、ニューヨーク州ニューヨーク生まれ。1966年7月31日、アメリカ、ニューヨークで死去。41歳。----------うまい人は、それこそいくらでもいます。しかし、「もしこの人がいなければ、モダン・ジャズ・ピアノの歴史は変わっていたかもしれない。」そう言われるほど、ジャズ史におけるバド・パウエルの存在は大きなものです。彼は若い頃から重度の精神病を患っていたので、彼が天才的な能力を発揮できたのはほんの数年だけで、残りの人生は病と貧困にあえぐ不遇なものでした。そして、41歳という若さで亡くなってしまいましたが、その短い時間の中にもかかわらず、作り出された数々の音楽的なアイディアがあったからこそ、今日のジャズ・ピアノがあると言えるでしょう。まさに「ジャズ・ピアノの天才」と称賛される人です。●アルバム代表作「バド・パウエルの芸術」「ジ・アメイジング・バド・パウエル」「ザ・シーン・チェンジズ」「バド!」*****ザ・シーン・チェンジズ / バド・パウエルThe Scene Changes-The Amazing Bud Powell Vol.5 / Bud Powell バド・パウエル(p)ポール・チェンバース(b)アート・テイラー(ds)録音日:1958/12/29 レーベル:Blue Note [収録曲] 1. Cleopatra's Dream(クレオパトラの夢) 2. Duid Deed 3. Down With It 4. Danceland 5. Borderick 6. Crossin' The Channel 7. Comin' Up 8. Gettin' There 9. Scene Changes (10. Comin' Up [Alternate Take])
July 31, 2006
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30日、午前2時5分ごろ、静岡県浜松市の市道交差点で、パトカーに追跡され赤信号を無視して進入した乗用車が、会社員の男性Aさん(32)の乗用車に衝突。Aさんの車の助手席にいた妻、Bさん(25)が死亡、Aさんと後部座席の同僚男性(39)も骨折などの重傷を負った。浜松中央署は道交法違反(酒気帯び運転)の現行犯で、パトカーが追っていた乗用車の男C容疑者(35)を逮捕。業務上過失致死傷容疑でも追及する。このC容疑者は打撲の軽傷。調べでは、C容疑者は現場の西約700メートルの市道で行われていた飲酒運転の検問を突破して逃走。同署のパトカーがサイレンを鳴らし赤色灯をつけて追跡していた。C容疑者は「酒を飲んでいたので逃げた」と供述しているという。事故当時、パトカーは約200メートル後方にいたといい、同署の副署長は「適正な職務執行だったと考えている」と話している。----------小さな記事だが、こういうニュースを目にすると大きな憤りと何ともいえないやるせなさを感じる。こんなバカげたことで死んでしまうなんて、何ということだ。
July 30, 2006
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ストレス(stress)ストレスとは英語で、もともとは材料力学上の言葉です。ある物質を伸ばしたり縮めたり曲げたりした時に、その物質に加えられる圧力やそれに対する反発力のことで、要するに外部から力を加えられた時にその物質の内部に生じる歪のようなことを言います。自動車などのシャフトが折れたりといった、機械や構造物が壊れるときは、そういったストレスがかかったときで、それは必ずしも大きなストレスによるものとは限りません。小さなストレスでも繰り返しかかると材料は疲労をおこし、破壊するのです。この現象を疲労破壊と言い、疲労破壊は機械や構造物の破壊の大部分を占めるものです。ですから、自動車などのストレスがかかる部分の設計は、この疲労破壊が起きないような設計をする必要があるのです。しかし、これは人体においても全く同じことが言え、その歪が人体に生じることもストレスと言い、その場合は、精神緊張・心労・苦痛・寒冷・感染など、ごく普通にみられる刺激が原因で引き起こされる生体機能の変化のことです。その中でも一般的には、精神的に負担となる刺激や状況のことをストレスと言います。 物体にストレスをかけ続けるとその物は破壊することがあるように、人間にもストレスをかけ続けるとその人間は破壊するというわけです。ガン、心臓病、脳卒中などが死亡の原因の多くを占めていますが、病気を直すためには、手術によって悪い部分をとるとか、薬による治療とかをします。しかし、本当はその病気の大もとの原因をなくさなければ解決しません。結局、それらの病気の一番大きな原因はストレスなのではないかと思います。今、ストレス社会と言われ、常に多くのストレスが入ってくる状況にあるので、ストレスを避けるということは非常に難しいことであると言えます。したがって、ストレスをいかになくすか、ストレスをいかに解消するかということを考えて、ストレスをため込まないようにするということが、人間が生きていく上において重要な問題だと思います。
July 29, 2006
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前回、髪の毛を切ったのはいつだったのだろうか?2カ月ぐらいしかたっていないように思っていたが、伸びた分を全体的に5~6センチ位は切った。今回は日記に書いておこう。
July 28, 2006
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去年4月、千葉市の動物公園の背もたれのないベンチに座っていた当時1歳の男の子が後ろに倒れたとき、後頭部に枯れ枝がささり、その子は亡くなった。両親は、「ベンチに背もたれを設け、枯れ枝を放置しないように管理する義務があった」と訴え、千葉市に約5100万円の損害賠償を求めた。これに対して千葉市は、「親として幼児を安全に監護(かんご)すべき義務を著しく怠った重大な過失がある」と主張した。26日、千葉地裁が出した判決の結果は、「ベンチに背もたれがないだけをもって安全性を欠いていたとまでは言えない」としたものの「幼児が使用する施設で、ベンチの内側に枯れ枝のまざったツツジを植えていたことには問題がある」と、千葉市の責任を一部認め、1189万512円の支払いを命じた。その額はどういうことかというと、1歳の男の子が死亡した損害額を4328万1051円に認定し、それをもとに、過失の割合で決まったもの。親の過失分が75パーセント、千葉市の過失分が25パーセントということで、千葉市の過失分の額は1200万円になるというもの。幼児がくる公園にはツツジも植えてはおけないのでは?それともベンチを設置していなければよかったのか?気になった裁判結果だ。
July 28, 2006
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「日本語の乱」というものが新聞に載っていた。文化庁が国語に対する調査というものをやったところ、間違って使われている言葉が指摘されていた。「お疲れさま(でした)」は、上司など目上の人に対して使う言葉で、部下に対しては「ご苦労さま」になる。上司に対して「ご苦労さま」、部下に対して「お疲れさま」を使うのは正しくないということだが、今では、実際に多くの人が間違って使っているという。その他、よく間違って使う言い方の例「電球のタマ」という人は少ないだろうが、同じようなことがある。「うそをついてあとで後悔をした。」(後悔とはあとに決まっている)「順番を一番最後にされた。」(最後というのは一番後ろのこと)「元旦の夜」(元旦とは元日の朝のこと)「白羽の矢が当たった」(「当たった」ではなく「立った」が正しい)誤:あいそうをふりまく↓正:あいきょうをふりまく誤:怒り心頭に達する↓正:怒り心頭に発する誤:肝にすえかねる↓正:腹にすえかねる誤:口をにごす↓正:言葉をにごす言葉は難しい。
July 27, 2006
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『Laura』(ローラ)この曲は、デイヴィット・ラクシンが1944年の映画「Laura(邦題:ローラ殺人事件)」の主題歌として作曲したものに、翌年の1945年に、ジョニー・マーサーがあとから作詞したもので、曲の登録は1945年になっています。したがって、この映画の中では歌はなく、インストゥルメンタル・ナンバーのものでした。歌詞がつく前、楽譜出版社は、この曲はメロディーが複雑すぎるので出版しても売れないと考えていましたが、ジョニー・マーサーの素晴らしい歌詞が付けられたものを聴くと、みんなの気が変わったと言います。ウディー・ハーマンのレコードが大ヒットしてミリオン・セラーになり、ジャズの曲として広まりました。「Laura(ローラ)」とは幻想の恋人のことです。「実際には起きていないのに、かすかな思い出がはっきりとよみがえってくる。そういう妙な感覚にとらわれることが誰にでもあるものだ。ローラ、それは神秘の光をたたえた顔、親しげな瞳、私は初めてのキスを交わした。あれは確かにローラだったはずだが・・・、ローラはただの夢だったのだろうか」作曲者のデヴィッド・ラクシンは、チャップリンの映画も含めて100本近い映画音楽を手がけた人で、チャップリンの1935年の映画「Moden times」の音楽はチャップリンがやったことになっていますが、実際はほとんど、若き日のデイヴィット・ラクシンが書いたと思われます。ラクシンは、この曲の締切日が迫ってもメロディーが浮かばないでいました。そんなある日、ラクシンが当時付き合っていて結婚を考えていた女性から手紙が来ました。それは別れの手紙でした。力が抜けて思わずピアノの前に座り込んだラクシンの指は、無意識のうちにピアノでこのメロディーを弾いていたと言います。*****●ローラ Laura作詞:ジョニー・マーサー作曲:デイヴィット・ラクシン1945年《ヴァース》実際には起きていないのにかすかな思い出がはっきりとよみがえってくるそういう妙な感覚にとらわれることが誰にでもあるものだ絶対に合ったことがないはずの人なのによく知っている人のように感じてしまうその様なことが《コーラス》ローラそれは神秘の光をたたえた顔廊下を歩いてくる足音夏の夜にただよってくる笑い声どうしても、うまく思い出せない、そんな思い出すると、通り過ぎて行く汽車の中にローラの姿が見える親しげな瞳私は初めてのキスを交わしたそう、あれは確かにローラだったはずだが・・・ローラはただの夢にすぎなかったのだろうか
July 26, 2006
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厚生労働省は25日、2005年の日本人の平均寿命について、男性は78.53歳、女性は85.49歳で、前年よりそれぞれ0.11歳、0.10歳短くなったと発表した。男女ともに平均寿命が前年を下回ったのは、99年以来6年ぶりで、昨年は春先にインフルエンザが流行し、3月の肺炎による死亡数が前年同月比43.1%増となったことや、自殺の増加傾向が平均寿命の短縮をもたらしたと分析、「平均寿命が今後延びていく傾向に変わりはない」とみている。国際比較では女性は21年連続で世界一だったが、男性は前年の2位から4位に後退。日本の男性は73年に5位だったが74年からはずっとベスト3の座を維持してきた。最新の調査年に違いがあるため正確な比較はできないが、今回は、1位 香港:79.0歳 (04年)2位 アイスランド:78.9歳 (01~05年)3位 スイス:78.6歳 (04年)に次ぐ4位で、なお上位国ながら後退した。一方、05年のデータでは、65歳まで生存する人の割合は男85.6%、女93.1%。80歳まででは、男55.0%、女76.8%だった。0歳児の将来の死因別死亡確率は、男1.がん:29.88%2.心臓病:14.88%3.肺炎:12.46%女1.がん:20・54%2.心臓病:19・17%3.脳卒中:14.52がん、心臓病、脳卒中が克服されると、男の平均寿命は8.49年延び87.02歳に、女は7.68年増え、93.17歳になるという。----------インフルエンザや肺炎による死亡数がどのくらい影響したかはわからないが、自殺者数は確実に増えている。自殺大国、ニッポン!
July 25, 2006
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今日は、スーパーマーケットに行ったら、うなぎの大セールをやっていたが、土用の丑(うし)の日でした。土用とは雑節の一つで、 雑節とは五節句とあわせて、二十四節気(にじゅうしせっき)を補う季節の移り変わりを表す節。立春(りっしゅん)、立夏(りっか)、立秋(りっしゅう)、立冬(りっとう)の前の18日間のこと。夏の土用とは7月20日ごろから立秋(8月7日ごろ)までの18日間をいい、特に夏の土用の丑の日には夏バテを防ぐためにうなぎを食べる習慣がある。この習慣を作ったのが江戸時代の蘭学者「平賀源内」といわれている。当時、あまり売れなくてこまっているうなぎ屋さんを宣伝するために看板を書いたことが始まりだそうです。うなぎは中国産が多く流通していて価格も安いのですが、何だか中国産のうなぎは使ってはいけない抗菌剤を使っているため輸入業者が手控えているのと、国産のものも今年は数が少ないため、うなぎの値段は2割ほど高くなっているそうです。土用の丑の日には、ほかにも「う」のつくもの、うめぼし、うどん、ウリ、牛などを食べると夏やせしないとかいわれているそうです。
July 23, 2006
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『ミンガス / ジョニ・ミッチェル』 Mingus / Joni Mitchell CD発売日: 1998/5/25オリジナル盤発売日(レコード): 1979レーベル: イーストウエスト・ジャパン [収録曲] 1. ハッピー・バースデイ 1975 2. ゴット・マスト・ビー・ア・ブーギ・マン 3. 葬儀 4. ア・チェアー・イン・ザ・スカイ 5. ザ・ウルフ・ザット・リヴズ・イン・リンジー 6. アイズ・ア・マギン 7. スウィート・サッカー・ダンス 8. コイン・イン・ザ・ポケット 9. デ・モインのおしゃれ賭博師 10. ラッキー 11. グッドバイ・ポーク・パイ・ハット ジョニ・ミッチェル:ギター&ヴォーカルジャコ・パストリアス:ベースウェイン・ショーター:ソプラノ・サックスハービー・ハンコック:エレクトリック・ピアノピーター・アースキン:ドラムスドン・アライアス:コンガエミル・リチャーズ:パーカッション----------このアルバムは、ジャズというかフュージョンというかフォークというかロックというか、何と言っていいかわからないものですが、偉大なるジャズ・ミュージシャンの、故チャーリー・ミンガスに捧げた作品です。シンガーソングライターのジョニ・ミッチェルがミンガスのメロディーに詞をつけ、歌っています。ジョニ・ミッチェルのボーカルと、今は亡きジャコ・パストリアスのベースが対話するかのような作品ですが、実際は、このアルバムは、チャーリー・ミンガスとジョニー・ミッチェルが合作しているあいだに、ミンガスが亡くなり、追悼アルバムになってしまったものです。ジャコ・パストリアスや、ハービー・ハンコック、ウェイン・ショーターといった、ジャズミュージシャンをバックにしたサウンドの雰囲気が素晴らしいので、ときどき聴きたくなるものです。「スーと、神聖なる川が、あなたを、ジャズの聖人のもとへ、そう、デュークやバードやファッツ、そして、その他の聖人のもとへと、導くでしょう」~ジョニ・ミッチェル~「スー」とはミンガス夫人チャーリーの遺灰は、彼の遺言通りに、スーによってインドに運ばれ、ガンジス川の源に、新しい一日の夜明けと共に、花束をそえ、そして、祈りをこめて放たれました。レコードしか持っていなかったので、CDを買いました。
July 22, 2006
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バターとマーガリンを比べた場合、マーガリンは「植物性油なのでコレステロールが低く健康によい」とPRされています。また、油脂の含有量が80%以下のファットスプレッドという低カロリーをうたっているものもあり、何となくマーガリンのほうがバターより身体によさそうだと感じてしまうでしょう。しかし、成分表示を見てみると、バターは牛乳と塩のみなのに対して、マーガリンは乳化剤や安定剤など、やたらと添加物の表示が多いことがわかります。マーガリンの添加剤が身体に与える影響は別にしても、マーガリンは、大豆などの植物油に水素を添加してバターのような風味に調整した脂肪酸で、この脂肪酸とは「トランス型脂肪酸」と呼ばれ、自然界にはない脂肪酸の一種です。要するにマーガリンは化学的に合成されて作られた合成物質ということです。水素添加した植物油はマーガリン、ショートニングなどで、クッキーやケーキなどに使用され、食品加工産業には欠かせないものになっています。しかし、このトランス型脂肪酸が、動脈硬化など生活習慣病の原因になるのではないかということが、海外では古くから言われていて問題になっていましたが、1993年に動脈硬化を進行させるという説が認められました。トランス型脂肪酸はマーガリンのほかにショートニングや食用油にも含まれている場合があり、パンやケーキ、クッキー、ドーナツ、フレンチフライなどの摂取によっても体内に取り込まれます。また身体によいなどと宣伝されていたリノール酸は、心筋梗塞のリスクを高めるもので、マーガリンには多く含まれています。マーガリンが身体によいという古い誤った情報がそのまま残っていて喜んで愛用している国はどうも先進国で日本だけで、北欧ではマーガリンやショートニングは販売禁止になっているそうです。アメリカでも、マーガリンやスナック類などに含まれるトランス型脂肪酸をとり過ぎると健康を損なう恐れがあるとして、食品メーカーにトランス型脂肪酸を含む食品について、表示を義務づけています。 北欧では毒物とされているものが、日本では健康によいと思われているのは、どういうことでしょうか?
July 21, 2006
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ロック・ギタリスト、カルロス・サンタナの誕生日。カルロス・サンタナ(Carlos Santana)1947年7月20日、メキシコ生まれ。メキシコのクラブで演奏活動を続けた後、サンフランシスコに移り、1960年代に、自身の名を冠したラテンロックバンド「サンタナ」を結成、現在も活動中。1969“ウッドストック”で衝撃のデビュー。1970年代「ブラック・マジック・ウーマン」「哀愁のヨーロッパ」が大ヒット。1999年のアルバム『スーパー・ナチュラル』では、グラミー賞9部門獲得(史上最多)。
July 20, 2006
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今日の仕事は静岡のジャズ・ライヴハウスだった。毎日、夜、テレビの録画を見ていると、まだ寝るつもりではないのに、いつのまにか寝てしまっている。だから、部屋の照明を消して寝たことがない。「今日こそは電気を消して寝るぞ!」と毎日思うのだが、ダメだ。
July 19, 2006
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ガソリンの価格が、どんどん高くなってきて、まだ上がり続けている。今、レギュラーガソリンの全国平均は、1リットルあたり137円で、先月よりまた1円上がったそうだ。ちなみに、去年の6月は123円だった。セルフサービスのスタンドは、1円位安いので、全国的にセルフスタンドが増えている。このところ、私は、なるべく加速の時にアクセルを踏み込まないように努力しているが、燃費は、どうがんばっても1リットルあたり5.5キロメートルくらいだ。プレミアムガソリン仕様だがレギュラーしか入れたことがない。
July 18, 2006
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今日は、ジャズ・サックス奏者の巨人、ジョン・コルトレーンの命日です。1967年に亡くなってから、39年がたちました。彼が突然無くなってから、しばらくは、コルトレーン・ショックというものが起こったと言います。彼が亡くなったショックは、ジャズ・シーンにはあまりにも大きなもので、毎年7月17日になると、偉大なるサックス奏者、ジョン・コルトレーンの死を悼み、彼のレコードを一日中かけるジャズ喫茶がたくさんあり、多くのジャズ・ファンが、命日のこの日に彼の音楽を聴いて喪に服すのでした。彼は生前、聖者になりたいと言っていましたが、彼は亡くなった後も崇拝され、ますます神格化されていったのです。大衆化していったロックを取り込み、ジャズに消化しようとしたマイルス・デイヴィスに対して、コルトレーンは、大衆化した音楽とは距離をおいて、ジャズを純粋な感情表現の音楽として追及していきました。インド哲学への傾倒や、無心に延々とソロを取り続ける方法論などは、マイルスとは違った形で、「ジャズ原理主義」的な主張をしていったと言えるでしょう。そんな彼の真摯な音楽的探求の姿勢は、多くの音楽ファンを魅了し、「ジャズのありかた」を彼によって示されたのでした。コルトレーンは商業化されていく1960年代の音楽シーンを憂慮し、彼は純粋にジャズを追求することで、自分の音楽をまっとうしようとしたのでしょう。コルトレーンは、新しい演奏法を生み出し、ジャズ・シーンに大きな影響を与えましたが、大勢のミュージシャンやリスナーが、これほどまでに彼を崇拝し神格化するのは、そんな彼の生き様にひかれたからだと言えるでしょう。----------●ジョン・コルトレーン(John Coltrane)ジョン・ウイリアム・コルトレーン(John William Coltrane) アメリカのテナー・サックス、ソプラノ・サックス奏者、及び作曲家。1926年9月23日、アメリカ、ノースカロライナ州ハムレット生まれ。1967年7月17日、死去。40歳。フィラデルフィアの音楽学校でジャズを学び、19歳でプロ・デビュー。1955年からマイルス・デイビス五重奏団やセロニアス・モンクのコンボで演奏。1960年に独立して自身の四重奏団を結成した。短いフレーズを矢継ぎ早に吹奏する独自のアドリブ・スタイル「シーツ・オブ・サウンド」奏法を開拓し、 同時代のサックス奏者に大きな影響を与えた。1960年代は、メロディーを基礎に長大なアドリブ・プレーを展開するモード手法の実験をおしすすめ、ついにはフリー・ジャズへ移行。またインド哲学の研究などを通じて音楽の精神性を追究し、60年代の前衛ジャズ界をリードした。没後25周年の1992年に、グラミー賞の生涯功労賞が授与された。【代表作】『コルトレーン』 (1957)『ジャイアント・ステップス』 (1959)『マイ・フェイバリット・シングス』 (1960)『至上の愛』 (1964)
July 17, 2006
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『シングス・ザ・リリックス・オブ・アイラ・ガーシュウィン / ローズマリー・クルーニー』Sings The Lyrics Of Ira Gershwin / Rosemary Clooney CD発売日:1990/3/26 オリジナル盤発売日(レコード): 1979/10 レーベル: Concord Jazz [収録曲] 1. But Not For Me 2. Nice Work If You Can Get It 3. How Long Has This Been Going On? 4. Fascinating Rhythm 5. Love Is Here To Stay 6. Strike Up The Band 7. Long Ago (And Far Away) 8. They All Laughed 9. Man That Got Away 10. They Can't Take That Away From Me Rosemary Clooney :vocalScott Hamilton :tenor saxophoneWarren Vache :cornet and flugelhornRoger Glenn :flute Cal Collins :guitarNat Pierce :pianoChris Amberger :bassJeff Hamilton :drums----------ローズマリー・クルーニーのヴォーカルはもちろん、バック・ミュージシャンもごきげん。ヴォーカルだけではなく、各パートのアドリブもフューチャーしたアレンジになっていて、バランスのとれたジャズ・ナンバーになっているところが素晴らしく、国内盤は出ていないようだが、私は、これは隠れた名盤だと思う。ガーシュウィンの曲は絶品。私の大感激ものの一枚。ロージー(ローズマリー・クルーニー)は、ジョージ・ガーシュウィンが亡くなったあと、ジョージのハリウッドの家を買い取って住んでいた。
July 16, 2006
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ガンは、日本人にとって第1位の死亡原因で約1/3を占めているという。人間をはじめとして生物の遺伝子についての研究が進むにつれ、ガンは細胞の中の遺伝子に起きる異常が原因で発生するということが明らかになってきた。さらに、遺伝子の以上が原因であるが、遺伝的つまり先天的な要素よりも、人が外部から受ける影響つまり後天的な要素によって発生する可能性のほうが大きいことも判ってきた。発ガンの原因は、次の3つの可能性が考えられる。1.生物学的要因・・・発ガン遺伝子を持つウイルスによる感染2.物理的要因・・・・ガンマ線、ベータ線、紫外線等の自然放射線3.化学的要因・・・・発ガン物質と呼ばれる化学物質しかし、疫学的研究が進むと、生活環境中の化学物質による発ガンに注目が集まるようになってきた。これらの化学物質を発ガン物質と呼んでいる。発ガン物質についての研究により、ウイルスや放射線による発ガンの割合は小さく、発ガン物質が原因と考えられるものが80%以上を示し、中でも最も大きく関与しているのは、食物とタバコであるということがわかった。発ガン物質というと何か特殊なものを考えがちだが、それは我々の身近な一般的なものの中に含まれていることも多い。ガンの予防といえば、人間ドック等による早期発見と思われがちだが、これはいわば二次予防に当たるで、一次予防は何かというと、発ガン物質をさけること。つまり、環境中の発ガン物質が原因でガンになる割合が高いのだから、その発ガン物質を見つけ出し、これを取り除いてその影響を受けないようにすることが、一番重要だということになる。その一番のものとして、喫煙をやめるということと、他人のタバコの煙を吸わないということ。タバコの煙には数多くの発ガン物質が発見されていので、極めて発ガンの危険性が高いということはよく知られている。これだけで、発ガンの原因の30%以上を占めているという。次に多くの発ガン物質が見つかっているのは、食生活に関するもの。ナッツ類に付くカビの作るアフラトキシン類、ワラビ等の山菜に含まれるプタキロサイドなど、1970年代から1980年代にかけて、食物や食品添加物の中に多くの発ガン物質が見つかり、食品の安全性が問題となった。このため、これら発ガン物質を含む、特定の食品や特定の部位については、大きくマスコミで取り上げられ、広くその情報が伝えられて、それを食べないように注意するようになってた。また、食品添加物についても、発ガン性があるものについては、法律で使用を禁止し、または制限している。その中に、おこげが悪いということまでいわれた。これは、食品の調理時に、アミノ酸の加熱分解によって生じるヘテロサイクリックアミン類が発ガン性があるというものだが、アミノ酸はタンパク質の分解物としてどのような食品にも含まれているので、アミノ酸を食品から全く取り除いたりはできない。加熱調理が悪いからと言って、毎日お刺し身と生野菜だけ食べるようにするのは、実際はできないので、ヘテロサイクリックアミン類を完全にとり除いた食事は不可能ということになる。2002年に、厚生労働省は「ポテトチップスに高濃度発がん性物質が含まれている」という報告をした。これは、ポテトチップスやフライドポテトなど、ジャガイモを高温の油で加工調理した食品などから高濃度の発がん性物質「アクリルアミド」が検出されたとして、厚生労働省は炭水化物の多い食品の調理方法や揚げ物などの過度な摂取に注意するように、消費者に呼び掛けたもの。ポテトチップスなどの揚げ物に多く含まれるアクリルアミドは、国際癌研究機関(IARC)が「クラス2A(ヒトに対しておそらく発ガン性がある)」に分類で、健康被害が懸念されている。食品中のアクリルアミドは、特定のアミノ酸と糖が高温加熱によって反応し、生成されると考えられている。厚生労働省が発表している「食品中のアクリルアミド分析結果」では、多くの食品にアクリルアミドが検出されているが、その中で、ポテトチップスだけは群を抜いて、桁違いに含有量が多い。ポテトチップスだけは食べないのに越したことはないということになる。
July 15, 2006
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今日は、朝から暑かった。夏は特に動脈硬化の危険があるという。夏の紫外線が体内で老廃物(AGE)をつくりやすくして、血管の柔軟性を奪い、動脈硬化の原因になることがわかった。老廃物(AGE)が蓄積すると、心不全や脳卒中を招くだけでなく、失明、腎不全、認知症を引き起こしやすいという。血管の柔軟性を奪う原因は、糖質過多の食生活で、血液中の糖質(ブドウ糖)が紫外線によって老廃物(AGV)に変わるので、糖質の多い食品を控える。ビタミンB6を含む食品をとると、AGVの発生を防ぐ効果がある。かつお、さけ、まぐろ、鶏レバー、バナナなど。一緒にレモンなどのクエン酸をとると効果があがる。「かつおのレモン汁かけ」がおすすめ。それから、血管によごれをためないために、特に朝、塩分を控える。わさびと酢と油を一緒にとる。カカオを多く含むココアを飲む。
July 14, 2006
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【昭和歌謡の名曲】 『ゆうべの秘密』昭和43年(1968年)2月1日作詞:タマイ チコ(たまい ちこ)作曲:中州 朗(なかす あきら)歌:小川 知子(おがわ ともこ)●歌詞---------この曲は、小川知子の歌手デビューとして、昭和43年(1968年)2月1日にリリースされ、たちまち50万枚を超えるセールスになり、昭和歌謡史に残る名曲になりました。小川知子は、小さい頃から子役としてテレビに出演していましたが、16歳で東映の女優としてデビューし、新人賞を受賞しました。その彼女が19歳で歌手に転向し、東芝からデビューした曲が、この「ゆうべの秘密」で、発売された2月の末には、たちまちオリコン・チャートのトップ20に入ってきて、3月25日に4週連続1位だった伊藤ゆかりの「恋のしずく」をおさえ、ついにトップになりました。6月10日には、「ゆうべの秘密」が18位にランクインしている中、次の新曲「恋のときめき」の売上が上昇して17位にランクインし、トップ20に2楽曲を送り込むという快挙を成し遂げました。「ゆうべのことは もう聞かないで あなたにあげた わたしの秘密ゆうべのことは もう聞かないで このままそっと 抱いててほしい」ゆうべのこととは一体何なのか?思わせぶりなちょっといやらしい歌詞に、男心をくすぐりまくる吐息タッチの歌声で一躍人気者になり、お茶の間に広く知られるようになりました。19歳でこの歌詞を歌いきる彼女はすごいですが、当時は、これでも清純派として売り出していたのです。この年のNHK紅白歌合戦に出場しました。----------●小川 知子(おがわ ともこ)昭和24年(1949年)1月26日生まれ。広島県広島市に生まれ、幼少期に東京王子に転居。 バレエを習いながら東映児童劇団に入り、昭和35年(1960年)、日本テレビドラマ『ママちょっと来て』でデビュー。子役として活躍後、昭和40年(1965年)、16歳で東映映画『悪魔のようなすてきな奴』で女優デビュー。『大奥(秘)物語』の主演など3年間に10数本の映画に出演。昭和42年(1967年)、精華学園高等学校を卒業すると、同年東映と契約を解消し歌手に転向した。昭和43年(1968年)に、「ゆうべの秘密」で歌手デビューし、大ヒットを記録。その後もヒット曲を連発し一躍歌謡界でもスターになる。黛ジュン、奥村チヨとともに東芝三人娘と呼ばれる。『夜のヒットスタジオ』の第1回放送にも出演。『夜のヒットスタジオ』では、昭和44年(1969年)2月、恋人と噂されていたカーレーサー・福澤幸雄(福澤諭吉の曾孫)がテスト走行中に事故死。直後の番組収録で「初恋の人」を歌いながら泣き崩れた事件は、テレビ界に衝撃を与え伝説化した。その後はTVドラマにも積極的に出演し、人気アイドルとして一世を風靡。1990年代には某新興宗教の信者としてワイドショーを騒がせた。
July 13, 2006
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【昭和歌謡の名曲】『恋の奴隷』昭和44年(1969年)6月作詞:なかにし 礼(なかにし れい)作曲:鈴木 邦彦(すずき くにひこ)歌:奥村 チヨ(おくむら ちよ)●歌詞----------この曲は、奥村チヨが歌い、昭和44年(1969年)6月1日にリリースされました。6月1日にリリースされ、7月7日のオリコン・チャートの16位に入り、8月11日に2位になり、6週間2位をキープする大ヒットになります。このとき1位の森山良子の「禁じられた恋」は5週連続の首位獲得で、いよいよ勢いに乗っていたときだったので、とうとう抜くことはできませんでしたが、透明感の森山と、官能的の奥村という対極的な楽曲が上位2曲並ぶことになりました。「あなたと逢ったその日から 恋の奴隷になりました」という歌い出しも強烈ですが、「悪い時はどうぞぶってね好きな時に思い出してね好きなように私をかえてあなた好みの女になりたい」と、男冥利に尽きる歌詞ですが、時代は男女同権、ウーマンリブの気運が高まりはじめた頃に、マゾヒスティックに繰り広げられる男と女の愛憎劇をリアルに想起させるこの猛烈ナンバーは、NHKでは放送禁止になるなど衝撃的問題作ながらも大ヒットを記録し、名曲になっていきました。彼女自身も、当時この歌詞にはびっくりし、この歌を歌うことにかなり抵抗があったと語っています。彼女は、この曲のレコーディングの時、「どうして私がこんな歌を歌わなくてはならないの?私はこんな歌を歌うために歌手になったんじゃないのに・・・」と、スタジオのすみで泣いてしまい、しばらくレコーディングができなかったと言います。しかし、官能的な魅力で媚びるように歌う奥村チヨの強烈なインパクトに、世の男性の願望が重なったのか、人気が爆発し、彼女の代表曲になりました。NHKでは、この歌詞が問題となり放送禁止になりました。しかし、あまりにも大人気になったので、その年の紅白歌合戦に出場させないわけにはいかなくなり、NHKは問題となった部分の歌詞を変更することを条件に歌唱を許可しましたが、奥村側は歌詞を変更することを断って「恋の奴隷」の次の曲の「恋泥棒」を歌うというエピソードがありました。 この曲は有線放送大賞を受賞しました。この「恋の奴隷」の後、これに続き「恋泥棒」、「恋狂い」の「恋」シリーズ三部作として発表されました。----------●奥村 チヨ(おくむら ちよ)昭和22年(1947年)2月18日生まれ。千葉県野田市生まれ。3歳の時に大阪府池田市に移住。本名:奥村 智代(おくむら ちよ)昭和39年(1964年)、高校在学中に小野薬品のドリンク剤 “リキホルモ” のCMソングを歌ったのがきっかけで、渡辺プロダクションにスカウトされる。高校卒業後の昭和40年(1965年)に「あなたがいなくても」、「私を愛して」でデビュー。和製シルヴィー・バルタンとして売り出され、小悪魔的な魅力と甘えたような歌い方でたちまち人気を集める。黛ジュン、小川知子とともに東芝三人娘と呼ばれる。昭和40年(1965年)、第三弾の「ごめんねジロー」が大ヒットしてフジテレビ新人奨励賞を受賞。 昭和42年(1967年)、ザ・ベンチャーズ作曲、橋本淳作詞「北国の青い空」が大ヒット。 昭和44年~45年(1969年~70年)、「恋の奴隷」、「恋泥棒」、「恋狂い」の、いわゆる「恋3部作」の爆発的大ヒットにより、人気歌手としての地位を確立した。それまでのコケティッシュな雰囲気に、新たに官能的な魅力も加わり、昭和44年(1969年)に、NHK紅白歌合戦初出場。(NHKでは「恋の奴隷」の歌唱が禁じられていたため「恋泥棒」を歌った)。その後も昭和46年(1971年)の「終着駅」などのヒットを出すが、昭和49年(1974年)に、「終着駅」の作曲者である浜圭介と結婚、芸能界を退く。昭和63年(1988年)に、歌手活動を再開。以降 、テレビ・ラジオ・グラビア・CMと、多方面に活躍中。
July 12, 2006
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【昭和歌謡の名曲】『小指の想い出』昭和42年(1967年)作詞:有馬 三恵子(ありま みえこ)作曲:鈴木 淳(すずき じゅん)歌:伊東 ゆかり(いとう ゆかり)●歌詞---------この曲は、昭和42年(1967年)に、伊東ゆかりが歌って大ヒットし、同年、レコード大賞歌唱賞を受賞し、昭和歌謡史に残る名曲になりました。昭和37年から、伊東ゆかりは、中尾ミエ、園まりと、「ナベプロ三人娘」、「スパーク三人娘」などと呼ばれて、一世を風靡していましたが、これは彼女が、そんなアイドル時代から完全に脱皮するきっかけになった大ヒット曲です。「あなたが噛んだ 小指が痛い きのうの夜の 小指が痛い」という衝撃的な歌詞で始まるこの曲「小指の想い出」は、それまでの彼女のジャズ・ポップス調のスタンダード歌手のイメージを大きく変えた、ちょっとアヤシイ雰囲気のムード歌謡的な曲で、伊東ゆかりの代表曲になりました。この曲を作曲した作曲家、鈴木淳のインタビューで、彼はこの曲について次のように語っています。--- 「小指の想い出」のヒットで、私は一人前の作曲家として世間に認められるようになったわけであり、想い出深い一曲といえます。この曲を作った頃、日本は演歌全盛時代でしたが、あえて私はラテンのリズムを取り入れ、「日本にこんな楽曲があってもいいのでは」と訴えかけたい気持ちを込めて作曲しました。その楽譜があるプロデューサーの目に止まり、歌い手に伊東ゆかりさんが抜擢されて大ヒットしたというわけです。当時、「三人娘」の中では彼女が一番売れていなかったのですが、伊東さんの歌唱力とキャラクターによって、非常に可愛らしい曲として愛され、彼女もこの曲によってスターダムにのし上がりました。街を歩くと、人々がこの歌を口ずさんでいるのを聞いて感動し、「その曲をつくったのは僕なんだ!」と叫びたい気持ちでしたね。-------------●伊東 ゆかり(いとう ゆかり)昭和22年(1947年)4月6日生まれ。東京都品川区出身。本名:伊東 信子(いとう のぶこ)バンドマンでベース奏者の父と共に、6歳のころから進駐軍のキャンプで歌い始め、昭和33年(1958年)、11歳の時「「クワイ河マーチ」(映画「戦場に架ける橋」のテーマソング)のカヴァーでデビュー。伊東ゆかり、中尾ミエ、園まりとで、「ナベプロ三人娘」、「スパーク三人娘」と呼ばれ、「スパークショー」や「シャボン玉ホリデー」などに出演。昭和42年に「小指の想い出」が大ヒット。同年、レコード大賞歌唱賞を受賞。その後、「恋のしずく」、「朝の口づけ」、「知らなかったの」とたてつづけにヒット曲を送り続け、女性らしい、愛おしさを含んだ声質で、昭和40年代に人気を博しました。現在は、コンサート、ホテルでのショーをはじめ、テレビや舞台で女優としても活動している。彼女は、何も分からないまま歌手という道を歩み始めたと言いますが、やがて彼女の天性の歌声に日本中が熱狂し、1960年代の日本のポップスは幕を開けます。その人気の影で、いつも歌を辞めることばかり考えていたという彼女は、長い音楽活動の中で、そうした思いも薄れたのだと言っています。----------●鈴木 淳(すずき じゅん)山口県防府市生まれ。早稲田大学教育学部国語国文学科卒業。音楽之友社に入社し、雑誌編集の仕事を経験した後、映画音楽を担当したのをきっかけに作曲家となる。昭和四十二年の「小指の想い出」のヒットを皮切りに、次々とヒット曲を送り出し、現在に至る。*****昭和42年(1967年)の出来事・フーテン、ヒッピー、アングラが流行・ツイギーが来日しミニスカートが大ブームになる・ボウリングがブーム・グループサウンズ・ブームが到来・ラジオの深夜放送が若者生活に定着・首都高速環状線が全線開通・全学連、機動隊と衝突・米軍、ベトナム戦争で「枯葉作戦」を開始
July 11, 2006
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【昭和歌謡の名曲】『逢いたくて逢いたくて』昭和41年(1966年)1月作詞:岩谷 時子(いわたに ときこ)作曲:宮川 泰(みやがわ ひろし)歌:園 まり(その まり)●歌詞----------この曲は昭和41年(1966年)1月にリリースされました。昭和37年から、園まりは、中尾ミエ、伊東ゆかりと、「ナベプロ三人娘」、「スパーク三人娘」などと呼ばれて、一世を風靡していましたが、そんなアイドル時代から完全に脱皮するきっかけになった大ヒット曲です。同年には日活で渡哲也、松原智恵子主演で、この曲の映画『逢いたくて逢いたくて』が制作されました。この曲は、彼女のアイドル時代からイメージチェンジされ、艶やかなセクシー・ムードにあふれ、その悩ましい歌い方が、なんともいえなく印象的なものでした。このあとに続く曲、「夢は夜ひらく」、「愛はおしみなく」もヒットし、それらも映画化されました。特に「夢は夜ひらく」はムード歌謡の定番として、この後、何人もの歌手が歌っており、現在、歌詞違いのヴァージョンは20を超えるほどになりました。昭和56年(1981年)の「さかだち」をリリース後、芸能界を退いた形になっていましたが、平成5年(1993年)に、匿名で歌ったCM曲「六甲のおいしい水」での落ち着いた美声が巷で話題となり、それがきっかけでカムバックし、当時の園まりファンを歓喜させました。----------●園 まり(その まり)昭和19年(1944年)4月12日生まれ。神奈川県横浜市出身。本名:薗部 毬子(そのべ まりこ)。幼い頃から童謡歌手としてレコード吹き込みなどをしていた。昭和37年に東洋音楽学校を中退。同年に「鍛冶屋のルンバ」で歌手デビュー。ジャズ調の伊東ゆかり、ポップスやダンスを得意とする中尾ミエと並んで、園は色気を売りに「ナベプロ三人娘」、「スパーク三人娘」と呼ばれ、「スパークショー」や「シャボン玉ホリデー」などに出演。他の二人が洋楽のカヴァー曲を得意としたのに比べ、園はムード歌謡を得意とし、歌唱力と風貌で一世を風靡した。その後「逢いたくて逢いたくて」、「夢は夜ひらく」、「愛は惜しみなく」 がヒット。当時流行のムード歌謡の歌手として活躍。*****●昭和41年(1966年)の出来事・ビートルズ来日・東京新宿の西口広場が完成・カラーテレビ、クーラー、カーの3Cが三種の神器に
July 10, 2006
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「三人娘」は、まだありました。奥村チヨ(昭和40年デビュー)、黛ジュン(昭和42年デビュー)、小川知子(昭和43年デビュー)、 は、「東芝三人娘」ということで、昭和40年代の昭和歌謡の黄金時代に一世を風靡したものでした。私が『ロッテ歌のアルバム』などのテレビの歌番組を夢中で見ていたころ、よく出ていたと記憶している人は、橋幸夫、舟木一夫、西郷輝彦 の「御三家」と、「スパーク三人娘」から独立したころの、伊東ゆかり、園まり や、この、奥村チヨ、黛ジュン、小川知子 といった人たちでした。
July 9, 2006
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『三人娘』と『御三家』「三人娘(さんにんむすめ)」とは、主に若手の同世代の女性歌手が、三人で一つのユニットを組んで活動し、一つのグループとして人々に認知されているものをさします。ただし、本来のグループ歌手(例えばキャンディーズ)のように当初からグループ活動を意図して結成されたものではなく、後から所属芸能事務所やレコード会社、マスコミなどにより取り上げられた三人を、グループ的に扱うためのキャッチコピーとしての意味合いのものを言います。従って、結成や解散などといった概念はグループ歌手と違って、特に明確にはありません。また、同世代の同じジャンルの歌手で構成されているので、メンバー同士がお互いにライバルでもあり、世間から何かと比較もされやすいものです。日本のタレントで初めて「三人娘」と呼ばれたユニットは、水谷良重、黒柳徹子、横山道代 で、登場当初は単に「三人娘」と呼ばれましたが、後発組が「~三人娘」と言う名称を使用することが多くなったため、後年に識別上のために「初代三人娘」と言われることが多くなりました。歌謡界としての「初代三人娘」と言えば、昭和30年代初め頃に活躍した、 美空ひばり、江利チエミ、雪村いづみ で、当初は、単に「三人娘」と呼ばれていましたが、その後いくつもの「三人娘」が登場したため「元祖三人娘」などの通称が生まれました。昭和30年代後半になると、歌謡ポップスの「三人娘」が登場し、「スパーク三人娘」と呼ばれるようになりました。当時渡辺プロダクションに所属していた、中尾ミエ、伊東ゆかり、園まりの三人グループの総称で、「ナベプロ三人娘」や「渡辺プロ三人娘」とか、単に「三人娘」と呼ばれることもあります。この三人が司会をした『スパークショー』というテレビ番組が放送されていたことから、「スパーク三人娘」と呼ばれましたが、昭和37年から昭和40年頃まで三人が揃って活躍する機会が多く、ザ・ピーナッツの後継として期待され、クレージーキャッツ主演のシャボン玉ホリデーなどにも出演し、一時代を築きました。昭和40年代後期にアイドルの元祖ともいえる歌手によって誕生したのが、南沙織、小柳ルミ子、天地真理 の「新三人娘」です。全員が昭和46年(1971年)デビューの同期生で、ユニットというよりは同期生のライバルといった感覚でした。「三人娘」という言い方ではありませんでしたが、「花の中三トリオ」と呼ばれた、森昌子、桜田淳子、山口百恵 も、 上記「新三人娘」の後にデビューしたアイドルの「三人娘」のユニットと言えます。一方、男性歌手による三人組みのほうは、「三羽がらす」と呼ばれた、春日八郎、三橋美智也、村田英雄、を発端として、山下敬二郎、ミッキー・カーティス、平尾昌章の「ロカビリー三羽がらす」が生まれます。しかし、何と言っても一世を風靡したのは「御三家」と呼ばれた、橋幸夫、舟木一夫、西郷輝彦 でしょう。そして「御三家」は「新御三家」の、郷ひろみ、西城秀樹、野口五郎 へとつながっていきました。その後も、田原俊彦、近藤真彦、野村義男 の「たのきんトリオ」など、三人で同期生のライバルの総称とする傾向があります。
July 8, 2006
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【昭和歌謡の名曲】『人形の家』昭和44年(1969年)7月作詞:なかにし 礼(なかにし れい)作曲:川口 真(かわぐち まこと)歌:弘田 三枝子(ひろた みえこ)●歌詞----------並外れた歌唱力とパンチの効いた歌声でアメリカン・ポップスをカヴァーし、「ダイナマイト・ミコ」の愛称でスターになった弘田三枝子は、昭和40年初めになると、それまでのカヴァー・ポップスの全盛期が過ぎ去り、人気が低迷していました。そこで、この曲は、大きくイメージチェンジをして起死回生とばかりに歌ったもので、昭和44年(1969年)7月に発売されました。それまでのカヴァー・ポップスではなく、彼女のために書かれたドラマチックな雰囲気のバラード曲で、見事にヒットした名曲です。しかも、イメージチェンジは曲だけではありませんでした。それまでの、はちきれんばかりの元気娘だったミコちゃんが、18キロもダイエットして可憐な大人の女性として大変身して現れたので、それも衝撃的でした。昭和44年(1969年)10月20日から3週間、オリコン・チャートの1位になりました。レコードは100万枚を超えるミリオンセラーとなり、日本レコード大賞の歌唱賞を受賞しました。そして翌、昭和45年に、当時としては、まだ珍しかったダイエット本の、「ミコのカロリーブック」を出版し、150万部を超える大ベストセラーになりました。 学生運動のフィルムが流される時によく使われるアン真理子の「悲しみは駆け足でやってくる」(明日という字は明るい日と書くのね・・・という歌い出しが有名な曲)や、佐良直美の「いいじゃないの幸せならば」と同月の発売で、これらは、このころの、ある種の挫折感を象徴している楽曲群とも言えるでしょう。----------●弘田 三枝子(ひろた みえこ)本名:高木 三枝子(たかぎ みえこ)昭和22年(1947年)2月5日生まれ。東京都世田谷区池尻出身。愛称:ミコちゃん。昭和30年(1955年)、8歳くらいのころから進駐軍キャンプを回り始め、昭和36年(1961年)に、「和製ブレンダ・リー」とのキャッチフレーズで、アメリカン・ポップスのカヴァーの「子供ぢゃないの」でレコードデビューします。昭和37年(1962年)に、同じくアメリカン・ポップスのカヴァー「ヴァケイション」が大ヒットし、スターになります。以降、ニール・セダカやポール・アンカ、コニー・フランシスなどの、アメリカン黄金ポップスのカヴァー・ソングを中心に数多くのシングル・ヒットを飛ばします。昭和40年(1965年)には、日本人として初めて『ニューポート・ジャズ・フェスティヴァル』に出演しました。これを機にジャズの世界に傾倒し、ヒット・ポップス歌手とは別にジャズ・シンガーとしてのキャリアも築き上げていきました。昭和44年(1969年)に「人形の家」で歌謡曲へ路線転換し、ヒットしました。同年、18キロのダイエットに成功し、翌、昭和45年(1970年)に「ミコのカロリーブック」を出版し、ベストセラーになりました。ファッションや美容にも関心があり、昭和45年度(1970年度)のベストドレッサー賞を受賞しています。芸能界の美容整形の先駆者としても有名です。また、彼女は多くのアニメ主題歌やCMソングを歌っています。「ジャングル大帝」や「レナウン、ワンサカ娘」、「ルックチョコレートの歌」など、その数は膨大です。桑田佳祐をはじめ、山下達郎など、第一線で活躍するミュージシャンのなかにも彼女のファンは多く、1983年(昭和58年)にサザンオールスターズが発売したアルバム『綺麗』の収録曲「MICO」は彼女に捧げられた曲です。 昭和52年(1977年)に渡米し、53年(1978年)に結婚して帰国しましたが、59年(1984年)に離婚しています。現在は、「弘田三枝子ジャズ&ポップススクール」を開校しており、ブレス・トレーニングに関心があるということです。今年(2006年)にレコードデビュー45周年を迎えました。
July 7, 2006
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●なかにし 礼(なかにしれい)日本の作詞家・小説家。1938年(昭和13年)9月2日、満州(現在の中国・牡丹江市)生まれ。本名:中西禮三(なかにしれいぞう)。東京都立九段高等学校、立教大学文学部仏文科卒。神奈川県逗子市在住。初めはシャンソンの訳詞を手がけていましたが、そのうち歌謡曲の作詞家になります。阿久悠らと並び、戦後の日本昭和歌謡曲界を代表する作詞家の一人です。1968年、黛ジュンに提供した「天使の誘惑」がレコード大賞を受賞しました。膨大な作品を世に送り出し、「今日でお別れ」、「北酒場」でもレコード大賞を受賞しました。作詞のほかにもコンサートや舞台演出、映画出演、歌、作曲、翻訳、小説・随筆の執筆や、文化放送『セイ!ヤング』パーソナリティー、NHK『N響アワー』レギュラーなども務め、多方面で活動しています。昭和の終焉とともに作詞の仕事に区切りをつけ、オペラの製作・演出や小説・随筆の執筆に力を入れます。1998年、『兄弟』で第119回直木賞候補になり、2000年、『長崎ぶらぶら節』で第122回直木賞を受賞しました。NHK連続テレビ小説『てるてる家族』の原作となった『てるてる坊主の照子さん』は、なかにしの妻(元・歌手の石田ゆり)とその家族をモデルにしたエッセイ風小説。----------●主な作品■作詞曲『恋のフーガ』(歌:ザ・ピーナッツ、1967年)『生命ある限り』(歌:フランク永井、1967年)『霧のかなたに』(歌:黛ジュン、1967年) 『恋のハレルヤ』(歌:黛ジュン、1968年)『天使の誘惑』(歌:黛ジュン、1968年、第10回日本レコード大賞受賞) 『夕月』(歌:黛ジュン、1968年) 『エメラルドの伝説』(歌:ザ・テンプターズ、1968年) 『愛のさざなみ』(歌:島倉千代子、1968年) 『今日でお別れ』(歌:菅原洋一、1969年、第12回日本レコード大賞受賞)『人形の家』(歌:弘田三枝子、1969年) 『夜と朝のあいだに』(歌:ピーター、1969年)『港町ブルース』(歌:森進一、1969年)『あなたならどうする』(歌:いしだあゆみ、1970年)『手紙』(歌:由紀さおり、1970年)『雨がやんだら』(歌:朝丘雪路、1970年)『愛のフィナーレ』(歌:菅原洋一、1970年)『波止場女のブルース』(歌:森進一、1970年) 『私という女』(歌:ちあきなおみ、1971年) 『別れの朝』(歌:ペトロ&カブリシャス、1971年、※訳詞) 『夜が明けて』(歌:坂本スミ子、1971年) 『京のにわか雨』(歌:小柳ルミ子、1972年) 『冬の駅』(歌:小柳ルミ子、1974年)『グット・マイ・ラブ』(歌:アン・ルイス、1974年)『かもめと女』(歌:美空ひばり、1974年)『心のこり』(歌:細川たかし、1975年) 『石狩挽歌』(歌:北原ミレイ、1975年) 『フィーリング』(歌:ハイ・ファイ・セット、1976年)『時には娼婦のように』(歌:黒沢年男(現・年雄)、なかにし礼、1978年、黒沢盤となかにし盤の合計で売り上げ100万枚を突破)『女優』(歌:岩崎宏美、1980年)『赤と黒』(歌:岩崎良美、1980年) 『あなた色のマノン』(歌:岩崎良美、1980年)『サンタマリアの祈り』(歌:西城秀樹、1980年) 『北酒場』(歌:細川たかし、1982年、第24回日本レコード大賞受賞) 『まつり』(歌:北島三郎、1984年) 『ホテル』(歌:島津ゆたか、1985年) 『わが人生に悔いなし』(歌:石原裕次郎、1987年)『風の盆恋歌』(歌:石川さゆり、1989年) 『AMBITIOUS JAPAN!』(歌:TOKIO、2003年) 『ブルースカイ・ブルー』(歌:RYTHEM、2003年) ■詞集『エメラルドの伝説』(新書館、1969年) 『シャンソン詩集141・さらば銀巴里』(さがみや書店、1991年) 『なかにし礼訳詩によるモーツァルト歌曲集』(音楽之友社、1991年) 『昭和忘れな歌―自撰詞華集』(新潮文庫、2004年) ■小説『花物語』(新書館、1970年) 『昭和左膳只今参上』(東京スポーツ新聞社、1970年) 『大人の紙芝居・まぼろし劇場――丹下左膳 暁のG線上に死す』(継書房、1973年) 『兄弟』(文芸春秋、1998年) 『長崎ぶらぶら節』(文芸春秋、1999年) 『赤い月』(新潮社、2001年) 『てるてる坊主の照子さん』(新潮社、2002年) 『夜盗』(新潮社、2003年) 『さくら伝説』(新潮社、2004年) 『黄昏に歌え』(朝日新聞社、2005年) 『戯曲 赤い月』(河出書房、2005年) ■随筆・その他『ズッコケ勝負――終わりなき愛の遍歴』(双葉社、1969年) 『青春の愛について』(新書館、1972年) 『遊びをせんとや生まれけむ~なかにし礼の作詩作法』(毎日新聞社、1980年) 『音楽への恋文』(共同通信社、1987年) 『翔べ!わが想いよ』(東京新聞出版局、1989年) 『時には映画のように』(読売新聞社、1997年) 『愛人学』(河出書房新社、1997年) 『天上の音楽・大地の歌』(音楽之友社、2001年) 『道化師の楽屋』(新潮社、2002年) 『さくら伝説―松坂慶子写真集』(フォーブリック、2002年) 『人生の黄金律 自由の章―なかにし礼と華やぐ人々』(2003年、清流出版)
July 6, 2006
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●岩谷 時子(いわたに ときこ)日本の作詞家・訳詞家。1916年3月28日、韓国、京城(現在のソウル特別市)生まれ。神戸女学院大学卒業後、就職した宝塚歌劇団出版部で越路吹雪と出会い、マネージャーを務めるかたわら、越路の歌うシャンソンの訳詞を手がけたのきっかけとして作詞家・訳詞家としての活動を始めました。ただし、訳詞は殆ど意訳なので、本来の意味からかけ離れていることも少なくありません。本来の意味からかけ離れている例として、エディット・ピアフが歌った「愛の賛歌」は元の歌詞が、愛のためなら盗みでもなんでもする、という背徳的な内容であるのに対し、岩谷の訳詩では一途な愛を貫くという賛歌となっています。----------●作詞岸洋子『夜明けのうた』園まり『逢いたくて逢いたくて』加山雄三『君といつまでも』 ザ・ピーナッツ『恋のバカンス』ザ・ピーナッツ、和田弘とマヒナスターズ、西田佐知子『ウナ・セラ・ディ東京』 佐良直美『いいじゃないの幸せならば』 郷ひろみ『男の子女の子』●訳詞『愛の讃歌』 『サン・トワ・マミー』 『ある愛の詩』 『キス・ミー・ケイト』(ミュージカル) 『レ・ミゼラブル』(ミュージカル) 『命をあげよう』(ミュージカル~ミス・サイゴン)
July 5, 2006
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●橋本 淳(はしもと じゅん)日本の作詞家。1939年7月8日生まれ。東京都出身。青山学院大学卒業。キングレコードに入社し、翻訳などを担当。1960年中ごろ、フジテレビのすぎやまこういちに師事し、すぎやまの担当番組「ザ・ヒットパレード」のアシスタントをするなどして、一緒に仕事をするようになり、そのころ、すぎやまが行っていた作曲の勉強会に参加するようになります。1967年、すぎやまこういち作曲の「涙のギター」で作詞家デビュー。その後、ザ・タイガースの「モナリザの微笑み」、「君だけに愛を」など、作曲家、すぎやまこういちと組んで、数々のGSヒット曲を世に送り出しました。1967年、ブルー・コメッツの「ブルー・シャトー」、で日本レコード大賞を受賞しました。作曲家、筒美京平と組んだ作品も多く、中でも1968年の作品で、いしだあゆみが歌った「ブルーライト・ヨコハマ」は、1969年にミリオンセラーになりました。
July 4, 2006
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●いずみ たく日本の作曲家。昭和5年(1930年)1月20日生まれ。平成4年(1992年)5月11日死去。享年62。東京都出身。本名:今泉 隆雄(いまいずみ たかお)元参議院議員。仙台の陸軍幼年学校に在学中、敗戦を迎える。東京府立第五中学校(現東京都立小石川高等学校)を経て、1946年、一期生として鎌倉アカデミア演劇科に入学。1950年に舞台芸術学院演劇学科を卒業。5年間のタクシー運転手を経て芸能界に入りました。1960年初めごろまではCMソングや映画、舞台などの作品を手がけて、歌謡曲の世界には1960年代中ごろから入ったのですが、楽曲のクオリティーの高さから、たちまちヒット曲を連発し、売れっ子作家になります。1969年(昭和44年)には佐良直美が歌った『いいじゃないの幸せならば』が日本レコード大賞を受賞しました。彼は、歌謡曲から、フォークソング、ミュージカルソング、CMソング、アニメソング、童謡、校歌と、幅広いジャンルの曲を作曲しました。多作で知られ、総作品数は15,000曲にものぼると言います。弟子には、佐良直美、いしだあゆみ、今陽子(ピンキー)、朱里エイコなどがいます。「うたごえ運動」をベースとしてコーラスと「みんなで歌える歌」に重点を置き、ピンキーとキラーズや青い三角定規などを世に送り出しました。また、「歌はドラマである」という自らのモットーに基づいて、「見上げてごらん夜の星を」など、多数のミュージカルを手がけ、ミュージカルの制作と共に、ミュージカル俳優の育成にも情熱を注ぎました。日本共産党支持者として有名で、1989年からは参議院議員を務め、「日本は世界第2位の経済大国であるのに、国の文化・芸術関連への予算配分が少なすぎる」として、文教関係予算の増額のために活動しましたが、1992年5月11日、肝不全のため任期半ばで死去しました。----------●主な作品青い三角定規 『太陽がくれた季節』(1972)(日本テレビ系「飛び出せ!青春」主題歌) 岸洋子 『希望』(1970)『夜明けのうた』(1964)坂本九 『見上げてごらん夜の星を』(1963)佐良直美 『世界は二人のために』(1967)『いいじゃないの幸せならば』(1969) 日本レコード大賞受賞 沢たまき 『ベッドで煙草をすわないで』(1966)デューク・エイセス 『女ひとり』(1965) ザ・ドリフターズ/デューク・エイセス 『いい湯だな』(1966)中村雅俊 『ふれあい』(1974)(日本テレビ系「われら青春!」主題歌) ミリオンセラー ピンキーとキラーズ 『恋の季節』(1968) ミリオンセラー由紀さおり 『夜明けのスキャット』(1969) ミリオンセラー アニメソング「宇宙エース」 「宇宙少年ソラン 」「ゲゲゲの鬼太郎」(歌:滝口順平、吉幾三、憂歌団) 「タイガーマスク」 「もーれつア太郎」 「ニャロメのうた」(『もーれつア太郎』挿入歌) 「魔法少女ララベル」 「それいけ!アンパンマン」 童謡 「手のひらを太陽に」(作詞:やなせたかし) CMソング 「愛のスカイライン」(日産自動車) 「キャンロップの歌」(佐久間製菓) 「不二家パラソルチョコレート」(不二家) 「明治マーブルチョコレート」(明治製菓) 「チョコレートは明治」(明治製菓) 「伊東温泉ハトヤホテル・伊東に行くならハトヤ」(ハトヤホテル) 「ハウス・バーモントカレーの唄」(ハウス食品)
July 3, 2006
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●鈴木 邦彦(すずき くにひこ)日本の作曲家。昭和13年(1938年)生まれ。東京都出身。慶応義塾大学経済学部卒業。ピアニスト、アレンジャー、作曲家としてデビュー。 西ドイツ ドルトムントにおける世界体操選手権大会に、日本代表選手のピアニストとして参加。世界選手権大会 床運動の規定曲作曲。 1968年に、黛ジュンが歌った「天使の誘惑」で日本レコード大賞受賞。 株式会社ベルミュージック設立。 株式会社エンジェルミュージック設立。 日本ミュージックベル協会設立。 株式会社ウエディングベル設立。----------●主な作品黛ジュン 『恋のハレルヤ』(作詞:なかにし礼)(1967)『天使の誘惑』(作詞:なかにし礼)(1968) 日本レコード大賞受賞 『夕月』(作詞:なかにし礼)(1968) 奥村チヨ 『恋の奴隷』(作詞:なかにし礼)(1969) チャート1位 52万枚セールスゴールデン・カップス 『長い髪の少女』(作詞:橋本淳)(1968) 江利チエミ 『酒場にて』(作詞:山上路夫)(1974)朱里エイコ『北国行きで』(作詞:山上路夫)(1972) 『あしたのジョー~美しき狼たち~』(作詞:たかたかし) 『NHKのど自慢』のテーマソング
July 2, 2006
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●村井 邦彦(むらい くにひこ)日本の作曲家、音楽プロデューサー。村井邦彦は、赤坂のレコード店経営から転じて、1960年代後半のGSブームをきっかけに作曲家としてデビューしました。ザ・テンプターズに提供した「エメラルドの涙」を皮切りとし、モップスの「朝まで待てない」、ザ・タイガースの「廃墟の鳩」などの大ヒットを放ち、たちまち売れっ子作家になりました。1969年に音楽出版社アルファ・ミュージックを作り、日本コロンビア内にアルファ・レーベルを創設。プロデューサーとして、赤い鳥やガロ、荒井由実(後の松任谷由実)などを世に送り出します。洋楽的センスや流行を取り入れ、キャロル・キングの録音風景からヒントを得たという、ヘッド・アレンジ(楽譜を使わずセッションで曲を練る)を積極的に導入しました。セッション・ミュージシャン集団ティン・パン・アレイを見出して、さまざまなアーティストの録音に起用しました。さらに1978年にはアルファ・レコードを設立し、元ティン・パン・アレイの細野晴臣を中心としたイエロー・マジック・オーケストラ(YMO)を成功させるなど、作曲のみならず、広く多方面に活動し、日本のポピュラー・ミュージック界に大きな影響を与えました。----------●主な作品ザ・テンプターズ 『エメラルドの伝説』(1968) ズー・ニー・ブー 『白いサンゴ礁』(1969)トワ・エ・モア 『或る日突然』(1969)トワ・エ・モア 『虹と雪のバラード』(1971) 札幌オリンピックテーマソングピーター 『夜と朝の間に』(1969)赤い鳥 『翼をください』(1970)辺見マリ 『経験』(1970)北原ミレイ 『ざんげの値打ちもない』(1970)
July 1, 2006
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