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恋のゆくえ~ファビュラス・ベイカー・ボーイズ ― オリジナル・サウンドトラック / デイヴ・グルーシンThe Fabulous Baker Boys: Original Motion Picture Soundtrack / Dave Grusinオリジナル盤発売日:1989年9月25日レーベル:GRP 1.Jack's Theme (Main Theme from the Fabulous Baker Boys) メイン・タイトル(ジャックのテーマ)2.Welcome To The Road ウエルカム・トゥ・ザ・ロード3.Makin' Whoopee メイキン・フーピー / ミッシェル・ファイファー4.Suzie And Jack スージーとジャック 5.Shop Till You Bop ショップ・ティル・ユー・バップ 6.Soft On Me ソフト・オン・ミー 7.Do Nothin' Till You Hear From Me ドゥ・ナッシン・ティル・ユー・ヒア・フロム・ミー / デューク・エリントン・オーケストラ 8.Moment Of Truth ザ・モーメント・オブ・トゥルース 9.Moonglow ムーングロウ / ベニー・グッドマン・カルテット [Original Recording] 10.Lullaby Of Birdland バーランドの子守歌 / アール・パーマー・トリオ 11.My Funny Valentine マイ・ファニー・ヴァレンタイン / ミッシェル・ファイファー 1、6、8~11:デイヴ・グルーシン(p, kbds)アーニー・ワッツ(sax)サル・マーケズ(tp)リー・リトナー(g)ブライアン・ブロムバーグ(b)ハーヴィー・メイソン(ds)ミッシェル・ファイファー(vo)(3、11)7:ザ・デューク・エリントン・オーケストラ9:ベニー・グッドマン・カルテットベニー・グッドマン(cl)テディ・ウィルソン(p)ライオネル・ハンプトン(vib)ジーン・クルーパー(ds)10:アール・パーマー・トリオ■第32回(1989年度)グラミー賞ベスト・サウンドトラック部門受賞アルバム■マイ・ファニー・ヴァレンタイン:第32回(1989年度)グラミー賞ベスト・アレンジメント部門受賞曲----------このアルバムは、デイヴ・グルーシンが音楽を担当した1989年の映画、『恋のゆくえ(原題:The Fabulous Baker Boys)』のオリジナル・サウンドトラック。グラミー賞のベスト・サウンドトラック賞とベスト・アレンジの2部門で受賞し話題になりました。映画は、都会の夜のピアノ・ラウンジやショー・ホールなどで仕事をしているあるバンドマンの話。主人公のジャックとフランクのファビュラス・ベイカー・ボーイズは、兄弟でピアノを弾くツイン・ピアニストのチーム。仕事が下降線をたどるので、彼らは女性シンガーをチームに入れようと考え、そこに加わったのがミッシェル・ファイファー演じるスージーで、この二人の兄弟ピアニストと女性シンガーをめぐる恋の物語が展開するというものです。ゴーシャスでいて寂しさもあるウラ悲しい都会の夜の音楽が、デイヴ・グルーシンによって見事に描かれています。リチャード・ロジャーズ&ロレンツ・ハート作による名曲「マイ・ファニー・ヴァレンタイン」は、そんな都会の夜にぴったりの曲。「マイ・ファニー・ヴァレンタイン」というとマイルス・デイヴィスやチェット・ベイカー、フランク・シナトラなどのものが有名ですが、この歌は「ブサイクだけれども、そのままのあなたが好き」というラヴ・ソングなので、やはり本来は女性に歌ってもらいたいもの、ミッシェル・ファイファーのような人に歌ってもらえれば最高です。ミッシェル・ファイファーの歌うこの曲は、ラストシーンに流れる印象的なもので、歌がうまいとかへたとかいうものではない、なんともいい味で、実によく、この曲の雰囲気を出しています。そこはさすが、デイヴ・グルーシンのアレンジが光っています。このアルバムはサウンドトラックですが、ジャズ・テイストに満ちた音楽は超一級品です。
December 31, 2006
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今日は、ミュージカル映画『サウンド・オブ・ミュージック』の作曲者として有名な、アメリカの作曲家、リチャード・ロジャースが亡くなった日です。リチャード・ロジャース(ロジャーズ)(Richard Rodgers)は、1919年、17歳のときに作曲した曲がミュージカルに使われてから、死の直前の1979年、77歳での作品『ママの思い出』までの、約60年間という長期にわたって作曲活動を行いました。1920年代から作詞家ロレンツ・ハート(Lorenz Hart)と組み「マンハッタン」のヒットで有名になり、次々と大ヒット・ミュージカル作品を世に送り出しました。中でも、1959年に作詞家オスカー・ハマースタイン2世(Oscar Hammerstein 2)とのコンビによるミュージカル作品『サウンド・オブ・ミュージック』は、1965年に映画化されミュージカル映画最大のヒットを記録しました。ジュリー・アンドリュースと子供たちが歌う「ド・レ・ミの歌」は、日本でも子供たちが最初に歌う歌のひとつとしておなじみですし、「マイ・フェイヴァリット・シングス(私のお気に入り)」は、ジョン・コルトレーンの演奏で、ジャズ・スタンダード・ナンバーとしてもあまりにも有名です。そのほかにも、ロレンツ・ハートとのコンビのものでは、「ブルー・ムーン」、「マイ・ロマンス」、「マイ・ファニー・ヴァレンタイン」、「スプリング・イズ・ヒア」、「恋に恋して(Falling In Love With Love)」、「魅惑されて(Bewitched)」、 1943年のハートの死後は、オスカー・ハマースタイン2世と組んで「マイ・フェイヴァリット・シングス(私のお気に入り)」、「春の如(ごと)く(It Might As Well Be Spring)」など、リチャード・ロジャースの作品は、たいへん多くのものがジャズ・スタンダード・ナンバーとして愛され続けています。●リチャード・ロジャース(ロジャーズ)(Richard Rodgers) 1902年6月28日、アメリカ、ニューヨーク州ロング・アイランド生まれ。1979年12月30日、ニューヨークで死去。77歳。----------リチャード・ロジャースは、1902年6月28日、ニューヨーク州ロング・アイランドで、医者の息子として生まれました。彼の両親、ロジャース夫妻は音楽好きで、よく最新のブロードウェイのショーの楽譜を買ってきては、ホームコンサートを開いていました。ドクターがバリトンで歌い、妻がピアノを弾きました。そんな環境の中で、リチャードは6歳のころから、母親にピアノを習い、14歳の時に見た、ブロードウェイ・ミュージカルの虜(とりこ)になります。この夫妻は、他の親と違って、将来ミュージカルの作曲家になりたいという息子を、全面的にバックアップするのでした。コロンビア大学に進んだリチャードは、大学のショーのための作曲を数多く手掛けているうちに、1919年17歳の時、同じコロンビア大学の卒業生でもあるロレンツ・ハートと運命的な出会いをします。ロジャースが作曲をし、ハートが作詞をするということで、早くもこの年には2人の曲が出版されました。その後もこのコンビは作品を書き続けるのですが、これといった反響もないまま時は過ぎて行き、ロジャースは、サラリーマンになることを真剣に考え始めるのでした。そんな1925年に、『ザ・ギャーリック・ゲイティーズ』というショーのために書いた「マンハッタン」という曲が大ヒットしました。これによって、このコンビはガーシュウィンなどがいたハームス・ミュージックと契約し、次々とミュージカル作品を、ブロードウェイやロンドンに送り出すのでした。このコンビは1942年まで続きますが、そのうち、ハートのアルコール依存症がひどくなり、体調不良や失踪(しっそう)など、問題が多くなり、新しい作品が書けない状態になってしまいました。そして、ロレンツ・ハートは肺炎を患ったのが原因で、1943年に48歳という若さでこの世を去ります。ロジャースは1943年、ハートと同じコロンビア大学の先輩でハートと同じ1895年生まれの、オスカー・ハマースタイン2世とコンビを組んで、ミュージカル作品の『オクラホマ』を作ります。ロジャースとハマースタインは、少年時代に同じ地区に住んでいて顔見知りであり、アマチュア時代にはいっしょに曲を作ったこともあった仲でした。ハマースタインは、1920年代の始めからジェローム・カーンなどと組んで、すでにブロードウェイの中心的な台本作者、作詞家として有名でしたが、30年代に入ると失敗が続き、40年代になると誰もが彼の時代は終わったものと考えていました。『オクラホマ』はハマースタインもミュージカル化を考えていたもので、ジェローム・カーンのところに話しを持っていくと、カウボーイが出てくるような古めかしい題材では当たらないと言って断られたそうです。しかし、この『オクラホマ』は2212回という、それまでの記録を塗り替える最大のヒット作となったのです。これ以降、このコンビは次々と大ヒットミュージカルを世に送り出しました。1959年のミュージカル『サウンド・オブ・ミュージック』はそのコンビの最後の作品となりました。この作品の完成間近のころ、2人ともガンに侵されていて、ロジャーズは病院と舞台を往復しながら、ハマースタインは余命宣告を受けながら、最後の「エーデルワイス」を書き下ろしたと言います。『サウンド・オブ・ミュージック』が上演された翌年の1960年に、オスカー・ハマースタイン2世はこの世を去りました。リチャード・ロジャースはハマースタインの死後も作品を書き続け、晩年は卒中と心臓発作とガンとに苦しめられながらも、最後の力を振り絞って『ママの思い出』を完成させ、その作品が閉幕した3カ月後の、1979年12月30日、ニューヨークの自宅で77年の生涯を終えたのです。ウイットに富みシャレたハーツの詞と、どっしりとした演劇的なハマースタインの詞という、異なったパートナーにより、ロジャースは2つのスタイルを持てたと言えるかもしれません。また、ロジャースの作曲技法は、コール・ポーターやジョージ・ガーシュウィンに比べると、アメリカ的であるジャズ的サウンドの要素が薄いと言われますが、彼の多くの曲が、ジャズ・ミュージシャンにより演奏され続けていることを見ると、彼の曲が、いかにジャズの素材としても素晴らしいものかということがわかると思います。●ブロードウェイ・ミュージカル19世紀半ばヨーロッパで盛行したオペレッタなどを源流としながら、20世紀初頭に、アメリカで独自の発達を遂げたブロードウェイ・ミュージカルは、アメリカを代表する文化的所産の一つである。ジェローム・カーン、アーヴィング・バーリン、ジョージ・ガーシュウィン、コール・ポーター、そして、リチャード・ロジャーズはミュージカル5大作曲家(Mighty Five)と呼ばれています。*****●代表作【ロジャース&ハーツ】Manhattan(1925)Blue Moon(1935)My Romance(1935)My Funny Valentine(1937)Spring Is Here(1938)Falling In Love With Love 【恋に恋して】(1938)This Can’t Be Love(1938)Bewitched 【魅惑されて】(1941)【ロジャース&ハマースタイン】Oklahoma(1943)It Might As Well Be Spring 【春の如く】(1945)Sound Of Music(1959)My Favorite Things 【私のお気に入り】(1959)DO-RE-MI 【ド・レ・ミの歌】(1959)Edelweiss(1959)リチャード・ロジャース&ロレンツ・ハートリチャード・ロジャース&オスカー・ハマースタイン2世
December 30, 2006
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サムデイ・マイ・プリンス・ウィル・カム +2 / マイルス・デイヴィスSomeday My Prince Will Come / Miles Davisいつか王子様が録音日:1961年3月7、20、21日録音場所:アメリカ、ニューヨークレーベル:Columbia [personnel]マイルス・デイヴィス(tp)ハンク・モブレイ(ts)ジョン・コルトレーン(ts)[1],[5]ウィントン・ケリー(p)ポール・チェンバース(b)ジミー・コブ(ds)[収録曲] 1.Someday My Prince Will Come サムデイ・マイ・プリンス・ウィル・カム2.Old Folks オールド・フォークス3.Pfrancing プフランシング4.Drad Dog ドラッド・ドッグ5.Teo テオ6.I Thought About You アイ・ソート・アバウト・ユー7.Blues No. 2 ブルースNo. 28.Someday My Prince Will Come サムデイ・マイ・プリンス・ウィル・カム(別テイク)----------このアルバムは、マイルス・デイヴィスの1961年の作品で、あの歴史的名盤、『カインド・オブ・ブルー』からちょうど2年後のものになります。アルバムの日本語タイトルは『いつか王子様が』という、ちょっと気恥ずかしい乙女チックな名前がつけられていましたが、新しいものでは『サムデイ・マイ・プリンス・ウィル・カム』になっています。マイルス・デイヴィスは、アメリカ・コロンビア・レコードからのデビュー・アルバム、『ラウンド・アバウト・ミッドナイト』で、初めて自己のクインテットでハードバップ・スタイルを確立しました。ジョン・コルトレーンはマイルスに起用されることにより、ジャズ界の人々の間で名声を高めていくようになります。マイルスはアルバム『マイルストーンズ』で初めてモード奏法を用い、バンドはキャノンボール・アダレイの参加によって強力なセクステットになりました。アルバム『1958 マイルス』では、ビル・エヴァンスがマイルスのバンドに加わります。エヴァンスの影響は、これらの初期のセッションに大きく現れています。 より洗練されたマイルスのモード・スタイルは、アルバム『カインド・オブ・ブルー』として実を結びました。この作品は、ジャズ・ミュージックの傑作のひとつとして歴史的名盤になりました。ビル・エヴァンスは、『カインド・オブ・ブルー』のあとすぐにマイルスのもとを離れ、自己のトリオで活動を始めます。それから2年後に作られた、このアルバム『サムデイ・マイ・プリンス・ウィル・カム』では、サックスにハンク・モブレイ、ピアノにウィントン・ケリーが、マイルス・バンド・メンバーのベーシスト、ポール・チェンバースやドラマー、ジミー・コブに加わり、よりファンキーな編成になりました。ジョン・コルトレーンは、自己のリーダー・アルバム『ジャイアント・ステップ』などを録音しており、このときはすでに退団していましたが、ここではゲストとして、2曲に参加しています。イモ・テナーと言われているハンク・モブレイは、ブルース寄りのみごとなソロを生み出しています。片や、シーツ・オブ・サウンズが完成の域に達したコルトレーンは、堂々とした風格あるプレイを見せています。タイトル曲「サム・デイ・マイ・プリンス・ウィル・カム」と「テオ」でのソロは、実に素晴らしいとしか言いようがありません。マイルスはマイペースでミュート・トランペットの円熟したプレイを聴かせてくれます。アルバム・ジャケットに女性を掲載するようになったのは、この作品からで、ここでは当時のマイルス夫人のフランシス・テイラーがジャケットを飾っています。このアルバムに収録されている「プフランシング(Pfrancing)」は彼女へ送った曲だということです。この時期のマイルス・デイヴィス・バンドの変遷が明らかになったアルバムです。
December 29, 2006
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再セットアップ。1.5
December 28, 2006
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1958 マイルス +2 / マイルス・デイヴィス1958 Miles / Miles Davis発売日:2001年レーベル:ソニーミュージックエンタテインメント[personnel]マイルス・デイヴィス(tp)ジョン・コルトレーン(ts)キャノンボール・アダレイ(as)ビル・エヴァンス(p)ポール・チェンバース(b)ジミー・コブ(ds)レッド・ガーランド(p)フィリー・ジョー・ジョーンズ(ds)[収録曲] 1.On Green Dolphin Street オン・グリーン・ドルフィン・ストリート2.Fran-Dance フラン・ダンス3.Stella By Starlight 星影のステラ4.Love For Sale ラヴ・フォー・セール5.Little Melonae リトル・メロネー6.Little Melonae リトル・メロネー(別テイク)7.Fran-Dance フラン・ダンス(別テイク)----------このアルバムは、マイルス・デイヴィスの散在していた1958年録音の音源を集めた、日本独自企画による作品集で、何よりも世紀の大名盤である『カインド・オブ・ブルー』と同じメンバーによる、スタジオ録音を集めた唯一のアルバムということですから、ファンにとってはたまらなく魅力のあるものです。内容は、「オン・グリーン・ドルフィン・ストリート」、「ラヴ・フォー・セール」、「星影のステラ」といった人気のスタンダード・ナンバーから、妻フランシスにあててマイルスが書いたオリジナル曲「フラン・ダンス」なども収録されています。マイルスは1958年に、キャノンボール・アダレイをバンドに迎え入れクインテットからセクステットに拡大し、やがてピアノにビル・エヴァンスが加入、ドラマーもジミー・コブになり、いよいよメンバーが充実しての初顔合わせ的録音を集めたのがこのアルバムです。(「リトル・メルロー」のみ旧クインテットでの録音。)この録音では、まだ実験的な段階のため、スタンダード・ナンバーを多くやっているようで、それが『カインド・オブ・ブルー』を知っている人にとっては興味深いものになっていますが、同時に親しみやすいものでもあり、マイルスを初めて聴く人にもいいかもしれません。ここで特に素晴らしいのは、マイルスとビル・エヴァンスで、このアルバムからは、あの『カインド・オブ・ブルー』の兆(きざ)しが感じられて、思わずわくわくしてしまいます。エヴァンスのリリカルで美しく、優雅でいて、しかも力強いプレイからは、やはり、ビル・エバンスなくして『カインド・オブ・ブルー』はありえなかったのだということを感じます。もちろんコルトレーン、キャノンボールも皆、素晴らしく、この録音の翌年、この6人からジャズの歴史的名盤『カインド・オブ・ブルー』が生まれるわけです。このアルバムは、その歴史的幕開けの前夜を記録した録音として、実に意義深いものがあると思います。この素晴らしいマイルス・セクステットから、コルトレーンがサックスを代表する巨人に、ビル・エヴァンスがピアノを代表する巨人にそれぞれ巣立っていくことになります。ジャケット・デザインは故、池田満寿夫氏によるものです。
December 28, 2006
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今年は、一年じゅう最後までいろいろなものが壊れて、修理代が増えていく一方だ。車は、4月にサスペンション・ロワー・アーム交換、オイル漏れ修理で約5万円。4月はデスクトップ型のパソコンも壊れて、交換した。ノート・パソコンは、6月に液晶ディスプレイ交換で約7万円。同じノート・パソコンは10月に今度は起動しなくなった。いくらかかるか怖くてまだ修理に出していない。パソコンはすぐ壊れるものなのか、もうひとつの別のデスクトップ型はCDが焼けなくなってしまった。変な音がするし、何か調子がおかしい。昨日は、4月に変えたほうのデスクトップ型のパソコンが、漏電の点検で停電になった時、終了していたのに立ち上がらなくなった。コンセントを抜いてなかったためどうも部品がいかれたらしい。今日は、車のラジエターにヒビが入っていることが判明。もう年内は修理ができないということなので、そのまま車屋で年を越すことになるらしい。修理代は、ここにきて見積りで約5万円。そういえばつい最近、やっとタイヤ4本変えたのだった。その支払いもまだ残っている。まだまだあった、今年は3月にコンポもいかれたので、買い換えたんだった。カードはまだ使えるのかな。家賃払えるかな。年末だというのに年が越せるのかなあ。さすがに不安になってきた。しかし、うれしいこともあった。ガソリンスタンドで食パンを2斤もいただいたので、これでどうやら年は越せそうだ。よかった、よかった。
December 27, 2006
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スターダスト / ナタリー・コールStardust / Natalie Coleオリジナル盤発売日:1996年9月24日レーベル:Elektra1.There's A Lull In My Life ゼアズ・ア・ルル・イン・マイ・ライフ 2.Stardust スターダスト3.Let's Face The Music And Dance レッツ・フェイス・ザ・ミュージック・アンド・ダンス4.Teach Me Tonight 今夜教えて5.When I Fall In Love 恋におちた時6.What A Diff'rence A Day Made 縁は異なもの 7.Love Letters ラヴ・レター 8.He Was Too Good To Me 私には良すぎた彼9.Dindi ジンジ10.Two For The Blues ツー・フォー・ザ・ブルース11.If Love Ain't There イフ・ラヴ・エイント・ゼア 12.To Whom It May Concern トゥ・フーム・イット・メイ・コンサーン13.Where Can I Go Without You? 君ありてこそ 14.Ahmad's Blues アーマッズ・ブルース15.Pick Yourself Up ピック・ユアセルフ・アップ 16.If You Could See Me Now イフ・ユー・クッド・シー・ミー・ナウ 17.Like A Lover ライク・ア・ラヴァー 18.This Morning It Was Summer ディス・モーニング・イット・ワズ・サマー 19.When I Fall In Love ステイ・アズ・スウィート・アズ・ユー・アー ----------これは、1996年に発表されたアルバムで、1991年の『アンフォゲッタブル』、1993年の『テイク・ア・ルック』に続く、3枚目のスタンダード・アルバム。このアルバムからのシングルカットされた曲「恋におちた時」は、父であるナット・キング・コールのアルバム『ラヴ・イズ・ザ・シング(恋こそはすべて)』にも収録されていたもので、この曲を『アンフォゲッタブル』同様、亡き父とのデュエットで歌われています。ナタリー・コールは、アルバム『アンフォゲッタブル』の大ヒットで、それまでのブラック・コンテンポラリー路線から、父ナット・キング・コールと同様のジャズ、ポップスのシンガーに転向し、新しいキャリアを築き始めました。エレクトラ・レーベルにおける第1作のアルバム『アンフォゲッタブル』は、1992年の第34回グラミー賞の最優秀トラディショナル・ポップ歌唱賞や、最優秀アルバム賞など7部門を受賞しました。そして、第2作の『テイク・ア・ルック』は、よりジャズ色の濃いものとなり、ジャズ・シンガーとして生きる姿勢と実力を示したもので、その結果、1994年の第36回グラミー賞ではジャズ・ヴォーカル賞を受賞しました。そしてこの第3作では、全19曲のうち、12曲はナット・キング・コールが録音したことがある曲で、特に「スターダスト」と「ラヴ・レター」はスタンダードの代表的名唄になっているものです。ナタリー・コールは、それらの曲を父から受け継ぎ、ジャズ・シンガーとして堂々と歌っています。
December 27, 2006
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今日は、超有名曲の「スターダスト」、「ジョージア・オン・マイ・マインド」などを作曲した、アメリカのソングライター、ホーギー・カーマイケルが亡くなった日です。ホーギー・カーマイケルは、ピアノも弾き、自ら歌も歌うという自作自演をしており、偉大なシンガー・ソング・ライターともいうべき人でしょう。●ホーギー・カーマイケル(Hoagy Carmichael)1899年11月22日、アメリカ、インディアナ州ブルーミントン生まれ。1981年12月27日、カリフォルニア州パーム・スプリングスで、82歳で死去。●ホーギー・カーマイケル誕生
December 27, 2006
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IBMのパソコンが壊れた。漏電検査のための停電が原因だったらしい。ハードディスク・データをDELLに移した。CRTは寿命なので、ついでに使えそうなものに交換した。
December 26, 2006
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チェット・ベイカー・シングス・アンド・プレイズ / チェット・ベイカーChet Baker Sings And Plays / Chet Baker録音日:1955年録音場所:アメリカ、ロサンゼルスオリジナル盤発売日:1955年レーベル:Pacific Jazz[personnel]Edgar Lustgarten (Cello) Johnny Mandel (Arranger) Marty Paich (Arranger) Bob Neel (Drums) Carson Smith (Bass) Eleanor Slatkin (Cello) Kurt Reher (Cello) Corky Hale (Harp) Frank Campo (Arranger) Ray Kramer (Cello) Chet Baker (Trumpet, Vocals, Main Performer) Russ Freeman (Piano) Red Mitchell (Bass) Bud Shank (Flute) [収録曲] 1.Let's Get Lost レッツ・ゲット・ロスト2.This Is Always ジス・イズ・オールウェイズ3.Long Ago And Far Away ロング・アゴー・アンド・ファー・アウェイ4.Someone To Watch Over Me サムワン・トゥ・ウォッチ・オーヴァー・ミー5.Just Friends ジャスト・フレンズ6.I Wish I Knew アイ・ウィッシュ・アイ・ニュー7.Daybreak デイブレイク8.You Don't Know What Love Is ユー・ドント・ノウ・ホワット・ラヴ・イズ9.Grey December グレイ・ディセンバー10.I Remember You アイ・リメンバー・ユー----------このアルバムは、チェット・ベイカーの1955年に録音されたもので、『チェット・ベイカー・シングス』と同じ時期のもの。バド・シャンクのフルートやストリングスと共演しています。『チェット・ベイカー・シングス』にプレイズが付いているように、チェット・ベイカーの歌と演奏が堪能できる名盤です。「ユー・ドント・ノウ・ホワット・ラヴ・イズ」などは絶品。
December 26, 2006
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ラヴ・ソング / チェット・ベイカーLove Song / Chet Baker録音日:1986年12月17~19日録音場所:オランダレーベル:BMG JAPAN [personnel]チェット・ベイカー(tp)ハロルド・ダンコ(p)ジョン・バー(b)ベン・ライリー(ds)[収録曲] 1.I’m A Fool To Want You アイム・ア・フール・トゥ・ウォント・ユー 2.You And The Night And The Music あなたと夜と音楽と 3.Round Midnight ラウンド・ミッドナイト 4.As Time Goes By 時のたつまま 5.You’d Be So Nice To Come Home To ユード・ビー・ソー・ナイス 6.Angel Eyes エンジェル・アイズ 7.Caravelle カラヴェール ----------チェット・ベイカーは、1988年5月13日にオランダで亡くなりますが、このアルバムはその約1年半前の1986年の12月に、オランダでスタジオ録音されたアルバムです。収録曲7曲のうち1~6曲目のものは、いずれもよく知られたスタンダード・ナンバーで、チェットは1、2、4、5、6でヴォーカルもとっています。チェット・ベイカーは、この年の3月に初来日し、好評を得ましたが、そのときを彷彿(ほうふつ)される内容のものだということです。サポート・メンバーもいいプレイをしていて、全体の質が高いもので、私の愛聴盤のひとつです。
December 25, 2006
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チェット・ベイカー・シングス / チェット・ベイカーChet Baker Sings / Chet Baker録音日:1954年2月15日:7~141956年7月23、30日:1~6録音場所:アメリカ、ロサンゼルスオリジナル盤発売日:1956年レーベル:Pacific Jazz[personnel]チェット・ベイカー(tp)ラス・フリーマン(p)ジェームス・ボンド(b)ピーター・リットマン(ds)ローレンス・マラブル(ds)ボブ・ニール(ds)[収録曲] 1.That Old Feeling ザット・オールド・フィーリング2.It's Always You イッツ・オールウェイズ・ユー3.Like Someone In Love ライク・サムワン・イン・ラヴ4.My Ideal マイ・アイディアル5.I've Never Been In Love Before アイヴ・ネヴァー・ビーン・イン・ラヴ・ビフォー6.My Buddy マイ・バディ7.But Not For Me バット・ノット・フォー・ミー8.Time After Time タイム・アフター・タイム9.I Get Along Without You Very Well アイ・ゲット・アロング・ウィズアウト・ユー・ヴェリー・ウェル10.My Funny Valentine マイ・ファニー・ヴァレンタイン11.There Will Never Be Another You ゼア・ウィル・ネヴァー・ビー・アナザー・ユー12.Thrill Is Gone ザ・スリル・イズ・ゴーン13.I Fall In Love Too Easily アイ・フォール・イン・ラヴ・トゥ・イージリー14.Look For The Silver Lining ルック・フォー・ザ・シルヴァー・ランニング----------これは、チェット・ベイカーの1954年と1956年の録音のアルバムです。チェット・ベイカーは、もともとはトランペット奏者で、その実力は、チャーリー・パーカーにも認められていました。その彼が、歌うようになったのは1950年代初めのことです。すると、それが評判を呼んだため、ヴォーカルをフィーチャーしたアルバムが企画され、それがこの『チェット・ベイカー・シングス』です。このアルバムによってチェットはシンガーとしての名声を確立したもので、彼の代表的なアルバムであると共に、ジャズ・ヴォーカル・アルバムの名盤に挙げられています。最初に、同名の10インチ(25センチ)LPで発売されたのは1954年で、このCDの7曲目から14曲目の後半8曲の、1954年に録音された部分のものです。これが大ヒットしたことによって、振興レコード会社のパシフィック・ジャズ・レコードの経営は軌道に乗り、ウエスト・コースト・ジャズの拠点となっていきます。そして、1956年に録音された6曲が1曲目から6曲目までに追加され、同年1956年に『チェット・ベイカー・シングス』として発売されました。特に「マイ・ファニー・ヴァレンタイン」は、チェットのシンガーとしての人気を決定づけた曲で、そこには独特の、けだるい倦怠感ただようアンニュイな世界が広がり、聴くものは、ついその退廃的とも言える、あやしくあぶなげな、けだるい世界へと引きずり込まれてしまいます。チェット・ベイカーの歌声は、知らずに聴くと女性の歌声だと思ってしまうもので、このアルバムでは、その中性的と形容される、アンニュイな歌声とリリカルなトランペットが、見事にチェット・ベイカーの魅力的な世界を作っています。しかし、このアルバムの素晴らしいところは、チェットの個性的なヴォーカルとトランペットによるものだけではなく、そのヴォーカルとトランペット・ソロの絶妙なバランスにあります。それは、このアルバムにクレジットされているピアニストのラス・フリーマンによるもで、チェットの友人でもあるというフリーマンが、どの部分を歌って、どの部分をトランペット・ソロにするかという編曲をしたようで、それがチェットの魅力を最大限に引き出すことに成功し、単なるヴォーカル・アルバムではない名盤というものになり得た要因のひとつだと言えるでしょう。さらに、フリーマンはピアノで歌とトランペット・ソロをサポートし、自身のソロでもセンスのいいプレイをするなど、このアルバムでの彼の存在は大きいものです。ジャケットの写真に、チェットと共にフリーマンが登場していることでも、彼の重要性が伺われるでしょう。
December 24, 2006
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今日は、アメリカのジャズ・トランペット奏者であり、ジャズ・シンガーでもある、チェット・ベイカーが生まれた日です。●チェット・ベイカー(Chet Baker)本名:Chesney Henry Baker Jr. 1929年12月23日、アメリカ、オクラホマ州イェール生まれ。1988年5月13日、オランダ、アムステルダムにて死亡。58歳。----------チェット・ベイカーは、1929年12月23日に、アメリカのオクラホマ州イェールという町で生まれましたが、すぐにオクラホマシティーに越し、そこで育ちました。その後、1940年にカリフォルニア州のグレンデールに引っ越し、ウエスト・コーストの地で少年時代を送ります。カントリー・バンドでギターをプレイし、ヒルビリー音楽のラジオ番組をもっていた彼の父親は、音楽に興味をもっていた13歳のチェットに、トランペットを与えました。1946年、彼は16歳で軍隊に入り、そこで初めてジャズと出会いました。ジャズの虜になった彼は、除隊後ロスのエル・カミーロ大学で音楽理論を学びますが、1950年に再び徴兵され従軍します。除隊になるとロサンゼルスで、本格的にジャズ・ミュージシャンとしての活動を始めました。当時、ジャズの中心地は完全にニューヨークでしたが、ニューヨークで活躍していたアルト・サックスの巨人、チャーリー・パーカーが、1952年に西海岸ツアーを行うためにロスにやって来ました。その時、ツアーのサポート・メンバーを決めるためにオーディションが行なわれ、そこでチェットが選ばれました。チャーリー・パーカーは、チェットのことを気に入り、彼を正式なトランペッターとして迎え、1952年から1953年にかけてチャーリー・パーカーのバンドに在籍しました。1953年のアルバム『The Bird You Never Heard』など、チャーリー・パーカーの何枚かのアルバムのレコーディングにも参加しています。同じ頃、チェットはロスのクラブ「ヘイグ」で行われたジャム・セッションに参加し、そこでバリトン・サックス奏者のジェリー・マリガンと出会いました。二人は意気投合し、その後一風かわったピアノ・レス・バンドを結成し、大きな話題となり、ウエスト・コースト・ジャズというジャズの新しい流れを生み出すきっかけになりました。しかし、このバンドは1953年にジェリー・マリガンがドラッグの不法所持で逮捕されたため、解散することになりました。そのため、チェットはソロ活動を行いましたが、ひょんなことから歌を歌うことになり、チェットのヴォーカルをフィーチャーし、1954年に10インチLPとしてリリースされたアルバム、『チェット・ベイカー・シングス』が大ヒットしたため、一躍注目を浴びるようになりました。以後はトランペッター兼シンガーということで活動し、中性的な独特の歌唱と、角度によってはジェームス・ディーンに似ているそのマスクから、ジャズ界のジェームス・ディーンとも呼ばれ、全盛期にはマイルス・デイヴィスも及ばないほどの人気を博しました。彼は、影響を受けたミュージシャンとして、1950年代~1960年代のマイルスを挙げています。「僕のジャズ・トランペッターとしてのスタイルを決定的にしたのはあの頃のマイルスだ。あの演奏を聴いて、その真似をしたんだよ。50年代60年代のマイルスの音楽世界はとにかく素晴らしいよ」と語っていたそうです。チェット・ベイカーは、ジャズのイキなところを見事に表現したところが、この人の魅力でしょう。そして、彼の生き様は栄光と挫折が織り成す波乱万丈の人生ドラマであり、まさにジャズ・ミュージシャンを絵に描いたような超破滅的人生そのものが、「チェット・ベイカーのジャズ」という音楽であったと言えるでしょう。ジャズと女と麻薬の人生・・・。そして、アムステルダムのホテルからの転落死という最期をむかえるのでした。
December 23, 2006
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彼女がクリスマスにしてもらいたいと思う演出「女性が恋人(彼氏)からクリスマスにしてもらいたい演出を、18歳から54歳の女性143人にアンケートをした結果」というのを、テレビでやっていました。1位 高級レストランでディナー(夜景を見ながら)・・・63人2位 サンタクロースの格好をする・・・28人3位 サプライズ・プレゼント(ぬいぐるみに指輪が入っているなどのサプライズ)・・・25人4位 ホテルのスイートルーム(高級ホテルを予約する)・・・14人5位 バラ(花)でいっぱいにする(部屋、お風呂など)・・・5人6位 手料理を作ってくれる・・・3人7位 ヘリコプターで遊覧・・・2人7位 クルージング・ディナー(花火付き)・・・2人8位 高層ビルの部屋の明かり使って愛の告白(I LOVE YOUなど)・・・1人
December 22, 2006
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ラウンド・アバウト・ミッドナイト / マイルス・デイヴィス'Round About Midnight / Miles Davis 録音日:1955年10月26日:2、7~9 1956年6月5日:4~6 1956年9月10日:1、3、10録音場所:アメリカ、ニューヨークレーベル:Columbia[personnel]マイルス・デイヴィス(tp)ジョン・コルトレーン(ts)レッド・ガーランド(p)ポール・チェンバース(b)フィリー・ジョー・ジョーンズ(ds)[収録曲] 1.'Round Midnight ラウンド・ミッドナイト 2.Ah-Leu-Cha ア・リュー・チャ 3.All Of You オール・オブ・ユー 4.Bye Bye Blackbird バイ・バイ・ブラックバード 5.Tadd's Delight タッズ・デライト 6.Dear Old Stockholm ディア・オールド・ストックホルム 7.Two Bass Hit トゥー・ベース・ヒット (CDボーナス・トラック)8.Little Melonae リトル・メロネー (CDボーナス・トラック)9.Budo バッドオー (CDボーナス・トラック)10.Sweet Sue, Just You スウィート・スー、ジャスト・ユー (CDボーナス・トラック)----------これは、マイルス・ディヴィスが1955年~1956年にレコーディングしたもので、コロンビア(現ソニー)への移籍第一弾のアルバムになります。マイルス・デイヴィスの代表的アルバムのひとつです。マイルス・デイヴィスは、1940年代末からジャズの第一線で活躍してきましたが、その彼が、自身のバンドを率いてハードバップと呼ばれるジャズのスタイルを確立させた、歴史的アルバムと言えるものです。当時まだ新人だったテナー・サックスのジョン・コルトレーンを起用、ピアノがレッド・ガーランド、ベースがポール・チェンバース、ドラムスがフィリー・ジョー・ジョーンズという、マイルスの第一期黄金のクインテットのデビュー・アルバムです。マイルスの代表的アルバムというものは、とても一枚では挙げられません。それは、マイルスは音楽的に、常に変化し続けたミュージシャンだったからです。したがって、それを一枚のアルバムで知ることなど不可能なのですが、このアルバムは、「マイルスの世界」というものをまざまざと感じされられるものです。そして、このアルバムには何よりも、名曲、名演奏とは何か、アレンジとはどういうものか、といったジャズの全ての要素がつまっているもので、「これこそがジャズだ!」というモダン・ジャズの代表的なアルバムだと思います。要するに、このアルバムはジャズの素晴らしさを感じる名盤です。やはりマイルス。
December 22, 2006
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マイルスは、気が狂ったのか?【ジャズの歴史的アルバム】ビッチェズ・ブリュー / マイルス・デイビスBitches Brew / Miles Davis録音日:1969年8月19日:ディスク1-2、ディスク2-2、4 1969年8月20日:ディスク2-3 1969年8月21日:ディスク1-1、ディスク2-1 1970年1月28日:ディスク2-5録音場所:アメリカ、ニューヨークオリジナル盤発売日:1970年4月(アメリカ)レーベル:Columbia[personnel]マイルス・デイヴィス(tp)ウェイン・ショーター(ss)ベニー・モウピン(bcl)ジョー・ザヴィヌル(elp)チック・コリア(elp)ラリー・ヤング(elp)[D1-1][D2-1]ジョン・マクラフリン(elg)デイヴ・ホランド(b)ハーヴェイ・ブルックス(b)[D2-5]以外レニー・ホワイト(ds)[D2-3][D2-5]以外ジャック・デジョネット(ds)ドン・アライアス(ds,per)ビリー・コブハム(ds)[D2-5]ジム・ライリー(per)[D2-5]以外アイアート・モレイラ(per)[D2-5][収録曲] ディスク:11.Pharaoh's Dance ファラオズ・ダンス2.Bitches Brew ビッチェズ・ブリューディスク:2 1.Spanish Key スパニッシュ・キー2.John McLaughlin ジョン・マクラフリン3.Miles Runs The Voodoo Down マイルス・ランズ・ザ・ヴードゥー・ダウン4.Sanctuary サンクチュアリ5.Feio フェイオ (ボーナス・トラック)----------これは、ジャズ史上に起こった「フュージョン誕生」のきっかけになったアルバムです。このアルバムが発表されたとき、それはものすごくショッキングな出来事だったことでしょう。『ビッチェズ・ブリュー』は、マイルス・デイヴィスが1970年に発表したアルバムで、これぞ、またしても、マイルスが今までのジャズの概念を覆(くつがえ)してしまった、ジャズの歴史的アルバムで、このアルバムが世に出た瞬間に一大センセーションを巻き起こし、その後の音楽に新しいジャンルのカテゴリーを作ってしまうことになるきっかけにもなるほど、ジャズのありかたをも変えてしまうことになる新しいサウンドでした。それは、ジャズというワクに収めておくことができないぐらいに飛躍したものであったため、ついに「ジャズをも超えた」とまで言われたものです。しかし、そのため、それまでのマイルスのファンや、ジャズ・ファンからは、「マイルスは気が狂った」とか「ジャズは死んだ」と大騒ぎになったことも事実です。サウンド的に今までのジャズと大きく違うところは、鍵盤楽器やギター、ベースなどはエレクトリック・タイプを使用することにより、いわゆるエレクトリック(電気)・サウンドというものになりました。そして、リズムは4(フォー)ビートというものはなく、8(エイト)ビートを基本に、複数のドラムにパーカッションを同時に多用していて、リズムの多元化(ポリリズム)というものを図(はか)っています。音楽ジャンルの話になると、音楽を聴くものの立場からすればどうでもよいことなのですが、ジャズの歴史的観点で見た場合に問題になるのは、これは今までのジャズと違うから、ジャズではないのでは?、ということがありますが、私は、これは立派にジャズであると思います。それは、この演奏は集団インプロヴィゼーション(即興)というべきものでできたもので、完成したサウンドは、この時の演奏メンバーですら予想がつかないものであったようです。マイルスの頭の中にだけは、ある程度の完成図が描かれてはいたものの、その全体像を把握しているのはマイルスだけであり、演奏は即興的に各パートが影響しながら、その場で展開していくといった、ジャズの最も本質的であるインプロヴィゼーションが、きわめて高いレベルによって行われた結果によるものだからです。リズムにしても、よりジャズの起源にもどったアフリカ的なビートになったものと言えます。マイルスには、すぐれた「トランペット奏者」という一面だけではなく、トータルな音楽表現を創造するという、すぐれた「サウンド・クリエイター」という面もあります。このアルバム『ビッチェズ・ブリュー』は、そうしたマイルスの、すぐれたアーティストという才能が見事に表現された傑作だと思います。このアルバムでのマイルスのトランペットの音自体、すばらしい響きを持っています。このアルバムの出現によって、クロスオーヴァー、フュージョンという新しい音楽ジャンルが誕生することになり、また、そのほかの音楽ジャンルにも大きな影響をもたらすことになりました。このサウンドがロック的であると思われたことから、ジャズとロックの融合ということで、当時ジャズ・ロックとも呼ばれました。これは、ジャズ史上に起こった「フュージョン革命」とも言うべきアルバムです。
December 21, 2006
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【ジャズの歴史的アルバム】カインド・オブ・ブルー / マイルス・デイヴィスKind 0f Blue / Miles Davis録音日:1959年3月2日(1~3)1959年4月22日(4、5)録音場所:アメリカ、ニューヨークレーベル:Columbia[personnel]マイルス・デイヴィス(tp)ジョン・コルトレーン(ts)キャノンボール・アダレイ(as)[3]以外ビル・エヴァンス(p)[2]以外ウイントン・ケリー(p)[2]ポール・チェンバース(b)ジミー・コブ(ds) [収録曲] 1.So What ソー・ホワット2.Freddie Freeloader フレディ・フリーローダー3.Blue In Green ブルー・イン・グリーン 4.All Blues オール・ブルース5.Flamenco Sketches フラメンコ・スケッチ ----------これは、ジャズ史上に起こった「モード革命」のアルバムです。1950年代末、それまでジャズの中心的な演奏スタイルだったハードバップから、マイルス・デイヴィスが、「モード・ジャズ」と呼ばれる新しいジャズの演奏スタイルを確立したと言われた、歴史的アルバム。この新しいジャズの演奏スタイルの「モード・ジャズ」は、「モード奏法」という演奏スタイルを確立したもので、1960年代のジャズの行方を示す先駆的なものになりました。「モード(mode)」とは普通「旋法(せんぽう)」と訳されます。旋法とは、旋律の動き方に由来する諸音の機能・中心音・音程配列などの概念のことで、ヨーロッパでは一般に教会旋法(チャーチ・モード)をさし、その他、インドのラーガ、アラブのマカームなどが世界各地で異なるものがあり、中国の「調」も厳密には旋法の一種とみなされます。ここで言う「モード」は、特にチャーチ・モード(教会旋法)のスケール(音階)を形成する音組織のことを言います。チャーチ・モード(教会旋法)は中世から16世紀にかけてヨーロッパの教会音楽で使用されていましたが、長音階(メジャー・スケール)として確立したアイオニアン(イオアン)・モードと、短調階(マイナー・スケール)として確立したエオリアン・モード以外は淘汰(とうた)されてしまい、19世紀末になって再び用いられるようになるまでは忘れ去られていた存在でした。ここではそのチャーチ・モードをマイルスがモダン・ジャズのコード・スケールとして使いそれを「モード手法」として確立することに成功しました。以後、ジャズのスタイルに積極的に取り入れられてゆき、現在では、ロックやポップスなど、さまざまな音楽の分野で、当たり前のように応用されています。簡単に言うと、それまでのバップ的なアドリブは、頻繁なコード・チェンジごとにフレーズをつなげていくことをしていたのですが、モード奏法では、それをもっと大きな流れでとらえ、コードは変わっても何小節かを、ひとつのスケールでまとめたアドリブにするというものです。そのころまでのジャズは、「すべてルイ・アームストロングに始まって、レスター・ヤング、コールマン・ホーキンスを経て、そしてチャーリー・パーカーとディジー・ガレスピーにつながる一本の線の上から生まれたものだった。」と、マイルスは自伝で語っています。当然、マイルス自身のそれまでの名作といわれるアルバム、『クールの誕生』や『バグズ・グルーヴ』も、それらと同じ線上のもので、もとにあったものをマイルス流に発展させたものでした。マイルスは、そんなスタイルからの脱出を考えていたところ、それを実現するアイディアとしてモードという概念に着目したのでした。それを最初にアルバムの中で試みたのが、このアルバムのちょうど1年前の1958年の春にレコーディングされた『マイルストーンズ』でした。そして、それをさらに発展させて、より高いレベルで作り上げたのがこのアルバム『カオンド・オブ・ブルー』で、ここに「モード・ジャズ」のスタイルが完成したというわけです。しかし、これはマイルスひとりだけでは音楽として完成させることはできなかったでしょう。そこには、このアイディアを理解して発展させることのできるメンバーが必要でした。このアルバムでは、テナー・サックスのジョン・コルトレーン、アルト・サックスのキャノンボール・アダレイ、そして、ピアノにはビル・エヴァンスという有能な人材を得たために、モード・ジャズの誕生に成功したと言えるでしょう。ビル・エヴァンスは、ここではマイルスの作曲になっていますが、実質的にはエヴァンスが作曲した曲、「ブルー・イン・グリーン」を提供し、「フラメンコ・スケッチ」ではエヴァンスのアルバム『エヴリバディ・ディグズ・ビル・エヴァンス』に収録の曲、「ピース・ピース」を発展させたものだと思われるなど、このアルバム『カインド・オブ・ブルー』は、多分にビル・エヴァンスのアイディアが表現されているということが伺われます。マイルスはもうひとつ、このアルバムで試みた新しい方法がありました。それは、曲のテーマを全部譜面にすることをしないで、5小節程度のスケッチだけ書いてスタジオに入ったと言います。メンバーそれぞれのスポンティニアス(自然発生的)な、完全なインプロヴィゼーション(即興)がほしかったからというもので、たとえば、「オール・ブルース」という曲は、マイルスが子供のころに聴いたゴスペルのサウンドが耳によみがえってきたものを元に、スケッチしたモチーフを全員でインプロヴァイズした結果誕生した曲だと言います。それに、一曲目の「ソー・ホワット」は、「だからどうなんだ」というマイルスの口癖がそのままタイトルになった曲ですが、これも、ベースが先にメロディー・ラインを弾き、それに対してマイルスたちが答えるということで、インプロヴィゼーションを行って完成した曲です。それから、特筆すべきことは、このアルバムは別格の名盤だということです。どこででも、このアルバムはジャズの名盤中の名盤と称されているので、ジャズを初めて聴く人が最初の1枚に選ぶということが圧倒的に多いものでしょう。それは、名盤だからということの安心感も大いにありますが、それと共に、なにしろ主役のマイルス・デイヴィスは超有名ミュージシャンであり、しかもジョン・コルトレーンやビル・エヴァンスという、マイルスと同じくらい有名なミュージシャンがクレジットされていれば、ジャズを聴きたいと思っている人にとっては最大の魅力になるでしょう。普通であれば、何枚ものCDを買わなければならないところ、このアルバム1枚で、コルトレーン、エヴァンス、キャノンボール、ケリーまでついてくるというのですから。そのため、この『カオンド・オブ・ブルー』は、現在まで全世界で数百万枚のセールスを記録し、ジャズ史上最も売り上げ枚数が多く、いまなお売れ続けているアルバムとされています。しかし、このアルバムでジャズと初めてふれた人は、これを聴いて、はたして感動するでしょうか?感動しないまでも「ジャズはいい!」と思えるでしょうか?それには大いに疑問があります。このアルバムは、難解とまではいかなくても、それまでのビバップやハードバップと言われる、ジャズらしい熱いエモーションとはちょっと違ったところに魅力があるものだからです。要するに、極端な言い方をすれば、このアルバムは、初めてジャズを聴く人が期待するようなジャズ的要素を、真っ向より否定したところから生まれたアルバムだということです。ですから、初心者のジャズ入門に思われがちなこのアルバムですが、本当はジャズを聴きこんだ人にこそわかる奥深さがある名盤と言えるでしょう。それゆえに、時間がいくら経とうとも、このアルバムは輝きを失うことは全くないのです。これは、ジャズ史上に起こった「モード革命」のアルバムです。
December 20, 2006
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自己の音楽を確立したピアニスト、ビル・エヴァンス孤独な内側を一番占めていた音楽ビル・エヴァンスは、マイルス・デイヴィスと1959年の春に『カインド・オブ・ブルー』を録音した後、自分の音楽を演奏したいという思いで、マイルスのもとを離れます。1959年12月、いよいよエヴァンスはベースのスコット・ラファロ、ドラムスのポール・モチアンと共に、自己のトリオを結成し、アルバム『ポートレート・イン・ジャズ』のレコーディングを開始します。ここに歴史的とも言える伝説のトリオが誕生したのでした。スコット・ラファロとは、1956年にトランペットのチェット・ベイカーのオーデション会場で、すでに顔を合わせていたと言います。そのラファロの革命的とも言えるベースは、エヴァンスの推し進めていた音楽のコンセプトにぴったりと当てはまり、エヴァンス・トリオの独自のスタイルを確立することができました。1961年6月25日、有名なジャズの名門クラブ「ヴィレッジ・ヴァンガード」で、このビル・エヴァンス・トリオはライヴ・レコーディングを行いました。ところが、このライヴのわずか11日後の7月6日に、スコット・ラファロは自動車事故により、25歳の若さで亡くなってしまいました。サックス奏者のスタンゲッツのグループのライヴに参加したあと実家に帰り、友人と共に自動車でニューヨークに戻る途中の事故だったということでした。エヴァンスはラファロの死を電話で聞いたと言います。ようやく自分の音楽を確立できると確信していたときだけに、その落胆は尋常ではなく、エヴァンスは「何も考えられなくなった」と後に語っています。この時のライヴは、『ワルツ・フォー・デビイ』と『サンデー・アット・ザ・ヴィレッジ・ヴァンガード』の2枚のアルバムとして、約1年後に発表されました。そして、ジャズ・ピアノ・トリオの新しい境地を切り開いた演奏として、ジャズ史に輝く名盤になりました。エヴァンスは、ラファロを失ってトリオを解消し、ソロ活動で自己の音楽を追求していきます。1966年に、ベースのエディー・ゴメスという新たなパートナーを得て、さらに自己の音楽を追求していきました。しかし、その間には、ドラッグの常用に陥るようになりました。1973年に初来日し、全国を精力的に回り、優れた演奏でファンを魅了しました。しかし、その来日公演から帰国直後、妻のエレインは自殺してしまいました。1977年にレコーディングされたアルバム『ユー・マスト・ビリーブ・イン・スプリング』は、静けさに満ち、なおかつ深みのある素晴らしい作品で、その中に収録されている「Bマイナー・ワルツ」は亡き妻エレインに捧げられた曲だと言います。1974年には再婚し、1975年には男の子の父親になるという、少なくともこのころには、エヴァンスにとってしあわせなときがありました。このときエヴァンスは、「人間にとって最も大切なのは精神面を充実させることだ。私は家を新しく買い、生まれて初めて父親となった。こうした事柄が全て私の演奏の原動力ともなっているのだ。私は今、自分がとても張り切っていることを感じる。」と語っています。しかし、そのしあわせもつかの間、1979年春に、ビル・エヴァンスが尊敬し、崇拝していたとまで言っていた、これまで代えがたい存在であった兄のハリーが自殺してしまいました。そんな悲しみの中、再婚した妻とは別居状態になり、息子とも別れなくてはなりませんでした。当時のエヴァンスには、もう音楽しか残っていなかったと言えるのではないでしょうか。ピアノを弾くことしかない毎日・・・。現に1979年からのエヴァンスは、何かから逃れるかのように、がむしゃらにライヴ活動を続けていくようになります。それは、孤独から逃れるためだったのでしょうか。そして、次第に周囲の人間から見てもあきらかにエヴァンスの身体は衰弱していきました。しかし、エヴァンスは周囲の心配をいっさい聞き入れることなく演奏活動を続けたのでした。1980年の夏にヨーロッパ・ツアーに出たころは、エヴァンスの健康状態は悪化の一途をたどっていました。さらに、克服していたはずのドラッグにも再び手を出してしまっていたようです。すでにこの時期、医者からは病状の悪化を告げられ、入院をすすめられていましたが、エヴァンスは演奏活動を中断する気持ちは全くなかったようです。9月の頭にサンフランシスコの「キーストン・コーナー」に出演した時に、「自分のテクニックの80パーセントは、もうどこかへ行ってしまったが、プロ意識でどうにかつないでいるのだ。」と、話していたと言います。1980年9月9日から始まったニューヨークの「ファッツ・チューズデイ」での演奏の二日目にあたる9月11日は演奏不能になり、自宅で親しい人たちにより三日間にわたり看病されました。14日に、当時のトリオのドラマーだったジョー・ラバーバラに説得され、ニューヨークのマウント・サイナイ病院へ運ばれましたが、翌日の9月15日午後5時頃に、ビル・エヴァンスは帰らぬ人となりました。死因は肝硬変、気管支肺炎と出血性潰瘍による失血性ショックによるものでした。51歳でした。ビル・エヴァンスも、演奏することによって死に向かっていった破滅型ミュージシャンのひとりと言えるでしょう。「音楽は、私の人生で一番重要な、意味のあることであり、私の生活に関わる何ものよりも私の内側を占めている。」・・・ビル・エヴァンス
December 19, 2006
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自己の音楽を確立したピアニスト、ビル・エヴァンス音楽人生の始まりビル・エヴァンス(Bill Evans)は、本名をウイリアム・ジョン・エヴァンス(William John Evans)といい、1929年8月16日に、アメリカのニュージャージー州プレインフィールドというさほど大きくない町で生まれました。家庭は典型的なアメリカの中産階級で、父親は英国のウェールズの出身、母親はアメリカ生まれですが、ロシア移民の娘でした。両親が共に音楽が好きだったこともあって、ジョン(ビル)は2歳年上の兄、ハリー・エヴァンスと共に早くから音楽教育を受けました。「僕の一生を左右したことでは、兄ハリーの演じた役割は大きかった。ピアノの稽古を始めたのは兄が最初で、彼を真似して遊んだことがきっかけで自分も弾くようになった。僕はいつだって兄をいわば崇拝していた。スポーツでも、いつも兄に差をつけられまいとしていた。兄は二つ年上で、スポーツもピアノも得意だった。」この兄は1979年に自殺しますが、そのときのジョン(ビル)のショックは計り知れません。ジョン(ビル)は6歳のときからピアノを習い始めますが、家族が第二の楽器を持たせたいということで、翌年からヴァイオリンも習いますが、これは12歳のときにやめました。ピアノのほうが上達が速く、10歳のころにはすでにモーツァルトのソナタを弾くまでになったといいます。また、そのころには、地元ニュージャージー州のダンス・バンドでピアニストを務めたりしていたそうです。ビル・エヴァンスは幾度か公(おおやけ)の場で、ジャズ・プレイヤーの自由さを初めて知ったときの喜びの瞬間について話しています。それは、彼が10代初め、地元のダンス・バンドでピアニストを務めていたときのことです。バンドは「タキシード・ジャンクション」を演奏していました。この曲は、もともとアースキン・ホーキンスによって即興的に演奏されたものですが、その後、その他のスウィング・バンドに採用されて演奏されるようになると、各パートは単純化され、譜面によって封じ込められてしまっていました。「何とはなく、ひらめいてブルース・コードをちょこっとはさんでみたんだね。“タキシード・ジャンクション”はキーが「Bフラット」だから、「Dフラット」、「D」、「F」をバーンとね。(注:Dフラットがブルーノートになります)右手で。何とも言えないスリルだった。しっくりきてね、いい感じなんだ。書かれてあったんじゃなく、自分でそうしたんだけれども。誰も考えつかなかった何かを音楽でやるっていう発想自体が、自分に全く新しい世界を開いてくれたんだ。」とエヴァンスは語っています。1940年代後半に、当時のアメリカでも最高の音楽教育施設とも言われたという、ニューオリンズのサウス・イースタン・インディアナ・カレッジに入学します。ここでは、クラシックが中心のカリキュラムだったのでしょうが、このときすでにジャズの虜になっていたビルは、周辺のクラブへ出かけて行っては、ジャズのセッションに参加していたそうです。カレッジ卒業後の1950年初め、プロとしてバンドのピアニストになりますが、10カ月ほどで徴兵にとられ1951年から兵役につきます。1954年、25歳のときに軍を除隊して両親の家に戻ってきました。このころには、エヴァンスの代表曲の「ワルツ・フォー・デビイ」が作曲されていたと言います。この年、1954年のジャズ・シーンは、アート・ブレイキーが「ハードバップの誕生」と言われるジャズ史上最重要アルバムの一つである、『バードランドの夜』というライヴ盤が録音され、マイルス・デイヴィスのハードバップ宣言とも言われるアルバム『ウォーキン』が発表されたりと、ジャズはスウィング期から、チャーリー・パーカーらによるビバッブ期を経て、いよいよハードバップ期という、モダン・ジャズの真っただ中へと入ろうとしつつあるころでした。そんな1954年に、エヴァンスはニューヨークに出てきます。最初の演奏場所はダンスのできるクラブかホールで、ジャズとはほど遠いものでしたが、しだいに優秀なジャズ・ピアニストとして知られるようになり、1956年に入ってからは、ジョージ・ラッセルなど大物のレコーディングに参加するようになります。そして、その年1956年に、エヴァンスにとって初のリーダー・アルバム『ニュー・ジャズ・コンセプションズ』が録音されました。エヴァンス27歳です。このアルバムには、ビルが20歳のころに作曲したという「ワルツ・フォー・デビイ」や、生涯に渡って演奏されたロジャース&ハートの名曲「マイ・ロマンス」という重要なナンバーが収録されています。ビル・エヴァンスはリーダー・アルバムをリリースしたものの、当時は一部の批評家には支持されただけで、ほとんど売れませんでした。そのせいか、エヴァンス自身も、この初リーダー・アルバム『ニュー・ジャズ・コンセプションズ』には自信を持てなかったと言っています。しかし、マイルス・デイヴィスは彼に注目し、自分のグループに誘いました。当時としては黒人のマイルス・グループに白人であるエヴァンスが入ることに対して、抵抗を示すメンバーもいたと言いますが、マイルスは「肌の色がなんだろうと自分は優れたミュージシャンと一緒にプレイしたい」と言い、1958年からビル・エヴァンスはマイルス・デイヴィス・グループに参加することになりました。その結果、ジャズ史上に大きな影響を与えた1959年のマイルスのアルバム「カインド・オブ・ブルー」という素晴らしい作品が生まれたのでした。1958年には、ダウンビート誌の批評家による投票で、ビル・エヴァンスは新人賞を受賞しました。
December 18, 2006
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シングズ・ワルツ・フォー・デビー / シェリル・ベンティーンSings “Waltz For Debby” / Cheryl Bentyne録音日:2004年4月20、21日録音場所:アメリカ、ニューヨークレーベル:King Record[personnel] シェリル・ベンティーン(vo)ケニー・バロン(p)レイ・ドラモンド(b)[1]~[11][収録曲]1.Last Night When We Were Young ラスト・ナイト・ホエン・ウィー・ワー・ヤング2.Blue Moon ブルー・ムーン3.The Boy Next Door ザ・ボーイ・ネクスト・ドアー4.I Must Have That Man アイ・マスト・ハブ・ザット・マン5.But Beautiful バット・ビューティフル6.Thou Swell ゾウ・スウェル7.When Your Lover Has Gone ホエン・ユア・ラバー・ハズ・ゴーン8.Easy Living イージー・リビング9.In A Sentimental Mood イン・ア・センチメンタル・ムード10.Stompin’ At The Savoy ストンピン・アト・ザ・サヴォイ11.I Get Along Without You Very Well アイ・ゲット・アロング・ウィズアウト・ユー・ベリー・ウェル12.Waltz For Debby ワルツ・フォー・デビー----------マンハッタン・トランスファーのシェリル・ベンティーンが、歌伴の名手ケニー・バロンとの対話で綴ったスタンダード・ヴォーカルのアルバム。アルバム最後のビル・エヴァンス作曲のタイトル曲、「ワルツ・フォー・デビー」は絶品です。ジーン・リーズの作詞による英語の歌詞で歌っています。ジーン・リーズ(Gene Lees)は、1928年2月8日生まれで、アメリカでジャーナリスト、作詞家、歌手、作曲家、ブロードキャスターとして仕事をし、 ジャズ雑誌のダウンビートの編集者も務め、ジャズに関する本の著書としても知られています。ジーン・リーズが歌詞をつけたもので有名なものは、この曲のほかに、アントニオ・カルロス・ジョビンが作曲した「ディサフィナード」や「コルコヴァード」などの、英語版の作詞があります。スウィング・ジャーナル選定ゴールド・ディスク。
December 17, 2006
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ワルツ・フォー・デビイ / モニカ・ゼタールンド・ウィズ・ビル・エヴァンスWaltz For Debby / Monica Zetterlund - Bill Evans録音日:1964年8月29日録音場所:スウェーデン、ストックホルムレーベル:Philips[personnel] モニカ・ゼタールンド(vo)ビル・エヴァンス(p)チャック・イスラエル(b)ラリー・バンカー(ds)[収録曲]1.Come Rain Or Come Shine 降っても晴れても2.Beautiful Rose ビューティフル・ローズ3.Once Upon A Summertime ワンス・アポン・ア・サマータイム4.So Long Big Time ソー・ロング・ビッグ・タイム5.Waltz For Debby (Monicas Vals) モニカのワルツ(ワルツ・フォー・デビイ)6.Lucky To Be Me ラッキー・トゥ・ビー・ミー7.Sorrow Wind 悲しい風8.It Could Happen To You イット・クッド・ハプン・トゥ・ユー9.Some Other Time サム・アザー・タイム10.In The Night (Om Natten) イン・ザ・ナイト11.Come Rain Or Come Shine 降っても晴れても(別テイク)12.Come Rain Or Come Shine 降っても晴れても(別テイク)13.Lucky To Be Me ラッキー・トゥ・ビー・ミー(別テイク)14.It Could Happen To You イット・クッド・ハプン・トゥ・ユー(別テイク)15.It Could Happen To You イット・クッド・ハプン・トゥ・ユー(別テイク)16.Santa Claus Is Coming To Town サンタが街にやってくる(CD追加曲)----------ビル・エヴァンス・トリオが1964年に、スウェーデンのシンガー、モニカ・ゼタールンドのヴォーカルをフィーチャーしたアルバム。ビル・エヴァンスは、『ポートレート・イン・ジャズ』、『ワルツ・フォー・デビイ』という、ピアノ・トリオでの傑作アルバムを完成させたあとで、エヴァンスに歌伴を期待するファンは皆無だったでしょう。そんなときに、このアルバムは作られたのですが、当時、日本盤は発売されませんでした。しかし、ヨーロッパ盤を手にしたコアなファンたちの間では大騒ぎになったと言います。スウェーデンの女優であり歌手のモニカ・ゼタールンドは容姿端麗であり、1965年に映画祭に参加のために初来日したことも影響して、出たばかりのアルバムが即刻、幻の名盤になるという珍現象も引き起こしたそうです。この時のビル・エヴァンス・トリオは、チャック・イスラエルのベースとラリー・バンカーのドラムというレギュラー・トリオで、スコット・ラファロを失ってから初めてメンバーがかたまった2代目のトリオでした。それが歌伴をするとは、ファンは驚くはずです。モニカは母国スウェーデン以外では、ほとんど無名でしたが、このアルバムによって一気に有名になりました。日本でも、1970年代になってからこのアルバムの日本盤が発売されると、すぐに話題になり、モニカの人気も瞬時に上がることになりました。北欧の当時無名に近い歌手がビル・エヴァンス・トリオをバックに歌っているというので評判になったということです。彼女のリキみのないナチュラルな唱法と持ち前の美貌が、好感をもたれたのでしょう。この中で、「モニカのワルツ」は、ビル・エヴァンス作曲の「ワルツ・フォー・デビイ」に、ベッペ・ウォルゲレス(Beppe Woigers)がスウェーデン語の歌詞を付けたものです。ベッペ・ウォルゲルス(Beppe Wolgers)は、1928年11月10日、スウェーデンのストックホルム生まれで、作家、作詞家だったようです。1986年8月6日に、潰瘍による急性出血で亡くなりました。モニカ・ゼタールンド(Monica Zetterlund )は、以前はモニカ・セッテルンドと表記されていました。1937年9月20日、スウェーデンのハーグフォルス生まれで、スウェーデンを代表する歌手兼女優です。両親も音楽家で、彼女もすでに10代から歌手として歌っていたと言います。モニカは、母国ではそれなりに知られていたようですが、彼女の名前が世界的に、しかもジャズ・ファンの間で有名になったのは、なんといってもこのアルバムがきっかけでした。16曲目の「Santa Claus Is Coming To Town(サンタが街にやってくる)」はCD追加曲で、なんとビル・エヴァンスの歌が聴けます。このレコーディング中にふざけて弾き語りをしているという、非常にめずらしいテイクです。しかし、なんで8月なのにこの曲を?
December 17, 2006
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アート・オブ・ザ・トリオ Vol.1 / ブラッド・メルドー The Art Of The Trio, Vol. 1 / Brad Mehldau録音日:1996年9月4、5日録音場所:アメリカ、ロサンゼルスオリジナル盤発売日:1997年1月28日レーベル:Warner Bros.[personnel] ブラッド・メルドー(p)ラリー・グレナディア(b)ジョージ・ロッシー(ds)[収録曲]1.Blame It On My Youth ブレイム・イット・オン・マイ・ユース 2.I Didn't Know What Time It Was 時さえ忘れて 3.Ron's Place ロンス・プレイス 4.Blackbird ブラックバード 5.Lament For Linus ライナスへの哀悼 6.Mignon's Song ミニョンの歌 7.I Fall In Love Too Easily アイ・フォール・イン・ラヴ・トゥー・イージリー8.Lucid ルーシッド 9.Nobody Else But Me ノーバディ・エルス・バット・ミー ----------1996年9月4、5日に録音、1997年1月にリリースされた、ブラッド・メルドーの「トリオの芸術」シリーズ第1作。リリカルで繊細な、すばらしいプレイで、聴くもののイマジネーションを豊かにしてくれる、まさにタイトル通りの芸術的なアルバムです。特に、「I Fall In Love Too Easily(アイ・フォール・イン・ラヴ・トゥー・イージリー)」の、なんとも言えないリリカルで深い表現に、強く惹(ひ)かれました。1曲目は、オスカー・レバントのロマンチックなラヴ・ソング。2曲目は、ロジャース&ハートのスタンダード・ナンバー。4曲目は、ビートルズの曲。7曲目は、ジュール・スタイン&サミー・カーンのスタンダード・ナンバー。9曲目は、ジェローム・カーン&オスカー・ハマースタインの作品。残りの3、5、6、8曲目は、メルドーのオリジナル・ナンバー。
December 16, 2006
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【スタンダード・ナンバー】アイ・フォール・イン・ラヴ・トゥー・イージリー I Fall In Love Too Easily邦題:惚れっぽい私ああ~、また恋に落ちてしまった・・・これは、フランク・シナトラの代表曲のひとつで、私の大好きな曲です。シナトラを支えたサミー・カーンの作詞、ジュール・スタインの作曲によるもので、1945年の映画「Anchors Aweigh(邦題:錨(いかり)をあげて)」に挿入されました。その中で、主演したフランク・シナトラが歌いました。この映画の中でシナトラが扮する役どころがまさにこの歌の内容を表していて、すぐ恋してしまう愚かな自分を自覚しながらも、また恋に落ちてしまう男が、自己嫌悪に陥るというものです。「ああ~、また恋に落ちてしまった・・・」という、やるせない片思いの歌です。フランク・シナトラは、この映画の話がきたとき、曲の書き手として誰を望むかときかれたそうです。制作側からは候補としてガーシュウィン、ジェローム・カーン、ロジャース&ハマーシュタインといった、そうそうたるソング・ライターの名前が上がりましたが、シナトラはサミー・カーンだと言ったというのです。すると制作側は、「サミー・カーンだって?一体その男は誰なんだい?」と言ったそうです。この映画の制作会社のMGMの人間がサミー・カーンに電話をしてきて、「サミー、フランク(シナトラ)に君にこだわるのをやめるように君のほうから話してくれないか。そうしないとこの映画の話はメチャクチャになってしまうんだ」と言うのでした。それでカーンはシナトラに、「ねえ、フランク、きのうまでは誰も僕のことなんか知らなかったのに、今日はどこへ行っても僕は鼻つまみ者さ。僕を引き立ててくれるのはまた今度でいいから、今は僕を使えって言い張らないでくれよ」と言うとシナトラは、こう言いました。「いいかい、サミー、月曜日に撮影所に君が来ていなかったら、僕もこの仕事を降りるからな!」この曲によってカーンとシナトラの結びつきはさらに強くなっていき、カーンが作る曲をシナトラが歌い、次々とヒット曲を送り出すことになります。アカデミー主題歌賞にノミネートされますが受賞は逃がしました。この曲は、歌っている人も演奏している人も多い、大変有名なスタンダード・ナンバーです。フランク・シナトラのもののほかにチェット・ベイカーの歌のものや、マイルス・デイヴィスのインストルメンタル・ナンバーなどが有名ですが、やはり、ほとんどがスロー・バラードで演奏されるようです。*****●アイ・フォール・イン・ラヴ・トゥー・イージリー I Fall In Love Too Easily邦題:惚れっぽい私作詞:サミー・カーン作曲:ジュール・スタイン1944年《ヴァース》世の中には恋を受け入れたりあきらめたりということを簡単にできる人たちもいる彼らにとっては恋なんてそのときなりに楽しめればいいというものなんだ僕もそういうふうにできたらと思うけれど僕の場合、恋は大好きなゲームなんだ《コーラス》僕はいとも簡単に恋に落ちてしまう僕はあまりにもすぐに恋に落ちてしまうんだまるで最後の恋をするかのように激しく恋をしてしまう僕の心はそのことがよくわかっているはずなのになぜって今まで何度もあざむかれてきたからそれなのに僕はいとも簡単に恋に落ちてしまう僕はあまりにもすぐに恋に落ちてしまうんだ
December 15, 2006
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【スタンダード・ナンバー】オール・ザ・ウエイAll The Wayずうっと、ずっと・・・フランク・シナトラの代表曲といったら、私としてはこの曲を挙げたいと思います。この曲は、サミー・カーンの作詞、ジミー(ジェームス)・ヴァン・ヒューゼンの作曲によるもので、1957年の映画「The Joker Is Wild(抱擁)」の主題歌として使われました。その中で、主演のフランク・シナトラが歌いました。この映画は、コメディアンのジョー・E・ルイスという人の伝記映画で、シナトラがルイスを演じました。ルイスは1920年代、ナイトクラブの歌手でしたが、ギャングにのどを切られて歌が歌えなくなり、コメディアンになったのですが、この曲は、ルイスが声を喪失する場面で歌われます。作曲のヴァン・ヒューゼンは、ルイスが声が出なくなる場面をドラマティックに描くために書いたもので、二小節目の終わりから三小節目の半ばにかけて音が大きく飛躍するところは、ルイスが歌うのは無理だと思えるように、あえてそういうふうに作ったと言います。このところで、彼が歌手生活を続けたいという希望は無残にも壊れるということを表した曲だということです。サミー・カーンとヴァン・ヒューゼンは、エージェントのリリアンと三人で、この曲を聴かせるために、ラスヴェガスのホテルにいるシナトラをたずねました。彼は朝食前に聴くと言うので三人は午後四時に行き、ヴァン・ヒューゼンが伴奏をし、カーンがこの曲を歌いました。カーンが歌い終わると、シナトラは振り向いて「食べようか」とだけ言ったそうです。カーンたちの三人にとっては昼食で、シナトラにとっては朝食の豪勢な食事を終えて外へ出ると、リリアンは目に涙をうかべて「どうしてこの曲を気に入ってくれなかったのかしら?」と言いました。するとカーンは「彼はこれを気に入ったよ」と言います。「どうしてそう思うの?」と彼女は言うと、「どうしてって、気に入ったから気に入ったのさ」とカーンは言ったそうです。「Three Coins In The Fountain (1954)」「All The Way (1957)」「High Hopes (1959)」 などの作品は、カーンがシナトラのために書いてアカデミー賞を受賞しますが、これらの曲を初めて聴かせた時のシナトラの反応は、いつもこんなふうだったと言います。フランク・シナトラのレコードはミリオンセラーになり、アカデミー主題歌賞を受賞しました。やや抽象的な大きな愛を歌う歌詞と、崇高なメロディーと、シナトラの歌唱によって名曲になりました。フランク・シナトラの代表曲の一つです。*****●オール・ザ・ウエイAll The Way作詞:サミー・カーン(Sammy Cahn)作曲:ジミー・ヴァン・ヒューゼン(Jimmy(James) Van Heusen)1957年だれかが愛してくれるのならいつまでも愛してほしいどんなときにも元気付けてくれる人がほしいときそばにいてくれて幸せだと思うような人でなくてはどんな高い木よりも高くのぼったように感じられる恋でなくてはどんなに深く青い海よりも深く本当の愛ならそれくらい深くなくてはだれかが必要としてくれるのならいつまでも必要としてほしい豊作の年も、凶作の年もその中間の年も、何が起ころうと僕らがこれからどうなるかは誰にもわからないわかると言うのは愚か者だけさでも、君を愛することを許してもらえるのなら僕はきっといつまでも愛し続けるだろうずうっといつまでも、いつまでも・・・
December 14, 2006
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The Best Of The Columbia Years: 1943-1952 / Frank Sinatraフランク・シナトラ 1943-1952ディスク:11. Close to You2. People Will Say We're in Love {From Oklahoma!}3. If You Are But a Dream4. Saturday Night (Is the Loneliest Night in the Week)5. White Christmas {from Holiday Inn}6. I Fall in Love Too Easily {From Anchors Aweigh}7. Ol' Man River {From Show Boat}8. Stormy Weather {From Cotton Club Parade of 1933}9. Embraceable You {From Girl Crazy}10. She's Funny That Way11. My Melancholy Baby {From Birth of the Blues}12. Where or When {From Babes in Arms}13. All the Things You Are {From Very Warm for May}14. I Should Care {From Thrill of a Romance}15. Dream {From Her Highness and the Bellboy}16. Put Your Dreams Away (For Another Day)17. Over the Rainbow {From the Wizard of Oz}18. If I Loved You {From Carousel}19. Someone to Watch Over Me {From Oh, Kay!}20. You Go to My Head21. These Foolish Things {From Spread It Abroad}22. House I Live In23. Day by Day ディスク:21. Nancy (With the Laughing Face)2. Full Moon and Empty Arms3. Oh! What It Seemed to Be4. I Don't Stand a Ghost of a Chance With You5. Why Shouldn't I? {From Jubilee}6. Try a Little Tenderness7. Begin the Beguine {From Jubilee}8. They Say It's Wonderful9. That Old Black Magic {From Star Spangled Rhythm}10. How Deep Is the Ocean?11. Home on the Range12. Five Minutes More {From Sweetheart of Sigma Chi}13. Things We Did Last Summer14. Among My Souveniers {From the Best Years of Our Lives} [Alternate Take]15. September Song {From Knickerbocker Holiday}16. Blue Skies {From Blue Skies}17. Guess I'll Hang My Tears Out to Dry18. Lost in the Stars {From Lost in the Stars}19. There's No Business Like Show Business {From Annie Get Your Gun}20. Time After Time21. Brooklyn Bridge {From It Happened in Brooklyn}22. Sweet Lorraine23. Always [Alternate Take]24. Mam'selle {From the Razor's Edge}ディスク:31. Stella by Starlight {From the Uninvited}2. My Romance {From "Jumbo"}3. If I Had You4. One for My Baby (And One More for the Road) {From the Sky's the Limit}5. But Beautiful {From Road to Rio}6. You're My Girl {From High Button Shoes}7. All of Me {From Meet Danny Wilson}8. Night and Day {From The Gay Divorcee}9. S'posin'10. Night We Called It a Day11. Song Is You {From Music in the Air}12. What'll I Do?13. Music Stopped {From Higher and Higher}14. Fools Rush In [Alternate Take]15. I've Got a Crush on You {From Strike Up the Band}16. Body and Soul {From Three's a Crowd}17. I'm Glad There Is You18. Autumn in New York19. Nature Boy20. Once in Love With Amy {From Where's Charley?}21. Some Enchanted Evening {From South Pacific}22. Hucklebuck23. Let's Take an Old Fashioned Walk24. It All Depends on You {From Big Boy}ディスク:41. Bye Bye Baby {From Gentlemen Prefer Blondes}2. Don't Cry Joe (Let Her Go, Let Her Go, Let Her Go)3. That Lucky Old Sun (Just Rolls Around Heaven All Day)4. Chattanoogie Shoe Shine Boy5. American Beauty Rose6. Should I? {From Lord Byron of Broadway}7. You Do Something to Me {From Fifty Million Frenchmen}8. Lover {From Love Me Tonight}9. When You're Smiling (The Whole World Smiles With You) {From Meet Danny10. London by Night11. Meet Me at the Copa12. April in Paris {From Walk a Little Faster}13. I Guess I'll Have to Dream the Rest14. Nevertheless (I'm in Love with You)15. I Am Loved {From Out of This World}16. Hello, Young Lovers {From the King and I}17. We Kiss in a Shadow {From the King and I}18. I'm a Fool to Want You19. Love Me20. Deep Night21. I Could Write a Book {From Pal Joey}22. I Hear a Rhapsody23. My Girl24. Birth of the Blues {From George White's Scandals}25. Azure-Te (Paris Blues)26. Why Try to Change Me Now?----------これは、フランク・シナトラが1943年から1952年のコロンビア時代に録音した285曲の中から96曲が4枚のCDに録音年代順に収録されているボックスセットです。シナトラが27歳から36歳のころのもので、トミー・ドーシー楽団時代の1941年に、ダウンビート誌やメトロノーム誌の人気投票で男性歌手の1位に選出されたシナトラは独立を決意し、1942年にアレンジャーのアクセル・ストーダルを伴ってドーシー楽団を離れました。コロンビアに録音を開始したのは1943年。そして1953年にキャピトルに移籍するまでの10年間に、約90曲のナンバーをヒットチャート入りさせました。コロンビア時代のシナトラというのは、女性ファンを失神させるティーンのアイドルから大人の歌手へと脱皮し、みずみずしさを増していった時期であり、魅力的な成長過程がここに集約されています。この頃のシナトラのボーカルは今の時代に聴いてもすばらしい名唱の数々です。また、このCDには当時の彼のヒット曲を初めとして、ジェローム・カーン、アーヴィング・バーリン、コール・ポーターやガーシュウイン、ロジャース&ハート、ハロルド・アーレン、ジョニー・マーサーなどの、アメリカの偉大な作詞・作曲家の名曲も多数入っていて、まさにスタンダード・ナンバーの宝庫と言えます。編曲・指揮でシナトラのボーカルに最大の魅力を与えた、アクセル・ストーダルの貢献も大きいものです。
December 13, 2006
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【スタンダード・ナンバー】アイム・ア・フール・トゥ・ウォント・ユーI'm A Fool To Want You邦題:恋は愚かというけれどこの邦題は日本独自の曲名で、原題を訳すと“私はあなたをほしがる愚か者”ということになります。要するに、「あなたをほしがって苦しむバカな私」というものですね。この曲は、ジョエル・S・ヘロンが作曲し、ジャック・ウルフとフランク・シナトラが作詞したもので、1951年にフランク・シナトラが歌ったものが発表され、ヒットしました。これは、シナトラが経営していた楽譜出版社の社長のベン・バートンが、シナトラのために見つけてきた曲で、その歌詞をシナトラが手を加えて自分の好みのものにしたと言います。シナトラの歌が、1951年3月にアクセル・ストーダルの編曲、指揮のオーケストラの伴奏で録音され、6月にチャートの14位になりました。シナトラは1949年の終わりから、女優のエヴァ・ガードナーとの交際が始まり、1951年5月に妻のナンシーと離婚し11月にエヴァ・ガードナーと結婚したので、この曲はちょうどそういう時期と重なり、シナトラのナマナマしく苦悶する情感があらわれているものです。シナトラは1957年にもこの曲を録音していますが、こちらは「全く見事に歌っているが、51年のときのような情感には欠けている」と評されました。もっとも、エヴァとは1954年に離婚しています。この曲の冒頭の部分は、まさに気持ちのいいツボを押さえたというメロディーで、ぞくぞくするほど大好きな曲です。私の中ではトップクラスの名曲です。フランク・シナトラのほかには、ビリー・ホリデイ、チェット・ベイカーなどが歌っているものがあります。ディー・ディー・ブリッジウォーターは「I Fall In Love Too Easily」とメドレーで歌っています。デューク・ピアソンのピアノ・トリオのインストゥルメンタルのものがまったくもって素晴らしく、私の愛聴盤です。*****●アイム・ア・フール・トゥ・ウォント・ユー I'm A Fool To Want You邦題:恋は愚かというけれど作詞:フランク・シナトラ(Frank Sinatra) ジャック・ウルフ(Jack Wolf)作曲:ジョエル・S・ヘロン(Joel S. Herron)1951年君をほしがるなんて僕は愚か者だ僕は君をほしがる愚か者さ本当に実を結ぶことがない愛を求めるなんてみんながほしがっている恋人を望むなんて君を抱こうとするなんて僕は愚か者だ僕は君を抱こうとするほど愚か者さ僕だけのものでないキスを求め悪魔さえ知っているキスをしたがるなんて何度も何度も君と別れると僕は言った何度も何度も僕は去って行ったでも、君を必要なときがきてまた僕はこの言葉を言わなければならない君をほしがるなんて僕は愚か者だ僕は君を必要とするなんて哀れだ間違っているのはわかっている、きっと間違っているでも、正しいとしても、間違っているとしても僕は君なしでは生きていけないんだ・・・
December 12, 2006
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今日は、アメリカを代表するシンガーでエンターテイナーのフランク・シナトラが生まれた日です。●フランク・シナトラ(Frank Sinatra)本名:Francis Albert Sinatra(フランシス・アルバート・シナトラ)1915年12月12日、アメリカ、ニュージャージー州ホーボーケン生まれ。1998年5月14日、アメリカ、カリフォルニア州ロサンゼルスで、多臓器不全により死去。82歳。----------フランク・シナトラは、アメリカを代表するシンガーで、その卓越した歌唱力によって「ザ・ヴォイス」と称されました。映画俳優としても活躍したエンターテイナーです。フランク・シナトラは「マイ・ウェイ」の大ヒットで知られ、エルヴィス・プレスリーやビートルズなどと並び、アメリカのポピュラー音楽史上もっとも偉大なシンガーのひとりと言われていますが、彼は、まぎれもなく偉大なジャズ・シンガーであったと言えます。シナトラというと「マイ・ウェイ」というイメージが強く、確かにこの曲は大ヒットしましたが、これは、初期のシナトラの持っていた魅力とは異質のもので、私にとっては、どちらかというと退屈な音楽の類に入ってしまうものです。しかし、1940年代から1960年代にかけてのフランク・シナトラは数々の名唱を残していて、それは「マイ・ウェイ」とは別人のようなトップ・ジャズ・シンガーとしてのシナトラです。1940年、トミー・ドーシー楽団に入団したシナトラは、トミー・ドーシーのトロンボーンのフレージングや息継ぎ(ブレス)のタイミングなどの影響を受けました。そして、もうひとつ、トミー・ドーシー楽団のアレンジャーをしていたサイ・オリヴァーの、2ビートを重視した当時としては革新的なサウンドに大きく影響を受けたようです。シナトラのすごいところは、ただ声量があるとか音程がいいということだけではなく、その抜群のスウィング感、ノリにあると言えます。それが、スローでのメロディーをゆったりと長く歌うときも、速い曲を歌うときも、2ビートと4ビートを微妙に正確に使い分けてスウィングできたことで、ほかのだれもできなかったノリをだしています。これは、ちょっと聴いただけではわからないかもしれませんが、深く聴いていくと、スウィングするとはどういうものかということを、表しているものであるというのに気がつきます。マイルス・デイヴィスのスウィング感もシナトラと共通したところがありますが、これはマイルスも、シナトラの歌い方を研究したのだと言います。そしてシナトラは、コルトレーン・ショックと似たような現象を、ジャズ・ヴォーカルの世界にも巻き起こしています。コルトレーン・ショックとは、1967年にコルトレーンが亡くなる数年前からから始まって、1970年代以降にまで続いたテナー・サックスの世界で起きた現象で、コルトレーンの築いたジャズの境地を受け継ぐようなプレイヤーが、一人も出てこなかったような状況を言っていますが、シナトラの場合も、このときと似ているようなところがあります。カウント・ベイシーやデューク・エリントンといったトップ・ジャズ・バンドとの共演でも、よりすばらしい歌を聴かせることができるシナトラのスウィング感、声量、音程、表現力は、ジャズからポピュラー・ヴォーカル界においても、そういるものではないでしょう。そして、フランク・シナトラは、ジャズ・シンガーのわくにとどまらないエンターテイナーであり、彼こそが「Mr.エンターテイナー」ということでしょう。
December 12, 2006
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【スタンダード・ナンバー】クライ・ミー・ア・リヴァーCry Me A River いい気味だわ、川のようにお泣きなさい・・・これは、アーサー・ハミルトンが作詞、作曲にした曲で1953年に作られましたが、実際には、ジュリー・ロンドンが歌い、リバティー・レコードから、1955年にリリースしたレコードがヒットしたために、世の中に広く知られることになりました。そのため、この曲の登録は1955年になっているものもあるということです。なるほど、私が持っている楽譜には「1953&1955」となっています。ジュリー・ロンドンが歌ったレコードは、リリースされてすぐ1955年末からたちまちヒットし、1966年までに300万枚を超えるミリオンセラーになりました。このヒットによって、ジュリーは一気に人気歌手の仲間入りになりました。この曲は、ジュリーにとって後にも先にも唯一のミリオンセラーでしたが、この一曲でシンガーとしては無名だった彼女が不動の人気を確立したのですから、よほど、強烈なインパクトを持った曲だと言えるでしょう。このブルー・ラヴ・バラード・ナンバーと彼女のスモーキー・ヴォイスの魅力、それにバーニー・ケッセルのギターのサウンドが見事にマッチした結果でしょう。その後、ジュリーは人気絶頂で、テレビの音楽番組や、映画などに多く出演するようになり、1957年のジェーン・マンスフィールド主演の映画『女はそれを我慢できない』では、ジュリーの「クライ・ミー・ア・リヴァー」が主題歌に使われ、出演もし、この歌を歌いました。そして、この曲は、多くのシンガーによって歌われ、スタンダード・ナンバーになりました。「cry me a river(クライ・ミー・ア・リヴァー)」をそのまま訳そうとすると「泣け、私に、川に」というわけがわからないものになってしましますが、この「a」は不定冠詞の「ひとつの」という意味ではなく、強調表現になるようです。感情表現を自然現象に形容したもので、日本語にも「滝のように泣く」という表現があるように、「川のように泣け」ということで、「私のために川のようにお泣きなさい」、「泣いて泣いて川ができるくらい泣けよ、このやろう!」・・・すみません、ちょっと言い過ぎました。「寂しくて一晩中泣いたですって?あなたは私を裏切って捨てたのよ!今さら愛してるだなんて何言ってるの?私は、あなたのために、さんざん泣かされたんだからね!私のために川ができるぐらいに泣くといいんだわ!いい気味だ!泣け泣けっ!」・・・こわいですね~。でも、最後に「愛しているってことを証明してみせて」と言う彼女は、それでも彼をどこかで許そうと思っている女心を感じますね。しかしまあ、ここでは最後まで、「Come on, an’ cry me a river, cry me a river」「さあさあ、川のように泣けよ、川のように泣いてもらおうじゃないの!」と、今までの恨みをはらします。このあと二人はどうなったか?それは、みなさんのご想像におまかせしましょう。私が思うには、たぶんハッピー・エンドでしょう。メジャー・コードで終わりますから。*****●クライ・ミー・ア・リヴァーCry Me A River作詞:アーサー・ハミルトン(Arthur Hamilton) 作曲:アーサー・ハミルトン1953年今になって、あなたは、寂しくて一晩中泣いたですって?それなら、川のように涙を流してお泣きなさい私もあなたのために川のようにずいぶんと泣かされたんだから私を裏切って捨てたことを今はすまなかったと言うのねそれなら、川のようにたくさんお泣きなさいな私だって、あなたのために川のようにずいぶんと泣かされたんだからね私は気が狂うほどあなたに夢中だったわなのに、あなたは涙ひとつ見せなかった私はあなたが言ったことを何もかもすべて覚えているわあなたは恋なんてバカらしいとか、私たちは終わったんだとか言ったわそれなのに、今さら愛してるですって?それじゃあ、愛してるってことを証明するためにさあさあ、たくさんお泣きなさいよ、川のように、涙で川ができるくらいにね私もあなたのために川のように、涙が川になるくらいに泣かされたんだから・・・
December 11, 2006
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彼女の名はジュリー / ジュリー・ロンドンJulie Is Her Name / Julie Londonオリジナル盤発売日:1955年レーベル:Liberty(東芝EMI)[personnel]ジュリー・ロンドン(vo)バーニー・ケッセル(g)レイ・レザーウッド(b)1.Say It Isn't So セイ・イット・イズント・ソー2.It Never Entered My Mind イット・ネヴァー・エンタード・マイ・マインド3.Easy Street イージー・ストリート4.'S Wonderful ス・ワンダフル5.No Moon At All ノー・ムーン・アット・オール6.Laura ローラ7.Gone With The Wind 風と共に去りぬ8.Cry Me A River クライ・ミー・ア・リヴァー9.I Should Care アイ・シュッド・ケア10.I'm In The Mood For Love 恋のムードで11.I'm Glad There Is You アイム・グラッド・ゼア・イズ・ユー12.Can't Help Lovin' That Man キャント・ヘルプ・ラヴィン・ザット・マン13.I Love You アイ・ラヴ・ユー----------1955年にリリースされた、ジュリー・ロンドンの初めてのアルバムで、シンガーとしての出世作と言える、「Liberty Records(リバティ・レコード)」への録音のもの。好評を得たため、続編『Julie Is Her Name Vol.2』もリリースされました。これは、ジュリー・ロンドンのアルバムとしてはめずらしく、ビッグ・バンド・オーケストラやストリングス・サウンドがまったく入っていない、バーニー・ケッセルのギターとレイ・レザーウッドのベースのみで歌っているもので、バックの演奏も素晴らしく、ジュリーのスモーキー・ピロー・ヴォイスを生かした素晴らしいジャズ・ヴォーカル・アルバムです。ハスキーでセクシーな小編成の作品の決定版とも言える傑作です。この中の「クライ・ミー・ア・リヴァー」は大ヒットし、彼女の代表曲になりました。映画にも出演しており、美人女優でシンガー、ジュリーの代表的アルバムです。なお、オリジナル盤と国内盤とでは、曲順が大きく異なっています。
December 10, 2006
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【スタンダード・ナンバー】ス・ワンダフル'S Wonderfulなんて素敵なの・・・これは、ガーシュウィン兄弟の作曲で、1927年のミュージカル「ファニー・フェイス」に挿入されました。その中では、アレン・カーンズとアデール・アステアが歌いました。映画にもたくさん使われています。ジャズ・ミュージシャンにとってもスタンダード・ナンバーとなっていて、非常に多く歌われ、演奏されています。現在放映中の、黒木瞳が出演している頭痛薬のテレビ・コマーシャル音楽として使われていますね。「wonderful」、「marvelous」、「paradise」と言葉を変えて「素晴らしい」ことを何度も言っています。何が「素晴らしい」かと言えば、「あなたが私を愛してくれること」と言っています。曲名、曲中の「ス・ワンダフル」の「ス」とは「スバラシイ」の「ス」ではなく(あたりまえ)、「’s(ス)」とは「it’s」の省略形で、これはアイラ・ガーシュウインが「it’s」の「it」を削って残った「s(ス)」という発音を強調したかったために、わざわざそういう言葉にしたのです。正しい発音の「It's wonderful」、「It's marvelous」、「It's paradise」としてしまったのでは歌の流れが悪くなってしまうということです。そういうことで、この曲はアイラ・ガーシュウィンの詞の力を示した代表的な曲と言えます。この発音のおかげで、歌詞が強く印象に残り、そのおかげでメロディーも生きてくるという、歌詞とメロディーの良い相乗効果を生んでいると言えるでしょう。何にでも「ス」を付けた“しつこさ”が、この曲を印象付けるのにうまく効果を出しています。中には、これを正しく「It's wonderful」、「It's marvelous」、「It's paradise」と歌うシンガーがいたようでしたが、そういうシンガーに対してアイラは、あからさまに嫌悪感を示したそうです。*****●ス・ワンダフル'S Wonderful作詞:アイラ・ガーシュウィン作曲:ジョージ・ガーシュウィン1927年素敵だわ、なんて素晴らしいんでしょうあなたが私を愛してくれるなんて!とても素敵よ、まるで天国のようだわ見ているだけでも好きになっちゃうわあなたが私の人生を輝かせてくれたのよ私が浮かれているからって言っても責めないでちょうだいね幸せいっぱいの時間なのに私の心は、はしゃぎすぎてオーヴァー・タイムだわ素敵だわ、なんて素晴らしいんでしょうあなたが私を愛してくれるなんて!
December 10, 2006
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フォー・センティメンタル・リーズンズ / リンダ・ロンシュタットFor Sentimental Reasons / Linda Ronstadt With Nelson Riddle & His Orchestraオリジナル盤発売日:1986年 レーベル:Elektra / Asylum1.When You Wish Upon A Star 星に願いを 2.Bewitched, Bothered And Bewildered 魅惑されて 3.You Go To My Head 忘れられぬ君 4.But Not For Me バット・ノット・フォー・ミー 5.My Funny Valentine マイ・ファニー・ヴァレンタイン 6.I Get Along Without You Very Well あなたなしでも 7.Am I Blue アム・アイ・ブルー 8.I Love You For Sentimental Reasons アイ・ラヴ・ユー・フォー・センティメンタル・リーズンズ 9.Straighten Up And Fly Right ストレイトン・アップ・アンド・フライ・ライト 10.Little Girl Blue リトル・ガール・ブルー 11.Round Midnight ラウンド・ミッドナイト ----------“ミス・アメリカ”と呼ばれたアメリカン・ロックの女王リンダ・ロンシュタットの、1986年リリースのスタンダード・ナンバー・アルバム。ネルソン・リドル・オーケストラとの、スタンダード曲集3部作の完結編となるアルバム。第1作の『ホワッツ・ニュー』、第2作の『ラッシュ・ライフ』は、ともに大評判になり、どちらも200万枚を超えるセールスを記録しました。このアルバムも前の2作と同じく、ピーター・アッシャーのプロデュース、ネルソン・リドルの編曲と指揮で、1985年7月10日から1986年5月16日にかけてロサンゼルスで録音されました。録音に長くかかったのは、リドルの体調に問題があったようで、心臓が衰弱し、このアルバム製作の途中、1985年10月6日、ロスの病院において他界してしまいました。このアルバムは、彼の最後の作品になりました。そのため、「アム・アイ・ブルー」、「センティメンタル・リーズンズ」、「ストレイトン・・・」の3曲は、リドルのかわりにテリー・ウッドソンが指揮をしました。バラード中心の美しいスタンダード・ナンバーを歌う、リンダの成熟した女性の魅力がここでも聴かれます。
December 9, 2006
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12年前の今日は、ジャズにも大きくかかわったブラジルの作曲家でピアニスト、シンガーの、アントニオ・カルロス・ジョビンが亡くなった日です。●アントニオ・カルロス・ジョビン(Antonio Carlos Jobim)本名:アントニオ・カルロス・ブラジレイロ・ヂ・アルメイダ・ジョビン(Antonio Carlos Brasilero de Almeida Jobim)愛称:トム・ジョビン(Tom Jobim)、または単にトム(Tom) 1927年1月25日、ブラジル、リオデジャネイロ生まれ。1994年12月8日、アメリカ、ニューヨークのマウント・サイナイ病院で死去。膀胱ガンの手術を受けた後、心臓発作のため。67歳。----------ブラジルの偉大な作曲家で、自らもピアノを演奏し歌うなどのミュージシャンでもあるアントニオ・カルロス・ジョビンは、誰もが耳にしたことがある、「イパネマの娘(The Girl From Ipanema)」や「波(Wave)」などの作者であり、ボサノヴァという音楽の誕生にも大きくかかわり、ジャズにとっても重要な人物です。アントニオ・カルロス・ジョビンはボサノヴァを作った人として知られていますが、本当の意味で、ボサノヴァという音楽のスタイルを作ったのはジョアン・ジルベルトであり、もともとは、サンバをギター一本で演奏するために考えられた演奏スタイルでした。アントニオ・カルロス・ジョビンは、そのスタイルの素敵な曲をたくさん作ったボサノヴァの作曲家ということになります。また、ジャズとのフュージョン化(融合)を積極的に進めたのもジョビンだと言えるでしょう。もし、ジョビンがいなかったらボサノヴァは、こんなに日の目を見ることがなかったかもしれません。よく、「ボサノヴァ(Bossa Nova)」とは、ポルトガル語(ブラジルの公用語)で「新しい傾向」のことだと言われていますが、この名称は、ジョビンが「思いあふれて」のアルバムの裏に、ジョアン・ジルベルトを賛美して書いた文に、「このバイーア出身の“新しい才能”」ということで「ボサノヴァ」という言葉を使ったことから、マスコミが「ボサノヴァ」と呼ぶようになったということのようです。「Bossa」とは「素質(言いかえれば才能)」という意味で、「Nova」とは「新しい」という意味です。つまり、「Bossa Nova」とは「新しい才能」ということを言っていて、それは、もともとはジルベルトのことを言っているということです。1958年頃、ブラジルで生まれた「ボサノヴァ」が、1960年初頭にアメリカに渡りました。そして、ボサノヴァはジャズのスタイルのひとつになり、アントニオ・カルロス・ジョビンの曲は、スタンダード・ナンバーとして、多くのジャズやポップスのミュージシャンたちによって、演奏され続けています。ブラジルの生んだ偉大なアーティスト、アントニオ・カルロス・ジョビン。ブラジルでは、彼の死に際して大統領令が発され、国民は3日間の喪に服したそうです。 彼の亡きがらは、ブラジル、リオデジャネイロのサン・ジョアン・バチスタ墓地に埋葬されました。
December 8, 2006
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1941年【昭和16年】12月8日65年前の今日、日本がハワイ真珠湾を攻撃。(太平洋戦争開戦)1941年12月1日、御前会議で英米オランダに開戦を決定した。2日、山本五十六連合艦隊指令長官が「ニイタカヤマノボレ一二〇八」と発信、これは、「12月8日午前0時を期して真珠湾を攻撃せよ」という暗号。日本時間8日(アメリカ時間7日)、アメリカ、ハワイ沖に停泊していた機動部隊から爆撃機が真珠湾に波状攻撃をかけ、停泊中の「アリゾナ」をはじめアメリカ海軍の4雙を沈めた。さらに湾周辺の飛行場を爆撃し、約3000人の兵士を殺害、「トラ・トラ・トラ(我奇襲に成功せり)」と発信した。これにより、アジア・太平洋戦争が始まり、第2次世界大戦として全世界的規模に拡大した。●臨時ニュース 1941年12月8日午前4時、内閣情報局からいっさいの放送をとりやめるよう指示。午前7時少し前に日本放送協会が臨時ニュースで「大本営陸海軍部12月8日午前6時発表、帝国陸海軍は今8日未明、西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり。」と太平洋戦争開戦を伝えた。第1回目の大本営発表となる。
December 8, 2006
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ラッシュ・ライフ / リンダ・ロンシュタットLush Life / Linda Ronstadt オリジナル盤発売日:1984年 レーベル:Elektra1.When I Fall in Love 恋した時に2.Skylark スカイラーク3.It Never Entered My Mind ネヴァー・エンタード・マイ・マインド4.Mean To Me ミーン・トゥ・ミー5.When Your Lover Has Gone あなたの恋人が行ってしまったら6.I'm A Fool To Want You アイム・ア・フール・トゥ・ウォント・ユー7.You Took Advantage Of Me 私を利用している8.Sophisticated Lady ソフィスティケーテッド・レディ9.Can't We Be Friends? お友達になれない?10.My Old Flame マイ・オールド・フレーム11.Falling In Love Again フォーリング・イン・ラヴ・アゲイン12.Lush Life ラッシュ・ライフ----------“ミス・アメリカ”と呼ばれたアメリカン・ロックの女王リンダ・ロンシュタットの、1984年リリースのスタンダード・ナンバー・アルバム。前作『ホワッツ・ニュー』同様、ピーター・アッシャーのプロデュース、ネルソン・リドルの編曲と指揮の、スタンダード・ナンバー集2作目です。ネルソン・リドルの編曲、リンダ・ロンシュタットの歌声がとても美しいものです。
December 8, 2006
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ホワッツ・ニュー / リンダ・ロンシュタット&ネルソン・リドル・オーケストラWhat's New / Linda Ronstadt & The Nelson Riddle Orchestra オリジナル盤発売日:1983年 レーベル:Asylum 1.What's New? ホワッツ・ニュー2.I've Got A Crush On You アイヴ・ガット・ア・クラッシュ・オン・ユー3.Guess I'll Hang My Tears Out To Dry ゲス・アイル・ハング・マイ・ティアーズ・アウト・トゥ・ドライ4.Crazy He Calls Me クレイジー・ヒー・コールズ・ミー5.Someone To Watch Over Me やさしき伴侶を6.I Don't Stand A Ghost Of A Chance With You ほのかな望みもなく7.What'll I Do? どうしたらいいの8.Lover Man ラバー・マン9.Good-Bye グッドバイ----------リンダ・ロンシュタット、1983年リリースのスタンダード・ナンバー・アルバム。プロデュースはピーター・アッシャーで、編曲と指揮がネルソン・リドル。2曲目と5曲目が、アイラ&ジョージのガーシュウイン兄弟の作品です。
December 7, 2006
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【スタンダード・ナンバー】サムワン・トゥー・ウォッチ・オーヴァー・ミーSomeone To Watch Over Me誰か私を見守って・・・この曲は、ジョージとアイラのガーシュウイン兄弟が1926年のミュージカル「Oh,Kay(オー、ケイ!)(邦題:万事円満)」のために書いた曲です。アメリカのミュージカルに初出演したイギリスのミュージカル女優のガートルード・ローレンスが、このミュージカルの中で歌い、大ヒットしました。その後、ジョージ・ガーシュウィンの伝記映画「ラプソディー・イン・ブルー」(1945年)や、ローレンスの伝記的ミュージカル映画「スター!」(1968年)や、その他多くの映画に使われています。つい最近のところでは、SMAP(スマップ)の草なぎ剛が演じる「ホテル・ビーナス」(2004年)で使われました。フランク・シナトラ、リー・ワイリー、エラ・フィッツジェラルド、サラ・ヴォーン、リンダ・ロンシュタットなど、多くの人に歌い継がれているスタンダード・ナンバーです。この曲はバラードといって、ゆっくりとしたテンポで歌われるものと決まっていますが、最初ジョージはダンス・コーラスに使うつもりで速いテンポで作曲し、アイラもそのつもりで作詞したのですが、あるときジョージがなにげなくテンポを落として弾き始めたら、二人は顔を見合わせたと言います。これはゆっくりしたテンポで演奏されなければいけないということに気が付いた二人は、それまでとはうってかわってスローなバラードの曲として仕上げたと言ういきさつがあります。「私の心に描いている人をさがしているの。私は森の中で迷子になった子羊。私を見守ってくれる羊飼いはどこなの?私にはいつも見守ってくれる人が必要なの」と、私を見守ってくれる、いまだ見ぬ理想の相手が早く現れくれることを想って歌います。このミュージカルの曲を作っている途中で、アイラは盲腸炎になって入院してしまい、ショーのリハーサルに間に合わせるため、彼の友人のハワード・ディーツに手伝ってもらっていました。この曲の題名は、ディーツがいくつか考えたものの中の一つをアイラが気に入ってそれを付けたということで、アイラが作ったものではないということです。ちなみに、このミュージカルの題名の「オー、ケイ!」の「ケイ」とは人の名前で、彼がもっとも心を開いていた女性のケイ・スイフトのことです。ケイは音楽家で教養もあり、ウイットに富む知的な面などでジョージをささえていました。彼女には家庭もあり子供もいましたが、夫公認のもとで不倫の関係にあったと言います。*****●サムワン・トゥー・ウォッチ・オーヴァー・ミー Someone To Watch Over Me邦題:誰かが私をみつめてる(やさしき伴侶を)作詞:アイラ・ガーシュウィン作曲:ジョージ・ガーシュウィン1926年《ヴァース》昔から恋は盲目と言うわねでも「求めよ、さらば与えられん」とも言うしだからずうっと心に描いていた若者を、私はさがし求めるわでも、あちこちさがしてはいるけれど、まだそういう人は見つけられないのきっと彼とは忘れることができない大きな恋愛になると思うわ結婚して彼のイニシャルを私のものに加えたいわねえ、教えて、この私という迷える子羊の羊飼いはどこにいるの?《コーラス》私が会いたいと想い続けている人がいるのその人は、いつも私を見守ってくれる人だといいなぁ私は森の中で迷子になってしまった子羊なのでも私を見守ってくれる彼の前でならいつも私は良い子でいられるわ女の子たちに、もてはやされるようなハンサムな人ではないかもしれないけど彼こそ私の心の鍵をにぎっている人なのよねえ誰かその人に「もっと急いで」って言ってそして「私のお願いを聞いて」って伝えてちょうだいああ、どうしても私には必要なのいつも私を見守ってくれる人が、とても必要なのよ
December 7, 2006
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今日は、アメリカの作詞家、アイラ・ガーシュウィンが生まれた日です。今年は、ちょうど生誕110年になります。●アイラ・ガーシュウィン(Ira Gershwin)1896年12月6日、アメリカ、ニューヨークのロウワー・イーストサイド生まれ。1983年8月17日、カリフォルニア州ロサンゼルス、ビバリーヒルズで死去。86歳。----------アイラ・ガーシュウィンは、アメリカで活躍した作詞家です。1932年に作詞家として初めてピューリツァー賞を受賞しました。両親はロシア系ユダヤ人の移民で、1896年に長男としてアメリカで生まれました。作曲家のジョージ・ガーシュウィンは実の弟で、ジョージ・ガーシュウィンとコンビを組んで、数々のミュージカルや映画などの、アメリカン・ポピュラー・ミュージックの名作を残しました。アイラは、小さいころから本を読むことが好きな少年でした。ある日、父親がアイラのために買い与えたピアノには興味を示しませんでしたが、一方、弟のジョージは、このピアノに夢中になり、ジョージの音楽的才能を伸ばすことになりました。アイラは、学生時代には学生新聞などで執筆活動に取り組んでいたそうです。作詞家としては、初めはあまり売れず、下積みが長かったのですが、1921年、当時人気の作曲家、ヴィンセント・ユーマンスと組んでショーの音楽を担当し、しだいに作詞家として認められるようになってきました。そのころ作曲家として人気が高まってきた弟のジョージと、1924年から本格的にコンビを組むことになり、以後1937年にジョージが他界するまで、兄弟のコンビで膨大な数のミュージカル音楽、映画音楽、ポピュラー・ソングを世に送り出しました。アイラの書く詩は、知的でありながらもユーモアに富んだ親しみやすいもので、ジョージの作曲したメロディーとよくマッチし、多くの人々に愛され続けています。アイラはジョージの死後、一時活動を休止し、引退を考えたそうですが、他の作曲家と組んで1960年代まで創作活動を続けました。インストゥルメンタルで演奏されることが多いジャズでは、ジョージのメロディーの方のみが注目されますが、アイラのすばらしい歌詞は、その楽曲をさらに魅力的にしているということはもっと知られるべきでしょう。ジャズ・シンガーのビリー・ホリデイは、伴奏をしていたピアノのマル・ウォルドロンに生前、「たとえ歌を歌わない曲でも、歌詞をよくかみしめて弾くように」と言っていたそうです。また、映画『ラウンド・ミッドナイト』の中で、サックスのデクスター・ゴードンが曲を吹いている途中で、「ダメだ、歌詞を忘れた」と言って吹けなくなるシーンも印象的です。ジョージ・ガーシュウィンとのコンビの作品で、ジャズ・スタンダード・ナンバーとして演奏され続けているものとしては、「ザ・マン・アイ・ラヴ」「サムワン・トゥ・ウォッチ・オーヴァー・ミー」「ス・ワンダフル」「アイヴ・ガット・ア・クラッシュ・オン・ユー」「バット・ノット・フォー・ミー」「アイ・ラヴズ・ユー、ポーギー」「ア・フォギー・デイ」「誰も奪えぬこの思い(They Can't Take That Away From Me)」「ラヴ・イズ・ヒア・トゥ・ステイ」など数多くの楽曲があります。ジョージが他界したあとの作品で、ジャズ・スタンダード・ナンバーとしては、「マイ・シップ」作曲:クルト・ワイル「言い出しかねて(I Can't Get Started)」作曲:ヴァーノン・デュークなどがよく知られています。
December 6, 2006
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アランフェス協奏曲 / ジム・ホールConcierto / Jim Hall録音日:1975年4月16、23日録音場所:アメリカ、ニュージャージーレーベル:CTI[personnel]ジム・ホール(g)チェット・ベイカー(tp)ポール・デスモンド(as)ローランド・ハナ(p)ロン・カーター(b)スティーブ・ガッド(ds)ドン・セベスキー(arr) [収録曲]1.You'd Be So Nice To Come Home To ユード・ビー・ソー・ナイス・トゥ・カム・ホーム・トゥ 2.Two's Blues トゥーズ・ブルース 3.Answer Is Yes アンサー・イズ・イエス 4.Concierto De Aranjuez アランフェス協奏曲 ----------1975年にリリースされた、このアルバム『アランフェス協奏曲』は、CTIレーベルの全作品中最大のセールスを記録した、大ベストセラー・アルバムです。4曲目のアルバム・タイトル曲、「アランフェス協奏曲」は、スペインの盲目の作曲家でギタリストのホアキン・ロドリーゴが、スペイン中部にあるアランフェスの繁栄と滅亡の歴史をしのんで、1939年に作曲したもので、「ギターとオーケストラのための協奏曲」の第二楽章に登場する美しいメロディーの曲です。マイルス・デイヴィスの『スケッチ・オブ・スペイン』で取り上げられて以来、ジャズの世界でもおなじみのものになりました。マイルスのアルバムでは、トランペットとオーケストラの共演の形ですが、このアルバムでのドン・セベスキーのアレンジは、スタンダード・ナンバーのようなオーソドックスな進行にして、原曲のメロディーの持つ魅力を、ジャズとして最大限に表現することに成功していると思います。チェット・ベイカー(トランペット)やポール・デスモンド(アルト・サックス)の哀愁のあるソロ、スティーブ・ガッド(ドラムス)やロン・カーター(ベース)の重厚で粘りのあるリズム、全体を覆うジム・ホールの渋い音色のギターが、ドン・セベスキーの巧みなアレンジによって、「アランフェス」の繁栄と滅亡の情景が目の前に浮かんでくるかのような、高い品位を感じる名演奏で、実に19分23秒という大作になっています。しかし、このアルバムの冒頭の曲「ユード・ビー・ソー・ナイス・トゥ・カム・ホーム・トゥー」はこのアルバムの中でも特に秀(ひい)でた名演奏で、ほかの2曲も、いずれも名演という、アルバム全曲が名演奏で占められている、超名盤と言えるものです。CTIレーベルは、ジャズをイージー・リスニングにしているものと思いがちな面がありますが、この作品は、クリード・テイラー、ドン・セベスキー、ルディー・ヴァン・ゲルダーの、3人を中心とした「CTI」が生んだ、最高のジャズ・アルバムと言えるものだと思います。
December 5, 2006
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今日は、アメリカのジャズ・ギタリスト、ジム・ホールの76歳の誕生日です。●ジム・ホール(Jim Hall)1930年12月4日、アメリカ、ニューヨーク州バッファロー生まれ。----------ジム・ホールは、モダン・ジャズ・ギターの改革者で、現代最高峰のジャズ・ギタリストと言われています。パット・メセニー、ジョン・スコフィールド、マイク・スターン、ビル・フリゼールといった、現在のトップ・ギタリストたちは、皆、ジム・ホールを敬愛し、多大な影響を受けたと語っています。1930年、ニューヨーク州の郊外、バッファローで生まれ、その後、オハイオで育ちます。10歳のクリスマスのときに、母親からギターをプレゼントされると、この楽器のとりこになり、早くも13歳のころから、地元でプロとして演奏するようになります。クリーヴランド音楽院に学びながら、一度は教師やクラシック作曲家という道に進むことも考えましたが、やはりギタリストとして身を立てることを決意して、ロサンゼルスへ向かいます。1955年に、人気があったドラムスのチコ・ハミルトン・グループに抜擢されてから、一気に注目を浴びるようになります。その後、クラリネットのジミー・ジェフリーが結成したトリオに加わり、1960年から翌年にかけては不定期ながら、アルト・サックスのリー・コニッツとデュオで活動します。1965年に、ニューヨークに移り結婚した彼は、仕事より家庭を選び、ツアーで家を空けなくても済むよう地元のオーケストラで生計をたてていました。そして家庭が落ち着いた3年半後、ツアーに復帰、再び目覚ましい活躍を続けます。1975年の彼のアルバム『アランフェス協奏曲』は大ヒットし、その後の、ジャズ・ギター・ブームの火付け役になりました。ジム・ホールは、常に意欲的なプロジェクトに参加し、多彩な活動をしており、最先端を進み続けているギタリストです。
December 4, 2006
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ワード・オブ・マウス / ジャコ・パストリアスWord Of Mouth / Jaco Pastorius発売日:1981年録音場所:アメリカ、フロリダ&ニューヨーク&ロサンゼルスレーベル:Warner Bros.[personnel]ジャコ・パストリアス(b,key)ハービー・ハンコック(p)マイケル・ブレッカー(ts)トム・スコット(ts)ウェイン・ショーター(ss)トゥーツ・シールマンス(harmonica)ピーター・アースキン(ds)ジャック・デジョネット(ds)ドン・アライアス(per)オセロ・モリノー(per)etc. [収録曲]1.Crisis クライシス2.3 Views Of A Secret スリー・ヴューズ・オブ・ア・シークレット3.Liberty City リバティ・シティ4.Chromatic Fantasy 半音階的幻想曲5.Blackbird ブラックバード6.Word Of Mouth ワード・オブ・マウス7.John And Mary ジョンとメリー----------ジャコ・パストリアスというベースの革命児の1981年の作品。これまでのベースの歴史を塗り変えたと言われるほどの天才ベーシストですが、彼のアルバムは、この広い音楽の世界にたった2枚しかありません。すなわち、ジャコ・パストリアスは、デビュー作『ジャコ・パストリアスの肖像』と、2作目にあたるこの『ワード・オブ・マウス』の2枚だけを残し、35歳という若さで、この世を去ってしまいました。それは、まさに伝説的とも言えるほど、衝撃デビューのあっけない幕切れとなりました。もちろん、彼の名演奏はこの2枚のリーダー作だけではなく、ウェザー・リポートのもの、ジョニ・ミッチェルなどのサイドメンとしての参加作品や、ジャコが後年、短期間率いたビッグ・バンドのものや、彼の死後、発掘された音源などがCD化されていますが、それらは、この2枚のリーダー作の中に集約されているものだと言えるでしょう。デビュー作では即興的要素にウエイトを置き、ソングライターとしての才能も見せた、希望に満ちたものであるのに対して、このアルバムは、プロデュース的な面にも力を入れ、オーヴァー・ダビングにより、緻密に仕上げた作品になっています。ここでも、私の大好きなトゥーツ・シールマンスのハーモニカがフィーチャーされていて、ジャコのベース・サウンドと溶け合った、その牧歌的でヒューマンな響きは、ただただ美しいとしか言い表せません。ジャコ・パストリアスはエレクトリック・ベースを使っていることから、一般的にはフュージョン・プレイヤーとして分類されることが多いようですが、ここに聴かれる彼の音楽は、フュージョンというワクだけではなく、ジャズ、それもオーセンティックなジャズであるということも言えます。ジャコ本人は、生前、自分はR&Bプレイヤーだと言っていましたが、フュージョン・ファンはもちろん、ジャズ・ファンもR&Bのファンも、みんなジャコ・パストリアスのサウンドにたどり着くことになります。いずれにしても、そういったジャンルを超越した、ジャコ独自の世界がここにあり、私は、これをまさに芸術と呼ぶものであると思います。ジャコ亡き後、有能なベーシストは数多くいますが、この2枚のアルバムを凌駕(りょうが)するようなアルバムを作ったベーシストは、いまだに1人もいないと言い切れるでしょう。アルバム・タイトルの『ワード・オブ・マウス』とは、人の口から口へと噂が広まる、いわゆる“口伝(くでん)”“口伝え(くちづたえ)”を意味し、彼が率いたビッグ・バンドの名称としても使われました。このアルバム・ジャケットの写真は白夜(びゃくや)を表している美しいものです。ジャコは、この後まもなく、1982年にウェザー・リポートを脱退し、自身のバンドで活動しますが、そのころから、ライヴ中に奇行が目立つようになり、遂には愛用のベースを売り、マンハッタンの路上で自分のレコードを売り歩くようになりました。また、顔見知りのミュージシャンの楽屋に押しかけては、10ドル、20ドルと金をせびり、わずかの金欲しさに場末のクラブで演奏したり・・・。麻薬の密売にかかわっているとして投獄されたことも1度や2度ではないと言います。行き場を失ったジャコにとっては、少年時代に過ごしたフロリダに帰るしかなかったのでしょう。しかし、1987年9月21日(月曜日)、午前9時25分、フロリダで、ケンカによる負傷が原因でジャコ・パストリアスは死にました。35歳。
December 3, 2006
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ジャコ・パストリアスの肖像 / ジャコ・パストリアスJaco Pastorius / Jaco Pastorius発売日:1976年3月8日(アメリカ)録音場所:アメリカ、ニューヨークレーベル:Epic [personnel]ジャコ・パストリアス(b)ハービー・ハンコック(p)ランディ・ブレッカー(tp)デヴィッド・サンボーン(as)マイケル・ブレッカー(ts)ナダラ・マイケル・ウォルデン(ds)etc. [収録曲]1.Donna Lee ドナ・リー2.Come On, Come Over カム・オン、カム・オーヴァー 3.Continuum コンティニューム 4.Kuru/Speak Like A Child クル/スピーク・ライク・ア・チャイルド 5.Portrait Of Tracy トレイシーの肖像 6.Opus Pocus オーパス・ポーカス 7.Okonkole Y Trompa オコンコレ・イ・トロンパ 8.(Used To Be A) Cha-Cha (ユースド・トゥ・ビィ・ア)チャ・チャ 8.Forgotten Love 忘れ去られた愛 *10.(Used To Be A) Cha-Cha (ユースド・トゥ・ビィ・ア)チャ・チャ [別テイク][*Bonus Tracks ]*11.6/4 Jam 6/4ジャム [*Bonus Tracks]----------1970年代に頭角を現したベーシスト、ジャコ・パストリアスの衝撃のデビュー・アルバム。1976年、『ウェザー・リポート』に抜擢された年にリリースされたもので、ちょうど30年前のものですが、現在聴いても、全く古さは感じられません。それどころか、ますます輝きをもって聴こえてくるところが、これを名盤と言うことができるものだと思います。事実、現在でも、このアルバムは売れ続け、ファンの間ではバイブル化しています。このアルバムは、ベースという楽器の歴史を塗り替えたもので、これまでジャズでは使われなかったエレクトリック・ベースを認知させたものでもあり、エレクトリック・ベースの新しい歴史はこの作品から始まったと言えるのではないでしょうか。冒頭の曲「ドナ・リー」は、ジャズ・サックス・プレイヤーの巨人、チャーリー・パーカーの有名なビバップ曲ですが、これをジャコは、パーカーの吹いているメロディー・パートをパーカッションとのデュオで演奏していて、そのメロディックなソロ、驚異的な速弾きはまるで神業としか思えません。ベースを完全なメロディー楽器にも、してしまいました。しかし、彼の魅力は決して、単にベースでメロディーを弾くとか、速弾きであるとかいったものではなく、その圧倒的なグルーヴ感とメロディアスな表現力にあります。また、このアルバムのすごいところは、それがあくまでも高い次元のライヴ的、即興的な演奏であり、ジャコは、ベース・パートとメロディー・パートをオーヴァー・ダビングするということもしていないようです。とにかく、全編、驚異的なテクニックと表現力が炸裂して、聴くものに圧倒的な感動を与えます。涙ものの一枚です。このアルバムが発表された時、ファンはみんな度肝を抜かれたものでした。あのマーカス・ミラーもそのひとりで、彼は10代の頃に、このアルバムを聴いて衝撃を受けたそうです。「言葉も出なかった。信じられなかった。そしてひたすらジャコを研究した。」と語っています。「この作品において、私たちはもっとも高いレベルで行われた即興演奏に接することができる。彼は世界中に、ベースの役割を考える上で、それまでとは全く違う奏法があること、そしてその意味するところを示したものである。」~パット・メセニー~
December 2, 2006
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今日は、天才ジャズ・フュージョン・ベーシストのジャコ・パストリアスが生まれた日です。●ジャコ・パストリアス(Jaco Pastorius)1951年12月1日、アメリカ、ペンシルヴァニア州ノーリスタウン生まれ。1987年9月21日、フロリダ州にて、35歳で死去。----------ジャコ・パストリアスは、本名をジョン・フランシス・パストリアス三世(John Francis Pastorius 3)といい 、1951年12月1日にジャック・パストリアスとステファニー・パストリアスの子供として、ペンシルヴァニア州ノーリスタウンで生まれました。1959年、ジャコが7歳のときに一家はフロリダ州フォート・ランダーデールに引っ越します。南洋系やR&Bといった黒人系の音楽を聴いて育ったジャコは、10歳のときより父親の影響でドラムを始めましたが、15歳でベースに転向します。やがて地元で頭角を現すようになり、マイアミ大学でもベースを教えるようになります。そのとき、ジャズ・ピアニスト、キーボード・プレイヤーのジョー・ザヴィヌルと出会ったことがきっかけで、1976年に、ザヴィヌル率いるフュージョン・ジャズ・グループ『ウェザー・リポート』に参加し、ジャコの名前は、一躍世界中に広まりました。ジャコ・パストリアスは、ベースにさまざまな可能性を持たせることにより、それまでのベースという楽器の概念を変えてしまいました。ジャコは、もともと「Jocko」というニックネームで、これは1950年代のメジャー・リーグの名物アンパイアから取ったものでした。 1970年代、近所に住んでいたアレックス・ダーキィと毎日のようにジャズの練習をしていたのですが、ある日、アレックスが譜面に間違えて「Jaco」と書いてしまったところ、ジャコはこれを気に入り、それ以降自分を「ジャコ」と名乗るようになったといいます。
December 1, 2006
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