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文章を叩くのは嫌いではありません。歴史のお話も好きです。地獄のお話も好きです。けれどもちょっぴり方向が違います。なんだか嫌いなブログです。自分の綴った文章が・・です。いつからどこからなのかは分かりません。私は方向を見失っています。ブログというのは難しいです。論文やレポートの方がずっと楽です。原稿や解説文にはそれなりの書き方があります。けれどもブログは難しいです。こんなこと書きながらも本気で悩んでいるわけではないのです。きっとサクラが満開になってしまう前に激しい雨が降っているせいなのだと思います。
2007年03月31日
地獄の鬼は牛頭(ゴズ)馬頭(メズ)と呼ばれます。身体は人間。頭部が牛・・・そんな牛頭と身体は人間。頭部が馬の・・馬頭なのです。鬼はたいがい鉄棒を持っています。等活地獄の特色は住民同士のケンカといがみ合いです。その上に獄卒の牛頭や馬頭が罪人をみつけると鉄棒でムチャクチャに打ち砕くのです。頭の先から足の先までガンガン・ガンガン・・ちからまかせに叩きます。人はぐちゃぐちゃこなごなになってしまいます。とってもよく切れる刀を持った鬼もいます。こちらは罪人を切り刻んでしまいます。細かくうすく切り刻みます。こうやって罪人は殺されてしまうのです。正しい意味で殺されます。人は亡くなって地獄に転生しているのです。地獄でも生きているのです。生活しているのです。ですからちゃんと死ぬのです。しかしそれでおしまいにはなりません。これでおしまいなら等活地獄での刑期・・寿命1,620,000,000,000年1兆6千二百億年・・と矛盾してしまいます。むんむんアツアツの等活地獄にほんの一瞬ほんとうにときどき冷たい風が通りすぎます。気持ちのいい爽やかな風です。この風が吹いたときに砕け散っていた罪人たちがこなごなの土塊になっていた罪人たちが再び蘇生するのです。完全復活です。以前と等しい姿になって復活します。等活地獄の名前の由来です。一度死んだくらいで苦しみから逃れることはできません。地獄の苦しみは長く長く続くのです。まるで無限に続くかのように・・・です。まったく地獄には行きたくないものです。*****参考資料今回の地獄巡りの出典を参考文献としてあげておきます。興味をお持ちの方は参考になさってください。十王讃嘆鈔(日蓮)。浄土見聞集(存覚)。往生要集(源信)。十王経(大聖慈寺蔵川)。冥報記(唐臨)。般若験記(孟献忠)。日本霊異記(景戒)。・・・・などに詳しいです。時間がなくてまとまらない長い文章にて失礼します。
2007年03月30日
斉彬は島津家27代斉興(ナリオキ)の長子として江戸の芝の薩摩藩藩邸で生まれました。文化6年1809年・・秋です。28代目の小さな継承者として祝福を受けて育ちました。時の将軍は家斉です。その夫人広大院は斉彬の曾祖父重豪(しげひで)の娘です。斉彬からは大叔母にあたるわけです。将軍家斉の生父一橋治済と重豪はとりわけ仲がよく二人によって斉彬のお嫁さんは選ばれました。一橋斉敦の長女英姫です。斉彬4歳のときのことです。彼女もまた超一流の家柄で一橋家は将軍の実家であり斉敦は家斉の実弟です。斉彬のお嫁さん(奥さん)は将軍の姪だったわけです。こんなものはごく一部です。中津藩主奥平昌高も筑前の黒田斉溥。また八戸の南部信順の有力大名はみんな島津家から養子に行った斉彬の大叔父たちです。斉彬の次弟久寧は岡山藩池田斉政の養子となり名君の評判をとっています。妹祝姫は土佐の山内豊熙に嫁ぎました。その養子が斉彬につぐ幕末の名君山内容堂です。彼らがみな島津斉彬が薩摩藩主におさまることを疑ってはいませんでした。実際に彼がその座につくのは43歳です。少々長くなりました。斉彬の支援者たちのごく一部です。こんなものは斉彬にとって単に閨閥にすぎません。彼が望まれた理由は人となりにあります。才能にあります。知識にあるのです。家柄がいいから性格が悪いに違いない・・・そんなことはありません。家柄のいい人にも性格の悪い人がいて。性格のいい人がいるのです。家柄や閨閥と性格・人間性は関係ないと思います。その彼が才能ゆえに実父に疎んじられていたわけです。実の親子の対立だからこそ複雑で陰湿になってしまったのだと思います。
2007年03月29日
もちろん斉彬を応援する者も大勢いました。なにしろ正式な世継ぎだったのですから。彼らは斉彬を藩主に据えるべく暗躍しました。中の何人かが調所一派やお由羅さんの暗殺を計画しました。それが久光擁立派に事前に漏れてしまいました。藩主斉興は斉彬派を厳しく処罰しました。切腹・はりつけ・遠島・・処分されたものは50名を越えました。これが世にいうお由羅騒動です。その刑の執行のしかたは残酷で執拗でした。詳しくは書きません。書けません。処分された者の中に西郷家と深い関係のあった赤山靱負(アカヤマユキエ)という人物がいます。彼の処分は切腹でした。彼は死に臨んで自分の着用していた襦袢を西郷吉之助に渡すように遺言したのです。西郷をとてもかわいがっていた人物だったのです。西郷は血にそまった襦袢を受け取りました。西郷がその何を考えたのかは明文化されていません。お由羅騒動・・・赤山靱負の切腹は嘉永3年1850年のできごとです。西郷吉之助はこのとき23歳でした。追加************kaorinさんはブログのお友だちです。kaorinさんは実績を持ったアスリートです。彼女がこの春所属チームをかわります。新しいアスリートクラブが立ち上がるのだそうです。彼女は自分が努力している姿を宣伝することはありません。彼女は努力していることや自分が流した汗について語ることはありません。ただただ黙って走っているのです。とても大切なお友だちです。きっと誰もが好きになる・・そんなカワイラシイ女性です。セカンドウインドアスリートクラブ彼女が所属するチームです。この春立ち上がるチームだそうです。応援してくださるとうれしいです。
2007年03月28日
等活地獄を行きましょう。地獄はとにかく暑いところです。暑いどころではなく熱いのです。気温はおそらく40℃を越えます。人の体温の方が低いくらいです。湿度も異様に高く住民はすべて不快だと感じています。住民は殺気だっています。住民・・まさに住民です。人間の想像力は貧弱なもので地獄の生き物もやはり人の姿をしています。人が人間に似せて神様を創造したように・・です。日本人の神は日本人に似ていて中国の神はきっと中国人に似ています。もしもサルが神を発明したらきっとその神はサルの形をしています。もちろんネコの神様はネコにそっくりのはずです。そして地獄の住民もちゃんと生きています。正しい意味で生きているのです。誰もが不愉快を感じる等活地獄では住民たちは殺気だっています。あちらこちらで小競り合い取っ組み合いのケンカが繰り広げられています。日頃からツメを長くのばしてケンカにそなえているのです。住民同士がいがみ合い争うこと・・コレが等活地獄の特色です。もちろんそれだけではありませんが。この地獄には獄卒も住んでいます。牛頭(ゴズ)と馬頭(メズ)です。地獄の刑罰執行人です。言うならば・・地獄の公務員・職員たちです。こいつらが・・・とても恐ろしいのです。
2007年03月27日
そんな状況の中薩摩藩に大問題がもちあがります。薩摩藩が行っていた密貿易を突然幕府が問題視しはじめたのです。薩摩藩の琉球を通しての清との貿易のことです。この貿易は公然の秘密であり実は幕府も黙認していたことだったのです。それまでは・・・です。幕府老中阿部正弘が仕組んだことのように思えます。何の証拠もありませんが。島津斉彬がシナリオを書いたのではないかと思います。もちろん証拠など何もありませんが。薩摩藩の責任を追及して斉興を隠居に追い込む作戦であったのではないか私はそう思います。阿部にとって大きな国難を前にして同じ危機感を持つ斉彬がどうしても必要だったのではないか。そう思います。斉彬の洞察力と気質そして薩摩藩の協力はどうしても必要だった。そう思います。調所広郷はこの件の申し開きのために江戸にあがります。しかし調査はあまりにも徹底的に行われていました。言い逃れできないと読んだ調所広郷は全ての書庫書類を始末しました。そして全責任を被って自殺しました。斉興は調所の死によって救われたのです。嘉永元年1848年12月のできごとです。サクラ当番として巡回中に満開の桜の木を発見しました。この公園の他のサクラはまだ咲いていません。
2007年03月26日
斉興(なりおき)から見ると斉彬は政治が好きで西洋が好きなイヤな息子です。祖父重豪(しげひで)を想像してしまうのも無理はありません。危機感が頭をもたげます。再び薩摩藩は傾くのではないか・・と。調所広郷を重く用いてやっとの思いで財政を持ち直した藩主としては当然の思いだったのかも知れません。斉興は斉彬を嫌っていたはずです。どこかで見たドラマとよく似ています。斉興は久光に藩主の地位を継がせたくてしかたありません。久光は薩摩で生まれ薩摩で育ちました。漢学や国学を学んだ頭のいい人物です。江戸生まれで江戸育ち鹿児島弁をしゃべることのできない斉彬とは違います。ここに薩摩古来の呪術まで登場します。お由羅一派が修験者の牧仲太郎という男を使用しました。呪いをかけたとか・・かけないとか・・真実は闇の中です。とにかく斉彬の子ども達は6人全員が原因不明のまま次々と死亡してしまったことは事実です。薩摩藩は完全にふたつにわれてしまっていました。
2007年03月25日
島津重豪は派手なじいさんでした。将軍家とも姻戚関係を結び豪奢な生活をしていました。支那の文化だけではなく西欧のモノを好んでおしげもなくお金をつぎ込みました。どんどん買い込んでいたのです。彼は蘭癖大名と呼ばれていました。この重豪が可愛がったのが曾孫の島津斉彬(なりあきら)です。斉彬は斉興の世子・・世継ぎです。息子なのです。ひいじいさん重豪の影響を受けて斉彬もまた「西洋かぶれ」でした。蛮社の獄で幕府から追われていた高野長英を匿っていたのは斉彬です。ただの西洋かぶれではありません。不幸なことです。父斉興は息子斉彬を嫌っていたということです。できれば弟の久光に藩主の地位を継がせたかったのです。久光と斉彬は実の兄弟です。けれども母親が違っていました。久光は斉興のおめかけさんの産んだ子どもだったのです。久光のお母さんこそお由羅さんなのです。この兄弟ふたりともトンデモナイ大物です。大物だと思います。斉彬が準備してそのあとを久光が引き継いでいきます。斉彬が藩主になるまでの道は平坦ではありません。生まれたときから約束されていたというのに・・です。
2007年03月25日
文化6年1809年島津斉興(なりおき)が藩主の座にすわった頃。薩摩藩の財政は破産寸前でした。この当時二代前の藩主重豪(しげひで)は健在で藩政の実権はまだ彼が握っていました。重豪は斉興のおじいちゃんです。もともと苦しかった藩の財政がどうしようもない状態に陥ったのは重豪の責任でもあるのです。全部が彼のせいなのだと言ってしまってもいいくらいです。重豪が大抜擢した人物こそ調所広郷(ずしょひろさと)です。与次郎が浜・・現在は与次郎と呼ばれているところですがその入り口にあんまり誰にも顧みられない小さな像がたっています。元つかこうへい事務所の酒井敏也にちょっと似たへんなおっさんです。私は結構好きな人物です。ムチャクチャな人物ではあります。酒井敏也ではありません。調所広郷が・・です。酒井敏也・・・薬師丸ひろ子のセーラー服と機関銃で撃たれて死んだチンピラ役でした。薬師丸ひろ子の胸に抱かれて死んだあの人です。有名ではないかも知れません。
2007年03月24日
等活地獄の罪人の刑期の長さを説明しようとしています。いつのまにかこのブログ変な方向に走ってしまっていますけれどもちょっと開き直っているのです。時間の使い方がヘタクソで流れを変えるところまで行けないのが実情です。もうしばらく我慢してお付き合い下さい。等活地獄の時間の流れは次のように決められています。設定されています・・・と言った方がいいのかも知れません。900万年の天人の寿命も等活地獄の一昼夜にしかならない。しかも等活地獄での刑期は500年である。実は天人・・天道へ進んだ人々のことです。天人にもいろいろ段階があります。その寿命もいろいろなのですが一番下っ端・・つまり一番短命な天人の寿命が900万年です。人間界の50年がこの天界の一昼夜にあたります。そしてこのレベルの天人の寿命が500歳ですから・・50×360×500=9,000,000という計算です。古くは一年を360日と数えていたからです。そして等活地獄での刑期は9,000,000×360×500=1,620,000,000,0001兆6200億年・・・とんでもない長さです。もしも私がこの人間界の次に等活地獄に生まれたとしてそしてその後再び人間界に転生したとしたらそれは1兆6200億年後の人間界ということになります。等活地獄は一番刑期の短い地獄なのに・・です。ひえ~・・・です。桜島はおとなしいものです。何があろうと何も言いません。ただそこにあります。正しい意味で神に似ていると思います。
2007年03月23日
旧暦二月の中気です。お彼岸の中日です。いいお天気でした。真西に日が沈む今日お日さまは極楽浄土の東門に入ります。この夕陽を拝むと極楽浄土の東の門を拝むことになります。極楽浄土は十万億土を隔てたところにあると言われます。この極楽浄土が最も近くなる日が今日です。この日に故人の霊を供養すると迷わずに極楽浄土に成仏することができるのだとか・・・春分の日の日が沈みます。不謹慎な私がいくら目を凝らしてみても極楽浄土の東門は見えそうもありません。不謹慎で疑り深くはありますが決して不真面目ではないのですけれども飛行機雲と鳥の姿は見えました。
2007年03月22日
桜島の冠雪に気付いたのはお昼過ぎのことです。確かに昨日は寒かったのです。そして桜島は雲の中にいたのです。鹿児島出身の画家黒田清輝が父の病気見舞いを思い立ち鹿児島に帰省したのは大正3年のお正月8日のことでした。鹿児島に到着したのは夜の9時頃でした。彼は到着以来身体に感じる地震が頻繁に起こることを不安に思っていました。桜島が未曾有の大噴火を起こしたのは12日の早朝でした。桜島は今も生きている火山です。いつも白い煙をはいています。ときどき灰色の噴煙をあげます。作家の目は桜島を冷静に眺めていました。何枚かのスケッチが残っています。西郷さんの銅像の立つ美術館にも残っています。
2007年03月21日
釜ゆでの刑に遭っている罪人がやがて娑婆に還る旅人に伝言を頼みます。私は生前、官吏の職ににありました。職権を乱用して人民を苦しめ私腹を肥やして来たのです。だからこそこうして今苦しんでいます。そんな私のために法華経を書写して欲しいのです。そうすれば私は救われるのです。生き返った男はこの見聞してきたことを文章にして太宰府に提出しました。太宰府はこれをさらに朝廷に転送したのですが・・朝廷はコレをそのまま20年間放置しておきました。20年後です。時代は平安時代桓武天皇の御代になっていました。ふとしたことでこの書状を御覧になった天皇はすぐに僧侶を呼び寄せて下問されました。もう20年も前の話だからこの地獄の男も許されているのだろうか。とんでもございません。地獄の一日一夜は人間世界の100年に相当します。彼はまだ地獄の責め苦を受け始めたばかりです。桓武天皇はこの罪人のために法華経を書写するように命じました。地獄の一日一夜が人間世界の100年に相当する・・この日本霊異記の僧侶の話は実は間違いです。等活地獄の一日はもっとずっと長いのです。信頼できる筋?によると等活地獄の一日一夜は900万年にあたります。900万年というのは天人の寿命です。地獄の刑期のお話は・・・雨があがったら書こうと思います。今日は冷たい雨でした。
2007年03月20日
説話集の日本霊異記に等活地獄の刑期についてのお話があります。奈良時代光仁天皇の御代のことです。備前松浦郡のある人物が亡くなって閻魔大王の前に引き出されました。ところが閻魔帳によるとこの人はまだ寿命が尽きていなかったのです。閻魔さんは平等な王ですから素直にシステムの間違いを認めて地上に送り返されることになりました。でせっかくなのでこの男は等活地獄を見学させてもらうことにしました。地獄のアチコチを見学する中熱湯がぐつぐつと煮えたぎっている大きなカマで罪人がゆでられているのを見ました。大きなカマの中を罪人たちが入れ替わり立ち替わり底から浮かび上がってきます。そして沈んでいきます。そんな罪人の一人がこれから娑婆に還ろうとする男に伝言を頼みました。だらだら・・長くなりました。数字の話は次の機会にまわします。もちろんこの続きも書きます。日本霊異記は奈良時代の僧景戒によって書かれた我が国最古の仏教説話集です。三巻あります。私たちが昔話として知っているたくさんの話が入っています。ちょっと楽しいです。鬼の絵を描きました。ちょっと恐そうに描いたつもりではあるのですが。コイツは牛頭(ゴズ)という種類です。地獄の獄卒にはもう一種類馬頭(メズ)という種がいます。
2007年03月19日
仏教の世界観・宇宙観は壮大です。ゆっくりと・・また改めて・・書けたらいいと思います。地獄の正確な位置も・・改めて・・書けたらいいと思います。地獄は苦しみを受ける場所です。仏教では大きく分けるとふたつの地獄を用意しました。熱地獄と寒地獄です。八大熱地獄と八大寒地獄と呼んでおくことにします。単純に言い切ってしまえば寒い地獄と熱い地獄です。日本では八大熱地獄の方が有名です。苦しみの小さい方から八つの熱地獄を並べます。等活地獄(トウカツ)・黒縄地獄(コクジョウ)・衆合地獄(シュウゴウ)・叫喚地獄(キョウカン)・大叫喚地獄・焦熱地獄(ショウネツ)・大焦熱地獄・阿鼻地獄(アビ) です。原則として前の地獄の10倍の苦しさが用意されています。お話は等活地獄からはじめます。
2007年03月18日
ピラミッドを築いた古代エジプトの神話では死後の魂は冥界の王オシリスの法廷に立たされます。小さい頃このオシリスという名前が面白くて面白くてたまらなかったことがあります。お尻・・ス・・だと思ったのだと思います。ウンコとかオシリとかがおかしかった頃がありました。何も関係ありませんが。オシリスの法廷には42人の審判官がいてそれぞれ専門の質問をします。面接試験方式です。この質問がなかなかの難問で予習なしでは通過できません。けれども死者たちのほとんどがスラスラとまるで暗記してきたかのように回答してさらっとパスして行くのです。暗記してきたように・・ではなく暗記しているからなのです。死者たちは生きている間に模範解答を勉強してきているのです。そのための参考書がちゃんと売られているのです。これはもうほとんどカンニングです。それに比べれば仏教の泰山王のやり方の方がずっとずっと理にかなっています。合理的です。6つの鳥居を見て死者たちは自分で好きなモノを選びます。大きいのが好きなモノケバケバシイ色が好きなモノかわいい鳥居が好きなモノシブイ色合いが好きなモノ飾り付けの派手なモノ・・地味でめだたないモノ・・各自自らの個性で選びます。その選び方の個性を仏教では業(ごう)と呼びます。偶然ではなく必然なのだと説明します。冥途の旅・・・つまり中陰の状態はこれで終わりです。ですからこの四十九日目・・七七日(なのなのか)のことを満中陰と呼ぶのです。そしてその後は来世です。
2007年03月16日
七七日(なのなのか)四十九日です。この日泰山王による最終判決が行われます。冥途の裁判官七人は自分では結論を出さず次々と先送りにしてきました。けれどもすでに49日そろそろ結論を出さなければなりません。泰山王のやり方は少し変わった方法です。死者に自分で自分の運命を選ばせるのです。ちょくら、あっちを見てみなよ。な、その場所から6つの鳥居が見えるだろう。見えるだろ?泰山王は死者に言います。大丈夫ちゃんと日本語です。あの鳥居の先には6つの違った世界があるんだ。あの鳥居はつまり6つの世界への入り口よぉ。もちろん6つの世界とは仏教の輪廻の世界です。地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人道・天道・・・です。さあて・・オマエサンが自分で選ぶんだ。自分の好きな鳥居を選んで進んで行きゃいい。ただし。後戻りはできないぜ。どの鳥居がどの世界につながっているかは分かりません。ランダムに配置された大きさも形も色も違う6つの鳥居です。人は冥途に落ち着くのではありません。あくまで来世への中間の途に過ぎません。自分で選んだその鳥居の先には自分の来世があるのです。ちょっとデタラメな方法に見える来世決定法です。自己申告・自己選択の分かれ道です。私は地獄の世界を案内したくてちょっと急いでしまいました。
2007年03月15日
公立高校の合格発表の日でした。高校の合格者発表ボードの前にいるのは合格の確認にでかけてきた生徒さんたちです。うれしい顔でいっぱいです。ほんの少し春が近づいたような陽射しでした。みんなの春が素敵なものになりますように。
2007年03月14日
とってもきれいな青空でした。こんな日は海辺の公園に出かけて空を眺めなければなりません。けれどもそれには少し涼し過ぎるのです。いつもならおにぎり持って草の上に大の字に寝ころんで吸い込まれそうな空を見ます。空に落ちていくような気分を味わいたいのです。けれどもそれには少し寒すぎるのです。春はもう少しお預けのようです。この道を下って原良まで行くと小松帯刀の私邸跡があります。さらに車を走らせると桜島の真っ正面まで行けるのです。
2007年03月13日
そのとき菅実秀は動きませんでした。菅も真相を知りたかったはずです。果たして西郷が自分から計画したものなのかもしそうであるならば必ず自分に知らせてくれるはずだ。それがない以上は恩人の真意はどこか別にあるに違いない。そう考えていたのだと思います。明治10年2月15日西郷の率いる薩摩軍は鹿児島を出発して北上しました。その前日づけで黒田清隆は菅実秀に手紙を送っています。私学校生徒の弾薬掠奪事件は西郷とは一切無関係であるという内容です。暗にくれぐれも自重してくれと頼んだものだったのです。黒田の胸をよぎったものは西郷に心酔している旧庄内藩士たちが西郷挙兵に呼応して立ち上がるかも知れないという思いだったはずです。明治10年の2月は鹿児島にはめずらしく大雪が降りました。50年ぶりの積雪量が記録されていました。一面の雪の中西郷は何を考えていたのでしょうか。西郷の胸の内を思う菅実秀はどのような思いだったのでしょうか。明治8年6月12日庄内の一行は船で錦江湾をたちました。菅実秀にとってこれが西郷との永遠の別れになりました。
2007年03月12日
甲突川のたもとに維新ふるさと館というテーマパークがあります。維新ふるさと館の駐車場の目の前が西郷隆盛が生まれたところです。西郷隆盛の生家のあったところです。文政10年1827年西郷隆盛はココにあった家で生まれました。そしてココで青春時代を過ごしました。今日は一日とってもいいお天気でした。桜島もよく見えていました。明治10年1877年西郷は50歳になることなくその生涯を閉じています。
2007年03月11日
冥途の旅は一方通行です。三途の川を渡ったら二度とコチラへは戻って来られません。三途の川の対岸には懸衣翁(ケンネオウ)と懸衣嫗(ケンネウ)が待っています。懸衣嫗というのは俗に言う奪衣婆(ダツエバ)だつえばばあ・・・です。二人は死者の衣類をはぎ取ると衣領樹(エリョウジュ)という木の枝にかけるのです。その死者の生前の罪の重さを計るのです。懸衣翁と懸衣嫗は三途の川のこちら側賽の河原にいるという説もあります。水に入ってビショビショになってからでは罪の重さを計れませんから三途の川に入る前に衣服を取り上げることが合理的かも知れません。居場所を向こう岸に変えたのは渡し船ができてからのことなのかも知れません。雨が降ったり止んだりの少し肌寒い一日でした。とっても眠たい一日でした。もう瞼がくっつきそうな夜です。
2007年03月10日
古代ペルシャのゾロアスター教にもとてもよく似た話があります。この世から浄土の入り口まで長い橋がかかっています。その橋の名前はチンバット橋といいます。おもしろい橋で死者の罪に応じて橋の幅が広がったり狭くなったりするのです。悪人が渡ろうとすると糸のように細くなってしまうのです。糸の幅です。それで悪人は浄土に渡ることができません。ゾロアスター教では裁判官は必要ありません。チンバット橋が自動的に人を審査しているのです。全自動です。さすがはペルシャのお話です。私たちの・・・イイエ。私の冥途案内は寄り道ばかりでまだ三途の川のこちら側です。もう少し先へ進めます。明日以降になりますが・・・曇ったり曇ったり曇ったり晴れたりの変なお天気です。部屋ではストーブ焚いてます。喉がちょっとイガイガです。ちょっとです。追伸・・・・告知友人が関わった番組が放送されます。九州限定だというお話ですが。告知をさせてください。「そして うたが生まれた~BEGINからの贈物~」というタイトルです。放送日はまもなくです。
2007年03月09日
菅実秀の一行は途中で静岡の開墾場や製茶業を見学しました。神戸からは長崎経由の船です。熊本から再び陸路という長い長い旅でした。5月17日夕刻鹿児島に着いています。50日もかかりました。西郷吉之助は遠くに狩りにいっていました。菅の一行はがっかりしました。五日目に西郷の方から訪ねてきました。一同驚喜です。同行の石川静正はその時のことを薩摩紀行に記録しています。この日から20日間菅はときに一人でときに一同を引き連れてしばしば西郷の家を訪れました。武村の西郷家は芝垣に囲まれ小さな門に西郷吉之助という木札がありました。座敷も簡素なものでした。ただ四方の壁にワシントンとネルソンそれにペートルの銅版画が掲げてありました。四方ですからもう一枚です。もう一枚はナポレオンです。西郷吉之助は間違いなくナポレオン伝を読んでいました。文久3年沖永良部に流された時に持参した本の中に「那波例翁伝初編」(ナポレオン伝)小関三英訳が含まれていたからです。桜の開花予想がでました。信じられないことですが私のウチの周囲は3月31日です。ちょっとちょっとちょっと・・・です。
2007年03月08日
明治8年4月8日7人を同行した菅実秀は新橋駅を汽車で発ちました。といっても汽車の旅は神奈川・・現在の桜木町までです。酒田県の旧庄内藩は再建の基本策として西郷吉之助の意見にしたがって松ヶ岡開墾事業に着手することになりました。その指導にあたっていたのが菅実秀です。菅実秀とは旧中老・・当時酒田県の権参事であった人物です。彼は庄内の西郷と呼ばれていました。その庄内の西郷が鹿児島にくだった西郷吉之助を訪ねたのです。その服装は木綿の着物に、ももひき、わらじ、それに一刀を腰に・・でした。旧西郷屋敷跡は現在鹿児島に4箇所残っています。菅実秀が訪問したのは武の西郷邸です。鹿児島中央駅西口を出て新幹線の高架に沿ってまっすぐ進むと常盤トンネルの入り口です。そのトンネルを正面に見たら左に折れて新幹線のしたを抜けるとその左手が西郷公園です。西郷屋敷跡です。徳富蘆花が妻を伴っての「死の蔭に」の旅で西郷について語る雨降る公園はこの場所です。多くの文学者や知識人が立ち寄ったこの公園に何度立ってみても悲しいかな私に才能が落ちてくることはありません。ちょっと悲しい事実です。
2007年03月07日
ちょうどお昼の時間に高校をのぞきました。教室を抜け出した受験生たちがお弁当を食べていました。きっと母さんが心をこめて作ってくれたお弁当です。今日は公立高校の受験日だったのです。冷たい風の中ひだまりのベンチに腰掛けて小さな戦士たちが短い休息をとっていました。フレーフレー・・・・・です。
2007年03月06日
現世と来世の境界に川が流れているという伝承は世界のあちこちにあります。ギリシャの神話ではその川はスティクス川と呼ばれています。この川岸にはカロンという名のおじちゃんがいます。このおじいちゃんは渡し守です。死人の魂を船に乗せて向こう岸まで渡してくれます。その運賃は1オロボスですからギリシャでは御葬式の時に死者の口に1オロボスの硬貨をいれてあげるのです。昨晩の激しい雨が冷たい空気をつれてきました。寒いといっても鹿児島は14℃だったのですけれども。それでも私はよく眠りました。長く眠りました。
2007年03月05日
ヤマはインドの神話に登場する神です。もとは神ではなく人間でした。ただし彼は世界で最初の人間です。インドの神話です。なかなか面白いお話です。仏教は上手に民間伝承を取り込んでいるのです。人間第一号は死人となった第一号でもありました。ですから彼が死後の世界の王になったのです。インドの神話ではヤマの王国は天上にありました。そこは一種の楽園です。大昔は悪人なんて存在せず静かな音楽が流れて花が咲き乱れていました。ところが次第に悪人も増えて来てしまいます。ちょっとひどすぎる者も出てきたために地下にも死後の世界をつくらなければならなくなりました。天国と地獄のはじまりです。死後の世界の天国と地獄の分割です。ヤマは天国と地獄の両方の面倒をみることになりました。もちろん仕事山積みなのは地獄の方です。いつのまにか天国の方は忘れられて地獄の王ヤマだけが人々の記憶に残るようになってしまったのでした。日が落ちて雨になりました。ちょっと激しい雨です。
2007年03月05日
おじぞうさんの正体は閻魔さまです。長い話しです。かなり有名なことですがあんまり広まっていないことも事実です。閻魔さんの話です。冥途には現在10人の裁判官がいます。閻魔さんはその5番目の裁判官です。地獄のトップではありません。その時期もあったようですが・・どうも左遷されてしまったようなのです。私のツクリではありません。閻魔王を除く9人の王は全て中国の出身です。閻魔王お一人だけはインド出身の王です。地獄絵や冥途の絵をよく眺めてみると服装はみんなに合わせているのですが名前はごまかせません。彼ひとりだけインド風なのです。彼の出身はインドです。名前はヤマ。音で翻訳されて閻魔の漢字があてられました。ヤマはもともと神様ではありません。普通の人間です。しかも最初の人間です。いいお天気のひなまつりでした。桜島がドンしていました。
2007年03月04日
三途の川を目の前にしています。私たちは死出の山のすそのを歩いて死後7日後に秦広王の裁きを受け初江王の法廷へ進む途中です。三途の川は暗く大きな川です。この三途の川のこちら側の河原が有名な賽の河原です。河原の風は冷たくて身を切るようです。日が射すことはなく暗く陰湿な風が吹いています。そこにはここに留まることを強制されたたくさんの子ども達がいます。幼くして亡くなった彼らの罪は許されることはありません。子ども達は石を積みます。小さな塔を作るのです。ひとつ積んでは父のためふたつ積んでは母のため子ども達は不器用にけれども一生懸命石を積みます。ときどき冥途の鬼がやってきてその塔をたたき壊してしまいます。鬼が鬼のような顔をして子ども達を打ち据えます。賽の河原には冷たい風が吹いています。純真無垢な子ども達の罪は自分の死によって父母を悲しませた罪です。子どもの死ほど親を悲しませることはありません。仏教の教義ではとても大きな罪なのです。子どもを亡くしてその上にその子たちが賽の河原でいじめられている苦しんでいるとしたら親はたまったものではありません。正義の味方は存在します。・・・・表現が適切ではありませんが。お地蔵さんが子ども達を救ってくれます。お地蔵さんは冥界のスーパースターです。地獄でも力を持っています。お地蔵さん・・またの名を地蔵菩薩といいます。そして彼にはもうひとつ別の名前があります。お地蔵さんの正体は・・・・御存知ですか?桃の節句にあんまりふさわしくないお話をごめんなさい。せめて借り物のお雛様載せておきます。かごしまメルヘン館のお雛様です。
2007年03月03日
中央に出たくない西郷でした。その頃から新政府高官の腐敗に憤懣を抱いていた西郷でした。けれども西郷は自分が利用されることは承知の上で朋友大久保の懇請をうけいれたのです。他の誰よりも大久保利通のことを分かっていた西郷だったからです。大久保が私服を肥やす人間ではないこと。政治を私する人間でないことは彼には分かっていましたから。西郷の上京を誰よりも待ちわびていたのは大久保です。心から待ち望んでいました。そしてもうひとり菅実秀もまた待ち望んでいました。南洲翁遺訓を出した人物です。西郷の言葉を残したのは鹿児島の人間ではなく山形県庄内の菅実秀です。私は大久保と西郷の関係が嫌いではありません。二人の関係が大好きです。大久保利通の生き方も好きです。そしてもうひとり菅実秀という庄内藩のブレーンもまた素敵な人物であったと思います。西郷をめぐる人物たちは魅力的であります。
2007年03月01日
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