2026
2025
2024
2023
2022
2021
2020
全29件 (29件中 1-29件目)
1
時間がない・・などと格好をつけてただただあやふやな自分の偏った歴史の物語を申し訳ないと・・・思います。申し訳ない・・などと傲慢な書きぶりも・・ナマイキです。私のことです。私がです。ただただ好きなことを書きなぐっていれば一日分のブログの記事が埋められると・・・そんな甘い・・書き方なのです。*島津の藩風は義に厚いことでした。関ヶ原の合戦のあとでも宇喜多秀家をかくまいました。藩主自らが家康に助命を談判しています。その薩摩藩が月照をかくまいもせず日向送りを決定しました。井伊直弼の恐怖政治を恐れたからです。斉彬の時代なら有り得ないことです。その昔・・高野長英をかくまい彼のパトロンであったのは島津斉彬・・本人です。高野長英は斉彬の知的ブレーンのひとりでした。安政の大獄で追われているメンバーは間違いなく斉彬の知己たちなのです。西郷は激しい怒りを感じていました。月照を日向に送れば間違いなく捕らえられるに決まっています。二人の入水を藩はひた隠しにしましたがしだいに漏れてきます。精忠組のメンバーは不満の炎を燃やし始めました。島津豊後・新納駿河派の冷ややかな仕打ちにかれらは熱くなってきました。
2007年05月31日
久光には身分の低いおめかけさんの子だという負い目がありました。それにまだ実父の斉興が健在だったのです。久光は重富の家に引きこもってしまいました。読書に日を過ごして藩政を顧みようとはしません。島津斉興はかつて藩主の地位にしがみつきすぎて幕府老中阿部正弘にやめさせられた経験を持っています。彼は長男斉彬亡き後再び返り咲いたのです。11月には来鹿して薩摩藩の実権を握りました。藩政の布陣を反斉彬派で固めました。又次郎の藩主継位任命についてもまだ幕府からの許可が出ていません。そんな情況の薩摩に幕府から追われた月照が落ちのびて来たのです。
2007年05月30日
はじめて写真を載せます。薩摩藩29代藩主島津茂久です。島津斉彬の死によって薩摩藩の支配体制は大きく変化します。しばらくの間明治維新への歩みは遅れたことになります。しかし実際はこの間にいろいろな舞台装置が整い役者が揃っていくことも確かなことでもあるのですが。斉彬は死に際して弟久光を呼びました。そして彼に全てのことを任せて旅立ったのでした。結果的には久光は兄の遺志を継ぎ兄の描いた明治維新への道を現実のものにしていきます。斉彬の遺志のとおり29代薩摩藩藩主は久光の長男又次郎です。久光は後見人として実際の政治をおこなって行きます。ただし久光が本気になるまでにはちょっと時間がかかります。
2007年05月29日
ふたつめの要因は島津斉彬の死です。1858年7月彼は急死しました。薩摩藩に与えたショックは想像以上のものでした。虚脱状態はながく尾をひきます。特に西郷の受けた衝撃は大きなものだったはずです。西郷よりも大久保よりも勝海舟よりも井伊直弼よりも坂本龍馬の死よりもおそらくは島津斉彬が生きた歴史の方がよかったのではないかと思います。少なくとも面白かったのではないかと・・・しかしながら歴史に、もしもはありません。井伊直弼を死なさない歴史や島津斉彬が死ななかった歴史は物語でしか作れないのかも知れません。それはきっと織田信長の場合より面白いと信じます。坂井泉水さんのご冥福をお祈りします。
2007年05月28日
安政5年9月京都で志士の梅田雲浜が捕らえられました。妻は病床にふし子は飢えに泣く・・・例の歌が残された事件です。水戸の鵜飼父子、頼山陽の子三樹三郎たちも捕まりました。鷹司・三条家などの関係者もです。井伊直弼にとってはそれまで幕府にたてついてきた公卿たちへのおどしです。そして志士たちへのお礼参りです。公卿たちはすっかり青ざめてしまいました。勤皇の僧月照もねらわれたひとりです。彼の保護を薩摩藩に依頼したのは近衛家です。昔から近衛家と薩摩は深い因縁があり親しくつきあっていたからです。月照の碑の碑銘を近衛文麿が書いているのもそのあらわれです。近衛家の依頼もあって当時京都にいた西郷たちが腐心して月照を守りながら鹿児島に落ちのびさせたのでした。
2007年05月27日
井伊直弼は薩摩や水戸が推している一橋慶喜をしりぞけました。そして紀州の徳川慶福を14代将軍(家茂)に決めてしまいました。ついで世論を無視して勅許もないままアメリカ総領事ハリスの言葉に屈しました。仮条約にさっさと調印してしまったのです。二大懸案を一息で解決した井伊直弼はココで攻勢にでます。安政の大獄です。安政5年1858年駆け足で1年が過ぎていきます。井伊直弼という人物に大変な魅力を感じます。新幹線が名古屋から関ヶ原を抜けて琵琶湖に近づいていく頃彦根を過ぎる頃には窓の外の景色に彼の風景をみつけようとしたものです。
2007年05月25日
西郷と月照を入水に追い込んだものの根は大変深くて広いのです。暗く陰湿な・・しかしやがて訪れる変動の季節を予感させていました。最果ての地薩摩は変わろうとしています。大きな変動が薩摩藩を揺さぶっていました。第一の要因井伊直弼の台頭です。ぐらぐらとぐらついていた徳川幕府の屋台骨は井伊直弼の大老就任で一変しました。安政5年1858年4月のことです。明日はきっと雨です。
2007年05月24日
鹿児島から錦江湾を海岸沿いに北上する道は国道十号線です。当時のこの道は磯から先は海に沿った急勾配の道です。急な傾斜の荒磯を縫う狭い岩礁の小径でした。大久保と有村は5里20kmの道のりを急いで夜明け前に重富に着きました。二人が部屋に入ったとき平野は刀を構えていました。刺客が追ってきたと思ったのです。有村と大久保は餞別の5両を手渡すことができたのです。平野次郎は平野国臣です。優秀な学者でもありました。この翌々年万延元年とさらにその翌年文久元年にも入薩しています。勤皇家の平野は薩摩の決起なくして王政復古はありえない・・そう思っていました。もちろん平野だけではありません。坂本龍馬をはじめとして天下の志士たちがそう信じて薩摩を訪問しています。わが胸の燃ゆる思ひにくらぶれば煙は薄し桜島山むすびは・・・さくらじまやま・・と読みます。平野国臣がこの歌を詠んだのは二回めの入薩のときです。この歌が他県の人の詠んだものだと知ったのはずいぶん後になってからのことでした。
2007年05月23日
平野次郎(国臣)と重助は飛脚宿に移されました。前夜までの客扱いは一変して冷たくなりました。平野は有村俊斉たちに会いたいと迫りますが。まったく取り合ってくれません。もうカンカンです。月照の死体は18日南林寺西郷家の墓の近くに葬られました。重助は翌日19日幕吏に引き渡されました。その夜平野は明朝出立して大口街道をとって帰れ・・・と追放の命令を受けました。宿の主人があてがった弁当を怒った平野は投げつけました。弁当は壁に当たって握り飯が砕け散りました。悲しい音が響きます。平野は横笛を吹きちらし部屋の中をぐるぐるぐるぐるまわります。そして夜半過ぎ出発しました。有村俊斉と大久保一蔵が宿に駆けつけたのは平野が出発してしまったあとのことです。二人は森山新蔵に都合してもらった五両のカネをもって平野のあとを追って東に向かいました。
2007年05月22日
藩庁はふたつの棺桶を用意しました。月照の死体は追ってきた幕吏に検死させました。西郷の死体はまだあがらない・・・そう報告しました。当時西郷には幕府の逮捕命令が出ていたのです。まだ意識の返っていなかった西郷の巨体は上之園の自宅に運ばれました。藩は西郷を菊池源吾と変名させてしばらくは奄美大島に潜居させる手はずでいました。西郷が死のうと考えたのには十分な理由があったのだと思います。
2007年05月21日
東郷流と薬丸流では立ち木の装置が違っています。薩摩の剣術・・示現流のことです。正確には自顕流と示現流のふたつの流派は別ものです。薬丸流は横木打ちが基本です。Y字形をした又木マタギの直径15cmくらいの材木を二本用意して左右1.5mの距離をおいて地中に埋めます。地面から又のところまでが0.9mほどの高さにします。その又と又の間に直径1.3cmのカシの枝木を10本ほど束にして掛け渡します。この装置を棒で斬撃します。棒は直径3cm長さ1.2mのユスの棒で樹皮のついたものと決まっていました。木刀はまだ使いません。その回数は朝に3000夕べに8000と言います。この横木(立ち木)3年で基本動作ができるとのことです。子ども達は朝は早起きして横木に向かいます。しじまを破るカチャ・カチャという音が近所の家から聞こえてきます。カチャ・カチャ・・ひきしまった音です。もう○○どんははじめやったど・・家人が競争させるように告げます。こっちもまけやせんど!!・・懸命になって打ちます。薩摩の示現流には防御はありません。ただひとつの例外を除いてでは・・ありますが。ですから他の国の武芸者はアドバイスします。薩摩とやるときは初太刀をはずせ・・・と。
2007年05月20日
次は森山新蔵の番です。この時彼は36歳です。有村に劣らぬ鋭い気合いで打っていきます。一目でなかなかの使い手だとわかります。拙者はいくらかの名士とつきあいをもってきもした。じゃっどん世をはばかっていもした。剣を習うにも道場は家の奧に作り大声をたてんごっ慎みもしもした。しかし貴殿はおおっぴらにつきおうてくいやした。俊斉は新蔵の謙虚で至誠の人がらに感服しました。これまでの偏見を改めます。そしてふたりの友情が固まっていきます。重要なことはこのときから森山新蔵が有村俊斉を通して精忠組のスポンサーの役割を果たすことのなることです。安政5年1858年11月19日有村俊斉と大久保一蔵はひそかに森山新蔵をたずねました。四日前に朋友の西郷吉之助が僧月照と入水した事件を片づけるためのカネの相談のために・・・です。
2007年05月19日
俊斉はある日森山新蔵を訪ねました。君のことは薬丸先生に聞いたんだ一緒に打ち回りでもやろうかなって思ってさ・・・打ち回りは薩摩の剣道示現流ジゲンリュウの練習のひとつです。森山は迷惑そうな顔をしません。むしろ喜んでいるように見えます。城下士のみんなは自分のことを軽蔑している。若手グループの有力指導者のひとり有村を通じてほんの少しでも自分を分かって欲しい。そう思ったのではないでしょうか。若い俊斉から打ち回りをはじめます。木刀を高く上げて大声を出しながら左右前後に打ち出していきます。俊斉が薬丸半左衛門についたのは15歳のときでした。幼少の頃から東郷権兵衛にヤリなども習っていました。きっと見事な足さばき腕さばきであったはずです。心の中で叫びます。どうだ!!昨日からの会話部分が鹿児島弁になっていないのはちょっと翻訳が難しかったからです。鹿児島弁は興奮すると・・聞き取れない発音になります。今日の有村のセリフです。おはんのこっちゃあ薬丸せんせにきいちょいもす。同門のよしみもありもんそうおいとわいといっしょに打ちまわいでもやいもんそや。
2007年05月18日
森山新蔵と師匠薬丸半左衛門のうわさにはじぶんたちまでがけがされた気分になりました。不愉快でがまんができません。有村俊斉(海江田信義のち海軍中将)は奈良原喜左衛門たち四人と連れだって師匠の前に出ました。森山新蔵との交わりを断ってください・・率直で単純で厳しい門弟どもです。あ・ほ・かぁ・・・おめえら!!おまえたちに森山の何が分かる!!士気に富んだ立派な人物なんだよぉオレだっておまえたち単純バカどもに教えてるより森山と兵法論じている方がどんだけ楽で楽しいことか・・・グチャグチャぐちゃぐちゃ言ってんじゃねえよ!!ちゃんと話しもしたこたぁねえんだろ!!薬丸先生は五人をどなりあげました。有村たちはシュンとなってしまいました。ふてくされた有村が大久保一蔵(利通)の家を訪ねるとなんと森山新蔵がいあわせていました。大久保父子も森山と交際していたのでした。有村は考えました。これはもうじかに会って人物を腕前をみるしかありません。
2007年05月17日
有村俊斉(海江田信義のちの海軍中将)はある日、胸の悪くなるうわさを聞きました。示現流ジゲンリュウの師である薬丸半左衛門があろうことか森山新蔵とつきあっているというのです。森山は町人出身でけれども武芸にも熟達した異色の武士でした。藩庁に何回も金穀を献上してそのおかげで武士になったらしい・・・それが有村たちの気に入らなかったのです。彼らは森山を成り上がり者とさげすみ新蔵とつきあうと息が臭くなる・・と排斥していました。ほとんどオバカな小学生です。幼い頃からゼニカネのことは口に出すな・・と金銭をいみきらう習性があったのです。薩摩の士風のいこじなところです。そのくせ・・だからこそいつも貧乏していました。
2007年05月16日
海に浮かぶ桜島です。今日の写真ではありませんが。ちょっと時間の使い方を間違いました。眠たい眠たい夜です。
2007年05月15日
開聞岳の麓に小さなハーブ園がありました。とってもいい香りの花が咲いていました。私は花の名前が覚えられません。名前を教えていただきました。においばんまつり・・という名前を書き取りました。小さなかわいい森のレストランがあったのです。ハーブ園の中にです。そこの御主人に教えてもらったのです。
2007年05月14日
船は磯の島津家の庭園沖を過ぎ大崎ケ鼻に近づきました。一同が寝静まったとき西郷と月照は肩を組んで躍り上がるように船を離れました。大きな水音が夜空に響きました。つきそいの坂口周右衛門と平野次郎(国臣)が飛び起きて船をとめろ!帆を下ろせ!・・と叫びますが舟子たちはうろたえていて役にたちません。坂口が船板をはいで暗い海に投げ込みます。目印のためにです。脇差しで帆綱を切って落としました。船の速度を落とすためです。見てきたような・・文章を書いてしまいました。見てきた男の文章を使いました。鹿児島には西郷像がいくつかあります。空港前に立った比較的新しい西郷さんです。顔立ちが私の好みと少し違います。
2007年05月13日
パスポート パスポート初っめっ使こた はっめっつこた眼鏡長丈 メガネ おせ最長では9日間もあったという今年のゴールデンウィークで初めての海外旅行そして初めてパスポートを使った長身のメガネさんでした。なんて長すぎる解釈でしょうか。鹿児島弁では初めてを・・はっめっ使ったを・・つこた と言います。私のパスポートはもう期限が切れそうそうです。書き換える予定もしばらくはありませんが。いつものように西田町の「メガネのふじ」さんの掲示を勝手に使わせていただいています。結構私は楽しみにしています。この歌はご店主のお母様が作っておられるとのこと書き上げて掲示なさるのは店主さんです。
2007年05月12日
安政5年11月15日の夜。鹿児島城下の田原屋を出た西郷吉之助と僧月照それに従僕の重助そして福岡藩士平野次郎(国臣)の四人はすぐに海岸に向かいました。待っていた藩の船に乗って沖に出て帆を上げたのは11時頃のことです。用意されていた重箱を開いて酒を酌み交わしました。鹿児島県ではどんな大きな都市銀行よりも鹿児島銀行という地方銀行が圧倒的な強さです。バス停ごとに支店があると言えばおおげさですがそれに近いモノはあります。その鹿児島銀行の本店の裏手に月照の碑がたっています。彼が泊まった田原屋旅館の跡地なのです。明治維新の頃まではこの天文館の近くまで海岸線が入り込んでいたのでした。
2007年05月11日
西郷吉之助に命令が下りました。菊池源吾キクチゲンゴと改名して奄美大島に潜居せよ・・・そんな内容です。罪人としてではありません。ほとぼりが冷めるまで隠れていなさい・・そういうことです。お給料(扶持フチ)もついていました。安政5年1858年12月のことです。ゴールデンウィークには霧島と開聞岳周辺を歩き回りました。その筋肉痛が今頃になって出ています。足がパンパンに張っています。とってもよく眠ります。
2007年05月10日
藩庁は城下にきている筑前の捕手に西郷と月照の二人が死んだと伝えました。藩庁にとって西郷にもすでに逮捕命令がでていましたからその方が都合がよかったのです。このことは西郷を幕府の追求から助けるためでもあったのです。西郷が投身後はじめて書いた手紙です。私は土中の死骨で忍ぶべからざることを忍んでいる次第すでにお聞きおよびのことと思います。天地に恥ずかしいことではありますが今となっては皇国のためにしばらく生をむさぼっているところです。ご笑察ください。安政5年1858年12月19日の日付があります。この手紙の数日後西郷に藩庁からの命令が下りました。鹿児島の西郷さんは左手に日本刀を持っています。明治天皇を自ら守るためにです。
2007年05月09日
安政元年1854年3月6日斉彬の参勤交代の行列は江戸に到着しました。すでに三日まえに条約は結ばれてしまっていました。いわゆる日米和親条約です。西郷吉之助は4月にはお庭方オニワカタに任命されました。これは斉彬の希望だったようです。庭方であれば常に近くにいて拝謁というような面倒なしきたりぬきで藩主と家臣が接することができます。しかしながら斉彬がすぐに西郷を信用して自分の手足のように彼を使い始めたわけではありません。実際に斉彬と西郷が君主と庭方という立場を越えて直に話しをするのはこのときから二年後のことです。ゴールデンウィークの西郷さんです。
2007年05月08日
こんなに大きなウナギです。池田湖にはイッシーです。きっともっともっと巨大な池の主です。小学生もびっくりしていました。お店のおじさんが教えてくれました。ニジマスはこのウナギのエサなんです。小学生にききました。どこから来たの?小学生は応えてくれました。ずっとすごく遠くだよ。いったいどこだったのでしょうか。ドングリ目の小学生でした。
2007年05月07日
くもりときどき雨ゴールデンウィーク最後の日曜日は静かに身体を休める日です。私自身のお話しです。雨があがるとツバメが飛んできて電線にとまってちちちちぴき~ん・・・と私を呼びます。先日と同じいなばうわ~のツバメです。お休みの日は早く目がさめてしまいます。お休みの日はず~っと眠たい気分です。お休みの日はもったいなくて お昼寝さえもできません。ですからもう目がくっつきそうです。もうスイッチが切れそうです。眠たい眠たい日曜日でした。
2007年05月06日
坂本龍馬は高千穂の嶺の頂上まで登りました。そして逆鉾を引き抜いてお龍さんと笑いました。楽しかったのだと思います。お姉ちゃんにあてた手紙にうれしそうに書いています。絵まで描いて解説しています。お龍さんのことも紹介しています。彼らもこの霧島神宮跡を眺めながら右の方向に・・登山道に入ったのです。
2007年05月05日
本家とか元祖とかの看板はよく見かけます。○○発祥の地・・これもときどき見かけます。けれどもこの石の塔はものすごいです。なんせ日本発祥の地・・ですから。霧島神宮の鳥居の近くバス亭の前ロータリーの中央に立っています。発案した人は勇気ある人だと思います。
2007年05月03日
ふらふらと街を歩けばいろんなものに出会います。西郷さんの銅像の前を歩いて五代友厚の像に挨拶に行きました。途中の道でむこうがわの文化センター宝山ホールの前から小松帯刀が睨んでいました。コラ!!オイ!!ナンか文句でもあるのかよ・・・小松帯刀に文句なんかありません。ちょっと忘れていただけです。
2007年05月02日

坂本龍馬に会ってきました。高速を使ってそれから山道を行きます。霧島塩浸温泉までは2時間もあれば行けるのですが。めったなことでは行きません。行けません。今回は温泉のおじさんと長く話して特製タオルも手に入れました。きっと使わずにお蔵入りになるのですが。きっと使えずに眠ってしまうことになると思いますが。
2007年05月01日
全29件 (29件中 1-29件目)
1
![]()

