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大久保一蔵は尊王の心を藩主が全面的に認めてくれたことに光栄と感激を覚えたのだと思います。さっそく同志に集合がかかりました。報告が行われます。けれども組織内には当然反対の声も出ました。若い藩主の言うことは信じることができない。自分たちはだまされているのではないか。今にも藩の取り方がココに踏み込んで来るのではないか。早く挙兵して行動に移ろう。過激派も何名か声を上げてきました。首領の大久保は叱りつけるように言いました。騒ぐことはなか。どうしてん脱藩する~ちゅう士はオイドンの首をはねてから出発せえ。オイが生きちょんうちはたとえ一歩でん、藩地から脱出させるわけにゃあ~いかん!この時の大久保の態度は「励声一番、意気軒昂」であったと言います。この言葉に左派はすっかり飲み込まれました。ここに悲壮な脱藩計画は発展的に解消しました。大久保が起案して書かれた請書が残っています。誓約書であり礼状でもありました。署名にあたって最初に書かれた名前は大島渡海、菊池源吾・・・でした。自分の名前は二番目です。菊池源吾・・大久保一蔵の竹馬の友西郷吉之助の名前です。健在で城下にいるとしたら当然党首であったはずの西郷です。
2007年06月30日
どこから話が伝わったのかは諸説あります。ある日側近谷村小吉は用をたしにたった藩主茂久のあとについていって人影のないところでそっと耳打ちをしました。脱藩計画のことです。若い藩主はすっかり驚いてしまいました。そして父の国父久光に相談しました。脱藩を思い留まるように自分で論告書を書きました。11月5日大久保は文書を受け取っています。今の世の中は動揺して容易ならぬ時節である。しかし時期がくるならば自分は順聖院様(斉彬)の深い心を奉じ全藩を率いて忠勤につとめる決意でいる。みんなは自分のこの決心をくみ取って藩の柱石となり自分を補佐し藩名を汚さずに誠忠をつくしてくれるよう・・ひとえに頼む本当に異例の論告です。脱藩は死罪の大逆です。そして先君斉彬を引用したことが大久保たちの胸を打ちました。さらにこの文章のタイトルは「精忠士面々へ」だったのです。これより彼らのグループの名は「精忠組」となりました。
2007年06月29日
精忠組の脱藩準備は9月には整ったようです。志士の多くは遺書も用意しました。そして有志一同の名前で藩庁への脱藩趣意書も用意されました。それとは別に大久保一蔵は藩主茂久(忠義)あてに上申書も準備しました。先君が有力諸侯と結んで一橋慶喜をたてて幕政を改革しようとされたのに幕府は慶喜をしりぞけ幼主慶福をたて無断で条約にも調印した。本来ならば藩命に従うところであるがいでて元凶の井伊を討つ。願わくば主も一同の赤心をくみ英断をもって処置されよ。そんな内容です。決起をうながす東国からの使者は10月になっても来ません。11月に入りいよいよ決行というときになって意外なところから急使が来ました。藩主茂久からの使者です。計画が発覚したのです。藩主からの文章には・・・・
2007年06月28日
カツオ船で直接鹿児島から上坂することが決まりました。森山新蔵は必要な兵器や食糧を準備しました。そして船長には自分が目をかけてきた田中新兵衛という若者を当てました。田中新兵衛・・・別名人切り新兵衛とも言われた男です。示現流の達人です。仲裁無用・・・と張り紙をして決闘する有名な場面があります。机竜之介と田中新兵衛の決闘シーンです。人切り新兵衛は黒の着物に小倉のはかまで高足駄をはき鉄扇を持った壮士です。小刀のわりには刀は四尺もあります。頭のてっぺんから竜之介を見下ろして近づきます。竜之介が何流かと尋ねます。拙者は自源流を学びもした自源流?関東にはお聞き及びござるまいが薩州伊王ケ滝の自源坊より瀬戸口備前守が精妙に伝えし誉れの太刀筋・・ここで新兵衛が解説します。未完の名作大作大菩薩峠です。中里介山です。壬生と島原の巻です。二人の決闘は新撰組の山崎譲が仲裁に入って引き分けになりますが。この田中新兵衛は実在の人物です。
2007年06月27日
十数人がいっせいに脱藩する方法を考えました。陸路を肥後に向かったのでは阿久根か出水の藩の関所もあります。追っ手を振り払うのも大変です。日向路をとって細島から船で行こうということになりました。有馬新七が細島に調べに向かいましたが船便がうまく行かないことがわかりました。代わりにカツオ船を二隻買って帰ってきました。お金はもちろん森山から出ています。幕末多くの志士が自らの藩を出ています。脱藩は会社を辞めるのとは違います。重罪です。追っ手もかかります。たとえば坂本龍馬脱藩というとかっこよくも聞こえます。けれども命がけの仕事であったわけです。武士層が藩を離れる・・まして脱藩するということは中途半端な覚悟ではありません。そして話は薩摩です。つかまれば死罪の薩摩です。計画だけでも漏れれば腹を切らねばなりません。
2007年06月26日
日が落ちると雨がやってきます。日付の変わる頃連日雷もやってきます。私の家の真上にです。あんまり激しく窓を叩くものですから雷の音があまりに大きいものですから雨戸を閉めてしまいます。菅原道真という男の恨みは相当深かったようです。上の写真はこれがしろくまです。本当は天文館むじゃきというお店で暑い日に食べるといいのですが。これは中央駅の近くの隠れた有名店のしろくまです。今年はもう二回食べました。相変わらずおでこにキーンが走ります。ほら雨戸がビリビリしています。クワバラクワバラ・・です。
2007年06月25日
松方助左衛門(正義・のち首相)は後年語りました。当時の精忠組の侍は道を歩いていて一目でそれとわかったのだ・・・・と。袴のつけかた刀の差し方髪型までもが一般の士とはちがっていたのです。男は形から入るものです。形はとても大切です。そう思います。女だって形から入るものです。心は外からは見えませんから。血気みなぎる精忠組スタイルがあったようです。よく考えるとめだっていたのでは隠密行動にはならないような気もしますがその時はその時でそれなりの姿になったのでしょう。あの大久保が精忠組スタイルでいたかと思うとおかしい気もしますがなにしろ彼は実質上のリーダーです。率先してスタイル・・やっていたに決まっています。松方も後に精忠組に参加しています。
2007年06月24日
精忠組の挙兵計画が進んでいました。有村俊斉は町人あがりの森山新蔵にある日そのことを打ち明けました。資金援助を請うためです。拙者の家が先祖以来富を蓄積したのはひとつには国家有事の際に役にたちたいためでごわす。誓ってその任にあたいもそ(あたりましょう)・・森山は一言のもとに精忠組のスポンサーを確約しました。確約しただけではありません。彼は誠実に実行しました。野望が現実に変わろうとするとき革命が起き歴史が変わろうとすときそこに情熱があること・・それはきっと事実です。けれどもそれは十分条件に過ぎません。どのような政変の裏にもお金の動きはあります。歴史はそれを語りたがりませんが情熱だけで人は動かないのです。動けないのです。人が夢だけを食べて生きていけないのと同じです。森山新蔵は間違いなく維新の立役者のひとりです。私が勝手にそう思っているだけですが。**示現流には実は二つの流派があります。写真は東郷流の稽古場です。示現流は現在も生きています。
2007年06月23日
女性よりも美しい男性光源氏の物語源氏物語の背後には淡く同性愛の雰囲気が漂っているように見えます。けれども源氏物語の中に男性の同性愛は絶対に存在しません。どうしてそれを断言できるのかと・・問われれば話はとっても単純です。平安時代には「男性であること」に全く意味がなかったからです。男であることに意味がなかった!とは・・どういう意味なのか。それは・・話せば長いお話です。今夜は私は・・もう寝ます。
2007年06月22日
気温が30℃を超えて今日の鹿児島は真夏日になりました。中央駅前に立つ若き薩摩の群像の像も夏の雲と夏の青い空を背景にしていました。
2007年06月21日
井伊直弼・・斬るべしの暗殺計画は水戸・薩摩の有志間で進んでいきました。薩摩在藩組大久保、有馬新七、有村俊斉、伊地知竜右衛門。そして税所長藏(篤・のち枢密顧問官)大山各之助(綱良・のち初代県令)ら40余人が謀議を重ねました。精忠派・・彼らにはまだ名前もありませんでしたけれども組といえるほどに数を増やしていました。代表者を決めなければならないほどにふくらんできました。同士の中で名門といえる人物はただひとり岩下佐次右衛門だけです。とりあえず彼を総裁に選びました。もちろん実質的な指導者は大久保一蔵です。西郷が大島で動けない状態だったからです。桜島の色が濃く見えます。梅雨の晴れ間の・・ちょっとひんやりと汗ばむ太陽とこの季節の風は予想に反して顔にこころよく吹きつけます。
2007年06月20日
安政6年1859年になると井伊直弼の安政の大獄はさらに激しさを増してきました。春には京都の公卿たちがほとんど謹慎などの処分になりました。直弼と特に親しい九条関白を除いてのことではありますが。8月かつて幕府の最高顧問格であり実力者でもあった老公斉昭とその子一橋慶喜は閉じ込められてしまいました。水戸藩の処分が発表されたのです。重臣の安藤帯刀は極刑・・・切腹させられました。井伊斬るべし・・・暗殺計画は水戸藩と薩摩の有志の間で進んで行きました。かみなりゴロゴロすごいです。イナビカリが今夜は恐いくらいです。金魚もしずかにおびえています。
2007年06月18日
今はもうあがってしまっているのですが。夕べはすごい雨でした。雷が遠くで聞こえてそれでもときどき空いっぱいが明るくなるほどの稲光でした。帚木ハハキギ雨夜の品定めでは光源氏はほとんど何もしゃべりません。ただ眠りたかっただけなのです。ですから他人の発言も何も聞いてはいないのです。相槌を打つこともしてはいません。ただただあくびをかみ殺しています。光源氏にはこのときすでに妻がいます。だから男たちの女性論に興味がなかったというのではないのです。彼はあるひとりの女性のことを考えていたのでした。10代の光源氏はむちゃくちゃです。夜が明けて妻の元へ退出した彼は唐突に別の女性のいる他人の家へ行くと言い出します。紫式部が光源氏に思い入れを持っていたことは確かですが。完全な好意を持っていたかといえば・・決してそうではなかった・・と私はそう思っています。
2007年06月17日
夕顔に興味を持った光源氏は従者に命じました。一房折りて参れ門が開いたままの隣家へ従者が入っていくとかわいらしい女の子が扇にその花を載せて出て来ます。扇には和歌が書かれておりました。心あてにそれかとぞ見る白露のひかりそへたる夕顔の花源氏が恋に落ちた瞬間です。
2007年06月16日
そのふらふら歩きの途中で光源氏が五条に立ち寄ったのは彼の乳母が病気だと聞いたからです。そのお見舞いにやってきました。京都五条は完全な下町です。門が閉ざされたままの乳母の家の門が開けられるまでのしばしの時間光源氏は下町五条の街並みを眺めていました。ただぼおっと立っていたのです。あちこちに見慣れぬ花が咲いていました。源氏は従者に質問します。あれはいったい何?光源氏が初めて夕顔という名前を知った瞬間です。
2007年06月14日
夕顔とまだ少将だった時分の頭の中将トウノチュウジョウの関係は夕顔の父親がなくなって彼女が心細がっていた頃から始まっていたのだとみていいと思います。夕顔が亡くなったのは19歳の時頭の中将との関係が始まったのはその4年前ですから15の頃です。突然源氏物語の季節です。雨・・ですから梅雨がはじまりましたからPCが悲鳴をあげています。ねむいねむいと言ってます。そんなに言うこときかないと捨ててしまいますよと脅してます。梅雨がはじまりましたから
2007年06月13日
睡魔が強く襲ってきます。とってもとっても眠いです。私のアレルゲンは低気圧です。喉の調子が悪くなります。きっともうすぐ雨が落ちます。***前ふたつの顔は・・・・維新ふるさと館にあります。どなたの作品かわかりません。触ると合成の声がでます。西郷の声は低くゆっくり大久保の声は丁寧ではりがあります。大久保利通の甲突川べりの銅像は中村晋也の作品です。京都伏見の京セラ美術館で今週の金曜日まで特別展が開かれています。
2007年06月12日
西郷は12月の暮れに砂糖船に乗って大島に向かいました。安政5年の12月です。船は山川で風向きを待ちます。それが当時の習慣でした。あけて正月の2日足の悪い伊地知竜右衛門が13里の道を歩いて山川にやってきました。大久保の八箇条からなる質問書に西郷の答えを求めるためです。熊本藩やその他の諸藩が決起したときは・・掘忠左衛門が捕らえられたときは・・・・京都の有志が処分されたときは・・・・こんな八つの質問です。対処法を聞きたかったのです。西郷の考えを聞きたかったのです。ひとつひとつについて西郷は細かく答えています。けれども大筋は慎重論でした。ふたりの性格は「火の西郷。水の大久保。」と対照されています。けれどもこの時は全く逆でした。西郷がなだめ役にまわっています。大久保も西郷も若かったのです。彼らが最初から権力を持っていたわけではありません。彼らが初めから歴史の主役であったわけではありません。いい意味でも悪い意味でも彼らが歴史の表舞台に登場するのはもう少し先の話です。この時点で悪役でも正義の味方でもありません。もちろん歴史に正義とか悪役とかがあるわけではありません。思い入れと贔屓役者がいるだけです。私たちが・・私が勝手に思い入れているだけです。彼らはまだ舞台にすら立ってはいません。そして島津久光もまだ重い腰をあげません。上げられません。上げようとしていません。
2007年06月11日
西郷は大島潜居が決まってからもしばらくは家で病床にありました。あの中央駅の正面にある家です。桜島が正面に望めたはずの家にいました。上之園の西郷宅に大久保一蔵は頻繁に足を運んでいます。有志たちの一致した意見を伝えるために・・です。脱藩して諸藩の有志と連絡を取って義兵をあげる。まずは京都の所司代を討つ。そして九条関白をしりぞける。関東では井伊直弼以下を討滅して幕政を根本から改革させる。ついては西郷の大島行きは中止する。いったん肥後にのがれて長岡監物のもとで時期を待つ。 ・・・・・そんな意見を持って行ったのです。鹿児島は梅雨のはじまる前のような暑さでした。ブログのデザインを変えてみました。気分の転換です。私は相当に暇なのだと実感しました。
2007年06月10日
若者たちの熱い思いは胸にたまってほとばしり出ようとしています。出口を探して何かに思いをぶつけなければ・・・情熱は正しいとか正しくないとかいう形で存在していません。形のないもやもやが熱く熱く沈潜して爆発のときを待ちます。こうなったら方法はひとつしかない。それが思い込みに過ぎないとしても・・・です。ひとつしかない・・・そう口に出ました。大量脱藩して実力行動に出るしかない。井伊直弼を討つしかない。クーデター計画です。精忠組の悲憤は橋本左内の逮捕と西郷吉之助の入水事件でさらに多くの共鳴者を出しました。精忠組は薩摩藩の内部でしだいに翼を広げていきました。人が断定口調で語るときは自信がないときです。私はいつも勝手な思い込みを書いています。断定していたとしてもそれは私の勝手な解釈です。私は自分を語っているに過ぎません。夜明けの前が一日で一番暗いのです。
2007年06月09日
精忠組がいつ結成されたのかは明らかではありません。有馬新七(正義・寺田屋事件の首領格)の言によると安政4年9月京都の旅館鍵屋に西郷・有馬・有村俊斉・伊地知竜右衛門(正治)たちが集まった時がきっかけだったと。東と西が相呼応して自らの行動について話しあったのでした。話題の中心は井伊直弼のあまりにもひどい安政の大獄についてです。そして島津斉彬を失った薩摩藩に次なる後継者・指導者が存在しなかったこと・・です。幕末の世は民主主義で動いてはいません。人はまだ自由という概念を持ってはいません。西周がまだ「自由」という言葉を発明してはいません。気紛れと沈思黙考の結果と思いつきと感情が区別のできないまま同席していました。情報は錯綜し通信連絡は不整備のままでときに刀が大きく力を示しました。西郷と月照はこのちょっと先このちょっと先で入水しました。
2007年06月08日
孤独感とか淋しさとかは季節の風の中に潜んでいるわけではありません。悲壮感とか焦りとかは夕暮れ時の空に浮かんでいるわけではありません。雨の降らない梅雨の空には読みとられるのを待っている何かがいます。空を見上げて何かをみつけたとしてもそれを表現する上手な言葉がみつかりません。この季節に・・・感性までが異常乾燥注意報・・・です。
2007年06月07日
コノハナサクヤビメは言いました。おなかの子どもがこのアタリの神・・・国つ神クニツカミの子ならば無事に生まれてくることはないでしょう。もし天つ神アマツカミアナタの子ならばきっと無事に生まれるでしょう。それから彼女は戸口のない大きな建物を作りました。そして中に入ると内側から土を塗り込めて隙間をすっかり埋めてしまうとその建物に火を放ちました。彼女は燃えさかる火の中でお産をしたのでした。三柱の神が誕生しました。コノハナサクヤビメはホノニニギの疑いを晴らしたのです。三柱の神の長男が海幸彦一番末っ子が山幸彦です。彼の名は火遠理の命ホオリノミコトと言います。またの名はとっても長いです。アマツヒコヒコホホデミノミコト・・・です。
2007年06月06日
オホヤマツミが娘二人を奉ったのには理由がありました。コノハナサクヤビメを妻にすることで天孫が花のように栄えられるように・・・と。イハナガヒメ(石長)を妻にすることで天孫の命が岩のようにいつまでも堅固に続くように・・・と。ところがホノニニギはそうとは知らずイハナガヒメのあまりの醜さを恐れて彼女は送り返してしまったのでした。ひどい恥辱を受け憤慨したオホヤマツミは天孫の命は咲いてもすぐに散ってしまう花のように短くなってしまうだろう・・・と言いました。この事件がホノニニギの子孫である天皇の寿命が長くないその理由であるとされています。コノハナサクヤビメはホノニニギとの一晩の契りで懐妊しました。ホノニニギは失礼なことを口にしました。自分の子だということを信用しなかったのでです。はあ?その子は本当に私の子なの?土地の神のだれかと通じてできた子なんじゃないの?勘弁してくれよお~神話の神様は日本でもとっても人間くさくできています。コノハナサクヤビメは頭にきました。あんまり頭にきたものですから・・・・
2007年06月05日
海幸彦と山幸彦の父親は皇孫ニニギノミコトです。ホノニニギノミコトとも言います。高天原から降臨したあのニニギノミコトです。アマテラスの孫です。彼は高天原から高千穂峰に降臨してきました。そしてコノハナサクヤビメと出会いました。結婚したいという申し出に父親のオオヤマツミ(山の神)は大変に喜んでコノハナサクヤビメと姉のイハナガヒメのふたりをセットにしてお嫁に出したのでした。ところがこのイハナガヒメがトンデモない不美人だったために話しはこんがらがってしまいます。それはそれは醜いヒメだったのです。
2007年06月04日
海幸彦山幸彦のお話です。ウミサチ・ヤマサチの兄弟です。海幸彦は海の漁が得意です。山幸彦は山の猟が得意です。ある日ふたりは猟の道具を交換してみました。それぞれ逆の場所に互いの猟に挑戦です。ところが山幸彦は兄さんの大切な釣り針をなくしてしまったのでした。伝説によって名前は少々異なります。古事記と日本書紀でも細かいところは異なっています。しかしどのお話でもこの兄弟の母親はコノハナサクヤビメです。桜島の名前のもとになった大変気の強い大変な美人です。・・・・・・・桜島の名前の由来は他にも諸説あります。今日の桜島は雲の中に頭をツッコンでいました。そしてこの兄弟の父親は・・・・・
2007年06月03日
山幸彦ヤマサチヒコは兄さんの大切な釣り針をなくしてしまいました。海幸彦ウミサチヒコはカンカンです。塩椎の神シオヅチノカミが教えてくれました。海へ押し出してくれました。綿津見の神ワタツミノカミの宮殿の前で泉のほとり桂の木に登って待つのです・・・と。トヨタマビメがきっと相談に乗ってくれるから・・・と。コレがトヨタマビメの井戸です。玉乃井です。古事記や日本書紀は作為的に作られた物語です。けれどもそれは全くの空想の産物ではありません。何かを隠し隠蔽しながらかすかなメッセージを残しています。そのメッセージを読みとるのは私たちの仕事です。武器は読み手の想像力です。空想する力です。雨が降っても妄想の羽ばたきを止めることはできません。雨が降ったら雨音は空想を膨らませてくれます。神話の故郷に石を積んだ人々のメッセージに耳を傾けるのは楽しい楽しい作業です。
2007年06月02日
大久保一蔵の友人に岩下佐次右衛門(方平のち元老院議官)という人物がいます。のちのパリ万博に薩摩代表として乗り込んで幕府代表と対等に渡り合って欧州の新聞を賑わせたあの人物です。その岩下は友人から突き上げをくらいます。月照を殺し西郷を遠島にしたのはわいの叔父じゃっどが(オマエのオジキなんだろ)腹を切って責任をとるごっいえ(責任をとるように言えよ)叔父とは家老の新納駿河のことです。西郷の入水事件は藩内の気鋭の有志を憤激させてしまっていました。とにもかくにも熱い連中です。ほとんどが脳みそまで筋肉でできているような体育会系です。やがて精忠組ができあがります。そして池田屋事件まで突っ走ってしまいます。
2007年06月01日
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