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西郷吉之助にとっての明治維新は恩師島津斉彬の意志を継いだものでした。日本の国を統一し欧米に追いつくための第一歩だったのです。そして将来は欧米以上の高い道義国家をめざしていたのです。にもかかわらず新政府の高官になったかつての同志たちは望外の成功にすっかり酔ってしまっているように見えました。利権に結びつき酒や色におぼれたりしている者が多かったのです。特に西郷が失望したのは朋友の大久保が多くの召使いをかかえて西郷から見れば王者のような暮らしをしていることだったのです。
2007年02月28日
明治4年4月西郷はついに東京に出ました。引き出されたと言うべき現状でした。当時の新政府の実力者公卿の岩倉具視、薩摩の大久保利通そして長州の木戸孝允の三人はやがて強行しなければならない廃藩置県を成功させるためには天皇の軍隊の指導者として薩摩の西郷を参議の要職にすえなければならなかったのです。鹿児島から彼を引っ張り出すしかなかったのです。時代は西郷吉之助の静かな生活を許しませんでした。薩摩にあって隠居のような生活を送ることを認めることはなかったのです。私の文章には私情がたくさん入っています。史実と資料はできるだけ調べているつもりではいますけれども。この時の西郷さんの心情はまさに彼の背中が表現しています。私はそう思っています。西郷さんの後ろ姿・・とっても好きです。走って行って飛び乗ったら絶対にオンブしてくれそうです。誰が走って行ってもです。大久保も木戸も岩倉もそして、明治の天皇陛下も・・・・みんな彼の背中に・・オンブして欲しかったに違いありません。
2007年02月27日
降服のとき庄内藩には風説が流れました。黒田了介(清隆)参謀の上に大入道がいて指揮をしているそうな・・・。参謀が二度も致道館を抜け出したのは大入道の指示を受けるためだそうな・・・。その大入道は「西郷」というどえらい人物だそうな・・・。しかしこれは風説だったわけではありません。事実でした。大参謀の西郷吉之助は黒田のあとを追って清川から鶴岡に入りました。神楽橋のたもとの加賀屋文治の旅館に泊まっていました。1868年9月です。この年8月・・元号は明治に変わっていました。西郷は庄内藩の降服後はさっさと鹿児島に帰ってきました。そして農業をしたり狩りをしたりの毎日です。政治を離れての日々の暮らしです。革命を行った者は政権に登ってはならない革命後の政治に関わるべきではないみごとな身の振り方です。見事だと思います。我が家から車で10分鹿児島中央駅の裏手にこの時の西郷の住居あとが残っています。西郷の使った井戸も残っています。ただ朝の八時からこの公園をうろつくのはちょっとあやしい人物です。私のことです。
2007年02月26日
今日は一日中雨が降っていました。桜の花はまだ咲きません。今日は一日中雨が降っていました。梅の花が見えなくなってしまいました。今日は一日中雨が降っていました。傘を持ってホンの少しだけ外を歩きました。今日は雨です。冬は終わっているのにまだ春はやってきません。
2007年02月25日
冥途の旅の第2の裁判官は初江王ショコウオウです。最初の秦広王シンコウオウの法廷から初江王の法廷へ向かう途中に有名な三途の川が流れています。三途の川には三つの渡り方があります。ですから三途サンズの川なんです。浅瀬を渡る。水の流れの急な深いところを渡る。そして橋を渡る方法です。ただそれはずいぶん昔の話のようです。最近は・・・最近といっても室町時代の頃ですがどうやら三途の川に渡し船ができたようです。その渡し賃は6文です。お棺の中に一文銭を六枚入れるのはそのためです。最近は印刷した六文銭を入れるしかありません。実際そんな風習を持つ地域はかなりあります。まるで見学してきたかのようです。私が・・です。講談師みたいですね。どうも私はウソツキです。そして飽きっぽいです。ちょっと地獄の話しに飽きているんです。地獄にたどり着く前にです。三途の川にだってちょっと立ち止まらなければなりません。賽の河原も眺めなくてはなりませんから。
2007年02月24日
バーネットの作品では「秘密の花園」が一番です。私は秘密の花園が一番好きです。小公子も小公女も好きですが秘密の花園には性格の悪い子たちがいっぱい登場するのがいいのです。メアリは大抵の人にかわいげのない感じの悪い子だと思われています。けれども彼女は自分が感じが悪いとは知りません。そしていつも他人のことを感じが悪いと思っていたのです。今日はかごしまメルヘン館によりました。ちょっと時間があったからです。私は年パスを持っているのです。入り口で逆に回る時計に出迎えてもらってからずっとメアリのことを考えていました。人は誰でもメアリなのかも知れません。なわとびしながら走り回りたいと思いました。
2007年02月23日
はくしょんはくしょんしています。雨に濡れて歩いたからです。昨日は大切な日だったのです。私は雨に濡れて歩きました。とにかく大切な日でしたので私は雨に濡れて歩きました。雨に濡れたい日もあります。私は雨に濡れて歩きました。気持ちのいい雨もあります。少し悲しい雨もあります。何も感じない雨もあります。雨に濡れて歩きました。はくしょんはくしょんしています。早くフトンに入ったのに寝付けない夜もあります。めずらしいことです。
2007年02月23日
冥途の旅は真っ暗な山道から始まります。ふと気がつくと私は暗い真っ暗な一本道をとぼとぼと歩いています。私はではありませんでした。亡くなった人がです。この山が「死出の山」です。高さはよく分かりません。測量隊が登っていないのかも知れません。長さは800里あると言われています。現在の数字ではおよそ3200kmになりますが。古代の1里はおよそ533mですから全長が400kmくらいのものでしょうか。およそ東京から京都ほどの長さです。この道を自分で歩いて行かねばなりません。暗い暗い一本道です。なかなか閻魔さんにたどり着けません。もう少しかかります。
2007年02月22日
すみれさんの御覧になった地獄の絵私もいくつか眺めたことがあります。哀れな姿の亡者たちがおどろおどろしい閻魔大王の前につれだされて裁かれます。うそをつけば地獄で閻魔さんに舌を抜かれますよ・・・・と。よく言われました。実際に舌を抜かれている絵もあったような気がします。でも本当はあれは間違いです。あれは地獄の絵なのです。人は亡くなってすぐに地獄に行くわけではありません。人はまず中陰の期間を過ごします。中陰の時期の人はとってもとっても小さいのです。生きている人間の目には見えないくらいに小さいです。この時期人々は香を食べています。香が唯一の食べ物です。だからこの時期の人を食香とも呼びます。この時期は御仏壇に線香を絶やすことはできません。
2007年02月21日
それはつむじ風のように鋭くそしてすばやくやってきました。嘉永2年1849年12月3日の夕刻のことです。高橋くずれの始まりでした。大久保一蔵(利通)の父親・次右衛門はこのお由羅騒動=高橋くずれで喜界島流刑の処分をうけました。一蔵の親友西郷吉之助は次右衛門の失意を慰めるためにせっせと本の差し入れをしていました。大久保一蔵19歳西郷吉之助22歳の冬のできごとです。金もなく仕事もなくもやもやと大きな夢は形をなさず敬愛する島津斉彬は江戸にいていまだ藩主になれるはずもありません。かれらのモヤモヤは行き場のないモヤモヤです。何の力もなく悲しいかな能力もなく長い長い辛抱の時をすごしていました。お腹だけはいつも空いていました。お金なんて家にもありませんでした。家族や兄弟はたくさんたくさんありました。貧しさと悔しさと根拠のないプライドと形をなさない将来への夢が彼らを時代の表に運んで行きます。それにはまだ長い時間がかかります。大久保利通の像は少年時代を過ごした彼らの遊び場・彼らのなわばりをみつめています。
2007年02月20日
劉綱知事は閻魔さまにうったえます。自分は今年になって赴任してきた新米の知事であること。この地方の農民は三年続きの不作で大変困窮しているということ。にもかかわらず供養としての紙銭焚きをやめようとはしない。止めてしまうことで多くの災難が降りかかったり疫病が流行ったりするのを恐れているということ。どうか今年だけでも農民達の窮状を察して貢ぎ物を免除してはもらえないだろうか。自分も生死の境界を越えてきたのだから再び地上には戻れないことは覚悟している・・・閻魔大王は仕事柄、例のいかめしい衣装を着て立派な髭を生やしています。閻魔さんはひと言も口をはさまず、じっと耳を傾けていました。ときどき賦に落ちないところもあったようなのですけれども。古代の中国の人間は地下に死んだ者の世界=陰府があると信じていました。陰府には地上とよく似た世界があります。社会の制度も似ています。私は鬼の話しをしようとしているのです。もちろん日本の鬼です。つい最近までその辺にいたあの鬼たちの話しです。こざかしい記事でごめんなさい。日本にもっとも影響を与えたのは朝鮮半島の国々です。そしてそれは多くが中国から移入されたものです。鬼も中国からやって来たのだと思います。けれども中国の鬼は・・・中国では古代から死者の霊のことを鬼と呼びます。
2007年02月19日
劉綱知事は井戸の底へ降りて行きます。住民を守るためです。地獄の閻魔大王に掛け合わなくてはなりません。長くて強い縄をいく巻きも用意させてその端に自分をくくりつけ部下や住民たちが大勢で知事を井戸の底へ降ろして行きます。縄が足りなくなったら継ぎたしていきます。10m20m・・・何百m下っても漆黒の闇が続いているだけです。大変な長い時間が流れて突然明るい世界に出ました。そこは地上の世界とほとんど変わらないように見えました。城もあれば宮殿もあります。ただそこに住む人々はだいぶ地上の人間よりも小さいようです。そしてソコには地上というものがありません。道路もありません。人はみんなヒラヒラと空中を飛び回っていました。住民はみんな親切なようです。中国の冥府です。地獄の様子は国によって違います。時代によっても異なります。知事は人々に案内されて閻魔さまのところへ向かいます。閻魔さんは役所にいます。裁判所です。その裁判所の名が閻魔の丁です。そしてその丁の長が閻魔大王なのです。桂枝雀の「エンマ茶漬け」は文献によって裏付けされた創作落語だったのです。
2007年02月18日
昨夜。私はパニックに陥りました。楽天ブログが私の書いた漢字を表示してくれなかったからです。あんまり使わない中国の地名を表示することができなかったのです。今夜は絵で書いてみました。つまらないことにムキになってしまうタイプです。中国のお話です。現在の日本の地獄の風景とはちょっと違います。四川省のホウト県(←漢字をでっかく書いてみました)に新知事として赴任してきた劉綱さんは、この地方が二三年も続いて農作物の不作が続いて県民が大変苦労していることに胸を痛めていました。この地方の人々は自分が食うや食わずの生活に喘いでいるにもかかわらず紙銭を焚くことをやめようとはしません。紙銭を焚くのは供養なのです。劉綱知事は紙銭を焚くことを禁止してしまいました。しかし誰も命令を聞き入れません。今年みたいにヒドイ状況で供養をやめてしまったら閻魔大王の逆鱗に触れてしまってもっとヒドイ災害が起きてしまうかも知れないからです。劉綱は自分が閻魔大王に掛け合いに行くことにしました。冥府(地獄)へ通じる古井戸に降りていくことにしたのです。明日から一昔前の冥府(地獄)の様子をお知らせします。中国からの報告です。地獄といってもあの地獄ではありません。亡くなった方のいかれる世界のことです。冥府です。この文章の参考にした文献は清朝中期に出された「新斉諧」という本です。ちょっとおもしろいです。現在の地獄のお話をする前に長いマエフリをさせてください。
2007年02月17日
四川省の小さな町に昔から娑婆と陰府をつなぐという古い井戸があります。もちろん聞いた話しです。至る所に紙銭を焼いたあとが残っていて始めてこの場所を訪れる人も容易に見当がつくのだと聞きました。この底知れずの古井戸には昔から入っていった者はないと言われています。たったひとり昔この街に赴任してきた劉綱という県知事を除いて・・です。一徹な真面目な県知事でした。私はこのお話が好きです。清朝のはじめの頃といいますからそんなに古いお話しではありません。1662年・・そんな時代のお話です。彼は閻魔さんに会ったのです。私は閻魔さんのことも好きです。
2007年02月16日
会場の人気を集めたのは物品よりも人間だったようです。会場に日本家屋(茶店)を建てました。茶店の前には日本から運んだ鐘をつるしておいたのです。木と紙でできたニッポンの優雅な住宅です。燃えやすいのが欠点ですが。もし火災が起こったときにはこの鐘を鳴らして消防チームに知らせます。周辺の人にも知らせます。そんな解説をつけました。その茶店の奧に三人の日本娘が並びました。振り袖を着て独楽を回したり細長いきせるで色気たっぷりに、たばこを吸って見せます。こんな初公開の日本女性キモノショウが話題にならないはずがありません。興奮したパリ娘がジャパニーズ・ドレスを売って欲しいそれがだめなら貸して欲しいと言ってくるほどの評判をとりました。幕末日本の私設外交官たちも大したものです。少なくとも民間レベルでの初期のツカミは大成功です。パリの街で日本人が注目を集めたことは事実です。この時みっつの掲示がありました。関東大守政府 カントウ・タイシュ・グーウエルマン薩摩大守政府 サツマ・タイシュ・グーウエルマン佐賀大守政府 サガ・タイシュ・グーウエルマンそれについてはまたの機会に書くと思います。幕府つまり関東大守政府の出品は清国とシャムの間のてぜまな場所に展示されました。それに引き替え薩摩大守政府は優遇されました。政治力の差によるエコヒイキです。あまり気持ちいいものではありません。ちょっと徳川幕府がかわいそうです。それについてはまたの機会に書くと思います。慶応3年1867年パリの万博に日本人が参加しています。
2007年02月16日
幕府はパリ万博に参加することを決めました。パリ滞在中の柴田日向守にフランス政府への申し込みともろもろの準備を命じました。幕府がこんなにも内外多忙な時期に万博参加を決意するには様々な理由があったに違いありません。1.すでに世界史の実情としては 鎖国政策を続けて行くべき段階ではなくなっていると 幕府も感じていた。2.フランスとの親密な関係を深めて 軍艦を含めた軍事援助を受けたかった。3.柴田のパリ報告を見て 幕府はとても腹をたてていた。むかついていた。幕府はかなり腹を立てていたに違いありません。慶応元年から2年にかけて薩摩藩士がわがもの顔でパリを横行していました。もちろんあの若き薩摩の群像の団体です。欧州薩摩留学生たちです。五代才助(友厚)新納刑部(久修)たちです。うわさによると薩摩藩もパリの万博に参加するらしい。全くもって薩摩というところは幕府の許可も受けずに国禁を犯して外国に渡りしかも目にあまるパリでの横行とはまったくもってけしからん。この際、正式に日本国として参加しておかないと列国は幕府を一大名ぐらいにしか思わなくなってしまう。幕府のふところの深さ・大きさの見せどころです。士農工商は問わない。だれでも出品してよい。・・と諸藩に通知しました。慶応2年1866年4月のことです。今日春一番が吹きました。雨と風が走り回っていました。
2007年02月15日
1865年慶応2年は徳川幕府にとって大変な年でした。内も外も多忙をきわめていたのです。1月には薩長同盟が結ばれ倒幕の秘密会議が行われていました。そんなことは全く知らない幕府は6月に再び長州征伐を始めてしまいます。こんなこと今度はうまく行くわけがありません。薩摩の実力者西郷隆盛には長州を討つ気なんかまったくないのですから。各地に農民一揆が続発して幕府の勢いはしぼんでしまういっぽうです。7月将軍家茂が大坂城で病死してしまいました。遺命によって一橋慶喜が将軍の座につきました。そんな舞台装置の中でフランスからパリ万博に参加しないかと幕府に参加の勧誘が届きました。幕臣にも地方にも頭の硬い攘夷論者はまだまだたくさんいましたが幕府もこれ以上外国との交際をしぶっているわけにはいきません。外交に目をむける時期が来ていたのです。日本が始めて参加した万博はパリの万博でした。このとき日本からはふたつの参加があったのです。ひとつは幕府で・・
2007年02月14日
坂本は莞爾と笑ってゆるゆると先生あ、まあ二階に御座って、綺麗な女共に酌でもさして、酒をあがって、西郷や大久保共がする芝居を見物なさるがようござる。大久保共が行きつまったりしますと、そりゃあちょいと、指図をしてやって下さるとようございましょう。先生は呵々と笑って頷かれた。徳富蘆花の文章です。しゃべっているのは坂本龍馬です。ここでの先生とは熊本沼山津に閑居中の横井小楠です。横井小楠は重要な人物です。龍馬は前年1864年4月にも勝海舟の使いとして彼を訪ねているのです。そしてさらに重要なことは龍馬の有名な「船中八策」のベースとなった。「国是七条」を作った人物です。つまり龍馬の大切なネタモトのひとりです。龍馬は魅力的な人物です。興味津々・好奇心旺盛な人物です。彼が自分で作り出したものはほとんどありませんが。人脈のすごさは間違いなく幕末一等賞です。彼は人なつっこい性格です。敵も味方もありません。幕府もイギリスもありません。彼はフンドシも衣服も刀もピストルもそしてもちろんお金もどんどんどんどん他人から引き出してしまいます。借用書はいっぱいいっぱい書きました。彼にはお金を返そうなんてチンケな発想はありません。友だちの友だちはみな自分の友だちです。友だちの敵だって自分の友だちです。人の知恵は自分の知恵です。それでも彼は嫌われません。みんなが彼を許しています。だからこそ彼は嫌われません。みんなが彼を大好きです。魅力的な人物です。1865年慶応元年薩摩からの帰り道坂本龍馬は熊本に横井小楠を訪ねています。坂本龍馬が動きはじめました。
2007年02月13日
坂本龍馬が先生を沼山津に尋ねてきたことがあった。坂本は白の琉球絣の単衣に、鍔細の大小をさし色の真黒い大男で、至ってゆったりと物言う人であった。1865年慶応元年5月16日のお昼過ぎ坂本龍馬は鹿児島を出発して太宰府に向かいました。途中で彼は熊本の南東10kmほどの沼山津に寄っています。横井小楠のもとを訪ねました。衣服大小みな大久保(利通)のくれたものとか言っていた。徳富蘆花の文章です。龍馬が小楠を訪ねたちょうどそのとき蘆花の父親徳富一敬が居合わせました。その父の談話を文章にしたものです。これらの文章は重要なコトを示しています。坂本龍馬がフンドシだけではなく刀の大小そして衣服全部をもらいもので済ませていた。そんなことは・・・どうでもいいのです。この時期西郷隆盛と大久保利通そして小松帯刀の三人が同時に薩摩に滞在していたことそれが重要なのです。この三人がそろって同じ場所にいることはほとんどありません。それは政治上の重要な話しがなされたことを意味します。何かが決定されたことを意味します。久々に桜島がはっきりと見えました。陽射しの暖かい春を思わせるお天気でした。
2007年02月11日
お棺桶に入れて持たせてあげる交通費は6文です。三途の川の渡し料です。 三途の川のお話は・・・今はしません。落語に「時そば」というお話があります。お蕎麦の値段は16文でした。今なん時だい?・・あの噺です。ソバ代をごまかそうとする庶民の知恵です。慶応元年1865年5月16日坂本龍馬は鹿児島を出発して太宰府に向かいました。途中でたくさん寄り道をして太宰府に到着したのは23日のことです。坂本龍馬は西郷にくっついて鹿児島へやってきたとき子分達をいっぱいつれてきていました。龍馬がすすめて勝海舟に弟子入りさせ神戸海軍操練所で修行していた若者達です。薩摩藩はこの客人たちにも食事を出し宿を提供しそして小松帯刀を引率者として旅立たせました。長崎への旅です。彼らこそ亀山社中のメンバーです。小松の用意した長崎の宿が亀山にあったからです。坂本龍馬の設立した日本初の総合商社「亀山社中」のパトロンはもちろん薩摩藩です。彼らには毎月薩摩藩からお給料が支払われていました。みんな平等に同じ金額です。月に3両2分でした。坂本龍馬も例外ではありません。彼も3両2分もらっていました。亀山社中のメンバーは夜な夜な遊び歩いていたそうです。3両2分はたいそうな金額でしたから。やっぱりまた長くなりました。坂本龍馬の話しはなかなか先へ進めません。
2007年02月10日
1858年大老井伊直弼は日米修好通商条約を結びます。第五条外国の諸貨幣は、日本貨幣同種類の同量を以て通用すべし。(金は金、銀は銀と量目を以て比較するを云ふ)日本とアメリカの貨幣は金貨は金貨同士、銀貨は銀貨同士で交換することにしましょう。同じ重さで交換すれば文句もないよね。そんな取り決めです。江戸時代の交易・貿易の際の交換レート支払い方法の話しです。江戸時代には金貨と銀貨とそして銭という三種類の貨幣が使用されていました。金貨・・計数貨幣といいます。千両箱を盗み出す盗賊・・彼らはすごく力持ちです。1両が4分(ブ)。そして1分が4朱(シュ)です。1朱はよく時代劇で見かける小さい長方形の貨幣です。枚数で数えられるので計数貨幣と言われます。銀貨・・こちらは秤量貨幣です。枚数ではなくて重さを測って使います。時代劇で町の商家の店先の番頭さんの横に秤が置いてあるのは銀貨を測るためなのです。つぶつぶの塊です。まるかったりつぶれていたりします。銭(ゼニ)・・これも計数貨幣です。町民から武士まで普通の生活に使っていたのはこの貨幣です。寛永通宝は一枚で一文です。1000文で1貫(カン)です。穴にヒモを通して蓄えたり持ち歩いたりしていました。銭形平次が投げてるのは寛永通宝ですがタイトルに飛んでくると銭形平次となっていますからあれは通過偽造です。・・冗談です。上の絵はメジロのつもりです。わりと上手にできたかな・・・とこちらでも公開してみました。口では謙遜してみせていますが本当はこれはうまく描けたぞ・・と心の中では思っています。ちょっと上手ですよね。・・・私は褒めるまでたずねるタイプです。お金の話しをまとめようと思ったのです。計画通りには行きません。長くなってごめんなさい。続きは・・また書きます。
2007年02月09日
眼鏡を替えっ ど をかえっ頑張れ~ち キバレ キバレ~ち 受験生。 じゅけんせい。キバレ・キバレは頑張れ・頑張れです。鹿児島弁です。・・ち は「・・だって」とか「・・だよ」の意味の接尾語です。鹿児島も受験シーズンです。高校受験のみんなが頑張っている季節です。鹿児島は中学受験はそれほど加熱していません。大学受験はしずかに熱く燃えているのだと思います。ときどき街ですれ違う高校生や中学生はみんな緊張した顔をしています。いい顔です。それぞれの未来が明るいものでありますように。このさつま狂句はいつものように鹿児島市の西田本通りにある眼鏡店「メガネのふじ」さんに掲示されているものです。
2007年02月08日
グリーンランドを覆う万年氷が近年猛烈な勢いで溶け出している。そんな記事を読みました。グリーンランドの内陸部では降雪量が増えている。万年氷の量は急速に増えている。そんな記事を読みました。このところの異常気象は地球温暖化のせいだとの知識がいつのまにか私の中に刷り込まれています。地球温暖化には根拠はない。すくなくともこの異常気象は地球温暖化とは関係がない。そんな本を読みました。ドコまでがヤラセなのか。ヤラセなんてないのか。それぞれの思惑で数字・資料は変わって読めるのか。生活の安定は科学者の良心に勝るのか。地球は本当に温暖化しているのか。とても不謹慎な話しですが面白い戦いが海面下で繰り広げられているようです。地球温暖化は本当なの?なんて書いたら誰かに叱られてしまうのでしょうか。皆さんは本当に信じておられるのでしょうか。私は・・私は迷っています。どうも資料にその根拠に政治的な匂いがするような・・
2007年02月07日
幕末の長州人も気骨がありました。長州は英・仏・米・蘭の四カ国艦隊に敗れて和平を請うた時の話しです。講和締結には例のアーネスト・サトウがあたっています。驚いたことには彼らの唯一の目的は長州人の士気がまだ喪失し切っていないことを私たちに知らせることにあったのだ。そしてわが方の要求があまり過大である場合には屈服よりもむしろ戦うことを望んでいたのである。薩長連合の成り立ちは優れた外科医がねじれた腸をもとに戻すような時間と労力と慎重さを必要としました。そしてタイミングが大切でした。慶応元年冬のはじめ兵庫ににた黒田了介(清隆のちの首相)は坂本龍馬にネジを巻かれて発奮しました。すぐに上洛して小松・西郷・大久保に報告です。タイミングをはずさないことに関しては坂本龍馬の右に出る者はいません。前年元治元年1864年禁門の変で幕府に征伐された長州は自分たちを追い詰めた首謀者が薩摩・会津の両藩であると憤激していました。薩賊会奸であると怒っていました。慶応3年11月坂本龍馬が亡くなるまであと2年しかありません。彼の短い生涯はこの3年間で人々の記憶に残ります。わずか3年間の完全燃焼です。
2007年02月06日
枕草子です。第8段です。大進生昌が家に宮の井でさせたまふに東の門は四足になしてそれより御輿は入らせたまふ門ちいさければさはるいてえ入らねば例の筵道しきて下るるにいとにくく腹立たしけれどもいかがはせむ清少納言は腹が立って腹が立ってしかたありません。けれども彼女はそんなことは文字にしません。辛いこと悲しいことは注意深く切り取って胸の中にしまい込みます。面白おかしい明るい中宮定子を語ります。枕草子が一流の文学作品である理由だと思います。彼女が語らなかったことを私が語ることもありませんが。全ては道長の嫌がらせです。懐妊した中宮定子は内裏から生昌の三条邸へ退出します。大慌ててで四足門をこしらえたのはいいのですが門が小さくて牛車は門から入れません。中宮定子の家を焼いたのももとはと言えば道長です。この日お見送りが全くなくて淋しかったのもこの日に合わせて道長がパーティを開いたおかげです。彰子の父親という思いが姪っ子定子に意地悪をさせたのです。モチロン政治的策略ですけれども。紫式部と清少納言はおもしろい生き方をしています。ぶつかることはありませんでしたが彼女らは宿命のライバルです。龍馬のことを話そうとしたら手が道長を打ってしまった・・・そんな言い訳が私の中では繋がっています。写真がないのは一日外へ出なかったからです。
2007年02月05日
城下に噂が広まりました。小松どん屋敷によそもんが来ている。それも、どこぞの浪人のようだ。鹿児島に着いた坂本龍馬は家老小松帯刀の邸宅に落ち着きました。慶応元年1865年4月です。碁を打っていたとか散歩していたとか食事をしていたとか温泉に入っていたとか浪人見物にでかける者までいたようです。薩摩にヨソモンが入ることは困難でした。龍馬自身関所で何回か追い返されています。藩ないには浮浪の徒は絶無に近い状態でしたから。どこの馬の骨ともわからない小汚い浪人ものがしかも小松家老の食客だったわけですから噂になって当然だったのだと思います。龍馬の用件は2つありました。いうまでもなくひとつは薩長提携の工作です。そしてもうひとつ大事な用件がありました。薩摩の力添えを得て船を借りたいと考えていたのでした。坂本龍馬はこのときひとつきほど鹿児島に滞在しています。坂本龍馬のフンドシ拝借はこのときのエピソードです。西郷さんの古いフンドシを借りたのです。坂本龍馬がです。西郷さんの留守宅へ遊びに来ていた坂本龍馬は自分のフンドシがあまりに汚れていることに気付きました。彼は申しわけなさそうに西郷さんの奥さんに申し出ました。フンドシを一本フンドシの単位はなんなのでしょう。とにかく一本借りることに西郷さんの奥さんはさっそく新しいフンドシを用意したのですけれども。いえいえ・・できれば西郷さんの使い古しを・・・彼が律儀なのかどうかは分かりませんが奥さんはキレイに洗った西郷さんのフンドシを坂本龍馬にあげたのでした。帰宅した西郷さんがケチクサイことするな・・・と言ったとか言わなかったとか。坂本龍馬は回り道が好きです。
2007年02月04日
慶応元年1865年4月京都にいた西郷吉之助は帰郷の途につきました。幕府の長州再征の件で藩との打ち合わせをするためです。西郷を尋ねて坂本龍馬が走ってきました。文字通り坂本龍馬は走ってきたのでした。西郷を捜して走り回っていたのです。龍馬は同行を許され薩摩の汽船で鹿児島に入りました。初めて目にした桜島です。鹿児島に着いた龍馬は気鋭の薩摩藩家老小松帯刀の邸宅に入りました。現在の鹿児島市原良町です。高校の同級生山○君チのすぐ近くです。山○君は私の同級生です。彼は語学の天才でした。高校一年生のときには研究社の英和中辞典をほとんど単語帳みたいにボロボロにしていました。ほとんど暗記してしまっていました。模擬テストでは本当に英語満点取っていました。彼は3ヶ月ごとに一生に一度の恋をして決まって1ヶ月後には失恋していました。とっても純粋ないいヤツでした。そしてちょっとイイ男でした。今は結婚して名古屋に住んでいるそうです。ついこの前知ったのですが・・・・桜島にはほんの少し雪が残っていました。坂本龍馬のお話はまた明日です。
2007年02月03日
英艦隊が薩摩を訪問していた慶応2年1866年の6月末は徳川幕府が再度の長州征伐に熱を上げていた頃なのです。和やかな陸上の交歓会の間にも船上では西郷吉之助による政治会談は進んでいました。半年後サイクロン号難破の懇切な処置に感謝する書状を携えて再び鹿児島に入港したアーガス号に同乗していたアーネスト・サトウは鹿児島湾で見覚えのある長州の汽船を目撃しています。秘密裏に桂小五郎が鹿児島に来ているコトも知りました。薩摩長州の両藩がいよいよ倒幕コースに向かい始めたことを彼は肌で感じとっていた・・・そう思います。鹿児島の雪は思った程には積もりませんでした。その上桜島は雲の中に鎮座したままで恥ずかしそうに雪の衣装を見せてくれようとはしませんでした。これはほんの少しだけ雲の裾をあげて見せてくれた瞬間のとっても貴重な写真です。できそこないの写真ですけれども。
2007年02月02日
近く前之浜に英艦隊がはいってくる。これは藩主・国父両公の深いおぼしめしである。ついては無礼などがあってはならぬ。こんな藩丁のお触れが鹿児島城下に出ました。慶応2年1866年5月のことです。士民はもうビックリです。前之浜で英国艦隊と派手な撃ち合いをやってからまだ3年もたってはいません。エンゲレスのわろどんがもう一回くらい攻めてくるだろう・・そのために砲台も固め操練も繰り返しています。お触れにはそのときのためにびっくりしないようにこまごまと注意書きがついていました。英艦入港のときは、まずあちらが大砲を撃つ。続いてこっちも撃つ。これは実弾じゃない。礼砲と答砲と言って万国共通の式礼というものだ。だからびっくりしたり大騒ぎすることのないように。また英人が城下に上陸しても粗暴なことは絶対にしないように・・・・一回では不安だったのでしょう。組頭を通じてさらに二回三回と入念な注意がなされました。薩摩藩がパークス英国公使を艦隊を招待したのは薩英戦争を転機として急速に親密になった間柄をさらに深めて今後の政策をうまく運ぶためでした。やっと彼の登場です。明日は顔を見に出かけます。雪が降ってもでかけます。
2007年02月02日
そのとき五代才助は長崎にいました。英国艦隊が近く長崎に向かうことを知っていたのです。文久3年1963年6月です。五代は考えていました。英国艦隊は鹿児島攻撃に先立ってきっとこの長崎によるだろう。石炭や水食料の積み込みの必要があるはずだ。そう考えたのです。そのとき英国側の責任者に掛け合おう。相手の要求する賠償金を独断で支払って横浜に引き返してもらおう。問題が起きれば自分が割腹して責任をとろう。そうしないと薩摩の鹿児島城下は一回の戦闘で焼土と化してしまうかも知れない。そう考えて独力で金を集め長崎で待ちました。英国艦隊は五代の予想を裏切りました。彼らは頭から戦争の意志はなかったのです。長崎に寄ることなく鹿児島に直行してしまいました。五代はそれを知って「無念!」と叫びます。・・・ごめんなさい。これは私のツクリです。すぐに馬を駆って鹿児島に走りました。やっと間にあった鹿児島は開戦の空気に満ちていました。もしも明日雪が降ったら夜空は晴れています。その可能性はうすいのですがもしも明日雪が降ったらもしも明後日雪が降ったらきっと桜島に雪の冠がつきます。
2007年02月01日
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