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まずは、ユニークな活動をされている、お寺のネットニュース記事の一節を紹介する。【近年、全国的に学級崩壊や青少年の非行・犯罪が増加し、学校生活だけでは決して十分な人間性の育成が望めない時代になってきた。そんな中、「学校では教えないことを教えたい」と、吉敷の浄土真宗本願寺派円正寺(大澤直誓住職、35)は数十年間同寺で途絶えていた“日曜学校”を3年前に復活させている。(中略)毎回大澤住職が考えたさまざまな企画を実施。本堂で正座をしてお経を読んだ後は、広い境内でかくれんぼや長縄飛び、宝探しや鬼ごっこ、季節によってはそうめん流しなども行っている。】(【】内は記事から一部引用、Google ニュース/サンデー山口:2007年5月27日) この記事は、お寺で開催されている「日曜学校」の取り組みだが、広い境内をつかってこどもたちがあそんでいることも紹介されているが、そのことの意義もけっして小さくはない。また、大阪の平野区にも定期的に「昔懐かしいあそび」をこどもたちに教える活動をされておられる寺もある。 私のこどもの頃(1950年代)を思い返しても、時折お寺や神社の境内で遊んだ経験がある。ところによっては、大きな樹木があったりして、日差しを遮る木陰や「かくれんぼ」の隠れ場所になり、寺社はいい環境のあそび場となっていた。 空き地や広場がいたるところにあった昔でもそうだから、街からそれらの場所が極端に少なくなった今、比較的大きな境内のある寺や神社であそべることは、特に都市部の街では極めて意義のあることだ。 ただ、こどもたちが比較的自由にあそべるには、こどもたちが寺社や参拝者に迷惑をかけないように成長する必要もあるが、適切なおとなの導きさえあれば、こどもたちはあそびに中で、迷惑をかけないあそび方をきっと学んでいくことだろう。「こどものあそび(遊び方)」は、次のページでいろいろ紹介しています。あそびセレクト
2007.05.31
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こどものあそび場をめぐっての苦情相談の記事から。【自宅隣のアパートの駐車場が、数年前から子どもたちのたまり場になっています。 この駐車場で、子どもたちは、サッカーやバスケットボールなどをしながら、大騒ぎしています。ボールを地面や駐車場の壁にたたきつけて、大声を上げることもあります。 ボールは我が家にもしばしば飛び込んできます。】(【】内は記事から一部引用、Google ニュース/読売新聞:2007年5月27日) この記事のように、こどもたちが駐車場をあそび場にし始めてすでに久しい。当然、そのことにまつわるトラブルや時には痛ましい事故さえも少なからず起きていることを考えると、これまでの街づくりや公園整備の大きな問題点が浮かび上がる。 こどもたちの「外あそび」が減ったと、おとなたちが嘆くが、駐車場でないと「サッカーやバスケットボール」ができない街のあり方では、当然のことだろう。空き地も広場も、球技ができる公園も無い状況が改善されない限り、駐車場での悲しい・痛ましい光景が続いていくだろう。 こどもたちが自由にあそべるオープンスペースを街に新しく確保するには、発展しすぎた街では難しい課題だろうが、それでも新たな大規模な公的集団住宅などを作る時や、老朽化した公営住宅の立替時には、必ず球技ができるスペースを確保するようにしていただきたい。「こどものあそび(遊び方)」は、次のページでいろいろ紹介しています。あそびセレクト
2007.05.30
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前に、「右脳を育てる演劇」を話題にしたが、今度は「左脳」についての記事をネットからひろってみた。【日本には古くから様々なことば遊びがあります。ダジャレ、しりとり、早口言葉、俳句、川柳、、、他にもたくさんの遊び方がありますね。誰でも一度は子供の頃に遊んだ記憶があることでしょう。どのことば遊びにも通じるのは、あれやこれやと自分が知っている言葉を思い出しながら、テンポ良く言葉をつないでいく楽しさではないでしょうか。(中略)ことば遊びのように言葉を操作するという作業は“左脳”の働きによるものです。】(【】内は記事から一部引用、Google ニュース/Walking-Style.com:2007年5月24日) 記事のタイトルは、【ウォーキングのメリット】(上記記事より引用)となっており、記事によると、ウォーキングでの発見・感動で右脳を刺激しながら、言葉遊びをして左脳も刺激させ、右脳も左脳も活性化させようとの提案だが、それが確かならこんなお得な活動はないだろう。ともかく、脳を鍛えることが、どれだけのメリットがあるかどうかはわからないが、興味がわく記事だ。 「右脳を育てる演劇!?」で書いたことと同様に、「発見・感動」も「ことば遊び」も、本来こどもたちは大好きでお得意の分野でもある。また、こどもたちのあそびが多彩であればあるほど、あそびの中で体験する「発見・感動」も多い。 私のこどもの頃(1950年代)の経験でも、バッタを追いかけ草原を分け入っていると、カマキリの卵から出てきた小さくて可愛い赤ちゃんカマキリの多さや、あそびの帰り道に家かげの後ろに沈む夕陽の大きさや、水溜りのアメンボが突然飛び立つ速さなどの「発見・感動」の思い出が今も鮮明によみがえる。 特別の習い事に通ったり、ゲームソフトを購入したり、書籍やDVDを参考にすることで、右脳・左脳を活性化させたり鍛えたりするのも、一つの選択だとは思うが、ある意味では「脳」にとって万能ともいえる効果をもった「あそび」をこどもたちに十分なまで満喫させるのも、お得な選択ではないだろうか。 ただ、その「あそび」の内容は選ぶ必要があるが、「昔ながらのあそび」といわれている「あそび」には「脳」にいい「あそび」が多かったように思う。また、こどもたちだけでなく、高齢者を含むおとなにも「遊び」は「脳」にいい効果を与えてくれるだろう。もちろん、適切な「遊び」の選択は必要だが。「こどものあそび(遊び方)」は、次のページでいろいろ紹介しています。あそびセレクト
2007.05.29
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雑種犬をあらわす「雑犬(あらいぬ)」は、私が「雑草(あらぐさ)」から思いついた造語だが、漢字の「雑犬」は「あらぐさ」と同様に当て字的用法で、ひらがな表記でも良いが雑種犬との意味が想像できるようにあえて漢字表記を併用した。 さて、ネット検索でざっと調べてみると、「あらいぬ」には、主に三つの漢字による表記が見つかった。それは、荒狗(「太平記」)、猛犬( 「神曲」)、新犬(鷹狩り用語)だ。だから、「あらいぬ」自体は新しい言葉ではないが、やはり、雑種犬にあてる漢字としては「雑犬」が適当と思われる。 また、発想の元になった「雑草」のように、「踏まれても踏まれても伸び拡がる」ような逞しさを雑種犬は持っているし、持ち続けて欲しいとの願いも「雑犬(あらいぬ)」に込めてみた。日本雑犬(あらいぬ)協会 エッセイは、次のページでいろいろ掲載しています。遊邑エッセイ
2007.05.28
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「脳を鍛える」「脳を育てる」「脳を活性化させる」などなど、「脳」ブームは一向に衰えない。「そんなに脳を鍛えて何とする。」そんな、「脳」ブームの一端をネットニースから見てみよう。【演技やダンス、歌を楽しみながら自分を表現し、右脳を開発する。東宝芸能が、4歳から12歳までの能力開発スクール「東宝ジュニア」を4月に始めた。子役を養成するためではない。心を表現する演劇や、体を使う音楽で、EQ(心の知能指数)を高めるという。】(【】内は記事から一部引用、Google ニュース/朝日新聞:2007年5月23日) このスクールに通えば「右脳」が開発されるそうで、大新聞がニュース記事で取り上げるのだから、それなりの効果があるのだろう。ただ、一コマ90分が44コマで十数万円(入会金を除く)もの受講料がかかるそうだが、これは「脳」ブームにも格差社会の影が忍び寄るきざしとも考えられる。 「演技やダンス、歌」や「自分を表現」、考えれば、これらは少し前までのこどもたちのあそびの中では普通に行われていたことだ。それなら、昔のこどもたちは「あそび」のなかで自然と「右脳」を育てていたことになる。しかも、ほぼ無料でだ。そこには、当然ながら貧富による格差は基本的には存在しなかった。 そうしたこどものあそびが、自然のままでは展開し難くなった今の時代では、記事のようなスクールもそれなりの存在意義があるのかも知れない。しかし、そのことによりこどもたちが自由にあそべる時間を少なくなることは確かなことで、悪循環ともなりかねないので、その推移を見守っていきたい。「こどものあそび(遊び方)」は、次のページでいろいろ紹介しています。あそびセレクト
2007.05.27
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前に、雑種犬のことを綴ったブログ記事に、「ハイブリッド犬」と記述したが、その後ネット検索で調べてみると、この造語はすでに流通しているようだ。ちなみに、雑種犬についてのその他の造語も調べたが、判明したものを挙げると、「雑犬(ざっけん)」「ミックス(MIX)犬」「ハーフ犬」と「ハイブリッド犬」だった。 これらの造語の中で、いわゆる雑種犬とほぼ同義と思われるのが、「ミックス(MIX)犬」で、純血犬種同士で犬種の違った犬を交配させた犬を「ハーフ犬」「ハイブリッド犬」と呼ばれているらしい。なお、「ハーフ犬」「ハイブリッド犬」は主として販売業者が他の雑種犬との違いを強調したもののようだ。 ともかく、雑種犬の呼び名の中で、カタカナ混じりでないのが「雑犬(ざっけん)」だけだが、日本語的にはカタカナ混じりでもいいが、やはりできれば漢字だけで表現するほうがいいと、私には思われる。そして、音読みの「ざっけん」より訓読み(正確には当て字だが)で「あらいぬ」と呼ぶことをお奨めする。 「あらいぬ」、柔らかくそれでいてどこか逞しい響きを持っていて、愛する仲間としての犬たちにはお似合いだろう。「犬種は何か?」と聞かれたら「あらいぬ(雑犬)です!」と答えるのもいいかもしれない。 ところで、私はこのサイト上で勝手に「日本雑犬(あらいぬ)協会」なるものを立ち上げた。これも私の「お遊び」の一つかも知れないが、我が家の「ハル」をはじめとする雑種犬をこよなく愛する証だと、思っていただければ幸いだ。エッセイは、次のページでいろいろ掲載しています。遊邑エッセイ
2007.05.26
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エキスポランドの死傷事故に関するその後のネットニュースによると、あらためて安全管理体制の重大な問題点が明らかになってきた。【エキスポランドでは、JIS基準を知らずに、独自に探傷試験の年1回実施を定めていた。だが、何度も先送りし、国家資格を持つ検査員が24人いながら、車軸の金属疲労を見落としていた。(中略)全国139か所のコースター306基のうち、設置以来一度も実施していなかった72基を含め、4割近い119基は探傷試験を1年以上行っていなかった。国交省は、安全が確認できるまで運転中止を求めた。亀裂が見つかるなど、安全に問題のある7基には是正を指示した。】(【】内は記事から一部引用、Google ニュース/読売新聞:2007年5月24日) 「定期検査の具体的な方法や内容を法令で義務づけて」いなかったり、「手抜き検査があっても営業停止などの罰則」がなかったりの法的整備の問題は、前にもこのブログで指摘したが、遊園地などの遊具の点検・検査を行う検査員の問題も大きい。記事には、「エキスポランド」には、この検査の国家資格を持った者が24人もいたとあるが、まさに、その国家資格の形骸化とそれによる安全管理の脆弱性を、今回の事故が全国的規模で露呈させたといえる。 これは、本来、利用者(乗客)の安全のための資格が、企業の営業のための便宜的な資格に変質してしまっていたことを意味している。なぜそうなったのかを明らかにするとともに、この面での早急なる改善を願うものだ。なお、政権与党議員が該当企業などから政治献金を受けてきたとの報道もあるが、これとの関わりも追求することも大切だろう。エッセイは、次のページでいろいろ掲載しています。遊邑エッセイ
2007.05.25
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都会のこどもたちには、ピンと来ないかもしれない野草をつかったあそびの話題を。【日本中いたるところで見かけるイタドリですが、所変われば呼び名も違います。 九州中南部ではサド、中部地方ではスカンポとよばれたりします。スカンポの呼び名は別の地域では、スイバの事を指しますが、イタドリも、スイバも、かじってみるとすっぱいのが特徴です。同じタデ科の植物です。 さて、タイトルで子供遊びと紹介しましたが、今の子供は知らないような気もします。私の子ども時代は、代々、近所のお兄さんたちが、より幼い子供に教えて受け継がれていました。】(【】内は記事から一部引用、Google ニュース/オーマイニュースインターナショナル:2007年5月23日) 実は、この記事にある「イタドリ(スカンポ)」を使ったあそびは、学童保育の指導員になってから知ったのだ。団塊の世代の私でも大阪市内で育っていては仕方がないことかも知れない。それでも、「相撲取り草」や「猫じゃらし」などの雑草を使ったあそびは、けっこうやっていた。何といってもタダで手に入るおもちゃなのだから、やりたい放題なのだ。 もちろん、あそび方やおもちゃの作り方を知らないとできないが、それは昔のことだから、年齢の違った(異年齢の)仲間がたくさんいたので、当然あそびの中で教えてもらえたし、また年下の子に教えてあげたりもした。雑草は、いわば「遊びの友」として、仲間同士のを絆を育むアイテムの一つだったのだ。 今の都会では、街の整備がある意味では過度に進みすぎて、こどもたちの周りから雑草は極端に減ってしまった。たまに、放置された空き地に逞しくのびのびと生えそろった雑草たちを見かけるが、無常にも厳重な柵で囲われたりしている。その柵を越えて雑草であそぼうとする、逞しいこどもたちは、見かけることもなくなってしまった。「こどものあそび(遊び方)」は、次のページでいろいろ紹介しています。あそびセレクト
2007.05.24
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まずは、「本格ごっこ遊び」といわれる「キッザニア東京」のネットニュース記事から。【「アーバンドック ららぽーと豊洲」内にオープン以来、子供たちに大人気の「キッザニア東京」は、消防士、パイロット、医師、美容師など70以上もの職業を、企業が提供する本物そっくりの施設で体験できる、体験型アミューズメントパーク。つまり本格的「ごっこ遊び」のできる遊園地。】(【】内は記事から一部引用、Google ニュース/エキサイト:2007年5月22日) 「キッザニア東京」でのこどもたちの活動も大きくとらえれば、確かに「ごっこ遊び」にあたるだろう。しかし、その「本格的」という形容詞は、私には少し違和感がある。本物に限りなく近いといえば、「本物的」であるといえる。働けば特別の通貨が報酬としてもらえ貯金もでき、その通貨で本物の食べ物を買うことも可能なのだ。その点では、もはや単なる「あそび」の域を超えている。 一方、保育所や幼稚園あるいは学童保育所などで時折みかける「お店屋さんごっこ」は、全く様相が違う。使われる物のほとんどが作り物なのだ。しかも、それさえこどもたち自らの手作りであることも多く、お金さえ作られる。さらに、価格も「こどもたちが勝手に決めている」が、この「勝手に決められる」事が「ごっこ遊び」の「ごっこ遊び」たる所以でもある。 こうした、「お店屋さんごっこ」が、かなりの大人数になると、様々なお店屋さんが軒を並べるあそびに発展することがある。こうした方向こそが本格的な「ごっこ遊び」といえるのではないだろうか。もちろん、「キッザニア東京」が本格的な「ごっこ遊び」ではないにしても、そこでのこどもたちの活動の意義が小さくはならないのも言うまでもない。「こどものあそび(遊び方)」は、次のページでいろいろ紹介しています。あそびセレクト
2007.05.23
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昨日のブログにも書いたように、我が家の愛犬「ハル」は雑種犬だが、これは生物学的な分類による「種を超えた交雑」では無く、違った犬種の交雑だそうだ。生物学的には、全ての犬は同じ「種(亜種)」に属しているのだ。面白いのは、「あなたはネコ派、それともイヌ派?」の質問をよく聞くが、以下の生物学的分類を見ると驚かれる方も多いだろう。 イヌ(犬)は、動物界、脊索動物門、脊椎動物亜門、哺乳綱、ネコ目(食肉目)、ネコ亜目(裂脚亜目)、イヌ科 、イヌ亜科 、イヌ属、タイリクオオカミ(種)、イエイヌ(亜種)ということになる。(参考:ウィキペディア日本語版)何と、大きく見ると犬は猫の仲間だったのだ。だから、我が家の「ハル」は生物学的分類に従えば、純粋な「イエイヌ」となる。 だから、雑種と呼ぶのは「ハル」に失礼なことかもしれない。さて、それならどう呼んでやるのがいいのだろうか。カッコ良く「ハイブリッド犬」と呼ぶのも一つの案だろう。しかし、「ハル」は日本で生まれ育った犬なので、和式の呼び方を考えてみた。 漢字で「雑犬」と書いて「あらいぬ」と呼ぶことを考えてみた。これと似た言葉に「雑草(ざっそう)」があるが、これは昔から「あらぐさ」とも読む。だから、「ハル」には雑種犬ではなく、どこか逞しさも感じられる「あらいぬ」がふさわしいだろう。はたして、このことを「ハル」は喜んでくれるだろうか。 この顔では、あまり喜んではいないようだが、いずれわかってくれるだろう。ちなみに、「ハル」には時折このように目を細める癖もあるようだ。人間では近視の人がよくする眼差しだが、まさか近視ではないだろう。目を大きく開けて、蚊やハエの動きを眼で追うことができる「ハル」なのだから。エッセイは、次のページでいろいろ掲載しています。遊邑エッセイ
2007.05.22
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昨日付の最初の記事に引用したネットニュースに掲載されていた写真を見て思いついたことを書いてみる。その写真は砂場で遊んでいるこどもたちのスナップだったが、よく見るとその砂場の縁(ふち)がコンクリート製だったことにあらためて気付かされたのだ。 今時の砂場は、犬・猫などの糞害で「汚い」と敬遠されたり、それを防ぐための柵が設けられたりの、状況はこれまでこのブログでも取り上げてきたが。今日、あらためて気付くまで、あまり気にしてはいなかったが、いつの間にか縁(枠)がコンクリート製の砂場がけっこう普及しているのだ。 私のこどもの頃(1950年代)の記憶では、少なくとも小学校や中学校にあった砂場は、縁は木製だった。おそらく高校の鉄棒下の砂場も木製だったように思う。これは、学校の砂場は鉄棒の下であったり、幅跳びの着地用だったりで、安全のためで木製だったのだろう。 だから、今も学校などの砂場の縁は、おそらく木製かプラスティック製が多いはずだろう。そうでないと大きなケガにつながりかねない。しかし、公園などの砂場には、コンクリート製の縁が多いようだ。そうした砂場の利用形態として、おとなしい砂遊びが多いからかもしれないが、やはり木製縁などに比べて危険性が高いといえる。 砂場は、歩いていても比較的足がとられやすいのも特長で、こどもが転倒するようなことも、それなりの頻度で起こるだろう。そんな時は、縁が比較的やわらかい材質で作られておれば、ケガの程度は違ったものになるだろう。本当は、縁も柵も無い砂場が理想的なのだろうが、気をつけていきたいものだ。「こどものあそび(遊び方)」は、次のページでいろいろ紹介しています。あそびセレクト
2007.05.22
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このブログでも何回か紹介してきましたが、我が家には1匹の犬がともに暮らしています。今日は、あらためてその愛犬の「ハル」の簡単な紹介をしたいと思います。まずは、最近撮った写真を見てください。 誕生日は、2005年12月21日で、今日でちょうど1歳と5ヶ月となりました。性別はメスで犬種は柴犬(父)と雑種(母)の雑種です。そして、春の訪れとともに我が家族の一員になったので「ハル」と命名されました。ちなみに、名前の発案者は私ですが、家族全員(連れ合いと二人の娘)の合意で決めました。 かなり頑固な性格は、柴犬譲りかもしれませんが、そのくせ少しばかり臆病なところがあります。好奇心もかなり強いようで、なんでも近寄っていくのですが、いつも及び腰になっているのが愛嬌です。 そんなハルですが、どういうわけか、立つのが大好きなハルです。写真は、リードが付いていますが、無くても立っていられます。ともかく、レッサーパンダならまだしも、犬では普通のポーズですが、ご近所のこどもたちには人気があるようです。エッセイは、次のページでいろいろ掲載しています。遊邑エッセイ
2007.05.21
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私はその名称にはあまりスッキリした印象は持っていないが、その活動の意義については関心を寄せている「子育て支援」の、あり方の一つ方向を見るうえで参考になるネット記事があった。【子育て支援に詳しい武蔵大学教授の武田信子さんは「子どもの体や心の成長に外遊びは欠かせません。日常的に自然の中で遊べる生活環境ではないので、せめて公園や庭で過ごす工夫が必要」と指摘する。これまでの子育て支援は親子が集える施設の一室などを提供することが主だった。「集まった後も部屋から出て、外遊びができるようになるといいですね」と武田さんは話している。】(【】内は記事から一部引用、Google ニュース/読売新聞:2007年5月19日) 「子育て支援」のあり方に、自然の中での遊びとそれを大きな意味合いで含み込む「外遊び」の位置づけとその実際の活動が増えてきたことは、こどもたちにって喜ばしいことだ。こうした活動がさらに拡大・持続すると、やがて公園や広場そして「街中(まちなか)自然」(注:私が提起する造語)の整備がすすむ可能性も秘めており、こどものみならず全ての人に優しい街づくりにつながるだろう。 また、あまりにも不評だったので「教育再生会議」が提言し損ねた「親学」にある、「遊び場確保に道路を一時開放」も、外遊びを支援するひとつの考え方かもしれない。ただ、そうした街づくりのための緊急避難的な政策ならいいのだが、少なくとも「親学」提言の全体からは、伺い知ることができない。 引用した記事には、興味深いアンケート記事が掲載されていたので、その部分も引用しておく。【「冒険遊び場と子育て支援研究会」は2005年と06年に、乳幼児の親に外遊びに関するアンケートを実施した。ぜひ経験させたい外遊びは、「土・泥遊び」「水遊び」「花や草木のふれあい」「虫取りや魚つり」「木登り」の順。また、親がさせたいと思っていても環境的に難しいと思う遊びは「基地作りや探検ごっこ」、「虫取りや魚取り、花や草木のふれあい」「水、泥、土の遊び」の順だった。】(【】内は記事から一部引用、Google ニュース/読売新聞:2007年5月19日) この結果は、ある程度は予想できたことではあるが、それでも意外だったのは、実現し難さが低位の「水、泥、土の遊び」が、経験させたい外遊びのトップや高位になっていることだ。これを、どのように解釈すればいいのだろうか。 親が望むほどこどもたちは、そうしたあそびをしなくなったのか、はたまた街の環境が、そうしたそとあそびがほとんどできないほど、行き着くところまで行き着いていることなのだろうか。「こどものあそび(遊び方)」は、次のページでいろいろ紹介しています。あそびセレクト
2007.05.21
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このブログでは、度々「子育て」や「教育」における大事な選択について書いてきたが、「教育再生会議」をめぐる議論の中にも、選択にまつわる議論がある。それは、「ゆとり教育」か「学力重視」かという議論だ。主に、「ゆとり教育」の見直しから「学力重視」への転換を説く意見がにわかに増えてきている。「ゆとり教育」の本質的な総括も十分でないまま、この間のいろんな調査報告が示す「学力低下」を「ゆとり教育」にだけ罪をきせようとする議論もある。また、「ゆとり教育」で削られた授業時間や教科内容を増やすことで「学力向上」を図ろうとする「学力重視」の意見もある。 これらの議論や意見は、「ゆとり」と「学力」を対立的に捉える考え方で、教育の方法における「ゆとり教育」か「学力重視」かの選択をせまる意見でもある。はたして、「ゆとり」と「学力」は対立するものだろうか。「ゆとり教育」か「学力重視」かの選択は必要なのだろうか。 その答えは「否」だ。「ゆとり」と「学力」は共存しうるだけでなく、「学力の向上」を保障するには「ゆとり」が欠かせないと思っている。特に、義務教育期である小中学生にとっては「ゆとり」ある生活により豊かな「学力」育まれると思っている。そして、その「ゆとり」とも勉強時間が過密でないことはもちろんのこと、旺盛な「あそび」ができる「ゆとり」でもある。 このことについての詳細な私見は、いづれ掲載させていただくこととして、幾つかの点について簡単に触れておく。「ゆとり確保」と「学力重視」は、授業時間や授業内容の長短や多少だけの問題ではなく、教科内容の再吟味とその学習時期の見直しを重点にした検討こそが可能にする、その検討は言うまでもないが、こどもたちのおかれている状況、特に学校生活以外での生活のあり方を踏まえることが大切だ。 「学習(勉強)時間」が過密であるかそうでないかは、単に学校での「授業時間」の長短の問題ではなく、塾・習い事・宿題(学校・塾)との関係で総体的に捉える必要がある。また、こどもたちの学習意欲や学習の楽しさによっては、同じ学習時間であっても、過密に感じるかそうでないかが左右されることも考慮すべきだろう。 以上、とりあえず現時点での思いつきを書いてみた。「教育再生会議」での議論も、おそらくこれらの点にも触れた議論がなされているかとは思うが、少なくともその議論の結果として提起される内容には、それらの点が考慮されているとは、少なくとも私には見えてこないのだ。エッセイは、次のページでいろいろ掲載しています。遊邑エッセイ
2007.05.20
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昨日のブログ記事に書いた、子育てにおける選択を考える上でのヒントを次のような書籍から得るのも一つの方法だろう。「なぜヒトの脳だけが大きくなったのか」(浜田穣:講談社/2007)「脳トレ」が大ブレークしている中で、それとは少しニュアンスの違った「脳」の印象を受けるだろう。 この書を読んでいて印象に残った個所は幾つかあるが、その一つが「脳と効果器」の関係だ。脳が手・口などに代表される効果器を巧みに動かす事により、人間はその営みを続けられるのだが、他の動物に比べて極めて大きいといえる「脳」と、脳の進化とあいまって進化した「手」や「口」との関係を詳しく解説してくれている。 その効果器の一つ「手」についての記述を、一部引用しておく。【ヒトの手の動きと働きは、ほんとうに多様かつ多才であり、それがヒトの生活にとって必須の基盤であることに異論はないだろう。そして手の器用さが、人類進化に重要な役割を演じてきたことも認識していただけるだろう。】(【】内は引用)このことと、今こどもたちの手先の不器用さが度々ニュースになることをあわせ考えると、手に関して言えば、人類は進化過程から「退化過程(その良し悪しはともかく、これも一つの進化の方向だが)」に入ってしまったのだろうか。 また、「口(くち)」に関しては、「アカンボウがしゃべれるようになるまで」の項で、私たちが何気ないことだと思っている「言葉を獲得すること」の、その驚異的とも言える過程に新鮮な驚きと感激を与えてくれる。 つぎに、人間のこどもの期間は、他の動物に比べてかなり長いが、その意義についてカニクイザルの例が興味深かった。【道具使用行動は、遺伝によって子孫に伝えられる行動パターンではない。他の個体が行っているところを観察して、学習する必要がある。群れを作って生活し、他の個体のやっていることを見て、真似ることは、文化伝播・伝承の必要条件である。(中略)子供の期間が非常に重要で、霊長類における成長期間の延長は、複雑・高度な行動パターンの学習には必要条件である。】(【】内は引用) 私は、「遊び」と「真似る」は、極めて関係が深いと考えているが、人生において最も濃厚な遊び期間である「こども期」において、前記引用部をあわせ考えると、「こどものあそび」の意義の大きさが見えてくるだろう。そして、「複雑・高度な行動パターン」は、「道具使用行動」だけに限らず、人と人との関わりの中の様々な行動(活動)である「社会的行動」も「複雑・高度な行動パターン」である。 この書を読んだ後、「こどもはこどもらしく」の意味をもう一度問い直した時、そこに見えてくるものはきっと違ってくるだろう。この書の全てを理解する必要もないし、全てに賛同する必要もないが、子育てにおける大事な選択を迫られた時、何らかの糸口を与えてくれるだろう。エッセイは、次のページでいろいろ掲載しています。遊邑エッセイ
2007.05.19
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昨日のブログに「塾の低年齢化」の話題を書いたが、ネットニュースにはもっと驚く塾通いの実態が語られていた。【中学受験を目指す小学生の間に、進学塾の授業についていけないなどの理由で、新たに別の塾に通って補習を受ける二重塾の塾通いや、家庭教師をつけるスタイルが広がっている。(中略)「兄が私立中に通い、その流れで弟も受験を考えた。教育の充実を見るとやはり私学。ローンがないから何とかいけた。三重塾の人もいるが、ある程度の経済力がないと無理だろう」と話す。】(【】内は記事から一部引用、Google ニュース/京都新聞:2007年5月16日) 引用記事後半は、京都市のある男性会社員の話だが、「塾の低年齢化」は、その通塾年齢の低下だけでなく、量的な変化もあることに驚かされる。同記事には「兄弟で月20万円」もかけている実態から察すると、おそらく塾の質的変化も進行しているように思われる。 こうした小学生の生活の変化は、小学生のあそびにも多大な好ましくない影響を及ぼしていることは、このブログで度々指摘したが、こうしたインフレーション的な変化とも言える激変は、こどもたちの成長や発達の問題をさらに深刻なものにしかねないだろう。 こうした変化の中でのこどもたちの成長・発達の結果は、そのこどもたちが青年期を経てやがて社会の一員となって表面化することも多いが、「子殺し」、「親殺し」、青少年の自殺、「いじめ」「虐待」などが毎日のように報道される今、あらためて「こどもの成長のあり方」を左右する「こどもたちの生活のあり方」を考え直すことも、大切なことではないだろうか。 「小学生より高校生やおとなの方がよく遊ぶ。」こんな逆さまな「遊び」の実態が少なからず報告されている。大阪弁風に言えば「おとなになったらあんまりあそばれへんから、あそぶのはこどものうちやで。」がまともなのか、「今、辛抱してべんきょうしとったら、おとなになったら楽やで。」がまともなのか、大事な選択だ。 引用した記事には、高田公理・武庫川女子大教授(社会学)の話が掲載されているので、その一部を紹介しておく。【「ニンジンをぶら下げられて走っている馬」のような受験勉強は楽しくないだろう。これでは子ども本来の能力が伸びきってしまう。遊びや面白さの中で好奇心を伸ばすことこそ教育の本道だと思う。】(【】内は記事から一部引用、Google ニュース/朝日新聞:2007年5月15日) 教育だけの狭い問題ではなく、教育を含む広く「子育て」全般において、どのような選択をするのかという、大きな課題が親たちにつきつけられているのだ。大げさに言えば、それは必然的に未来の日本を左右する課題でもあるだろう。そして、その一つの焦点が「こどものあそび」であることも確かなことだろう。エッセイは、次のページでいろいろ掲載しています。遊邑エッセイ
2007.05.18
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このブログでも指摘してきたことと関連するが、「塾通いの低年齢化」の思わぬところでその影響ひとつがあらわれているようだ。【5月の連休明けは、新年度の疲れも出てきて心身の不調を訴える人が増える時期だ。大学でも、入ってくる若者が多様になるにつれて、環境の変化に対応できず「心の問題」を抱えるケースが目立っている。放っておくと不登校やひきこもり、休学、退学などにつながりかねない。(中略)「いまの子どもは中学受験や塾通いの低年齢化で遊び仲間が少なく、近所の人たちとの人間関係も希薄。集団の中でもまれないまま大学生になった感じで、とても傷つきやすい」と中村さんは指摘する。】(【】内は記事から一部引用、Google ニュース/朝日新聞:2007年5月15日) 引用記事後半は、東洋大で大学生の「心のケア」を担当されている「カウンセラーで臨床心理士の中村家子(やすこ)さん」の話だが、こうした制度がある大学の存在もさることながら、時代の変化におどろかされる。昔から、「五月病」と呼ばれてきた問題が、「塾通いの低年齢化」が一因となって「五月病」に罹りやすくなってきているのは、こどものあそびを考える上でのあらたな問題提起となるだろう。 このように、大学生になってからの「心のケア」は当面の対症療法的対策として必要だが、それよりも根本的な解決ができるようにすることが望まれるだろう。その一つが、「あそび」のもつ積極的な意義だろう。あそびにとって、本来一番ふさわしい時期である、小学校卒業(できれば中学校卒業)までのいわゆる「こども」の時期に、いろんな個性も持った他のこどもとのあそびを昔のような水準まで回復させることが重要だ。 また、記事が指摘しているような「近所の人たちとの人間関係」を豊かにするためには、そうしたこどもたちのあそびが、近所の人たちの目に触れるところで展開されることも必要だろう。それは、見通しの良い環境で広場・あそび場を地域の中に数多くつくっていくことで可能となり、そのことは「こどもたちに安全な街づくり」にもつながるだろう。「こどものあそび(遊び方)」は、次のページでいろいろ紹介しています。あそびセレクト
2007.05.17
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今、いわゆる「国民投票法」をめぐって、その付帯決議にもある「有効投票」が一つの話題になっているが、かつて私は選挙での開票立会人の経験があるが、選挙や国民審査そして今回の「憲法改正のための国民投票」における投票の有効無効について、どこかすっきりと割り切れない気持ちを抱いていた。そのことも踏まえつつ、この投票の有効無効についての私の思いつきを書いていくこととする。 何回か選挙の開票に立ち会った中で、印象に残っているのが何も記載されていない「白票」の多さだった。しかも、その数は年々増えるように思われた。だから、無効票における「白票」の比率が極めて高く、時には最低得票者の票数をはるかに上回ることも度々だった。 ここで考慮しなければならないのは「白票」といえども、わざわざ投票所に出向いての投票すると言う点では、いわゆる有効投票と何ら変わらないのだ。こうした意識的な投票には、その投票者の何らかの意思が反映されていると考えるのが妥当だろう。要するに、それが議員を選ぶ選挙なら、その「白票」投票者が思いや意思などを託すことができる候補者が存在しないか、その選択に迷った結果か、あるいはその選挙自体への何らかの抗議があったかなどの、投票者の意思表示と見ることが大切だろう。 だから、そうした「白票」の投票自体は、選挙の場合確かに「誰に投票したかを定めることができない票」、便宜的に名付ければ「不定票」(紛失などによる「不明票」とは違う。)であるが、決して投票した行為自体は「無効」ではなく、ある意味では有効な投票行為だと言えるのではないだろうか。 また、選挙時の投票には、候補者名以外にスローガンなどを記載した「他事記載」なども「無効票」となっているが、これも同様にどの候補の「得票」ともならない「不定票」と考えるべきで、これまたその投票行為までを「無効」扱いするのも考えものだろう。 「白票」投票と似たことに投票の「棄権」があるが、わざわざ投票に出向いた「無効投票」と呼ばれている投票と、投票に行かない「棄権」とは分けて考えるべきだろう。「棄権」も一つの意思表明の方法の一つかもしれないが、選挙や「投票」が国の成り立ちの決定的な仕組みとなっている事を考慮すれば、投票は権利でもあるが国民として大事な義務として考えるべきで、「棄権」は望ましくないだろう。 これまで述べてきた点を考慮すれば、今回の「国民投票法」が、「有効投票の過半数で憲法の改正を可とする」ことのひとつの問題点が見えてくる。例えば、「ある項目の改正内容には賛成ではないが、その項目の何らかの改正を望む」人たちの中には、二者択一的な投票方法では「白票」として投票せざるを得ない人たちも少なくないだろう。 また、憲法が国の根幹となる最高法規であることを考えると、その改正には国民の最高に明確な意思が必要な事は憲法自体が明記している。だから、意思表明としての「白票」だけでなく、たとえそれがふざけた意思による投票であっても、それを「無効票」として除外しないほうがいいだろう。 少なくとも選挙の場合とは違って、「無効票」とみなされた票を投じた人たちの存在を無視するのではなく、その人たちを含めた総数の「過半数」としての意思が、憲法の改正に必要な「国民の確固たる意思」となるのではないだろうか。エッセイは、次のページでいろいろ掲載しています。遊邑エッセイ
2007.05.16
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昔はけっして珍しくはなかった、朝の始業前の校庭でのあそびの現代版とも言える取り組みがネットニュース記事に配信されていた。【大阪府泉南市と熊取町の小学校で、各教育委員会と大阪体育大学が連携し、午前の授業前に教師、大学生、児童が一緒に校庭で遊ぶ「朝遊び」活動が広がっている。(中略)「朝遊び」効果は、生活リズムの改善という形でも表れた。たっぷり体を動かすことで児童が早く寝るようになり、早起きして抜きがちだった朝食をしっかり食べてくるようになった。】(【】内は記事から一部引用、Google ニュース/読売新聞:2007年5月15日) 私がこどもだった頃(1950年代)には、朝けっこう早い時間に登校し、校庭であそぶことは多くのこどもたちの大きな楽しみでもあった。中には学校への一番乗りをめざすつわものもいたほどだった。そうしたことを可能にする一つの理由として、当時は各学校には先生が宿直していたからだ。こどもたちが朝早くやってきても校門を開けてくれたからだった。 それに比べて、機械警備もあり先生の誰かが出勤するまでは学校には入れない。また、物騒な今時は登校時の安全もあり、集団登校や登校時の見守りなどで、学校での「朝あそび」が難しくなっているのだろう。だから、この記事のように学校などの特別の取り組みでないと、「朝あそび」が行えない。 是非、この記事のような取り組みを広げていただきたい。また、この記事のように、大学生などのボランティアに頼らなくとも、朝始業前にあそべる環境さえ整えてあげれば、けっこうこどもたちは自分たちだけであそぶことだろう。そして、そのことは記事にあるような好ましい効果だけでなく、人と人との関係で必要な力も育んでくれるだろう。「こどものあそび(遊び方)」は、次のページでいろいろ紹介しています。あそびセレクト
2007.05.16
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汚いと敬遠され、ある地域では砂場が姿を消しつつある一方で、泥んこ遊びに熱中するこどもたちもある。【袋井市下山梨の袋井ハロー保育園の園児が10日、園近くの田んぼでどろんこ遊びを体験した。泥遊びを通じて自然を体で感じてもらおうと、田んぼ所有者の佐野勝馬さんの好意で3年前から毎年行っている。参加したのは3歳から5歳までの65人。最初は恐る恐る田んぼに入っていたが、泥の感触に慣れるとすぐに大はしゃぎ。】(【】内は記事から一部引用、Google ニュース/静岡新聞:2007年5月10日) どちらも実際の今の時代のことなのだが、これをこどもたちから見れば、砂場も大好き泥んこも大好きとなるのが時代を超えた真実だろう。だから、こどもたちが安心して(本当は親たちが安心して)砂遊び・泥んこ遊びができる町や村であって欲しいと思う。 特に、都会では心無い飼い主のせいで野良猫・野良犬などが増え、砂場が「汚い」場所と見なされてしまった。また、都会には思う存分、泥んこあそびができる場所が少ない。昔は、雨上がりにはそこら中に水溜りがあり、もちろん舗装されていないから「泥んこあそび」がやりたい放題に近かった。 せめて、この記事のように、たまにはこどもたちに「泥んこあそび」をプレゼントしてあげるのもいいだろう。それには、おとなのこどもたちへの優しいまなざしと、積極的な活動も必要で、それが今の時代のひとつの特長かも知れない。「こどものあそび(遊び方)」は、次のページでいろいろ紹介しています。あそびセレクト
2007.05.15
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多くの国民の意見を無視して、改憲のための国民投票法案が今日の参議院本会議で可決され、国民投票法(正式には「日本国憲法の改正手続に関する法律」だが、以下「国民投票法」と略記)が成立した。これによって、自衛隊法などの一連の憲法違反の法律に新たな法律が加わったこととなる。このブログで何回かに分けて私見として書いてきたように、この度の「憲法改正のための国民投票法(改憲国民投票法)」は、その対象である日本国憲法の精神やその改正を明記した条文(下記参照)にも背くと思われるからだ。【この憲法の改正は、各議院の総議員の3分の2以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行はれる投票において、その過半数の賛成を必要とする。】(【】内は日本国憲法第96条第1項より一部引用) 多くの方から指摘のある、法の下の平等性や、活動の自由が著しく制限されることも憲法に違反だが、こどもたちの健やかな成長を願う国民のひとりとして、「改憲国民投票法」の違憲性についての私見を簡単に書いておく。 その最大のポイントは、憲法上も明確な国民の一員である「こども」の存在を忘れてはいないかということだ。「改憲国民投票法」の一部条文には、18歳以上のこども(未成年)にも投票権を与えるということだが、それでも投票に参加できない国民(こども)も膨大な人数となる。 もちろん、国民投票の運用上で現実的に考えれば、有権者と非有権者を分けざるを得ないが、それでもその結果が、投票権の無い国民(こども)の存在を考慮したものになる必要があるだろう。それには、憲法の条文にある、その可決要件である「その過半数」を「国民総数の過半数」しかも「当然ながら国民には非有権者であるこどもを含む」事で保障されるだろう。 だから、憲法改正の成立要件を「有効投票の過半数」と規定すること自体が憲法違反と見なせるだろう。1000万人をはるかに超える国民であるこどもたちの存在に思いやった「国民投票法」が、国民の大多数の思いや願いを集約してできるまでは、今回成立した「改憲国民投票法」は一旦廃棄して、できる限り多くの国民が関われる方法で作り直すことが大切だろう。エッセイは、次のページでいろいろ掲載しています。遊邑エッセイ
2007.05.14
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こどもたちの漢字能力とテレビ視聴の相関関係のネットニュース記事から。【小学1年生は漢数字が苦手で半数近くが「八つ」を読めず、約3割が「一つ」と書けないことが7日、教員や大学教授らでつくる「日本教育技術学会」(向山洋一会長)の漢字習得度調査で分かった。小3以降で書き取りの力が急激に低下することも判明した。(中略)調査ではテレビ視聴時間が「1時間以上3時間未満」のクラスと「書き」の得点(200点満点)を比較したところ小3ではほとんど差がないものの、小4、5では「3時間以上」が16点低くなった。】(【】内は記事から一部引用、Google ニュース/産経新聞:2007年5月7日) この記事から、テレビの視聴時間と漢字能力との関係を単純に論じてはいけないと思われる。確かに、テレビの視聴時間が長いとその分、家庭での漢字の復習などの学習時間が短くなる。しかし、テレビの視聴ではなくても漢字の学習時間が短ければ、漢字能力が低くなる可能性もある。要するに、漢字の反復練習にかける時間の長短と漢字能力の関係として、この記事を理解する方がいいだろう。 この記事で、面白いのは低下するのが漢字の「読み書き」のうち「書き」の方だと言うことだ。私もパソコン(ワープロ)を多用するようになって、漢字の書き取り能力の低下を実感しているが、「読み」より「書き」の方がそれにかける時間が少なくなれば低下が著しいということだろう。 なお、引用記事の前半「八つ」「一つ」の間違いは、おそらくこどもたちを含めた社会生活の変化にその原因の一つがあるとも考えられる。機会があれば詳しい私見を述べたいが簡単に言えば、「1、2、3・・・」を「ひ、ふ、み・・・」と言う機会が「いち、に、さん・・・」と言う機会よりも少なくなってきている、と思えるからだ。「こどものあそび(遊び方)」は、次のページでいろいろ紹介しています。あそびセレクト
2007.05.14
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「教育再生会議」が打ち出した「親学」は、正式発表を待たずその先行きが怪しくなってきた。まずは、その様子をネットニュースから見てみる。【政府の教育再生会議は11日午前、首相官邸で合同分科会を開き、親に向けた子育て指針として同日にも発表予定だった「『親学(おやがく)』に関する緊急提言」について当面、発表を先送りすることを決めた。「親学」との表現を使わないことも確認した。今月末以降の第2次報告に反映させる方向で調整する。政府や与党内にある「国民への教育観の押し付け」「政策的な裏付けがない」などの反発や批判に配慮した。】(【】内は記事から一部引用、 Yahoo! ニュース/毎日新聞:2007年5月11日) 別の記事には【提言は、家庭教育の重要性を訴えるのが目的で、具体的には、「授乳中はテレビをつけない」「早寝・早起き・朝ごはんの習慣化」などを盛り込むことを検討していた。だが、政府内や委員から「母乳が出ない親への配慮が必要だ」「提言の政策的な裏付けがない」といった慎重論が出たため、提言の見送りを決めた。同会議は提言を見送るものの、5月末にまとめる第2次報告にはこうした項目の一部を盛り込む考えだ。】(【】内は記事から一部引用、Google ニュース/読売新聞:2007年5月11日) 「反発や批判」に配慮して「親学」との表現は使わないが、「第2次報告に反映させる」という事だが、これは「親学」の形を変えた継承となる。「親学」への「反発や批判」はその名称に集中したわけではなく、その内容に「反発や批判」が出たのであって、今回の決定は一時しのぎの感が否めない。 また、「項目の一部を盛り込む」とあるが、果たしてその価値がこの「親学」にあると思えない。よって、「親学」の正式発表がなくなっても、、「親学」の提言者は、自論として「親学」を提唱し、その普及にも努めておられるそうなので、このブログでの「親学」に対する私見は継続していくこととする。エッセイは、次のページでいろいろ掲載しています。遊邑エッセイ
2007.05.13
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「教育再生会議」での「親学」提言者は、授乳に特別のこだわりがあるのか、僅か11項目のポイントの中で3項目に「母乳」「授乳」の語句が見られる。その一つ提言の(6)では、「企業は授乳休憩で母親を守る」とある。それ自体は意義のあることだとは思うが、それが物理的に可能になるのは職場内に保育所・託児所がある場合か、職場のすぐ近くに住んでいる母親に限られるだろう。しかし、遠い将来はともかく、全ての働く母親の職場環境が、そうした授乳方法がとれるようにするにかなりの期間を要するのではないだろうか。 また、こうした提言の背景には、やはり「母乳」絶対視的な価値観があるようにも思われる。現実の社会では、働く母親の多くは、職場とは遠く離れた保育所などにこどもを預けている。そこでは、当然ながら搾乳した「母乳」ならある程度可能だが、多くはミルク授乳に頼らざるを得ない。しかし、その事がこどもの成長を大きく左右するものでも、母と子の絆を決定的に薄くするものでもない。 こどもたちの中には、両親がいなかったり、親から見捨てられたこどもたちも少なくはないが、母乳絶対視的価値観の押し付けは、こうしたこどもたちを「教育的ハンディを持ったこどもたち」と蔑視することにもつながる。また、「教育再生」のための改善すべき問題点として「母乳」にこだわると、本当の再生の道を見誤ることとなるだろう。エッセイは、次のページでいろいろ掲載しています。遊邑エッセイ
2007.05.12
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児童公園の昨今の様子を伝える記事。【児童公園の三種の神器と言えばブランコ、滑り台、砂場だった。子どもの遊具として、なくてはならない3つだった。 とりわけ、砂場はどんな遊具よりも子どもの想像力を刺激、公園にはつきものだった。それが最近では宮崎市でもそうだが、汚れる、猫がふんをして不潔などの理由で親たちから遊具として不適格のレッテルを張られ、新設の公園からはほとんど姿を消している。】(【】内は記事から一部引用、Google ニュース/宮崎日日新聞:2007年5月10日) この記事は、今過熱報道気味と思える東国原知事のいる宮崎の様子だが、大阪市内でも砂場の「汚さ」対策として、柵付の砂場が増えているが、そうした状況を通り越して砂場そのものが姿を消しているということだが、まったくおかしな世の中になったものだ。 とかく都会では、舗装につぐ舗装で、土や砂の地面が珍しいぐらいで、こどもたちが土や砂と戯れる場所が少ないのが現状だ。その貴重な場である砂場が姿を消すようでは、ますます土や砂と戯れる機会が減っていくだろう。 よく考えれば、人間様が町中を舗装しまくるので、猫や犬たちが用を足す場所が無くなったから、仕方なく砂場で用を足すのかも知れない。舗装を少なくすることが難しいなら、後は野良犬・野良猫をつくらない飼い主のモラルに頼らざるをえないだろう。「こどものあそび(遊び方)」は、次のページでいろいろ紹介しています。あそびセレクト
2007.05.11
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今回のエキスポランドの死傷事故に対しての国土交通大臣の談話に腹立たしい発言があった。まずは、以下にその談話が紹介されたテレビニュースのの一部を紹介する。【「探傷試験」を行っていなかったことがわかっていますが、この試験は建築基準法などの法令では義務づけられていませんでした。これについて、冬柴大臣は「不備とは思わないけれどわかりにくい。はっきりすることによって探傷試験をしていただくということになるだろうと思う」と述べ、探傷試験を法令で義務づけることを含めて、専門家で作る事故対策部会で検討し、検査の方法を見直す考えを示しました。】(【】内は記事から一部引用、NHKオンライン/NHKニュース:2007年5月8日) 腹立たしく思ったのは、談話の中の「不備とは思わないけれどわかりにくい。」と言う箇所だ。このことを理解するうえで別のネットニュース記事を紹介しておく。【ジェットコースターや観覧車など、テーマパークや遊園地にある遊具で、77~06年の約30年間に少なくとも132件の事故が起き、死者26人、負傷者255人が出ていることが、国土交通省の外郭団体の調査でわかった。】(【】内は記事から一部引用、Google ニュース/朝日新聞:2007年5月9日) この調査結果によると、遊園地の遊具での事故が決して少なくなく、しかも多数の死者が出ているということだが、こうした状況がありながら今回の事故に対する国土交通大臣の談話は、全くの無責任極まりない発言だと言わざるを得ない。 もし法令で義務付けられておれば、これまでの事故はもっと減っていただろうし、今回の事故は防げたかもしれない。だから、法令での義務付けが無かったのは、まさに法令の「不備」そのものだ。こうした「不備」が「不備」のまま残された事に対しては、これまでの国土交通省やそのトップの歴代大臣の責任は免れないだろう。 だから、現国土交通大臣にその責任を問うのは酷かもしれないが、「不備とは思わないけれどわかりにくい。」との発言をしてしまうようでは、これまでの歴代大臣と大差がないだろう。言い逃れのようなこうした発言をするより、率直に法令の不備を反省しその整備を約束するだけでよかったのだ。このような見識しか持ち得ない大臣に国土交通省を任せていいのだろうか。エッセイは、次のページでいろいろ掲載しています。遊邑エッセイ
2007.05.10
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「親学」提言のポイントには「子守唄を聞かせ」とあるが、はたして今の親たちは子守唄を歌って聴かせてやらないのか若干の疑問がある。毎日欠かさず子守唄を聞かせてはいる親は少ないかもしれないが、一度も子守唄を聞かせてやっていない親も少ない。今の親たちが歌っている「子守唄」は、提言者が期待しているかもしれない、日本古来の子守唄ではなくとも、親自身のお気に入りのそれでいて子守唄代わりになる素敵な歌を聴かせてやっているかもしれない。 考えれば、親に子守唄を歌ってもらったてはいても、その記憶のある子は稀だろう。私も、歳の離れた弟がいるので、その弟のために母親が子守唄を歌っていた記憶はあるので、私自身もそうだったのだろうと思うだけで、自分自身のそれは記憶に無いのだ。少子化の今、そうした弟や妹が子守唄を歌ってもらっていることを見聞きするこどもたちも少ない。だから、こどもたちに「子守唄を歌ってもらったことがあるか」と聞いても、「無い」と答えることが多いかもしれない。 また、すでにそうした実際に子守唄を聴かせてやっている情景を見聞きしていない親たちも増えてきているが、そのこととそんな親たちが我が子に「子守唄を聞かせ」ていないかといえば、必ずしもそうではないだろう。「子守唄」を知っている親なら、きっと優しく歌ってあげることだろう。たとえ、その回数が「親学」提言者のお気にいらなくても、それはそれなりの事情があり、それを察してはじめて良い助言ができるのではないだろうか。 ここであらためて強調しておきたいのは、提言者はあまりにも一つの価値観を押し付けるきらいがある。その一つが「子守唄」なのだが、自分の意思とは全く無縁に、声を出したくても出せない親たちも多い。もちろん、どんなに願っても「子守唄」を歌ってはやれないが、こどもの背中をリズムを取って「トントン」と優しく叩きながら、我が子が健やかな眠りに入るのを暖かいまなざしで見やる素晴らしい親たちがいる。そのことを忘れてはいけないだろう。 時には、「子守唄」も「母乳」もともに、心ならずも不可能な状況にある親もいるだろう。しかし、そのことが決してこどもたちの思わしくない成長や不幸な将来を意味するものでないのも、また厳然たる事実だ。もし提言者が、こどもへの限りない愛の象徴やスキンシップのシンボルとして「子守唄」と「母乳」を例示したのなら、その例示ですらこのようなダブルでハンディを背負っていただいている親たちとそのこどもたちへの限りない侮辱となるだろう。エッセイは、次のページでいろいろ掲載しています。遊邑エッセイ
2007.05.09
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世の流れは当然ながらこどもたちのあそびの姿を変えていく。あそび場も例に漏れず、新たなブームとなるような変化も起きているようだ。【「怖い」「汚い」と児童公園が敬遠されるのを横目に、遊具をそのまま屋内に移したような遊技場が人気を集めている。財政難や人手不足で行政の公園管理が追いつかない中、わが子を犯罪から守ると同時に、親が安心してくつろげる癒やし効果もあるようだ。「安全」を買う時代、青空が見えない空間は、子どもの健全な発育に役立つのだろうか。】(【】内は記事から一部引用、Google ニュース/朝日新聞:2007年5月4日) こうした室内あそび場と定義されるもののほとんどは、有料施設となっており、日々の恒常的なあそび場として利用できるこどもたちはごく少数となるだろう。そして、そのようなあそび場は必ずしも「子どもの健全な発育に役立つ」とはいえないだろう。 こどもたちが抗菌・滅菌された環境に慣れることは、今までのごくありふれた環境が相対的に「汚い」環境へと変貌し、普通の環境で感染したりもする「怖い」日常が訪れ、こどもたちはひ弱な人間として成長する事になるかも知れない。こうした危惧が危惧だけで終わって欲しいものだ。「こどものあそび(遊び方)」は、次のページでいろいろ紹介しています。あそびセレクト
2007.05.08
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あの痛ましいジェットコースター事故から日がたつにつれ、運営会社のとんでもないずさんな管理体制が明らかになりつつある。【大阪府吹田市の遊園地「エキスポランド」でジェットコースターが脱線して乗客1人が死亡、19人が重軽傷を負った事故で、事故車両「風神雷神2」の車輪の車軸の金属疲労についての検査が、92年3月の運行開始以来、1度も行われていないことが分かった。】(【】内は記事から一部引用、Google ニュース/日刊スポーツ:2007年5月7日)【事故車と同じメーカー製の立ち乗り型コースターを設置する全国5か所の遊園地のうち、一度も車軸を交換していなかったのはエキスポランドだけだったことがわかった。】(【】内は記事から一部引用、Google ニュース/読売新聞:2007年5月7日) こうしたジェットコースターの車軸や車輪などは、長年の使用による金属疲労は基本的には避けられない。だから、定期的に金属疲労検査や車軸・車輪の交換が必要なのだ。報道の通りだと、今回の事故は、その基本中の基本が全く行われていなかった事になり、運営会社の責任は免れないだろう。 そして、こうしたズサンな遊具管理体制が許されるような現在の法的体制の問題も問われることになる。最近の遊園地などにおける、ジェットコースターなど高速走行遊具は、日々より高速により変則な走行をするようになってきている。その分、遊具の車軸・車輪などの部品は過酷な状況に晒され、当然ながら金属疲労のリスクが増大していく。 今回の事故も、そうした遊具の変化に法的な体制が追いついていない状況下で起きたものと思われるので、早急の鉄道営業法などに準じた、高速走行遊具独自の法的整備が必要だろう。また、新たな法律が制定されるまでは、政府通達・政令などで対応すべきだろう。 なお、その後のニュース等によると、現在ある法律や基準として、「建築基準法」や「JIS規格」に明記されているものの、現在の「絶叫マシン」などに対応していなかったり、その営業上・運行上の基準とは言い切れず、やはり新たな法整備が望まれるだろう。「こどものあそび(遊び方)」は、次のページでいろいろ紹介しています。あそびセレクト
2007.05.08
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「教育再生会議」が緊急提言した「親学」のポイントには、全体として良い印象を感じなかったが、その「提言」の個々の内容にも、幾つかの問題点も見受けられたので、典型的なものについてその詳細を見ていくこととする。 「親学」提言の発表以降、批判が出ているのが、提言の(1)にある「子守歌を聞かせ、母乳で育児」の「母乳で育児」ということで、それに対して、「母乳の出ない母親を追い詰める」との専門家の指摘もある。(毎日新聞、2007年4月26日)確かに、その指摘も当然のことだが、「親学」提言者の「母乳によらない育児」に対する偏見とも思える考え方(思想)に問題を感じる。 望もうと望まないにも拘らず何らかの事情で、母乳でなく粉ミルクを与えなければならない時も、決して少なくはない。そんな時に、母親、時には父親や他の保護者が、どれほどの愛おしさを持ってこどもたちに授乳しているのか、果たして「親学」提言者は考えてみたことがあるのだろうか。 どんな真夜中でも、どんなに疲れていようとも、湯を沸かし哺乳瓶を消毒し、そしてミルクを適温にし、優しくこどもを我が胸に抱いて、子の健やかな成長を願いつつ授乳する。この行為のどこが「母乳による授乳」に劣っているというのだろうか。提言のような「母乳」絶対視は、こうしたある意味では人間らしい営みを行う、多くの親たちや保育士などを卑下することと大差は無いだろう。 そして、忘れてはならないのは、こどもたちの成長と将来は、決して「母乳」か否かで決定されないことは、例をあげるまでもない歴然とした事実なのだ。真夜中にミルクをつくる親心に共感できないものに、果たして「親学」を提言する資格があるのだろうか。親たちに提言する前に、まずは、ミルクで子育てをした多くの親たちから、まっさらな気持ちになって自らが学ぶことから始めるべきだろう。エッセイは、次のページでいろいろ掲載しています。遊邑エッセイ
2007.05.07
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「こどもの日」の昨日、そのこどもたちが最も楽しいひと時を過ごす遊園地で、痛ましい事故が起こってしまった。テレビなどのニュース報道によると、【5日午後零時50分ごろ、大阪府吹田市千里万博公園、万国博記念公園内にある遊園地「エキスポランド」で、走行中のジェットコースターが手すりに衝突し、乗っていた女性1人が死亡、男女21人がけがを負った。】(【】内は記事から一部引用、Google ニュース/日本経済新聞:2007年5月5日)ということだが、亡くなられた方のご冥福と負傷された皆さんのご回復を心からのお祈りを申し上げる。 その後の、テレビ報道などを総合すると、ジェットコースターの車軸が折れた事による事故らしいが、その車軸などの日々の点検は「目視」だけで、解体しての詳細な点検は昨年1月に実施されて以後ほぼ1年以上も経過しているとの事だ。まず、高速走行する遊具の点検状態がこうした現状にあることに大きな驚きを感じざるを得ない。 日々、大量の乗客を乗せる鉄道などの車両の点検は、目視だけでなく車輪や車軸をハンマーなどで叩いて点検したり、ジェットコースターも乗客を乗せる高速走行車両に変わりがないので、例え遊園地の乗り物ではあっても鉄道車両のような点検をして当然だろう。 そうした点検の法的な義務付けが無かったとしても、このようなジェットコースターの運行会社には欠かせない点検だと思うが、もしそうした点検義務が法的に整備されていないなら、早急にその整備が必要だろう。また、このようなずさんとも言える点検が、他の施設でも行われている可能性もあるので、同種の立ち席ジェットコースターだけでなく、少なくとも高速走行する全ての遊具の再点検が必要だろう。「こどものあそび(遊び方)」は、次のページでいろいろ紹介しています。あそびセレクト
2007.05.06
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今や、ゲームといえば、テレビゲーム・携帯ゲーム・パソコンゲームなどのいわゆる「コンピューターゲーム」を指すようになってきているが、その「ゲーム」への依存症が懸念されている。記事は、お隣の韓国での話しだが、日本とさほど変わらないだろう。【病院専門コンサルティング会社が4日、ソウル市内の病院と睡眠センターの依頼で先月23~30日、ソウルと京畿地域に居住する小学校3年生以上の児童996人を対象に調査した結果を明らかにした。それによると、1日に1時間以上ゲームをすると答えた児童は、対象児童の68%に当たる677人に達した。(中略)調査を依頼した病院は、成長期の子どもが長時間ゲームを行うことで身体に及ぼす影響などに対する懸念を示している。専門家らはゲームによる睡眠障害を防ぐため、依存しやすいゲームの使用を制限する、ゲーム依存症と思われる場合は治療を受ける、寝室とゲームやコンピューターの使用場所を分ける、就寝前の3~4時間はコンピューターやテレビの使用を避ける、などを呼びかけている。】(【】内は記事から一部引用、Google ニュース/YonhapNews World Service:2007年5月4日) 記事には、肩や手首に痛みなどの身体症状や「悪夢でよく目覚める」などの睡眠障害の事例も掲載されていたが、ざっとした印象では韓国の方が日本よりも、こどもたちの「ゲーム依存症」は深刻なようだ。韓国は、就学前から大学までの受験競争が日本よりも過熱気味だとの報道もあるようだが、その事が「ゲーム依存症」の遠因のひとつになっているかも知れない。そのあたりの事情は、程度の差はあれ日本のこどもたちの置かれている状況と変わりはないだろう。 このように、こどもたちがたとえその一部にしろ深刻な「ゲーム依存症」に陥るほどの状況にまでなっているが、そのことを単にこどもたちや、こどもたちにゲームをさせる親たちの自覚だけの問題にしてはならないだろう。そして、その改善をゲーム関連産業のあり方も含めて、社会的な課題として、取り組まなければならない時期に来ているように思う。「こどものあそび(遊び方)」は、次のページでいろいろ紹介しています。あそびセレクト
2007.05.05
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今、文部科学省をはじめとする政府自らの反省をおろそかにして、教育を見直すために召集された「教育再生会議」は、現在のところ残念ながら、教育の再生どころか教育の再破壊さえ起こしかねない議論も起こっているように思われる。そこで、一凡人の拙い私見ではあるが、「教育再生会議」への思いを綴っていく。なお、論点の推移は「教育再生会議」の実際の進行経過とは関係なく進めていくこととする。 まずは、ごく最近話題となった「親学」についてみていく。参考のため以下にネットニュース記事を紹介しておく。【政府の教育再生会議は25日、親に向けた子育て指針である「『親学(おやがく)』に関する緊急提言」の概要をまとめた。(中略)政府の有識者会議が家庭生活のマニュアルを示し提言をすることには会議内にも慎重論があるだけに、世論の評価は分かれそうだ。(中略) ◇「親学」提言のポイント(1)子守歌を聞かせ、母乳で育児(2)授乳中はテレビをつけない。5歳から子どもにテレビ、ビデオを長時間見せない(3)早寝早起き朝ごはんの励行(4)PTAに父親も参加。子どもと対話し教科書にも目を通す(5)インターネットや携帯電話で有害サイトへの接続を制限する「フィルタリング」の実施(6)企業は授乳休憩で母親を守る(7)親子でテレビではなく演劇などの芸術を鑑賞(8)乳幼児健診などに合わせて自治体が「親学」講座を実施(9)遊び場確保に道路を一時開放(10)幼児段階であいさつなど基本の徳目、思春期前までに社会性を持つ徳目を習得させる(11)思春期からは自尊心が低下しないよう努める】(以上【】内は記事から一部引用、MSN ニュース/毎日新聞:2007年4月26日) 正式発表の前に報道された概要だが、「親学」提言のポイントの個々の内容は、その是非はともかく目新しいものは全く無いに等しい。世間の親たちは、それぞれの状況によりその該当する項目の数は違っても、それらを自らが一定程度認識している内容でもある。 肝心なのは、こうした項目が「教育の再生」に必要なら、親たちにこうした項目を達成できなくさせている原因を解明し、その原因を取り除く手だてを親たちだけに押し付けずに、政府自らも努力すべきだろう。また、提言項目の中には、(6)や(9)などのように親一個人では達成不可能な項目を典型として、親たちよりも政府や自治体あるいは企業などが、努めなければならない項目も見受けられる。 次に、提言の文章からの印象として、提言そのものの文章ではないからかも知れないが、「お上から命令されている」ような印象になっているのは、あまり感心できない。例えば、その是非はともかく、「テレビをつけない」は「テレビをつけないようにしましょう」と変えれば受け止める印象は変わってくる。正式文章の公表のときは、そうしていただきたい。 ただ、「テレビ、ビデオを長時間見せない」などは、親の対峙するこどもたちにとっては「禁止・命令」となるので、教育や子育てにおいて「命令・禁止」が逆効果になることも大いにあり得ることは、その実践上では考慮すべきだろう。 以上、「親学」提言のポイントの全体からから受ける印象として、親や、この提言の実質的実践的対象者としてのこどもたちの、現在のありのままの実態をもう少し正確に把握することが、提言者自身や政府・文部科学省に望まれる。 さらに詳しくは後に述べるが、率直に言えば、「親学」の前に政府・自治体自らが学びなおす「官学」もしくは「政(まつりごと)学」こそ緊急に取り組まなければならないのではないだろうか。(その2に続く)エッセイは、次のページでいろいろ掲載しています。遊邑エッセイ
2007.05.04
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歳の違ったこどもたちが一緒にあそぶ、「異年齢のあそび」を考える上でのヒントにもなる記事があった。【3年生が、放課後の体育館使用時間を「学年別はやめて自由にして」と発案した。議論の末、「フリー使用」の時間が設けられたが、その結果、学年を超えた遊びをするようになったという。】(【】内は記事から一部引用、Google ニュース/京都新聞:2007年5月3日) 学校でのあそび時間は、授業と授業の間の時間やお昼休みがあるので、「学年を超えた遊び」は、それまでに行われていてもいいはずだが、放課後の体育館でのあそびで「学年を超えた遊びをするようになった」ことをこの記事は物語っている。この事から推測できるのは、「異年齢のあそび」が成立するには、当然のことではあるが、同じ空間に異年齢のこどもたちがおり、年齢の違ったこどもたちがお互いにその「あそぶ」姿が見通せることが必要であることが推測できる。 次に、大事なのが、ある程度まとまった時間が必要だということだ。休み時間などの細切れの時間では、異年齢のあそびの最初の段階を超えることが難しいのだろう。特に、それまで異年齢のあそびを経験していない集団では、一回のあそび時間だけでなく、その繰り返しが可能な期間も必要だろう。 その点では、高学年も在籍する学童保育などの取り組みは、異年齢のあそびにとっての好条件となるだろう。昔にはどこにもあった、地域での異年齢集団が貧弱になった今、この記事のような取り組みは大きな意義をもつだろう。「こどものあそび(遊び方)」は、次のページでいろいろ紹介しています。あそびセレクト
2007.05.03
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こどもたちのあそび事情を知る記事の一節をまず見ていただく。【県教育委員会は27日、県内小中高の児童生徒の生活調査の結果を発表した。平日に家庭で勉強する時間は、高校生の61・9%が「ほとんどない」と回答。学習塾や通信教育などでの勉強も86・7%が「してない」とした。放課後は「友達と遊ぶ」が45・6%で最も多く。(中略)平日の家庭学習は小学生は「1時間くらい」が40・7%と最も多く、中学生は「1時間未満」が32・4%で最も多かった。放課後は小学生の52・8%が「友達と遊ぶ」、44・8%が「勉強をする」で、「家でのんびりする」は16・7%。中学生は「部活動」が68・2%で最多だった。】(【】内は記事から一部引用、Google ニュース/琉球新報:2007年4月27日) この記事で注目したのは、放課後の過ごし方として「友達と遊ぶ」に対する答えの、高校生「45.6%」と小学生「52.8%」という結果だ。この両者の数字をどう見るかだが、結果数字をよく見てみると、おそらくこれは答えに重複を許す設問形式と考えられるので、その点に留意しながら、私見を書いてみる。 放課後に「友達と遊ぶ」事が高校生より小学生が多いのは当たり前かもしれないが、私の自らのそれぞれの年代をふりかえってみると、違いがあるように思われる。その第一点が、小学生の放課後に「友達と遊ぶ」割合(数字)が低すぎるように思う。私の時代(1950年代)なら100%に近い数字だったように思われる。もちろん、当時から珠算塾などに通う子どもたちもいたが、設問の答えに重複が許されているので、そんなこどもたちも「友達と遊ぶ」を選んだはずだ。 次に、同じ設問に高校生が、放課後に「友達と遊ぶ」が「45.6%」で「最も多く」にも、私の高校時代とのズレを感じる。おそらく、団塊の世代の高校時代はおそらく「部活動」か「勉強」がトップになるのではないだろか。ただ、今の時代は、高校進学率が100%に近いので、「45.6%で最も多く」は昔に比べ高くなったとも言えないので、「高校生が勉強をしなくなった。」とは言えないだろう。 もちろん、当時(1950年代)は、中卒で働く青年も多かったので、高校生と同じ年代の青年ということでみれば、今の時代はや「遊び」の比重が大きくなったといえるかも知れない。要は、こどもたちは昔とは違って、早い時期から「勉強」の比重が大きくなる一方で、10代半ばを過ぎてから「遊び」の比重が増えるといった「一種の逆転状態にある」かのようでもある。「こどものあそび(遊び方)」は、次のページでいろいろ紹介しています。あそびセレクト
2007.05.02
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こどもたちの発想のユニークさを物語る記事。【「おっぱい公園」として、子どもたちに親しまれている山梨県中央市大鳥居の「豊富シルクの里公園」にある呼び物のドーム形遊具が、破裂したまま遊べない状態が続いている。(中略)破損したドーム形遊具は「まゆの丘」。地元伝統の養蚕をイメージした形だが、直径12メートルの二つの白色の隆起が女性の胸のように見えるため、「おっぱい公園」の愛称で知られている。】(【】内は記事から一部引用、Google ニュース/朝日新聞:2007年4月28日) 当然ながら、公園には様々な名前が付けられている。その多くはお役所が名前を付けるので、「○○○北公園」や「△△中央公園」などと堅苦しい名前になっているところが多い。最近ではボツボツ「ドングリ公園」などの公園名も増えてきているが、少なくとも大阪市内では未だ少数派だ。 そうした公的な名称が付いた公園ですら、こどもたちはお得意の素晴らしい発想で名前を付けることが多い。この記事の他、例えば「フライパン公園」、「三角公園」、ユニークなところでは「幽霊公園」などなど、おとなにはとても思いつかないような名前まである。 そうしたこどもたちが命名した公園名は、その地域で使われる呼び名ともなり、長い時間が経過すれば、おとなでさえ本当の名前が何であったか忘れてしまうことも多い。それなら、いっそ愛称を正式名称にすればいいのだが、そうした心意気のあるお役所は私はまだ知らない。 ただ、同じ公園に違った愛称が付いている場合もあるので、その全てで名称変更は難しいかも知れないが、やはり公園名には「おっぱい公園」「フライパン公園」などがお似合いで、公園自身もきっとそう呼んで欲しいと思うのだが。「こどものあそび(遊び方)」は、次のページでいろいろ紹介しています。あそびセレクト
2007.05.01
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