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人生何度目かの『DRAGON BALL』原作漫画再読をした。ふと頭を空っぽにしたい時に読みたくなる。というか空っぽのままでも楽しく読める名作だと思う。『DRAGON BALL』の考察やありきたりな感想は他の人が書いているだろうから、僕は別のことを書こうと思う。 まず、今回の通読で気づいた作者のミスについて。通読する度に新しいミスや矛盾点を見つけるし、創作物とはそういうものなので、それ自体は悪いことではないと思うのですが、気になったので書いておく。ミスというより、ちょっと「ん?」と思った点だけれど。1.天下一武道会でのジャッキー・チュンの対戦相手について 序盤の方の天下一武道会で、亀仙人扮するジャッキー・チュン選手が男狼(おとこおおかみ)という選手と対戦する。狼の姿から戻れなくなった狼男のようなキャラクターで、ジャッキー・チュンが催眠術で人間に戻るエピソード。実はこの回の予選のシーンでジャッキー・チュンは狼男のようなキャラクターと戦っているのである。狼か熊のような顔をしたキャラクターを倒している。動物の姿をした人物はこの世界では多く存在していて(世界の国王も動物)、狼人間が何人も参加していても別に問題でも矛盾でもないのだが。作者が敢えてここで続けて狼人間を出してジャッキー・チュンと戦わせる意味はないし、読者としては分かりにくい。ミスとはまでは思わないけれど、行き当たりばったりで書いている感じが出ている。2.ビーデルは悟飯の父親は失踪していたと思っていなかったか魔人ブウ編のビーデルに対して、悟飯は最初、父(孫悟空)は死んでいると説明している。その後、悟天(悟飯の弟)が天下一武道会の日に父が戻ってくることを口を滑らせてしまったシーンで「分かった。あなたのお父さんは昔、家を出て行ってしまったんでしょ?」とビーデルは言ってそれで納得している。そのあと、ビーデルと孫悟空が会った時に「え? あなたのお父さんは亡くなっているんじゃなかったの?」と言い、先ほどの会話がなかったことになっている。以上2点が今回の通読で新しく気づいたことでした。 あと、今回読み直して思ったことは「ベジータが求めていた強さの答を、悟空は亀仙人に教えてもらっている」ということ。そこがグッとくる。ベジータは最終巻で、自分が悟空の強さを超えられないのはこういう理由なのではないかということを発言している。何を目的に強さを求めるのか、何のために戦うのかという問題について、ベジータなりの答を出している。では何故、才能が格段に劣っているはずの悟空はその強さの答に到達できたのか。それは原作の第3巻、亀仙人の修業が始まった時に教えられているのである。武道を何のために学ぶのか。亀仙人は「心身共に健康になり、それによって生まれた余裕で人生をおもしろおかしく張り切って過ごす」ためと悟空に教えている。「一生懸命修業して人生を楽しく暮らしちゃおうということだ」という亀仙人の言葉に悟空は「なーんだそうか! わかったわかった」と答えている。ベジータは敵に勝つため、他を支配するため、という外的理由で戦い、悟空は自分を高めるため、自分の人生を楽しいものにするためという内的理由で戦っている。素直な悟空らしく、作品を通してそこがぶれていない。悟空は本来、命のやり取りをするような戦いではなく、スポーツのような武道を求めていた節がある。だから殺すことを目標としていない。ピッコロ大魔王編以降、命のやり取りが始まってしまい、その中で何とかやりがいを見つけて戦っていたのだが、セルゲーム終盤ではもう武道というより害獣駆除のような戦いになり、明らかにセル戦はやる気を失っていたように思える。自分とセルの強さの差、セルと悟飯の強さの差が歴然としていたことから、戦うことに興味を失ってしまった。悟空の作中最大の失敗と言われているセルゲームについて、その視点で見ると思うところがある。だから、原作の最後のウーブとの戦いでスポーツのような武道を取り戻したことで物語は完結できたのではないだろうか。それこそが、悟空が望んだ幸せであり、求め続けてきたものだからである。思えば、本作は悟空と悟飯の分かり合えない親子の物語のようにも思える。武道を通して己の人間性を高め、幸せを獲得しようという考えの悟空に対して、息子悟飯はそもそも戦うことに何の興味もない。魔人ブウ編を見ると、正義の行使や人助けには興味があるようだが、悟空やベジータに比べるとそれは動機付けとして非常に弱いものなのかもしれない。また、妻のチチが悟飯の武道を禁止したこともあり、そういう意味でも悟飯は悟空の弟子ではない。悟飯はピッコロの弟子なのである。では悟空の弟子は誰か、ウーブこそが最初で最後の直弟子なのである。悟空はピッコロに、厳しさが全くなく教える者としては全然ダメだと言われているけれど、そもそも亀仙人は修業内容は厳しく、理念は自由な考え方だった。己を磨くことを楽しむという理念は、亀仙人から悟空が受け継ぎ、ウーブへと教えられたように思える。そういう風に読んでいくと、悟空の孤高で孤独な武道家としての顔が見えてくる。「強い奴と戦えると思うとワクワクする」という言葉に読者は騙されている。その言葉に嘘はないだろうけれど、別に殺し合いがしたいわけではない。悟空は戦闘狂ではない説を僕はとっている。優しくお人よしだから、平和のために命をかけて戦う悟空。世界と人命をかけた負けられない戦いが多いけれど、本当にしたかったのは、ピッコロやベジータやフリーザを生かそうとすることで後々スポーツのような戦いをしたいと望んだのだと思う。
2021.11.27
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今回は「創作物のタイトルについて」お話をしてみようかなと思います。僕も一応創作を趣味にしています(いました?)ので、作品のタイトルに関しては一家言あるのです。先日、カッパ永久寺さんという、僕のフリーゲーム製作における大先輩がTwitterで自作のタイトルの意味や傾向についてTweetされていました。そこで、僕も自分が過去に発表した作品のタイトルについて思うことや、タイトルを付ける時に考えることについて書こうと思います。まず、僕のフリーゲーム作品のタイトルをいくつか、意味というか命名の思いを紹介してみます。ところどころネタバレになってしまうかもしれません。 * * * 1『ドキッ! 女だらけの雪山殺人事件』安っぽい昔の番組のパロディですが、これだけで明るいコメディのよう印象を与えられますね。誰も僕の作品を知らない状態の、第4回ウディコンに出展した作品です。僕がどういう作品を作る作者なのか誰も知らないわけで、当時あまり本格志向の推理作品がなかったので、「ギャグ作品と見せかけて本格志向の作品を出してやれ」と思ってこのタイトルをつけました。そして、プレイされれば分かると思いますが、タイトルがミスリードになっています。今思うと稚拙な作品で、今の僕が思う本格志向とは程遠いと思います。 2『死妖花』第5回ウディコン出展作品です。とにかく、コンシューマゲーム『弟切草』に似た、その上で自分らしい作品を目指して作った作品です。『弟切草』が大好きで、小説とゲームはもちろん、作者長坂秀佳の作品はほとんど読んでいるほどのファンなのです。だからこそ、植物の名前をタイトルにしようと思いました。作成段階では『紫陽花』というタイトルでしたが、「ホラーゲームだ」とミスリードさせたかったので、おどろおどろしい印象を持たせるために『死妖花』という漢字を使いました。僕の作品だと思いながらやるので推理ゲームのように見えますが、予備知識なしで始めれば、プレイヤーによっては最後までホラーゲームであると誤認したまま進むというのを狙っていました。本作を紹介してくれる人の中には当時「ホラーゲーム」と紹介してくれている人がいましたが、僕は自分でこの作品を紹介する際は絶対に「ホラーゲーム」という記載はしないように気をつけていました。今も自分のサイトでは「アドベンチャーゲーム」と記載しています。ちなみに紫陽花は「あじさい」とも「しようか」とも読むらしいです。 3『不浄なる密室』赤松弥太郎氏が企画した「うんこゲー祭」に出展した作品です。ノリで作った作品なので、あまり覚えていませんが、密室モノを作ろうと思って作りました。当たり前ですが、人は死なないので「密室殺人」とはつけていません。扱う内容は下らないけれど、推理部分は堅実に作ろうと思った作品で、その落差が笑いになると確信していました。「推理モノとして、ちょっとカッコいいタイトルを」と思ってこのタイトルをつけました。 4『もしも・・・幽霊屋敷に泥棒が入ったら・・・』第5回ウディフェス参加作品です。これは「ギャグとホラーは紙一重」というのは本当なのか、自分で実践してみようと思って作った作品で、何も考えずに話を考えながら作った作品です。ドリフターズのコントをゲームにしたようなものを目指して、タイトルも「もしもシリーズ」から取っています。そのため、「・・・」がタイトルに入っています。僕はゲーム作中の文章も小説の文章のルールに従って書いていますので、余韻を表すリーダは2倍リーダ「……」を使って書いています。全作品中このタイトルにだけ「・・・」を使っています。それは自分のルールよりも、ドリフターズのパロディを優先させたからです。 5『神林家殺人事件』第7回ウディコン出展作品です。もう習作ではなくて本気の、自分のこれまでの全てを作品にぶつけたいという思いで作った作品で、「本格ミステリィゲーム」と堂々と宣言するに耐え得る内容であると自負できた作品です。だから直球の「○○家殺人事件」という誰がどうみても本格推理だと思うような正統なタイトルをつけることができたのです。この作品を逃したら、もうこのような王道のタイトルはつけられないと思って、このように命名しました。何故「神林」という苗字にしたかについては、ネタバレですが、「新潟県に多い苗字」あるいは「新潟県をルーツとする苗字」の一覧から探し、最も神秘的で作品の雰囲気に合うものを探して「神林」とつけました。 6『祭囃子が鳴り止むまで』第6回ウディフェス参加作品です。これはフィーリングで、風流なタイトルをつけようと思ってつけました。タイトルを見ただけで切ない作品だと分かるような、良いタイトルなんじゃないかなと自画自賛しています。個人的にこの作品、好きなんです。第6回で当時最終回を迎えたウディフェス(その後復活したらしいですね)の最後に相応しい作品を出展しようと思って考えた作品です。だからこの「祭囃子」はウディフェスにもかかっているんです。「終わってしまう祭」の物語なんです。 7『何も事件は起こらなかった』第12回ふりーむ!ゲームコンテスト出展作品です。「ホラーなのに何も事件が起こらないわけないだろ」と思ってプレイしてもらえたら良いなというタイトルです。作中のおまけでいろいろ書いているのでここでは詳細は書きません。いくつかの候補の中からこのタイトルにしたことで、最後のシーンが映えたかなと思います。ちゃんとタイトルが納得がいくもので、タイトル回収シーンを多くの人が褒めてくれました。実は2週間くらいで作った作品なのであまり思い入れは深くないのですが、有名実況者の方々がプレイしてくださったらしく、僕の作品の中では不思議とこの作品が人気なんですよね。 8『鵺の子』ふりーむ!ゲーム開発企画「千文字喫茶」参加作品です。企画の性質上、タイトルもなるべく少ない文字数で作りたかったのです。2文字では良いタイトルが思い浮かばず、3文字になりました。スタジオジブリじゃないですけど、「の」を入れるだけでただの単語よりもタイトルが良い感じになるんですよ。 9『神童ノ哥』第13回ふりーむ!ゲームコンテスト出展作品です。これはもうタイトルありきの作品でした。話を作るかなり初期の段階、ほぼ最初にタイトルを決めてそこから全てを考えていくという方法で出来た作品です。昔小説を書いていたこともありますが、たいていタイトルから話を作ると、僕は完成させることができないのです。それはゲーム製作も同じで、ほぼ唯一この作品だけが、タイトルを一番先に考えて完成させることが出来た作品です。作中で明確に回答を示していませんが、このタイトルこそがこの作品の最大の仕掛けであるので、ここでは意味を説明しません。もうこの作品にはこのタイトルしかあり得ない。そんな、僕の中では100点満点のタイトルなのです。神は「神(U+795e)」ではなく「神(U+fa19)」です。これはTwitter等の媒体によっては「神(U+795e)」しか表示されないので困りました。登場人物の名前も、人間関係の設定も、展開も何もかも、このタイトルから導き出されました。「哥」が入るので『哥欲祟』パロディがベースとなり、それを覆うようにフリーホラーゲームパロディ満載の作品になりました。極端な見方をすれば、『哥欲祟』パロディに始まるフリーホラゲのパロディは全て、「哥」の文字の真意を隠すためのミスリードとも言えます。また、晦渋な漢字や言葉を多用する作風も「神」や「哥」という「普通では使わない文字をタイトルに使う真意」を隠すためのミスリードです。 10『あの日あの夏あの祠』ふりーむ!ゲーム開発企画「カイダン夏祭り」「ワンマップフェス3」参加作品です。これもフィーリングです。昔を懐かしむ系の切ない作品にはこれかなと思っての命名です。漫画『ドラえもん』の感動的な一編『あの日あの時あのダルマ』から取っています。『あの日見た花の名前を僕たちはまだ知らない。』という有名な作品もありますので、「あの日」とついているだけでもう切ないイメージがあるかなと思います。 11『左眼ジャック事件』第12回ウディコン出展作品です。これは「左眼」も「ジャック」もミスリードと言えばミスリードです。何で『左眼ジャック』だけではなく「事件」をつけたのかは語呂の問題もありましたが、「シリアスな話だよ」という僕なりのサインです。ただ、推理モノだとは思われたくないので紹介文に「推理モノではありません」と書かせていただきました。いつになるか分かりません(完成しないかもしれません)が、現在構想中の作品が2つありまして、どちらも『○○○○事件』という作品にしようと思っていましたので、それに合わせる形でこの作品のタイトルにも「事件」をつけました。 * * * 以上、鳥籠名義で発表した11作品のタイトルについて解説しました。推理寄りの作品を作るならば、作品の仕掛けに密接に関わってくるタイトルをつけたいです。タイトルがミスリードになっている作品がちらほらあるのは、新本格派の影響です。「タイトルをつける能力」と「物語を作る能力」は全く違うのだそうです。タイトルにばかり凝ると作品がおろそかになる、というような趣旨のことを言っていた小説家がいました。これはそうかもしれないと思いますが、タイトルは作品の一部であり、作品の要請でタイトルが決まる場合もあると思います。最初に目に触れる作品の一部なので、第一印象を与えるということで、かなり重要なものだと考えられます。『神童ノ哥』の項でも書きましたが、タイトルから作り始めると僕は必ず失敗するのです。『神童ノ哥』が完成したのは時間をかけたからです。あの作品は2年間作り続けた、僕の作品の中で最長の製作期間の作品なのです。もう2度とあのような作り方はしたくありませんし、できないです。ある程度、話の内容が固まったらタイトルをつけるのが僕のやり方です。有名な小説家などのインタビューを見ていると、タイトルからつけるという人が結構いるみたいですが、僕には真似できないなぁと思います。 タイトルの傾向ですが、まず単語や一般名詞はつけないようにしています。理由は検索できないからです。タイトルを見聞きしてダンロードしようとしてくれた人がいたとして、検索しても作品が出てこないようでは困ります。そのため、タイトルで検索すれば他の検索候補に埋もれないタイトルをつけようと思っています。口頭で言いやすく、長すぎず短すぎず、間違えにくいタイトルをつけたいと思っています。だから、英語のタイトルはつけたことがありません。ほとんどカタカナ語も使わないようにしていました。英語のタイトルはカッコいいですが検索しづらいですし、覚えづらい上に書きづらいです。何より、作者の母語が日本語であり、受け手の大半が日本語を母語とする人だからです。意味の不足なくニュアンスを伝えるためにも日本語のタイトルを創作作品にはつけたいと思っています。昔、小説を書いていた時は英語でサブタイトルをつけたことはあります。ライトノベルのような長いタイトルはつけたことがありませんが、いつかつけてみたいとは思います。逆に、短くても『死妖花』のような造語タイトルも魅力的だなと思います。作品の内容に興味を持ってもらえるタイトル。作品を遊び終わってタイトルの真意が分かるような、あるいは納得してもらえるようなタイトル。本質的なんだけれど、ミスリードにもなっているようなタイトルが僕にとっては理想です。確かにそういう意味では『何も事件は起こらなかった』は優秀なタイトルだったかなと思います。 タイトルをつけることは頭を悩ませる行為ではありますが、創作の楽しみの1つです。名付ける行為はそれだけ思い入れがなければできません。それはキャラクターも同じで、思い入れのあるキャラクターには凝った名前を付けるというのは非常に共感できます。ついつい「そんな名前の奴は現実にはいないだろ」という名前を付けがちな人が多いですが、気持ちは分からないでもないです。逆に思い入れのないキャラクターの名前は適当につけます。作品のタイトルも同じで頭を悩ませるのは、それだけその作品自体に思い入れがあるからだと思います。
2021.11.16
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漫画やアニメのキャラクターのキメ台詞、代表的な言葉、この作品と言ったらこのキャラクターのこのセリフというものがあります。「真実はいつも1つ」とか「月に代わっておしおきよ」など、記憶に残る言葉、印象的な言葉、強い言葉ですね。でも、だいたいアニメの影響で定着しているセリフが多いのです。中には原作漫画では一言も言っていないというキメ台詞もあるんです。今回はいくつか有名作品のセリフを検証してみようと思います。 1『ドラえもん』「ぼく、ドラえもんです」がキメ台詞というか、代表的な言葉だと思うけれど、アニメで声優の大山のぶ代がアドリブで言ったのが始まりです。それがアニメで定着しました。原作では言っていません。第1話でもちゃんと名乗りませんし、第0巻収録の別バージョン第1話では「ぼくドラえもん」とは言っていますが、「です」はないです。あの独特のイントネーションも相まって、アニメで定着した台詞のようです。2『ドラゴンボール』「オッス! オラ悟空」は原作では1度も使われていません。アニメの予告で言われて定着したようです。悟空の元気な田舎者という性質を表す非常に優秀なセリフと称されるこのセリフですが、漫画の方では言ってないんですね。第1巻第1話では「オラ? オラ悟空だ。孫悟空!」とブルマに向かって自己紹介しています。また実際に自分で確認したわけではないですが、アニメの方でも予告だけで、本編で使われたことはないそうです。今、物真似でもパロディでも悟空と言ったらこのセリフというのが定着しているように思えます。3『名探偵コナン』「真実はいつも1つ」が有名なキメ台詞ですね。原作で初めて服部平次と推理対決をする話で似たような台詞がありますが、言い回しが全然違います。アニメの最初に必ず言うので定着していますが、原作漫画では一度も言っていないのです。では原作コナンのキメ台詞は何なのか。それを論じた記事を読んだことがあります。「江戸川コナン、探偵だ!」が優秀なキメ台詞であるとその著者は言っていました。なるほど確かに『ドラえもん』や『ドラゴンボール』のように名乗る際の台詞であり、子どもなのに探偵だと言いきっている意外性とちぐはぐさが良い味出している優秀なキメ台詞だと思います。僕は個人的に「I'm a Holmes' apprentice!!」(僕はホームズの弟子だ)が一番良いキメ台詞だと思う。4『北斗の拳』「お前はもう死んでいる」があまりにも有名なキメ台詞ですね。もちろんアニメで多用されて有名になったセリフです。原作漫画では、全く同じ言い回しでは1回しか言っていません。言い方を少し変えたセリフはあります。発展させたり、意表をついたりと変形した形のセリフはありますが、「お前はもう死んでいる」は1回です。ちなみに有名な「ひでぶ」も1回しか出てきません。 代表的なものはこんなものでしょうか。他にも『幽☆遊☆白書』の「伊達にあの世は見てねぇぜ!」は本編中に一切出てきていない、予告のセリフですし、予告のセリフだと有名な『新世紀エヴァンゲリオン』の「この次も、サービスサービスぅ」も本編にはないセリフです。 ちょっと違いますが、『紅の豚』で有名な台詞「飛べない豚はただの豚だ」が広く知られていますが「飛べない」は誤りで、本編中のセリフとしては「飛ばない豚はただの豚だ」というのが正しいです。「自分の意志で飛ばない豚」についての言及なので「飛べない」ではなく「飛ばない」なのです。この台詞が出るシーンの直後に、主人公はライバルに「飛んだところで豚は豚だろ」と言われているんですが、僕はこっちの方が優秀なキメ台詞だと思っています。 こういう耳から入って、何度も人に真似されて定着するって、音声のある作品の強みの1つだと思います。物真似をしたりパロディをしたりするときに、こういうセリフをチョイスされます。それで更に有名なキメ台詞として定着していくのです。 そして確認していないので分かりませんが、多分サザエさんも原作では「サザエでごさいまーす」とは言っていないように思います。『ルパン3世』の五右衛門の「またつまらぬものを斬ってしまった」も恐らく原作では言っていない。ちゃんと確認していないけれど、そもそもあんの作品はアニメ版と漫画版が雰囲気から何から全然違いますから。 作品のイメージや方向性をアニメは決めてしまうのだと思います。漫画が売れてもアニメ人口には敵いません。アニメから入って漫画を買う人が多いように、原作の漫画があると知らない人も多いかもしれません。そこそこの漫画好きでも『ドラえもん』『クレヨンしんちゃん』『サザエさん』『ちびまるこちゃん』等有名作品の原作を全部読んだことのある人は稀です。アニメ化すると漫画の売り上げが上がるように、アニメには大きな力があるのですね。僕は正直、アニメを観ない漫画オタクで、原作至上主義者なので、アニメを観る機会はほとんど見ないのですが、大衆に向けて発信するという点でアニメの力はすごいなぁと思うのです。
2021.11.13
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今の自分の性格や価値観は高校生、下手したら中学生くらいから変わっていないように思える。老けて体は衰えたとしても、中身は高校生とまでは言わないけれど、大学生くらいと変わらないつもりでいる。身体が元気になれば大学生の時と同じノリで遊べる気がする。そのくらい、中高生からの自分は連続的であり、劇的に変化はしていない。時々ふと我に返って、こんなに周りが大人だらけで、僕はただの読書好きの高校生みたいな人間なのに、よく渡り合っているなと思うことがある。「周り皆大人だ。怖っ」と思う。気付かぬうちに気付かないところでレベルアップしているのかもしれない。一方、「30歳はオジサンオバサンだ」と思っていたのに、自分が30歳を越えると30歳は若者だと思えるようになる。皆、そうだと思う。20代なんて若いなぁと僕は今は思う。これは相対的な感覚だと思う。中学校に入学した時、算数の教科書を読んで「なんて難しい内容なんだ」と思ったけれど、卒業する頃たいていの人は「中学1年でやった数学はなんて簡単だったんだろう」と思うだろう。それと似たようなものである。これは本人が気づかぬうちに年をとったり進歩したりしているからだと思う。当たり前だけれど、考え方も感じ方も子どもの頃から劇的に変わっているわけではない。生まれ持った気質のようなものである。価値観もそんなに変わっていないような気がする。個々のトピックスに関する考えや評価は変わったものはあるけれど、全体としては変わらない。「三つ子の魂百まで」というものなのかなと思いますが。昔から付き合いのある人と話していると「昔と違うこと言っているじゃないか」と思うことがあります。人は成長するのは当たり前なのだが。***学生の時は「自分が進歩している」「能力が上がっていっている」と思ったものです。どんどんいろいろなことができるようになっていくのが、大学生から大学院生くらいまで楽しかった思い出があります。社会人になって数年して、自分は進歩しているのだろうかと不安に思った時期があります。その時期は意識的に資格を取るようにしました。今年は仕事の余裕がないですし、教員免許の更新があるので何もやっていませんが。自分に能力がないって時々不安にならないだろうか。後々困らないように、とにかく今できることをしようと、そう思って頑張っていた時期がありました。今もその思いはあるのですが、体力がついていかない部分があります。
2021.11.11
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少し前まで趣味でフリーゲームを作っていた。何作か発表していたことがあり、コンテストで小さな賞をもらったこともある。最近特に思うのは自分の中からオリジナルなものを作る力が失われたなぁと思う。オリジナリティは何かという話になるけれど。そもそもオリジナアリティ溢れる感じではなかった。そんな作風でもなかったと思うけれど、数年前と比べても明らかにその力は失われている気がする。『神林家殺人事件』と『神童ノ哥』を作った時点で、自分のやりたいことは達成できてしまったというのも大きい。それを超えるあるいはそれに迫る作品を作る労力を今の自分から捻出できるのかと思うと、疑問である。そもそも神林家はよくある推理小説のフォーマットだし、神童ノ哥はよくあるホラーゲームのフォーマットだし、既存のフリーゲームのオマージュだったので、あれが丸々オリジナリティのある作品かというとそうではないと思う。その点、『左眼ジャック事件』は自分の中でもよく作れたと思う。コンシューマゲーム『街~運命の交差点~』の要素はあるものの、概ねオリジナリティのある話だったと、振り返ると思える。もう既に今のようにアイデアの出ない時期に入っていたのに、あれが作れたのは今思うと驚きである。しかも、あの作品は本筋のストーリィ以外のストーリィも必要だったので、本当に短期間でよく作ったと思う。最後の方はアイデアが枯渇気味で残念だったけれども。 いつもそうだったけれど、やはり最新作を誉められるのが一番嬉しい。一番今の自分に近いから。古い作品を誉められても、既に他人の作品のように感じられてしまう。「もう、そういうものは作れない」と思ってしまう。誰でも自分を誉められるのは嬉しい。それならば今の自分に一番近い最新作を誉めてもらいたい。一応、鳥籠名義の最新作は『左眼ジャック事件』という作品である。別名義でいくつか発表したが、特に取るに足らない作品だったので、やっぱり『左眼ジャック事件』を楽しんでもらえるのが、今の僕は一番嬉しいと思う。 オリジナリティとは何だろう。そもそもそんなものあるのだろうか。創作は模倣だと言っていた人がいた。僕もそう思う。完全にオリジナルなものなど作れるはずがない。そう思うならそれは傲りだと。特にエンターテイメント性とオリジナリティを両立するなど不可能に近い。完全にオリジナルなものを目指すとそれはもう芸術の世界であり、面白いものではなくなるから。ベタで良い。過去に似たようなものがあって良い。ほんの少し新しい要素、ほんの少し自分の色を出せれば良いのではないか。そんなことを思う。どんなに面白い映画や漫画も、過去に似たような作品がないものを見つけるのは難しい。どこかに似た要素はある。 そこまで深く考える必要はないと思うが、何か新しいものを作りたいなぁと思う欲求は絶えずある。
2021.11.07
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「年を取ったなぁ」と思った話をしましょうか。いつまでも若いつもりでいたわけではありませんが、子どもと接すると、話題の合わなさに自分が年を取ったことを痛感しますね。僕には子どもがいません。親戚の子どもと会うことはありますが、そんなに頻繁ではないですし、仕事で子どもと会うことはあっても、長く話をするようなことはありませんでした。ところが、今年度から事情が変わって、小学生や中学生と話をする機会が結構あるのです。小学生は前にも少し話す機会はあったのでともかく、中学生と話すなんて教育実習以来です。そうなんです。僕は中高の教員免許を持っていて教育実習は母校の中学校に行ってきました。だから、それ以来の中学生と接する仕事なのです。心の揺れ動く、難しい時期の子どもたちです。 何があったのかと言うと、雑談をしていても、子どもたちが観ているものや好きなものが全く分からないということですね。今何が流行っているのか、世間一般の人が何に興味があるのか。そもそも流行に聡い方ではないのです。僕は小学生まではテレビっ子だったのですが、中学生になってから一切テレビは見なくなりました。テレビ以外のことでいくらでも話題はあったので、別に話題に困ることはなかったのですが、流行り物にはそこからついていけなくなりました。そもそも十数年くらい前からインターネットが子どもたちの間でも身近なものになり、そちらの方が情報収集の場になっていたような感じがあります。 インターネットを多くの人がするようになってきた辺りで僕は学生だったので、割と世間で流行っているものや時流については、知らないことも多かったですが「聴いたことくらいはあるよ」くらいの距離感を保てていました。本当に分からなくなってきたのは社会人になってからです。もちろん、ネットサーフィンをする時間に限界が出来たことと、この辺りから、流行の細分化が加速してきたことも大きいように思えます。昔の子どもはテレビを見て、翌日「昨日のあの番組観た?」という会話をしていたと思うのですが、今の子どもはそういうことはないように思えます。「あのYoutuberの新しい動画観た?」という会話は局所的にあるかもしれませんが、広範囲でほとんどの子どもが観て話題が合うようなコンテンツは無くなっているという印象です。趣味趣向が多様化し、メディアも多くの選択肢が増えています。子どもがどのようなコンテンツに興味を示し、何が流行っているのか、昔より大人が把握しづらい時代になっているのです。SNSがそうですね。mixiはもうやっていないですが、Twitter、Facebook、Instagramが有名です。大学の時にお世話になった情報基盤センターの先生に「SNSなど、何でも新しいものは尻込みせずにやらなければいけない」と言われたことが、僕の中で心に残っていて、結構いろいろなSNSに登録だけはしたのです。それが、本来、流行りものには手を出さない僕がSNSをしていた理由です。タングラムとかLang-8とか、今となっては誰も知らないようなSNSまで登録して使っていたことがあります。最近はもうダメです。Tiktokあたりから登録すらする気になれないです。それ以降、どういうSNSが流行っているのか、何があるのかすら分かりません。アンテナを高く保っていなければいけないとは思うのですが、なかなか難しいですね。 就職してからは同年代の友達とも遊びはしたんですけど、臨時で働いていた50代60代のオジサンお爺さんたちと仲良くしてもらって、よく飲みに行っていました。どちらかというと年上の人と遊ぶことの方が多かったように思います。趣味の面でも、僕は読むものや見るものも過去に遡っていくタイプの人間なので、そもそも若い人の感覚からどんどん遠ざかって行くのです。例えば今流行っている漫画を読んで好きになっても、その同じ作者の過去作、その作者が影響を受けた人の作品、更にその人の過去作と遡って読んでいくのです。小説や映画、音楽も同じです。どんどん古いコンテンツに遡っていく感じです。だから基本的に僕は日々の生活の中で新しいものに触れないのです。 子どもたちが何に興味があるのか。どんなものを見聞きしているのか。何をして遊ぶのか。どんなアプリを使っているのか。これからの人たちを理解できない。それを全く知らないということに少し危機感を感じました。今は良いんですが、時代が変わって僕が50代60代になった頃、年下の人たちと付き合うことの方が圧倒的に増えるはずなのです。もちろん、今の子どもたちも大人になりますから老人にも話を合わせてくれると思います。しかし、相手の背景となる生い立ちを知らないようなもので、深く理解できないのではないかと思います。年を取るとだんだん新しいものに接する気力がなくなってきますが、アンテナは高く保っていなければいけないなと理性では思います。
2021.11.07
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本日、人生4回目の献血を行ってきました。400ml抜いてきました。今回は献血について書きましょうか。何をきっかけに献血を始めたのか覚えていませんが、「400ml分痩せる上に、人の役に立つんじゃないか」という単純な発想だった気がします。少し前に亡くなった伯父が血液の病気で闘病していたのもこの頃で、それが理由なのかと周りの人に聞かれたのですが、そういう理由ではありません。ちょうど、趣味の創作で大スランプ期に入った頃で、いろいろ悩んでいた時期でもありました。献血の何が良いのかと言うと、「自分は何も生み出せない」「自分に何の価値もない」「自分は人の役に立っていない」と思うような時でも、何の努力も才能も要らず、難しい手続きは要らず、取り敢えず世の中の役に立てる、社会に貢献できる方法だからです。 日本赤十字社の献血には4種類あり、200ml、400ml、血漿、血小板です。僕の体格の問題か、毎回何も言わなくても400mlの献血になります。献血カードには献血の回数がカウントされ、回数に応じて記念品がもらえます。別に記念品が欲しくてやっているわけではないのですが、少し不満もあります。次の献血までの間隔がそれぞれのコースで違うのです。200mlであれば8週間、400mlであれば男性12週間・女性16週間の間隔をあけなければいけないのです。血漿と血小板(成分献血)は2週間間隔です。400mlだけ長い間隔を空けなければならず、回数のカウントが明らかに少なくなるのです。そして、採血量上限が設定されていて400mlの人は年に3回しか献血できないのです。僕は最初に400mlを選んでしまったので毎回400ml献血になります。別に言えば変えられるのでしょうけれど、野暮ですし、面倒なので言っていませんが。献血会場によっては200ml献血をやっていないところがある等、400mlの方が求められている様子もあります。まあ、出かけていく手間があるので、少ない量で何度も行くより、少ない回数で多く抜いてもらった方がこちらとしては嬉しいのですが。 400ml献血を推奨しているのなら、何故回数に応じて記念品が出ることになっているのでしょうか。調べてみると、献血回数70回で銀色有功賞が、献血回数100回で金色有功賞が日本赤十字社から授与されるらしいです。200mlで何度も献血した人でなければそんな回数は難しいだろうと思えます。400mlで献血し続けた人は99回献血するのに33年かかってしまいます。献血量に応じて記念品や賞を出せば良いのではと思わなくもないですが、それだと性別等で差がつくからダメなのでしょうか。いやいや、現行のルールでも年間可能回数は男女で違います。「献血をしよう」という高潔な思いというか志に対して賞を与えたり記念品を出したりしているはずです。200ml献血を2回するのと、400ml献血を1回するのでは同じなのではないでしょうか。会場に足を運ぶ手間は400mlの方が少ないけれど、体への負担は200mlの方が少ないように思えます。「回数で賞や記念品を出すのは何だかなあ」と思わずにはいられないですが、次に献血できるようになったらまた400mlで献血しようと思っています。 本日パンフレットを貰ったのを機に、複数回献血クラブ(ラブラッド)に登録しました。献血やその予約に応じてポイントがたまるシステムです。これによると、400ml献血は200ml献血2回より高いポイントが入るようになっています。ここで調整しているということなのでしょうか。不思議です。 何はともあれ、人身売買や売血を防ぐために献血は全て無償で行われています。賞や記念品等は本来不要な崇高な理念のもと行われる行為なのです。何も生み出さない日々に悶々としている人は献血をしてみてはどうでしょうか。少し心と体が軽くなると思います。
2021.11.03
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先日の職場の飲み会で、職場の人に結構レベルの高い落語好きの人がいたことが分かり、2人で2次会まで行き落語の話で盛り上がった。親子そろって寄席に通い、マイナーな落語家を追いかけ、ページがなかった噺家のWikipediaを作成するほどのレベルの人で、凝り性のスゴい人だった。「子どもの頃、桂枝雀を生で見たことがある」という話は驚いた。 先輩「寿限無は言える?」僕「それは酔ってなければ言えますよ」先輩「じゃあ、金明竹は?」僕「いや、それは言えません。カワズ飛び込む水の音ですよね?」という会話をした。 僕の人生の中で、落語の話をする人はそれなりに何人かはいたのだけれど、そこまでディープな話をリアルの、しかも職場の人とすることになろうとは思わなかった。 そもそも、落語は何故こんなにも人気がないのだろう。何度かブームが来たり、徐々にファンが増えてきたりはしているけれども、やはり「落語好き」は変わった趣味だと見られる風潮が根強いと思う。漫画や映画、ゲームなど、楽しい娯楽が増えたから。漫才が強すぎるから。いろいろな理由が考えられる。古典芸能だから、古臭いイメージがあるのだろうと推測できる。漫才はツービートや紳助・竜介、ダウンタウンのような、スクールカースト上位の人のイメージである。学校の明るくて面白く、楽しい、目立つ男の子たちはみんな漫才を真似する。対して落語を好きになるような人はスクールカースト下位「クラスの4軍」と言われているくらい、暗いイメージ。落語好きはオタクなイメージがある。 世の中のスピードに合っていないという意見もある。漫才が高速化していくように、お笑いのネタ番組の持ち時間がどんどん短くなっていくように、芸能だけではなく全てのものが短く、すぐに分かってすぐに楽しめるものを求めるようになっている。落語のネタを長尺で放送すると、飽きてチャンネルを変えられてしまう。テレビやラジオの黎明期は落語家が活躍していたのに、次第に落語家の仕事が漫才師等にとってか変わられて行ったのはそういう意味もあったのかもしれない。だけれど、いまだにテレビのスターに落語関係の人は多い。北野武は落語立川流Bコースに所属していたし、元落語家の明石家さんまは笑福亭松之助の弟子、元落語家の伊集院光は六代目三遊亭圓楽の弟子、笑福亭鶴瓶は松鶴の弟子で現在も現役の落語家、月亭(山崎)方正は年を取ってから月亭八方に入門している。明石家さんまや伊集院光のように落語家を廃業してタレントとして有名になるパターンと、北野武や月亭方正のように有名になってから落語に手を出すパターンがある様子である。 有名漫画家にも落語好きは多い。『ONE PIECE』の尾田栄一郎は落語好きを公言していて、作中落語ネタが多い。「ツルー!!」はSBSでも書かれていないし、地獄八景亡者戯をもじった技名が最近出てきて笑った。『こちら葛飾区亀有公園前派出所』にも落語の話題が散見されるし、恐らく短編であの量を描くには落語を深く理解していないとできない。『美味しんぼ』も同様、落語の話そのままみたいな話が時々あるし、落語家のキャラクターが何人か登場している。『ドラえもん』に代表される藤子作品も、落語の話題があり、作品からも落語の香りがする。やはり短編連作で量を書く場合、落語を意識しない方が難しいと思う。『ジョジョの奇妙な冒険』の第4部で、丸々1話使って古典落語『狸賽』をやっていた回があって驚いた。有名どころでは、あだち充が大の落語ファンで、「そんなの落語ファン以外誰が分かるんだ」という一見意味不明なセリフが作中に出てくることがある。何かと、アイテムに落語のCDやDVDが出てくる。『虹色とうがらし』には落語家のキャラクターが出ていた。落語を好きな漫画家は信用できるというか、「落語を聴いたことなんてない」というような創作者はあまり信用できないと僕は思っている。落語には物語のエッセンスが詰まっているからである。昔から人を楽しませる技術として語り継がれてきたもの、工夫され続けてきたものが落語であり、やはりそこから学び取れるものは大きいと思う。 落語は物語ももちろん魅力的なのだが、やはり口演することの力というものがある。僕は昔から本が好きで、多分中学生くらいの時は教師も含めて学校で一番読書をしていたと思う。今は全然読んでいないけど。その頃は物語の力だけを信じていた。例えば映画やアニメを観ていても、物語の筋だけを見ている感じだった。誰がどのような演技をしているのか、そんなことはあまり気にならず、「物語が面白ければ面白い」面白い話はあらすじだけでも面白いのだと漠然と思っていた節がある。この考え方は落語を聴いていくうちに薄まっていく。そもそも、落語や映画等の映像作品は視聴に時間がかかるのだから、小説や漫画等の媒体の方が同じ物語を摂取するならそちらの方が良いと思っていた。しかし違うのである。話芸には力がある。圧倒的な力がある。同じ物語を視聴するにしても、口演の仕方でニュアンスや解釈が変わる。そしてやはり、臨場感と迫力が違う。名演に出会うことで、話芸の力を信じられるようになった。そうなると、物語の筋以外の楽しさや魅力のようなものが見えてくるようになった。 あと、物語を重視するあまり、オチを最重要要素だと思っている人がいる。僕も昔そうだった。しかし、「違うんだ」と思えるようになった。「オチは一部の要素でしかないんだ」と。落語の下げは重要なものもあるけれど、下らない駄洒落、夢オチで終わるようなものも多く、そこに行きつくまでの過程や時間が大切なのだと思えるようになってきた。 ただ、ここまで書いてきたが、僕は落語にわかファンである。寄席に行ったことはない。映像媒体でしか見たことはない。演劇等もそうだけれど、落語は映像で観るより何倍も生で観る方が良いと言われている。格段に違うのだと。寄席に行きたい。東京なんかで暮らしたいとは思ったことはなかったけど、寄席に気軽に行けるなら東京で暮らしたいとは思う。というよりも他に都会で暮らすことのメリットが思い浮かばない。小説家や映画監督、俳優は死してなお、偉大な作品が後世に残り続ける。落語も映像は残るけれど、それは魅力が生で観ることの何分の1かになっているものでしかない。芸人の最高の作品はその人の死と共に永遠に失われるのである。そういう意味で、贔屓の芸人がいるというのは素晴らしいことなのだと思う。「名人と同じ時代を生きることができた喜び」が落語をはじめとした話芸にはある。これは演劇や歌舞伎、宝塚の世界も似ていると思う。あるいは歌手のコンサートなど。この人と同じ時代に生きることができて良かったと思えるくらいの贔屓(今時の言葉で言うところの「推し」)がいるということは、それだけで人生が豊かになると感じるのである。
2021.11.01
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