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January 22, 2018
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カテゴリ: 詩とやまと歌と



昨年末の朝日新聞に「漱石から子規への三通の手紙が発見された」という記事が
載りました。
 文面は「漱石全集」に載っていたものの、実物が確認されていなかった手紙を、
二松学舎大学が入手したということです。


 漱石と子規は、第一高等中学校(現・東大教養学部)の同級生。
明治22年に喀血し肺病と診断された子規を激励しようと送った手紙に

帰ろふと泣かずに笑へ時鳥(ほととぎす)
聞かふとて誰も待たぬに時鳥
​という句がみられます。今日まで残る漱石の俳句の中で最も古いものです。
子規・漱石とも22歳。「ほととぎす」は、血を吐くまで鳴く鳥と言われ、暗に肺病(患者)を指します。
「松山に帰ろうと悲嘆に暮れず、病を笑い飛ばしてくれよ」「誰も罹ろうとして
なったのではないのに、肺病に罹ってしまったことだ」

 子規という俳号も「ほととぎす」。血を吐くまで鳴く時鳥に、自らを重ねて使い
始めました。子規のそのときの句の一つ。

​卯の花をめがけてきたか時鳥​

 明治28年、本格的に俳句に興味をもった漱石は、子規に教えを請います。
 ​
​「小生近頃俳門に入らんと存候。御閑暇の節は御高示を仰ぎたく候」​
​​​​​ ​の手紙が、確認された中の一通です。

 その後、子規は松山で、漱石のもとに居候した時期もあります。
漱石に言わせると図図しい居候だったようですが。

星 蚊…か


​ 叩かれて昼の蚊を吐く木魚かな​
漱石の滑稽趣味の代表句といわれます。
​衣更えて京より嫁を貰ひけり​    漱石の結婚報告​
蓁蓁(しんしん)たる桃の青葉や君娶る     子規

明治33年、漱石はイギリス留学のため、国を離れました。子規は漱石の帰国を
待たず、亡くなりました。

​「小生出発の当時より生きて面会致す事は到底叶ひ申間敷と候」​
漱石は子規の死を覚悟していたようです。お互いの才能を認め合い、温かな
親交のあったふたりでした。​「漱石」という名も、子規がたくさん持っていた
ペンネームの中から譲り受けたものです。


​​参照元:復本一郎『俳句の発見ー正岡子規とその時代』日本放送出版協会





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Last updated  January 22, 2018 12:00:30 AM
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