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四方を海に囲まれ島国環境で育ってきた我々日本人は、漁業資源にも恵まれ海の幸を豊かに享受してきた国民であるのだが、今日は多くの日本人にとって食卓を飾るうえで欠かせない食材の一つとなっているイカについて考察してみようと思う。 「煮て良し、焼いて良し、生で良し、味も良し」と四拍子揃っている軟体動物のイカは栄養バランスが大変良く、調理や加工もしやすいうえ消化もよいので、少し臭うが弁当のおかずとしても長方されているのである。 少々レクチャー気味になり恐縮ではあるが、「イカ、タコなどの軟体動物には良質で高蛋白なアミノ酸と、肝臓の機能を高め血圧を降下させるタウリン(アミノエチルスルホン酸)という物質も豊富に含まれている。」と学術書には書いてあり、もう少し補足説明しておくと、[人の体内で胆汁酸と結合し、タウロコール酸となって食物の消化作用を助け、神経伝達物質としても大活躍する一方、血液に含まれている白血球の一種である好中球が殺菌の際に放出する活性酸素や過酸化水素放出を抑えるといった作用もある。」ということも記してあった。ついでに、「するめの表面に出る白い粉はタウリンが凝縮」しているのだそうだ。(赤字箇所一部wikipediaより引用)] という訳でタウリンには肝機能を整える作用があることから、酒好きの人間にとってはうってつけのパートナー食材であり、利用しない手はないのである。 よくテレビCMなどでタウリン1000ミリグラム配合の…とやっているのが今説明したコレなのである。 小生も週に一度は近くのスーパーに出向き、生鮮食品売場を物色し、なるべく色の黒っぽいイカ(鮮度が良い)を探して二三杯買ってくる。 本体の皮を剥ぎ細切りにして刺身にし、耳・ゲソは醤油・胡椒で味付けして炒め、酒の肴として賞味するのだが、これが何とも言えず(手前味噌になるが)マイウなのである。 処で、納豆と並び嫌いな人には大嫌いな「塩辛」なのだが、イカのはらわたを加えた塩辛は何とも言えない風味があり、美味であると聞いているので、小生、自前でイカの塩辛作りにチャレンジしてみようと最近つくづく思っている。 先に作った本人の弁によれば、「酒肴に良し、ご飯に良し、お茶に良し」で兎に角、えも言われぬ最高の味なのだそうである。 「紀文」や「桃屋」のブランド品もいいが、時には自分で小細工した「自家製塩辛」を試してみるのも良いものである。 一年の計は元旦にあり!ではないが、何かを始める良い機会が正月休みである。 イカに取りつかれ、恋してしまった読者諸氏は是非一度、隠し味付の「自家製塩辛」をお試しアレー!!
2006年12月30日
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諺に「弘法も筆の誤り」や「猿も木から落ちる」というのがある。ご存知のように弘法大師は平安初期の名筆家として、嵯峨天皇、橘逸勢(たちばなのはやなり)とともに三筆に譬えられているほどの達筆家であったと言われている。どのような意味かというと、それほどの名人でさえも、時には書き損なうことがあるとう例である。一方、猿の方も、その道の名人・達人でも失敗することがあるとういう例で、どちらも同じ意味合いで使われることが多いようである。少しマイナーになるが、同工異曲としては、人を例に挙げたものだと、「釈迦にも経の読み違い」というのがあり、動物だと「河童の川流れ」というのもある。何が言いたいのかというと、このように日本の諺には、古くからの人生の知恵を表現した言葉の技や、処世のための短い有効な教訓などを含んでいる様々な言葉が残されており、相手に話題を提供するうえで、会話を面白くしたり、場を和ませたり、苦境の相手に心の癒しや励ましを与えることができるということを言いたいのである。反面、使い方によっては「場を白けさせて」しまったり、相手に「ダメージを与えて」しまったりするほどの強力な武器ともなってしまうので、言葉を口に出すときは慎重に要注意で望みたいものである。という訳で、タイトルにもあるように諺を故事付けの屁理屈でアレンジしてみると、意外とピッタリくる感じのものがあり、理にかなっているような錯覚に陥ってしまうことがある。然るに「弘法が木から落ち」ても、「猿が筆を誤って」もチットモ可笑しくはないと小生は思っている。なぜならば、人間はもともと類人猿の時代から木登りが得意な動物でもあるし、猿の方はというと、「日光猿軍団」ではないが、調教次第では筆使いが上達することだって可能なのである。下手をすると、その辺の連中よりは数倍も達筆になれるかもしれないではないか。まっ! ウィットの一つや二つあってもいいものである。コミュニケーションの最中、話題の提供に事欠いたり、言葉に詰まったりというときには、諺のアレンジメントに挑戦してみるのも面白いかも知れないと思っているこの頃である。
2006年12月17日
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「継続は力なり」という言葉をよく耳にするが、小生はこの言葉こそ物事の本質をよく見据えた言葉であると思っている。普段から地道にコツコツと努力していくこと、そしてそれを積み重ねてくことが物事を習得する早道であり大切なことなのであるが、人間という動物はどうも時が経つうちに「手を抜く、楽をする」に流されてしまい、結果的に物事の習得を遅れさせてしまっていることが多いものである。「努力は天才に勝る」という言葉にもあるとおり、継続する努力こそが賜物を光り輝かせていくことになるのである。ご褒美である天からの回答が何時、どのような形でやってくるのかはわからないが、人夫々にその時そのときで違った形でやってくるであろうことは推測がつく。おそらくそれは第六感といわれる「一瞬の閃き」とか「インスピレーション」とか、はたまた「夢による啓示」などの類であろうと思われるのである。ここからは少し余談になるが、今年も巷間では忘年会シーズンに突入し宴竹縄であるが、サラリーマン社会で、もし宴会の幹事にでもなったら大変である。今は昔ほどではないにしても、幹事に指名されたその日から仕事どころではなくなるのである。日時・会場の設定から予算から司会から座る席順から、はたまたムードメーカーとして会場の雰囲気作りにまで神経を費やし、それでうまくいって当たり前、褒められることなど決してないのである。おまけに当日は盛会にしなくてはならないので、本人は酔ってなどいられないのである。うるさい上司が出席しているのであればなおさらである。今後の出世に影響するやも知れず、粗相がないように気配りし、そのうえ幹事の責務として芸の一つや二つは皆の前で披露しなければならない羽目になるのである。そこで生きてくるのが賜物である。人間生まれてきたからには、賜物の一つや二つは持ち合わせているものであるが、なかなかそれに気づかないのである。昔から寄席などで「早寝、早起き、早飯、早糞、芸のうち」などと言われて使われているが、寸劇が身を助けるということもよくあるものである。ともあれ、若い諸君に限らず皆が夫々、埋もれた才能をいち早く発見し、それに磨きをかけて世のため、人のために貢献してもらいたいものである。
2006年12月10日
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小生の幼き頃、と言っても今から数十年も前になるが、確か小学校高学年の頃のことであったと思うが、友達の家に遊びに行った際、ついでにテレビを見させてもらったときのことである。当時、テレビは未だほとんどの家庭には普及しておらず、画面も白黒で相当高価な代物であったのであるが、その白黒テレビに関西の喜劇役者でもあった浪速千栄子が出演していた。「花菱あちゃこ」とコンビを組んでの上方漫才では当時大変な人気を博していた彼女であったが、何かの番組にゲスト出演していた時のことであったと記憶している。幼い頃、奉公に出された苦労話から栄光を浴びるようになった今日に至るまでの生い立ちを披露していたのだと思うのだが、途中でインタビュアーの質問に対し「人生は筋書きのないドラマである」と言う類のことを言っていたのを、何故か最近になって急に、しかも強烈に思い出したのである。この世に生を受け、自分という存在に気づいた瞬間から人間の歴史が始まり、長いながいドラマが展開していくのであるが、一度ステージに上がったら最後、終焉まで脚本・演出・監督・配役まで全て自分で賄いながら、ストーリーを展開していかなければならないのである。よくよく考えてみると、確かにそのとおりではあるのだが…。「生まれてきたからには、何かひとつでっかくやってやろうぜ。とか、自分の存在価値を世間に誇示してやろうぜ。」とか思うのは人情というものである。昔から良く言われている「一旗揚げる・故郷に錦を飾る」などの文句はその典型であろうと思う。己をどのように表現するか、演出するかは、その人自身で決めなければならないのである。即ち、舞台での主役を生かすも殺すも自分次第ということになる。… … などと思い巡らしていると、堅苦しくなるばかりで、やり切れないこと一塩である。いやはや人生とは何とも不可思議なものである。因みに小生もドラマの一部分を下記リンクにて展開している最中である。お暇な御方は一度ご覧あれ~!!ドラマの一部分にジャンプ!
2006年12月02日
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